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BibleMsg > マルコの福音書 > 2000-26講 わたしは、それです

2000-26講 わたしは、それです

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/23 (1900 回閲覧)
2000年マルコの福音書第26講



あなたのみこころのままを



御言葉:マルコの福音書14:32?72

要 節:マルコの福音書14:36

またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。

どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、

あなたのみこころのままを、なさってください。」





 本文の御言葉にはイエス様が生涯の中で一番葛藤する場面が出ています。ここには十字架を目の前にして苦悩するひとりの人間としてのイエス様の真実な姿が出ています。イエス様は悲しみのあまり死ぬほどだと言われました。しかしイエス様はゲツセマネの祈りによってこれらのすべての悲しみと苦しみを乗り越えられました。そして、イエス様はゲツセマネの三度の祈りによって神様の御旨に従われました。私達がどうやって自分の心より神様のみこころに従うことができるでしょうか。誘惑が多いこの時代、私達はどうすれば誘惑に陥らず、勝利の信仰生活を送ることができるでしょうか。この時間、イエス様のゲツセマネの祈りからその秘訣を学ぶことができるように祈ります。



?。ゲツセマネの祈り(32-42)



 32節をご覧ください。ゲツセマネという所に来て、イエス様は弟子達に言われました。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれました。十字架の死を目の前にしたイエス様の心情はどうでしたか。イエス様は深く恐れもだえ始められました。イエス様は人としての弱さのゆえに苦しみもだえたのです。そして彼らに言われました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目を覚ましていなさい。」イエス様はなぜ今までとは違って三人の弟子達の前でこのような弱い姿を見せたのでしょうか。イエス様の死は普通の人間の死とは次元が違います。人は自分の罪の代価として死にますが、何の罪もないイエス様は人類が犯したすべての罪の代価を払うために死なれるのです。イエス様は神様の小羊として人々の代わりに呪われ十字架につけられるのです。また一時的には神様からも見捨てられます。それは人として来られたイエス様としは耐えがたい悲しみと苦しみでした。イエス様は私達が受けなければならないすべての肉体的、精神的、霊的な苦しみを受けようとした時、悲しみのあまり死ぬほどでした。イエス様はひとりの人間としてこのような苦しみを体験されました。ですからイエス様は誰よりも人々のすべての悲しみや苦しみ、そして葛藤を深く理解し助けてくださることができる方です(ヘブル4:15)。イエス様は私の悲しみと苦しみ、悩み、弱さ、葛藤、失敗を知っておられ深く同情してくださる方です。ですから、私達は、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づくことができます(ヘブル4:16)。すると、主は私の心の傷をいやし、心の平安と力を与えてくださいます。

 35節をご覧ください。それから、イエス様は少し進んで行って、地面にひれ伏して祈られました。地面にひれ伏したことは神様に対する服従と謙虚な姿勢を現わします。イエス様は神様の御前にひれ伏して必死に祈りの戦いを始められました。それではイエス様は何を祈られましたか。35b、36節をご覧ください。「もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、またこう言われた。『アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。』」イエス様は神様を「アバ、父よ。」と呼ばれました。アバはアラム語で、「私の父」という意味です。この言葉には神様に対するイエス様の愛と信頼が現わされています。イエス様は十字架の死を目の前にした時にも神様の愛を少しも疑いませんでした。イエス様は子供が親を愛し信頼するように父なる神様を絶対的に愛し信頼されました。「この時」とは、神様が定められた苦難の時を指します。すなわち、イエス様が十字架を負わなければならない時です。「杯」とは、人間の罪に対する神の怒りの杯、すなわち、十字架を指しています。イエス様はできるならその十字架を負うことを避けたい願いを持っておられました。それで全能の神様に十字架の杯を飲まずに人類の救いの御業を成してくださるように祈られました。イエス様は苦しみや悲しみを神様に真実に打ち明けられました。しかしイエス様はそれに止まらず、一方進んで祈られました。「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」「しかし」この言葉は偉大な転換です。これは自分の願いから神様の願いへの転換であり、自分の心から神様の御心への転換です。「神様がよしとなさることをしてください、私はそれを神様から与えられたものとして感謝して受け入れ、従います。」これがイエス様の祈りです。イエス様は自分を喜ばせるより積極的に神様を喜ばせようとされました。そのためにイエス様はご自分の心を打ち砕き、神様のみこころに従わせられました。イエス様のゲツセマネの祈りは十字架を避けるための祈りではなく、むしろ積極的にその十字架を負うための祈りでした。イエス様のゲツセマネの祈りはご自身の願いと神様の御旨との間の葛藤の中で、神様の御旨に従おうとする霊的な戦いでした。祈りは自分の考えや自分のこころを神様の御旨に従わせるものでなければなりません。祈りはたといそれが自分の意志に反することであっても、自発的に神様の意志に喜んで従うという告白が伴う時に、最も価値のあるものとなります。

