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9-15 イスラエルの神様

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/23 (2455 回閲覧)
2000年創世記第15講

 

イスラエルの神様

 

御言葉:創世記32?35章,48,49章

要 節:創世記35:10

「神は彼に仰せられた。『あなたの名はヤコブであるが、あなたの名はもう、

ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。』

それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。」

 

先週は新年修養会を通して御言葉による恵みと新年度方向を与えてくださった主に感謝します。きょうは中央大学開拓者派遣礼拝として捧げるようになりました。きょう派遣されるノノア宣教師は東京UBFの開拓の時からともに信仰生活をして来ました。主がこの家庭を中央大学学生達のいのちを生かす御業に貴く用いてくださるように祈ります。

去年私達は創世記を学んでいましたが、クリスマスの御言葉を学ぶために今まで休んでいました。きょうから残っているところを学びたいと思います。去年ヤコブの神様まで学びました。きょうの御言葉はヤコブがイスラエルに変わる内容です。ヤコブは人々と戦って勝利し、願っていたものをすべて手に入れた人です。彼は足りないものがなさそうに見える人です。ところが、神様は彼に今までの祝福とは違う新しい祝福を与えようとされました。本文の御言葉を通して神様がヤコブに与えようとする真の祝福は何であり、イスラエルの神様はどんな方であるかについて学びたいと思います。

 

?.ペヌエルの神様(32,33章)

 

ヤコブは故郷を離れる時には空手でしたが20年ぶりに故郷に帰る時には多くの財産と家族を持っていました。神様は故郷に帰えるヤコブのために御使いを遣わして彼を守ってくださいました。それにもかかわらずエサウが四百人を引き連れてやって来ることを聞いたヤコブは非常に恐れ、心配していました。20年間骨折って働いた結果儲けたすべてのものが一瞬になくなってしまうのではないかと心配していたでしょう。また、エサウによって殺されるのではないかという恐れがあったでしょう。それで彼はいっしょにいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けて、「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう。」と言いました。そして神様に祈り始めました。彼はアブラハムの神、イサクの神に恵みを施してくださるように祈りました。また、約束の御言葉に基づいて祈りました。彼の祈りは緊急救助を要請する祈りでした。しかし、彼は祈り終わった時にも安心できず、兄の機嫌をとるために努力しました。彼は兄が単純な人であり、感情的な人であることを知っていたので贈り物作戦を始めました。彼は早速やぎと羊、牛とろばなどを550頭も兄エサウへの贈り物として用意しました。そしてそれを三つの群れに分けてしもべ達の手に渡し、自分より先に行かせてエサウに会ったら「弟ヤコブからの贈り物です。」と言って渡すようにしました。彼はエサウがその贈り物をもらって自分を快く受け入れてくれることを期待したのです。ところが、このような努力をしたのにもかかわらず、ヤコブの心の恐れや不安は少しも解決できませんでした。彼は眠れず家族をヤボクの渡しを渡してからひとりだけ残りました。「ヤコブはひとりだけ、あとに残った。」(24)。この御言葉はヤコブが自分の力ではどうしようもない限界にぶつかっていることを言ってくれます。そして、一人で神様の御前に立つようになったことを言ってくれます。これは苦しみの瞬間でしたが、神様の御前に立って自分がどんな存在であるかを悟る良い機会でした。私達も単独者として神様の御前に立ち、自分の存在について深く考えて見る時が必要です。

一人残っているヤコブは非常に恐れ、心配していました。死ぬほど孤独でした。誰も彼のこのような苦しみを理解してくれることも解決してくれることもできませんでした。彼がこれほど苦しみ、恐れていたのはなぜでしょうか。それはエサウの問題のように思われます。しかし、実際には20年前エサウと父を騙したことから来る罪の問題でした。彼がエサウに会おうとすると彼の内面に潜んでいた罪の問題が生き返って彼を苦しめていたのです。この罪の問題は兄エサウとの問題以前神様との問題でした。すなわち、ヤコブはエサウに罪を犯しましたが、実は神様に罪を犯したことです。ですから、エサウと和解するからと言ってその問題が解決されるのではなく、神様と和解しなければなりませんでした。罪の問題は神様に出会い、罪の赦しを受けるまでは何によっても解決できません。たとえ20年の長い年月が経っても同じです。この罪の問題は世のどんな立派な人も、どんなに深い思想も、持っている多くの財産も解決してくれることができません。また、彼の強い意志や誠実さも彼の心の不安と恐れの問題を解決することができませんでした。彼の意志や誠実さは限界にぶつかりました。

