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BibleMsg > ルカの福音書 > 04-53 見えるようになれ

04-53 見えるようになれ

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/24 (1979 回閲覧)
2004年ルカの福音書53講

見えるようになれ
御言葉:ルカ18:31-43
要 節:ルカ18:42、43「イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。」

先週、私たちは神の国は子どものように素直に受け入れる者たちのものであることを学びました。本当に、素直に御言葉を信じ、神の国を受け入れる人は神の国の民としての喜び、平安と愛の中で生きることができます。また、素直に御言葉を信じて自分を捨てて神様に近づく者にはこの世でも大いなる神様の祝福を受けるようになることも学びました。どうか、私たちひとりひとりがこの神の国の奥義を悟って神の国の喜びと恵みを経験し続ける生活ができるように祈ります。
今日は、イエス様が弟子たちに教えられたご自分の十字架と復活に関する予告とともに、子どものようにイエス様に叫び求めた盲人の信仰、彼の目が見えるようにしてくださったイエス様について学びます。私たち一人一人も霊的な目が開かれて見えるようになるように祈ります。

?.人の子は苦しみを受け、死んでからよみがえります(31-34)
 31節をご覧ください。「さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。」とあります。イエス様は、いよいよエルサレムに近づいて来られました。ピリポ・カイザリヤで、ペテロが、「あなたは神のキリストです。」と告白した後から、エルサレムへの旅が始まりました。イエス様はサマリヤとガリラヤの境を通ったりして回り道をしながらも、少しずつエルサレムへと向かっていました。そして、今、最後の最後の道のりを歩き始めます。エリコに行き、それからエルサレムへと歩きます。その理由は預言者の預言が実現されるためです。
メシヤが受けられる苦しみについては、旧約聖書に300以上の預言があります。有名なのはイザヤ53章や詩篇22編です。イエス様はご自分について預言されている「すべてのことが」実現されると強調されました。一部ではなく、90パーセントでもありません。すべてのことが実現されるのです。ではどんなことが実現されますか。イエス様はご自分に対する多くの預言を要約して言われました。
32、33節をご覧ください。「人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」とあります。ルカは、イエス様を苦しめるのが異邦人であることを記しています。ルカはたぶんアンテオケに生まれた異邦人であったと思われますが、この福音書はおもにギリシャ人および一般の異邦人のために記したものです。そこで、彼はイエス様が異邦人に引き渡され、そして彼らによって苦しみを受けると記しています。反面、ユダヤ人として、ユダヤ人のために書かれたマタイの福音書にはこう書いてあります。「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」とあります。
ここで、私たちはイエス様の御言葉に対する態度を学ぶことができます。ルカは異邦人として異邦人が加害者であることを記しました。マタイはユダヤ人としてユダヤ人が加害者であることを記しました。つまり、福音書の著者たちはそれぞれ自分たちこそイエス様に苦しみを与え、十字架につけて殺した張本人であると記しているのです。私たちも、イエス様の御言葉に対してそのような態度を持たなければなりません。自分に与えられた御言葉として読んでいかなければならないのです。「ユダヤ人って、なんて愚かなのだろう、」と思いながら読むのであれば、それは福音書が書かれた意図とはずれてしまいます。
キリストの十字架刑に至る最期の12時間を描いた映画「パッション」の監督メル・ギブソンは「あのキリストの十字架の死は、人間を罪から救い出すためであったと本当に分かったのだ」と言っています。そして、「キリストを十字架にかけたのは誰か」という記者の質問に「それは、私たちです。」と答えています。そうです。イエス様を十字架につけたのは他のだれでもなく、この私なのです。イエス様は私たちの罪のためにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられました。むちで打たれ、ついに殺されました。預言者の中でもイザヤはこのイエス・キリストの十字架をだれよりも深く理解していました。イザヤ書53:3- 6節を言います。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」とあります。イエス様は私たちの罪を贖うために罰せられました。使徒ペテロもこの十字架をよく理解して話しました。「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(?ペテロ2:24)
しかし、イエス様の苦しみと十字架の死が終わりではありません。33節に「しかし、人の子は三日目によみがえります。」とあります。イエス様は死者の中からよみがえられました。イエス様を信じる者たちのために神の国に至る永遠のいのちへの道を開いてくださいました。イエス様は十字架の道を通られた後で、神の栄光に輝かれます。復活は十字架によって初めて意味を持ちます。十字架なしの復活は、サタンのわなです。私たち人間は十字架なしに栄光を受けようとしてますが、十字架を避けて、恵みや祝福を話したり、神の力を語るのは危険なことです。イエス様が誘惑を受けられたとき、サタンに全世界の栄華を見せられたのと同じです。自分に対して死ぬとき、私たちは復活の力を経験します。パウロは言いました。「私は、キリストと復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者からの復活に達したいのです。(ピリピ10?11)」また、こう言いました。「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。(2コリント4:8?10)」
イエス様はこの十字架と復活について弟子たちに教えられたのです。ところが、弟子たちは、ここまではっきりと語られたイエス様の十字架と復活を理解しませんでした。34節をご覧ください。「しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。」とあります。弟子たちには十字架と復活が何一つ分からなかった理由は、彼らにはこの言葉は隠されていたからです。ではなぜ彼らに隠されていたのでしょうか。それはいろいろ考えられると思います。しかし、一番おきな理由は、彼らが持っているメシヤ観からあまりにもかけ離れていたからでしょう。このように、私たちの思いが一つのものに定められていると、自分の聴覚さえ機能しなくなります。聞こえているのですが、聞くことができないのです。
この間、勉強会の時は、「隠されていて」という表現についてかなり議論しましたが、「隠されていて」ということは主の不思議な働きです。神様は、彼らが理解できないように定められました。そして、キリストがただおひとりで、十字架につけられるようになさいました。神様は、ご自分の栄光を現わすために、心を開くことも閉じることもなされるのです。それで、今は分からないことがあとで分かるようになります。ヨハネの福音書13:7節を見ると「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」とありますい。実際にあとで彼らは分かるようになりました。ルカの福音書24:45-49節は言います。「そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」とあります。イエス様が天に上られると、彼らはイエス様のことがよくわかってイエス様を礼拝し、エルサレムに戻って神様を賛美するようになります。弟子たちはよみがえられたイエス様と人格的に出会った時に霊的な理解ができました。
 ここで、私たちはイエス様から大切なことを学ぶことができます。イエス様は弟子たちがまだ理解できなくてもご自分の十字架の苦しみと復活について繰り返して教えられました。教師の喜びは学生たちが自分の教えをよく理解してくれることです。教えても学生たちがよく理解なければ繰り返して教えるのに苦しみます。疲れてしまいます。ところが、弟子たちはベストの聖書先生であられるイエス様から教えられてもよく理解できませんでした。そんな弟子たちであってもイエス様は教えつづけられました。私たちがイエス様に見習う時、最後まであきらめることなく教えることができます。そして、私たちが十字架と復活を教えつづけると、兄弟姉妹たちはあとで分かるようになります。
アメリカで教授として働きながらWIUの開拓のために励んでいるJames Rabchuk牧者は16年間教会に通っても十字架と復活がよく分かりませんでした。しかし、彼にローマ人への手紙8:1節「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」という御言葉が臨まれたとき、生まれ変わりました。そして、イエス様の十字架と復活によって彼の人生は変わり、放蕩息子のような人生から教授牧者になりました。ですから、私たちは兄弟姉妹たちがまだよく分からなくてもイエス様の十字架と復活について教えつづけなければなりません。