 ところが、人々は神様のみこころより自分の考えや願いを優先させる祈りを多く捧げています。「神様のみこころではなく、私の願うことを、なさってください。」と祈ります。神様が私達に願われることが何かを捜し求めるより、最初から最後まで自分が神様に願うことばかり一方的に求める祈りを捧げています。そして神様に注文したものが早く届かないと神様の愛を疑ったり、文句を言ったりします。このような祈りは幼い子供のような祈りです。人々は自分が願うことがかなえられると幸せだと思います。しかし、私達の願いは自己中心的であり不完全なものです。反面神様のみこころは広くて完全なものです。神様のみこころはいつも私達に有益であり、一番よい方向です。人は自分のこころのままをする時、霊的な世界の奥義を知ることができず、また霊的に成長することもできません。しかし、自分の考えや自分の心を否認して積極的に神様のみこころに従う時、霊的な世界の奥義を悟り、神様に用いられる霊的な人として成長するようになります。

 イエス様の生涯を考えて見ると、イエス様は徹底してご自身の心を否認し、神様のみこころに従われたことがわかります。イエス様は、神様の御姿であられる方なのに、人間を救うために神のあり方を捨てて、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。そして十字架の死にまでも神様のみこころに従われました(ピリピ2:6-8)。イエス様の十字架は従順の十字架であり、イエス様の生涯は従順の生涯でした。イエス様は神様に従うために多くの苦しみを体験されました。ヘブル人への手紙5:7,8はその事実を次のように言っています。「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことの出来る方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び」私達の信仰が成長し神様に用いられる霊的な人になるためには必ず自分のこころを捨てて神様のみこころに従うことを学ばなければなりません。

 イエス様が一度祈って戻られた時、弟子達は何をしていましたか。37節を見ると彼らはイエス様の苦しみとは関係なく、眠ってしまっていました。イエス様の姿と弟子達の姿とは、まことに対照的です。イエス様はペテロに言われました。「シモン。眠っているのか。一時間でも目を覚ましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」この御言葉は私達がなぜ目をさまして祈らなければならないかを教えてくれます。

 第一に、誘惑に陥らないためです。サタンは私達よりはるかに強く、狡猾ですから私達の力や知恵によってその誘惑に勝つことができません。私達が目をさまして祈らなければサタンの誘惑に陥ってしまいます。目を覚まして祈り続けることは、サタンの誘惑を防ぐ、最も有効な手段です。

 第二に、肉体が弱いからです。「心は燃えていても、肉体は弱いのです。」この御言葉は肉体が弱いから誘惑に陥ることは仕方がないという意味ではありません。この御言葉は肉体が弱いからこそ目を覚まして祈らなければならないことを教えています。私達が強ければ祈る必要がありません。私達は弱いから祈る必要があるのです。自分の弱さを深く認める人は主に頼り、問題が生じるたびに謙遜に祈ります。このような人は神様の助けによって自分の弱さを克服して勝利の人生を送ることができます。