 神様はこのようなヤコブのために何をされましたか。24b,25節をご覧下さい。「すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。」ここである人とは30節を見ると、神様であることがわかります。神様は限界状況にぶつかって苦しんでいるヤコブの所に訪ねて来られ彼と苦しみをともにしてくださいました。これはヤコブに臨まれた神様の恵みでした。ヤコブは神様との格闘で負けないために必死に戦いました。ここにも彼の強い人間性が現されています。彼は今まで人々の戦いで一度も負けたことがありませんでした。彼は兄と戦って勝ちました。ラバンと戦って勝ちました。神様はヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、ヤコブのもものつがいがはずれてしまいました。するとヤコブは降参せざるを得なくなりました。

それでは神様はなぜヤコブのもものつがいを打たれたのでしょうか。それは彼が頼っていたものを打たれ、彼が神様に頼るようにするためでした。もものつがいは人の体を支えているところです。それがはずれたことは彼が今まで頼って来たものが砕かれたことを意味します。すなわち、彼の才能や所有物、彼の執念や誠実、彼の闘争心などが砕かれたのです。もものつがいを打たれたヤコブは、自分と格闘した人が神様であることを知るようになりました。それで「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」と願いました。ホセア12:4には泣いて願ったと記されています。彼は誰よりも多く祝福されたのにまたどんな祝福を願っているのでしょうか。これを見ると、彼は今までの祝福に満足していないことがわかります。彼が今まで求めて来たのは名誉と愛と富でした。彼はこのようなものをすべて得たので幸せになるはずでした。しかし、このようなものは彼に真の満足を与えることができず、むしろ煩悩と苦しみを与えました。ですから、それは真の祝福ではありませんでした。所有は人間の罪の問題、死の問題、不安と恐れ、虚無のような問題を解決してくれません。彼の関心は所有から存在に、外面的なものから内面的なものに、人間的なものから霊的なものに変わりました。彼は真の祝福を求めるようになりました。

27節をご覧下さい。神様はヤコブに名前を聞きました。「あなたの名は何というのか。」この質問は「あなたはどんな存在なのか。」という質問です。神様は彼の存在に関心を持ち、彼の存在を変えてくださろうとされました。神様はアダムが罪を犯した時にも彼の存在に関心を持ち、「あなたは、どこにいるのか」と呼びかけられました。また、イエス様も汚れた霊につかれて自我を失った青年に「おまえの名は何か。」と尋ねられました。神様はヤコブに名前を尋ねることによって自分がどんな存在であるかを悟らせようとされました。するとヤコブは答えました。「ヤコブです。」ヤコブは、押しのける者という意味です。確かにヤコブという人はその名前どおりに兄を押しのけ、ラバンを押しのけた狡猾な人物でした。そして彼は、自分のためにすべてを押しのけ、今や多くの富を得ることができました。ヤコブは神様の御前で自分がどれほど惨めな者であるかを悟り、「ヤコブです」と答えました。これはイエス様がどんな方であるかを悟ったシモン・ペテロが「私は、罪深い人間です」と告白したことと同じです。すると神様は彼に言われました。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」ヤコブからイスラエルに変わったのは、神様によって新しく変えられたことを意味します。彼は神様にしがみついて、古い自分から解放され、神様にある新しい存在になりました。彼は神様をあがめる人となりました。ここで見ると神様がヤコブに与えようとされた真の祝福は所有ではなく彼の存在が神様によって新しい被造物として変えられることであることがわかります。?コリント5:17には次のように記されています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

それでは神様に会った彼の内面はどのように変わりましたか。31節をご覧下さい。「彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた。」この御言葉は新しく変えられたヤコブの内面の姿を文学的に表現した御言葉です。彼はもものためにびっこをひいていましたが、彼の内面には太陽が上っていました。苦しみと絶望の夜が過ぎ去り、喜びと希望に満ちた太陽が輝く朝を迎えました。彼の内面に働いていたすべての不安、恐れ、虚無と罪意識は過ぎ去り、恵みと平安、喜びに満たされるようになりました。ヤコブは神様に出会って罪の問題が解決されました。

