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BibleMsg > ルカの福音書 > 04-56 主の御名によって来られる王

04-56 主の御名によって来られる王

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/24 (2533 回閲覧)
2004年ルカの福音書56講                 

主の御名によってこられる王

御言葉:ルカ19:28-48
要 節:ルカ19: 37,38 “イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、「こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」”

先週、私たちはミナのたとえを通して「これで商売しなさい。」という御言葉をいただきました。たとえを通して分かるように、神様は「しなさい」と命じられるとともに、なしうる力も与えてくださいます。私たちにあるいのち、才能、霊的な賜物など、すべてのすべてが神様から与えられています。神様は力を与えずに「しなさい」と仰せられる方ではありません。私たちはこの点を誤解してはならないと思います。多くの人は「自分はできない」と言いますが、たいていは、実際にできないのではなく、しないのです。私たちはパウロが言っているように、私たちの労苦は主にあってむだではないことを知っています。必ず、神様は今の労苦、苦しみにまさる栄光を与えてくださいます。
今日の御言葉にはイエス様が、エルサレムに入られる様子が詳しく記録されています。今までのイエス様の姿は仕えるしもべとしてのイメージが強いですが、今回のエルサレム入城は、威風堂々と入られました。約束されたメシヤ、真の王としての姿を見せてくださったのです。ほんとうに、イエス様は王の王です。イザヤ預言者が預言したようにイエス様は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる王です。この時間、御言葉を通して真の王としてイエス様を受け入れることができるように祈ります。

