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2000-21年 神様の愛と公義

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/23 (2002 回閲覧)
2000年マルコの福音書第21講



神様の愛と公義



御言葉:マルコの福音書12:1?12

要 節:マルコの福音書12:6

「その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。

彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。」





サマー・バイブル・キャンプを祝福し、罪の赦しと救いの恵みを与えてくださった主に感謝いたします。神様は私達をどれほど愛しておられるでしょうか。聖書は、神様は一人子をお与えになったほどに私達を愛されたと言っています。この時間一緒に学ぶイエス様のたとえ話には人間の罪の本性と罪人に向かう神様の愛がよく現われています。このたとえを通して神様が私達に願われることが何であり、また私達が神様に対してどんな姿勢を持つべきかについて学ぶことができるように祈ります。また、私達に対する神様の大きな愛を悟ることができるように祈ります。



?。しもべたちを遣わされた神様(1-5)



 11章の後半にはイエス様がぶどう園の農夫のたとえを話された動機が書かれています。イエス様はすべての民の祈りの家となるべき宮が市場のようになっているのをご覧になって怒られました。宗教指導者達は宮の中で商売をしている人々と結託して巡礼者達から不当にお金を取り上げていました。それでイエス様は商売している人々を追い出し、宮を清められました。すると宗教指導者達はイエス様に「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」と言いました(11:28)。彼らは自分達の罪を知らず、イエス様がどんな方なのかも知りませんでした。それでイエス様はぶどう園の農夫のたとえによってイエス様ご自身が神様の愛する子であることと彼らの罪が何かを教えてくださいました。12:1節をご覧ください。「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫達に貸して、旅に出かけた。」ぶどう園の主人は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていました。彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねも掘りました。主人はぶどう園のためにそれ以上できないほどよい環境を整えました。そしてそれを農夫達に貸して、旅に出かけました。マタイの福音書20章を見ると当時市場には仕事がなくて何もしていない人々、すなわち失業者が多くいました。彼らはその日に仕事が見つからないと食べるにも困るほど貧しい人々でした。本文に出る農夫達も仕事がなくて「誰か仕事をくれないかな。」と思っていたでしょう。ですから彼らが主人から選ばれ、美しいぶどう園で働けるようになったのは大きな恵みです。主人は農夫たちを信頼し、ぶどう園の経営を任せました。農夫達は主人の干渉も受けず、自由に働くことができる良い職場が与えられました。それだけ見ても主人はどんなに愛が豊かな人であったかがわかります。彼が単純にぶどう園の収穫の分け前だけを願っていたなら道でぶらぶらしている人々に最高のぶどう園を任せはしなかったでしょう。また農夫達が不正を行わないように彼らを監視する監督者を立てたでしょう。それを見ると主人はぶどう園を自分のために造ったのではなく農夫達のために造ったことがわかります。農夫達は一夜に乞食が王子になったような祝福を受けました。

 このたとえ話でぶどう園の主人は神様、農夫はイスラエルの宗教指導者達、ぶどう園はイスラエルを指します。もっと広い意味ではぶどう園はこの世、農夫は人間を指します。神様はエジプトで鞭に打たれ、蔑視されていた奴隷の民イスラエルを解放してくださいました。奴隷の民イスラエルは一方的な神様の恵みによって神様の民となりました。神様は万民の救いのみわざのために多くの民族の中からイスラエルを選ばれ、祭司の国とされました。そして彼らがこの使命をよく果たすことができるすべての環境を整えてくださいました。彼らは世界の人々が偶像崇拝をしている時にまことの神である主を礼拝することができました。また、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデのような信仰の先祖たちも彼らの中から出ました。そしてキリストも、人としては彼らから出られたのです。神様がこのように足りないものがない環境を造って彼らを祝福されたのは彼らを祭司の国として立てて彼らを通して世界のすべての人々を救うためでした。

