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BibleMsg > マタイの福音書 > 06Mat02 悔い改めにふさわしい生活とは

06Mat02 悔い改めにふさわしい生活とは

投稿者: Calebkim 掲載日: 2006/5/7 (3214 回閲覧)
2006年マタイの福音書第2講

悔い改めにふさわしい生活とは

御言葉:マタイの福音書3:1?17
要 節:マタイの福音書3:2「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

先週、私たちは最も大切なこととして死人の中からよみがえられたイエス様について学びました。イエス様は、「肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです(ローマ1:3b、4)。」
今日は、イエス様がキリストとして先駆者バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたことについて学びます。イエス様はバプテスマを受けることによってキリストとしての公生涯を開始されました。ここで、私たちはバプテスマのヨハネのメッセージと生活、すべての正しいことを実行されるイエス様について学ぶことができます。どうか、この時間、私たちもヨハネのメッセージを聞いて悔い改めて悔い改めにふさわしい生活、イエス様のように行なう生活ができるように祈ります。
 1節をご覧ください。「そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。」とあります。「そのころ」とは今から2000年前のことです。世界は大帝国バビロニアからペルシア帝国へ、ペルシア帝国からローマ帝国へ変わり、ローマ元老院は紀元前27年、オクタビアヌスにアウグストの称号を送りました。そして彼は名実共にローマ大帝国の初代皇帝となりました。これはキリストが生まれる27年前の出来事でした。そして、当時、ローマが支配している地域は、いわゆるローマ式平和(Pax Romana)を享受するに至ったのです。すると、ローマ皇帝アウグストは、帝国内に離散しているユダヤ人に会堂(シナゴグ)における礼拝を許可し、エルサレム神殿への送金も許していました。人生を真剣に考える人々の多くがユダヤ教に心を惹かれ、また改宗してユダヤ教徒になりました。そして、実にこのような時にキリストは生まれました。このキリストの誕生の記事は2章に記されていますが、私たちはクリスマスの時に学びます。とりあえず、キリストの誕生によって旧約聖書の預言が成就し、全く新しい時代が始まりました。B.CがA.Dとなったのです。でも、ユダヤ人の間にはキリストの出現を知らず、メシアの出現を待ち望んでいました。そのころ、バプテスマのヨハネが現われたのです。彼の出現の目的は、人類の救い主なるキリストを迎えるためにその準備をすることでした。すなわち、主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにすることであります。では、ヨハネはどのようにして主の道を用意していますか。
2節をご一緒に読んでみましょう。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」ヨハネのメッセージはとてもシンプルです。彼は人々に悔い改めることを呼びかけました。「悔い改める」とは、ギリシャ語で「方向を変える」という意味です。日本語でも、「悔いて改める」ことですから、自分が間違っている思いや人生の方向に気づいた時、それを悔いて、行いを改めて行くことです。つまり、神様に逆らって自分勝手に生きていた罪を自ら悟ったり指摘されたりすると、その罪を悔いて悲しみながら心を改めて罪から離れ、新しい生活をするのです。ですから、本気で悔い改める人を自分の過ちに対してとても悔しく思って悲しみます。そして、同じ罪を繰り返さないために血を流すほどに闘争します。ですから、ほんとうに悔い改めた人の心には変化が起こり、その人の生活も変わります。御霊の実を結んで、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の中で聖なる国民として生きるようになるのです。
本来、イスラエルの民は神様に選ばれて聖なる国民、祭司の王国となりました。彼らは神様にちょう愛される民として愛と喜び、平安の中で生きることができました。しかし、彼らはこの世のもの、情欲に目が暗くなって神様から離れて、自分勝手な道に歩んでいました。神様に喜ばれることより、自分を喜ばせるために不信仰の道に歩んでいました。その結果、彼らの心は腐敗し、生活は堕落して行きました。人はただ自分のために生きると、瞬間的な快楽を味わうことができてもつねに喜ぶことはできません。人のために、神様のために生きる人の心に平安と喜び、生きがいがありますが、自分のために、自分の家族のために、何をしても自己中心に考えて生きる人の心にはつねに不安と恐れがあります。また不安と恐れのために偶像崇拝や快楽を求めて堕落していきます。まさに、イスラエルの民がそうでした。正しい言葉を言っているけれどもやっていることは間違っていました。自分の権威、自分の欲のために働いていました。アブラハムの子孫だというプライドを持っていながらも、アブラハムのように生きていませんでした。そこで、ヨハネは、「悔い改めなさい。」と呼びかけていたのです。