 40節をご覧ください。イエス様が戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていました。彼らは弁解の余地がありませんでした。彼らは目を覚まして祈らなければならない時に眠っていたので結局危機の時にみな逃げてしまいました。ペテロはイエス様が預言された通りに三回もイエス様を知らないと否認しました。イエス様は神様の御子でありながらも十字架を前にしてゲツセマネで汗が血のしずくのように地に落ちるほど祈られました。イエス様でさえこのように祈られたのにペテロは眠っていました。ですからサタンの誘惑に陥ることは当たり前なことでした。

以上から祈りの重要性について学びました。祈りが私達の信仰生活において重要であることを知っていながらもそれを実践することはなかなか難しいことです。仕事やアルバイトで疲れている時には夜明けに起きて祈るのが困難です。忙しくなると祈る時間が段々減ってしまいます。しかし、イエス様はどんな状況の中でも祈るべきであることを教えてくださいます。疲れているからこそ祈らなければならないことを教えてくださいます。忙しければ忙しいほど祈らなければならないことを教えてくださいます。自分の都合や状況を言い訳にして祈らなくてもいいとは教えておられません。祈りは霊的な闘争です。霊的な闘争なしに霊的な勝利もありません。目を覚まして祈る時に私達は絶えず心の中から生じる人間的な考えやサタンの誘惑に打ち勝つことができます。目を覚まして祈る時に神様のみこころに逆らう反発心と不従順を捨てて、神様のみこころに従うことができます。祈る時に自分の十字架を負うことができます。後にペテロはイエス様のゲツセマネの祈りを学び、祈りのしもべになりました。彼は激しい迫害の中でも目を覚まして祈ることによって自分の弱さを克服して多くの十字架を負うことができました。彼は迫害によって散らされている聖徒達に次のように勧めました。「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整えて身を慎みなさい。」(?ペテロ4:7)。

 39節と41節をみるとイエス様は、同じ言葉で三回も祈られました。なぜこのように繰り返して祈られたのでしょうか。イエス様は十字架を負うことを心から決断し、十字架を負うことができる霊的な力を得るまで繰り返して祈られました。ルカの福音書22:44を見ると、イエス様は汗が血のしずくのように地に落ちるほどに祈られたと書かれています。イエス様はこのように祈ることによってすべての悲しみや苦しみを乗り越えて十字架を負う力を得ることができました。祈る前のイエス様の姿は心の悩みと苦しみと悲しみ、恐れのあまり死ぬほどでした。しかし三回繰り返して祈られた後のイエス様は確信と勇気に満たされました。42節をご覧ください。「立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」イエス様は苦難の道から逃げようとすればいくらでも逃げることができました。しかし、イエス様は十字架に向かって大胆に立ち向かわれました。そして十字架の道を進んで行かれました。イエス様は祈りによってすでに勝利されました。

イエス様のゲツセマネの祈りは、私達が弱いからこそ祈らなければならないことを教えてくれます。サタンの誘惑が多くあるからこそ祈らなければならないことを教えてくれます。自分の願いより神様の願いに従うために祈らなければならないことを教えてくれます。この国の宣教のみわざが盛んになるためには祈らなければならないことを教えてくれます。サタンの誘惑に打ち勝ち、聖なる生活を送るためには祈らなければならないことを教えてくれます。私達は祈りによって喜びながら自分の十字架を負うことができます。神様のみこころに従うことができます。誘惑が多いこの時代に誘惑に打ち勝つことができます。私達がイエス様のゲツセマネの祈りを学び、日々目を覚まして祈る生活の中でまことの勝利を得ることができるように祈ります。



?.全議会(サンヘドリン)で尋問されたイエス様(43-72)