 神様は私達にも美しいこの世をぶどう園として与えてくださいました。また神様は私達が良い実を結ぶことができるようにすべての環境を備えてくださいました。ですから私達は神様から与えられた知恵や力によって働き、実を結ぶことができます。

 特に神様は私達にキャンパスのぶどう園を任せてくださいました。このぶどう園には真理を愛し、無限な可能性を持っている若者達が溢れています。キャンパスの若者達はこの国の希望です。キャンパスは流れる川の水のようにいつも新鮮です。毎年卒業したら新入生が入って来るからです。神様が私達にこのキャンパスのぶどう園で働くようにしてくださったことは大きな祝福です。   

 私達は本来このぶどう園で働く資格のない者でした。どんな人生を生きるべきかを知らず、目的もない人生を過ごしていました。ところが神様の一方的な恵みによって選ばれイエス様の尊い血潮によって罪が赦される恵みと使徒の努めを受けました(ローマ1:5)。

 2節をご覧ください。「季節になると、ぶどう園の収穫の分け前を受け取りに、しもべを農夫達の所へ遣わした。」律法に従えば、主人はぶどう園を始めてから五年後に、最初の分け前を受け取りました(レビ19:23?25)。「収穫の分け前」とはただ物質だけではなく神様の民として持つべき信仰、愛、正義などの内面性です。祭司の国としての使命です。分け前は大抵5:5、6:4でした。気前がいい主人の場合は7:3位で決めました。しかし神様は所得の十分の一だけを捧げるようにしています。これは分け前自体に目的があるのではなく神様と正しい関係性を結び、霊的な秩序を守るためです。神様が貧しくて十分の一を捧げるように言われたのではありません。世のすべてのものは神様から来ました。私達が十分の一を捧げることはそれを通して神様と愛の関係性を保つようにするためです。それはちょうどエデンの園の善悪の知識の木のようなものです。人は善悪の知識の木を見るたびにエデンの園を与えてくださった神様を覚えて神様と交わり、神様の豊かな愛と祝福の中で暮らすことができました。このように神様を覚えさせるものがなければ人間は自然に神様の愛を忘れてしまいます。人間は神様と正しい関係性を保つ時に真の幸せがあります。そして神様との霊的な秩序を守ることができます。神様が人間に分け前を要求することは創造主として当然な権利であり、人間が神様に分け前を捧げることは当然な義務です。農夫達は分け前を主人に渡しながら主人が施した恵みと愛を覚えることができます。

 農夫達は主人が送ったしもべに分け前を渡すことだけでこれからも美しいぶどう園で働くことができました。しかし彼らはしもべをどのようにしましたか。3節をご覧ください。農夫達は分け前をくれるどころかしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰しました。普通なら主人はすぐ兵隊を送って彼らを滅ぼしてしまったでしょう。しかし主人はどうしましたか。4、5節をご覧ください。「そこで、もう一度別のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はずかしめた。また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまった。続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした。」主人はどんな犠牲を払ってでも農夫達と正しい関係性を結ぶことを願いました。主人は農夫達が悔い改めてそのぶどう園で幸せに暮らすことを願われました。主人は本当に忍耐深い人でした。それは、神の忍耐について語っています。一度二度ではなく、幾度も、主人は農夫たちに彼らが負っている負債を支払う機会を与えました。彼らがそれにふさわしくないにもかかわらず、思いやりと忍耐とを持って取り扱いました。ローマ人への手紙2:4、5は忍耐深い神様について次のように記しています。「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」

 たとえで主人が遣わしたしもべたちとは預言者たちのことです。神様はイスラエル人が偶像崇拝をし、神様に背いた時に預言者達を遣わし、悔い改めのメッセージを伝えました。しかしイスラエルの民は神様が遣わされた預言者達を笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者達をばかにしました。彼らを石打にし、殺しました。ところが神様は多くの預言者達を犠牲にしながらも彼らの罪を長く耐え忍ばれ、彼らに置かれた望みを捨てられませんでした。まるでめんどりがひなを翼の下に集めるように、何度も集めようとされました。家を出た放蕩息子が帰って来るのを待っている父親のように彼らを待っておられました。このような神様の忍耐がなかったなら誰も救われることができなかったのでしょう。