そして、悔い改めなければならない理由は「天の御国が近づいたから」です。この「天」とは、神様がおられるところです。というのは、神様が完全な支配をしている場所であると言えます。神様が主権を持っておられる場所や状態を言います。人間は神様の完全な支配を受けるとき、天国の平安と喜び、幸せを自分のものにすることができます。この世でもイエス様を受け入れて神様に支配されるなら、天国の恵みを自分のものにすることができます。天から下りて来られた神の御子イエス・キリストによって今でも「天の御国」の民になることができるようになりました。ですから、ヨハネはキリストをお迎えするために「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と宣言しているのです。「悔い改めなさい」というメッセージは罪を指摘して辱めるためではなく、彼らをイエス・キリストに導き、天の御国の民にならせるためだったのです。そして、民たちを悔い改めに導くことはヨハネの使命であり、それこそ主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにすることでした。
3節をご覧ください。「この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。」とあります。御言葉から悔い改めは主の道を用意することであり、主の通られる道をまっすぐにすることであることがわかります。私たちにも主が通られるためには私たちの心をまっすぐにしなければなりません。悪の道から立ち返って、主が通られるように心の道をまっすぐにするのです。心がそびえている山のように高くなっていると、高慢な心にイエス様が通られる道はありません。また、心の道がさまざまなことで複雑になっていても主が通られることはできないでしょう。劣等感や運命主義によって心がへこんでいてもイエス様を受け入れることができません。この世のいろいろなことに気をとられ過ぎていると、キリストの福音を聞いても分かることができないのです。悔い改めて幼子のような単純な心、まっすぐな心にならない限り、キリストを受け入れることができないのです。シンプルな心、まっすぐな心に主が来られて天国の平安と喜びを与えてくださいます。荒野のような世の中でもまっすぐな心にして生きる人はその心を通られるイエス様と交わることができます。荒れている世の中でもイエス様がくださる天国の平安と喜びを所有することができます。たとえ、外見上では荒野の生活のように、不便なことがあっても聖なる天国の民として健やかに、力強く生きることができます。
4節をご覧ください。「このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。」とあります。この生活様式は2列王記1章に出てくるエリヤの姿に似ています。ヨハネは「毛の着物を着、腰には皮の帯を締めた人」また、いなごや野蜜を食べるなど野外で生活を送っています。1節を見ると、説教もユダヤの荒野で行われています。社会で認められているユダヤ人の宗教指導者とは対象的なライフスタイルを見ることができます。ではなぜ、ヨハネはこのような生活をしていたでしょうか。
ヨハネは当時国民から尊敬されている祭司ザカリヤとエリサベツの間に生まれたひとり子です。父の家には華麗な祭司服があるし、おいしいお肉もあったはずです。ひとり子だから父のバックグラウンドに支えられて楽な祭司生活ができたでしょう。現在の言葉で言えば、都のエルサレムで大型教会牧師の後継者としての身分が保障されていたのです。ですから、彼の家族や友だちも、親戚もヨハネが荒野に行くことを反対していたのではないかと思われます。わざと荒野まで行く必要があるのか、伝道のためなら、エルサレムでやったほうがもっと効果的ではないかと言われることもあったでしょう。しかし、彼は現実的な状況や人の言葉より神様の御言葉から自分の使命を発見しました。おそらく、彼は聖書勉強の中でイザヤ書40:3-5から自分の使命を発見したと思います。そこを見ると「荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」とあります。彼が夜明けに祈るときにこのみ言葉が与えられたかも知れません。どちらにしても彼は御言葉から自分の使命を発見し、まっすぐな心で御言葉に従ったことが分かります。彼は御言葉を通して自分の使命がわかった時、その使命のために世の楽しみと楽な生活をあきらめました。彼は30代になったばかりでしたが、30代の若者として受けるさまざまな誘惑にも打ち勝ったのです。そして、荒野に行きました。荒野では聖なる使命のために質素な生活をしました。荒野で敬虔なクリスチャンとして、質素な生活をしながら主の道をまっすぐにする使命を果たしたのです。彼には、自分に与えられていた立場と役割をよく理解し、それに徹する忠実さと謙虚さがありました。このようなヨハネのメッセージにはどれほどの権威がありましたか。
5,6節をご一緒に読んでみましょう。「さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。」ユダヤ全土、全地域の人々がヨハネのところに出て行き、自分の罪を告白してバプテスマを受けました。悔い改めと信仰告白のみわざが起こったことがわかります。全国的なリバイバルが起こったのです。ここで、私たちは二つのことを学ぶことができます。
