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BibleMsg > マルコの福音書 > 09Mark05新しいぶどう酒は新しい皮袋に

09Mark05新しいぶどう酒は新しい皮袋に

投稿者: Calebkim 掲載日: 2009/10/13 (2674 回閲覧)
2009年マルコの福音書第5講

新しいぶどう酒は新しい皮袋に

御言葉:マルコ2:18?3:6
要 節:マルコ2:22「また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」

先週の御言葉でイエス様はこう言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」なんとあわれみ深い愛の言葉でしょうか。最近、私は自分が丈夫な者ではなく、病人であることを実感していますが、昨日は腰痛のために大変苦労しました。ところが、イエス様は私のような病人、罪深い者を招くために来てくださいました。そして病人を癒し、罪人を赦して救ってくださいます。イエス様の愛とあわれみを心から感謝します。
罪人を招くために来られたイエス・キリストによって新しい時代が開かれました。弱い者、罪人を律法と儀式によってさばく時代ではなく、愛と恵みの新しい時代が開かれたのです。この新しい時代には新しい受け皿が必要です。新しい皮袋になる人が新しいぶどう酒のイエス様の愛と恵みを受けることができるからです。この時間、聖霊によって私たちの心が、新しい皮袋に変えられて行きますように祈ります。

18節をご覧ください。「ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」」とあります。この御言葉は、先週学んだ出来事に関連しています。その出来事とは、イエス様が収税所に座っているレビに「わたしについて来なさい。」と言われると、彼が立ち上がって従ったことです。そのことは、レビにとって新しい人生が開かれる転機となりました。ですから、レビは喜びのあまり、イエス様の一行を自分の家に招いて結婚式の披露宴のような宴会を設けました。イエス様の弟子たちは、久しぶりにおいしいものを食べながらEating Fellowshipを楽しんでいました。パリサイ派の律法学者たちは、イエス様に罪人や収税人たちと一緒に食事をすると非難しましたが、それでも、食べ続けました。ところが、ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていました。当時、パリサイ人たちは火曜日と金曜日に断食をしていましたが、その日に宴会があったようです。
そこである人たちがイエス様に来て(Some people came)「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」と尋ねました。彼らは断食の日に喜んで食べているレビたちが気になっているようです。今までに形成された自分たちの考え、パラダイムでは理解できないことだったでしょう。しかし、イエス様はそんな彼らに何と言われましたか。
19節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは彼らに言われた。「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。」そうでしょう。去年、大阪UBFの西山絵里牧者の結婚式がありました。多く友だちが参加していました。その友だちの喜びがどんなに大きかったでしょうか。喜びのあまり泣いている方も見えました。そして、披露宴がありましたが、「今日は断食です。何も食べません。」と言う方はひとりもいませんでした。最後まで食べながら花婿と一緒にいる時間を喜び、楽しみました。
このように、イエス様と一緒にいる時には自然に喜びが伴います。なぜなら、ここで例えられているようにイエス様は花婿、イエス様に従う者はイエス様の花嫁、花婿につき添う友だちになるからです。収税人レビはイエス様の花嫁になっていました。イザヤ62:5を見ると「若い男が若い女をめとるように、あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ」とあります。そのように、イエス様にご自分の弟子たちを喜び、彼らもイエス様と一緒にいることを喜んでいました。私たちもイエス様とともにいる時、喜びがあります。私は時々、自分の妻に「あなたと一緒にいると、心が楽になりますね。幸せだよ。」と言います。すると、娘から「また自慢話だ。」と言われる時もありますが、愛し合う人と一緒にいる時には自然に喜びが伴われるものです。ですから、私たちが花婿であられるイエス様とともにいる間は断食することが出来ません。イエス様とともにいるところは天国になるからです。では、断食する時はいつでしょうか。
