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9-15 イスラエルの神様

2000年創世記第15講

 

イスラエルの神様

 

御言葉:創世記32?35章,48,49章

要 節:創世記35:10

「神は彼に仰せられた。『あなたの名はヤコブであるが、あなたの名はもう、

ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。』

それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。」

 

先週は新年修養会を通して御言葉による恵みと新年度方向を与えてくださった主に感謝します。きょうは中央大学開拓者派遣礼拝として捧げるようになりました。きょう派遣されるノノア宣教師は東京UBFの開拓の時からともに信仰生活をして来ました。主がこの家庭を中央大学学生達のいのちを生かす御業に貴く用いてくださるように祈ります。

去年私達は創世記を学んでいましたが、クリスマスの御言葉を学ぶために今まで休んでいました。きょうから残っているところを学びたいと思います。去年ヤコブの神様まで学びました。きょうの御言葉はヤコブがイスラエルに変わる内容です。ヤコブは人々と戦って勝利し、願っていたものをすべて手に入れた人です。彼は足りないものがなさそうに見える人です。ところが、神様は彼に今までの祝福とは違う新しい祝福を与えようとされました。本文の御言葉を通して神様がヤコブに与えようとする真の祝福は何であり、イスラエルの神様はどんな方であるかについて学びたいと思います。

 

?.ペヌエルの神様(32,33章)

 

ヤコブは故郷を離れる時には空手でしたが20年ぶりに故郷に帰る時には多くの財産と家族を持っていました。神様は故郷に帰えるヤコブのために御使いを遣わして彼を守ってくださいました。それにもかかわらずエサウが四百人を引き連れてやって来ることを聞いたヤコブは非常に恐れ、心配していました。20年間骨折って働いた結果儲けたすべてのものが一瞬になくなってしまうのではないかと心配していたでしょう。また、エサウによって殺されるのではないかという恐れがあったでしょう。それで彼はいっしょにいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けて、「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう。」と言いました。そして神様に祈り始めました。彼はアブラハムの神、イサクの神に恵みを施してくださるように祈りました。また、約束の御言葉に基づいて祈りました。彼の祈りは緊急救助を要請する祈りでした。しかし、彼は祈り終わった時にも安心できず、兄の機嫌をとるために努力しました。彼は兄が単純な人であり、感情的な人であることを知っていたので贈り物作戦を始めました。彼は早速やぎと羊、牛とろばなどを550頭も兄エサウへの贈り物として用意しました。そしてそれを三つの群れに分けてしもべ達の手に渡し、自分より先に行かせてエサウに会ったら「弟ヤコブからの贈り物です。」と言って渡すようにしました。彼はエサウがその贈り物をもらって自分を快く受け入れてくれることを期待したのです。ところが、このような努力をしたのにもかかわらず、ヤコブの心の恐れや不安は少しも解決できませんでした。彼は眠れず家族をヤボクの渡しを渡してからひとりだけ残りました。「ヤコブはひとりだけ、あとに残った。」(24)。この御言葉はヤコブが自分の力ではどうしようもない限界にぶつかっていることを言ってくれます。そして、一人で神様の御前に立つようになったことを言ってくれます。これは苦しみの瞬間でしたが、神様の御前に立って自分がどんな存在であるかを悟る良い機会でした。私達も単独者として神様の御前に立ち、自分の存在について深く考えて見る時が必要です。

一人残っているヤコブは非常に恐れ、心配していました。死ぬほど孤独でした。誰も彼のこのような苦しみを理解してくれることも解決してくれることもできませんでした。彼がこれほど苦しみ、恐れていたのはなぜでしょうか。それはエサウの問題のように思われます。しかし、実際には20年前エサウと父を騙したことから来る罪の問題でした。彼がエサウに会おうとすると彼の内面に潜んでいた罪の問題が生き返って彼を苦しめていたのです。この罪の問題は兄エサウとの問題以前神様との問題でした。すなわち、ヤコブはエサウに罪を犯しましたが、実は神様に罪を犯したことです。ですから、エサウと和解するからと言ってその問題が解決されるのではなく、神様と和解しなければなりませんでした。罪の問題は神様に出会い、罪の赦しを受けるまでは何によっても解決できません。たとえ20年の長い年月が経っても同じです。この罪の問題は世のどんな立派な人も、どんなに深い思想も、持っている多くの財産も解決してくれることができません。また、彼の強い意志や誠実さも彼の心の不安と恐れの問題を解決することができませんでした。彼の意志や誠実さは限界にぶつかりました。

 神様はこのようなヤコブのために何をされましたか。24b,25節をご覧下さい。「すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。」ここである人とは30節を見ると、神様であることがわかります。神様は限界状況にぶつかって苦しんでいるヤコブの所に訪ねて来られ彼と苦しみをともにしてくださいました。これはヤコブに臨まれた神様の恵みでした。ヤコブは神様との格闘で負けないために必死に戦いました。ここにも彼の強い人間性が現されています。彼は今まで人々の戦いで一度も負けたことがありませんでした。彼は兄と戦って勝ちました。ラバンと戦って勝ちました。神様はヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、ヤコブのもものつがいがはずれてしまいました。するとヤコブは降参せざるを得なくなりました。

それでは神様はなぜヤコブのもものつがいを打たれたのでしょうか。それは彼が頼っていたものを打たれ、彼が神様に頼るようにするためでした。もものつがいは人の体を支えているところです。それがはずれたことは彼が今まで頼って来たものが砕かれたことを意味します。すなわち、彼の才能や所有物、彼の執念や誠実、彼の闘争心などが砕かれたのです。もものつがいを打たれたヤコブは、自分と格闘した人が神様であることを知るようになりました。それで「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」と願いました。ホセア12:4には泣いて願ったと記されています。彼は誰よりも多く祝福されたのにまたどんな祝福を願っているのでしょうか。これを見ると、彼は今までの祝福に満足していないことがわかります。彼が今まで求めて来たのは名誉と愛と富でした。彼はこのようなものをすべて得たので幸せになるはずでした。しかし、このようなものは彼に真の満足を与えることができず、むしろ煩悩と苦しみを与えました。ですから、それは真の祝福ではありませんでした。所有は人間の罪の問題、死の問題、不安と恐れ、虚無のような問題を解決してくれません。彼の関心は所有から存在に、外面的なものから内面的なものに、人間的なものから霊的なものに変わりました。彼は真の祝福を求めるようになりました。

