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BibleMsg > マルコの福音書 > 05-17 どんなことでも、神にはできる

05-17 どんなことでも、神にはできる

投稿者: Calebkim 掲載日: 2005/7/30 (3226 回閲覧)
2005年マルコの福音書17講

どんなことでも、神にはできる

御言葉:マルコ10:1-31
要 節:マルコ10:27「イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」 」

先週、私たちは「だれが一番偉いのか」について学びました。今日の御言葉は偉い人の生き方、神の国にはいる人の生き方について教えられています。ところが、イエス様は「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」と言われました。本当にそうです。私は金持ちの国、日本の宣教師として来て金持ちが神の国に入ることの難しさをしみじみに感じています。裕福な日本の青年たちに福音を伝えて神の国に導き入れることは至難のわざです。しかし、イエス様は言われます。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」人間は弱くても、神様は全能であられる方です。神様は、人間を金銭という偶像から解放してくださいます。
 離婚問題や間違った金銭感覚は人を不幸にする大きな原因であると言えるでしょう。離婚や金銭の問題のために惨めになっている人も多くいることでしょう。どころが、人間の力ではそこから救われる道がなかなか見えません。しかし、神様にはできます。神様は私たちが聖書的な価値観を持って天に宝を積み、神の国にはいることができるようにしてくださるのです。この時間、御言葉を通して「どんなことでも、神にはできる」ということを深く学ぶことができるように祈ります。
 