20節をご覧ください。「しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。」とあります。やがて花婿が取り去れるときが来たら、弟子たちはパリサイ人たちのように規則や強制によるのではありませんが、自発的に断食するでしょう。しかし、取り去れたのは、わずか三日間でした。イエス様は私たちの罪を贖うために十字架にかかって死なれましたが、ただ三日間葬られておられたのです。イエス様は死後三日目に、よみがえられました。そして、イエス様は「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と約束してくださいました。イエス様は「世の終わりまで、いつも」私たちとともにいてくださるのです。ですから、私たちクリスチャンの生活の基本は、喜びの生活なのです。イエス様とともにいるなら、教会にいても、家にいても、職場にいても、どこにいても天国の喜びを体験することが出来ます。いつも喜んでいることが出来るのです。
にもかかわらず、喜びのない信仰生活をする理由は何でしょうか。それは心の中心にイエス様を迎え入れいないからでしょう。弟子たちも、パリサイ派の律法学者たちもイエス様のそばにいましたが、パリサイ人たちには喜びがありませんでした。彼らは心からイエス様を迎え入れなかったからです。高慢になって弟子たちを非難し、人のことばかりを言っている人たちの心に喜びはありませんでした。彼らは聖書や伝統に関して、昔からの風習に関してよく知っていましたが、そういう知識によって喜びを得ることが出来なかったのです。
今の時代でも、謙遜にイエス様を受け入れようとせずに、わずかな自分の知識を誇る人、自分の知識で人を見下している人には喜びがありません。ヨハネの弟子たちとイエス様の弟子たちを比較して話した人々のように、周りの人々と比較しながら生きている人には喜びがないのです。「あのだんなさんはねえ。」とか、「あの奥さんはねえ・・」というふうに人のことばかり言っていては喜びがないのです。本当に、喜びの中で生きるためにはいつもイエス様を花婿として迎え入れることです。イエス様の花嫁になってイエス様を愛し、その愛で隣人を愛する時、その人は喜びあふれるようになります。クリスチャンの生活は結婚式の披露宴に参加している人のように生きることです。  そこで、イエス様は言われました。21節をご一緒に読んでみましょう。「だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。」 ここで、イエス様は私たちが部分的ではなく全面的に変わることを勧めておられると思います。だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。先週、私は、次男がズボンの破れたところを縫いでほしいと言ったのでこの御言葉を思い出しながら、手縫いをしてあげました。新しい布切れで古いズボンの継ぎをしたのですが、やはり伸び縮みの具合が違いますので、互いに引っ張り合うようになりました。新しい布切れが古いズボンを引き裂いたので、破れはもっとひどくなりました。それで、2枚重ねてもっと広く手縫いをしましたが、「新しいズボンを買ってあげればならないなあ」と思いました。
 信仰生活もそうでしょう。部分的に接いだり貼り付けたりして保つべきものではありません。自分が住んでいる国の宗教的な習慣を守りながら部分的にキリスト教の信仰を取り入れるようなことはできないのです。日本で人々の話を聞いて見ると、何らかの形で神社仏閣と常にかかわりを持っています。子どもが生まれれば、健やかな成長を願って、氏神に宮参りをします。春秋の彼岸には先祖の墓参りをし、家族が無くなれば僧侶を招いて葬儀を行います。新しい年を迎える時は日本中で8千万以上の人たちが初詣をしているそうです。それで、そういうこともしながら、部分的に結婚式だけは教会で行う人がいますが、それだけでクリスチャンになることはできないのです。キリスト教の信仰生活とは全体ですっかり改めなければならないことです。クリスチャンの信仰生活は、いろいろな宗教を寄せ集めたような、つぎはぎ細工でありません。イエス・キリストを信じるということは部分的に直して行くことではなく、人生の全体が生き生きとしたいのちに満ちた真新しいもの変わることです。パウロは言いました。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(?コリント5:17)。」