?.盲人の目が見えるようにしてくださったイエス様(35-43)
35-37節をご覧ください。イエス様がエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていました。彼は盲人であり、乞食でありました。悲しい人生を送るしかない者でした。ところが彼は群衆が通って行くのを耳にしてイエス様が通っていかれることが分かりました。すると、彼はどうしましたか。
38節をご覧ください。「彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言った。」とあります。彼はイエス様をダビデの子として信じていました。彼はイエス様を見たことはありませんでしたが、イエス様のことを耳にしていたようです。そして「この方こそダビデの子、メシヤである」と信じていました。見えなくてもこんなに信仰がありました。ダビデの子イエス様に一度会うことも切に願っていました。ですから、彼にイエス様のことを知らせると、彼はすぐに叫び出しました。大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫んだのです。人々は彼を黙らせようとして、たしなめましたが、彼は引き下がりませんでした。彼は必死でした。彼はイエス様が通りかかったのを聞いて、この機会を逸したら、もう二度とこの機会は訪れないことを知っていたようです。それで、人々がたしなめても彼は、ますます叫び立てました。
 39節をご一緒に読んでみましょう。「彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。」とあります。彼は自分が盲人であることに対して恥ずかしく思わないでありのままイエス様に叫んでいます。昔ヤコブが「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」と、神の使いを捕らえて放さなかったように、この盲人はしつこく願いつづけています。人々が彼を叱って黙らせようとしてもますます激しく叫びつづけました。神様に近づくには、このような叫びが必要です。
イエス様は盲人の叫びを聞かれた時、どうなさいましたか。39節をご覧ください。イエス様はここで立ち止まり、盲人をそばに連れて来るように言いつけられました。私たちは、このイエス様を大祭司としています。イエス様は、私たちが叫ぶとき、いつでも助けてくださいます。「ですから、私たちは、あわれみを受け、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16)」とへブル書の著者は言いました。
41a節をご覧ください。「彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると、」とあります。イエス様は哀れみを求めてきた盲人に「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられました。なぜ、イエス様はこのような質問をされたでしょうか。それは彼に信仰があるかどうかを見るためでした。その時、盲人は何と答えられましたか。彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」と言いました。彼にはほしいものがいっぱいありました。乞食には食べ物が必要です。着物も、飲み物も必要です。生活のためには家も必要でしょう。それらを求めることができました。自分にふさわしい職場を求めることもできました。しかし、彼はそのようなものを求めませんでした。「目が見えるようになること」を求めました。光を求めました。彼は明るい世界を見ることを求めました。なぜなら、それこそ彼にとって最も急がなければならないことだったし、重要なことだったからです。もし、飲み食いすることがもっと重要なことだったら、おそらくそれらを求めたことでしょう。しかし、彼にとって最も切迫していることは見えるようになることでした。見えるようになることこそ、何よりも大切なことだったのです。
では、私たちにとって最も大切なこと、今求めなければならないことは何でしょうか。「わたしに何をしてほしいか。」と尋ねられるイエス様に私たちが最優先的に願い求めるべきことは何でしょうか。
皆さんは何だと思われるでしょうか。険しいこの世の中で生きている私たちにとって急いで求めなければならないことは何でしょうか。祭司の王国、聖なる国民として、本当に信仰ある人として信仰の生活をしたいと願っている私たちにとって最も重要なことであり、最も急がなければならないことは何でしょうか。
私の答えは「見えるようになること」です。イエス様は見えるようになることを求めた彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われました。このイエス様の御言葉から考えてみると、やはりイエス様が私たちに願っておられることも「見えるようになること」であることがわかります。私たちは物事を正しく見なければなりません。何よりも私たちに神様が見えなければなりません。私たちの目に全知全能の神様が見えるようにならなければなりません。私たちが神様を見ることができると、神様は私たちを緑の牧場に導き、いこいのほとりに導いてくださいました。険しい世の中でも私たちの顔は明るく輝くようになります。
使徒の働き6、7章を見ると、ステパノの殉教が記されています。彼はユダヤの律法を破ったことで石打にされて殺されるようになりました。ところが、告訴されてあざけられている彼の顔は御使いのようの顔のように輝いていました。皆さんが知っているとおりに、彼が置かれている状況は決して御使いの顔のようになれない環境でした。人々ははらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯軋りしました。そんな中でも彼の顔は天使のように輝いていたのです。どうやって、ステパノは御使いの顔になったのでしょうか。ステパノは天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエス様とを見たからです(7:55)。怒りに燃えてる群衆を見るのではなく、イエス様を見つめたからです。ヘブル12章2b節は言います。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」私たちはどんなに難しい状況の中でもイエス様を見えるようになれば、心は癒されます。たましいは生かされます。イエス様が見えてくると、悲しみが喜びになり、つぶやきが賛美に変わります。嘆息が祈りに変わります。マタイ3:16節は言います。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。」そうです。見えるようになることが祝福です。祝福の中で祝福は信仰の創始者であり、完成者であるイエス様を見つめ、イエス様から目を離さないことです。
 43節をご覧ください。「彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。」とあります。目が見えるようになった彼は神様をあがめながらイエス様について行きました。これを見て民はみな神様を賛美しました。