27節をご覧下さい。神様はヤコブに名前を聞きました。「あなたの名は何というのか。」この質問は「あなたはどんな存在なのか。」という質問です。神様は彼の存在に関心を持ち、彼の存在を変えてくださろうとされました。神様はアダムが罪を犯した時にも彼の存在に関心を持ち、「あなたは、どこにいるのか」と呼びかけられました。また、イエス様も汚れた霊につかれて自我を失った青年に「おまえの名は何か。」と尋ねられました。神様はヤコブに名前を尋ねることによって自分がどんな存在であるかを悟らせようとされました。するとヤコブは答えました。「ヤコブです。」ヤコブは、押しのける者という意味です。確かにヤコブという人はその名前どおりに兄を押しのけ、ラバンを押しのけた狡猾な人物でした。そして彼は、自分のためにすべてを押しのけ、今や多くの富を得ることができました。ヤコブは神様の御前で自分がどれほど惨めな者であるかを悟り、「ヤコブです」と答えました。これはイエス様がどんな方であるかを悟ったシモン・ペテロが「私は、罪深い人間です」と告白したことと同じです。すると神様は彼に言われました。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」ヤコブからイスラエルに変わったのは、神様によって新しく変えられたことを意味します。彼は神様にしがみついて、古い自分から解放され、神様にある新しい存在になりました。彼は神様をあがめる人となりました。ここで見ると神様がヤコブに与えようとされた真の祝福は所有ではなく彼の存在が神様によって新しい被造物として変えられることであることがわかります。?コリント5:17には次のように記されています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

それでは神様に会った彼の内面はどのように変わりましたか。31節をご覧下さい。「彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた。」この御言葉は新しく変えられたヤコブの内面の姿を文学的に表現した御言葉です。彼はもものためにびっこをひいていましたが、彼の内面には太陽が上っていました。苦しみと絶望の夜が過ぎ去り、喜びと希望に満ちた太陽が輝く朝を迎えました。彼の内面に働いていたすべての不安、恐れ、虚無と罪意識は過ぎ去り、恵みと平安、喜びに満たされるようになりました。ヤコブは神様に出会って罪の問題が解決されました。

 ヤコブはエサウに会う前に神様に会いました。すると、エサウとの問題はこれ以上問題ではありませんでした。エサウはヤコブを迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣きました。ヤコブはスコテへ移って行き、そこで自分のために家を建て、家畜のためには小屋を作りました。彼はそこに祭壇を築き、それをエル・エロヘ・イスラエルと名づけました。それは「イスラエルの神様は神様である」という意味です。彼はここでもう一度彼を愛し、祝福してくださると約束してくださった神様を思い出し、その神様の側に立ったのです。彼は神様を自分の神様として受け入れました。

 

?.エル・ベテルの神様(34,35章)

 

シェケムの町に住むヤコブに恥ずかしい事件が起こりました。34章を見ると、ヤコブの娘ディナがその土地の娘達を尋ねようとして出かけた時、その土地の族長のシェケムは彼女を見て、これを捕え、これと寝てはずかしめたのです。彼はディナに心をひかれ、彼女との結婚を願いました。ヤコブはこの事件がうまく解決されて続けてシェケムの町に住むことを願いました。ところが、ヤコブの子供達はシェケムが自分たちの妹ディナを汚したのを聞いて悪巧みを企みました。彼らに割礼を受けさせると結婚を許すとうそをついてからちょうど彼らの傷が痛んでいるとき、ヤコブのふたりの息子、ディナの兄シメオンとレビとが、それぞれ剣を取って、難なくその町を襲い、すべての男子を殺しました。ヤコブは子供達の問題で苦しみを受けるようになりました。またこの事件のゆえにこれ以上シェケムに住めなくなりました。彼はどこに行けばいいか分からなくなりました。彼はその地の人々の復讐を恐れました。

このように苦境に立たされたヤコブに神様はどんな方向をくださいましたか。35:1節をご覧下さい。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現われた神のために祭壇を築きなさい。」それでヤコブは神様の恵みを覚えてベテルに上って行って神様のために祭壇を築こうとしました。彼らが神様に礼拝するためにはまずやるべきことがありました。第一に、異国の神々を取り除くことです。神様は唯一の方であり、聖なる方ですから神様に仕えながら他の神々にも仕えることをお許しになりません。私達は神様にのみ仕えなければなりません。そのためには神様以外の神々を取り除かなければなりません。第二に、自分自身をきよめることです。これは真実な悔い改めを意味します。第三に、着物を着替えることです。これは実生活の変化として敬虔な姿勢を意味します。私達が聖なる神様の御前に出て行くためにはやみのわざを打ち捨てて、主イエス・キリストを着なければなりません(ローマ13:12-14)。

 ヤコブはペヌエルで神様に出会い、人生の問題を解決してもらいましたが、シェケムに留まり自己中心的な信仰生活をしようとしました。それで神様はディナ事件を通して彼がベテルに上り、祭壇を築き、そこに住むようにされました。それでヤコブは自分の家族と、自分といっしょにいるすべての者とに言いました。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」(2,3)。私達も救いの恵みを覚えてベテルに上って行って神様に感謝の祭壇を築くことが必要です。

ヤコブはそこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼びました。これは「ベテルの神」という意味です。これは彼の信仰が自己中心から神様中心に変わったことを意味します。ヤコブは今までは神様を自分のために必要な存在として考えていました。自分の幸せのために神様が必要でした。しかし、これからは自分は神様の栄光のために生きる存在であることを悟りました。信仰の生活の目的が自分から神様に変わったのです。その時、神様は彼の信仰を認められ、彼を新しく祝福してくださいました。私達が神様に認められ、神様に用いられる人になるためには私達の信仰生活の中心が自分から神様に変わらなければなりません。

 神様がヤコブを祝福された内容は何ですか。10-12節をご覧下さい。「あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。」「わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。わたしはアブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与え、あなたの後の子孫にもその地を与えよう。」第一に、ヤコブがイスラエルになる存在の変化です。これは霊的な人に、神様の人に変わることです。私達の存在が神様によって変わることは大きな祝福です。第二に、神様の救いの御業の中で多くの実を結び、祝福の源として用いられることです。私を通して多くの霊的な子孫が生まれ、また、偉大な霊的な指導者達が誕生することはどれほど嬉しいことでしょうか。第三に、地を与えてくださることです。私達には世界のキャンパスを約束の地として与えてくださいました。さらに、永遠の神の国を約束してくださいました。ここで神様がヤコブに与えようとされる本当の祝福は何であるかが分かります。神様がヤコブに与えようとされる本当の祝福は所有ではなく、彼の存在が変わり救いの御業に用いられることでした。

