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BibleMsg > マタイの福音書 > 01-29 あなたの神である主を愛せよ

01-29 あなたの神である主を愛せよ

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/23 (4038 回閲覧)
2001年マタイの福音書 第29講



あなたの神である主を愛せよ。



御言葉:マタイの福音書22:15-46

要 節:マタイの福音書22:37「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』」



 今日、取り上げている本文を見ると、パリサイ人たちとサドカイ人たちは、最も悪質な質問を持って、イエス様の許に来ました。彼ら自身が解決し得ない一番難しい問題をイエス様に浴びせることによって、一挙にイエス様を葬り去ろうとするのです。しかし、イエス様は神様の知恵によって彼らの質問に見事に答えられました。それだけではありません。イエス様はその中で深い霊的な真理を教えられました。私たちはこのイエス様の教えを通して神様に対する私たちの姿勢がどうであるべきかを学ぶことができます。





?.カイザルのもの、神様のもの(15-22)



 15節をご覧ください。主のお言葉を聞いて心を刺されたパリサイ人たちは、悔い改める代わりにますます心をかたくなにしていました。彼らはどのようにイエスをことばのわなにかけようかと相談しました。ここで言うことばのわなとは、実に恐ろしいわなです。キリストを捕まえて十字架につけ、死刑にするためのわななのです。そのために彼らは弟子たちを、平素は対立しているヘロデ党の者たちといっしょにイエス様のもとにやりました。そしてこう言わせました。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは、人の顔色を見られないからです。それで、どう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」実に丁寧に質問しています。平和の天使が訪れたような感じです。しかし、彼らの本当の狙いは恐ろしいものでした。そこにはパリサイ人も、ヘロデ党も一緒にいたからです。当時、パリサイ人は、異邦国家であるローマに直接国税を払うことを憎んでいました。それに反して、ヘロデ党はローマの政策を支持していたので、税金を払うのは当然と考えていました。このような全く利害の相反する者たちが一つになってイエス様をつまずかせ、訴えの種を得ようとして質問しました。

ここで、イエス様が税金を納めなくてもよいと言えば、イエス様はローマに対する反逆罪で捕まえられますし、納めるべきだと言えば、愛国的なユダヤ人たちによって祖国ユダヤをローマへ売り渡す者として糾弾されるからです。イエス様はどっちに答えてもわなにかかってしまう状況です。

 しかし、イエス様は少しも戸惑いませんでした。むしろ、彼らの計略を見抜いて彼らの悪質な罪を指摘されました。「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか。納め金にするお金をわたしに見せなさい。」そこで、彼らはデナリを一枚イエス様のもとに持って来ました。このデナリはローマ政府が鋳造した銀のコインでカイザルの肖像が刻まれていました。そこでイエス様は彼らに言われました。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」

彼らは、「カイザルのです。」と言いました。そこで、イエス様は言われました。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエス様を残して立ち去りました。

 ここで、イエス様はこの世のものと、神様のものとをはっきりさせられました。イエス様は人々を国家の外に連れ出して彼らをこの世の国家と分離させようとしませんでした。だいたい、異端といわれる団体は反国家的であり、反社会的である場合が多くあります。しかし、イエス様はローマが、たとえ、イスラエルを植民地にしていても国家に対する義務を果たすべきことを教えられました。当時、ローマは被占領地に直接税を課していました。人頭税として男子は十四歳以上、女子は十二歳以上六十五歳まで、皆納めなかればなりませんでした。イエス様はその法律を守るように言われたのです。

 私たちには教育、納税、勤労の義務がありますが、地上の国の市民として、国家に対して義務を果たすべきなのです。東京都の都民として住民税も払うべきです。今ここで取り上げられた納税の問題に限らず、あらゆる社会秩序の問題についてこれは同様です。学生は学生として熱心に勉強するべきであり、会社員は基本的に会社の仕事に忠実でなければなりません。

