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BibleMsg > マルコの福音書 > 2000-9講 御言葉と神の国

2000-9講 御言葉と神の国

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/23 (2712 回閲覧)
御言葉と神の国



御言葉:マルコの福音書4:21?34

要 節:マルコの福音書4:31,32

「それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、

一番小さいのですが、それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、

大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」





 イエス様はマルコの福音書4章で神の国に対して多くのたとえによって話されました。先週学んだ種蒔きのたとえは神の国を所有することができるかどうかの責任は人間にあることを教えています。すなわち、神の国は御言葉を通して成し遂げられますが、実を結べるか結べないかは御言葉にかかっているのはなく、御言葉を聞く人々の心にかかっているということです。今日の御言葉でイエス様は「あかりのたとえ」「育つ種のたとえ」「からし種のたとえ」を言われました。このたとえは御言葉と神の国に関するたとえです。このたとえには御言葉の力と神様の働きが強調されています。すなわち、神の国は光であるから、闇を照らすこと、神の国は命があるから成長すること、また、神の国は大きな影響を及ぼすことを言っています。神の国は私達がいるところに生きて働き、成長し、影響を及ぼしているのです。神の国は御言葉を通して私達の心の中に臨まれます。すなわち、誰でもこの時間心を開いて神様の御言葉を受け入れると神の国を所有することができます。この時間私達の心の中に神の国が臨まれるように祈ります。



?。あかりのたとえ(21ー25)



 第一に、神の国は暗闇を照らします(21ー23)。21節でイエス様は御言葉をあかりにたとえられました。21節をご覧ください。「あかりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。」升は穀物の量をはかる容器です。ユダヤ人は夜になるとあかりをつけましたが、昼になるとそのあかりを升や寝台の下に入れておきました。あかりは神様の御言葉を指します(詩119:105)。人があかりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためではなく、燭台の上に置いて回りを明るくするためです。今日は夜も電気をつけると明るくなります。それで野球やサッカーなどのナイトゲームをするほどです。しかし、私が幼い時の田舎には電気が入って来ませんでした。それで夜になると真っ暗になって一方踏み出すことも難しかった覚えがあります。そのような真っ暗の部屋に今の明るい蛍光燈とは比べられないものでしたが、小さなあかりをつけるだけでも部屋が明るくなってものが見えるようになったことを覚えています。そのあかりの下で勉強をしたり遊んだりしました。

このように神様がいない世界、御言葉がない世界は暗闇の世界です。皆さん暗闇の中にいるとどんな気持ちですか。まず恐れが生じます。息苦しく感じます。少し動くだけでも壁に体をぶつけたり、躓いて倒れたりします。道が見えないのでどこに行けばいいかわかりません。暗闇の中にいる人々は人生の真の意味や目的を知らず、さまよっています。霊的な無知と運命の奴隷になって生きています。御言葉がないので真のビジョンや希望がありません。神様の御言葉がない人や社会は暗闇が支配します。このような彼らには何よりもまことの光が必要です。神様の御言葉が照らされると闇が消え去ります。神様の御言葉は暗闇の中にいる人々を照らすまことの光です。詩篇119:105にはこう書いてあります。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」神様の御言葉は暗闇を照らし、何のために生きるべきか、人々の進むべき道を示してくれます。神様の御言葉は人はどこから来てどこに行く存在であり、人生の目的と望みについて教えてくれます。神様の御言葉は人はどのように生きるのが意味があり、価値があり、生きがいがあり、幸せな人生になれるかを教えてくれます。

 22節をご覧ください。「隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。」イエス様がたとえによって話されたのは、真理を隠すためではなく現わすためです。福音は宝のようなものです。この福音は聞く耳のある者が聞きます。聞く耳のある者はどんな人でしょうか。それは隠れている宝を捜す者のように神様の御言葉を切に求める者です(箴言2:4)。

 それでは御言葉を聞く時、どんな姿勢を持たなければなりませんか。24,25節をご覧ください。「また彼らに言われた。『聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量って上げるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。

持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。』」量って上げるというのは聞いている御言葉によく注意して味わうことです。それはまるで牛が一度飲み込んだ食物をまた口の中へもどして、じっくりかむことのようです。このように私達が御言葉を繰り返して考え、味わう時にさらにその上に増し加えられます。しかし御言葉を黙想しない人は持っているものまでも取り上げられてしまいます。

