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2000-14講 そうまで言うのですか

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/23 (2144 回閲覧)
2000年マルコの福音書第14講



そうまで言うのですか



御言葉:マルコの福音書7:24?30

要 節:マルコの福音書7:29

そこでイエスは言われた。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。

悪霊はあなたの娘から出て行きました。」





言葉はその人の人格と考えの表現です。信仰のある人は信仰の言葉を言い、心に不信に満ちた人は不信の言葉を言います。感謝する心をもっている人の口からは感謝の言葉が出ますが、不平不満に満ちた人の口からはつぶやく言葉が出て来ます。本文には一人のスロ・フェニキヤの女が出ています。イエス様は彼女が言う信仰の言葉を祝福して汚れた霊につかれた娘を癒してくださいました。彼女はユダヤ人が汚れていると思う異邦人であり、悪霊につかれた娘がいるみすぼらしい女性でした。しかし、彼女はイエス様を感動させる信仰を持っていました。今日の御言葉を通して信仰の言葉の重要性について学ぶことができるように祈ります。



24節をご覧ください。イエス様は、そこを出てツロの地方へ行かれました。ツロはカペナウムの西北64キロのところにあるフェニキヤの都市でした。イエス様は異邦人の領土に行かれました。イエス様は家にはいられたとき、だれにも知られたくないと思われました。イエス様はガリラヤ地方の伝導を終えて十字架を負う準備をし、さびしいところで弟子達とともにする時間を持ちたいと思われたでしょう。しかしイエス様に対する噂が異邦人の地にも広がっていたので隠れていることはできませんでした。

25、26節をご覧ください。汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエス様のことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏しました。この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれでした。そして、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエス様に願い続けました。スロは今のシリアであり、フェニキヤは今のレバノンです。特にフェニキヤの人々はユダヤ人に対して敵対していました。そのような彼女がユダヤ人であるイエス様の足元にひれ伏してお願いすることはやさしいことではありませんでした。しかし、彼女はどうしてでも娘から悪霊を追い出していただきたいと思い、イエス様に切実に祈りました。汚れた霊につかれた小さい娘のいる彼女の心はどうだったのでしょうか。私には息子一人と娘一人がいますが、息子よりは娘のほうがかわいいと思う時が多くあります。スロ・フェニキヤの女も自分の娘が非常にかわいいと思っていたでしょう。それできれいな服も買って着せたと思います。ところが、こんなにかわいい娘が汚れた霊につかれてしまいました。親は子供が病気にかかるだけでも苦しくなります。それなのに子供が悪霊につかれて発作を起こしたり、叫んだりするとどれほど苦しかったのでしょう。娘を治してもらうために有名な医者がいると聞いたらすぐに走って行ったでしょう。また、良い薬があると聞いたら何とかして買って飲ませて見たでしょう。ところが、あらゆる努力にもかかわらず娘は直りませんでした。彼女は絶望するしかありませんでした。彼女は娘が悪霊につかれていたために悲しい日々を過ごしていたでしょう。

 スロ・フェニキヤの女は娘のことで苦しんでいるうちにイエス様に対する噂を聞きました。イエス様はらい病人をきよめられ、中風の人を癒し、汚れた霊を追い出し、ヤイロの娘を生き返らせたという噂でした。また、イエス様は取税人や罪人を受け入れてくださるという噂も聞きました。彼女はそのような噂を聞いた時、絶望の中から希望の光を見ました。イエス様に出て行けば、自分の娘も癒されるという信仰を持つようになりました。彼女はイエス様の足元にひれ伏してお願いしました。「私の娘から汚れた霊を追い出してください。お願いします。」彼女は切なる心を持ってイエス様にお願いしました。そのような彼女の心は人の心を動かすのに十分です。誰でも彼女のように涙を流しながらお願いすることは拒まれないでしょう。ところが、イエス様は女の願いを聞いて何と言われましたか。