 ヤコブはエサウに会う前に神様に会いました。すると、エサウとの問題はこれ以上問題ではありませんでした。エサウはヤコブを迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣きました。ヤコブはスコテへ移って行き、そこで自分のために家を建て、家畜のためには小屋を作りました。彼はそこに祭壇を築き、それをエル・エロヘ・イスラエルと名づけました。それは「イスラエルの神様は神様である」という意味です。彼はここでもう一度彼を愛し、祝福してくださると約束してくださった神様を思い出し、その神様の側に立ったのです。彼は神様を自分の神様として受け入れました。

 

?.エル・ベテルの神様(34,35章)

 

シェケムの町に住むヤコブに恥ずかしい事件が起こりました。34章を見ると、ヤコブの娘ディナがその土地の娘達を尋ねようとして出かけた時、その土地の族長のシェケムは彼女を見て、これを捕え、これと寝てはずかしめたのです。彼はディナに心をひかれ、彼女との結婚を願いました。ヤコブはこの事件がうまく解決されて続けてシェケムの町に住むことを願いました。ところが、ヤコブの子供達はシェケムが自分たちの妹ディナを汚したのを聞いて悪巧みを企みました。彼らに割礼を受けさせると結婚を許すとうそをついてからちょうど彼らの傷が痛んでいるとき、ヤコブのふたりの息子、ディナの兄シメオンとレビとが、それぞれ剣を取って、難なくその町を襲い、すべての男子を殺しました。ヤコブは子供達の問題で苦しみを受けるようになりました。またこの事件のゆえにこれ以上シェケムに住めなくなりました。彼はどこに行けばいいか分からなくなりました。彼はその地の人々の復讐を恐れました。

このように苦境に立たされたヤコブに神様はどんな方向をくださいましたか。35:1節をご覧下さい。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現われた神のために祭壇を築きなさい。」それでヤコブは神様の恵みを覚えてベテルに上って行って神様のために祭壇を築こうとしました。彼らが神様に礼拝するためにはまずやるべきことがありました。第一に、異国の神々を取り除くことです。神様は唯一の方であり、聖なる方ですから神様に仕えながら他の神々にも仕えることをお許しになりません。私達は神様にのみ仕えなければなりません。そのためには神様以外の神々を取り除かなければなりません。第二に、自分自身をきよめることです。これは真実な悔い改めを意味します。第三に、着物を着替えることです。これは実生活の変化として敬虔な姿勢を意味します。私達が聖なる神様の御前に出て行くためにはやみのわざを打ち捨てて、主イエス・キリストを着なければなりません(ローマ13:12-14)。

 ヤコブはペヌエルで神様に出会い、人生の問題を解決してもらいましたが、シェケムに留まり自己中心的な信仰生活をしようとしました。それで神様はディナ事件を通して彼がベテルに上り、祭壇を築き、そこに住むようにされました。それでヤコブは自分の家族と、自分といっしょにいるすべての者とに言いました。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」(2,3)。私達も救いの恵みを覚えてベテルに上って行って神様に感謝の祭壇を築くことが必要です。

ヤコブはそこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼びました。これは「ベテルの神」という意味です。これは彼の信仰が自己中心から神様中心に変わったことを意味します。ヤコブは今までは神様を自分のために必要な存在として考えていました。自分の幸せのために神様が必要でした。しかし、これからは自分は神様の栄光のために生きる存在であることを悟りました。信仰の生活の目的が自分から神様に変わったのです。その時、神様は彼の信仰を認められ、彼を新しく祝福してくださいました。私達が神様に認められ、神様に用いられる人になるためには私達の信仰生活の中心が自分から神様に変わらなければなりません。

 神様がヤコブを祝福された内容は何ですか。10-12節をご覧下さい。「あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。」「わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。わたしはアブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与え、あなたの後の子孫にもその地を与えよう。」第一に、ヤコブがイスラエルになる存在の変化です。これは霊的な人に、神様の人に変わることです。私達の存在が神様によって変わることは大きな祝福です。第二に、神様の救いの御業の中で多くの実を結び、祝福の源として用いられることです。私を通して多くの霊的な子孫が生まれ、また、偉大な霊的な指導者達が誕生することはどれほど嬉しいことでしょうか。第三に、地を与えてくださることです。私達には世界のキャンパスを約束の地として与えてくださいました。さらに、永遠の神の国を約束してくださいました。ここで神様がヤコブに与えようとされる本当の祝福は何であるかが分かります。神様がヤコブに与えようとされる本当の祝福は所有ではなく、彼の存在が変わり救いの御業に用いられることでした。

