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15ACTS03M イエス様によって与えられた信仰

2015年使徒の働き第3講

イエス様によって与えられた信仰

御言葉:使徒の働き3:1-26
要 節:使徒の働き3:16そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。

先週、私たちは聖霊の臨在によって形成された最初の教会について学びました。聖徒たちは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていました。そのような素晴らしい教会だったので主も毎日救われる人々に加えてくださいました。それだけではありません。この教会は使徒たちによってナザレ人イエス様が行なわれた力あるわざと不思議としるし、つまり奇跡が行なわれるようになります。
今日はその一つの奇跡を学びます。聖霊によって私たちの間に住まわれるイエス様は使徒たちを通して奇跡を行なわれました。足のなえた人を立たせ、歩かせました。40年間も歩けなかった人が立って歩けるようになったのです。どのようにしてそういういのちのみわざが起こったでしょうか。御言葉を通してイエス・キリストの御名の力、イエス・キリストによって与えられる信仰の力を学びたいと思います。そしてその御名によって癒され、救われた人の人生がどうなるかも学びたいと思います。どうか、主が御言葉を通して私たちの信仰を新たにしてくださいますように。私たちもあの使徒たちのように主が聖霊によってなさる力あるわざと不思議なわざに用いられますように祈ります。

?. ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい(3:1ー11)
1-3節をご覧ください。ある日の午後、ペテロとヨハネは宮に上って行きました。午後三時の祈りをするためです。ユダヤ人には朝の9時とお昼の正午、そして午後3時と、一日に三回祈りをしていました。ペテロとヨハネは、この定まった時間に祈りをしていたことが分かります。毎日、朝に祈ることは難しくありません。毎日夜祈ることもそれほど難しくありません。毎晩寝る前に祈ることができます。しかし、毎日午後3時に祈ることは難しいです。私は正午12時に祈ろうと決断して闘争したことがあります。ところがなかなかできませんでした。特に決まった場所で祈ることはほんとうに難しいと思います。特にペテロとヨハネは、一度に三千人の人たちが救われてかなり忙しかったと思います。それでも彼らは祈りの時間に、祈りの場所に行って祈っていたのです。どんなに忙しくても祈りを第一にしていたことが分かります。ダニエル書を見ると、ダニエルはいつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していました(6:10)。私たちも一日一度でも祈りの時間、祈りの場所を決めてそれを守ることができるように祈ります。
祈りをするために宮に上って行ったペテロとヨハネは、もうすぐ宮だという所で、生まれつき足の不自由な男が運ばれて来るのに出会いました。この男はいつも、宮の「美しの門」のそばに置いてもらい、宮に入る人たちから施しを受けていたのです。ふたりが前を通り過ぎようとすると男は、「だんなさま。どうぞお恵みを」と施しを求めました。ペテロとヨハネはこのような足のきかない人をどのように助けましたか。
4節をご覧ください。ペテロは、ヨハネは立ち止まり、男をじっと見つめました。それは彼に何が一番必要なのかを知るためだったでしょう。彼らは何も考えずに10円、100円を投げて行くのではなく、足のなえた人を憐れむ心から彼を正しく助けようとしたのです。そこで、ペテロとヨハネは彼に「私たちを見なさい。」と言いました。すると、男は何かもらえると思って、ふたりに目を注ぎました。ところが、ペテロは全く意外なことを言いました。
6節をご一緒に読んでみましょう。「するとペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って」とあります。ペテロはそういって彼の右手を取って立たせました。すると男は、驚いたことに足も、くるぶしもたちまち強くなり、しっかりと立ち上がったのです。そして、すたすた歩き始めました。ペテロとヨハネが宮に入ると、彼は跳んだり、はねたりして、神様を賛美しながらついて来ました。
ここで私たちは、人を助ける方法とイエス・キリストの御名の力について学ぶことができると思います。私たちクリスチャンはキリストの愛のゆえに人を助ける生活をしなければなりません。特に、牧者や宣教師は聖書勉強を通して人を助けます。親も子どもを助けなければなりません。だれかを助けることはほんとうに素晴らしいと思います。私は牧者として、宣教師として、職場では教師として何とか人を助けようと考えて来ました。4人の父親としてもどのように助けようかと考えて来ました。そのうちに、ほんとうに生きがいを感じる時が多くあります。私はちょっとだけ助けたので助けたかも忘れているのに、「ほんとうにその時は助かりました。」と言われる時はほんとうに嬉しいです。ところが、人を助けることはやさしくありません。助ける側は善良な心を持って助けますが、相手は誤解して受け入れる場合もあります。自分の子どもでさえ、助ける親の心を誤解してしまう場合があるでしょう。誠意を尽くしてアドバイスをしたつもりなのに「あなたのせいでもっと悪くなったよ。」と言われる場合もあるでしょう。では正しく助けることがどうすることでしょうか。それは助けようとする人の状態を知って共感し、同情することです。足なえの人に必要なのは金銀でした。表面的に見ると、誰が見てもそのように見えたことでしょう。ペテロは彼をじっと見つめているうちに、彼の状態を把握しました。もし、自分に金銀があって100円でも、1000円でもあげたら、一時的には助かるでしょう。でも、明日も、明後日も、しあさっても物乞いをしなければなりません。それを思うと、ペテロははらわたが痛むほど深く同情しました。彼はイエス様が38年間も病気だった人を見て深く同情して「よくなりたいか。」と言われたことを思いだしたかも知れません。そして、イエス様はなら、この人をもっと深く同情し、助けてくださると信じたでしょう。そこで、彼はイエス様によって与えられた信仰によってイエス・キリストの御名を信じるように助けたのです。これこそ、人を正しく根本的に助ける方法です。人の痛み、悩みに共感し、深く同情してイエス様を信じるように助けることです。イエス・キリストの御名によって生きるように助けるのです。それこそが永遠に残る助けです。天国に行けば、イエス・キリストの御名によって生きるように助けた人々が一番輝いていることでしょう。そして、この助け方はクリスチャンなら誰でもできます。クリスチャンなら、イエス・キリストの御名によって救われているし、イエス・来リスの御名によってささげる祈りの体験をしているからです。もちろん、私たちが経済的に精神的に助けることも素晴らしいことです。ただ、それはイエス・キリストの御名に生きる人生につながらないなら一時的なものにすぎないでしょう。ペテロには金銀はありませんでした。しかし、彼にあるものがありました。それはイエス・キリストの名です。彼はナザレのイエス・キリストの御名によって彼に信仰を植え付け、信仰によって歩くように助けました。どうか、私たちも私たちにあるもの、イエス・キリストの御名によって人々を助けて行くことができるように祈ります。