?。結婚の真理を教えられたイエス様(1?12)
 1節をご覧ください。「イエスは、そこを立って、ユダヤ地方とヨルダンの向こうに行かれた。すると、群衆がまたみもとに集まって来たので、またいつものように彼らを教えられた。」 イエス様の一行は、ガリラヤ地方を通りすぎられて、その南方にあるユダヤ地方と、ヨルダン川の東側に行きました。すると、パリサイ人たちがみもとにやって来ました。彼らは「夫が妻を離別することは許されているかどうか」と質問しました。それは「イエスをためそうとしたのである。」とあります。自分たちで解決できない問題の答えを得るために質問したのではなく、イエス様をためすために誘導質問をしたのです。彼らの質問は巧妙で鋭く、ここにもやはりイエス様を罠に落としいれようとする狙いが現われています。
3,4節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは答えて言われた。「モーセはあなたがたに、何と命じていますか。」彼らは言った。「モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました。」
イエス様も、パリサイ人も、モーセの言っていることについて話しています。ユダヤ人のあいだでは、モーセに与えられていた神様の権威が認められていました。モーセは神様の預言者であり、彼の語ったことは、神様の語ったことだったのです。したがって、モーセの言っていることに反していることを言えば、それは、神様のみことばに反していていることを意味します。パリサイ人たちは、イエス様がモーセの言ったことと矛盾したことを言わせて、群衆の間にあるイエス様の信頼を崩そうとしていたのです。そして、モーセの言ったことは、離婚状を書いて離別することでした。それは申命記24:1節に根拠があります。そこに、「人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。」とあります。「妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合」とは、当時離婚の条件を提示していたかのように聞こえます。日本の民法が、離婚原因として認めるのは以下の5つです(民法第770条1項)。{1.相手に不貞行為があった場合 2.相手から悪意で遺棄された場合 3.相手の生死が3年以上不明である場合 4.相手が強度の精神病にかかり、回復の見込みがない場合 5.婚姻の継続が困難な重大な事由がある場合}モーセ時代には「妻に何か恥ずべき事を発見した場合」は離婚の条件になりました。それで、当時、離婚の願う自由主義者たちは妻の些細な過ちでも「恥ずべき事」とみなして離婚の条件にしました。たとえば、妻の料理がうまくなかったこととか、会堂の礼拝で居眠りしていたこととかも「恥ずべき事」だということで離婚の条件にしようとしたのです。しかし、イエス様はモーセが離婚を許した本当の意味は何であると言われましたか。
5節をご覧ください。「イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。」」とあります。イエス様は、モーセの言ったことを否定することはしませんでした。むしろ、モーセがそんなことを言った理由を述べられています。「あなたがたの心がかたくなだから」というものです。「かたくな」というのは、堅くなった、乾き切ったという意味です。土に水を注がなくなったら、土はしだいに堅くなり、そのまま注がないでいるとついには栽培できない状態になります。同じように、神様の言われることを聞かないでいると、少しずつ私たちの心はかたくなり、いつのまにか、神様の御声を聞くことができなくなります。もし、イスラエルの民の心がそんな状態でなかったら、モーセは離婚を許さなかったはずです。しかし、彼らの心はあまりにもかたくなになっていて全く神様の御言葉がはいりませんでした。もし、法律で離婚を許さなければ、弱い妻は合意離婚もできないまま、かたくなな夫に縛られて離婚以上に苦しめられるはずです。ですから、モーセは離婚するなと命じることより離婚証書を書いてあげるように命じたのです。それによって弱い女性の人権が保護されるためです。
 しかし、離婚の問題に対する聖書的な意味、つまり神様が望んでおられる本当の意味は何ですか。6?9節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。それゆえ、人はその父と母を離れて、ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」
