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BibleMsg > マルコの福音書 > 2000-3講 わたしは、そのために出て来たのだから。

2000-3講 わたしは、そのために出て来たのだから。

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/23 (2029 回閲覧)
2000年マルコの福音書第3講

わたしは、そのために出て来たのだから

 

御言葉:マルコの福音書1:29?45

要 節:マルコの福音書1:38

「イエスは彼らに言われた。『さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。

わたしは、そのために出て来たのだから。』」

 

私たちは第2講のメッセージを通して、イエス様がガリラヤの漁師達を、人間を取る漁師として召して下さったことを学びました。今日の御言葉では使命人イエス様について学ぶことができます。イエス様は何のためにこの世に来られたかをよく知っておられました。ですから、人々の要求やご自分の都合に左右されることなくはっきりとした方向を持って使命を担うことができました。人がこの世に生まれて後悔をせずにまっすぐ自分の道を貫き通すなら、その人は幸いな人と言えるでしょう。しかし、多くの人々は朝から晩まで忙しい生活をしていますが、自分が何のために生きるべきなのか、はっきりとした目的なしに生きています。私たちが今日の御言葉を通して何のために生きるべきなのかを学び、自分の使命をよく担うことができるように祈ります。

 

?.使命人イエス様(29-39)

 

 29節をご覧ください。イエス様は会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家に入られました。ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエス様に知らせました。彼女は熱が39度、40度まで上がって寝込んでいたでしょう。当時は解熱剤もなかったので、彼女はずっと苦しんでいたと思います。イエス様は、彼女に近寄り、その手を取って起こされました。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなしました。

 32、33節をご覧ください。夕方になりました。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエス様のもとに連れて来ました。こうして町中の者が戸口に集まって来ました。シモンの家はまるで総合病院のようになりました。この世には様々な病気があります。胃かいよう、高血圧、糖尿病、蓄膿症、結核、肩こり、癌、風邪、アレルギー、エイズ、花粉症、痴呆症、ぜん息、脳こうそくなど様々です。特に現代人は精神的な病気に苦しんでいます。激しい競争から来るノイローゼ、ストレス、強迫観念などにさいなまれています。急速に変化する社会に適応できず、憂鬱病、神経衰弱、精神分裂などの患者が増えています。それだけではなく魂の病気もあります。神様の存在を否認する不信病、神様の愛を疑う疑い病、神様と同じ存在になろうとする高慢病などがあります。ところが、この病気は肉体の病気とは違って苦しみを感じないのでおろそかにしやすいです。しかし、これこそ一番恐ろしい病気です。この病気は罪から来るものです。

 それではどのようにすればこのような病気を癒してもらうことができるのでしょうか。34節をご覧ください。「イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。」イエス様はさまざまの病気にかかって苦しんでいる多くの人々を治してくださいました。病気は人々に苦しみを与えます。風邪をひいただけでも人は苦しみます。熱があり、頭が痛くなります。せきが出て夜なかなか眠れません。腰のヘルニアにかかっている人は歩く時さえ痛みを感じます。このように病気にかかると苦しいので人々は何とかして病気を治そうとします。それで病院にはいつも多くの患者で溢れています。イエス様は人々をこのような苦しみから解放してくださる癒し主です。

 イエス様はからだの苦しみだけではなく心や魂の苦しみも癒してくださる方です。人々には自分のとがと罪と過ちによる苦しみがあります。自分の過ちによって他人に被害を与えた時にはほんとうに心が痛くなります。過去にもどることができるなら、もどって行ってその過ちを正したいと思うほどです。しかしそれができないので長い間苦しみを抱いている人もいます。家庭の不和から来る苦しみ、人との葛藤から来る苦しみも耐えにくいものです。愛する兄弟から裏切られる苦しみもあります。癒し主イエス様はこのようなすべての苦しみから解放してくださいます。マタイの福音書8:17には「彼は私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」とあります。イエス様は苦しみを持っている人が助けを求めて御前に出て行く時、その人を苦しみから解放してくださる方です。イエス様が十字架につけられ流された血はさまざまな病気を直す力があります。このイエス様が私たちの病んでいる体と心と魂を癒してくださるように祈ります。