一つ目は、自分の罪を告白して解決したいと思っているということです。人々は罪のために生じる心の苦しみを持っていますが、だれにもなかなか言えないからますます苦しむ場合が多くあります。秘密が保障されるなら誰かに告白したいと思っているのです。すると、心がすっきりするからです。けれども告白する相手がいない現実があります。そして、そういう機会がなくて自分の罪を告白することも、悔い改めることもできない生活が続くと、病気になってしまいます。多くの病の原因は心にある悩み、罪責感などを告白しないことから発生するそうです。職場生活で忙しい夫が家に帰ると疲れているからと言って余り専業主婦の妻の話を聞いてあげないと、妻は病気になってしまうそうです。もちろん、教会に来ていろんな話ができれば大きな問題にはなりませんが、家の生活だけをしている人には自分のことを告白すると聞いてくれる相手が必要なのです。また、何でも言える環境を求めているのです。ユダヤの人々も自分の罪を告白して解決することを願っていたのです。そこで、権威あるヨハネのメッセージを聞いたら、何でも自分の罪を告白することができるようになりました。
二つ目は、ヨハネのようなシンプル・ライフから権威あるメッセージができるということです。権威あるメッセージは上手な話し方よりも伝える者の生活から生まれるのです。ぜいたくを戒め、情欲、貪欲を捨てて荒野で神様と1:1で交わるような生活をする人のメッセージには権威があるのです。私たちがヨハネのように単純に御言葉に従い、敬虔に生きることによって権威ある聖書先生、権威あるメッセンジャーになることができるように祈ります。
7、8節をご覧ください。「 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」この御言葉には、パリサイ人とサドカイ人が、罪を告白している人々とは対照的に描かれています。彼らも荒野まで来ていますから悔い改めているふりをしていたようです。言葉では「悔い改めます。悔い改めます。」と言っていたのです。彼らは宗教指導者として過去にも「悔い改める」ということばを繰り返していたようです。しかし、彼らは悔い改めにふさわしい実を結んでいませんでした。そこで、ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」と言っています。変えられた生活と人生が、悔い改めたことの証拠です。もしそれらがなければ、いくら宗教を持っていると言っても、悔い改めた事にはなりません。クリスチャンはとかく、イエス様を主と口で言い表した人々を、「救われた。」と表現しますが、その後の生活が変わっていない人たちが多くいます。それでは、救われたと言っても、まったく意味がありません。宣教師たちの中ではペーパー・ドライバーがいますが、それだけでは自動車を運転できません。ペーパだけでは意味がないのです。私たちの悔い改めもそうです。言葉で言ったから、紙に所感を書いたから良いということではないのです。行ないが伴なわないでイエスを信じていると言っても、どうしようもありません。ヤコブ書には、「行いの伴なわない信仰は、死んでいるのです。(2:26)」と書かれています。悔い改めにふさわしい実を結ぶ必要があります。そこで、ヨハネは、パリサイ人とサドカイ人の持っている、誤った確信を指摘しています。「われわれの先祖はアブラハムだ。」と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」とあります。彼らは、アブラハムの子孫としてのプライドを持っていました。また、彼らは、アブラハムの子孫であるなら、自動的に天の御国に入る事ができると信じていました。また、聖書先生としてアブラハムのことを教えていました。しかし、自分自身はアブラハムのように行なっていませんでした。愛するひとり子でさえ神様にささげることができるほどに献身的に神様に仕えることはありませんでした。このことは指導者的な立場にいる人が陥りやすいわなです。多くのことを教えながら自分は行なっていないということです。考えてみると、私自身も多くのことを教えながら自分は守っていないことに気づかされます。「われわれの先祖はアブラハムだ。」と言っているパリサイ人たちと同じレベルの信仰です。私はほんとうに悔い改めにふさわしい実を結ぶために闘争していくことを決断します。今週は夜明けの祈りを100%センターでささげることから始めます。ヨハネは悔い改めにふさわしい実を結ばない人に対する警告も教えています。
10節をご覧ください。「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」とあります。「悔い改めにふさわしい実を結ばない者たちは、火の中に投げ込まれます。」とヨハネは宣言しています。もちろん、「主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るにおそく、恵みとまことに富」んでいるお方です。ですから、どんなに悪いことをしていても、その人が悔い改めて悪から立ち返ろうとするなら、あわれみを豊かに施してくださる方です。そしてキリストが来られたのは、まさにこの救いのためなのです。さばきのためではありません。
 イエス様はこう言われました。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなくて、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:17)」神様は誰もが救われて、この恐ろしい火によるさばきを免れてほしいと願われています。そのために、御子を十字架の死に明け渡し、あなたの罪を彼の上に負わせたのです。しかし、パリサイ人たちのように聖書の御言葉をよく知り、正しいことを教えていながらも自分は守らない、全く実を結ばない生活をし続けるならさばかれます。
