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BibleMsg > マルコの福音書 > 2000-8講 実を結ぶ秘訣

2000-8講 実を結ぶ秘訣

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/23 (2117 回閲覧)
2000年マルコの福音書第8講

実を結ぶ秘訣

 

御言葉:マルコの福音書4:1?20

要 節:マルコの福音書4:20

「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、

三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」

 

マルコの福音書4章には多くのたとえが出ています。主題は神の国です。今日学ぶ御言葉はイエス様が言われた「種を蒔く人のたとえ」です。このたとえには神の国がどのようにして人の心に臨まれるかを教えてくれます。神の国は御言葉を聞いて受け入れることによって臨まれます。今日の御言葉を通して多くの実を結ぶ秘訣について学び、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人となるように祈ります。

 

?.種を蒔く人のたとえ(1-9)

 

1節をご覧ください。「イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。」イエス様は涼しい湖のほとりで御言葉を教え始められました。するとおびただしい数の群衆がみもとに集まりました。岸辺はゆるやかに水ぎわまでくだり、群衆のために自然の観覧席をつくっていました。それは絵のように美しい場面です。

2節をご覧ください。イエス様はたとえによって多くのことを教えられました。たとえの文字通りの意味は、他のものの傍に投げ出されたもののことです。すなわち、たとえは基本的に比較です。たとえは、天的な意味を持つ地上の物語です。たとえというのは、例話とは違います。例話は、そのメッセージを分かりやすくするために、いろんな出来事や話を持って、それを説明するものです。しかし、たとえ話はメッセージそのものです。一般の人にとっては、たとえ話は、難しいのです。世間話としか受け取れないのです。たとえは、人に自分で意味を考えさせます。それは代わって考えてくれません。彼自身に推理させ、彼のために真理を発見させるのです。子供を助けるのに一番まずい方法は、代わってその仕事をしてやることです。それは彼を助けることではありません。彼自身のためになるように必要な助けを与えることは、大いに役立つのです。それが、イエス様が意図しておられたことです。イエス様は人々に考えさせたいと望まれました。彼らに代わって考えるためにではなく、彼ら自身で考えるように励ますために、そうされたのです。

3節をご覧ください。イエス様はたとえを教え始めながら聞く者の注意を向けさせました。「よく聞きなさい。」みことばを聞く姿勢は大切です。同じ場所で同じことを聞いても聞く人の姿勢によって全く違う結果が出ます。学校で勉強がよくできる学生は先生の言うことをよく聞く人です。授業中他のことばかり考えている学生はテストの結果がよくありません。このように神様の御言葉もよく聞く人が悟ることができます。パリサイ人のようにかたくなな心を持って聞くと何の感動も御言葉の働きも体験できません。居眠りしながら聞く人も聞いていることがよくわかりません。イエス様は9節でも「聞く耳のある者は聞きなさい。」と言われました。人には耳が二つありますが、聞く耳と聞けない耳があります。私は昨日病院で聴覚検査をしました。私は二つの耳が全く同じく聞こえていると思っていましたが、実際に検査してみると、右の耳が左の耳よりよく聞こえないことがわかりました。同じ耳でもこのように差があったのです。霊的な世界も同じです。御言葉を聞く耳がある人は恵みを受けます。神の国の宝を見つけることができます。しかし、聞く耳がない人は同じことを聞いても何もわかりません。

信仰は聞くことから始まります。罪の赦しや永遠のいのちや神の国も御言葉を聞くことから始まります。真の平安も真の喜びも御言葉を聞くことから始まります。神様の御言葉をよく聞く人がよい牧者になることができます。神様の御言葉をよく聞くことが人生の成功の道です。ですから、私達にとって神様の御言葉をよく聞くことは大切なことです。