二つ目はイエス・キリストの御名の力について学ぶことができます。第一に、イエス・キリストの御名には人を癒す力があります。ペテロが「私たちを見なさい」と言うと、男は何かもらえると思って、二人に目を注ぎました。ところが、ペテロは彼に一円もあげませんでした。実際には彼には金銀だけではなくお金もなかったかも知れません。しかし、ペテロにはイエス・キリストの御名を信じる信仰がありました。そこで彼は「私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせました。するとどうでしょう。するとたちまち、彼の足もくるぶしも強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩き出したのです。40年間一度も立ったことがない人が立つことだけでも奇跡なのに、膝を伸ばして飛び上がったのです。これは紛れもない奇跡的な癒しです。ペテロは16節で「完全なからだにした」と言っています。イエス・キリストの御名には肉体の癒し、それも完全な癒しがあるのです。私はこのイエス・キリストの御名による癒しの力を信じています。ヤコブ5章14,15節には、「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます」とあります。ほんとうにその通りです。私自身が体験して来ました。これからはオリーブ油も備えていて病気の人に塗って祈ることもしたいと思っています。でも、大事なのは信仰による祈りです。私たちがイエス・キリストの御名によって、信じて祈ると、神様が働いてくださいます。
第二に、イエス・キリストの御名には人を救う力があります。8,9節を見ると癒された男は神様を賛美しつつ、二人と一緒に宮に入って行きました。人々はみな、彼が歩きながら、神様を賛美しているのを見ました。彼のたましいが救われていたのです。おそらく、40歳になっていた男の人は美し門の前にすわっていて多くの人々から助けられていたと思います。慰めの言葉も聞いていたでしょう。しかし、そうした彼らの施しと慰めが彼を救うことはできませんでした。ただ、イエス・キリストの御名が、この男の人を救うことができたのです。ペテロは人を救う力の源がイエス・キリストの名にあることの確認ができたでしょう。
ほんとうに、イエス・キリストこそ、神様が私たち人類に与えてくださった最も素晴らしい賜物です。なぜなら、このイエス・キリストによって私たちは救われて永遠のいのちを持つことができるからです。今あるすべてを失っても、イエス・キリストの御名を信じているなら、私たちはほんとうの満足を得ることができます。険しい世の中で私たちは傷つけられ、病気にかかって悩み、苦しむ時もあります。その状態から救えるのは、金銀でも、お金でも、政治でもありません。この世のいかなる組織や団体でもありません。ただ、イエス・キリストの御名によって救われます。私たち自身がイエス・キリストの御名によって救われていますし、イエス・キリストの御名によって祈りながら救いを体験し続けています。そして、私たちに与えられている使命とは、このイエス・キリストの御名によって人々を救いに導いて行くことです。ペテロとヨハネのように、人々にイエス・キリストを伝え、イエス・キリストの御名によって救われるように助けることです。そうしてイエス・キリストの御名によって生まれつき足なえが癒され、救われる素晴らしいみわざを体験して行くことです。ペテロの信仰によってペテロだけではなく、そこにいる人々も素晴らしい奇跡を体験することができました。足のきかない男が歩きがなら、神様を賛美しているのを見た人々はみな非常に驚いて、ソロモンの廊という回廊に、やって来ました。ペテロはその時に何をしましたか。彼はこの機会を利用して自分の栄光を現わすこともできました。しかし彼は、集まって来た民達の関心を誰に向かせましたか。
12-15節をご覧ください。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの先祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。」ペテロは集まって来た民達の関心をイエス様に向かせました。
16節をご一緒に読んでみましょう。「そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」信仰が単なる知識にとどまってしまい、実際の生活の上で力になっていないことが多くあります。イエス・キリストの名によって、歩くとき、今まで味わうことも見ることもできなかった神様の福音によって、躍り上がって喜び賛美する生活へと変えられて行くのです。イエス様の名を信じる信仰がなければ、イエス様の名も私達の内に力を発揮しません。私達が人に頼り、金銭に頼っている間は、イエス様が来られたことによってもたらされた福音にあずかることはできません。私達が、ナザレのイエス・キリストの名によって歩むというイエス・キリストの御業にふさわしく生きて行く時、祝福にあずかる生活に生きる者となります。私たちがナザレのイエス・キリストの御名を信じる信仰によって自立的に歩く人生、力ある主のしもべとしての人生を送ることができるように祈ります。
19節をご覧ください。「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」ペテロのメッセージを聞いて男だけ五千人が悔い改めてイエス様を信じました(4:4)。彼がナザレのイエス・キリストの御名の力に頼って大胆に悔い改めのメッセージを伝えた時、多くの人々を悔い改めさせ、神様に立ち返らせることが出来ました。しかし、イエス・キリストの御名を信じず、悔い改めなければどうなりますか。
22、23節をご覧ください。「モーセはこう言いました。『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。』」とあります。これは申命記18章15節からの引用です。モーセのような預言者というのは、モーセのように神様と親しい特別な関係にある預言者ということです。この預言者がイエス・キリストです。申命記で預言しゃれていたメシヤ的預言は、イエス・キリストのよって成就したのです。ですから、イエス・キリストに聞き従わない者はだれでも、民の中から滅び絶やされるのです。では、イエス・キリストを受け入れ、信じる人々の生活はどうなりますか。
結論として25、26節をご覧ください。「あなたがたは預言者たちの子孫です。また、神がアブラハムに、『あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける。』と言って、あなたがたの先祖と結ばれたあの契約の子孫です。神は、まずそのしもべを立てて、あなたがたにお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです。」とあります。ペテロは自分の民たちに「あなたがたはほんとうに祝福された民です。あなたがたは預言者たちの子孫です。アブラハムの子孫です。モーセとダビデとアブラハムにすべての約束がまさにあなたがたのものなのです」と言っています。
神様はアブラハムに「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」と約束してくださいました。この祝福がイエス・キリストによって私たちにも与えられるのです。アブラハムに「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」」と約束されたことがそのまま私にも適用されます。誰かが私を祝福するなら、彼も祝福されます。しかし、だれかが私を呪うなら彼は呪われます。私が祝福の源になるのです。実際に、創世記を見るとアブラハムはあらゆる面で祝福されました。彼の子どもイサクも祝福されました。彼が井戸を掘ると、掘る度に水が多く出ました。日本ではどこを掘っても水が出る、お湯が出ると言われますが、パレスチナ地域はそうではなかったのです。だから、その地域の人々はイサクが掘った井戸を奪いました。ところがイサクが掘ると水が出たのです。イサクは行く所々で祝福されました。
私たちもイエス・キリストによって与えられる信仰によって生きるなら、そう言う祝福を受けるのです。しかし、イエス・キリストを拒んだユダヤ人のように、イエス・キリストを信じない、悔い改めない生活を続けるなら民の中から滅ぼされるのです。どうか、私たちが心を新たにし、イエス・キリストの御名を信じる信仰をますます確実にして行きますように祈ります。

