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BibleMsg > ガヤテヤ人への手紙 > 05-07GAL キリストの律法を全うしなさい

05-07GAL キリストの律法を全うしなさい

投稿者: Calebkim 掲載日: 2005/11/13 (3217 回閲覧)
2005年ガラテヤ人への手紙第7講 

キリストの律法を全うしなさい

御言葉:ガラテヤ6:1-18
要 節:ガラテヤ6:2「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」

 ガラテヤ人への手紙の最後の章になりました。去る二ヶ月間、ガラテヤ人への手紙の御言葉を通して「信仰の義の福音」を明らかにし、「信仰の自由の福音」を守るように導いてくださった主の恵みを感謝します。パウロは、先週の御言葉で「御霊によって歩みなさい(16)」と言いました。「御霊によって歩む」と言うことは、隊列を組んで行進するということです。ところが、行進していく中で落後する人が出てきた時にはどうするべきでしょうか。御霊に歩んでいく仲間の中で、だれかがあやまちに陥ったらどうすればいいでしょうか。また、私たち自身は、ガラテヤ人への手紙を通して学んだ福音真理に対してどんな態度を持って生きるべきでしょうか。本文の御言葉を通してクリスチャンとして実際生活を守る生活ができるように祈ります。

?.善を行なうのに飽いてはいけません(1?10)
1節を読んでみましょう。「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」私たちクリスチャンは、御霊によって歩み、御霊の実を結ぶことを望んでいます。でも、願わずにあやまちに陥ってしまう場合もあるでしょう。よくあやまちに陥ってしまう人と一緒に生活をしなければならない時もあります。では、人のあやまちに対して、自分のことに対してどうするべきでしょうか。パウロは、まず「御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい」と命じています。大体、私たち人間は、自分に対しては甘くても人に対しては厳しいものです。人のあやまちに対しては口がうるさくなります。実際に正すことはできないくせに、陰口で言うことはよくするのです。それで、週刊誌とか、新聞の社会面にはスキャンダルとか、政治家の汚職、詐欺事件、盗難事件、殺人事件など人のあやまちに関する記事がほとんどです。人々はそういう記事を読んで人のあやまちを口にしてさばきます。しかし、御霊の人であるクリスチャンは、柔和な心であやまちに陥った人を正してあげなければなりません。ここで、パウロはガラテヤ教会に対して「御霊の人であるあなたがた」と言っています。「ああ、愚かなガラテヤ人たち。」と嘆いたパウロですが、ここでは同じ教会に対して「御霊の人であるあなたがた」と言っているのです。と言うのはガラテヤの聖徒たちが「御霊の人である」自覚を持って行動することを願ったからでしょう。私たちは自分に対して「こんな者だからしようがない。」と思わないで「御霊の人である」という自覚を持って振る舞う必要があります。「御霊の人」とは聖霊が留まっている人で、クリスチャンのことです。クリスチャンは普通の人間のように歩いてはいけません。常に人に関心を持って愛し、助ける必要があります。そして、あやまちに陥った人に対して無関心であってはなりません。自分のうちに住まわれる御霊に頼り、勇気を持って柔和な心で人を正してあげるべきです。人を正すことはやさしくありません。正すと、切れてしまう人もあるからです。それでも、教会は、柔和な心であやまちに陥った人を正す積極的な愛を実践しなければならないのです。そして、人を助け、人を正す人は、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなければなりません。自分も全く同じ罪を十分に犯してしまうような者だと知って恐れおののかなければなりません。神様の御前に、謙虚になって、「罪人のかしら」出身であることを忘れず、自分の肉の弱さのために神様の助けを祈り求める必要があるのです。
どうか、私たちが謙虚な心を持って自分を顧みながら悔い改め、あやまちのある人を正すこともできる霊的な人として成長することができるように祈ります。特に人を正すとき、主からの励ましとあわれみの言葉で助けることができるように祈ります。では人を具体的に助けるということは何でしょうか。
2節をご一緒に読んでみましょう。「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」「互いに重荷を負いなさい」と言っています。「重荷」とはあやまちの結果である重圧、緊張、のしかかる不安と恐れのことです。つまり、重荷を負い合うということは、人の悩み、のしかかる不安と恐れなどを理解し、負い合うことです。重荷を負い合ってくれる人によって重荷を負っている人は、慰められ、安らぎを得るようになります。
