2006年列王記第一第5講

エフーの主に対する熱心

御言葉:列王記第一8-10章
要 節:列王記第一10:16「私といっしょに来て、私の主に対する熱心さを見なさい。」と言った。ふたりは、彼の戦車に乗って」

先週、私たちはエリシャが霊的な目を持って希望のメッセージを伝えていたことを学びました。また、エリシャは敵軍であるアラム軍を捕まえましたが、彼らを殺しませんでした。むしろ、彼らをもてなして帰らせました。彼は心優しく、敵をも愛する心を持っていたのです。しかし、エリシャは神様の義を立てるためにはとても厳しくなりました。彼はイスラエルを苦しませ、血を流したベン・ハダデを殺すためにハザエルを立てました。アハブとイゼベルの家を滅ぼすためにはエフーを王として立てました。そしてハザエルとエフーは神様のさばきのために用いられました。では、彼らはどのような姿勢を持って神様から与えられた使命を果たしたでしょうか。
この時間、エリシャの働きとともに、ハザエルとエフーが神様から与えられた使命をどのように果たしたのかを学びたいと思います。また、彼らを用いて預言された御言葉のとおりに成し遂げられる神様を学ぶことができるように祈ります。特に預言の御言葉が成就していく過程の中で自分の使命を忠実に行なったエフーの主に対する熱心さを深く学ぶことができるように祈ります。

?.神様の保護と恵み、罪の影響(8章)
今まで私たちが学んだ1章から7章までにはエリシャのことと、彼が行なった数々の奇跡がまとめられていました。8章からは奇跡的なことよりも歴史的なことが記されています。悪王アハブの子孫たちが神様のさばきを受けたこと、北王国イスラエルと南王国ユダが滅亡する悲しい歴史が記されています。
8章1?6節は、時間的に四章に記されているききんの時にあったと思われる出来事を記しています。恐らく、列王記の著者は6章の終わりからサマリヤにあったききんについて記したゆえに、この出来事を思い出して挿入しただろうと思われます。時間的には4章(38節)に記されたききんの時にあったことを8章の初頭に記したのです。そういうわけで、5章においてらい病になっていたゲハジが、まだ神の人に仕える若い者として王宮にいます。もし、らい病にかかっていたら王の前に出ることは出来なかったはずです。しかし、彼は王の話し相手になっています。ではその時に、どんなことがありましたか。
1節をご覧ください。エリシャは、かつて子どもを生き返らせてやったあの女に家族の者たちと旅に立つように話しました。主がききんを起こされたので、イスラエルは七年間、ききんに見舞われるからです。エリシャはイスラエルがききんによって懲らしめられてもシュネムの女とその家族は救われるように助けています。神様は神様に仕える忠実な人を顧みて保護しておられることが分かります。彼女は神の人エリシャのことばに従って出発しました。家族の者を連れてペリシテ人の地に行き、七年間滞在しました。その後、彼女はペリシテ人の地から戻って来ました。すると、彼女の家と土地に対する権利がすでに失われていました。そこで、彼女は自分の家と畑を得ようと王に訴え出たわけです。でも、国はまだ帰ってきた避難民に対する対策を立てていなかったでしょう。外人扱いを受けざるを得なかったでしょう。ところが、そのころ、ゲハジは王のそばにいてエリシャが行なったすばらしいことを話していました。ゲハジはシュネムの女の子どもを生き返らせたことを王に話していたのです。ちょうどそこに、彼女が現われたので、ゲハジは言いました。「王さま。これがその女です。これが、エリシャが生き返らせたその子どもです。」結局、王は彼女の話を聞いてひとりの宦官に命じて言いました。「彼女の物は全部返してやりなさい。それに、彼女がこの地を離れた日から、きょうまでの畑の収穫もみな、返してやりなさい。」こうして、彼女の家と土地は回復されました。それだけではありません。彼女は自分がいなかった時の収穫もみな、返してもらえる恵みを受けました。聖書に「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(伝道者の書3:11)」とありますが、そのとおりです。神様は摂理の中に彼女の家族を顧み、恵みを施してくださいました。神様はちょうど良い時に、ちょうど良いことを行なってくださることがわかります。ほんとうにそうです。パウロは言いました「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)。
7?15節はエリシャが神様の義のためにハザエルを立てた出来事です。