 ヤコブは、神様が彼に語られたその場所に石の柱を立て、その上に注ぎのぶどう酒を注ぎ、またその上に油を注ぎました。注ぎのぶどう酒を注いだことは神様に対する献身を意味します。油を注いだことは自分をきよめて神様の栄光を現すことを意味します。ヤコブは自分を神様にささげ、神様の御言葉に従う決断をしました。ヤコブの生涯はベテルから始まって再びベテルに戻った生涯でした。神様はベテルの神様となられ、彼を約束の御言葉通りに導かれました。

 

?.イスラエルの12部族をお立てになった神様(47-49章)

 

ヤコブの前半部の生涯は行く先々に人々と争って祝福を奪う生涯でした。しかし後半部の生涯の特徴は神様から受けた祝福を行く先々に与える生涯でした。47:7-10節をご覧下さい。彼はヨセフによってエジプトの王パロの前に立つようになりました。田舎の老人が超強国の王の前に立つと手足が震えて話も楽にできなくなるでしょう。パロの前に立った時、ヤコブの姿はまことにあわれなものであったに違いありません。それにもかかわらず、ヤコブは出入りしながらパロを祝福しました。ヤコブはパロにあいさつしたと訳されていますが、これは新共同訳では「祝福の言葉を述べた」と訳されています。彼は神様の人としての姿勢がありました。彼は自分こそ祝福の基として神様から選ばれた者であると信じていたのです。ですから彼はパロをも恐れず、へつらいの挨拶ではなく、祝福の言葉を持って彼を祝福することができたのです。

使徒ペテロは「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」(?ペテロ3:9)と言いました。使徒パウロもまた「アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり」(ガラテヤ3:14)と言いました。私達もまた、今日の世界に向かってイエス・キリストによってアブラハムの祝福を受け継ぐ者として選ばれ、召され、立たされているのです。私達がヤコブのように祝福の基として祝福を与える生活ができるように祈ります。

また、ヤコブは自分の人生をどのように見ていますか。年を尋ねるパロにヤコブは「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」と答えました。彼は自分の人生を旅路として見ています。ヤコブはこの世での生活がすべてであるかのように生活しました。彼は一生懸命に儲けて金持ちになりました。しかし、彼はヤボクの渡しでの格闘、愛するラケルとヨセフを失った事件などを通して自分の人生が旅路であることを悟りました。人生は旅路です。旅人はこの世に永遠に暮らすことができません。人々は自分がどこから来てどこに行くのか人生の目的や方向を知らない旅をしています。しかし、私達クリスチャンは神様から来て神様に帰ることを知っています。ですからいつかは神の国に入ることを信じてこの世で聖なる巡礼の旅をしています。私達にいのちをかけて担う使命があり、帰るべき真の故郷、すなわち、神の国があることはどれほど祝福でしょうか。私達に聖なる巡礼者の人生を生きるようにしてくださった主に感謝いたします。

48章でヤコブはヨセフのために彼の二人の子どもに祝福をしました。49章はヤコブが12人の子どもを祝福した内容です。12人の子供達を一人一人祝福するヤコブの姿は多くの国の父らしいです。神様はこのヤコブの祝福に基づいてイスラエルの12部族を立てられました。

 結論、イスラエルの神様はどんな方ですか。神様はヤコブをイスラエルに変えられ、真の祝福を与えてくださった方です。ヤコブは人間性が強くて変わりにくい人であり、神様の御業に用いられにくい人でした。神様はこのような彼を育てられ、イスラエルの12部族の父であり、行く先々に祝福を与える祝福の源とならせてくださいました。48:15,16節でヤコブは神様がどんな方であるかを告白しました。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。すべてのわざわいから私を贖われた御使い。」ヤコブは強い人間性によって生きて来たようでしたが、自分の人生を顧みると羊飼いであられる神様がずっと導いてくださったことがわかりました。とうてい神様に愛される価値などない自分を、神様は選び、赦し、愛してきょうまで守ってくださったことがわかりました。神様は彼が新しく変えられ、神様の人となるまで産みの苦しみをされました。神様はアブラハム、イサク、ヤコブ、三代信仰の先祖を育てられることによって救いの御業の基礎を置かれました。アブラハムの神様、イサクの神様、ヤコブの神様は私の神様です。この神様は愛される価値のない罪深い私達をも愛し、きょうまで守られ、導いてくださいました。今年は私達が単独者して主の御前に立ち、主によって内面が変わる年となるように祈ります。また、行く先々に祝福を与える祝福の基となるように祈ります。

99-5 カインにしるしを下さった神様

1999年 創世記第5講

カインにしるしを下さった神様

御言葉:創世記4:1?5:32

要 節:創世記4:15

「主は彼に仰せられた。『それだから、だれでもカインを殺す者は、

七倍の復讐を受ける。』そこで主は、彼に出会う者が、

だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。」

 今日の本文ではアダム一人から始まった罪が彼の子孫達に至ってはどのように成長し、広がったかを言っています。人間は罪を犯した故、滅びるしかありませんでした。しかし、神様はこのような絶望的な状況の中でも救いのみわざを続けられました。今日の御言葉を通して人間の内面にある罪の属性と罪人に対する神様の愛について学びたいと思います。

?.カインとアベル(4:1-8)