イエス様は、モーセに神様の律法が与えられる前にさかのぼり、創造の初めの姿を話されています。一心同体とありますが、英語ですとone fleshつまり、一つの体となります。結婚は、男と女が心も体も深く結びついた状態であると同時に、子どもを宿すことによって実際にひとりになります。したがって、子どもが与えられる見地から、結婚はふたりが一体となっているのです。ですから、結婚したふたりは一心同体になり、同じ人生の方向、同じ人生の目的を持って互いに愛し合い、協力しながら生きるべきです。
結局、離婚に関してイエス様が教えてくださる結論は何ですか。もう一度9節をご一緒に読んでみましょう。「こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」イエス様の答えは、離婚をしてはいけないというものです。イエス様は「神が結び合わせたもの」と言われて、神様の権威を強調しておられます。人々はさまざまな動機で離婚しようとします。離婚の申立てに関する動機のランキングを調べたら以下の通りでした。夫の申立ても妻の申立ても一番は「性格があわない」ことです。そして夫の申立ての2番は不倫・不貞(異性関係)、3番は浪費する、四番は異常性格、五番は性的不満、六番は酒癖が悪い、七番は暴力をふるうということです。妻の申立ての2番は暴力をふるう、三番は不倫・不貞、四番は浪費する、五番は性的不満、6番は酒癖が悪い、7番は異常性格ということです。人々はこういう理由を持って離婚するのです。
しかし、聖書的にみると、どんな理由があっても人は、神様が結び合わせたものを引き離してはなりません。私たちが神様が結婚を通して結び合わせてくださった妻、あるいは夫を人である私が引き離すことはできないという真理を深く受け入れるなら、離婚は考えないはずです。配偶者との性格がちょっと合わなくても離婚を考える代わりにどうすればそれを克服して一つの体となるかを考えるようになるでしょう。配偶者の咎と弱点を発見した時、それによって失望し、軽蔑の感情を持つことと、どうしてもそれを克服してもっと健康な家庭、幸せな家庭を築き上げようと祈る時の結果が地獄と天国の違いをもたらすはずです。恋愛する時と結婚生活の時は違います。いざと同じ家、同じ部屋で生活してみるとさまざまな弱点も見えてくるはずです。その時、神経質的になったり、腹を立てたりするなら、言い争いが夫婦けんかになり、離婚の危機に処せられるようになるでしょう。しかし、相手の弱点と過ちにもかかわらず、愛し続け、祈りながら励まし、仕え続けるなら、どうなるでしょうか。結局、その人は感動し、変えられ始めるはずです。愛する人自身のうちにもキリストの御姿が少しずつ刻まれて成熟した人に成長するようになります。それによって二人は成熟し、完成した一つの体となり始めてその家庭には幸せの花が咲き始めるはずです。
10、11節をご覧ください。「家に戻った弟子たちが、この問題についてイエスに尋ねた。そこで、イエスは、彼らに言われた。 「だれでも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯すのです。妻も、夫と離別して別の男にとつぐなら、姦淫を犯しているのです。」 弟子たちにとっては、イエス様の発言は驚くべきものでした。当時は、今と同じように、離婚は当然のものという考えが定着していたからです。しかし、今の妻はあきて、他の女に乗り移りたいという動機、つまり姦淫から離婚をするのです。そして、イエス様が指摘された姦淫の罪は、モーセの律法によれば、死刑に値することでした。したがって、彼らは、表向きは神のおきてに従っているのですが、本質は神のおきてを故意に破って、自分に死罪を招いていました。
結局、イエス様は、結婚は生涯持続されるべきものであることを説かれました。ふたりはひとつになっており、特に子どもによってひとつになっています。したがって、離婚をすることは、子どもに破壊的な影響を与えます。離婚は、精神的に、霊的に、その子を真中から二つに引き裂くことに他なりません。ですから、聖書の教えに従って生きるクリスチャンは絶対に離婚してはなりません。私たちが天国に入るまで「離婚」の「離」と言う字も考えで幸せな結婚生活をするように祈ります。