7?9節をご覧ください。エリシャがダマスコに行ったときのことです。アラムの王ベン・ハダデは病気でしたが、彼に「神の人がここまで来ました。」という知らせがありました。そこで、王はハザエルに贈り物を持って行って、神の人を迎えて自分の病気が直るかどうか、主のみこころを求めてくれるように言いました。ハザエルは王に言われたとおりにしました。ところが、エリシャは何と言いましたか。
10節をご覧ください。「エリシャは彼に言った。「行って、『あなたは必ず直る。』と彼に告げなさい。しかし、主は私に、彼が必ず死ぬことも示された。」」とあります。エリシャは王が直りましたが、必ず死ぬことも示されたと言いました。病が直りますが、死ぬと言うことは死ななければならない理由があるということです。その理由が分かっているエリシャは泣き出しました。ハザエルはその理由が分からなかったので、「あなたさまは、なぜ泣くのですか。」尋ねました。そこで、エリシャは「私は、あなたがイスラエルの人々に害を加えようとしていることを知っているからだ。」と答えました。エリシャはハザエルがイスラエルの要塞に火を放ち、その若い男たちを剣で切り殺し、幼子たちを八裂にし、妊婦たちを切り裂くことが分かったので泣かざるを得ませんでした。自分の民族にこんなに悲惨なことを起こると思った時、どんなに悲しかったでしょうか。泣かずにはいられなかったでしょう。しかし、ハザエルは言いました。「しもべは犬にすぎないのに、どうして、そんなだいそれたことができましょう。」しかし、エリシャは「主は私に、あなたがアラムの王になると、示されたのだ。」と言いました。エリシャはイスラエルに起こることを考えると泣かざるを得なかったのですが、主から示されたことを伝え続けたのです。そして、エリシャの預言はそのとおりに成就しました。15節を見ると、「ハザエルは毛布を取って、それを水に浸し、王の顔にかぶせたので、王は死んだ。こうして、ハザエルは彼に代わって王となった。」とあります。ハザエルはエリシャから言われたとおりに行ない、ベン・ハダデに代わって王となりました。
16-29節にはユダの王ヨラムの治世とエドムとリブナの反逆に関して記されています。(PPTを見ながら聞いてください)。ユダの王ヨシャパテの子ヨラムは三十二歳で王となり、エルサレムで八年間、王でした。彼はアハブの家の者がしたように、イスラエルの王たちの道に歩みました。その理由は聖書に「アハブの娘が彼の妻であったからである。」と記されています。
夫の品性と行ないはその妻によって大いに感化されるものです。信仰の良い妻に恵まれた人の信仰はますます良くなりますが、アハブのように偶像崇拝と貪欲の罪を犯し続ける妻と一緒に暮らす人は自分も知らずに悪影響を受けるようになります。それゆえ、神様に仕える敬虔な人として生きようとする者は不信仰の人と結婚してはなりません。ヨラムは不信仰のアハブの娘と結婚したために主の目の前に悪を行ないました。その悪のために、彼は滅ぼされなければならなくなりました。でも、主は、そのしもべダビデに免じて、ユダを滅ぼすことを望まれませんでした。しかし、彼が主の目の前に悪を行ない続けると、ユダは弱くなっていきました。エドムも、リブナもユダに背いてユダの支配から脱しました。ヨラムは死んでダビデの町に葬られ、彼の息子アハズヤが王となりました。その時、イスラエルはアハブの子ヨラムが12年間統治していました。ユダのアハズヤは二十二歳で王となり、エルサレムで一年間、王でした。彼の母の名はアタルヤといい、イスラエルの王オムリの孫娘でした。オムリはアハブの父です。つまり、アハズヤはユダの王でありながらも政略的にイスラエルの王アハブの子孫と結婚していたのです。それゆえ、彼はアハブの家の道に歩み、アハブの家にならって主の目の前に悪を行ないました。アハズヤはアハブの子ヨラムと親しくなり、アラムの王ハザエルと戦う時は共同作戦で行きました。ところが、ヨラム王はアラム人に負わされた傷をいやすため、イズレエルに帰って来ました。アハズヤもヨラムが病気であったので、彼を見舞いにイズレエルに下って行きました。