?.主がお入用なのです(28?34)
28節をご覧ください。「これらのことを話して後、イエスは、さらに進んで、エルサレムへと上って行かれた。」とあります。イエス様は十ミナのたとえを話して後、さらに進んでエルサレムに上って行かれました。ここで、「さらに進んで」と約された言葉は新共同訳の聖書には「先に立って進み、」となっています。そして、これは、イエス様のご生涯における最後のエルサレム行きです。つまり、イエス様の前にはあざけられ、つばきをかけられ苦難の十字架が待っているのです。それにもかかわらず、イエス様は先に立って進まれました。何と言う勇敢な態度でしょうか。イエス様はご自分に与えられた使命のために苦難の道、十字架の道を先に立って歩まれます。だれも人の先に立って苦難の道を歩もうとしません。私は学校で掃除の当番とか週番の順番を決める時がありますが、皆自分の順番が最後になることを願います。そして、生徒の中には順番が最後になると「やったぞー」と叫びます。私たちの中でも食事の当番は後ろになって良かったなあと思っている方がいるかも知れません。本当に小さなことでも苦難を嫌がっているのです。しかし、イエス様は苦難を受ける十字架の道を先に立って行かれました。イエス様は十字架を担うために一足一足エルサレムに向かって行かれました。
29節をご覧ください。「オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、とあります。オリーブという山はエルサレムの東側にありますが、その山に登って見ると、神殿を中心とした聖なる都エルサレムが見えるそうです。そこで、イエス様はエルサレム入城を準備されました。
30、31節をご覧ください。「言われた。「向こうの村に行きなさい。そこにはいると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。もし、『なぜ、ほどくのか。』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」とあります。イエス様はエルサレム入城の準備としてろばの子を連れて来るように命じられました。まだだれも乗ったことのないろば、しかもろばの子を連れて来るように命じられました。ここには、何の汚れもない神様の聖さと謙遜さが現われています。また、イエス様はもし、『なぜ、ほどくのか』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入り用なのです。』と話されました。では、イエス様のお話に対する弟子たちの反応はどうでしたか。
32節をご覧ください。「使いに出されたふたりが行って見ると、イエスが話されたとおりであった。」とあります。弟子は行ってみました。彼らは「納得できない、いきなりなんですか。」と言いませんでした。彼らはつぶやくことなく、行ってみました。すると、イエス様が話されたとおりでありました。彼らは従順を通してイエス様のお話の真実性を確かめることができました。イエス様から派遣されて行って見たら、果たして、言われたとおりであったのです。おそらく、弟子たちは驚いたでしょう。このようにキリストから派遣されていくと、神様の御言葉を体験することができます。私も日本に派遣される時は不安も、恐れもありましたが、御言葉に従って来てみるとイエス様の御言葉の真実性を体験することができました。でも、派遣されて来て働くときは困難なこともあります。特に全く知らない人たちを相手にしてキリストのために働くことは決してやさしいことではありません。弟子たちも遣わされてきてイエス様が言われたとおりであることを体験しましたが、いざと人のろばを勝手に連れて行くことはやさしくなかったでしょう。
33節をご覧ください。「彼らがろばの子をほどいていると、その持ち主が、「なぜ、このろばの子をほどくのか。」と彼らに言った。」とあります。やはり、弟子たちが仕事を始めると、大変な目にあいました。彼らがろばの子をほどいていると、その持ち主から、「なぜ、このろばの子をほどくのか。」と言われたのです。弟子たちはびっくりしたでしょう。彼らは現行犯として逮捕される立場に処せられました。弟子経歴3年目にろばの窃盗犯として捕まえられる危険があったのです。しかし、弟子たちはどうしましたか。
34節をご一緒に読んでみましょう。「弟子たちは、「主がお入用なのです。」と言った。」弟子たちはイエス様が言われたとおりに答えました。「主がお入用なのです。」ここで「主」という言葉は李パウロ牧者の原語解釈によると「持ち主」の意味があるそうです。つまり、ろばの持ち主がその場にいるにもかかわらず、弟子たちは持ち主がそのろばを使うと言っているのです。隣に持ち主にとっては全く納得できないことです。普通なら、「お前たち。何ものだ。」と言ったはずです。しかし、どうでしたか。一言も言われませんでした。むしろ、「主がお入用なのです。」という言葉に「はい。どうぞ、主がお入用なら、いくらでも連れて行ってください。」といったのではないでしょうか。ふたりは、何気なく、ろばの子をイエス様のもとに連れて来ました。ここで、弟子たちは何を悟ったでしょうか。彼らは、すべての人、すべてのものの上におられるイエス様の主権と権威を悟ったことでしょう。今までも力あるイエス様の働きに驚いたことが多くあったと思います。しかし、全然、見えないところも見ているかのように知っておられること、今まで会ったことのない人の心まで支配しておられるとは思わなかったでしょう。しかし、イエス様はすべてを知り、すべてを支配しておられました。実にイエス様は天地万物を造られた創造主であり、あらゆる万物を支配しておられる万有の主です。ヨハネの福音書1:3節はこの事実を明らかにしています。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」とあります。そうです。すべてのものは、イエス様によって造られました。ですから、この世にあるすべてのものはすべてがイエス様のものです。イエス様はこの世のすべてのものの持ち主です。全宇宙の所有権はイエス様にあります。このイエス様こそが主の主、王の王です。ですから、イエス様はすべてのものを御心のままに用いることができます。 
イエス様がお入用なら、いつでも、だれのものでも用いることができます。これらのことを考えてみると、ロバの持ち主はイエス様であり、持ち主の主もイエス様であることがわかります。ろばの子だけではなく、私たちが所有している物質も、健康も、財産も、霊的な賜物も、すべてがイエス様のものであり、私たちもイエス様のものです。ですから、私たちは主がお入用なら、いつでも主に従い、主のためにささげる準備をしていなければなりません。なぜなら、すべての所有権が主にあるからです。そして、主に用いられることこそ素晴らしいことであり、光栄なことです。同じ器でも神様に用いられる時、聖なる器となります。同じ日本国民であっても、神様に用いられるとき、聖なる国民となります。歴史上、神様に用いられた偉大な人物は皆「主がお入用なのです。」と言われた時、ためらうことなく、従い、自分のすべてを主にささげた人たちです。