?.天に宝を積みなさい(13?22)
 13節をご覧ください。「さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。」とあります。ユダヤでは偉いラビーに手を置いてもらって、祝福を受ける習慣があります。人々は当時のラビーたちよりも偉大なイエス様の祝福を受けようとして子どもたちを連れてきました。ところが、弟子たちは親心を知りませんでした。子どもたちに対するイエス様の心を知りませんでした。そこで、彼らはイエス様のような大先生が子どもたちを相手にしたら、大事なことができなくなると思いました。弟子たちは子どもたちがイエス様のところに来ることより勉強が大事だと思ったようです。今で言えば、教会に来ることより公文とか、水泳教室、英語塾などに行ったほうがましだと思ったのです。しかし、イエス様は、どう反応されているでしょうか。
 14,15節をご覧ください。イエス様はそれをご覧になり、憤って、彼らに言われました。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国はこのような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
 イエス様は、子どもたちに、神の国にはいるのにふさわしい性質を見出されています。イエス様は、子どもを神の国を「受け入れる」者たちとして紹介されています。子どもの時からイエス様の愛と祝福を受けるためにイエス様の所に出てくる人は本当に祝福された者たちです。彼らの純粋な心に肉眼では見えないイエス・キリストの永遠の御言葉が刻まれ、神様の永遠の祝福が臨まれるようになるからです。彼らは神の国を所有し、神の国の主役として成長するようになります。ですから、私たちは子どもたちがイエス様に出てくることを歓迎し、喜んでイエス様の祝福を受けるように助け、切に祈るべきです。
16節をご覧ください。「そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて、祝福された。」とあります。イエス様は子どもたちを抱いてくださいました。忙しい中でも彼らの上に手を置いて祝福されました。本当に子どもを大事にし、愛しておられるイエス様の暖かい心が伝わってきます。
17節をご覧ください。「イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」とあります。この人は、今までのイエス様の活動を知っていたようです。特に小さい子どもを祝福されるような方だから自分の願いも聞いてくださると思ったでしょうか。彼は永遠のいのちを受ける方法を求めました。彼は何かをして、それを獲得しなければ、永遠のいのちを得ることはできないと考えていたようです。イエス様はそんな彼に言われた。「なぜ、わたしを「尊い」と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。」イエス様は、ここで、この人に、何をすべきか、という人間的な努力から目を離して、神様に目を向けさせようとされています。視線を神様のほうに向けさせておられるのです。そして本当に尊いお方は神様であり、神様おひとりのほかにはだれもないことを教えてくださいました。
19節をご覧ください。「戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」
これは、モーセの十戒の二枚目の板にある戒めで、人と人との関係を扱っています。この戒めに対する彼の答えは何ですか。20節をご覧ください。「すると、その人はイエスに行った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」 」。彼は小さい時から神様の戒めをよく守っていると答えました。すばらしい人ですね。彼は、品行方正な人でした。人間関係においては、ほぼ完璧と言えるような人です。イエス様は彼をみつめ、その人をいつくしんで言われました。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
イエス様は、彼が、子どもの時から神様の御言葉をよく守っていたことに感心したようです。でも、彼には一つ欠けたことがありました。それは人との良い関係はあっても、神との関係が切れているということです。モーセの十戒の第一の戒めは、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。(出エジプト記20:3)」でした。ところが、彼は、自分の持ち物を神様にしていました。彼には霊的な価値観がなく、天に宝を積むことを知りませんでした。それで、まずこの世の持ち物を売り払い、貧しい人に与えるように教えてくださいました。それこそ、天に宝を積むことになることだからです。イエス様は、「そのうえで、わたしについて来なさい。」と言われました。
この地に宝を積みながらイエス様について行くなら永遠のいのちを得ることはできません。地上の財産を持って天国に入ることもできません。多くの人々は宗教を持つことによって精神的な平安を持ち、物質的にも祝福されることを望みます。クリスチャンの中でも教会に通うことによってまずこの世の持ち物が増えることを望みます。そのうえに、永遠のいのちを得て天国で生きることを望みます。イエス様の弟子として生きることによって地上の祝福も、天上の祝福ももらうことを望むのです。しかし、イエス様はまずこの世の持ち物を売り払い、貧しい人に与えるように教えてくださいました。8章34節では「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と言われました。自分の持ち物を売り払うことだけではなく、自分の十字架を負ってイエス様について来るように言われたのです。自分の十字架を負って行くことはやさしくありません。 最近、多くの人々が十字架の形をしているネックレスを付けていますが、十字架はもともと飾り物ではなかったのです。「パッション」という映画を見れば分かるように本当に重くて重いものです。十字架は飾り物ではなく、自分に与えられた使命を指しているのです。もちろん、重くても私たちが負い切れないようなものではありません。イエス様とともにいることを第一として生きることだからです。自分の失敗や恥もすべてイエス様に知っていただく、そしてその傷をイエス様にいやしていただく、それが、自分の十字架を負うことです。そのうえ、イエス様について行くことが天国に入る道です。
 ところが、その人はどうしましたか。22節をご覧ください。「すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。」とあります。
 彼は、決してしてはならないこと、つまり、イエス様から立ち去ることをしてしまいました。彼がイエス様についていったなら、安らぎを得たはずです。イエス様は、「わたしのところに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」と言われたからです。ところが、彼は、顔を曇らせ、悲しみました。