このように、イスラエルだけでなくユダもいっしょになって、アハブ家の道にならって悪を行なっていくようになりました。神様はユダの王ヨラムがアハブの娘と結婚したために悪を行ないましたが、ダビデに免じて彼を滅ぼされませんでした。しかし、彼の息子もアハブ家の婿となり、アハブ家の道にならって悪を行なっていくと、神様は黙っておられなくなりました。神の人エリシャはその神様のみこころを知り、神様のさばきを行なう計画を立てました。私たちは神様がさばきを行なう前に先祖から伝わった罪の流れを断ち切る必要があります。そのためにすべての罪の流れをイエス・キリストの十字架の死とともに葬り、死者の中からよみがえられたイエス様とともに生きなければなりません。?ペテロ1:18、19節を見ると「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」とあります。私たち一人ひとりがイエス・キリストによって先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されるように祈ります。そして、聖なる家系を受け継がせるために信仰の結婚をし、信仰の嫁を迎えることも大切です。そうでなければ、ユダのようにいつの間に不信仰の者、神様が忌み嫌われるアハブ家の偶像崇拝者たちが自分の家系に入り込んで滅ぼされるようになるからです。では、エリシャは神様のさばきをどのように行ないましたか。

?.神様のさばき、エフーの主に対する熱心さ(9章、10章)
9章1?13節はエリシャがアハブの家に対する神様のさばきを行なうために使者を派遣してエフーを立てる内容です。
1?3節を見ると、エリシャは預言者のともがらのひとりを呼んでエフーの頭の上に油をそそいで彼がイスラエルの王とすることを伝えるようにしました。そこで、預言者に仕える若い者はエリシャが指示したとおりに行ない、エフーに神様のみこころを伝えました。
9:7?10節を読んでみましょう。「あなたは、主君アハブの家の者を打ち殺さなければならない。こうしてわたしは、わたしのしもべである預言者たちの血、イゼベルによって流された主のすべてのしもべたちの血の復讐をする。それでアハブの家はことごとく滅びうせる。わたしは、アハブに属する小わっぱから奴隷や自由の者に至るまでを、イスラエルで断ち滅ぼし、アハブの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにし、アヒヤの子バシャの家のようにする。犬がイズレエルの地所でイゼベルを食らい、だれも彼女を葬る者がいない。』」こう言って彼は戸をあけて逃げた。」エフーはアハブの家に属するすべての者を断ち滅ぼす使命を受けてから彼の主君の家来たちのところに出て来ました。すると、エリシャが遣わした預言者のともがらのひとりは主から仰せられたことを知らせました。「エフーはイスラエルの王となる」と言うことです。すると、彼らは大急ぎで、みな自分の上着を脱ぎ、入口の階段の彼の足もとに敷き、角笛を吹き鳴らして、「エフーは王である。」と言いました。エフーはイスラエルの王となったのです。エフーはアハブの家をさばく使命を受けて王となったのです。その使命とは義人の血に対する報復でもありました。アハブが多くの預言者たちを殺し、忠実な神のしもべたちの血を流しましたが、それに対する報復がエフーの使命であったのです。では王となってエフーは自分に与えられた使命をどのように行ないましたか。
9:14?10:38節はエフーが具体的に神様のさばきを行なう内容です。14?16節を見ると、まずエフーはヨラムを殺す計画を立てました。そこで、彼は車に乗ってイズレエルへ行きましたが、そこにヨラムも、アハズヤもいたからです。17?26節は、エフーがヨラム王を殺したことに関する記録です。24節を見ると「エフーは弓を力いっぱい引き絞り、ヨラムの両肩の間を射た。矢は彼の心臓を射抜いたので、彼は車の中にくずおれた。」とあります。エフーはヨラムを殺してから侍従のビデカルに何を命じましたか。25,26節をご覧ください。「エフーは侍従ビデカルに命じた。「これを運んで行き、イズレエル人ナボテの所有地であった畑に投げ捨てよ。私とあなたが馬に乗って彼の父アハブのあとに並んで従って行ったとき、主が彼にこの宣告を下されたことを思い出すがよい。『わたしは、きのう、ナボテの血とその子らの血とを確かに見届けた。・・主の御告げだ・・わたしは、この地所であなたに報復する。・・主の御告げだ・・』それで今、彼を運んで行って、主のことばのとおり、あの地所に彼を投げ捨てよ。」
このエフーの命令は、かつてエリヤに対して主が語られていた通りのものでした。アハブが、ナボテ所有のぶどう畑を、彼を殺すことによって盗んだことをきっかけにして、エリヤがアハブにこう言いました。列王記第一21章21節から24節です。「今、わたしはあなたにわざわいをもたらす。わたしはあなたの子孫を除き去り、アハブに属する小わっぱも奴隷も、自由の者も、イスラエルで絶ち滅ぼし、あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにし、アヒヤの子バシャの家のようにする。それは、あなたがわたしの怒りを引き起こしたその怒りのため、イスラエルに罪を犯させたためだ。また、イゼベルについても主はこう仰せられる。『犬がイズレエルの領地でイゼベルを食らう。』アハブに属する者で、町で死ぬ者は犬どもがこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らう。」かつて、ヤロブアム家は、バシャによって粉砕されました(PPT参照)。そしてバシャ家もジムリによって滅ぼされました。同じようにアハブ家も滅ぼされる、という預言です。エフーはこの預言を実行しています。エフーはヨラム王が殺されることは罪の結果であり、神様の預言の成就であると認識しました。