 使徒の働き17章を見ると、ベレヤの人々は非常に熱心に御言葉を聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べました。そのため、彼らのうちの多くの者が信仰に入りました(使徒17:11,12)。私達が食事の時に良く噛んで食べるとよく味わうことができるし、よく消化されます。同じく私達が偏見を捨てて毎週、あるいは毎日与えられる御言葉をよく考え、味わう時に御言葉の中にある多くの宝を見つけることができます。私達の中には福音書は何度も学んだ方もいます。それですでに知っている言葉だと思って適当に学びやすいです。しかし、このような心を悔い改めて一言一言の御言葉を黙想し、味わうと新しく多くの恵みをいただけます。最近金テモテ宣教師はヨハネの福音書を繰り返して読む中で恵みを受けて久しぶりに聖書を読みながら涙を流したと言いました。世界の一番多くの言葉によって翻訳され、世界のベストセラーである聖書には無尽蔵な宝が隠されています。罪の赦し、知恵と信仰、望みと自由と平和、永遠のいのち、神の国など数々の宝があります。聖書は人生の教科書であり、知恵のかたまりです。聖書は私達が救いに至る知恵を教え、勝利の人生を過ごす知恵を教えてくれます。霊的な願いを持って探せば聖書を通していくらでも人生の知恵が得ることができます。



?。育つ種のたとえ(26ー29)



 第一に、神の国は人が地に御言葉の種を蒔くことから始まります。26節をご覧ください。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、」神の国は人を通して始まり、それも御言葉の種を蒔く人を通して始まります。御言葉を蒔かなければ何も起こりません。哲学や思想や他のものを蒔いても神の国は始まりません。神の国は御言葉の種を蒔くことから始まります。

 ですから神の国を広げるためには御言葉の種を熱心に蒔かなければなりません。新学期だけではなく一年中御言葉の種を蒔かなければなりません。詩編126:5には「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」と言っています。神様の御言葉を宣べ伝える人は神の国を建設する主人公です。1:1聖書勉強は神の国を広げるよい方法です。礼拝のメッセージは多くの人を対象として御言葉の種を蒔くので一人一人を人格的に助けることができません。メッセージを聞きながら知らないことがあっても質問することもできません。しかし、1:1聖書勉強をすると何でも質問することができます。そのように話し合いながら聖書を学ぶと御言葉の種がよく蒔かれます。イエス様はこの世におられる時に絶えず御言葉の種を蒔かれました。また使徒達もイエス様に見習って迫害を受けながらも御言葉を教えることに励みました。パウロはテモテに御言葉を伝えることを厳しく命じました。「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(?テモテ4:1、2)。私達が神の国を建設する主人公であるという自負心を持って御言葉の種を蒔くことができるように祈ります。

 第二に、蒔かれた種は自ら育ちます。27節をご覧ください。「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。」種は小さくてみすぼらしく見えてもその中に生命があるので蒔かれた種は必ず育ちます。それは本当に神秘的なことです。ある遺伝子工学博士がカボチャの種と成分が同じ種を作って本物のカボチャの種と一緒に蒔きました。しかし本物のカボチャの種は芽生え成長しましたが、作ったカボチャの種は腐ってしまったそうです。種には生命があって種を蒔くとどのようにして成長するかわかりませんが、確かなことは必ずそれは成長するということです。

 種にいのちがあって成長することと同じく御言葉の種もいのちがあって蒔くと成長します。私達が熱心に御言葉を宣べ伝えましたが、すぐ実が見えないと無駄な働きをしたのではないかと思いやすいです。しかしそれは決してむだではありません。蒔いた種は私達が知らないうちに段々成長していつかは実を結ぶようになるからです。そして喜びながら刈り取る時がやって来ます。これは神秘的な神様のみわざです。私達は自分が種を蒔いたので自分が人を成長させているように錯覚してはいけません。私達は種がよく成長するように水を注ぎ、環境を備えるだけで、成長においては何の影響も及ぼすことができません。成長させるのは神様です。もし農夫が自分が蒔いた種が本当に育っているかどうか気になるとよく眠れないでしょう。しかし、私達は神様ご自身が育てるという信仰を持つ時、御言葉の種を蒔いて安心して夜は寝て、朝は起きることができます。

 第三に、種は地に蒔かれてから、収穫する時までの過程があります。28、29節をご覧ください。「地は人出によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」種が成長するには過程があります。過程を通らないで種がすぐ実を結ぶことはありません。ですから農夫は種を蒔いてから忍耐を持って収穫の時を待ちます。