今年、四月、私は弟が交通事故で亡くなった夜、落ち着かず、兄としての悲しみと重荷を負っている時、家に来てくださったり、電話をかけてくださったりする方たちによって大きな慰めを得ました。重荷を負い合ってくださる方たちによって悲しみの心、傷ついた心は、少しずつ癒されてきました。本当に重荷を負い合うことは律法の教えにまさるものです。いくら正しい律法を語り合っても、重荷を負い合うことがなければ、そこには命も、力もありません。しかし、互いに重荷を負い合うところには慰めと激励があって、心が癒され、いのちが生かされるみわざが起こります。特に互いに謙虚な心を持って重荷を負い合う人たちが集まる教会は、生きた教会です。そこで、新しい創造のみわざが起こります。神様を愛し、隣人愛する律法を全うする教会になります。しかし、互いに重荷を負い合うのではなく、自分のことばかり主張するような教会は、どうなるでしょうか。人々が疲れてしまうでしょう。家でも同じことが言えるでしょう。何でも口出しをし、自分のことばかり言っている人の前では疲れてしまうでしょう。りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思う人たちと付き合うことは疲れることです。高慢な人とは話し合うことだけでも疲れるでしょう。ですから、私たちは自分自身がりっぱでもないのに、何かりっぱでもあるかのように思うことがないように気をつけなければなりません。
私たちはたまに、人を驚かせるようなりっぱなことをすることができます。一時的には自分のすべてをささげて献身的に兄弟姉妹たちに仕えることもできます。キャンパス伝道と1:1もできます。ちょっと努力すれば、りっぱな牧者だとか、りっぱな宣教師だと認められることもできます。しかし、持続的に善を行ない、伝道し続けることはなかなか難しいでしょう。ところが、一時的にやったことで自分には何か良いものがあるといううぬぼれた思いが出てきます。りっぱでもあるかのように思うのです。そうなると、互いに重荷を負い合い、愛を持って仕え合うことができなくなります。ですから、私たちはおのおの自分の行ないをよく調べてみる必要があります。よく考えてみると、あんな弱い部分がある、こんな醜い部分がある、あんな失敗をしている、などなど、引き出したら、いくらでもごみが私たちの生活から出てきます。このことを思うと、自分がりっぱであると思っていたことが、他の人には到底誇ることはできないということがよく分かるのです。ですから、霊的な人は、自分の行ないをよく調べてみる生活に励みます。御言葉の黙想、所感、日記などを通して真実な自分の姿を発見して悔い改め、へりくだる生活に励むのです。すると、人のあやまちよりも自分の負うべき使命が見えてきます。それで、自らを省みる生活がよくできている人は人のことを言う前に黙々と自分の使命を担います。
5節をご覧ください。「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」とあります。ここの「重荷」と、2節の「互いの重荷」の重荷(βάρςバロス)とは違います。2節の重荷は、まさに人の人生の重荷になることを意味していますが、5節の重荷(φορτίονポルティオン)とは自分に与えられた任務、責任、義務を表わすことばです。私たちは、それぞれ神様から任された任務、責任があると言うことです。自分の負うべき責任を負わなければ、結局、それは他人の重荷となります。ですから、自分のやるべきことを行なうことが大切なのです。主の恵みに基づいて神様から任された任務をしっかり果たしていくことができるように祈ります。
6節をご覧ください。「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。」とあります。「教える」という役割を受けているものがいて、「教えられる」という役割を受けている人もいます。御言葉を教える人はよく準備して教える必要があるし、教えられる人は教える人に感謝を表わす必要があります。ところが、ガラテヤ教会では御言葉を教える人をあまり尊く思っていなかったようです。牧者は誕生日のプレゼントをしたり、食事をおごったりしても羊の方はあまりお返しをしていなかったようです。そこで、パウロは物質的なもの、霊的なもの、精神的なものなど、良いものを分け合うように勧めています。私たちがすべての良いものを分け合う生活をすると、神様がごらんになり、祝福してくださいます。