14Matthew10M 正しい者たちは、太陽のように輝きます

2014年マタイの福音書第10講 

正しい者たちは、太陽のように輝きます

御言葉:マタイの福音書13:24-52
要 節:マタイの福音書13:43「そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」

先週、私たちは13章に記されている七つのたとえ話の中で種まきのたとえを学びました。良い地に蒔かれた種は実を結び、百倍、六十倍、三十倍の実を結びました。今日も、イエス様のたとえ話を学びます。良い麦と毒麦、からし種とパン種、畑の宝と真珠、地引き綱のたとえについて学びます。ここで、私たちは神の国の性格、私たちに対する神様の御心を学ぶことができます。イエス・キリストを信じて救われている私たちは神様にとって素晴らしい値打ちのある真珠のように尊い存在です。ですから、私たちがからしのように成長し、パン種のように膨張して行くようになります。そして、太陽のように輝く人生を生きるようになります。神様の御言葉が私たちのうちに働いてくださるからです。神様の御言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます(ヘブル)。どうか、本文の御言葉を深く悟り、受け入れることによって日々御言葉の力を体験し、成長して輝く人生を生きるように祈ります。

24-30節を見ると、自分の畑に良い種を蒔きましたが人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行ったことが記されてあります。皆さんにとって人の畑にわざと毒麦を蒔くというのは納得できないかも知れません。一般的にはそうしないでしょう。しかし、彼の敵が夜の間にこっそりやって来て、毒麦を蒔いて行くことはあり得ることです。インドにおいて最も恐い言葉は、「お前の田んぼに、お前の畑に、悪い種を夜の間に蒔いてやる。」だそうです。農家において毒麦を蒔くことは敵が最大の憎しみと恨みを晴らすやり方なのです。適である相手が一生懸命種を蒔いて育てようとしている畑に悪い種を持って来て、夜の間に憎しみを込めて、パーッパーッと蒔いてしまうのです。すると、一週間たち、一か月たち、そのうち芽を出して来るわけです。やがて実ったとき、毒麦も現われるので分かります。それで主人のしもべたちはそれを抜き集めようとします。しかし、主人は『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」と言いました。
一般的に農夫は毒麦が見えるとすぐに抜いてしまうと思います。私は子どもの時にお米の生産地で育ちましたが、稲とひえのことを話してみたいと思います。小学校の高学年、中学生の時の夏休みには田んぼに稲と一緒に出て来るひえを抜く仕事をしたことがあります。私は田んぼに出てひえを抜くのがつらくてよくサボったのですが、ひえと言うのは稲とそっくりで区別が難しいものでした。それでひえだけではなく、稲も抜いてしまいました。ところが熟練したプロが見ると、稲とひえとははっきり区別がつきます。だから、農家では少しでも早く、稲の中からそのひえを抜いてしまいます。
ですから、イエス様が弟子たちに良い麦と毒麦に対して「収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。」と言われた時はびっくりしたのです。「え、なんでイエス様はそんなことを言うのだろう。」と思ったことでしょう。そこで、イエス様はたとえの意味を教えてくださいました。
37−43節にあります。「良い種をまく者」は人の子です。畑はこの世界、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたち、毒麦を蒔いた敵は悪魔、収穫とは、この世の終わりのことです。イエス・キリストは良い種である御国の子どもたちを保護し、守るために、毒麦である悪い者の子どもたちを終わりの日の審判まで待っておられることを教えてくださいました。ここに、イエス・キリストの御心がよく表われています。イエス様は寛容な心で、ギリギリまで裁きを遅らせくださいます。悔い改めを待つキリストのお心です。最後の最後待ってくださる愛です。これこそ、私たちに対する神様のお心であり、言い尽くせない愛でしょう。
だからと言って、私たちがいつまでも神様に甘えていていいということはでありません。自分の中に芽生えてくる毒麦は、一日も早く抜き取る必要があります。速やかな、裁きが必要なのは、自分の中に芽生えてくる毒麦です。私たちがちょっと油断している間に、あるいは、この世の人に合わせている間に、悪い種が蒔かれている可能性があります。また、「信仰的に、また、霊的に、少し眠っていたかな」と思うような時に、巧みに悪魔が私たちの内側に様々な「悪い種」を蒔いている可能性があります。それを最後まで、放っておいてはいけません。自分に対しては厳しくしなければなりません。悔い改める生活を通して毒麦を取り除く必要があるのです。やがて終わりの日にさばかれるからです。しかし、他人に対しては寛容でなければなりません。私たちは、他人をさばくということにおいては「神の裁き」にそれをゆだねる必要があります。イエス様のたとえで、主人のしもべたちはそれを抜き集めようとしました。しかし、主人は『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。』と言われました。他人に対しては極めて寛容な主人の心がよく現われています。
私たちは生活の中で一度悪い人だと思うと、その人を受け入れることがなかなか難しくなるでしょう。速やかにさばかれることを望みます。あの人さえいなければいいのにと思われる人がいるかも知れません。しかし、さばきは神様にゆだねましょう。自分の敵のように思えるほど悪く思われる人であっても切り捨ててしまうのではなく、神様にゆだねるのです。他人に対しては限りなく寛大な心を持って仕えて行くのです。家族、隣人、友人、職場の同僚や上司などの心のうちに芽生えてくる毒麦に対しては慎重でなければならないのです。自分の毒麦には厳しく、人にはやさしくしていくのです。罪深い私を赦すために十字架に架かって死んでくださったイエス・キリストの愛が無駄にならないように自分には厳しくしていきます。また、自分の注がれる神様の限りない愛のゆえに、人々にはやさしくし、毒麦のすべてのさばきは神様にゆだねて生きるのです。そうすると、まずは自分自身が成長します。自分が属している教会も、日々成長して行きます。やがてこの世に大きな影響力を及ぼすようになります。その時、私たちは私たちの父なる神様の御国で太陽のように輝く者になります。
43節をご一緒に読んでみましょう。「その時、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」「彼ら父の御国」とは、明確に天国での話です。そこにあって彼らは太陽のように輝きます。栄光の体をいただいた信者はますます神様の栄光を現わし続けて行くわけです。そういった祝福に与るのだという話がここにされています。そして「耳のある者は聞きなさい。」とは大切なメッセージだから聞きなさいと言うことです。ではどうやって私たちは世の中に毒麦が芽生えて成長しているにも関わらず、霊的に成長し、影響力を及ぼすことができるでしょうか。そして、終わりの日に、私たちの父なる神の御国で太陽のように輝く者になれるでしょうか。
第一に、天の御国は、からし種のようなものだからです。からし種を取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。このからし種は一グラムを量って調べてみると、百粒ぐらい入っているそうです。指で一粒をつかめないほどに小さいものなのです。そんな小さな種が畑に蒔かれると、やがて三メートル、四メートル、この天井の高さよりも大きく生長して、空の鳥がやって来て巣を作って、卵を生んでヒナを育てるほどになるということなのです。それほどに生長して行くのです。
第二に、天の御国は、パン種のようなものだからです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」」とあります。三サトンは、約36リットルです。1.5リットルのファミリーサイズのペットボトルにして24本の分量です。一般の家庭で日常のパンを焼く分量の20倍ほどです。しかも、パン種は粉を変質させ、しなやかで芳しい香りのパンを作り上げます。このように、天の御国は膨張し、拡張されていきます。キリストの芳しい香りを放ち、良い影響を及ぼしていきます。しかも、キリストにある命のゆえに人々は新しい創造を実現していくのです。
イエス様はこのたとえ話を12弟子を中心にする小さなグループに向けて語られました。それにはどんな意味があるでしょうか。私が神学校で勉強している時に教えて下さって岸義弘先生の解説を紹介します。「この世には毒麦も芽生えて来ます。しかし、これが毒麦だと、あなたがたの間で厳しいさばき合いをして分裂を起こしてはなりません。毒麦に手をつけてはいけません。放って置きなさい。そんなことで私の神の国は滅んでしまうようなものではないのだ。教会と言うものは、どんな毒麦があろうが、反対迫害の勢力が来ようが、からし種一粒のようなものです。キリストのいのちがあるから必ず生長し、その枝を張って、大きい木のようになり、世界の国々がその陰に巣を作って、その祝福にあずかる時が来るのだ。」と言うことです。さらに、反対があっても、迫害があっても、ふくらんで来て最後は実においしいパンが焼き上がって来ます。世界中のキリストの香りを放つようになります。だから、今は小さなグループであっても、私の教会がからし種のように小さく思われても希望を失わないで忍耐を失わないで、終わりの日まで信じて進んで来なさい。」と言うことです。そうです。私はクリスチャンの人生に対して小さく出発しても成長し、膨張し、輝くようになると思っています。この世に毒麦も芽生えているから、混乱もあり、試練もありますが最後は勝利者になります。圧倒的な勝利者、太陽のように輝く勝利者になるのです。
ですから、偶然のように、イエス・キリストに出会った人も、必死に捜し求めてキリストに出会った人も、神の国の価値が分かると、すべてを投資して神の国のために働きます。そこで、イエス様はたとえをとして最高の価値についても教えてくださいます。
44−46節をご覧ください。イエス様は天の御国は、畑に隠された宝のようなものだと言われました。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。彼は何も努力しなかったのに、自分の畑に隠された宝を見つけた時、その価値が分かったので自分の持ち物を全部売り払ってその畑を買うのです。また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。この人の場合は賢い人で最も価値あるものを捜し求めていました。だからこそ、良い真珠を見つけた時の喜びも大きかったでしょう。それほど価値があるからです。偶然に宝を見つけた人でも、必死に努力して真珠を見つかった人でも最高の価値が分かった時は自分のものを犠牲にしました。
弟子たちはイエス・キリストに出会ってから大切な家族も、舟も、網も、商売道具も、税理事務所も放棄してキリストに従いました。彼らは最初からキリストの価値が分かっていたのかは分かりません。もちろん、彼らに聖霊の働きかけがあったでしょう。しかし、確かなことは、彼らが天の御国の民として生活しながら天の御国、キリストに最高価値があることが分かったことです。キリストを信じ、キリストに従うことが出来たのは、本当に大きな恵み、一方的な恵みだったのです。特にこの福音書の記録者マタイもそのような経験をしました。キリストの弟子として御言葉を悟る喜び、癒される力と愛を経験しながらやはりイエス様を信じて良かった、何もかも捨ててイエス様に従って良かったと思ったのです。
ですから、12弟子のひとりであるマタイもすべての人々がイエス様のたとえ話に示された天の御国をよく悟り、信じてほしいと思いました。天の御国は成長し、拡張されていくこと、彼らの父の御国では太陽のように輝くことを信じてほしいと切実に願ったのです。そこで、彼はたとえの引き続き、イエス様が信仰を促されたことを記しています。
UBF教会も1961年、今から52年前はからし種のように小さな群れでした。その小さな群れにもイエス・キリストのいのち、いのちの御言葉があったから成長し膨張して来ました。今は世界の98か国に影響するほどに成長し、影響を及ぼしているのです。
日本UBF教会も26年前四畳半の部屋で出発する時はからし種ほどに小さかったのです。今は長崎から仙台まで、世界宣教においてもPNG、アメリカ、タイまでに広がりました。これから、さらに成長し続け、日本とアジア、世界に広がって行きます。私たちの期待を超えて神様が働いてくださるからです。しかし、毒麦、悪い者、不信仰の者であり続けると、どうなりますか。神様のさばきがあります。
47-50節には地引き網のたとえを通して御使いたちによるさばきのことが記されてあります。このたとえが教えていることも明白です。私の父は農村でも夜は魚をとる漁をしていましたので、このたとえもよく理解できます。地引き網で魚を捕った時に、いろいろな魚が網の中に入っています。そこで漁師は魚を見て、良いものと悪いものに分ける、その光景です。恐らく多くの人々がガリラヤ湖で見ていたのでしょう。その彼らがよく知っていることを用いてイエス様は御使いによるさばきがあるという大切なメッセージを与えられました。「正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。」と書いてあります。ちょうどよい麦と毒麦とが分けられるように、この時人々が悪い者と正しい者の二つに分けられるのです。悪い者とは、主を、またそのとうとい救いを拒み続けた未信者の話です。神様の救いがあるということを聞いていながらその救いを拒んだ者たちです。彼らには永遠のさばき、地獄が望みどおり与えられます。望んでいるように与えられます。正しい者とはクリスチャンたちです。彼らは約束どおりに永遠のいのちが与えられます。彼らの父の御国で永遠に輝くのようになります。

どうか、その日を待ち望みながら私のうちに蒔かれたいのちの御言葉を大切にし、御言葉に従う生活ができるように祈ります。何事も毒麦の活動のせいにしないで、彼らのことをさばくこともなく、良い麦として神様に守られ、愛されて行きますように祈ります。どんなに苦しい現実があっても、希望を失うことなく、自分を救ってくださった神様の愛と恵みに感謝しながら素晴らしい宝、最高価値ある神の国の救いを宣べ伝えて行くことができるように祈ります。