それではイエス様の種を蒔く人のたとえに耳を傾けて見ましょう。3b?8節をご覧ください。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」ある暖かい春、種を蒔く人が種蒔きに出かけました。蒔いているとき、種が道端に落ちました。パレスチナの畑は長い細い土地で、細い草の道で分かたれていました。これらの小道は誰でも通れる道でした。その結果、利用する人々の足で舗装道路のように堅く踏み固められていました。種まきが種を蒔く時、いくらかはそこに落ちるでしょう。しかしそこでは、種は成長しません。すると、鳥が来て食べてしまいました。また、別の種が土の薄い岩地に落ちました。岩地に落ちた種は問題なく芽を出したが、土が浅いので養分と水分とをたくわえることができず、太陽の熱が、芽を出した種をすぐに枯らしてしまいます。また、別の種がいばらの中に落ちました。パレスチナの農夫は怠け者で、根のあるいばらの上の部分だけを切り取りました。地上の部分だけを燃やしてしまうことさえありました。そうすると畑はきれいに見えると思いますが、地面の下にはまだ根が残っています。そして、時が来ると再びいばらが成長します。いばらの成長はとても早く、生命力が強いです。それで種は栄養分をいばらに奪われてしまいました。また、別の種が良い地に落ちました。すると芽生え、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になりました。このように種が実を結ぶためにはどんな地に落ちるかが大切なことです。

 

?.たとえの意味(10-22)

 

10節をご覧ください。「さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。」ほとんどの人々はイエス様が自分達もよく知っていることを言われると思いながら家に帰りました。農夫達は大工出身のイエス様よりは自分達のほうがよく知っていると言いながら帰りました。イエス様が病人を癒す奇跡を見せてくれることを期待して来た人々は失望して帰りました。ところが、イエス様が話されたたとえ話の意味を知りたくて残った小人数がいました。彼らは授業が終わって質問するために先生を待っている学生達のようでした。彼らは謙遜な人々でした。彼らは平凡な種を蒔く人のたとえの中に隠されている奥義があると思いました。11、12節をご覧ください。そこで、イエス様は言われました。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。」「奥義」は大切なことです。隠れているものです。神の国は隠れている宝のようなものです。この神の国は神のことばを慕い求める人が所有することができます。聞く耳を持つ者には、よくわかります。聖霊をいただいている私達クリスチャンには、たとえ話はよくわかるのです。神のことばを通して自分が罪人であることを悟り、悔い改めて赦していただけます。新しい人生を送るようになります。ほかの人達とは群衆です。非常に反抗的な群衆です。霊的なことに無関心な人です。高慢な人です。パリサイ人、律法学者達のような人々です。このような人々は神の国を所有することができません。見るには見るが分からず、聞くには聞くが悟りません。罪の赦しがありません。悪い心を持つ人達に、神の国の奥義を知らせることは、神に喜ばれることではありません。マタイ7:6節には「聖なるものを犬に投げ与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」と記されています。

また、イエス様は言われました。13、14節をご覧ください。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。種蒔く人は、みことばを蒔くのです。」種を蒔く人のたとえがすべてのたとえの基礎となります。なぜでしょうか。神の国は御言葉の種を蒔くことから始まるからです。種は小さくみすぼらしく見えます。しかし、その中に命があるように神様の御言葉の中にはいのちがあります。イエス様は種が蒔かれた四つの地についてどのように説明してくださいますか。

第一に、道端のような心畑

15節をご覧ください。「みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです・・みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。」道端のような心畑に蒔かれた御言葉の種はすぐサタンが来て、持ち去ってしまいます。このような人はどんな人でしょうか。御言葉を聞いても一言も受け入れない人です。キリスト教に無関心だからです。イエス様の御言葉が自分の人生には関係がないし、それがなくても十分やって行けると考えている人です。心が道端のようにかたくなになっている人です。哲学や思想によって、排斥する人です。サタンはこのような人の心に蒔かれた御言葉をすぐ持ち去ってしまいます。

第二に、岩地のような心畑

16,17節をご覧ください。「同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです・・みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」岩地のような心畑の良い点は御言葉を聞くと、すぐに喜んで受けることです。それで良い地のように見えます。しかし、弱点は心の中に岩があるので御言葉が根を張ることができないことです。それで、御言葉のために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。御言葉を守り、神様に従おうとするとこのような困難や迫害があります。友達からばかにされます。今までの自分のスケジュールが合わなくなります。親が迫害します。これらのものは信仰生活に役に立つ物です。神の国に望みを持つようにします。大きく成長するようにします。問題は根があるか、どうかです。根がないと成長できず、つまずいてしまいます。

