2014年クリスマス特集第1講

私たちのために、
神様に見捨てられたイエス・キリスト

御言葉:マタイの福音書27:11−66
要 節:マタイの福音書27:46
「三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。」

 メリークリスマス!!私たちの救い主、イエス様の誕生を心からお祝いします。
 先週の御言葉を通して、私たちは、「ゲツセマネの祈り」について、学びました。
これは、「イエス様の大祭司の祈り」とも言われています。イエス様は、神様の御心を成し遂げるために、オリーブ山で、血の汗を流すほどに切実に祈られました。それは、全ての人々を罪と死から救うために、イエス様が「神の子羊」となられ、救いの御業を完成することでした。祈りを終えられたイエス様は、イスカリオテのユダの裏切りによって、逮捕されました。大祭司カヤパの官邸で、ユダヤの議会(サンヘドリン)によって尋問されました。そして、神性冒瀆罪で、イエス様を処刑にすることに決定しました。
 今日学ぶ箇所は、このイエス様が神様に捨てられ、十字架の上で尊い血を流し、死んで葬られる出来事が記されています。イエス様が神様に捨てられ、十字架につけられたのは、私たちの罪と咎を贖うためでした。このイエス様の十字架の死と復活によって、私たちは罪と死から解放されたのです。クリスマスは、この救い主であるイエス様の誕生をお祝いし、記念する日です。
この時間、私たち一人一人が、世の罪を取り除く神の子羊としてお生まれになったイエス様のことを考え、心に深くお迎えすることができるように祈ります。また、私たちの身代わりとなって神様に捨てられ、十字架の上で尊い血を流されたイエス様のことを考え、救いの恵みに預かることができるよう、お祈りします。
 11節をご覧ください。「さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに『あなたは、ユダヤ人の王ですか。』と尋ねた。イエスは彼に『そのとおりです。』と言われた。」
イエス様が総督ピラトの前に立った時、ピラトはイエス様に尋ねました。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」宗教指導者たちは、イエス様を処刑するためにピラトに引き渡しましたが、その訴状は、「ローマの皇帝カイザルに反逆している」として、政治犯としてイエス様を訴えました。その当時の、ユダヤ人の王はヘロデですが、彼はローマ帝国カイザル公認の王でした。このヘロデをさしおいて、別に王を立てることは、まさにローマの皇帝カイザルに対する反逆行為にあたりました。それにも関わらず、イエス様は少しもためらわずに、お答えになりました。「そのとおりです。」
イエス様は、神様がお認めになった「ユダヤ人の王」です。ここで、「ユダヤ人の王」とは、旧約時代に預言されたキリスト、救い主であることを話してくれます。「クリスマス」とは、「キリストを祭る」という意味があります。そのキリストがイエス様です。クリスマスの時期になると、教会では、ヘンデルの「メッサイヤ」を合唱し、演奏します。一度は聞いたことがある「ハレルヤ」では、イエス様を指して、「王の王、主の主、万軍の王」と歌っています。このイエス様がお生まれになったのがクリスマスなのです。また、クリスマスの時期になると、「東方の博士たち」の話が出て来ます。
イエス様がベツレヘムの地でお生まれになった時、東方の博士たちはヘロデの王に次のように尋ねました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」(2:2)。イエス様は、神様が約束された救い主であり、天の御国を統べ治める王です。イエス様は、総督ピラトの前では、ご自分がユダヤ人の王であることを、はっきりとお示しになりました。反面、宗教指導者たちが、イエス様に不利な証言をしている時には、何もお答えになりませんでした。「どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。」とあります(14)。普通、冤罪になれば、人は自分の無罪を主張するものです。私は仕事をしていると、よくクレームの電話がかかって来ることがあります。その中で、明らかに身に覚えのないことで、苦情を言われることがあります。「私ではありません」と言いたくもなります。その時は、「誠に申し訳ありませんでした。」と丁重にお詫びをしますが、電話を切った後では、はらわたが煮えくりかえります。「一体、誰がそのようなことをやらかしたのか」と犯人捜しをし、一言、文句が言いたい気分です。ところが、イエス様はどうでしょうか。ゲツセマネで、切に祈られたイエス様は、十字架を背負うことを決断されました。神様に頼って祈ったイエス様は堂々としていました。ユダヤ人たちが不利な証言をしても、ゆるがない心を持っておられました。神様の御子としての威厳も兼ね備えていたことでしょう。イエス様の態度の前は、当時の権力者である総督ピラトも非常に驚くほどでした。
 18節を見ると、ピラトは、宗教指導者たちが、自分たちのねたみからイエス様を引き渡したことに、気づいていたことが分かります。イエス様には、何の罪もありませんでした。そこで、ピラトは、過越しの祭りに、群衆のために、いつも望みの囚人をひとりだけ赦免している慣習を利用しようとしました。そこで、群衆に尋ねました。
17節をご覧ください。「あなたがたは、だれを釈放して欲しいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」バラバは悪名高き囚人でした。ピラトは、バラバの名前を上げることで、群衆がイエス様を釈放して欲しいと願うのを期待したようです。
ところが、群衆の反応は予想外のものでした。彼らは「バラバだ。」と答えました(21)。そして、いっせいにイエス様を「十字架につけろ。」と言いました(22)。ピラトは、何とかしてイエス様を釈放しようとしました。しかし宗教指導者たちから説きつけられた群衆は、ますます激しく「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫び続けました。結局、ピラトの手に負えなくなりました。群衆の暴動を恐れたピラトは、群衆の願い通りに、バラバを釈放せざるを得なくなりました。そして、イエス様をむち打ってから、十字架につけるために引き渡しました。ネブ・ギブソン主演の「パッション」には、その光景が生々しく描かれています。イエス様のからだは、むちで打たれた事によって、肉がえぐられました。その傷口から血が流れ出て、血で真っ赤に染まっていました。
ローマの兵士たちは、イエス様の着物を脱がせて、緋色の上着を着せました。それから、いばらで冠を編み、イエス様の頭にかぶらせました。イエス様の額は、いばらで傷つけられ、血が流れ出ていました。イエス様の右手に葦を持たせた後、彼らはイエス様の前にひざまづいて、からかって言いました。「ユダヤ人の王さま。ばんざい」(27-29)。そして、彼らはイエス様につばきをかけ、葦を取り上げてイエス様の頭をたたきました。こんなふうに、イエス様をからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出しました(30,31)。イエス様の体は、もはや限界に達していました。心身共に疲れ果ててしまったイエス様は、十字架を背負うだけの気力すら残っていませんでした。それで、ローマの兵士たちはシモンというクレネ人に、イエス様の十字架を、無理やりに背負わせました(32)。
 ゴルゴダという所に来てから、兵士たちは、イエス様を十字架につけました。イエス様の両手首と両足首に太い釘を打ち込みました。刑場には、釘を打つことが響き渡りました(カンカンカン)。そして二人の死刑囚の真中にイエス様の十字架を立てました。イエス様の罪状書きには、当時の公用語である、ラテン語とギリシャ語とヘブル語で「ユダヤ人の王」と書かれていました。それは、はからずも、世界中の人々に、イエス様が約束されたメシヤであることを知らせることになりました。