結論的にイエス様はエルサレムに向かって行かれる時、ご自分の十字架と復活について教えられました。十字架と復活こそ、最も大切なことだから弟子たちに繰り返して教えられました。そして、十字架の死が間近になっている時でもひとりの盲人の叫びを聞かれた時、立ち止まって目が見えるようにしてくださいました。
2000年前のイエス様は今日も生きて働いておられます。そして、私たちに言われます。「わたしに何をしてほしいのか。」疲れている人、重荷を負っている人たちに質問されます。盲人を哀れまれたそのあわれみ、同じ愛を持って私たちにも同じ質問をしておられるのです。「わたしに何をしてほしいのか。」私たちの問題を解決してくださるために、私たちの涙をぬぐいとってくださるために、私たちにやすらぎと天の喜びを与えるために聞いておられます。「わたしに何をしてほしいか。」
皆さんは何と答えるでしょうか。盲人のような切なる心、信仰を持って主に告げましょう。肉の目を閉じ、信仰の目を開いて神様に告白してください。主は言われます。「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。(エレミヤ33:2,3)」主がくださった約束です。この約束のとおりに私たちが主に呼び求めた願い事と叫びを主は聞いて答えてくださいます。それだけではありません。私たちの知らない、理解を超えた大いなる事までも見せてくださいます。その時、私たちは自分の理解を超えた神の国の世界、霊的な世界が見えるようになり、その素晴らしさを体験しながら聖なる国民として生きることができます。

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