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BibleMsg > マタイの福音書 > 01-25 仕えるために来られたイエス様

01-25 仕えるために来られたイエス様

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/23 (3283 回閲覧)
2001年マタイの福音書第25講



仕えるために来られたイエス様



御言葉:マタイの福音書20:1?34

要 節:マタイの福音書20:28「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」



人は誰でも偉くなりたいと思っています。それではどんな人が真に偉い人でしょうか。今日の御言葉は偉くなりたいと思っている弟子たちにイエス様が言われた御言葉です。今日の御言葉を通して仕えるために来られたイエス様について学び、私たちも真に偉い人になることができるように祈ります。



?.ぶどう園の主人のたとえ(1-16)



 1節をご覧ください。天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。ユダヤ人の労働時間は、朝の六時から夕方の六時までの十二時間でした。主人は朝早く出かけました。彼は、労務者達と一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやりました。一デナリは当時の労働者の一日の平均的賃金でした。

 ところがぶどう園の仕事は多いが働き人が足りませんでした。パレスチナでは、ぶどうが熟すのが九月で、その後すぐ雨期が来ました。雨が降る前にぶどうを取り入れないと、ぶどうはくさってしまいます。それで主人はもう一度九時ごろに出かけて見ました。すると、別の人達が市場に立っており、何もしないでいました。市場に立っていたのは彼らが怠けて立っていたのではなく、そこが日雇い労務者のための集まり場所になっていたからです。彼らは朝、そこに来て、誰かが雇ってくれるのを待っていました。そこで、主人はその人達に言いました。「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。」それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じ様にしました。また、五時ごろ出かけて見ると、別の人達が立っていたので、彼らに言いました。「なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。」彼らは言いました。「だれも雇ってくれないからです。」主人は彼らに言いました。「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。」彼らが五時までもそこにいたということから、生活のためにどんなに真剣に仕事を与えられるのを待っていたかがわかります。彼らは体が弱くてそれまで雇ってくれなかったかも知れません。でないと体の不自由な人や体の調子が悪い人だったので家から遅く出たかも知れません。一日中仕事がなくて立っている彼らの心はどうだったのでしょうか。仕事をしなければならないのに何もしないでいることはつらい事です。彼らは誰かが雇ってくれるのを朝から待っていましたが午後五時になっても誰も雇ってくれませんでした。これから一時間が過ぎると仕方なくそのまま家に帰らなければなりません。家族のことを考えると心が重くなったでしょう。こういう人達にとって、一日の失業は悲劇でした。そのように絶望している彼らが「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。」と言われた時、どんなに嬉しかったのでしょう。彼らは主人に何度も「ありがとうございます」と礼を言いながらぶどう園に行ったでしょう。そして残っている一時間熱心に働いたでしょう。

 このたとえでぶどう園の主人は神様です。市場に立っている人々は罪の中でさまよっているすべての人々です。また、主人に雇われてぶどう園で働くようになった人々は、福音の働き人として主に召された人々を意味します。ぶどう園は福音を持って働く使命の地です。神様は私たちを若い時に呼ばれ、キャンパスのぶどう園で働く使命を与えてくださいました。私達が若い時に神様に召されたことは幸いなことです。もし神様に召されなかったなら人生の黄金期である大学生の時代を遊びながら費やしてしまったでしょう。私達は市場に立っている人々のように罪の中でさまよっていました。主が私たちを召してくださらなかったら今もなお罪の中でさまよっているでしょう。一方的な恵みによって私たちを罪から救い、キャンパスの福音の御業に用いてくださったことは大きな恵みです。私たちに一生果たすべき使命が与えられていることは大きな祝福であり、恵みです。一般会社では停年退職がありますが、福音の御業には停年退職がありません。60歳、70歳になって老人ホームに入っているような歳にも大学生達に聖書を教える姿を考えて見てください。どんなに生きがいのある人生でしょうか。私は大学生になると7人でSPGというサークルを作りました。SPGとはstudy group, play groupの意味です。つまり、一緒に勉強も遊びもしようというグループです。私たち7人はほとんど毎日集まりました。ところが、集まって勉強をしたことはほとんどありません。最初から完全にplay groupになってしまいました。私は学校の勉強はほとんどしないで毎日遊んでいるplay boyになりました。私は放蕩したために大学2年の時には胃病にかかってしまいました。このように若い時を無駄に過ごしていた私を主は哀れんでくださり、大学2年の5月に訪ねて来られました。そして、私を罪から救い、美しいキャンパスのぶどう園で働く使命を与えてくださいました。私は主の恵みによって残った大学生活を罪によってさまよっている大学生たちに福音を伝えながら忠実に送ることができました。もし、主が私を雇ってくださらなかったなら私は大切な大学生活を無駄にしてしまったはずです。大学を卒業すると主は私をさらに広いぶどう園に導いてくださいました。そして、去る13年間この国のキャンパスの若者達に福音を伝える祝福を与えてくださいました。何の資格もない者ですが、8年間日本UBF支部長として用いてくださいました。この時間、主の恵みを覚えて感謝します。これからも続けて私をキャンパスのぶどう園での働き人として用いてくださるように祈ります。