?。主の御名によって来られる王(35?48)
 弟子たちがろばの子を連れて来ることを通して主としてのご自分の主権を示されたイエス様は、エルサレム入城を通して、実際に王としての姿を見せられます。
35、36節を読んでみましょう。「そしてふたりは、それをイエスのもとに連れて来た。そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。」上着を脱ぐことは王に対する尊敬のしるしであった。?列王9:13を見ると「すると、彼らは大急ぎで、みな自分の上着を脱ぎ、入口の階段の彼の足もとに敷き、角笛を吹き鳴らして、「エフーは王である。」と言った。」とあります。彼らは赤いじゅうたんの代わりに上着の脱いで王に対する尊敬を表わしたのです。イエス様こそ、「主の御名によって来られる王」であったからです。
37、38節を読んでみましょう。「イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」弟子たちの群れはみな、イエス様を賛美しました。そして、メシヤ詩篇と呼ばれる詩篇118編を引用して歌いました。今までイエス様はさまざま人々に仕えてきましたが、ここでは王としての賞賛をお受けになっています。なぜなら、この日は、永遠の昔から永遠の未来という時間の中で、神様がお定めになった日だったからです。神様は、ご自分のメシヤを人々に示されるために、全宇宙の中からエルサレムという都を選ばれました。そして。ご計画に予定されたその日に王の王としてエルサレムに入城されるにしました。詩篇118編には、「この日は、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう(24)」とあります。そこで、人々はイエス様のエルサレム入城を歓迎し、その日を楽しみ喜んでいます。本当はユダヤのエルサレムの住民だけではなく、全人類が祝うべき日であり、全人類がイエス様を王として迎え入れてその日を楽しみ喜ぶべきでした。でも、ごく少数の人々の間で歓迎され、喜ばれただけでした。しかも、彼らはイエス様が地上メシヤとしてローマ帝国を打ち壊し、自分たちを支配してくださる王として迎えました。彼らはローマの搾取、圧制に苦しまれていただけに自分たちを救ってくださるメシヤに対する期待も大きいものでした。イエス様は彼らの救い主、王としてエルサレムに入城されました。ところが、イエス様はろばに乗って、しかもろばの子に乗って入城されました。では、なぜ、イエス様は戦車や白馬ではなく、ろばの子に乗って入城されたでしょうか。それは、御名によって来られる王だからです。イエス様の王権は軍馬と戦車によってもたらされるのではなく、御名によって来られる王です。
ゼカリヤは9:9節でメシヤのエルサレム入城を預言しました。こう書いてあります。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」この預言の中にイエス様はどんな王として来られたかがよく表われています。
第一に、イエス様は救いの王です。ゼカリヤはメシヤに対して「この方は正しい方で、救いを賜わり、」と預言しました。つまり、イエス様は救いを賜わる方なのです。イエス様が先に立ってエルサレムに入城される目的は救いを賜わるためです。イエス様は救いの王です。イエス様は罪と死のかげに座っている人々を救うために十字架につけられて死なれ、死者の中から三日目によみがえられました。このイエス様だけ私たちを罪と永遠の破滅から救う救いの王です。 
第二に、イエス様は柔和と謙遜の王です。ゼカリヤの預言に「柔和で、ろばに乗られる」とあります。当時、ローマ帝国の皇帝のような王たちは軍馬や戦車に乗って人々を脅かしながら入城します。しかし、イエス様はろばの子に乗って入城されました。ろばは愚直な動物です。その姿、実用性においていつも馬と比較され、貧しい者に親しみある動物だそうです。イエス様はすべてのもの主として富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられました。それは、私たちが、キリストの貧しさによって富む者になるためです(?コリント8:9)。私たちが、この謙遜の王イエス様に支配されると、心にやすらぎがきます。サタンに支配されると、自分も知らずに高慢になって高ぶりますが、謙遜の王イエス様に支配されると、謙遜と柔和な者として生きることができます。
 第三に、イエス様は平和の王です。馬は戦争の時に乗りますが、ろばは平和のときに乗る動物です。イエス様がろばに乗って入城されたことは平和の王として平和をもたらす方であるということを示唆してくれます。イエス様がこの地に来られることによって地上には平和が臨まれ、天の父なる神様には栄光となりました。イエス様は人々に平和を与え、平和によって治める平和の王です。世の王たちは軍隊の力や制度、法律によって治めます。しかし、イエス様は私たちの罪と咎をご自分が担うことによって私たちが自由に生きるようにしてくださいます。ですから、イエス様を平和の王として迎え入れ、イエス様に従う人にはその心に揺れることない平和が臨まれます。