 1節をご覧ください。エバはみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言いました。彼女は、それからまた、弟アベルを産みました。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となりました。彼らがそれぞれ仕事をするようになってしばらくの期間が経過した時、カインとアベルはそれぞれ主への「ささげ物」を持って来ました。カインは、地の作物から、アベルは羊の初子の中から持って来ました。ここで「ささげ物」とは、主がそれぞれの仕事を守り祝福して下さったことに対して、それぞれの産物の一部を主に捧げることです。しかし、主はアベルとそのささげ物とに目を留められましたが、カインとそのささげ物には目を留められませんでした。なぜでしょうか。二人ともささげ物を持って来たと言うことは共通しており、またこれらのささげ物が「主へのささげ物」であったことも共通しています。それではささげ物の種類が問題だったのでしょうか。そうではありません。なぜなら、それぞれの職業自体は、主の御心に従ったものであったし、また、後に主は羊だけではなく穀物のささげ物も受け入れてくださっているからです。ところが、3-5節を注意深く読んでみると、二人のささげ物に違いがあることがわかります。カインのほうが極めて事務的に「カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た」と記されているのに対し、アベルのほうは「彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た」と記されています。アベルは自分の持ている物の中でベストの物を主にささげのです。なぜなら、主こそ最良の物をお受けになるのにふさわしい方だと思ったからです。ヘブル人への手紙11:4には次ぎのように記されています。「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」後にイエス様も、多くの金持ちが献金箱に大金を投げ入れている中で、ひとりの貧しいやもめがレプタ銅貨二つを投げ入れるのをご覧になり、「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました」(マルコ12:43)と言われました。レプタ銅貨は価値の一番低い貨幣の単位です。しかし、イエス様がご覧になったのはいくらをささげたのではなくその女の信仰でした。4,5節を見ると、「アベルとそのささげ物」「カインとそのささげ物」と言われているように、主はささげ物に目を留められるよりも以前に、ささげている人自身に関心を持っておられることを知ることができます。

 私達は主の御業に仕えることにおいて、人々に見られることは熱心にしますが、人々に目立たないことはおろそかにしやすいです。また、外側はきよくしようと努力しますが、内側は汚れている時があります。しかし、神様は決して形式的、偽善的ないけにえには目を留められません。神様はそれを捧げる人のうわべではなく心をご覧になる方です。神様は多く働くより心を尽くして神様を愛し、隣人を愛することを願われます。神様は私達の真の悔い改めを喜ばれます。神様はいけにえより主の御声に聞き従うことを願われます。だから、私達は自分自身を神様に受け入れられる聖い、生きた供え物として捧げるように努め励まなければなりません。これこそ、私達が主に捧げるべき真の礼拝です。

 それでは、ささげ物を拒まれたカインは神様に対してどんな姿勢を見せましたか。5節をご覧ください。「それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」彼は自分が無視されたことと、弟アベルが認められたことでひどく怒りました。彼は神様が自分のささげ物に目を留められなかった原因を自分の中から捜して悔い改めるより、むしろ、神様に問題があるかのように怒りました。このような彼の問題は何でしょうか。それは一言で言えば、神様の主権を認めなかったことです。神様がアベルとそのささげ物に目を留められて、カインとそのささげ物に目を留められなかったのは神様の主権でした。カインは神様がなさったことが不公平だと思いました。神様がなさったことが全く気に入りませんでした。彼は不満を抱いて神様の主権に逆らいました。彼が神様の主権を認めなかったからこそ、アベルも認めることができませんでした。結局、アベルと比較して妬みと憎しみの奴隷になりました。ヨブは潔白で正しく、神様を恐れ、悪から遠ざかっていた人でした。しかし、サタンの妬みによって急にすべての財産と子ども達を失ってしまいました。彼は悲しみに沈んで神様を恨みやすいでした。しかし、彼はその不幸な出来事を聞いた時、地にひれ伏して主を礼拝し、そして言いました。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」彼の信仰は神様の主権に基づいていたため、苦難の日にも、祝福の日のように主に感謝し、主をほめたたえました。

 神様の主権を認めることができず、ひどく怒っているカインの怒りを見抜き、主は仰せられました。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。」このように問いかけることを通して主は、カインが憤る理由はないこと、そしてその憤りを神様の前に隠しても無駄であることを指摘し、カインを悔い改めに導こうとされたのです。続けて主は言われました。「あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。」この御言葉を見ると、カインは実際生活の中で正しく行なっていなかったことがわかります。もし、カインが正しい動機で事を行なったのであれば、神様の前に立ち続けることができます。しかし、「正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。」つまり、心に罪を持ったままで悔い改めないと、ついに罪によって支配されて罪を犯してしまうのです。人々は罪を犯すことに対してあまり深刻に思っていません。人生をエンジョイするために快楽を求めています。罪を犯すことはそれほど難しいことではありません。罪を犯すために努力しなくても肉の欲のままに行なえば、罪を犯すことができます。しかし、罪はそれを犯すその瞬間からその人を奴隷にしてしまいます。ですから罪は軽々しく楽しんでいいものではありません。積極的に治めなければならないものです。主はカインに「あなたは、それを治めるべきである」と言われました。人の心には善を行ないたいという願いと罪を犯したいという願いがあります。この二つの心は互いに対立しています。罪を犯そうとする願いが強ければ、善を行ないたいという願いは力を失ってしまいます。ところが、人は善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することができず、悪を行なってしまいます。では、私達がどうやって罪を治めることができるでしょうか。罪を犯そうとする願いを治める秘訣は御霊によって導かれることにあります。また、私達の手足を義の器として神様にささげることにあります。私達が御霊に従うか、肉の欲に従うか、また、神様に従うか、罪に従うか、これは自由意志の問題です。私達が自由意志を間違って使って肉の欲に従うと罪に治められるのです。ですから、私達は罪を悔い改め、神様に立ち返り、聖霊によって導かれる生活を通して罪を治めなければなりません。

 神様はこのように語りかけてカインが罪を犯し続ける道から悔い改めて神様に立ち返るように勧められました。しかし、カインは主の語りかけ、悔い改めへの勧めを無視しました。語りかけられた主に悔い改めを持って応答する代わりに、彼は心をかたくなにし、自分の心にある怒りを具体的な行動に移しました。8節をご覧ください。カインは弟アベルに語りかけました。「野に行こうではないか。」心の中にある怒りや妬み、殺意を押し隠して、一見散歩に誘うかのように優しげに語りかけたのです。そして、ふたりが野にいた時、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺しました。その原因は何でしょうか。神様の警告を無視し、心の中にある罪を悔い改めないままでいると、その罪は成長し、具体的な罪の行動を生むようになります。だから私達は小さな罪でも神様の御言葉によって照らされたら悔い改めるべきです。特に兄弟を憎む罪、妬みの罪を悔い改めなければなりません。?ヨハネ2:11には次ぎのように記されています。「兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。」ヨハネ第一3:11,12節にはこう記されています。「互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。」イエス様はマタイ5:21、22節で兄弟に向かって腹を立てることや「能なし」と言うことさえも禁じられました。ですから、私達は少しでも兄弟に向かって憎む感情があったり、無視する心や妬みがあったら悔い改めなければなりません。