 7節をご覧ください。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」とあります。神様は侮られるような方ではありません。私たちは御言葉を教えるために涙を持って祈り、マンツーマンノートを準備し、フィッシングのために励んでいてもなかなか伝道の実、弟子養成の実が結ばれないと落胆しやすいです。私はUBF新聞に載せられたヨーロッパ国際修養会、CIS国際修養会のことを通して恵みを受けながらも日本の支部長として劣等感を感じる時もありました。しかし、神様は侮られるような方ではありません。御言葉の種を蒔けば、実を結び、刈り取る時が来ます。問題は御言葉を教えるために立てられた牧者として、宣教師として御言葉を教えているかどうかということです。神様は御言葉を教える人の祈りと努力も、教えられた人が良いものを分け合うことも、全部知っていて報いてくださいます。それだけではありません。
8節をご覧ください。「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」とあります。私たちが自分のことしか考えず、自分の腹のためだけに財産を用いるのであれば、それにふさわしい報いを受けます。ルカ17:27-29節を見ると「ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。」とあります。自分の肉のために蒔く者は、ノア時代の人やソドムの人たちのように滅ぼされてしまうのです。しかし、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取ります。御霊に歩み、御言葉に取り組んでいれば、必ず豊かないのちにあずかるようになります。ローマ2:7節を見ると「忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、」とあります。ここで、私たちは何を求めるか大切であることを学ぶことができます。私たちが、くだらないテレビ番組を見つづけて、それで霊的に成長しようと考えるのは間違っていると思います。しかし、この時代を理解し、御言葉をよく教えるためにふさわしい番組を見ることは良いことでしょう。食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていることが悪いのではなく、何ためにしているのか、それが重要なことです。目的が神様のためなのか、自分の肉のためなのかということが大切なのです。1:1をしても自分の栄光のために、教会で認められるためにするなら、それは肉から滅びを刈り取るようになります。しかし、伝道のために、羊の永遠のいのちのために映画を見たり、バスケットボールをやったりするなら御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。ですから、私たちは頻繁に、毎日、御言葉に照らして自分の内面を調べてみる必要があります。神様の御前に生きる時、何を求めているかが大切なことだからです。御霊の人である私たちは、常に、栄光と誉れと不滅のものを求め、御霊のために蒔く者として生きなければなりません。ところが、一時的ではなく、全生涯を上げて御霊のために蒔くことはやさしくありません。堕落しているこの世に生きている限り、御霊によって歩み続けることはなかなか難しいのです。それで、使徒パウロは言っています。
9節をご一緒に読んでみましょう。「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」善を行なうことはすばらしいことです。悪を行ないたいと思っている人はいないでしょう。だれも善を行なうことを望んでいると思います。ところが、善を行い続けることはなかなか難しいことです。もともと、良いことは難しいでしょう。肉の命を助ける医者の仕事も良い仕事だから医者になることも、医者として人を治療することも難しいものです。永遠のいのちを与える牧者の仕事は言うまでもありません。とても大切な仕事だから難しいのです。特に、御霊のために蒔いても、その結果がすぐに見えるとは限りません。時間がかかります。だから、忍耐が必要です。そこでパウロは、善を行なうのに飽いてはならない。失望せずに、行ない続けなさい、と言っています。遅くても、必ず実を結ぶのです。ただ、日本のクリスチャンには、特に忍耐が求められるかも知れません。目に見えるかたちではなかなか現われない宣教だからです。しかし、これが無駄に終わることはありません。必ず刈り取る時期が来ます。涙とともに種を蒔く者は喜びながら刈り取るのです。
ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう(10)。私たちはすべての人に対して善を行なうことが必要ですが、特に信仰の家族に行なわなければなりません。困っている人、私たちの助けが必要な人が、この東京には何万人もいるでしょうが、まず自分たちの中で困っている人を助けなければなりません。まず、私たち家族で助け合っていく、これがクリスチャンの原則です。