 イエス様は朝から晩まで休まず働かれました。会堂に入って人々に御言葉を教えられました。シモンの家を訪問し、様々の病人を癒してくださいました。このように一日中働くと疲れ果てて翌朝早く起きるのはやさしいことではありません。しかし、イエス様はどうでしたか。35節をご覧ください。「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」イエス様はそれほど一日中働かれたのにも関らず、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられました。なぜイエス様はそれほどまでに祈られたのでしょうか。イエス様は、祈りなくしては生きられないことを知っておられました。イエス様は人々に仕えるためには、祈らなければならないことを知っておられました。イエス様は人々を助けるためには、まず自分が神様と出会わなければならないことを知っておられました。もし祈りがイエス様にとって必要なら、私達にとってもどれほど必要なことでしょうか。多くの人々は忙しくて祈る時間がないと思います。あるいは疲れているので祈れないと思います。確かに疲れている体を朝早く起こして祈るためには肉の本性と戦わなければなりません。サタンは私達が祈らないように妨害します。私は朝五時半に目覚まし時計が鳴ると起きますが、起きてからもしばらく座ったまま眠っている時が多くあります。特に疲れている時には心の中で戦いが始まります。「行くか、もっと寝るか」しかし、この戦いで勝ってセンターに来て祈ると恵みを受けます。クリスチャンは祈りなくしては生きられない存在です。それで祈りは霊的な呼吸と言われています。呼吸しないとすぐ苦しくなります。同じように祈らなければ霊的に苦しくなります。呼吸が止まると死んでしまいます。同じように祈りが止まれば霊的に死んでしまいます。私達が朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、祈っておられたイエス様に見習い、夜明けの祈りを捧げる生活ができるように祈ります。私たちが夜明けの祈りを続けて捧げる時、使命と学問の十字架も担うことができます。神様に尊く用いられた偉大な主のしもべ達はみな夜明けの祈りのしもべ達でした。ダビデは夜明け前に起きて神様に叫び求めました(詩119:147)。マルチン・ルターも宗教改革をしようとした時、毎日夜明けに起きて2時間切に祈りました。夜明けの祈りは個人の信仰成長の秘訣であり、祝福を受ける秘訣です。さらに教会成長の秘訣です。韓国の教会が大きくリバイバルした秘訣の中のひとつは夜明けの祈りだと言われています。

 イエス様が祈っておられる時シモンとその仲間は、イエス様を追って来て、彼を見つけ、「みんながあなたを捜しております。」と言いました。シモンとその仲間達は朝から人々がイエス様のところに集まって来るほどイエス様の人気が上がっていることで興奮していました。ところがイエス様は彼らに何と言われましたか。38節をご覧ください。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」こうしてイエス様は、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出されました。このイエス様から私たちは三つのことを学んでみたいと思います。

 第一に、イエス様がこの世に来られた目的です。イエス様はご自分がこの世に来られた目的が福音を知らせることであると言われました。イエス様は今までさまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出されました。人々はイエス様がこのような現実的な問題を解決してくださることを願いました。しかしイエス様の働きの中心は病気を直すことではありませんでした。イエス様の働きの中心は福音を知らせることでした。人は悔い改めて福音を信じる時、神の国を所有することができます。永遠のいのちを得ることができます。現実の問題を解決してあげることは一時的なもので完全な助けとは言えません。しかし福音を宣べ伝えることは本質的で根本的な助けになります。イエス様がこの世に来られた目的は福音を知らせることによって全世界の人々を救うことでした。ですから福音を知らせることこそすべての人々の問題を本質的に、そして根本的に解決してあげることです。体の病気で苦しんでいる人も哀れな者ですが、救いの道を知らず、罪の中でその魂が苦しんでいる人はもっと哀れな者です。イエス様は福音を知らず、聞くこともできず、死んで行く人々を考えると一ヶ所に留まって人気を受けているわけにはいきませんでした。それでイエス様は言われました。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」

 第二に、イエス様のビジョンです。イエス様は福音を知らせるために近くの別の村里へ行こうとされました。ここで近くの別の村里はどんな所でしょうか。そこはイエス・キリストの福音が宣べ伝えられてないところであり、福音を必要とする人々がいるところです。このようなところに行って福音を知らせなければなりません。行って福音を知らせる時、救いの御業が起こります。イエス様はガリラヤ全域に行って福音を知らせることによってガリラヤが福音化されることを願われました。イエス様はイスラエルの全域に行って福音を知らせることによってイスラエルが福音化されることを願われました。さらにイエス様は全世界に福音を知らせることによって全世界が福音化されることを願われました。そのためにイエス様は弟子達を養い、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)と言われました。イエス様はすべての人々が福音を聞いて救われることを願われました。この国には福音を聞いたこともない多くの人々があります。この国の中小都市の70%に教会がないと言われています。大学生達に「聖書を読んだことがありますか。」と聞くと、ほとんどの学生達は読んだことがないと答えます。多くの人々が生涯一回も福音を聞くこともできず、死んで行くのです。誰かが彼らに福音を知らせなければなりません。神様は私たちにこの国の人々に福音を知らせる使命を与えてくださいました。特に私たちの近い別の村里はキャンパスです。早稲田大学、東京大学がそれです。また、560キャンパスがあります。神様が2010年までこの国の100キャンパスを開拓させてくださるように祈ります。また、福音を知らせる1000人の聖書先生を立ててくださるように祈ります。

 第三に、イエス様は福音を知らせる使命に忠実でした。多くの人々が病気を癒してもらうために来ました。人々の要求に従うとイエス様は人気者となり、世界的に有名な医者になることができます。しかし、イエス様はご自分がするべきことは福音を知らせることであることをはっきりと知っておられました。イエス様の一番の関心は人々のたましいの救いにありました。イエス様は最後まで忠実にこの道を歩まれました。なぜなら、これこそイエス様が神様からいただいた使命の道であり、死んで行く人を生かす道だからです。イエス様は福音を知らせる使命を最後まで果たされた一番偉大な使命人でした。私達が使命に忠実なイエス様を学び、福音を宣べ伝える使命を忠実に果たすことができるように祈ります。