 夕方になると、ぶどう園の主人は順番に賃金を払うように監督に言いました。「労務者たちを呼んで、最後に来た者達から順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。」そこで、五時ごろに雇われた者達が来て、それぞれ一デナリずつもらいました。彼らは一時間しか働かなかったのに主人は彼らに一デナリを全部払いました。一デナリをもらった最後に来た人々は気前のいい主人に何度も感謝したでしょう。それではなぜ主人は一時間しか働かなかった人々に一デナリを払ったのでしょうか。それは主人のあわれみと愛の表現でした。主人は最後に来た人々がどれほど貧しい生活をしているかを知っていました。一デナリ以下の収入では家族を養うことが難しいことを知っていました。それで当然受けるべき金額以上のものを与えました。主人は彼らを哀れみました。

 10節をご覧ください。最初の者達がもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思いました。一時間働いた人々が一デナリをもらったのを見て自分たちはその何倍の賃金をもらえると期待していたでしょう。ところが彼らもやはりひとり一デナリずつでした。すると、最初に来た人々は主人に対して文句をつけました。12節をご覧下さい。「この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私達と同じにしました。私達は一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。」彼らはあとに来た人達に対する主人の心がわかりませんでした。ただ自分達だけが暑さの中で労苦したという心でいっぱいでした。彼らは主人との約束もぶどう園で働くようにしてくれた恵みも忘れて主人に文句をつけました。

 すると、主人はなぜ自分が間違っていないと言いますか。13節をご覧下さい。「しかし、彼はそのひとりに答えて言った。「私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。」主人は何も不当なことはしていないと言いました。主人は最初に約束したどおりに払っていたからです。ですから労務者達は約束を守った真実な主人に感謝するべきでした。また、後で来た人々にも一デナリを払った主人の気前のよさをほめるべきでした。そして一時間働いて一デナリをもらった人々に、「あなたがた。本当によかったね」とともに喜ぶべきでした。

 では文句を言う彼らに主人は何と言いましたか。14、15節をご覧ください。「自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。」事実後に来た人々は主人に一デナリを要求することができません。ただ働かせてくれたことを感謝し、賃金のほうは主人に任せていました。彼らは主人のあわれみを求めるだけでした。主人は彼らに哀れみを施しました。反面最初に来た人々は自分たちの行いの代価だけを考えて主人の哀れみを求める心がありませんでした。彼らは律法の行いによって義と認められようとするユダヤ人のようです。しかし、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められることができません。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。神様は、ユダヤ人を信仰によって義と認めてくださるとともに、異邦人をも、信仰によって義と認めてくださるのです(ローマ3:22,30)。神様は恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ方です(出33:19)。神様はいけにえより哀れみを好む方です(9:13)。神様が人間を救われる方法もただ恵みと哀れみによるのです。神の国における報酬は、人間の働きの量によるのではなく、言われたことを信じて従う者に対する、神の恵みとあわれみによるものです。従って、人生の若い時に信仰に入って従う者も、晩年に至って信仰を持つ者も、あるいは選民ユダヤ人であろうと異邦人であろうと関係なく、救われ永遠のいのちが与えられるのは一方的な神様の恵みとあわれみによるものです。ですから、神様の絶対的主権を認め、その気前のよさ、すなわち恵みの深さにすべてをゆだねるべきです。私達が神様から受けるのは自分で働いて得たものではありません。私達は神様から恵みを受ける資格を持っていません。ですから神様が与えられるのは賃金ではなく贈り物であり、報酬ではなくて恵みです。