 福音のみわざもこれと同じく忍耐が必要です。私達は早く成長しない自分を見て失望する時があります。しかし人が神様の御言葉を聞いたからといってすぐイエス様のように成長するのではありません。イエス様の弟子達も使徒の働きの使徒達になるまでイエス様からの多くの訓練と成長の過程が必要でした。ですから、私達が人々に仕える時、その人を良く知って段階的に必要な御言葉を与え、仕えることが必要です。そのためには信仰による忍耐が必要です。あせたら失敗しやすいです。あせる心は不信から来ます。ローマが一日にならなかったように神の国は一日のうちに成し遂げられるのではありません。

 種が成長するのには過程があるので私達はその過程に合わせて人を養育しなければなりません。一般的に芽生える時は弱いので繊細に助ける必要があります。自分が罪人であることを悟り、悔い改めてイエス様をキリストとして告白するように助けることが必要です。ある程度成長して穂になると今度は病気から守る必要があります。よく誘惑される弱点を克服できるように助けることが必要です。そして実が熟すると、すぐにかまを入れなければなりません。すなわち、この時代に対する問題意識を持って祈り、人々に神様の御言葉を持って仕える霊的な指導者になるように助けることが必要です。かまをいれるのが早すぎたり、遅すぎたりすると収穫の量が減ってしまいます。私達は神様が一人一人にどのように働かれるかを繊細に観察し、それに合わせて面倒を見る必要があります。



?。からし種のたとえ(30ー34)



 イエス様の最後のたとえは神の国の外的な成長について言われたたとえです。30?32節をご覧ください。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」からし種は一点のように小さい種です。ところが、このからし種は成長すれば4?7メートルの大きな木になります。聖書で大きい木は大きな王国を象徴します。陰に空の鳥が巣を作るというのは多くの国や民がキリスト王国の中に入って霊的な安らぎを得、救いを得ることを意味します。

 からし種のたとえは神の国は始めには小さくても後には成長して大きな影響を及ぼすことを教えています。神様のみわざは初めから大きく盛大に始まったのではありません。イエス様は世の救い主ですが、飼葉桶にお生まれになりました。当時の世界を支配していたローマ帝国と比べるとそれはからし種のように小さいものでした。しかしその中には神様のいのちがあって後にはローマ帝国を福音によって征服し、世界を征服するようになりました。イエス様の弟子たちは小さな群れでした。彼らの大部分はガリラヤ田舎出身でした。彼らは自分達がみすぼらしく見えて自分達だけで何ができるかと疑いやすいでした。しかし、12弟子から始まった神の国はどうなりましたか。からし種が大きく成長するように彼らを通して福音はエルサレム、ユダヤとサマリやの全土、および地の果てにまで、宣べ伝えられました。ロシアの人もアメリカの人もアフリカの人もイエス・キリストのところに来て安らぎを得、救いを得るようになりました。

 UBFは現在シカゴで働いている李サムエル宣教師とマザー・ベリー宣教師が韓国の大学生達のために祈ることから始まりました。40年が経った今、神様はこのからし種を成長させてくださり、世界82カ国に1500人以上の宣教師を派遣してくださいました。この国では10年前に李ロイヤル宣教師から始まった御業が今は日本全国に100人を越える宣教師達を派遣してくださいました。2010年までにこの国の100のキャンパスの開拓と1000人の聖書先生が立てられる大きな木として成長できることを信じます。

一人の心に御言葉の種を蒔くことはとても大切なことです。イエス様はサマリヤの一人の女性の変化をご覧になって言われました。「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」(ヨハネ4:35)。そういうわけで1チームの1:1聖書勉強はからし種のようなものです。私達は1:1で聖書を教え、いつこの国が福音化されるだろうかと思うかもしれません。しかしこの1:1聖書勉強による一人の変化を通してこの国が福音化されるビジョンを見ることができます。神様が私達のうちにもからし種を育てておられることを感謝します。

 結論、神様の御言葉は世を照らすあかりです。神様の御言葉は私達の心を照らし、キャンパスを照らし、この国を照らします。また、神様の御言葉にはいのちがあって必ず育ち、実を結びます。からし種のような神の国は大きな木になります。私達が神様の御言葉をよく注意して考え、味わう生活を通して私達の心に、そして、家庭に、キャンパスに神の国が来ますように祈ります。また、熱心にキャンパスの学生達に御言葉の種を蒔き、SBCに150名が参加できるように祈ります。

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