?。どんなことでも神にはできるのです(23?31)
23節をご覧ください。「イエスは、見回して弟子たちに言った。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいでしょう。」弟子たちは、イエスのことばに驚いた。」とあります。イエス様は、見回して弟子たちに言われましたが、それはイエス様がこの出来事を彼らの心に焼きつけたいと願われたからでしょう。ユダヤ人の間では、裕福さは、神様の祝福のバロメーターになっていました。神様の祝福がなければ裕福になれないと思っていたのです。ところが、イエス様が、全く逆のことを言われたので、弟子たちは驚きました。しかし、イエス様は重ねて、「子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 と言われました。確かに、神様は、物質的にも祝福されます。信仰の先祖アブラハムはあらゆる面で祝福されていました。けれども、当時の宗教指導者、パリサイ人たちなどは、貧しい人を顧みることなく金を集めた結果お金持ちになっているのに、それを神様の祝福だと言っていたわけです。イエス様はそのような金持ちのことを言われたのです。らくだは、当時その地域でもっとも大きな動物です。そして、針の穴はもちろん、人間の見ることのできる最も小さな穴の一つです。ですから、金持ちが神の国はいることは不可能なことだと言うことです。そこで弟子たちは、ますます驚いて互いに言いました。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」弟子たちの顔が、目に見えてきます。彼らは、自分たちも金持ちになることを望んでいたでしょう。今は枕する所もないイエス様の弟子として貧しい生活をしていますが、遠くない将来に金持ちになることを夢見ていたのです。ですから、弟子たちはますます驚いてしまったのです。イエス様はそんな彼らに何と言われましたか。
27節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」 」イエス様は、金持ちが神の国にはいることについて教えてくださいました。それは人にはできないことです。しかし、どんなことでも神様にはできます。そうです。人にはできないことでも、神様にはできます。金持ちは自分のお金と財産に対する執着心が強く、自分なりの努力によって結果を出したので心強く神様に頼ろうとしません。自分が一生懸命に生きてきたというほこりとともに高ぶりもあります。
私はイエス様を信じる前、貧しい農夫の子どもとして自分の貧しさ、無力さに絶望していました。ですから、水に溺れていく者がわらをもつかもうとする気持ちでUBF教会に来ました。今考えてみると貧しかったから神の国にはいりやすかったと思われます。ところが日本に来て伝道してみると、ほとんどの学生が貧しさのために困っている人はいませんでした。自分は「何も足りなくないよ」という人たちもいました。やはり先進国、経済大国といわれる日本の学生は違いました。金持ちは神の国にはいることが難しいことが分かりました。最近はSBCのために日本全国のUBF教会から集めた祈りの課題を持って祈っていますが、なかなか日本人の名前は見当たりません。「日本宣教は本当に難しいですね。」と言いたくなります。しかし、イエス様は私をじっと見て言われます。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
神様は全能の方です。人にはできないことでも神様の力によってできます。金持ちの中でも、神様の奇跡によって救われる人が起こります。実際にこの金持ちの国日本でも多くの神様のしもべたちが立てられています。ですから、日本の600キャンパス開拓もできるし、日本が経済大国から福音大国、世界宣教大国になることができます。神様にはどんなことでもできるからです。
 28節をご覧ください。「ペテロがイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」これは本当ですね。自分の職業や家を捨てて、イエス様について行きました。それはすばらしいことです。イエス様は彼らにどんな褒美を約束されましたか。
29?31節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」
 イエス様は、弟子たちに大きな報いがあることを認められました。彼らは、人間的な基準で見たら、金持ちの人のような財産を持っていませんでした。彼と比べればだらしない生活をして来たかもしれません。あまり有能な人ではなく、裕福な人ではなかったはずです。しかし、百倍の報いを受ける、とイエス様は宣言されました。それは、彼らは、イエス様とともにいることを、とにかく大事にしたからです。自分が何かをすることよりも、イエス様とともにいることを第一に求めたのです。そのため、大きな報いを受けます。後の世では永遠のいのちを受けます。「しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」イエス様は、ここでペテロの誤りを正されています。他の弟子より先にイエス様の弟子になったから報いが大きくなるのではありません。だれよりも先に宣教師になったから、あるいは牧者になったから報いが多いと言うことではないのです。むしろ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。ですから、私たちは常に霊的に闘争し、成長する者でなければなりません。自分が献身していることを自慢したり、高ぶったりしてはなりません。

 結論的に、私たちは神様が結び合わせてくださった結婚生活を大事にしなければなりません。離婚は禁じられています。子どもたちを受け入れ、自分の財産を持って天に宝を積むことも大切です。その上でイエス様について行くのです。そうすると神様は私たちを神の国に導きいれてくださいます。金持ちの国であるこの日本でも多くの人々が神の国にはいることができます。人にはできないが神様にはどんなことでもできるからです。小さい私たちですが、どんなことでもできる神様が私たちを若者たちの救い、世界宣教のみわざに用いてくださるように祈ります。

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