 16節をご覧下さい。「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」永遠のいのちと救いは、イエス様のもとに来るすべての者に、先の者にも後の者にも平等に、ただ恵みにより与えられます。ですから主に召され主の御業に用いられることをいつも感謝しなければなりません。自分の働いた報酬をもらいたい心があると神様に対する不平が生じます。また、兄弟に対するねたみが生じます。高慢と自己義を捨てて謙遜に学ばなければそれ以上成長しません。私達は、自分が最後に来た者であることを忘れてはなりません。自分がそういう小さい者であって、一番あとに来た者なのに、大きい者や、一番初めに来た者のように愛して下さる神様がおられることは大きな喜びです。神様の前にはだれよりも小さい者であると思う者が、一番大きな恵みにあずかることができます。自分のみじめさ、小ささ、弱さというものを神様の前に気付かず、自分は正しい者、立派な者であると思う人は、福音の喜びを味わうことができません。使徒パウロはピリピ3:12で次のように言いました。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」

 私たちを罪から救い、永遠のいのちを与えてくださった主の愛と恵みに感謝します。また、私たちをキャンパスのぶどう園で働く者として召して下さったことを感謝します。私たちが先の者だという高慢を捨てて後の者のように謙遜に学び成長して行くように祈ります。私達が神様の恵みを覚えて感謝と喜びを持って主と福音のために働くことができるように祈ります。



?.本当に偉い人(17-34)



17節をご覧ください。イエス様は人類の罪の問題を解決するためにエルサレムに上ろうとしておられました。イエス様は、十二弟子たちに、ご自分がそこでどんな苦しみを受けるかを具体的に言われました。18,19節をご覧ください。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」イエス様は弟子達がイエス様の死と復活を受け入れ、覚悟と決断をするように繰り返して言われました。十字架の後必ず復活の栄光があることを確信する時、大胆に十字架を負うことができます。しかし、弟子たちは自分なりの考えが強くてイエス様の御言葉を受けず、他のことを考えていました。20節をご覧ください。そのとき、ゼベダイの子達の母が、子供達といっしょにイエス様のもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言いました。イエス様が彼女に、「どんな願いですか。」と言われると、彼女は「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」と言いました。弟子たちはイエス様がエルサレムに上って行かれるとすぐにでもメシヤ王国が建てられることを期待していました。ところが、その時誰がイエス様の右と左に座るかが気になりました。彼らは右の席はペテロに奪われるようでしたので焦っていました。ペテロさえいなければと思ったでしょう。ペテロがイエス様から「サタン」と言われた時には心は喜んでいました。ところが、イエス様から賞賛されると心が暗くなりました。それでエルサレムに近づいた時に、非常手段を取りました。それは自分たちの母がイエス様の伯母さんであることを利用することでした。イエス様でも伯母さんの頼みは聞いてくれるだろうと思ったでしょう。

このような彼らにイエス様は何と言われますか。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」イエス様が飲もうとしている杯は苦難の杯であり、十字架と死の杯です。イエス様は彼らが栄光を受けるために十字架の苦難に参加する覚悟ができているかを聞かれたのです。それを聞いたヤコブとヨハネは「できます。」と言いました。彼らはメシヤ王国でイエス様の右と左に座れるなら何でもできると思っていました。23節をご覧ください。イエス様は言われました。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」イエス様は彼らが苦難の杯を飲むことを認めてくださいました。実際にヤコブは弟子たちの中で最初の殉教者となりました。そして、ヨハネは一番長い間主と福音のために働いた後、パトモスという島に流されて主の苦難に参加しました。しかし、イエス様の右と左にすわることは、神様の主権であると言われました。24節を見ると、このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てました。これを見ると、弟子達はみな自分なりにイエス様の左右の席に座る可能性を夢見ていたようです。人の内面には誰でも権力に対する欲望が隠れています。弟子達も同じでした。このような弟子たちの価値観は世の指導者と全く変わりがありませんでした。しかしイエス様はどんな人が本当に偉いと教えられますか。26,27節をご一緒に読んで見ましょう。「あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」この御言葉はイエス様の弟子たちは世の人々が持っている価値観と違う価値観を持たなければならないことを教えてくれます。イエス様が言われる偉い人はどんな人ですか。