15ACTS04M この方以外には

2015年使徒の働き第4講

この方以外には

御言葉:使徒の働き4:1-31
要 節:使徒の働き4:12 「 この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

私たちは1章〜3章の御言葉を通して聖霊がどのように臨まれ、どのように働かれたかについて学びました。特に、先週は生つき足の不自由な男が癒され、救われた出来事を学びました。そこで、ペテロは説教を通してその男はイエス様が与える信仰によって完全に治ったことを証しました。それから、ユダヤ人はイエス様を拒み、十字架につけて処刑しましたが神様が復活させてくださったことも証しました。しかも、それは偶然に起こったことではなく、神様が昔からの預言を実現してくださったことだと証しました。こうなると、ユダヤ人の宗教指導者たちも納得し、受け入れるべきでした。しかし、彼らはペテロとヨハネを逮捕しました。聖霊のみわざが起こっているところに迫害も襲って来たのです。ではペテロとヨハネはその迫害と試練をどのようにして乗り越えて行ったでしょうか。迫害と脅迫の中でも彼らは何を証していたでしょうか。そして、釈放されたペテロとヨハネの報告を聞いた信者たちは何をしたでしょうか。
今日の御言葉を通してペテロとヨハネの信仰的な勇気と霊的価値観、試練の中でも祈りと賛美にあふれている信徒たちの信仰生活を学びたいと思います。

  1-3節をご覧ください。ペテロとヨハネが話しているところへ、祭司たちや神殿の警備隊長、それに、サドカイ人たちがやって来ました。この人たちは、ペテロとヨハネが午後の祈りの時間、ずっと民を教えていた内容を聞いていたようです。ペテロとヨハネはイエス様のことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えていました。それはサドカイ人にとって本当に困る内容でした。なぜなら彼らは「復活はない」と教えていたからです。ユダヤ教には大別して三つの派がありました。パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派です。パリサイ派は律法主義者として、エッセネ派は神秘主義者として知らされています。そして、このサドカイ派は現実主義者でした。彼らの特徴は復活をはじめ、超自然的なことを信じていなかったことです。ところが、ペテロとヨハネは目撃者たちと共に確かな証拠を持ってイエス様の復活を伝えていました。だから、サドカイ人たちは困り果ててしまいました。サドカイ人たちは皆の前でペテロとヨハネの証に反撃することもできず、それを許すこともできなかったからです。結局、彼らはペテロとヨハネに手をかけて捕えましたが、その時はもう夕方だったので、一晩、留置場に入れて置くことにしました。そうすることによって復活の話はそれ以上広がらないだろうと思ったようです。実際に捕えられたペテロとヨハネは何もできなくなりました。しかし、その時にも聖霊は働いておられました。
4節をご覧ください。「しかし、御言葉を聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。」とあります。五旬節の日に三千人が回心して教会に加えられましたがさらに多くの人々が加え続けられました。男の数が五千人ほどですから男女を合わせると大人だけでも1万人を超えたでしょう。一般的に考えると教会のリーダーたちが捕えられたから、人々がその教会のメンバーになることをためらうはずです。ところがそんな人間の予想とは裏腹に大勢の人々がクリスチャンになりました。聖霊は一般的な考え、常識を超えて働いておられたことが分かります。事実、いくら権威ある集団でも、たとえ最高権力機関であっても聖霊のみわざを留めることはできません。
5-7節をご覧ください。翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まりました。大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席しました。彼らは数か月前にイエス様を処刑するようにピラトに渡した人たちです。つまり、彼らはイエス様を十字架につけて殺した張本人たちなのです。そんな彼らが使徒たちを真中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。」と尋問しだしました。その時のペテロとヨハネの気持ちはどうだったでしょうか。普通に考えれば、彼らは「私たちもイエス様と同じようにさばかれて殺されるのではないか」という不安と恐れにさいなまれたはずです。しかも彼らは最高の権力者たちの前で尋問されています。震えて一言も言えないような状況なのです。しかし、ペテロは「民の指導者たち、ならびに長老の方々。…」と言い始めて大胆にイエス様を証ししました。どうしてそのようにできたでしょうか。それは「聖霊に満たされて」いたからです。
8a節をご覧ください。彼らは聖霊に満たされて大胆になりました。彼らはイエス・キリストを信じて聖霊を受けていましたが、聖霊に満たされることによってますます強くなっていたのです。
私たちもイエス・キリストを信じると、聖霊を受けます。そして聖霊に満たされることによってますます強くなります。聖霊に満たされると、力あるキリストの証人になります。したがって私たちはいつも聖霊に満たされることを望む必要があると思います。聖霊充満を期待し、祈り求めるのです。すると、私たちは聖霊に満たされて大胆にイエス・キリストを証することができるようになります。ペテロのように変えられて行きます。
聖霊に満たされていなかったペテロはとても弱い者でした。以前にイエス様が捕えられた時は遠く離れてついて行ったし、女中の前でもイエス様を知らないと言いました。三度もイエス様を知らないと繰り返していたほどに弱かったのです。しかし、ここでは何も恐れずに大胆に説教をしています。それは、彼らが十字架につけ、神様が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によってできたことでした。事実、詩篇118:22節に預言された通りに、イエス・キリストは、家を建てる者たちに捨てられた石でしたが、礎の石となりました。イエス様はユダヤ教の指導者たちによって捨てられ、十字架につけられて殺されましたが、この石こそなくてはならないものでした。神様はこのイエス様を死者の中からよみがえらせたのです。なくてはならない方だったからです。この石こそ一度は捨てられたもののやがて最も栄光に満ちた礎の石となったからです。すなわち、このイエス様こそなくてはならない方、あの礎の石、聖書の中で何千年も前から預言されていた救い主であったということです。ですから、ペテロは結論として12節を言いました。
12節をご一緒に読んでみましょう。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」皆さんにもこのような確信があるでしょうか。ペテロはイエス・キリスト、この方以外に、だれによっても救いはないと確信していました事実、この方こそ、私たちを罪による永遠の破滅から救い、永遠のいのちを与えることのできる唯一の救い主です。ですから、私たちはこの御名を信じなければ救われません。この方の他に誰によっても救いはありません。
日本は多神教の国です。多神教の国だからこそ、日本人には寛容な心があり、誰にも親切にすることができるという人もいます。だから、唯一の神様を証することに対しては抵抗する場合が多くあります。「この方以外には…」ということは独善的、排他的だと言います。そして、あれも神、これも神と言うことに対しては寛容的であると言います。どの神でも信じるなら救われるような教えを好む傾向があります。これが普通の日本人の宗教観ではないかと思います。富士山に登るのも、山梨県から行っても、静岡県から行ってもまじめに、まじめに上れば山頂にたどり着くのだと思うのです。それで、どの宗教もみな同じ、大切なのは信じることだ、たとえ信じなくても良い行ないをすれば、みんな良い所に行くから大丈夫だと言います。しかし、聖書はそのように教えていません。聖書は言います。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」と言うのです。
私たちは最初の人間アダムの子孫として皆が原罪を持っています。その原罪と自分の罪のゆえに、私たちはみんな滅んでしまう存在になってしまいました。ところが、あわれみ深い神様は、そのあわれみによってご自分のひとり子イエス・キリストをお与えになりました。そして、イエス・キリストは私たちのすべての罪を担って十字架に架かって死なれました。それによって私たちのすべての罪の代価を払われ、赦して下さいました。それから三日目に死者の中からよみがえられました。この復活はその以前にも、以後にもありません。イエス様だけが聖書に従って死者の中からよみがえられたのです。だから、このイエス・キリストだけが唯一の救い主なのです。この方以外に救いはありません。そして、この救いは何か悟る知識ではありません。生まれつきの足なえの人が癒され、救われるような奇跡です。福音書にも使徒の働きにもイエス・キリストの御名による数々の奇跡が記されています。私たちがイエス・キリストを信じて救われるということは神様の力を体験することでもあります。自分の人生において変化と癒しを経験して行く力です。
ペテロとヨハネは三年前までガリラヤ湖で漁をしていました。ユダヤ人たちが言っているとおりに無学な人、普通の人でした。ところがそんな彼らが学者やこの世の権力者を前にして、堂々と「この方以外には、だれによっても救いはありません。」と言いました。当時、ユダヤの最高の権力者、知識人たちを圧倒する説教をするほどになりました。それはペテロに知識と力があったからではありません。彼がイエス・キリストの御名によって救われ、イエス様の御名に頼っていたからです。
ユダヤの最高権力者たちは、ペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚きました。人々はこの無学な二人が話すことを不思議に思い、どうすることもできなくなりました。ただ、自分たちが持っている世の権力で彼らを脅そうとしました。そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じました。しかし、ペテロとヨハネは彼らに何と答えて言いましたか。
19、20節をご覧ください。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」彼らは人を恐れず、神様を恐れました。「人を恐れず、神様を恐れる。」これこそ、私たちクリスチャンが持つべき霊的価値観です。イエス様は「からだを殺しても、たましいを殺せない人達などを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい(マタイ10:28)。」と言われました。ペテロとヨハネはこのイエス様の御言葉を心から受け入れ、堅く守っていたことが分かります。彼らは主の御言葉に従ってはっきりとした霊的価値観を持っていたのです。だからが、彼らは最高権力者たちの前でも大胆にキリストの御名を証することができました。結局、宗教指導者たちは、聖霊に満たされた使徒たちの勇気と迫力に圧倒されてどうすることもできず、釈放しました。では、使徒たちはこのような勇気と力をどこから得られたでしょうか。それは聖霊によるものです。
使徒たちは聖霊によって働かれるイエス様とともにいました。だからこそ彼らはイエス様と同じように勇気を持って大胆に語ることができたのです。それは彼ら自身の力によったのではありません。イエス様と深い関係にあった使徒たちが、聖霊の力によって語ったのです。
私たちも同じです。私たちは弱いです。自分の力だけでは何もできないかも知れません。でもイエス様は強いのです。イエス様とともにいるならば、聖霊によってイエス様が私たちに勇気と力を与えてくださいます。聖霊は私たちが大胆にみことばを語ることができるようにしてくださいます。特に、私たちが弱い時こそ聖霊が力強く働いてくださいます。そして聖霊の力によって人々は悔い改め、回心することができます。
 イギリスにチャールズ・スポルジョン(1834-1892)という有名な説教者がいました。彼の語る説教には迫力がありました。彼が活動している時代から150年も超えている今でも彼のメッセージは読まれているほどです。私のような人でも彼が後輩たちへ残した三冊の本を持っているほどです。しかし、ある主日の礼拝の時に、彼は失望感に襲われました。説教の途中で口ごもっただけでなく、なぜかうろたえてしまったのです。彼は説教に失敗したという挫折感にさいなまれました。そこで帰宅の途中でひざまずき、祈りました。「主よ。ないものをあるもののようにされる主よ、私の力のない説教を祝福してください。」
 彼は一週間そのように祈り続けました。ある時は夜中に起きて祈った時もありました。そして、次の聖日にはすばらしい説教をして、失った自信を回復するという決心をしました。その祈りのとおり、次の日曜日にはすばらしい説教をすることができました。礼拝が終わると人々が押し寄せて来て熱烈に賞賛してくれました。満足して家に帰ったとき、彼はあることに気づかされました。彼が振り替えてみると、「あれっ、失敗したと思った先週の説教の時には41人の人が回心しました。それなのに、あんなに賞賛されたきょうの説教では回心者がひとりもいなかったのです。これはいったい、どういうことなのかと思われました。そこで、彼は「私たちの弱さを助けてくださる聖霊の力がなくては何もすることができない」ということが分かったのです。
 そうです、私たちは、私たちを助けてくださる聖霊の力によってのみ人を変えることができます。どんなに無力で、普通の人でも、イエス様とともに歩む生活の中で聖霊に満たされると大胆にみことばを語ることができるようになるのです。
もし、自分が無学で、普通の人であることに失望している方はいないでしょうか。神様はそのような人を用いられるのです。自分が無学で、普通の人であることに感謝しましょう。なぜなら、弱い者、足りない者であるという自覚があるかにこそ、そういう人はもっと主により頼もうとするからです。そして主の力によって大胆にみことばを語ることができるようになるからです。ではどうやって聖霊に満たされることができるでしょうか。それは一方的な神様の働きです。でも聖書を読んで見ると祈る時に神様が私たちのうちに働いてくださることが分かります。
留置所から釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告しました。これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神様に向かい、声を上げて祈りました。彼らは祈りの力を体験していたからこそ、声をあげて祈ったと思います。彼らは何を祈りましたか。彼らは「主よ。彼らの脅迫から私たちを守ってください。無事に信仰生活が送れるようにしてください。」と祈りましたか。いいえ。そうではありません。弟子たちは「あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。」と祈りました。
29、30節をご覧ください。「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされました。聖霊の力によって神様のことばを大胆に語り出しました。神様のみこころと一致した祈りを主は聞いてくださいます。御心に反した祈りが聞かれるわけはありません。私たちの祈りが神様の御心に一致するとき、神様は天地を造られたあの力で応答してくださいます。その時、私たちはどんな権力、どんな脅迫に対してもびくともしない証し人とされるのです。