27節をご覧ください。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」この言葉は彼女にとってとても衝撃的なことばでした。ここで「子供達」は選民イスラエル、「小犬」は異邦人を指しています。犬というのは今日のように本当に愛される番犬ではありませんでした。通常、犬は不名誉の象徴でした。ギリシヤ人にとって、犬という言葉は恥知らずの、ずうずうしい女を意味しました。ユダヤ人にとっても、それは同様に軽蔑的な言葉でした。犬という言葉は、事実上時々、異邦人を軽蔑するユダヤ人の言葉でした。今までイエス様はご自分のところに来る人々をみな喜んで迎えてくださいました。ところがイエス様は彼女に侮辱的なことばを言いました。「あなたは選民ではないので恵みを施すことができない。」と言われました。イエス様はまるで人種差別をしているように思われます。本当にこの言葉はイエス様らしくない言葉です。いくら異邦人の女だとしても多くの人々の前で犬扱いされることは耐えにくいことです。男の人に絶対言ってはいけない言葉があります。それは「あなたは無能です。」という言葉です。また、女に絶対に言ってはいけない言葉があります。それは自尊心を傷つける言葉です。女の人はほめられることを好みます。特に男の人から「あなたはきれいですね。」と言われることが好きです。ところが、もし女の人に「あなたは犬だ。」と言うとどうなるでしょうか。後が怖いです。その人は必ず恐ろしい仕返しを受けるでしょう。人は助けを求めに行ったのに人々の前で無視される時、耐えられません。特に、イエス様からこのように無視されることは耐えにくいことです。私たちは人々からいくら無視されても耐えられるのは、イエス様は私たちを理解し、受け入れてくださるからです。ところが、イエス様さえ私たちを無視すると思ったら、私たちはどこに行けばいいでしょうか。スロ・フェニキヤの女はイエス様の言葉を聞いて自尊心が傷つけられ、自分もイエス様に仕返しをしやすいでした。あるいは悲しくなり、涙を流すしかありませんでした。

それではイエス様はなぜ彼女にこのように言われたのでしょうか。それは彼女をつまずかせるためではありませんでした。イエス様は彼女が祝福を受けるほどの信仰を持っているのかを試されました。神様がアブラハムにイサクを捧げるように試されたのは、彼をもっと大きく祝福してくださるためでした。

イエス様の言葉に対して女は何と答えましたか。28節をご覧ください。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」イエス様は予想以外の言葉を言われましたが、彼女も予想以外の言葉を言いました。実に彼女の答えは見事な答えでした。彼女の答えは知恵に富んだ答えでした。彼女はイエス様の御言葉を絶対的に正しいと認めました。少しも反発しませんでした。彼女はイエス様の御言葉どおりに自分が犬のようなみすぼらしい存在であると認めました。恵みを受けるに価しない存在であることを認めました。イエス様の言葉が自尊心を傷つける言葉だったにもかかわらず「アーメン。」と答えました。どうやって彼女はこのように答えることができたのでしょうか。

第一に、娘に対する切なる愛があったからです。母が娘を愛することは当たり前のように思われます。しかし、いくら娘だとしても汚れた霊につかれた娘を愛することはやさしいことではありません。彼女が汚れた霊につかれた娘を愛することは犠牲的な愛でした。その愛は罪によって苦しみ、悪霊につかれて苦しむ人々を救うために一人子を惜しまずお与えになった神様の愛です。その愛によって私たちは救われました。女は娘に対する切なる愛のゆえにどんな恥も侮辱も耐えることができました。私たちにもサタンの奴隷となって苦しんでいる羊達に対する切なる愛がある時、どんな痛みや犠牲にもかかわらず、主に祈り続けることができます。

第二に、女の人はイエス様の御言葉を通して神様の絶対的な主権と自分自身を知ることができたからです。私たちが神様の主権を認めなければ高慢になり、神様に反発し、神様に逆らうようになります。また、自分が神様の御前にどれほど惨めな罪人であるかを知らない時、神様のあわれみを受けることができません。彼女は自分が犬のように惨めな者であり、神様の恵みを受ける資格のない者であることがわかりました。しかし、彼女は子供達のパンくずのような恵みでもいただきたいと願いました。今の犬はかなり贅沢な生活をしています。朝戸山公園で見ると多くの人々が犬を連れて散歩しています。主人は犬の糞も片づけてくれるし、お尻もきれいにふいてくれます。毛が伸びたら犬の美容室へ連れて行きます。食べ物も店で買って食べさせます。しかし、昔の犬はそうではありませんでした。犬には人々が食べて残したものを与えました。犬は主人が食事をしているところに来て主人が投げてくれるくずでも食べようと一生懸命にしっぽを振り回しました。目は主人の手に従って上がったり下がったりしました。その姿は非常に切なる姿です。「あっちに行け。」と追い出しても再び戻って来てパンくずを投げてくれるのを待っていました。すると、主人は哀れむ心を持って一つのパンくずを投げてやります。このような切なる心を持って女はイエス様に恵みと哀れみを求めました。彼女のように謙遜に主の恵みを求めると多くの祝福を受けることができるのにネズミのしっぽのような自尊心のために恵みの世界、信仰の世界に入ることができない人々が多くいます。?列王5章を見ると、らい病にかかったナアマン将軍とエリシャの話が出ています。アラムの王の将軍ナアマンは、その王に重んじられ、尊敬されていました。彼は勇士でしたが、残念ながららい病にかかっていました。彼はらい病を直してもらうためにエリシャのところに来ました。ところが、エリシャは出て来ないで彼に使いをやって、言いました。「ヨルダン川へ行って七たび身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」それを聞いたナアマンは自尊心が傷つけられ、怒って自分の国にもどろうとしました。しかし、彼のしもべたちの話を聞いて自尊心を捨ててエリシャが言ったどおりに従いました。すると彼はらい病がいやされる恵みを受けました。