 それでは農夫達がこのように悪くなった根本原因は何でしょうか。

 第一に、感謝しなかったからです。農夫達は最初にぶどう園で働くようになった時には非常に喜び、主人に感謝する心があったと思います。ところが年月が経つにつれて感謝の心がなくなりました。良いぶどうが結ばれると自分達が熱心に働いたからだと思いました。収穫の分け前を主人に渡すことを考えると惜しむ心が生じました。それで主人が遣わしたしもべを捕まえて袋叩きにしたり、殺したりしました。私達が自分に与えられた恵みに対して感謝する心がなくなると自己義が生じて高慢になり、罪を犯すようになります。感謝がなければ自己義と他人を裁く心と憎しみだけが残ります。感謝がなければ他の人がうらやましがるほど祝福されてもつぶやき、結局恵みを裏切った農夫達のようになります。ですからクリスチャンは幸いな時も災いに会う時も、豊かな時も貧しい時も、健やかな時も病める時も、感謝する生活をしなければなりません。すべてのことについて感謝することがキリスト・イエスにあって神様が私達に望んでおられることです(?テサロニケ4:18)。

 感謝する心は私に施された神様の恵みを覚える時に生じます。罪人であった私を一方的な恵みによって赦し、救ってくださった神様の恵みを覚える時、感謝することができます。ダビデは統一イスラエル王国の王になってからも高慢にならず、ベツレヘムの田舎で羊飼いをしていた自分を召され、イスラエルの牧者として立ててくださった神様の恵みに深く感謝しました。使徒パウロは自分に与えられた救いの恵みをいつも覚えていました(?テモテ1:13、14)。彼は神の教会を迫害する者でした。しかし、彼はダマスコに行く途中、よみがえられたイエス様に出会い、一方的な恵みによって救われました。そして彼はイエス様の召されに従って異邦人の使徒として熱心に使命を果たしました。彼は多くの苦しみを経験しながら小アジヤとギリシヤの地域に多くの教会を開拓しました。しかし使徒パウロの証はいつも感謝と謙遜に溢れています。彼は自分に対して罪人のかしらだと言い、「神の恵みによって、私は今の私になった。」と告白しました。彼は決して「私の苦労した分、報いてくれ。」と人や神様に要求しませんでした。むしろ彼はうしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走りました(ピリピ3:13、14)。彼はこのイエス様の恵みに感謝していたので生きるにしても死ぬにしても自分を通して神様の栄光が現わされることを願いました。このように生きている彼の心の中にはいつも感謝と喜びが泉のように湧き出ました。洪ヨセフ宣教師とマリヤ牧者は結婚して間もなく胃癌という試練に会いました。それはまだ28歳の若い彼らにとって大きな試練でした。しかし、彼らはこのような試練の中でも主の恵みを覚えて感謝する生活をしています。この前は洪ヨセフ宣教師の家族が集まってヨセフ宣教師がヨハネの福音書11章の御言葉に基づいてメッセージを伝えて家族礼拝を捧げたそうです。そこで今まで教会に通ってなかった一人のお姉さんが教会に通う決心をしたそうです。洪ヨセフ宣教師のお母さんはマリヤ牧者を見て天使みたいだと言ったそうです。ヨセフ宣教師と安藤マリヤ牧者が試練の中でも主の恵みを覚えて感謝する生活をすることを見た家族は安心とともに大きな感動を受けました。私達も主の恵みを覚える生活を通して神様の恵みがますます豊かなものになり、いつも感謝する生活ができるように祈ります。