以上から、ペテロがイエス・キリストの御名によって、足のきかない男を歩かせた出来事を通してイエス・キリストを証ししたことを学びました。イエス・キリスト、この方以外には、だれによっても救いはありません。イエス・キリストの御名は世のすべての人々を罪と死の力から救います。私たちがイエス・キリストの御名を信じる信仰によって自立的に歩く人生となるように祈ります。特に祈り、声をあげて祈ることによって聖霊に満たされますように祈ります。聖霊に満たされてイエス・キリストの御名によって生まれつき足のきかない男のような人々を救いに導くことができるように祈ります。そういう生活を通してイエス・キリストの御名による救いのみわざを体験してますます大胆にイエス・キリストの御名を証しすることができるように祈ります。このイエス・キリストの御名が私達を通してあがめられますように祈ります。

14Genesis25M 私をここに遣わしたのは、実に、神なのです

2014年創世記25講

私をここに遣わしたのは、実に、神なのです。

御言葉:創世記42:1-45:28
要 節:創世記45:8 だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。

 先週、私たちは主がヨセフとともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださったことを学びました。それは誘惑と試練とに対する勝利でもありました。ほんとうに神様とともに歩む人生には成功と勝利があります。
今日はヨセフが兄弟たちと会い、彼らを試し、ついに再会する、感動的な出来事を学びます。ヨセフは奴隷に売られたエジプトでも成功しましたが、兄たちは、飢饉のために食べるにも苦しくなっていました。特に20年の歳月が経ても彼らの罪責感は無くなっていませんでした。そこで、ヨセフは兄たちが悔い改めるように助け、それが確認できた時はすべてを打ち明けて涙を流します。何よりも神様の主権的な働きと導きに感動して喜びの涙を流します。
ここで、私たちは夢を成し遂げてくださる神様、神様に対するヨセフの兄弟愛と信仰を学ぶことができます。どうか、私たちも神様を全く信頼して自分の人生をヨセフのように解釈して行く信仰の人として成長して行きますように祈ります。