 しかし、もう一つさらに大切なことがあります。イエス様は「神のものは神に返しなさい。」と言われます。人間は神様によって造られた者です。それゆえ、デナリ貨幣がカイザルに属するものであるように、人間は神様に属する者です。また、デナリ貨幣にカイザルの肖像が刻まれていたように、人間には神のかたちを帯びています。つまり、私たちの全存在は神様に帰するものです。それゆえ、私たちは、神様に服従し、神様に栄光を帰さなければなりません。すべてのことを神様の栄光のためにすることこそ、「神のものは神に返しなさい」ということの意味なのです。

さらにこの御言葉は国家と宗教の関係を教えています。今日しばしば問題にされる政教分離の原則は、ここにはっきりと示されています。今週のクリスチャン新聞によると、今年8月に靖国神社に参拝した小泉純一郎首相らと国を相手とって東京、大阪、千葉、福岡など全国各地で、キリスト者を含む市民有志が違憲(いけん)訴訟(そしょう)を起こす予定ですが、それは、再び国家が宗教の自由を侵害する危険を感じさせられるからでしょう。私たちもクリスチャンとして政教分離の原則が守られるように祈りたいと思います。同時に、中世時代のように宗教が祭政一致を目指して政治に介入することに対しても、十分な警戒を持って祈って行きたいと思います。



?.生きている者の神(23-33)



パリサイ人たちがイエス様の前にあえなく敗退したのを知ると、今度はサドカイ人がイエス様に論戦を仕掛けて来ました。彼らは宗教的合理主義者たちとして、超自然的なことに対しては全く無関係の信仰生活をしていました。彼らはパリサイ人とは異なり、復活を信じませんでした。結局、彼らはユダヤの貴族と祭司階級に属している現実生活を楽しみ、親ローマ派として政治権力と結託し、この世と調子を合わせて生きていました。それゆえ、彼らは復活信仰を持ってこの世と調子を合わせず、敬虔に生きている人たちの霊的な生活を理解することができませんでした。むしろ、合理的な理論を持って不信を植えつけ、清潔に生きようとする敬虔な人々を迷わせました。

 そんな彼らがイエス様に出て来て申命記25:5、6節を根拠にして全くおかしな質問をしました。「私たちの間に七人兄弟がありました。長男は結婚しましたが、死んで、子がなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、七人とも同じようになりました。そして、最後に、その女も死にました。すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」(24-28)。これは今のインターネットで全世界の人々に調べてもとても確率が低い、いやあり得ない作り話にすぎません。それなのに、彼らがこのような質問をした意図は何ですか。それは復活があるなら、兄弟同士で妻争奪戦のような戦いと混乱が起こるはずですから、復活はありえなく、あってもならないということをアピールするためでした。

 このサドカイ人たちの質問はあまりにもおかしな質問なので答える価値さえないものでした。しかし、恵み深い主は彼らの霊的な無知を悟らせるために語られました。29節をご覧ください。「しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。」とあります。サドカイ人たちが一生懸命考え抜いたわなは思い違いでしかなかったのです。彼らの霊的な無知は誤解を生み出し、その誤解は彼らを思い違いをする人、おかしな人にならせてしまいました。

 第一に、彼らは聖書を知りませんでした。イエス様は彼らが聖書と信じているモーセ五書の中から出エジプト津3:6のことばを引用しています。神様は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」です。アブラハム、イサク、ヤコブは、いずれもはるか以前に死んでしまいました。もしサドカイ人たちが考えているように復活がないとするなら、彼らはもはや存在しないのですから、この聖書のことばは無意味です。さらに、アブラハム、イサク、ヤコブが復活して現在でも神様と霊の交わりを持つことのできない存在でなければ、神様がアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と言うことはできないはずです。ですから、イエス様のこのすきのない答えに一言も反論することができませんでした。