27?29節を見ると、エフーはヨラムの次にユダの王アハズヤ王も殺します。ユダの王アハズヤはイスラエルの王ヨラムが殺されることを見ると、ベテ・ハガンの道へ逃げました。エフーはそのあとを追いかけて、「あいつも打ち取れ。」と叫んだので、彼らはイブレアムのそばのグルの坂道で、車の上の彼に傷を負わせました。それでも彼はメギドに逃げましたが、そこで死にました。
30?37節はアハブの妻イゼベルを殺したことです。イゼベルは、あの預言者エリヤを脅かし続ける力を持っていました。しかし、彼女の死はまさにエリヤが預言したとおりになっています。エフーがイズレエルに来たとき、イゼベルはこれを聞いて、目の縁を塗り、髪を結い直し、窓から見おろしていました。エフーは門にはいって来ましたが彼女は、「元気かね。主君殺しのジムリ。」と言いました。ジムリは約45年前にバシャの子エラを殺して王位を奪い取った人です。でも、彼はただ七日間王であってオムリに殺されました。ですから、イゼベルはエフーに「お前もジムリのようにすぐに殺されるよ」ということを言っているのです。 しかし、イゼベルはエフーにくみする宦官によって殺されました。彼女の血は壁や馬にはねかかりました。エフーは彼女を踏みつけました。そして、彼は内にはいって飲み食いしてから「あののろわれた女を見に行って、彼女を葬ってやれ。あれは王の娘だから。」と言いました。彼らが彼女を葬りに行ってみると、彼女の頭蓋骨と両足と両方の手首しか残っていませんでした。それで彼らは帰って来て、エフーにこのことを知らせました。すると、エフーは言った。「これは、主がそのしもべティシュベ人エリヤによって語られたことばのとおりだ。」と言いました。エフーはイゼベルの死も、エリシャに語られた預言のとおりであると認識したのです。
10:1?11節はエフーがサマリヤに残されたアハブの七十人の子どもたちを殺した内容です。エフーはこの使命を果たすために手紙を書いてサマリヤに送り、サマリヤのつかさたちに七十人を皆殺しにさせます。8節を見ると「使者が来て、「彼らは王の子どもたちの首を持ってまいりました。」とエフーに報告しました。すると、彼はそれらを民に見せてすべての民に言いました。「あなたがたには罪はない。聞け。私が主君に対して謀反を起こして、彼を殺したのだ。しかしこれらの者を皆殺しにしたのはだれか。だから知れ。主がアハブの家について告げられた主のことばは一つも地に落ちないことを。主は、そのしもべエリヤによってお告げになったことをなされたのだ。」そして、エフーは、アハブの家に属する者でイズレエルに残っていた者全部、身分の高い者、親しい者、その祭司たちを、みな打ち殺し、ひとりも生き残る者がないまでにしました。
12?17節はエフーがアハズヤの身内の者たちを殺したことです。アハブの子どもたちを殺したエフーは立ってサマリヤへ行きました。それから、ユダの王アハズヤの身内の者たち四十二人を殺し、ひとりも残しませんでした。エフーはアハブに属する者で、サマリヤに残っていた者を皆殺しにし、その一族を根絶やしにしました。これも主がエリヤにお告げになったことばのとおりでありました。
18-36節はエフーがバアルの預言者や信者たちを殺したことです。エフーは自分がバアルに大いに仕えるつもりだと悪巧みを計りました。そしてバアルの信者たちが皆集まると、近衛兵や侍従たちによって彼ら打ち殺しました。そしてバアルの宮の石の柱を運び出して、これを焼き、バアルの石の柱をこわし、バアルの宮もこわし、これを公衆便所としました。このようにして、エフーはバアルをイスラエルから根絶やしにしました。ただし、エフーは、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪、すなわち、ベテルとダンにあった金の子牛に仕えることをやめようとはしませんでした。それはほんとうに悪いことでした。そこで、主は何といわれましたか。30、31をご覧ください。「主はエフーに仰せられた。「あなたはわたしの見る目にかなったことをよくやり遂げ、アハブの家に対して、わたしが心に定めたことをことごとく行なったので、あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に着こう。」10:31 しかし、エフーは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかった。」とあります。その時から、主はイスラエルを少しずつ削り始めておられました。ハザエルがイスラエルの全領土を打ち破ったのです。