 第二に、農夫達は自分達が管理人であることを忘れていました。彼らは主人ではありません。ただ恵みによって選ばれ、働くようになった管理人に過ぎません。ところが彼らは自分達がぶどう園の主人になったような錯覚をしました。過去一日中仕事がなくてその日の食べるものを心配していた時を忘れていました。生活が豊かになると高慢になりました。それで主人を軽んじ、その主権に正面から挑戦しました。彼らは自分達が管理人に過ぎないことをすっかり忘れていました。

 私達は自分が管理人であることを知らなければなりません。よく考えて見ると私達のいのちや財産、子供などすべてのものが神様から預かったものです。人々は仕事がうまく行ったり、何かよい結果が出たりすると自分が頑張ったのでそのようになったと思いがちです。しかし神様が太陽の光と水と空気を与えてくださらないと私達は一時間も生きることができません。健康を与えてくださらないと働きたくても働くことができません。いくら立派な牧者だとしても聖霊の働きがなければ一人も変化させることができません。ですから私達は自分の義を主張することができません。私達は神様が主人であり、自分は管理人に過ぎないことを知らなければなりません。小さな収穫の分け前に目が眩んでしまってその収穫を与えてくださった神様を忘れると結局すべてのものを失うようになります。私達はあくまでも管理人として忠実に働き、主である神様に分け前を捧げるべきです。神様は私達が分け前を捧げる時、以前よりももっと祝福してくださいます。

私は今年のサマー・バイブル・キャンプのプログラムを一生懸命に準備した人々を通して恵みを受けました。張ヨハンナ宣教師は演劇の演出を体の具合が悪くなるまで担当しました。福井姉妹も演劇の踊りを何十回も練習したそうです。それであんなに上手に踊りました。朴エズラ宣教師は日本に来て体重が10キロも減ったそうですが、一生懸命に赤門フェローシップやレクリエーションや重唱団などに仕えました。メッセージの講師達も一生懸命にメッセージを準備しました。神様から預かったいのちと体と才能と力を用いて忠実に働いた一人一人を主が大きく祝福してくださることを信じます。もし、石原牧者が過去のように自分の体は自分のものだと思い、快楽のために使っていたなら、どうなったのでしょうか。今はかなりデブになっているでしょう。しかし、彼が管理人としてメッセージを伝えたり、賛美に仕えたりする姿は美しいです。私達がこれからも管理人として忠実に働き、喜んで分け前を主に捧げることができるように祈ります。



?.愛する息子を遣わされた神様(6-12)



 6節をご覧ください。「その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。」主人には最後に愛する息子が残っていました。ところがその息子は一人子として唯一の相続人でした。この一人子を農夫達のところに送ることは大変危険です。今までの農夫達の行動を見ると息子に何をするかわかりません。しかし主人は農夫達が悔い改めて帰って来ることを願いました。主人は農夫達が息子を敬ってくれるなら過去のすべての罪は赦そうとしました。この主人の農夫達に対する愛は諦めない愛であり、無条件的な愛です。