 第二に、彼らは神様の力を知りませんでした。神様は超自然的な力の持ち主です。サドカイ人たちは合理主義者であったので、神様の力を誤算し、復活を否定しました。今日も、多くの人々は近代的合理主義の立場から、神様の超自然的な力を否定し、復活だけでなく、そのほかのすべての奇蹟を否定します。そのような人々は神様の力を知らないのです。

 私たちが聖書を知らなければなりませんが、聖書に対する常識的な知識より神様がどんな方であるかを知らなければなりません。神様のきよさ、神様の愛、神様の公義、神様の力など神様はどんな方であるかを知らなければならないのです。サドカイ人たちの問題は神様の力を知らないことです。

 30節をご覧ください。「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」私たちがこの地上でめとることも、とつぐことも、人が不完全な存在であるからでやっていることであり、また死ぬから種族保存のためです。しかし、復活の時には完全な人格的な存在として変えられ、もはや死ぬことはないからめとることも、とつぐことも要りません。復活の時に、私たちクリスチャンは天使のような霊的な存在として変えられます。天使たちは霊的な存在として完璧に疲れることなく、神様に仕えます。また、彼らはいつも神様の御前で生きながら喜び、神様に従い、神様に栄光を帰します。

 復活の時に、私たちの体はもはや疲れることもなく、病のために苦しむこともありません。私たちの体は神秘な要素を含んでいる体に変えられて神の国で生きるのにふさわしい体になります。?コリント15:42-44節は言います。「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」現在の私たちの体は軟弱なものです。また、罪の欲のために苦しめられるもので、卑しい存在です。それだけではありません。私たちはついに、死に、一握りの灰になってしまいます。私たちは信仰によって霊と魂は救われましたが、肉の体はまだ救われていないからです。しかし、この肉の体もイエス様が再臨される時、よみがえられて完全に救われるのです。

 神様は限りない力の持ち主です。神様は無から美しいこの世を造られた全能の方です。土から人の体を造られ、その鼻に息を吹き込んで生きたものにされたいのちの主です。この神様がどうして汚れ、朽ちる私たちの体を汚れることも朽ちることもない栄光の体、強くて丈夫な体に変えることができないでしょうか。神様の無限な力を賛美します。

 サドカイ人たちは霊的な無知のために死んだ信仰生活をしていました。そこでイエス様は彼らに語られました。32節をご一緒に読んでみましょう。「『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」死んだ者とはサドカイ人たちのように復活の信仰がない者たちです。彼らは不信のために神様との関係性が切れて霊的に死んだ者たちです。彼らは信仰がなくて考えも否定的であり、運命的です。彼らの言葉も死んだし、行動も死んでいました。私たちの主である神様は彼らの神になることができません。哲学者ニーチェは「神は死んだ」と言いましたが、決してそうではありません。神様が死んだのではなく、死んだ思考を持つニーチェが死んだのです。死んだ者は決して神様を見ることも、会うこともできません。

 反面、生きた者とはどんな者たちですか。彼らはアブラハムとイサクとヤコブのように信仰によって生きる者たちです。復活の信仰を持って生きる人たちです。彼らの言葉は生きていて行動も生きています。彼らの顔は明るく、輝きます。彼らの生活には死の要素がありません。試練の中でも明るく、肯定的に考え、ビジョンを持ちます。いのちにあふれています。神様はそのような者の神になることを喜ばれます。そして、大いに祝福してくださいます。アブラハムも、イサクも、ヤコブも試練はありましたが、本当に祝福された人生でした。神様は死んだ者の神ではなく、生きた者の神です。



?.大切な第一の戒め(34-46)

 

サドカイ人たちも敗退したのを知ると、再びパリサイ人がイエス様のもとに来ましたが、その中でも律法の専門家がイエス様をためそうとして、尋ねました。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」当時のユダヤ人たちにとって、律法の中で一番大切な戒めはどれか、これこそすべての関心の中心でした。しかし、律法学者たちは、613の戒めのうち、どの戒めが最も大切で、根本的な戒めなのかということで議論するばかりで答えを出すことはできませんでした。ですから、これは非常に難しい問題でした。この難問に対するイエス様は答えは何ですか。37、38節を一緒に読んでみましょう。「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。」『たいせつな第一の戒め』とはすべての戒めの根本として最も大切な戒めです。