 ヤコブは、神様が彼に語られたその場所に石の柱を立て、その上に注ぎのぶどう酒を注ぎ、またその上に油を注ぎました。注ぎのぶどう酒を注いだことは神様に対する献身を意味します。油を注いだことは自分をきよめて神様の栄光を現すことを意味します。ヤコブは自分を神様にささげ、神様の御言葉に従う決断をしました。ヤコブの生涯はベテルから始まって再びベテルに戻った生涯でした。神様はベテルの神様となられ、彼を約束の御言葉通りに導かれました。

 

?.イスラエルの12部族をお立てになった神様(47-49章)

 

ヤコブの前半部の生涯は行く先々に人々と争って祝福を奪う生涯でした。しかし後半部の生涯の特徴は神様から受けた祝福を行く先々に与える生涯でした。47:7-10節をご覧下さい。彼はヨセフによってエジプトの王パロの前に立つようになりました。田舎の老人が超強国の王の前に立つと手足が震えて話も楽にできなくなるでしょう。パロの前に立った時、ヤコブの姿はまことにあわれなものであったに違いありません。それにもかかわらず、ヤコブは出入りしながらパロを祝福しました。ヤコブはパロにあいさつしたと訳されていますが、これは新共同訳では「祝福の言葉を述べた」と訳されています。彼は神様の人としての姿勢がありました。彼は自分こそ祝福の基として神様から選ばれた者であると信じていたのです。ですから彼はパロをも恐れず、へつらいの挨拶ではなく、祝福の言葉を持って彼を祝福することができたのです。

使徒ペテロは「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」(?ペテロ3:9)と言いました。使徒パウロもまた「アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり」(ガラテヤ3:14)と言いました。私達もまた、今日の世界に向かってイエス・キリストによってアブラハムの祝福を受け継ぐ者として選ばれ、召され、立たされているのです。私達がヤコブのように祝福の基として祝福を与える生活ができるように祈ります。

また、ヤコブは自分の人生をどのように見ていますか。年を尋ねるパロにヤコブは「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」と答えました。彼は自分の人生を旅路として見ています。ヤコブはこの世での生活がすべてであるかのように生活しました。彼は一生懸命に儲けて金持ちになりました。しかし、彼はヤボクの渡しでの格闘、愛するラケルとヨセフを失った事件などを通して自分の人生が旅路であることを悟りました。人生は旅路です。旅人はこの世に永遠に暮らすことができません。人々は自分がどこから来てどこに行くのか人生の目的や方向を知らない旅をしています。しかし、私達クリスチャンは神様から来て神様に帰ることを知っています。ですからいつかは神の国に入ることを信じてこの世で聖なる巡礼の旅をしています。私達にいのちをかけて担う使命があり、帰るべき真の故郷、すなわち、神の国があることはどれほど祝福でしょうか。私達に聖なる巡礼者の人生を生きるようにしてくださった主に感謝いたします。

48章でヤコブはヨセフのために彼の二人の子どもに祝福をしました。49章はヤコブが12人の子どもを祝福した内容です。12人の子供達を一人一人祝福するヤコブの姿は多くの国の父らしいです。神様はこのヤコブの祝福に基づいてイスラエルの12部族を立てられました。

 結論、イスラエルの神様はどんな方ですか。神様はヤコブをイスラエルに変えられ、真の祝福を与えてくださった方です。ヤコブは人間性が強くて変わりにくい人であり、神様の御業に用いられにくい人でした。神様はこのような彼を育てられ、イスラエルの12部族の父であり、行く先々に祝福を与える祝福の源とならせてくださいました。48:15,16節でヤコブは神様がどんな方であるかを告白しました。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。すべてのわざわいから私を贖われた御使い。」ヤコブは強い人間性によって生きて来たようでしたが、自分の人生を顧みると羊飼いであられる神様がずっと導いてくださったことがわかりました。とうてい神様に愛される価値などない自分を、神様は選び、赦し、愛してきょうまで守ってくださったことがわかりました。神様は彼が新しく変えられ、神様の人となるまで産みの苦しみをされました。神様はアブラハム、イサク、ヤコブ、三代信仰の先祖を育てられることによって救いの御業の基礎を置かれました。アブラハムの神様、イサクの神様、ヤコブの神様は私の神様です。この神様は愛される価値のない罪深い私達をも愛し、きょうまで守られ、導いてくださいました。今年は私達が単独者して主の御前に立ち、主によって内面が変わる年となるように祈ります。また、行く先々に祝福を与える祝福の基となるように祈ります。

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