?.人の夢を成し遂げ、愛の人に変えてくださる神様
パロの夢をヨセフが解きましたがその通りに、7年間の大豊作は過ぎ去り、ひどい飢饉が続きました。その飢饉はエジプトだけではなく、ヤコブの家族が住んでいたカナンの地にもありました。ついに、どこかで穀物を飼って来なければ死んでしまう状態になりました。そこで、ヤコブはヨセフの十人の兄弟に穀物を買って来るようにエジプトに行かせました。しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちといっしょに行かせませんでした。わざわいが彼にふりかかるといけないと思ったからです。ヨセフを失っていたヤコブにとってはどうしてもベニヤミンだけは守りたいと思ったようです。こうしてヨセフの10人兄弟はエジプトに下って行きました。
 ときに、ヨセフはエジプトの権力者であり、国のすべての人々に穀物を売る者になっていました。では、ヨセフの兄たちはヨセフの前でどうしましたか。
42章6bをご覧ください。「ヨセフの兄弟たちは来て、顔を地につけて彼を伏し拝んだ。」とあります。今日の本文には何度も兄たちがヨセフの前で地に伏せていることを記しています(43:26、43:28、44:14など)。また、9a節を見ると「ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出して彼らに言った。」とあります。ヨセフが夢を思い出したというのは夢を持ち続けていたことも教えてくれます。約20年前、ヨセフは夢を見て兄たちや父に話しました。その中に「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです。」とも言いました。その後、兄たちはヨセフの夢を潰そうとしました。殺そうとして穴に投げ込みました。ルベンが反対したから殺しはしませんでしたが、イシュマエル人に売りました。それから20年の歳月が流れると、ヨセフは、もはや父にとって死んだ過去の人でした。兄たちにとっても遠い昔に死んでしまった人になっていました。ところがヨセフは夢を持っていたのです。だから、彼はかつて兄弟たちについて見た夢の通りになっていることの確認ができました。それは神様がヨセフの夢を成し遂げてくださったからです。
ヨセフの兄弟たちはききんのためにエジプトにくださって来たのですが、実はそこにも神様の働きがありました。ききんは自然現象です。個人とは何の関係もなさそうに思われます。ところがその飢饉が、ヨセフの個人的な夢に関わっていたのです。ききんが穀物不足を生み出し、ヨセフの兄弟たちがヨセフに会わざるを得ない状況を作り出しました。そうして、兄たちは顔を地につけてヨセフを伏し拝みました。ここで、神様は神様からの夢を持っている人の夢を中心に働いてくださることが分かります。神様は何となく生きている人ではなく、神様からの夢を持っている人を中心に世界を動かしておられるのです。
ヨセフは兄弟たちを見て、自分の兄弟であることがわかりました。また、ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出しました。ところが、彼らの中に最愛の弟ベニヤミンがいませんでした。ヨセフはベニヤミンも自分のように奴隷として売られたかと思われたでしょうか。ヨセフは自分のことを明かさずに「あなたがたは間者だ。この国のすきをうかがいに来たのだろう。」と言いました。そして弟のベニヤミンを連れて来ることによって彼らの真実さを証明するように言い、彼らを三日間、監禁所に入れて置きました。三日目には「兄弟のひとりを監禁所に監禁しておいて、あなたがたは飢えている家族に穀物を持って行くがよい。そして、あなたがたの末の弟を私のところに連れて来なさい。そうすれば、あなたがたのことばがほんとうだということになり、あなたがたは死ぬことはない。」と言いました。こうして、飢えている家族を助け、ベニヤミンも連れて来るようにしました。ところが、兄たちは何と言い合っていましたか。
21節をご覧下さい。彼らは互いに言いました。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」ルベンが彼らに答えて言いました。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ。」(22)。ここで兄たちは20年前に犯した罪の問題が解決されず、苦しんでいることが分かります。彼らは罪責感のために苦しんでいたのです。でも、彼らはヨセフとの間に通訳者がいたので自分たちの話をヨセフが聞いていたとは知りませんでした。しかし、ヨセフは彼らが自分を奴隷として売った罪のゆえに苦しんでいることが分かりました。同時に、兄たちが自分を憎み、自分を殺そうとして穴に投げ込み、エジプトに売ってしまったことも思い浮かんだことでしょう。ヨセフは心を痛めました。それを耐えられなくなってヨセフは彼らから離れて、泣きました。それでも、心を開いて「私はヨセフです。」と告白するまでには至りませんでした。むしろ、暴君のように、シメオンを人質にし、弟のベニヤミンを連れて来るように言い渡して兄たちをカナンに帰しました。その時、兄弟たちの袋に穀物を満たし、彼らの銀をめいめいの袋に返しましたが、兄弟たちが帰る途中の宿泊所で、袋をあけてみると、自分達の銀 が袋の中にそのまま入っていました。彼らは心配し、身を震わせて互いに言いました。「神は、私たちにいったい何ということをなさったのだろう。」
こうして、彼らがカナンの地にいる父ヤコブのもとに帰って、その身に起こったことをすべて報告しました。ヤコブはヨセフを失ったのに、今度はシメ オンもいなくなり、そして、ベニヤミンまでも失うのではないかと苦しみました。それでベニヤミンを彼らといっしょには行かせないと言いました。しかし、その地での飢饉は、ひどかったのでヤコブは兄たちがベニヤミンを連れて行くことに対して許さざるを得なくなりました。その時、ユダは父親に「私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください。万一、彼をあなたのもとに連れ戻さず、あなたの前に彼を立たせなかったら、私は一生あなたに対して罪ある者 となります。」と説得しました。以前とは全くユダの態度が変わっています。ヤコブは「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。」と言ってすべてのことを主にゆだねました。
こうして兄弟達は再びヨセフの所に行きました。ヨセフは彼らが来たこと、特にベニヤミンもいっしょに来たのを見て非常に喜んだでしょう。ヨセフは兄弟達を家へ連れて行き、豊かにもてなすようにしました。それからシメオンも彼らのところに連れて来ました。ヨセフはまず父の安否を尋ねました。そして同じ母の子である弟のベニヤミンを見て「わが子よ。神があなたを恵まれるように。」と祝福しました。
30節をご覧下さい。ヨセフは弟なつかしさに胸が熱くなりました。同じ母から生まれた唯一の兄弟であるベニヤミンを見た時、どれほど胸が熱くなったでしょうか。彼は泣きたくなって、急いで奥の部屋にはいって行って、そこで泣きました。やがて、彼は顔を洗って出て来ました。そして自分を制して、「食事を出せ。」と言いつけました。それから、ヨセフは、年長者は年長の座に、年下の者は年下の座にすわらせました。また、ベニヤミンにはほかのだれの分け前よりも五倍も多く与えました。
それからヨセフは兄たちを父の所に帰しますが、兄たちの心を知るために再び事件を起こしました。ベニヤミンの袋に自分の銀の杯を穀物の代金といっしょに入れておくようにし、彼らが町を出てまだ遠くへ行かないうちに、彼らのあとを追いついて調べるようにしたのです。その結果、ベニヤミンの袋から銀の杯が見つかりました。この時、兄たちはベニヤミンを見捨てて帰途に就くこともできました。過去だったらベニヤミンにすべての責任を負わせて自分達だけが生き残る道を考えていたでしょう。実際に兄達には罪がありませんでした。しかし、彼らは自分達に一緒にしもべになると言いました。特に、ユダ゙は自分を犠牲にしてベニヤミンを救おうとしました。
44章18〜34節まではユダがそれをお願いする内容です。彼のお願いは非常に感動的で、説得力があります。ユダは、ヨセフをエジプトに売った張本人です。それが今や捨身になって、ベニヤミンを取り戻そうとしています。彼はベニヤミンの代わりに自分が一生奴隷になると言いました。
このユダの説得は口先だけではなく、悔い改めから出て来たものです。彼はベニヤミンに何か問題が起こると自分が責任を負うと父に約束したことを守ろうとしました。自分を犠牲にしてでも 自分がしたことに対して最後まで責任を取ろうとしたのです。また、彼の説得には弟に対する愛があります。過去彼はヨセフを憎み、奴隷として売ることに積極的に働きました。弟の苦しみ、悲しみには関心がありませんでした。子どもを愛する父の心にも関心がありませんでした。しかし、今は弟のことや年老いた父のことを考えています。彼らがどれほど悲しみ、苦しむようになるかを考えました。自己中心ではなく、兄弟を愛し、父を尊敬する人に変えられていたのです。真実な悔い改めによって彼の心も人に対する態度も変わっていることが分かります。神様は彼の真実な悔い改めを受け入れ、彼を救いの御業に貴く用いられました。後にヤコブはユダを祝福して語りました。「ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。(49:9、10)」やがてダビデに受け継がれ、メシヤ待望へとつながります。ユダは自己中心の人から自分を犠牲にしても兄弟を愛し、父を愛する人に変わった時に救いのみわざに尊く用いられたのです。

?.神様の完璧なご主権と導きを信じるヨセフ
45章1節をご覧下さい。ヨセフは、兄達が悔い改めたことを知った時、それ以 上自分を隠す必要がありませんでした。それで、自分を制することができなくなって、みなを、自分のところから出してから声をあげて泣きました。それがどれほど大きかったか、エジプト人はそれを聞き、パロの家の者もそれを聞きました。彼が今までわざと事件を起こして兄達を困らせたことは彼らに復讐するためではありませんでした。ヨセフは兄達を真に愛していました。ヨセフは兄たちが犯した罪を悟って告白し、悔い改めにふさわしい行動をすること願いました。そして、それが確認できたときは、感動と和解の涙を流しました。ここで、やっとヨセフは兄たちを心から赦したことでしょう。また自分の心も癒されたことでしょう。
かつてヨセフは二番目の子どもをエフライムと名づけました。それは主がこの苦しみの地で、自分に多くの償いをしてくださった、と告白したことです。しかし、それは物質的、社会的なことであって、心の償いではありませんでした。深い心の傷は長らく癒されていませんでした。多くの富と権力で、自分の心の傷を癒すことは無理だったのです。ほんとうの平安と幸せを手にすることはできませんでした。兄たちもヨセフを憎しみ、売ってしまった罪の問題が解決されなかった時は罪責感から解放されませんでした。ききんの時に、食糧の問題が解決されても、宮殿の料理でもてなしを受けても心に平安はありませんでした。しかし、彼らが仲直りをし、互いに愛し合うことができた時に心も癒されたのです。それで、互いに彼らは自分のことを隠すことなく、言い表わすことができました。このように罪の問題が解決され、愛する生活をする人はありのままで生きることができます。
ユダの言葉を聞いたヨセフは兄たちに自分を現しました。そして驚きのあまり、声も出せない兄達に神様の摂理を証しました。45章章4-8節はヨセフの証しです。5節 をご覧下さい。「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」ここで私たちはヨセフが兄達を赦し、彼らを暖かく受け入れることができたのは、彼に信仰があったからであることがわかります。ヨセフは自分の人生が兄達の手によって左右されたのではなく、神様の主権と摂理の中で導かれたことを証ししました。兄達はヨセフを憎んで奴隷として売りましたが、神様はそれを働かせて益としてくださいました。彼を鍛錬してエジプトの総理大臣として立てられました。
8節をご一緒に読んでみましょう。「だから、今、私をここに遣わした のは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。」素晴らしい信仰告白です。ほんとうに信仰のある人はすべてのことにおいて神様の主権と導きを認めて再解釈することができます。同じ出来事でもどのように解釈するかによって意味が違ってきます。同じことを経験してもある人はつぶやき、ある人は感謝します。不幸に思う人もいるし、幸せに思う人もいます。どのように解釈するかによって苦しい不幸の人生を生きるか、幸せな人生を生きるかが決まると思います。
ところが、信仰の人には人の行ないも、自然現象も神様のわざとして再解釈することができます。ヨセフは兄弟によって売られたのではなく、神様に遣わされたと考えました。また信仰の人は、神様の業がなされる目的を理解しています。ヨセフは、自分がエジプトの統治者になったのは、エジプトの民が救われるだけではなく、ヤコブの家族、つまりイスラエルの民も皆救われるためであったと考えました。ここで、ヨセフはかつての夢の本当の意味を悟ったことでしょう。
使徒パウロは次のように言っています。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)」パウロはヨセフヨセフの生涯を通して神様のご計画の完璧さが分かったことでしょう。ヨセフを通しても、自分の体験を通しても完璧なご計画の中で私たちの人生が導かれていることが分かったのです。
そうです。神様はご計画の中でヨセフを導かれたように私たちひとりひとりも導いておられます。だから、神様を信じる人にとっては神様が自分の人生を常にベストの道に導いておられることがわかります。それで、逆境の時にも明るく、肯定的に考えることができます。すべての弱さと孤独に打ち勝ち、感謝と恵みに満たされた人生を過ごすことができます。順境の時には感謝し、逆境の時でも耐え忍びます。将来のことに対しては、夢を持ち続けて神様にすべてを委ねて最善を望むことが出来ます。それは、悪をも善に変え、死をも命へと変えてくださる神様が、わたしどもと共におられることを、知っているからです。