  39?48節には謙遜と平和、救いの王としてのイエス様の姿、イエス様を受け入れない人々に対する神様のさばきが記されています。弟子たちの群れが「祝福あれ、主の御名によって来られる王に。天に平和。栄光は、いと高き所に。」と喜んで大声に神様を賛美すると、人々の反応はどうでしたか。39節をご覧ください。パリサイ人のうちのある者たちが、群衆の中から、イエス様に向かって、「先生。お弟子たちをしかってください。」と言いました。すると、イエス様は答えて言われました。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」「石さえも叫びます。」とあります。つまり、この日には必ずメシヤを喜ぶように神様がしてくださっていたのです。
41?44節をご覧ください。「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」とあります。エルサレムを見られたイエス様は、その民が神様にそむき続け、いまや神の子を十字架につけ、そのためにやがて国が全く滅ぼされるべきことを見通されて胸が迫って忍ぶことができず、エルサレムのために泣かれました。平和と柔和、愛の王であられるイエス様の姿が見られます。救い主が来られることによって、神様と私たちの間に平和がもたらされます。しかし、救い主イエス様を受け入れず、拒んだ人々には厳しい神様のさばきがあります。事実、イエス様の預言は、文字通り、起こりました。ユダヤ人の敵であるローマが、エルサレムに塁を築き、それを包囲しました。歴史家ヨセフスは、そのときに起こったエルサレムでの惨状を伝えています。飢餓のため、ユダヤ人たちは互いに殺し合いました。生まれてくる子どもを食料にしました。そして、紀元70年、神殿は一つの石も積み残されないままになりました。少数の弟子たちだけで喜ばれたこの日、多くのユダヤ人はこれを小さな出来事として見過ごしましたが、この小さなことで大きな犠牲を払わなければならなくなったのです。
 同じように、すべての人は、イエス様を自分の救い主と信じる機会が与えられています。だれかがギデオン聖書を渡してくれたかもしれません。友人がイエス様について話していたかもしれません。自分にとっては、ささいなことのように見えますが、それを無視した場合、その犠牲を永遠に負わなければいけなくなります。へブル書10章29節には、こう書かれています。「まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰を受けるに値するか、考えてみなさい。…生ける神の手の中に入ることは恐ろしいことです。」
 45、46節はエルサレムが滅ぼされるようになった具体的な理由が記されています。宮にはいられたイエス様は、商売人たちを追い出し始め、こう言われました。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」主の家は祈りの家です。ところが、彼らはそこで商売して強盗の巣にしてしまいました。そこで、イエス様は毎日教えられました。イエス様は宮が祈りの家であること、ご自分の十字架と復活などについて教えられたでしょう。ところが、祭司長、律法学者、民のおもだった者たちは、イエスを殺そうとねらっていました。しかし、どうしてよいかわかりませんでした。民衆がみな、熱心にイエス様の話に耳を傾けていたからです。
ここで、私たちは神様の宮は祈りの家であり、御言葉を教える所である事がわかります。たとえ、どんなに美しく、荘厳に造られた神殿でも、祈りがなされていなければ、無意味です。でも、地下室にある小さなホールであっても祈りに満たされているなら、神様に喜ばれる宮です。私たちのからだもそうです。祈る時に意味があります。?コリント6:19節を見ると「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」とあります。わたしたちのからだは神様から受けた聖霊の宮です。神様は私たちのからだに住まれます。しかし、祈りによって聖霊と交わることができなければ意味がないのです。神様は私たちがいつも聖霊と交わることを望んでおられます。特に「主の宮」は祈りの家であることを望んでおられます。
どころが、私たちの生活ではどうでしょうか。神様に語りかける祈りが、生活の中心になっているでしょうか。それとも、「これこれ、こういうことをして、ああしよう。」というような商売の心と同じになっているでしょうか。私たちは祈る生活によってこの世の偶像文化や罪の誘惑に惑わされることなく、祭司の王国、聖なる国民として生きることができます。そして、私たちが祈ると、自分の生活、また、私たちを取り巻く社会全体が、そして歴史そのものが変わります。
 イエス様は祈りのことを話されてから、教えを始められました。私たちもこの宮で祈り、教える生活に励むことができるように祈ります。最近、私は夜明けに祈る時、この宮で規則的に祈る方が増えるように、1:1でにぎやかになるように祈っていますが、皆さんも一緒に祈っていただきたいと思います。

以上で、私たちは主の主、救い、謙遜、平和の王であるイエス様について学びました。私たち一人一人が天においても、地においてもいっさいの権威を持っておられる主です。イエス様は王の王、主の主です。この時間、イエス様を王として受け入れて、王なる神様に支配され、神様に用いられる人生となるように祈ります。

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