?.罪と罰(4:9-15)

 9節をご覧ください。主は弟アベルを殺したカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われました。かつてアダムとエバが罪を犯した直後にも主は彼らに語りかけられました。「あなたは、どこにいるのか。」神様は罪を犯した人を見捨てられることなく、なおも悔い改めに至るようにと語りかけられるのです。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」主はいきなりカインの罪を指摘するのではなく、彼が自分から罪を告白するように促したのです。しかし、このような主の呼びかけに対してカインは自分の罪を悔い改めて告白することを拒否しました。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」この答えは自分には関心がない、弟がどこにいようと何をしようと自分は関心がないという答えです。これに対し、主はついにカインの罪を直接指摘されました。10節をご覧ください。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。」次いで主は、カインの罪に対するさばきを宣告されました。11、12節をご覧ください。「今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」彼は一つ所に安住して安定した生活を送ることができなくなりました。彼は、心にも安らぎのない不安と恐怖におののく人生を送るようになりました。このようなカインの様子は現代人の様子と全く同じです。この世のどこに行っても、何をしても、真の安息を得ることができません。それで人々はカインのように地上をさ迷い歩いています。ここで私達は罪を犯したら必ず裁きがあることがわかります。私達が罪を犯すことを恐れるべき理由も罪を犯したことで済むのではなく、必ず裁きがあるからです。

 13節をご覧ください。カインは主に申し上げました。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。」彼が主に申し上げた言葉には二つの誤った考えがあります。一つは神様の裁きに対してそれを軽んじることです。もう一つは、罪があまりにも重くて悔い改めても赦されないという考えです。彼は14節で「ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。」と言っていますが、主は決して「わたしの顔から隠れ」とは言っておられません。主はカインがさすらい人となっても、彼を見捨てるとは言っておられないのに、カインは主によって見捨てられたと感じています。それで、「私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」と嘆いています。カインは自分が犯した罪、そのものを悲しんでいるのではなく、罪の結果もたらされた罰を悲しんでいるのです。これは真の悔い改めではありません。なぜなら、私達がどんな罪を犯してもそれを真実に神様の御前に出て行き、悔い改めるなら、神様は私達のすべての罪を赦してくださるからです。ヨハネ第一1:9節は次ぎのように言っています。「もし、私達が自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私達をきよめてくださいます。」

 15節をご覧ください。主は彼に仰せられました。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さいました。主は殺人者であり、嘘吐きであり、神様の主権に逆らったカインでさえ見捨てることなく、保護してくださいました。主は罪を犯したカイン、悔い改めないカインでさえもなお見捨てることなく、守ってくださるのです。それは、彼が「さすらい人」として地上をさまよい歩く中で自分の弱さを認め、主にこそ本当の安息があることを認めて、主に立ち返るためでした。神様は罪に対しては厳しく裁かれますが、罪人は本当に愛してくださいます。神様は今も一人でも滅びることを望まず、すべての人々が悔い改めに進むことを望んでおられます(ペテロ第二3:9)。

?.カインの子孫、セツの子孫(4:16-5:32)

 

 16-24節まではカインの子孫について記されています。16節をご覧ください。カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みつきました。カインは最初に神なき文化を始めました。また、カインの子孫の中には天幕に住む者、家畜を飼う者、立琴と笛を巧みに奏する者の先祖となった人々もいました。また、青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋もいました。彼らは神様に頼るのではなく、神様を抜きにした文明に頼って自分の生活を豊かにし、自分の生活を守ろうとしました。彼らは物が先という思想を持っていました。しかし、このような生き方をする人々はいくら多くの富みを得たとしてもその生活には不安とあせりが絶えません。

 カインの子孫の中で神なき文化の代表者としてレメクと言う人がいました。レメクの名は、「強い者」という意味です。まさに彼はその名の通りの人物で自分の力を誇り、神様なき文化の代表者のような存在です。彼は二人の妻をめとりました。神様の御心は「男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となる」(2:24)ということでしたが、レメクは二人の妻をめとったのでそのどちらとも「一体となる」ことはできませんでした。だから彼にとって結婚は人格的な結びつきではなく、ただ欲望を満足させるだけのものでした。また、レメクは彼の妻たちの前で復讐の歌を歌いました。「レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。」彼は単に傷を受けたというだけで1人の人を殺しました。カインが犯した罪は彼の子孫によって段々広がり、世の中は戦争、殺人、姦淫、暴力などが絶えず起こりました。

 ここで私達は、罪は成長するものであることがわかります。罪はまるで癌のようです。癌は成長するスピードが速いです。それで他の正常細胞組織を破壊し、結局人のいのちを奪ってしまいます。この事実を通して罪はいくら小さなことでも初めから徹底的に治めなければならないものであることを学ぶことができます。そうしなければ、癌のように段々広がり、霊的ないのちを失うようになります。

 カインの子孫だけを見ると、この世には希望が見えません。しかし、神様は死んだアベルの代わりにセツを子孫としてお与えになりました。神様はアベルの信仰を受け継ぎ、彼の使命を果たすべき者としてセツを授けてくださったのです。そして、彼によって新しい御業が始まりました。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めたのです。レメクのように自分の力を誇る者にとっては「祈り」は逃避であり、自己満足のように思われるかも知れません。しかし、被造物としての自分の限界、罪人としての自分の限界を知る者にとっては祈りは力があります。5章にはアダムの子孫の系図が出ています。この系図は信仰の人の系図です。セツの子孫の中から将来、人類を罪と死から救うキリストがお生まれになります。セツの子孫の中で代表的な信仰の人はエノクです。22-24節をご覧ください。「エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」エノクは一生の間、神様から離れず、神様とともに歩みました。それは神様と密接な交わりの中に、神様にペースを合わせて生活したということです。三百年の間にはいろいろな出来事があっただろうし、喜びの時も悲しみの時もあったはずです。しかし、彼はどんな時も、神様とともに歩みました。ミカ6:8には次ぎのように書いてあります。「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」更に彼の信仰の素晴らしさは、その最後に表されました。「エノクは神とともに歩んだ」(24)ともう一度繰り返されます。それほど、「神とともに歩んだ」というエノクの生涯の特徴があったのです。そしてその結果が、「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」ということです。ヘブル人への手紙では「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。」と記されています。他の人々については「彼はこうして死んだ」と言われているのに、エノクは死を見ることなく神のみもとに召されたのです。彼はアベルのように、その信仰によって今もなお語っています。他の人々の人生がむなしく過ぎ去って行く中で、「神とともに歩んだ」エノクの生涯は永遠に記憶される生涯なのです。