 心(heart)は聖書辞典を見ると「人間の内面を現わす言葉で、人格、感情、性格、またはたましいを指し、人そのものを表わす総括的な用語である。」とあります。心は人格の中心です。「心を尽くして神を愛せよ」と言われたのは人格の中心、すなわち、感情の中心、思考活動の中心、意思の中心から神様を愛しなさいということです。心はこの世のものに奪われ、体だけが主の宮に出入りするなら神様は悲しまれます。神様は私たちが足りなくても心から神様を愛することを願っておられます。

 思い(soul)とは「肉のいのち」として「生きた力」を意味しています。「力」とは私たちが持っている若さ、精力、エネルギーを意味します。私たちがもし、私たちの若さを他のところに費やしてしまうなら、神様を愛する力がなくなってしまいます。神様を愛するためには力が要ります。私たちが若さ、力を、他ならず、神様のために使うなら、偉大な歴史を創造するはずです。

 知力(mind)とは知性を意味します。神様を愛するのに知性がなければ盲目的になり、神秘的になっておかしな方向に進んでしまいがちです。

 以上において心、思い、知力を尽くして神様を愛することは全人格的に全身全霊で愛することです。この御言葉をじっくり考えてみると、この世のどれよりも全幅的に神様を愛しなさいということです。なぜなら、このように心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして愛する対象は神様ほかないからです。神様は私たちを愛してひとり子をお与えになったほどに愛してくださいました。ひとり御子を私たちを罪から贖う供えのいけにえとして与えて、十字架につけさせ、死なせられたほどに全幅的に私たちを愛してくださいました。神様はこんなに愛してくださったのに、私たちが愛さないなら、神様との関係性は結ばれません。私たちが全人格的に愛する時にこそ神様との関係性が結ばれ、本当に愛されている自分の姿を悟るようになります。その時、私たちは本当の愛による「喜び」「楽しみ」「幸せ」を享受するようになります。ですから、神様を愛することは幸せの源です。

 39節をご覧ください。「『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」とあります。イエス様は第二の戒めも、それと同じように」と語ることによって神様に対する愛と、隣人に対する愛を同じく扱われました。つまり、この二つは分離しているものではなく、調和していることです。神様への愛から隣日とへの愛が生まれるし、隣人への愛は神様を愛することの表現であるということです。神様を愛すると言いながら隣人を愛することができないなら神様を愛することではありません。

 40節をご覧ください。「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

とあります。「神への愛」、「隣人への愛」は聖書全体をまとめた核心です。この二つの戒めは「愛」と一言で言うことができます。聖書の核心は「愛」です。神様は愛です(?ヨハネ4:8)。クリスチャンライフは堅苦しい宗教生活ではなく、神様に愛されて神様を愛し、隣人を愛する愛の生活です。主の愛が注がれて主の愛で生きる生活なのです。

 41-45節は、イエス様がパリサイ人たちのメシヤ観が誤っていることに気付かせて、キリストに対する正しい姿勢を持つようにされたことです。彼らはキリストが人間としてダビデの子孫であることだけ教えていました。そこでイエス様は詩篇110:1の聖句を引用して、ダビデはキリストを「主」と呼んでいるので、キリストは単なる人間としてのダビデの子孫ではないのではないかと言われました。つまり、イエス様は人としてはダビデの子であるかも知れませんが、霊においては神様そのものなる方です。

 

 以上において私たちは国家に対して、神様と人に対してどんな姿勢を持つべきかを学びました。私たち一人一人が何よりも全人格的に神様を愛することによって本当に楽しし信仰生活、幸せな人生を生きることができるように祈ります。



 

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