  22節をご一緒に読んでみましょう。「また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」先ほどの真新しい着物と新しい生活様式のことでしたが、今度の場合は、中味と入れ物との関係を教えています。昔、ユダヤでは、動物の内臓を取り出して作った皮袋にぶどう酒を入れていました。それで、動物の内臓を取り出して作ったばかりの新しい皮袋は、弾力性があって丈夫ですが、古いものは、発酵力の強い新しいぶどう酒を入れると、膨張して張り裂けてしまいました。ですから、新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れる必要があるのです。
 ここで、新しいぶどう酒とはユダヤ人にとって新しい中味であるイエス・キリストを指しています。そして、弾力のある新しい皮袋とはキリストの弟子の心です。イエス・キリストは新しいぶどう酒としてこの世に来られました。だから、古い皮袋になっていた当時のパリサイ人たちの心に入れることはできませんでした。彼らは、当時の社会的通念や風習などに縛られ、かたくなになっていたからです。結局、彼らは新しいぶどう酒を味会うことが出来ませんでした。 しかし、イエス様の弟子たちは社会的な通念や風習に縛られていませんでした。ペテロとヨハネの兄弟たちが住んでいたガリラヤにも昔からの伝統と風習があったはずです。収税人レビにも自分の世界、自分の立場があったことでしょう。でもこの人たちの心は開かれていました。弾力のある新しい皮袋になっていました。自分なりの考え方を持っていましたが、それに縛られていませんでした。イエス様の御言葉を素直に受け入れ、イエス様に従いました。すると、彼らはこの世では味わうことが出来なかった新しいぶどう酒を味わうことが出来ました。ぶどう酒が発酵するように、自分たちの心の中で温かめられ、その恵みがもっともっと大きく膨らんで行くことを経験するようになりました。そして、その恵みのエキスが、濃縮ジュースのように、日ごとに濃くなって行くことも経験するようになりました。その中で彼らは日々新しくされ栄光から栄光へ変えられて行きました。やがて彼らは今日世界人口の三分の一を占めるようになったキリスト教の土台になる初代教会の主役として、人類の師として偉大な人生を生きるようになりました。
 ですから、私たちも弟子たちのように新しい皮袋になる必要があります。新しいぶどう酒、イエス・キリストを素直に受け入れる謙遜、イエス様のことなら何でも学ぶ心が必要なのです。また、自分の固定観念、パラダイムを捨てることが出来る勇気と悔い改めの心が必要です。そうすると、私たちはますます救いの恵みとその喜びを深く味わう生活が出来ます。日ごとに、古い皮袋にならないように、聖霊によって生まれ変わりの経験を更新し続けることも大切なことでしょう。そのために、大切なのは聖書を読み続けることでしょう。イエス様のようにお祈りの習慣を身につけて行くことも大切なことです。毎週、礼拝に参加することは言うまでもありません。そうすることによってぶどう酒を飲んで気持ちがよくなること以上に新しいぶどう酒イエス・キリストによる喜びが満ちあふれるようになります。どうか、日々、新しい皮袋に入れられる新しいぶどう酒をますます深く味わう恵みと喜びの信仰生活が出来るように祈ります。イエス様は私たち人間が何かに拘束され、縛られて生きるのではなく、喜びと自由の中で生きることを願っておられます。そして、イエス様の関心は常に人間にあります。
23?26節を読んでみると、ユダヤ人が最も重要な日にしていた安息日も人間のために設けられたと言われました。ある安息日のことですが、イエス様の一行が麦畑の中を通った時、弟子たちが穂を摘んで食べ始めました。別にこれは盗みではありませんでした。私も小学校一年生の時は学校が家から5キロほどにあったので帰りに友だちと一緒に大麦の穂を摘んで食べり、それを焼いて食べたりしていました。それは問題になりませんでした。むしろ、お腹がすいていたら大麦の穂でも摘んで食べなさいと言われたほどです。ユダヤでもそれは許されていました。ところが、パリサイ人たちは、それを「安息日にしてはならないこと」であると非難しました。彼らは安息日にしてはならない労働に当たるから、いけないと言っているのです。彼らの非難に対してイエス様は何と言われましたか。
25-28節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは彼らに言われた。「ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。アビヤタルが大祭司のころ、ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを、自分も食べ、またともにいた者たちにも与えたではありませんか。」また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」イエス様はユダヤ人が最も偉大な王として尊敬しているダビデのことを通して弟子たちを弁護してくださいました。ダビデとその従者たちは「食物がなくてひもじかったとき」、すなわち生命が危険にさらされたとき、祭司以外は食べることを許されていない供えのパンを食べたのでした。