 

?.癒し主イエス様(40-45)

 

40節をご覧下さい。「さて、ひとりのらい病人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。『お心一つで、私はきよくしていただけます。』」このらい病人はルカの福音書5:12を見ると全身らい病の人でした。らい病にかかると皮膚は腐ってしまい、鼻が取れたり、手の指や足の指も取れたりします。眉毛もなくなり、目も見えなくなります。何よりも恐ろしいのは、神経が麻痺するので、冷たい物、熱い物を区別できないほど無感覚になります。また潜伏期間が長いので早期発見が難しいです。

 また、らい病人には精神的な苦しみがあります。らい病は患部の接触によって生じる病気なのでらい病人は隔離収容されます。当時律法によると、この病気は汚れた病気でした。その病気にかかった人は唇の上までおおって、歩くときには、「汚れた者、汚れた者」と叫び声をあげて、自分が汚れた存在であることを人々に知らせなければなりませんでした。それで人々はらい病人が近づくと石を投げて追い出しました。当時らい病は神様から呪われた病気だと考えられていました。ですから、彼は自分の人生を呪いながらこの世を呪いながら生きていたでしょう。らい病人は、ただ単にその病気の身体的な苦痛に耐えるだけでなく、人間の社会から追放され、生きていながらも、死んだ者のように取り扱われる、精神的な苦痛にも耐えなければなりませんでした。

人間の罪はその性質がらい病と似ています。初めに罪を犯す時には苦しみがありますが、それを繰り返すうちに良心が麻痺されて段々無感覚になります。罪は他の人に伝染されます。罪は人を醜くします。罪は人を死と滅びに導きます。罪は世の何によってもきよめることができない不治の病です。罪は神様との関係性を断絶させます。それはいのちの根源が断ち切られることだからその自体が死を意味します。まるで花瓶の花のようになります。また、罪は人間相互間の関係性も破壊させます。

それではイエス様はどのようにしてらい病人をきよめてくださいましたか。41,42節をご覧下さい。イエス様は深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われました。「わたしの心だ。きよくなれ。」すると、すぐに、そのらい病が消えて、その人はきよくなりました。イエス様はらい病人が近づいて来た時、「それ以上近づいてはいけない。」と言われませんでした。イエス様は彼を深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわってくださいました。イエス様は心から彼を迎え入れてくださいました。誰も彼に触ろうとしませんでした。近づくことさえも許しませんでした。しかし、イエス様は彼の醜くなった体に触ってくださいました。それは愛がなければ不可能なことです。当時らい病人にさわることは律法によって禁じられていることでした。しかし、イエス様の愛は律法を越えました。イエス様は彼の体の苦しみ、精神的な苦しみに触ってくださいました。

そして、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われました。イエス様は彼が直してもらいたいと思う心以上に彼をきよくしてあげることを願われました。彼はからだがきよくなることだけを願いましたが、イエス様は彼がからだだけではなく心や魂もきよくなることを願われました。イエス様はどんなにひどい罪人でも信仰によって出て来るとあるがまま迎え入れてくださいます。まるで放蕩息子を迎え入れてくれた父親のようです。

イエス様は罪によって醜くなった人がきよめられ、神様のかたちを回復することを切に願われます。そのためにイエス様は十字架につけられ尊い御血を流されました。キリストの血はどんな罪人も救い、新しく生まれさせる力があります。もし、私達が自分の罪を言い表すなら、主はその罪を赦し、すべての悪から私達をきよめてくださいます(?ヨハネ1:9)。たとい、私達の罪が緋のように赤くても、雪のように白くしてくださいます。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようにしてくださいます(イザヤ1:18)。このイエス様によってきよめられるとらい病人のような人が丈夫な人になります。それは恵みであり、祝福です。

43,44節をご覧下さい。そこでイエス様は、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせました。そのとき彼にこう言われました。「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物をしなさい。」イエス様はこれから多くのところへ行かれ、福音を知らせなければならないので、らい病人がきよめられたことが知らされるのを願われませんでした。また、宗教指導者たちと衝突することを願われませんでした。それでらい病からきよめられた人をきびしく戒めたのです。ただ行って、正常な社会生活ができるように祭司に見せてモーセが命じたものをささげ、健康診断書をもらうようにしました。ところが、彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めました。そのためイエス様は表立って町の中にはいることができず、町はずれの寂しい所におられました。

 結論、イエス様は「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」と言われました。私達もこのイエス様を学び、キャンパスの学生達に福音を知らせることができるように祈ります。毎日夜明けに起きて祈られたイエス様のように祈る生活を通して福音を知らせる力と知恵を得ることが出来るように祈ります。

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