11節をご覧ください。「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」とあります。ヨハネはキリストを自分よりも力ある方と言いました。ヨハネは神様のことばを語る預言者ですが、キリストは神様ご自身です。そしてヨハネは、その方のはきものを脱がせてあげる値打ちもない、と言いました。そして、「その方は、あなたがたに聖霊と火のバプテスマをお授けになります。」と言っています。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、イエス・キリストは聖霊と火でバプテスマを授けられます。この「聖霊と火のバプテスマ」とは何でしょうか。この話を聞いているパリサイ人やサドカイ人に対するものでしょう。つまり、悔い改めていない者に対するバプテスマです。12節をご覧下さい。手に箕(み)を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
 再び「火」が出てきましたが、悔い改めない者に対するバプテスマは神のさばきです。収穫された麦は、空中に舞い上がらせます。そして、そのまま落ちるのが麦でそれは倉に入れられます。しかし、殻は火によって焼かれるのです。つまり、私たちは悔い改めている者とそうでない者にわかれますが、今はどちらも同じようにこの世に生きています。しかし、キリストが来られる時、悔い改めた者は倉の中に、その他の者は消えない火で焼かれるのです。永遠に、火の中において苦しみを味わいます。
13節をご覧ください。「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」 とあります。イエス様は公生涯を始めるとき、まずバプテスマを受けようとされました。しかし、ここでヨハネが拒否しているように、キリストは悔い改める必要のない方です。むしろ、バプテスマを授けているヨハネ自身が、自分の罪を告白してイエス様からバプテスマを受けるべきなのです。では、なぜイエス様は、ヨハネからバプテスマを受けようとされたのでしょうか。
14節をご一緒に読んで見ましょう。「ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」
 イエス様は、ヨハネからバプテスマを受けることを「正しいことを実行する」と言われました。キリストは、ご自分に従う者たちの模範になるために、このことを行いました。パリサイ人たちは、アブラハムの子孫であることだけでも誇りに思っていました。ところが、神様は神の御子です。天においても、地においてもいっさいの権威を持っておられます。けれども、「私は神の子だ」と言って公生涯を開始したのではなく、正しいことを実行なさったのです。ここで、私たちは言葉だけのパリサイ人たちとは対照的なイエス様から悔い改めにふさわしい生活を学ぶことができます。もちろん、イエス様は悔い改めることが全くないお方です。でも、イエス様の模範から悔い改めにふさわしい実とはイエス様のように正しいことを実行することであるということが分かるのです。正しいことを教えることではありません。実行することです。イエス様は何も教えないうちに実行されました。人々に教えてから、ご自分でも実行されたのではなくて、実行されてから教えたのです。
ここで、宣教師や牧者たち、特に教える奉仕に携わっている人たちが気をつけなければいけないことを学びます。教えることも大切ですが、まず、自分が悔い改め、悔い改めにふさわしい実を結ぶこと、イエス様のように正しいことを実行することこそ、最も大切であると言うことです。私たちがまず聖書を通して学んだことを実行して、人々の模範となることができるように祈ります。イエス様は弟子たちに、「私を見た者は、父を見たのです。(ヨハネ14:7)」と言われましたが、私たちも「私を見た者はイエス様を見たのです」と言えるほどまで成長することができるように祈ります。
最後に、16,17節をご覧ください。「こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」 とあります。
イエス様がバプテスマを受けると、御霊は、鳩のように下って、イエス様の上に来られました。そして、天のお父様から、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」と言われました。三位一体の神様が、イエス様の公生涯においても、ともに働いておられることが分かります。
 結論的に、悔い改めにふさわしい生活とはまずヨハネのように御言葉から、自分の位置、自分の役割、自分の使命を発見したらそれに忠実に生きることです。パリサイ人やサドカイ人たちのようにいくら多くのことを教え、正しい知識を持っていても、聖なる神の民として生きることがなければさばかれます。私たちは悔い改めてイエス様のように正しいことを実行するべきです。すると、天の神様に愛される子ども、喜ばれる子どもとして生きることができます。どうか、私たち一人ひとりが自分の思い込みによって自分勝手な道に歩むことなく、悔い改めて悔いらためにふさわしい生活、イエス様のように正しいことを行なう生活ができるように祈ります。

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