14Genesis13M アブラハムは必ず大いなる強い国民となる

2014年創世記第13講(金ヨハネ宣教師)
                              
アブラハムは必ず大いなる強い国民となる

御言葉:創世記18章、19章
要 節:創世記18:18 アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。

先週私達は李ヨシュア宣教師が伝えたメッセージを通して主がアブラムとサライの名前をアブラハムとサラに変えてくださったことを学びました。二人の名前は一文字変わっただけですが、その意味は大きく変わりました。私も日本に来る時には名前がヨナでしたが、その後、ヨハネに変わりました。ヨナとヨハネは名前が似ていますが、イメージは全く違うでしょう。神様はアブラハムとサラが多くの国民の父と母となると言われました。それは年老いた彼らの人間条件を考えると不可能なことですが、全能の神様なら不可能なことではありません。全能の神様は私達にも大きなビジョンを置かれ、アブラハムとサラのように育てておられると思います。私達を通してこの国に星のように数多くの信仰の子孫を増やしてくださるように祈ります。
今日の御言葉にはアブラハムとロトの話が出ています。彼らは一緒に信仰生活を始めました。ところが、彼らが結ぶ実はかなり違いました。彼らの信仰生活にどんな違いがあったでしょうか。 今日の御言葉を通してアブラハムの信仰生活について学ぶことができるように祈ります。

第一に、アブラハムは仕える人でした。18:1節を見ると、主は今まではアブラハムに幻のうちに現われ、仰せられましたが、今度は人の姿で現われました。アブラハムは日の暑いころ、天幕の入口にすわっていました。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていました。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をしました。アブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って、言いました。「早く、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作っておくれ。」一セアは約十三リットルです。三セアは、三人の客人のためには余りに大量です。そして牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡しました。若い者は手早くそれを料理しました。それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した子牛を持って来て、彼らの前に供えました(6-8)。凝乳は固まった牛乳、つまりヨーブルトのようなものです。アブラハムは旅人を心から歓迎し、最高のもてなしをしました。サラと若者達も一言も文句を言わず、素早くもてなしをするのを見ると、アブラハムの家庭の人々が皆喜びを持ってもてなすことがわかります。アブラハムの心の豊かさはどこから来たのでしょうか。彼が金持ちだったからでしょうか。この世の中には金持ちであっても心が狭くてけちな人々がいくらでもいます。彼らは豊かさの中でも貧しい人々です。人々の中には金をもうけるのはよくできるが、その金をどう使うべきかはよく知らない人々が多くいます。自分のために、あるいは快楽のためには惜しみなくお金を使いますが、他の人のためにはけちです。アブラハムは訪ねて来たお客さんのため惜しみなくもてなしをしました。アブラハムのこのような豊かさは、信仰によって生きる生活から来たと思います。神様との交わりによって彼の心も豊かになっていました。
3月に韓国から申サラ牧者が来日して私の家に1週間泊まりました。金サラ宣教師は彼女と一緒に東海UBFを訪問しました。東海センタの宣教師たちはLサイズのピザ、高いすしなど美味しい食べ物をたくさん用意してもてなしてくれたそうです。彼らは金持ちではありませんが、喜んで迎えて豊かな心でもてなしてくれました。申サラ牧者は日本の宣教師達に仕えるために自費で来日しました。そして、東京UBFと東海UBFの奥様たちと聖書勉強を通して交わりました。奥様達を食事に招いてもてなしてくれたそうです。彼女はいつか世界を回りながら聖書を教えるビジョンを持って、今まで聖書や英語を勉強して来たそうです。そして、60歳を過ぎると世界を回りながら聖書を教えています。私が26年前、韓国にいた時の彼女に対する印象はあまりよくありませんでした。冷たい感じがしたので、彼女とあまり話し合った記憶もありません。それでサラ宣教師が彼女を家に泊まらせようとした時も、心から喜んではいませんでした。ところが、26年が経って会った彼女は変わっていました。以前感じていた冷たさはなくなり、心が豊かな人、仕える人になっていました。彼女はサラ宣教師に私に対する印象も言ったそうです。私もかなり変わったと言ったそうです。信仰によって主とともに歩む人は自分も知らないうちに新しく変わって行きます。心が豊かな人、仕える人として変わって行きます。いつもともに生活している人は変わった様子がよくわかりませんが、久しぶりに会うと、それが分かります。アブラハムも年月が経つにつれて仕える人、心が豊かな人として変わって行きました。
アブラハムから豊かなもてなしを受けられた主はアブラハムに良い知らせを伝えてくださいました。10節をご覧ください。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていました。アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていました。それでサラは心の中で笑ってこう言いました。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」(11,12)。常識的に考えるとアブラハムとサラが子どもを産むことは不可能なことでした。100歳と90歳の老人に「あなたは子どもを産む」と言ったら笑うしかないでしょう。そこで、【主】がアブラハムに仰せられました。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言って笑うのか。【主】に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」(13,14)。神様は年寄りのアブラハムとサラを笑わせる方です。神様は人の考えや想像を超えて働かれる全能の神です。この方に不可能なことはありません。創世記21章を見ると、百歳のアブラハムと九十歳のサラの間に男の子、イサクが生まれました。