このように弟子達を弁護してくださったイエス様はそれに加えて、安息日は人間のために設けられたことを明言されました。パリサイ人たちは安息日理解は、あたかも「人間が安息日のために造られた」かのような、考えを持っていました。しかし、安息日は人間のために設けられました。そして安息日の主は安息日を造られた神様ですが、人の子として来られたイエス様は神様です。ですから、イエス様は「人の子は安息日にも主です。」と宣言されました。イエス様は安息日にも主なのです。ですから、私たちキリスト教では私たちの主イエス・キリストが復活された週の始めの日(日曜日)を主の日、主日として守って来ました。2千年に渡って、日曜日を礼拝の日として守ってきたのです。主イエス様の復活を祝い、神様の創造のみわざとイエス・キリストの十字架の贖い、救いのみわざを感謝して主を賛美し、礼拝しています。その中で主から真の安息が与えられ、聖霊に満たされて新しい一週間を始めるのです。
ですから、安息日に穂を摘んで食べたことが安息日に正しいかどうかと言うようなことで議論することが重要なことではありません。安息日を通して私たち人間が神様に礼拝をささげる中で恵みを受け、聖霊に満たされて新しい一週間を始めることが大切なのです。
 3章1-6節にも、イエス様がひとりの人間をどんなに大切にしておられるかを学ぶことが出来ます。イエス様は会堂にはいられました。そこに片手のなえた人がいました。彼は片手のなえたことでどんなに不便な生活を続けていたでしょうか。私は昨日から腰の痛みがひどくなって片手で体を支え、片手で顔洗いをしましたがとても不便でした。ところが、そのような人をかわいそうに思うどころか、その人を利用しようとする人々がいました。彼らはイエス様が安息日に片手のなえた人を直すかどうか、じっと見ていました。イエス様を訴えるためです。彼らには片手のなえた人を直せる力もなく、かわいそうに思う心もありませんでした。ただ、自分たちの規定どおりに安息日を守らないことを目撃してイエス様を訴えようとしました。しかし、イエス様には片手のなえた人に関心がありました。体の不自由な人、腰痛などで苦しんでいる人に関心があります。善を行なうことに関心があるのです。ご自分が訴えられること、逮捕されても、それらは大きな問題ではありませんでした。ただ、片手のなえたひとりの人間が癒されること、彼が元気に生きることに関心がありました。そこで、イエス様は手のなえたその人に、「立って、真中に出なさい。」と言われました。そしてその人に「手を伸ばしなさい。」と言われました。そこで、彼はイエス様の御言葉に従って手を伸ばしました。すると、その手が元どおりになりました。イエス様は安息日に善を行ない、人を癒してくださったのです。 今日も、イエス様は片手のなえた人のような人々に深い関心を持っておられます。病気の人をかわいそうに思い、癒してくださいます。
多くの人々は断食の問題、安息の問題、片手のなえた人の問題、新型インフルエンザ問題と言うような論争が好きです。最近、新型インフルエンザ対策に関しては耳が痛いほど論争されています。実際に患者を助け、癒すことにはどれだけの人が本気で取り組んでいるでしょうか。先週、毎日新聞(5月5日)によると、「新型インフルエンザへの警戒が強まる中、東京都内の病院で発熱などの症状がある患者が診察を拒否される例が相次いでいることが分かった。都によると、2日朝?4日朝だけで63件に上る」と報道されました。このような世の中です。論争し、人のことはよく言いますが、実際に人間に関心を持って自分のいのちの危険にもかかわらず人を治療する医者は少ないのです。しかし、イエス様は弱い人、麦の穂を摘んで食べなければならないほどに貧しい人、片手のなえた人などに深い関心を持って彼らを助けてくださいます。しかも、ご自分が訴えられ、処刑されることが分かっても人を助けてくださいます。

ですから、新しい皮袋にイエス・キリストを受け入れる人は祝福された人です。ぶどう酒を飲むと、気持ちよくなり、喜びますね。そのように、イエス様を受け入れると喜びあふれるようになります。弱くなった時、イエス様に助けられます。どうか、このイエス・キリストを受け入れてイエス様の救いと癒しをますます体験して行くことができるように祈ります。さらに、私たちも論争したり、人のことを言ったりすることなく、イエス様のように弱い人を弁護し、彼らを助けるクリスチャンとして生きることができるように祈ります。

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