以上をまとめますと、エフーが人々を殺したことばかりが記されていました。イスラエルの王ヨラム、ユダの王アハズヤをはじめ、アハブに属するすべての者たち、バアルの信者たちを殺しました。人殺しは決して赦されるようなことではありません。十戒を見ても「殺してはならない」とあります。しかし、エフーは神様のさばきの器として用いられました。個人的な感情によって人々を殺したのではありません。ではエフーを通してイスラエルを懲らしめられ、さばきを行なわれる神様と、神様の器エフーを通して何を学ぶことができるでしょうか。
第一に神様は罪を犯した者を裁かれる方であることです。神様は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった時、洪水によって人類を裁かれました(創世記6:5)。ききんの時にも助けられたシュネムの女のように、神様の御言葉に従ったノアと家族は救われましたが、全人類は洪水に溺れて死ぬさばきを受けたのです。そして、黙示録21:8節を見ると「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」とあります。
第二に神様はすべての御言葉を成し遂げられるということです。エフーによってアハブとイゼベル、バアルの信者たちが殺されたのは偶然ではありません。神様がエリヤに語られたとおりに成し遂げられたのです。神様は聖書に約束されたすべての御言葉を成し遂げられます。すべての御言葉は成就するのです。
第三に、エフーの主に対する熱心です。10:16a節をもう一度読んでみましょう。「私といっしょに来て、私の主に対する熱心さを見なさい。」と言った。」エフーは「私の主に対する熱心を見なさい」と言いました。自分の熱心を誇ることはいいことではないと思います。高慢な者は自分の熱心を誇ります。しかし、私たちが主に対する熱心さを持つことはとても大切なことです。エフーは自分に与えられた使命を熱心に行ないました。ある程度、適当に行なったのではありません。燃えている炎のような熱心を持って主からいただいた使命を果たしたのです。パウロは「良いことで熱心に慕われるのは、いつであっても良いものです(ガラ4:18)」と言いました。多くの人は、「熱心な」キリスト者だとみなされるのを恥と感じるでしょう。また、多くの人が熱心な人を見るとすぐに、昔、フェストが大声で、パウロに言ったように、「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている。」と言うでしょう。しかし、私たちが熱心なキリスト者になることを恐れるべきではありません。むしろ、聖なる熱心を愛し、賞賛すべきです。聖なる熱心とは主に対する熱心です。主に対する熱心とは神様を喜ばせることです。熱心な人は、たとえ自分が生きようと、死のうと、賢いと思われようと、愚かと思われようと、非難されようと、賞賛されようと、こうしたことをみな全く気にしないほどに自分の使命に燃えています。そして、この熱心さは数え切れない祝福と恵みをもたらします。この世界は熱心な人たちによって支えられ、動いているとも言えるでしょう。何よりも、イエス様は私たちに熱心の実例を見せてくださいました。もしもいまだかつて全く熱心であった人物を言うなら、それは私たちの偉大な模範であられるお方、私たちの大祭司、イエス・キリストです。イエス様はまだ暗いうちに起きて祈られることから熱心な一日を過ごしておられました。イエス様は心を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして熱心に主の使命を果たす生涯を過ごされました。ついに、十字架の上でご自分のいのちまでもささげたほどにすべての人生を燃やされました。私たちがこのイエス様の熱心を学んで生きることができるように祈ります。エフーのように自分の熱心さを誇ることはよくないと思います。しかし、彼が与えられた使命に熱心であったことを学びましょう。聖なる使命だけではなく、自分の勉強や仕事においても燃えるような熱心さを行なうことができるように祈ります。