 以上から学んだ御言葉を通して私達は罪を犯したカインでさえ見捨てることなく、保護してくださる神様について学びました。また、罪が広がる世界の中で主がセツを与えてくださり、救いのみわざを続けて行なわれていたことを学びました。神様は、この時代にもご自分の救いの御業のために聖なる子孫達を残してくださり、救いのみわざを成し遂げておられます。私達一人一人が御霊に導かれ、罪を治めることによって主とともに歩む生活ができるように祈ります。特に兄弟に対する妬み、憎しみを悔い改め、愛することができるように祈ります。アダムにセツを授けられ、彼を通して救いのみわざを成し遂げて行かれる神様が、この国の人々と世界の人々の救いのために私達一人一人を召されたことを信じて感謝します。

9-16 ヨセフとともにおられる神様

2000年創世記第16講

 

ヨセフとともにおられる神様

 

御言葉:創世記37:1?41:57

要 節:創世記39:2,3

「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。

彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。」

 

神様はアブラハムを選ばれ、彼を大いなる国民とすると約束されました。また、彼の子孫は、他の国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられると言われました(創15:13)。神様はこの御業のためにヨセフを選ばれました。創世記37章からはヨセフの物語が始まります。彼は神様がアブラハムとイサクとヤコブ、三代信仰の先祖達を通して種を蒔いた実だと言えます。彼は試練の時にも栄光の時にも少しも揺れることなく神様を恐れ敬い、神様とともに歩みました。神様はこのような彼とともにおられ勝利の人生、いのちを生かす人生として用いられました。きょうの御言葉を通して神様はヨセフをどのように訓練し、また、ヨセフとともにおられる神様はどんな方であるかについて学びたいと思います。

 

?.夢見るヨセフ(37:1-11)

 

1節をご覧下さい。「ヤコブは、父が一時滞在していた地、カナンの地に住んでいた。これはヤコブの歴史である。」「これはヤコブの歴史である」と言いながらヤコブの代わりにヨセフの物語が出ているのはヤコブの後半部の生涯がヨセフの生涯と不可欠な関係があるからです。ヨセフの物語は十七歳のときから始まります。ヨセフは彼の兄たちと羊の群れを飼っていました。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいました。ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げました。兄達が父を騙して羊達を売ったお金で酒を飲んだりしたようです。大抵弟は兄の影響を受けて育ちます。特に悪い影響は受けやすいです。ヨセフには10人も兄達がいたのでなおさらのことです。しかし、ヨセフが兄達の悪いうわさを父に告げたのを見ると、彼は正直者で、正しく生きようとしていたことがわかります。そのために彼は兄達から憎まれるようになりました。それにヨセフはヤコブの年寄り子であったがゆえに特に父から兄弟のだれよりも愛を受けていました。彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができませんでした。これはえこひいきでもありますが、ヨセフのことを考えてみると彼にはこのような愛が必要でした。ヨセフの母親ラケルは早く死んだからです。

 ところが、兄達がますますヨセフを憎むようになったことが起こりました。あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げました。「どうか私の見たこの夢を聞いてください。見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」これはヨセフには嬉しい夢ですが、兄達にとっては腹が立つ夢でした。ところが、これで終わりませんでした。ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話しました。「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです。」。今度の夢は兄達だけではなく父と母も彼を拝む内容でした。父は彼をしかって「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」と言いました。兄たちは彼をねたみましたが、父はこのことを心に留めていました。

神様はヨセフに指導者になる夢を与えてくださいました。一般的に夢は無意識の世界に潜在する渇望の表現だそうです。皆さんはどんな夢を見ていますか。夢にもいろいろあります。大抵目が覚めたら何の夢を見たかすっかり忘れてしまう場合が多くあるでしょう。また、トラブルに巻き込まれたり、誰かに追いかけられたりする夢を見る時が多くあるでしょう。いい夢はストーリがある夢だそうです。また、スケールが大きい夢を見るのがいいらしいです。そのような夢を見ると脳の働きが活発になるそうです。そのような夢を見るためには寝る前に首の周りをもんでから寝ると効果があるらしいですので、皆さんも試してみたらいかがでしょうか。しかし、ヨセフが見た夢はこのような一般的な夢とは違う神様からの啓示でした。神様は将来彼をいのちを救う指導者として用いようとして夢を通して啓示されました。ヨセフは少年の時から純粋で真実な心を持っていたゆえに神様に用いられる基礎が整えられていました。神様はこのような彼に将来指導者になる夢を与えてくださいました。ヨセフは自分に与えられたこの夢がいつかは実現されると確信してその夢を持ち続けていたでしょう。私たちも目先のことだけを見ないで10年、20年後のことを考えながら夢を持つことができるように祈ります。10年後この国に1000人の聖書先生が立てられることと100のキャンパスが開拓される夢を持ち続けて祈りましょう。ヨセフは指導者になる夢を持っていましたが、この夢が実現するためには神様の訓練が必要でした。

 

?.苦難を受けるヨセフ(37:12-40:23)

 

奴隷として売られたヨセフ(37:12-39:6a)

ヨセフは父から「お前の兄さんたちはシェケムで群れを飼っている。さあ、あの人たちのところに使いに行ってもらいたい。」と言われました。すると彼は「はい。まいります。」と答えました。ヘブロンからシェケムまでは70キロも離れています。しかし、ヨセフは喜んで父の言葉に聞き従いました。ところがシェケムまで行ってみると、兄達はもうそこからドタンのほうへ行ったことがわかりました。当時は携帯電話もなかったので連絡も取れませんでした。また、彼は兄達が自分を憎んでいるのでそのまま家に帰ることもできました。しかし、彼はそこから再び24キロも離れているドタンまで行きました。彼には小さなことに忠実なしもべの姿勢があります。彼には父に対する従順する心と任されたことに対する忠実さがありました。人々は大きなことを任せると忠実に働けると言います。しかし、小さいことに忠実な人が大きなことにも忠実です。立派な牧者になるためには1チームの1:1に忠実な人でなければなりません。