 過去私たちは異邦人として神様を知らず、肉の欲望に従って生きていた結果、滅びるしかない人々でした。私たちはみなどん欲、情欲、偽り、偶像崇拝などの罪を犯す惨めな存在でした。しかし、イエス様の十字架の血による一方的な恵みによって救われました。私たちがそれを覚える時、自尊心を捨てて謙遜に神様の恵みを求めることができます。ダビデは統一イスラエル王国の王となりましたが、いつも神様の恵みを覚えて神様の御前に謙遜でした。彼は次のように言いました。「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。」(?サムエル7:18)。使徒パウロも過去自分がどれほど惨めな罪人であったのかをよく知っていたので、他の人たちよりも多く働きましたが、「神の恵みによって、私は今の私になりました。」と言いました。

 第三に、イエス様に対する信仰がありました。彼女が侮辱的なイエス様の言葉にも揺れることなく恵みを求めたのはイエス様に対する深い信頼があったからです。もし少しでもイエス様の愛を疑ったならイエス様の言葉を聞いて心が傷つけられ、深い絶望に陥ってしまったでしょう。しかし、彼女はイエス様の愛を疑わず、絶対的に信頼したのでどんなことを言われても「アーメン。」と答えることができました。そして、あきらめず恵みと哀れみを求めることができました。私たちが人生の勝利者となれる秘訣はどんな状況の中でもイエス様の愛を信じることです。信仰はどんな場合でも神様を全幅的に信頼し、その愛を疑わないことです。アブラハムはこの信仰によってイサクを主に捧げました。使徒パウロは福音を宣べ伝える時に多くの誤解と迫害を受けました。しかし、そんな中でも彼は少しも弱くなったり、挫けたりしないで勝利の賛美を歌いました。彼はローマ人への手紙8章で次のように言いました。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ8:35,37)。私たちがどんな状況の中でも神様を全幅的に信頼し、神様の愛を疑わない時、勝利の人生を送ることができます。また、神様の栄光を現わすことができます。

 29節をご覧ください。そこでイエス様は言われました。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」イエス様は彼女の信仰に非常に感動されて彼女の信仰を祝福してくださいました。「そうまで言うのですか。」その言葉は神様の主権と犬のような惨めな罪人としての自分を認める信仰の言葉でした。その言葉はすべての不信仰と疑いを乗り越える信仰のことばでした。その言葉は感情に勝ち、自分自身に勝った言葉でした。その言葉は謙遜に恵みと哀れみを求める知恵あることばでした。その言葉は落胆せず、忍耐を持って主に祈る言葉でした。その言葉は娘のためならどんな犠牲でも払う愛の言葉でした。私たちが主の恵みをいただくためには信仰の言葉を言うべきです。神様は信仰の言葉を喜ばれ、その言葉どおりに祝福してくださいます。信仰の言葉を言うためには信仰がなければなりません。民数記14章を見ると、カナンの地を偵察して来た10人の族長達が不信仰の言葉を言いました。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」彼らはカナンの人々に比べると自分たちはいなごのように見えたと言いました。彼らの不信仰の言葉を聞いた民は大声を上げて叫び、泣きました。彼らの不信仰の言葉は民に悪い影響を及ぼしました。その結果、彼らは約束に地に入ることができず、40年間荒野をさまよって死にました。しかし、ヨシュアとカレブだけは同じ状況を見て来ましたが、信仰の言葉を言いました。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」(13:30)。彼らは彼らの言葉どおりに約束の地に入ることができました。神様は私たちの言葉どおりに行われます。「私はだめだ。ほんとうにだめだ。」と言うとその通りになります。しかし、「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と言うとそのどおりになります。ですから、どんな状況の中でも信仰のことばを言うことが大切です。信仰の言葉は肯定的な言葉です。信仰の人は否定的な言葉を言いません。30節をご覧ください。「女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた。」イエス様は彼女の信仰の言葉どおりに恵みと哀れみを施してくださいました。神様は私達の信仰の言葉を喜ばれ、その信仰の通りに祝福してくださいます。私たちが信仰の言葉と信仰の祈りを捧げる時、神様は私たちの信仰のどおりになさることを信じます。私たちがどんな状況の中でも信仰による言葉を言い、汚れた霊につかれた娘のように罪によって苦しんでいる人々を生かす御業に尊く用いられるように祈ります。

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