?.大事なのは新しい創造です(11?18)
11節をご覧ください。「ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています。」とあります。パウロは代筆者に彼の口述を筆記させました(ローマ16:22)。それは、パウロの体が衰え、目が悪くなっていたからだと言われます。でも最後の結びの言葉を自分で書きました。不自由な手であっても、超重要な事項は激しく揺れ動く心情で書いたのです。
12?13節を読んでみましょう。「あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。」
ガラテヤの聖徒たちの中に旧約聖書の教えに従って割礼を受けなくてはいけないと教える人がいました。パウロはこの教えに対して、間違っていると反対しました。なぜなら、割礼を受けた人たちは、律法を守ろうとする純粋な動機から割礼を受けたのではなかったからです。彼らは、キリストを知らないユダヤ人の不信者に認めてもらうため、ただそれだけのために割礼を受けさせました。割礼を受けさせることによって、敬虔そうで、献身的そうで、信仰深そうな厳しさを打ち出そうしたのです。律法を大切にしているからではありませんでした。ただ、自分たちの肉を誇りたいために割礼を強制したのです。しかし、パウロはどうですか。
14節をご一緒に読んでみましょう。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」パウロは「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」と断言しています。彼はだれよりも十字架の恵みを深く知っていました。彼がイエス様に出会う前は、だれよりもイエス様とその聖徒たちを迫害していました。彼のキリスト教会に対する猛烈な態度は気の狂った犬のようでした。彼は自分自身のことが罪人のかしらであったと告白しています(?テモテ1:15)。実に彼は燃える地獄の池に投げ捨てられるべき罪人のかしらでした。ところが、イエス様の十字架の恵みによって彼は新しく生まれ変わりました。十字架の恵みによって罪人のかしらから世界の歴史の流れを変えてしまう大使徒になりました。ですから、何が大事なことでしょうか。
15節をご一緒に読んでみましょう。「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」 新しい創造、つまり、御霊によって新しく生まれることです「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(?コリント5:17) イエス・キリストによって私たちに新しい創造が起こっています。これは奇跡です。割礼、学歴、地位などが問題ではなく、イエス・キリストの十字架による、新しい創造こそが大事なのです。これが、パウロがガラテヤ3章、4章で論じていた、信仰によるアブラハムの子孫ということです。神様によって新しくされたこの歩みが大事なのです。割礼という外の傷は大事なことではありません。私たちが、外見のことを大事にすることが、どれだけたくさんあることでしょうか。教団・教派、何々神学、年齢、牧師・信徒、聖霊派・福音派など、数え出したら切りがありません。私自身も、UBFの宣教師であることを誇りとして思っています。しかし、私がUBF宣教師であること、牧師であることが大事なことではありません。大事なのは、イエス・キリストの十字架によって過去の私は死に、よみがえられたイエス様とともに生かされていることです。イエス・キリストの十字架、それによって私たちは救われました。十字架によってすべてが新しくなりました。この新しい創造が大事なのです。私たちはただ、「キリストにあって、新しく創造された神の子どもである。」という真理を保っていかなければならないのです。
 16―17節をご覧ください。「どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、兄弟たちよ、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。」パウロは、最後の挨拶の中で、イエス・キリストの十字架によって新しく生まれた自分の身に焼印を帯びていることを告白しています。当時、囚人や奴隷に自分のものだというしるしとしての焼印を帯びていました。パウロはキリストの奴隷としてその身に、キリストの焼印を帯びていたのです。実際に、彼の体はあざだらけ、傷だらけでした。これはパウロがキリスト者であることのしるしであり、パウロのようではなくても、クリスチャンすべてのしるしなのです。パウロはイエス様の奴隷であることを誇りとしています。

結論的に、ガラテヤ人への手紙の学びは終わりますが、これからの生活が、律法的なこと、形式的なことを捨てて、ただ、福音真理の上に堅く立って生きるように祈ります。善を行なうことをあきらめないで、福音の種を蒔き続けるように祈ります。特に、割礼を受ける、受けないという外面的なことよりも、イエス・キリストの十字架によって日々新しく創造されて行くことができるように祈ります。

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