ヨセフの兄達はヨセフがはるかかなに来るのを見ました。普通の兄だったらそんなに遠くまで探しに来た弟を喜んで迎えてくれたはずです。しかし、彼らは弟を殺そうと企みました。憎しみはついに殺人に発展しました。しかし、ルベンはこれを聞き、彼らの手からヨセフを救い出そうとしました。結局彼らはヨセフを捕えて、穴の中に投げ込みましたが、ユダがリーダしてヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚でイシュマエル人に売りました。そうして彼らはヨセフが悪い獣にやられたかのように父を騙しました。愛する息子を失ったヤコブは幾日もの間、その子のために泣き悲しみました。兄達は弟を憎み奴隷として売ってしまいました。ヨセフがあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、聞き入れませんでした。しかし、この事件のことで彼らは一生罪悪感にさいなまれました。父に愛されていたヨセフはいきなりに異邦の地に奴隷として売られる惨めな状態になりました。しかし、ここには見えない神様の摂理がありました。もしヨセフが父の家でいたなら彼の夢は果たされなかったでしょう。神様は彼に指導者となる夢を与え、それを実現させるために温室のような家から荒野に連れ出して訓練されました。この訓練はわしの訓練でした。鷲は自分子を翼に乗せて高いところから落とすそうです。するとわしの子は必死に翼をばたばたします。そうして地面に落ちて死ぬ直前に親のわしは翼で受け取ってくれるそうです。このような訓練を繰り返すと後には翼が強くなり力強く空を飛ぶ鳥の王子になります。霊的な指導者になるためにも多くの訓練が必要です。

38章はユダがどのようにしてタマルからペレツとゼラフを得るようになったかを言っています。38章を読んでみると、ユダは嫁であるタマルに後継ぎのために息子を与えなかったのでタマルは遊女の格好をして自分のしゅうとであるユダを騙して彼と寝て子供を産んだのが書いてあります。何でこんな汚い話が美しいヨセフの物語の中に出て来るのか理解するのが難しいです。マタイ1:3に「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ」と記されてあります。ユダはイエス様の系図に出るほど大切な人物ですが、彼も生まれ変わる前には淫らな人であり、約束を守らない不真実な人でした。弟を憎んで奴隷として売った人でした。このような彼がイエス様の系図に出るようになったのは一方的な神様の恵みです。私たちもユダのように生まれながらにしてのろいの子でした。しかし、今や、私達は怒りの子でもなければ、滅びの子でもありません。主イエス・キリストによっていっさいの古きものは葬られ、彼とともによみがえされたのです(コロサイ3:1)。これが恵みの世界です。これが福音の世界です。

 さてヨセフはどこに売られて行きましたか。39:1節をご覧下さい。ヨセフがエジプトへ連れて行かれたとき、パロの廷臣で侍従長のポティファルというひとりのエジプト人が、ヨセフをそこに連れて下って来たイシュマエル人の手から買い取りました。いきなりにヨセフは奴隷となってしまう絶望的で悲しい状況になりました。彼は自分の人生を対する絶望感、悲しみ、将来に対する不安と恐れのために気が狂ってしまうほどだったでしょう。しかし、主がヨセフとともにおられました。39:2、3節をご覧下さい。「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。」彼は神様に対する信仰によって絶望的で悲しい状況を克服することができました。個人信仰がある人は苦難を通してもっと深い信仰を持つようになります。苦難の中でも神様の御旨を悟って神様に感謝し神様の愛を深く感じるようになります。しかし、個人信仰がない人は苦難に会うと神様につぶやいたり、神様の愛を疑います。ヨセフは苦難の時に神様を見上げ神様に頼りました。彼は神様とともに歩みました。

 主が彼とともにおられたので、彼は幸運な人となりました。神様は彼とともにおられ彼に力と慰めを与えてくださいました。それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねました。39:5節をご覧下さい。「主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。」ヨセフは祝福の源となりました。

 

監獄に入れられたヨセフ(39:6b-40:23)

 ヨセフは体格も良く、美男子でした。このようなヨセフに主人の妻が目をつけて、「私と寝ておくれ。」と毎日誘惑しました。この誘惑は青年のヨセフにとって耐えがたい誘惑でしたが彼は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、彼女といっしょにいることもしませんでした。ところがある日、彼が仕事をしようとして家にはいると、家の中には、誰もいませんでした。それで彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ。」と言いました。家に誰もいなかったので、しつこく誘惑する彼女の要求を受け入れることもできました。ヨセフはこの誘惑に負けるか、戦って勝つか、分かれ道に立ちました。この誘惑はヨセフにとって大きな試練でした。

 それではヨセフはこの耐えがたい誘惑をどのように打ち勝ちましたか。39:8,9節をご覧下さい。ヨセフはまず主人の恵みを覚えて主人に罪を犯しませんでした。何よりも彼は神様に罪を犯さないために励みました。「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」彼は神様を恐れ敬い、神様の御前に生きていました。そして、積極的に罪と戦いました。彼は彼女が上着をつかんだ時、その上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出ました。若い時には無限に成長する可能性もあり、罪の欲望も強くて堕落する可能性もあります。偉大な人になりたがるが、瞬間の情欲を退けることができず、とりかえしがつかない失敗をする人も多くいます。サタンの誘惑は半端なものではありません。すべての環境を備えてしつこく誘惑します。私達は弱くて自分の意思や力によってこのようなサタンの誘惑に打ち勝つことができません。詩篇119:9、10節は若い私達がどのようにして自分の道をきよく保てるかを言ってくれます。「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。」神様の御言葉に従い、聖霊に満たされた生活をする時、誘惑に打ち勝つことができます。神様はこのような人を尊く用いられます。

ヨセフは信仰によって誘惑に打ち勝ちましたがこれによって前よりも大きな苦難を受けるようになりました。ポティファルの奥さんはヨセフが上着を彼女の手に残して外へ逃げたのを見ると、

「あの男が私と寝ようとしてはいって来た」とうそをつきました。それを聞いたポティファルは怒りに燃えてヨセフを監獄に入れてしまいました。この世はとても罪悪で真実に生きようとしたヨセフを踏みにじってしまいました。ヨセフは指導者になる夢を持っていましたが、状況はさらに悪化しました。兄弟達に憎まれ、奴隷として売られ、見ず知らずのエジプトに来て、やっと芽が出たと思ったとたん監獄に入れられました。ヨセフは罪を犯さないために励みましたが、結果的にはもっとひどい状態になりました。しかし、こんな中でも神様の摂理がありました。