それでは根とは何でしょうか。創造主である神様を信じる信仰とイエス様の十字架と復活の福音を信じる信仰です。福音を信じて罪の赦しと救いを受けた体験、あるいは救いの体験です。私達は兄弟姉妹達がまじめに聖書勉強をしていると、よく成長していると誤解しやすいです。しかし、いくら多くの聖書勉強をしても根を張らなければ御言葉のために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。イエス様は困難や迫害を太陽にたとえられました。太陽は炭素同化作用を起こし、植物に養分を供給して丈夫に育つようにします。実を結ぶようにします。太陽に多く照らされた果物が色も味もいいです。ですから植物の成長と実を結ぶことにおいてこの太陽は絶対に必要です。同じく困難や迫害は私達の信仰の成長と実を結ぶのに必要なものです。困難によって信仰は金のように練られ、迫害によって心が強くなります。器が大きくなり、人格が変わります。ですから、困難や迫害の時、悔い改めることによって心の中にある岩を取り除き、御言葉に根を張ることが大切なことです。不信仰の岩、情欲の岩、自尊心の岩などを取り除き、根を張るためには御言葉の黙想、祈り、所感を書くこと、実生活の中での御言葉への従順などが効果があります。

第三に、いばらのような心畑

18、19節をご覧ください。「もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。・・みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。」この人は御言葉を謙遜に受けて根を張り、成長します。信仰生活も熱心にします。自分の十字架を負い、困難や迫害にもよく堪え忍びます。ところが、実を結ぶことができません。それは世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、御言葉をふさぐからです。「世の心づかい」には何を食べるか、何を着るか、何を飲むかなどの心配があります。将来に対する心配、結婚に対する心配があります。弟子養成に対する心配があります。このような心配の共通点はまだ起こってないことに対してすることです。ある心理学者は人々の心配に対して分析しました。すると、そのすべての心配の50%は全然起こらないことであり、残り50%の中で40%は起こるかどうか自分もわからないことであり、残り10%の中で9%は必ず起こるとは言えないことであり、残り1%は不透明な可能性であることがわかりました。イエス様は心配する弟子達に言われました。「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」(マタイ6:31,32)。すべての心配の原因は不信仰です。ですから、私達のうちに心配が生じると不信仰を悔い改めて私達の父なる神様を信じなければなりません。「富の惑わし」は欲のため生じます。人々は富があれば幸せになれると思います。このような富の惑わしのいばらを取り除かないと実を結ぶことができません。ですから、私達は富が与えられるといのちを生かすところに、価値あるところに使うべきです。私達は富の管理者です。富は神様が祝福として与えて下さったものです。この富が惑わしにならないように祈らなければなりません。「欲望」は様々ないばらがあります。その中で成長が早いのが情欲のいばらです。特に青年にとって情欲のいばらは実を結ぶのに致命傷を与えます。また、快楽のいばら、安逸を愛するいばらもあります。このようないばらが成長すると実を結ぶことができません。

第四に、良い地のような心畑

20節をご覧ください。「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」良い地のような心畑は切なる心を持って御言葉聞いて受け入れます。このような人は水路の傍に植わった木のようによく成長し、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶようになります。神様が私達を御自分のかたちに似せて造られたのは実を結ばせるためです。私達が実を結ぶ時、神様は喜ばれます。また、私達も真に幸せな人生となります。それではその実とは何でしょうか。それには神の国の実、聖霊の実、伝導の実があります。聖霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制があります(ガラ5:22,23)。私達が実を結ぶためにはまず、御言葉を聞かなければなりません。聞こうとしなければ聞くことはできません。多くの人々は話すのに非常に忙しく、聞く暇がありません。議論に熱中しているので聞く暇がありません。自分の意見や自分の見解をおし進めているので、キリストの見解について聞く暇がありません。それから私達は、御言葉を受け入れなければなりません。受け入れることは御言葉に従うことです。それによって、人格が変わり、聖なるものになります。

結論、神様は私達に命の御言葉を与えてくださいました。私達は自分の心畑を良い地に耕し、神様の御言葉を聞いて受け入れ豊かな実を結ぶことができるように祈ります。私達の心に神の国が臨まれ、聖霊の実を結び、伝導の実を結ぶことができるように祈ります。神様は私達が豊かな実を結ぶことができるようにすべての環境を備えてくださいました。実を結ばないのは環境に問題があるのではなく、御言葉を聞く姿勢にかかっています。道端、岩地、いばらの地も良い地になることができます。私達が実を結べないようにする原因を取り除き、良い地になることができるように祈ります。

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