 このたとえで息子はイエス様ご自身を指します。神様は一人子イエス様を罪人を裁くためにこの世に遣わされたのではありません。罪人を救うために遣わされたのです。使徒ヨハネはこの神様の愛を次のように言いました。「神は、実に、その一人子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)。また?ヨハネ4:9、10節では次のように言いました。「神はその一人子を世に遣わし、その方によって私達に、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私達に示されたのです。私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛し、私達の罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」神様は愛です。神様は私達との関係性の回復のために一人子を惜しまずなだめの供え物として遣わされました。これはどんな苦しみを経験してでも人間を救おうとする神様の絶対的な意志と愛の表現です。この神様の愛は状況や感情によって左右される人間の愛とは違います。誰が自分の子供を殺人者のところに送ることができるでしょうか。気が短い主人だったらすぐ兵隊を送って農夫達を滅ぼし、他の人たちをぶどう園に入れたと思います。そうすると主人と農夫達の関係性は永遠に回復できなくなります。神様は人間に対する御自分の愛を示すために一人子を遣わされました。そして一人子イエス・キリストは人々から捨てられ、十字架につけられました。イエス様は十字架の上でこのように祈られました。「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)。イエス様は私達の罪のために御自分の尊いいのちを与えてくださることによって私達に対する愛を明らかにされました。そしてイエス様は激しい苦しみの中で叫ばれました。「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マルコ15:34)。しかし父なる神様は一人子の叫びを聞きながらもその十字架から救ってくださいませんでした。愛する一人子がそれほど苦しみながら死ぬ時、父なる神様はどんなに苦しまれたのでしょうか。私は6人兄弟ですが、弟が交通事故で死んだ時私の親は何日間も食べず悲しみ、苦しんでいました。どうしてでも人間の罪を赦し、関係性を回復しようとする神様の愛は限りない愛です。神様は御自分に背いて自分勝手な道を歩んでいた私達さえも愛してくださいました。一人子イエス・キリストは私の罪のために十字架につけられ死なれました。そして私達のために新しい生ける道を設けてくださいました。誰でも自分が罪人であることを認め、悔い改めるならすべての罪を赦し、神様の子供としてくださいます。 

農夫達は過去のすべての罪を悔い改めて新しい人生を出発できるチャンスがもう一度与えられました。しかし農夫達はこの最後のチャンスも蔑ろにしてしまいました。7、8節をご覧ください。その農夫たちはこう話し合いました。「あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。」そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てました。彼らは取り返しがつかない罪を犯してしまいました。彼らは主人には何の力もないと思いました。彼らは主人が何か行動を起こすにはあまりにも離れすぎている、と考えたでしょう。あるいは、彼は死んでしまったので知られることがないと考えたでしょう。そして息子を殺せばぶどう園が自分達のものになると思い違いをしました。それではぶどう園の主人は彼らをどのようにしますか。主人は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人達に与えてしまいました。

 神様は愛する一人子をこの世に遣わされましたが人々は彼を受け入れませんでした。受け入れるどころか無視し、背きました。異邦人の手に渡し、十字架につけて殺し、エルサレムの外に投げ捨てました。神様は最後に愛する一人子を遣わされることによって人々のためにできることをすべて尽くされました。ですからこのイエス様までも受け入れないなら残ったのは裁きしかありません。人々は神の忍耐を利用することができるでしょう。しかし最後には、審判と当然の報いとがやって来ます。神様は不服従と反抗に対して長い間、堪えられますが、最後には行動を起こされます。神様は愛の神様ですが、公義の神様でもあります。イスラエルはイエス様を殺した罪で裁きを受けました。彼らは紀元70年にローマ軍によって滅ぼされ、世界に散らされてさまよう民となりました。もし人が、その特権と責任とを拒絶するならば、これらの特権と責任とは他の誰かに移って行きます。ユダヤ人の拒絶によって彼らに与えられた祭司の国としての特権や祝福は奪われ、異邦人に移って行きました。

 イエス様はたとえの結論として詩篇118:22、23節の御言葉を引用されました。10、11節をご覧ください。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者達の見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私達の目には、不思議なことである。』」神様がイスラエルを通して成し遂げようとされる万民の救いのみわざはイエス様が十字架につけられて死なれたことで失敗したかのように見えます。しかし神様は決して失敗する方ではありません。家を建てる者はイスラエルの宗教指導者達です。彼らはイエス様が役に立たない石だと思って見捨てました。しかし神様はその石を礎の石とされました。

 宗教指導者達は、イエス様のたとえ話が、自分達をさして語られたことに気付いたので、イエス様を捕らえようとしました。しかし群衆を恐れていたのでイエス様を残して、立ち去りました。

 結論、神様は一人子をお与えになったほどに私達を愛してくださいました。私達がこの神様の愛を確信し、神様から与えられたぶどう園で管理人としての使命を忠実に果たすことができるように祈ります。罪人のために一人子をお与えになった神様の愛を賛美します。

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