イエス様がまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが剣や棒を手にした群衆といっしょに現われました。ユダは、彼らと前もって合図を決めておいたので、イエス様に近寄って、「先生。」と言って、口づけしました。口付けするのは愛と信頼の意味ですが、ユダの場合は裏切りの口付けでした。すると人々は、イエス様に手をかけて捕えました。そのとき、イエス様のそばに立っていたひとりが、剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落としました。ヨハネの福音書18:10によれば、そうしたのは、ペテロでした。ペテロはこのようにしてイエス様に対する忠誠心を現わしました。しかし、彼の忠誠心はイエス様に何の役にも立ちませんでした。また、彼が剣を抜いてそのようにしたのは、彼の心に恐れがあったことを現わしています。彼は目を覚まして祈らなかったので、恐れに打ち勝つことができず、感情的になりました。彼は本当に戦うべき敵が誰であるかを知りませんでした。マタイの福音書26:52 を見ると、そのとき、イエス様はペテロに「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」と言われました。「剣を取る者はみな剣で滅びる。」これは歴史が証明してくれます。イエス様が剣を取らなかったのは、神様の御旨に従うためでした。

48、49節をご覧ください。イエス様は彼らに向かって言われました。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕えに来たのですか。わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」イエス様は強盗のように捕らえられ、強盗の代わりに死刑宣告を受けられ、強盗達と一緒に十字架につけられ死なれました。(イザヤ53:12)。イエス様は弟子達が逃げることや御自分が捕らえられることや十字架につけられ死なれることなどすべてが聖書のことばが実現するためであると言われました。イエス様は徹底に神様の御旨に従われました。しかし、弟子達はみながイエス様を見捨てて、逃げてしまいました。

51、52節に出るある青年は、この福音書の著者であるマルコであると思われます。彼は、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエス様について行ったところ、人々は彼を捕えようとしました。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げました。

彼らがイエス様を大祭司のところに連れて行くと、祭司長、長老、律法学者たちがみな、集まって来ました。ペテロは、遠くからイエス様のあとをつけながら、大祭司の庭の中まではいって行きました。彼はイエス様の前で大言壮語したのを覚えて戻って来ました。しかし、恐れて遠くからイエス様の後をつけました。ペテロのように遠くからイエス様の後について行く人々がいます。主と福音のために献身するとすべてのものを失うのではないかと恐れている人々は遠くからイエス様のあとについて行きます。そのような人はペテロのような人です。

さて、祭司長たちと全議会は、群衆を恐れて夜中に集会を開き、イエス様を尋問しました。彼らはイエス様を死刑にするために、イエス様を訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つかりませんでした。イエス様に対する偽証をした者は多かったが、一致しなかったのです。イエス様は偽証をする人々の前で何も答えられませんでした。イエス様は神様の御旨に従うために、ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、口を開きませんでした(イザヤ53:7)。ところがどんな質問に対してははっきりと答えられましたか。61,62節をご覧ください。大祭司は、イエス様に尋ねて言いました。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」そこでイエス様は言われました。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」「わたしは、それです。」という答えは、イエス様がメシヤであることを明白に認めたことになります。イエス様はご自分を殺そうとする者たちの前で、ご自分をはっきりと明かされました。そして、イエス様は尋問されるところで尋問する人々に復活の望みと裁きについて言われました。イエス様はキリストであり、裁き主として堂々と言われました。悲しみのあまり死ぬほどだったイエス様がこのように大胆にご自身を証できたのは、ゲツセマネで祈られたからです。結局全議会はイエス様が神を汚したという罪状で死刑の判決を下しました。そうして、ある人々は、イエス様につばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ、からかいました。また、役人たちは、イエス様を受け取って、平手で打ちました。

反面ペテロはどうでしたか。彼は大胆に敵の陣営に入りましたが、恐れのあまり死ぬほどだったでしょう。結局彼は剣や拷問によってイエス様を否認したのではなく、弱い女中の前でイエス様を知らないと三度言いました。それはイエス様が言われた通りでした。ペテロはイエス様の御言葉を思い出して泣き出しました。彼がそのように失敗したのは目を覚まして祈らなかったからです。

イエス様は神様の御子でありながら十字架を目の前にして切に祈られました。その祈りの戦いに勝利されたイエス様は、まことの勝利者となることができました。私達もイエス様のゲツセマネの祈りを学び、まことの勝利者となることができるように祈ります。祈りによって誘惑に打ち勝つことができるように祈ります。祈りによって神様の御旨に従うことができるように祈ります。

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