第一に、真に偉い人は仕える人です。一般的には仕えられる人、指示する人が偉い人だと思います。しかし、霊的な世界では謙遜になって仕える人が偉い人です。人々は社会的な地位がなければ偉い人になれないと思います。しかし、偉くなることはそれとは関係がありません。人の偉さは社会的な地位にかかっているのではなく、どれほど多くの人々に仕えるかにかかっています。ところが、他人に仕えることはやさしいことではありません。人は仕えることより仕えられることを好むからです。しかし、仕えられることを好む人は真に偉い人になることができません。人々から尊敬を受けることもできません。人々に仕える人が尊敬を受けるのです。

モーセは実に偉大な主のしもべでした。彼が偉いのはイスラエル人をエジプトから解放する指導者であったからではありません。それよりも謙遜と柔和で奴隷の民に仕えたからです。彼は、地上のだれにもまさって非常に謙遜でした(民12:3)。アメリカ人はアブラハム・リンカン大統領を偉い人として尊敬しています。なぜでしょうか。彼が大統領だったからでしょうか。いいえ。そうではありません。それよりも彼が動物扱いされる黒人を愛し、彼らを一人の人間として仕えたからです。私たちは20世紀の偉大な人物の一人としてシュバイツァー博士を尊敬します。彼はフランスのプロテスタント神学者,音楽家,哲学者,医師でした。そして1952年ノーベル平和賞を受けました。彼が人々から尊敬を受けているのは、神学者、音楽家、哲学者、医者として楽な生活ができましたが、それを捨てて仕えるために来られたイエス様を学び、アフリカに渡って、現地人への伝道と医療に奉仕したからです。

第二に、真に偉い人はイエス様から学ぶ人です。28節をご覧ください。「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」イエス様は王の王であり、創造主として仕えられるにふさわしい方です。しかしイエス様は仕えられるためではなく、仕えるためにこの世に来られました。そして、多くの病人、罪人、十二弟子達、パウロに仕えてくださいました。最後にはご自分のいのちを贖いの代価として与えるまで仕えてくださいました。イエス様は罪の奴隷となっている人々を解放するために代価を払ってくださいました。イエス様が仕えてくださることによって罪によって死んで行く人々が生かされました。悪霊につかれた人々が解放され真の自由と喜びに溢れた生活を送るようになりました。

私たちはこのイエス様を通して仕えることが何かを学ぶことができます。真に仕えることは「いのちを与える犠牲」を意味します。仕えることは要求せず、先に他人の必要を満たしてあげることです。他人のために自分を犠牲にすることです。一人に仕えるためにはお金、時間、自尊心などを犠牲にしなければなりません。時には誤解されることも、非難されることも、裏切られることもあります。本当に人に仕えることはやさしくありません。自己否認が必要です。高慢な人に仕えるためには徹底的に無視されなければなりません。利己的な人に仕えるためには自分の利己心を捨てなければなりません。怠けな人に仕えるためには勤勉でなければなりません。徹底的な自己否認と犠牲なしにはひとりも仕えることが出来ません。私達が仕えるしもべになるためには何よりも十字架に死なれるまで私達に仕えて下さったイエス様の愛と恵みを深く覚えなければなりません。罪人に仕えるために来られたイエス様を学ばなければなりません。私たちに仕えてくださったイエス様を学び、私たちが仕える者となる時、罪によって苦しんでいる人々が救われる御業が起こります。

29-34節でイエス様は、道ばたにすわっていたふたりの盲人に仕えてくださり、彼らの目が見えるようにしてくださいました。イエス様は十字架につけられるためにエルサレムに向かって行かれる途中でしたが、ご自分のことを考えないで助けが必要な人に仕えてくださいました。

結論、イエス様は、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。そして、十字架に死なれるまで私たちに仕えてくださいました。私たちがこのイエス様を学び、真に偉い人になることができるように祈ります。罪によって苦しんでいるひとりに仕えることができるように祈ります。

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