監獄の中に入れられたヨセフにとって耐えがたいことは人々からの誤解や非難だったでしょう。それよりも神様の愛に対する疑いが生じやすかったでしょう。「主の御前に正しく生きようとしていたのにどうしてこんなひどい目に会わされたのか。」「神様は本当に私とともにおられ私を愛してくださるのか。」このような疑いが生じると、これは信仰的な危機です。しかし、彼は主がともにおられたので少しも揺れることがありませんでした。彼は監獄の中でも変わらず忠実でした。神様が彼とともにおられたので監獄の中も天国のようでした。神様はこんな彼をどのように助けられましたか。21節をご覧下さい。「しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」それで監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手にゆだねました。ヨセフはまさに罪人達に仕える牧者となりました。主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださいました。

 これらのことの後、エジプト王の献酌官と調理官とが、エジプト王に罪を犯してヨセフが監禁されている同じ監獄に入って来ました。ある日ふたりとも同じ夜にそれぞれ夢を見ましたがその夢の意味が分からなくて苦しんでいました。ヨセフは彼らを心から愛し、仕えていたので彼らの顔色が悪いのにすぐ気づかされ、「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください。」と言いました。それから彼らの夢を聞いて解き明かしてあげました。献酌官長の夢は彼が三日のうちに、地位に戻るという良い夢でした。ヨセフは彼に「あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵みを施してください。私のことをパロに話してください。この家から私が出られるようにしてください。」と頼みました。調理官長の夢は献酌官長の夢と似ていましたが、ヨセフが解き明かした内容は正反対でした。彼は三日のうちに、処刑されるという悪い夢でした。二人ともヨセフが解き明かした通りになりました。ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまいました。ヨセフは続けて監獄での生活をしなければなりませんでした。それが二年も続きました。

 このような監獄の生活は無意味に思われます。しかし、ここにも神様の深い御旨がありました。ヨセフの夢は指導者になることでした。ところが、神様に用いられる指導者になるためには何よりも謙遜を身に着けなければなりません。神様は高ぶる者を用いることができません。謙遜な人を用いられます。聖書の中に出ている偉大な人物は皆謙遜な人でした。モーセは偉大な神様のしもべとしてイスラエル人をエジプトの奴隷から解放する御業に貴く用いられました。聖書は彼について次のように言っています。「さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」(民数記12:3)。イエス様は実に謙遜な方です。イエス様は、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。そして罪人に仕えてくださいました。神様は謙遜な人を時になると、高く上げてくださいます。ヨセフは監獄に入れられ罪人に仕えることによって謙遜になる訓練を受けました。彼はそれによってどんな人にも謙遜に仕える内面を持つようにしてくださいました。そして、時になると彼を高くあげて神様の救いの御業に貴く用いてくださいました。私たちも謙遜を身に着けることができるように祈ります。

 

?.エジプトの総理大臣になったヨセフ(41章)

 

それから二年の後、パロは夢を見ました。彼はナイルのほとりに立っていたが、ナイルからつやつやした、肉づきの良い七頭の雌牛が上がって来て、葦の中で草をはんでいました。するとまた、そのあとを追ってほかの醜いやせ細った七頭の雌牛がナイルから上がって来て、つやつやした、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くしました。そのとき、パロは目がさめました。それから、彼はまた眠って、再び夢を見ました。見ると、肥えた良い七つの穂が、一本の茎に出て来ました。すると、すぐそのあとから、東風に焼けた、しなびた七つの穂が出て来てあの肥えて豊かな七つの穂をのみこんでしまいました。パロはこの夢のことで心が騒ぐので、エジプトのすべての呪法師とすべての知恵のある者たちを呼び寄せて自分が見た夢を解き明かすように言いました。しかし、誰もそれを解き明かすことができませんでした。そのとき、献酌官長は二年前のことを思い出し、ヨセフをパロに紹介しました。パロは使いをやってヨセフを呼び寄せたので、人々は急いで彼を地下牢から連れ出しました。彼はひげをそり、着物を着替えてから、パロの前に出ました。パロはヨセフに「あなたは夢を聞いて、それを解き明かすということだが。」と言いました。ヨセフは高慢にならないでパロに答えて言いました。「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」彼は神様を証しました。ヨセフはパロから夢を聞いて「パロの夢は一つです。神がなさろうとすることをパロに示されたのです。」と言いました。そして、これからエジプト全土に七年間の大豊作が訪れることとそのあと、七年間のききんが起こり、エジプトの地の豊作はみな忘れられることを解き明かしました。そして解決策まで提案しました。このことは、パロとすべての家臣たちの心にかないました。そこでパロは家臣たちに言いました。「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。」(38)。そしてヨセフを総理大臣に任命しました。神様はヨセフに夢を与えられ13年間の訓練が終わってからついにその夢を実現させてくださいました。ヨセフがエジプトの王パロに仕えるようになったときは三十歳でした。

エジプトの総理大臣になったヨセフは高慢になりがちでした。祝福の時に神様を忘れてしまいがちでした。自分を監獄に入れたポテォファルや彼の奥さんに復讐することもできました。しかし、ヨセフは苦難の時にも祝福の時にも変わらず神様とともに歩む生活をしました。彼が子供達の名前を付けることを見るとわかります。ヨセフは長子を「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた。」という意味でマナセと名づけました。また、二番目の子は「神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた。」という意味でエフライムと名づけました。彼は何事でも「神様が」なさったことだと告白しました。彼の考えや生活の中心は神様でした。神様が主語で自分は目的語でした。彼は神様の主権を認めてすべてのことについて感謝しました。神様を愛し、神様とともに歩みました。彼の信仰は徹底的に神様中心でした。それによって傲慢に勝ち、総理大臣としての仕事を立派に果たすことができました。

結論、神様はヨセフが父の家にいる時も、エジプトに奴隷として売られた時も、監獄の中にいる時も、総理大臣の生活をする時もともにおられました。神様が彼とともにおられたので彼は幸運な人となり、何をしても成功しました。彼は祝福の基となりました。私達もどんな状況の中でも神様と共に歩む生活によって勝利の人生を過ごすことができるように祈ります。