第二に、アブラハムは祈る人でした。17,18節をご一緒に読んでみましょう。「【主】はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。」神様は御自分がなさろうとすることを隠さずにアブラハムに知らせました。とても親しい関係でなければ、大事な話はしません。本音は言えません。もし、日本の総理が「○○さん。大事な話があります。これから消費税を5%から8%に上げたいと思っていますが、○○さんの考えはどうすか」と聞いたらどうでしょうか。総理がそれほど○○さんを信頼しているという証拠でしょう。神様はアブラハムを信頼してご自分がなさろうとすることを隠さずに教えてくださいました。神様はアブラハムを親しい友達のように思っておられたのです。神様と友達のように親しくなり、交わる人はなんと幸いな人でしょうか。私達は、神様と交わりを持つために造られました。これは、人間だけに与えられている特権です。神様は私達と親しい交わりを持つ事を願っておられます。アブラハム、モーセ、ダビデなど、神様に用いられた人たちはみな、神様の御声を聞き、神様に祈る人でした。神の御子イエス様もいつも祈っておられました。私達は祈りを通して神様と交わることができます。祈りを通して神様の御心を知ることができます。祈りを通して力を得ることができます。神様との交わりによって私達は霊的に成長することができます。
 ソドムとゴモラを神様が裁こうとしておられることを、アブラハムは主の語りかけによって明確に知りました。それを知ったアブラハムは悪い者は裁かれて当然だと思いませんでした。彼はそこの人々のためにとりなしを始めました。彼の祈りは無条件要求する祈りではありませんでした。23、25節をご覧ください。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。」「正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。」彼は公義を行なう神様に対する強い確信がありました。そればかりではなく、正しい者を愛し、その正しい者のために悪い者達も赦してくださる神様を信じました。アブラハムはわずかの正しい者の存在を期待し、神様がソドムを滅ぼすことを中止され、それによってロトたちも助けられるように願っていたでしょう。主は彼の切なるとりなしの祈りに答えられました。26節をご覧ください。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」ところが、アブラハムはソドムに50人の正しい者がいる確信が持てなかったのか、必死的に正しい者の数を減らし始めました。50人から45人、40人から30人、30人から20人、20人から10人まで減らしました。金サラ宣教師はこのようにしつこく祈るアブラハムがまるで韓国人みたいだと言いました。なぜなら、韓国人はものを買う時、よく「まけてください」と値切るからです。アブラハムは韓国人が値切るように、しつこく神様に祈り求めました。また、彼の祈りの姿勢は謙遜でした。彼は自分がちりや灰に過ぎない存在であることを知っていました。彼には牧者の心情が溢れていました。彼の心の中にはおいロトを考えていたでしょう。神様はこのようなアブラハムの祈りを全部聞いてくださいました。32節をご覧ください。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」神様は彼が何度も正しい者の数を減らしたことで怒りませんでした。神様はソドムに十人の正しい人がいれば全部を赦そうとしました。しかし、ソドムとゴモラは滅ぼされてしまいました。ソドムの人たちの間には、十人の正しい人がいなかったことを示しています。それではアブラハムの祈りは無意味だったでしょうか。19:29節はこう言っています。「こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。」ロトと彼の家族も滅ぼされるしかありませんでしたが、アブラハムのとりなしによって救われたのです。
 ここで正しい者の重要性を学ぶことができます。残念ながらソドムに十人の正しい人がいなかったので神様の裁きを受け、滅んでしまいました。もしロトが自分の家族と一緒にマンツーマン聖書勉強をして一人の弟子を養ったなら10人は十分な数でした。これを考えて見ると、一つの国の裁きと救いの分かれ道は政治家や企業家ではなく正しい人であることがわかります。神様は正しい人を尊く思われ、正しい人を中心に働かれます。神様は常に十人の正しい人を求める方であり、そのゆえにいっさいの誤りや欠点を赦してくださる方です。だから大切なことは、みんなが良くなることではなく、まず私が正しく生きることです。正しい人とはアブラハムのように神様と共に歩む人です。信仰によって生きる人です。この国のクリスチャン人口は全国民の一パーセントにもなってないと言われています。とても少ないと思うかも知れません。しかし、一パーセントにもならないクリスチャンでも信仰によって、神様の御前で歩む人、つまり正しい人がいるかいないかはとても大切なことです。私達クリスチャン一人一人が神様の御前で正しい者として生きるように祈ります。主はその正しい人を見て「滅ぼすまい。その人々のために」と言われるでしょう。私たちひとりひとりがこの国を神様の裁きから守る正しい者となるように祈ります。また、アブラハムのようにこの国の救いのために切に祈る者となるように祈ります。
 信仰によって、アブラハムは約束された地に他国人のようにして住み、天幕生活をしました。一坪の土地も所有していませんでした。ところが、主はアブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福されると言われました。アブラハムによって形成される国民は主の道を守り、正義と公正を行います(19)。神様を愛し、神様の御言葉に聞き従います。主は今も主の道を守り、正義と公正を行う人々を祝福してくださいます。そして、彼らを大いなる強い国民とし、地のすべての人々を祝福してくださいます。私達が主の道を守り、主とともに歩む生活ができるように祈ります。

19章にはアブラハムの甥であるロトの話が出ています。彼はアブラハムに比べると若くて将来性がある人でした。彼は伯父さんのアブラハムと一緒に信仰生活を出発しました。彼はどんな人生を生きたでしょうか。彼はどんな実を結んだでしょうか。19:1-3をご覧ください。ロトはふたりの御使いを迎えてもてなしました。ところが、アブラハムのお客の迎え入れと比べて見ると、けちのように見えます。アブラハムは天幕で暮らしていましたが、ロトは家に住んでいました。アブラハムには柔らかくておいしそうな小牛が思い出しますが、ロトはかたいパン種を入れないパンが思い出します。ロトはパン種を入れないパンを焼いて食事をしました。彼の妻と娘たちや婿たちがお客さんをもてなすために何かをしたという記録もありません。アブラハムから見ることができる暖かさ、快く迎えること、豊かさが見えません。御使いたちも彼のもてなしを快く思われなかったのか、「いや、わたしたちは広場で泊まろう」と言いました。ロトのようなもてなしを受けると、食べ物がのどをよく通りません。彼はこの世と調子を合わせながら生活をしていたので心の余裕も豊かさもありませんでした。
4-9節を見ると、ソドムの人々がどれほど堕落していたかが分かります。二人の御使いがソドムに着くと、若い者から年寄りまで、すべての人が、集まって来ました。彼らは御使いから御言葉を聞くために来たでしょうか。いいえ。彼らはロトに向かって叫んで言いました。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」彼らが「よく知りたい」と言っていることは同姓とのセックスをすることを意味します。これを見ると、ソドムの若い者から年寄りまでどれほど性的に堕落していたかがわかります。彼らの目には御使い達がイケメンに見えたようです。彼らは肉の欲のままに生きていました。ロトはお客さんの安全と引き換えに、自分の二人の娘を連れて来るから、好きなようにするように言いました。こんな親がいったいどこにいるでしょうか。これを見るとロトもソドムの人々の影響を受けて世俗的になっていたことがわかります。しかし、町の人々はロトの言うことを聞かず、「さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに会わせてやろう」と言いながらロトのからだを激しく押しつけ、戸を破ろうと近づいて来ました。すると、御使いたちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をしめました。家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てました(9-11)。
御使いふたりはロトにソドムとゴモラを滅ぼそうとしていることを知らせ、身内の者をみな、この場所から連れ出すように言いました。そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言いました。「立ってこの場所から出て行きなさい。【主】がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われました(14)。ロトの言葉には権威がありませんでした。子ども達さえ無視してしまいました。ソドムから離れたところに住んでいたアブラハムはソドムの人々のために切に祈りました。しかし、ソドムに住んでいたロトはどうでしたか。彼はソドムとゴモラが滅亡するという話を聞いても家族や人々の救いのために祈りませんでした。
御使いたちはロトを促しましたが、ロトはためらっていました。なぜ彼はためらったでしょうか。ロトはアブラハムと別れる時にも持ち物が多くありました。ソドムに住んでからはもっと財産が多くなっていたでしょう。それで彼は羊の群れ、立派な家など多くの財産を捨てて行くのをためらっていたでしょう。もうすぐソドムが滅ぼされるのに、彼は世のものに心が縛られていました。滅亡が迫っていたのに、彼はこの世のものをとても愛していました。このままためらっていたら、ロトは家族と一緒に滅ぼされてしまったでしょう。しかし、御使いたちは強制的に彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんで連れ出し、町の外に置きました。それは主の彼に対するあわれみでした。アブラハムの祈りを聞いてくださったからでした。
神様はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の【主】のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされました(19:24,25)。ソドムとゴモラは主の園のように、どこもよく潤っていました。人々は物質的に豊かに暮らしていたでしょう。しかし、その国は堕落していたので、神様によってみな滅ぼされました。審判の知らせを冗談のように思ったロトの婿達も滅ぼされました。性的に堕落した若い者から年寄りも滅ぼされました。その地の植物も、動物もみな滅ぼされました。神様のさばきは徹底的に行われました。イエス様は次のように言われました。「また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました(ルカ17:28,29)。
26節をご覧ください。ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまいました。御使いはロトの家族を外のほうに連れ出した時、こう言いました。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。」ところが、ロトの妻はソドムに残して来た物、家にある財産を惜しむ心があったでしょう。それを考えるうちに自然に頭がうしろを振り向いてしまいました。神様のあわれみによって救われたのにもう一歩のところで御使いの警告を犯して塩の柱になってしまいました。イエス様はルカの福音書17章でさばきの日との関連で「ロトの妻を思い出しなさい」と言われました。この世のものに心が縛られている人はロトの妻のことを考えなければなりません。ロトの娘達も親の影響を受けて世俗的でした。娘達はロトに酒を飲ませ、いっしょに寝て、子供を産みました。近親相姦は聖書で禁じている罪です。彼女達が産んだ子供はモアブ人とアモン人になりました。モアブ人とアモン人は、イスラエルの歴史上最悪の性の誘惑と宗教的冒涜につながる存在になりました。彼らは神様に敵対する民族になりました。ロトが結んだ実は悲惨なものでした。主の道を守らず、正義と公正とを行なわず、この世と調子を合わせて生活したロトは悲惨な実を結びました。

今日はアブラハムの信仰生活とロトの生活について学びました。アブラハムは仕える人でした。祈る人でした。神の国を望みながら地上では聖なる旅人として生活しました。彼は信仰によって生きる人でした。神様は彼が必ず強い大いなる国民となると約束してくださいました。地のすべての国々は、彼によって祝福されると言われました。その通りにアブラハムは神様に祝福され、豊かな実を結ぶ人生となりました。彼の子孫の中からイサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ダビデ、そして人類の救い主、イエス・キリストが生まれました。反面、ロトはこの世と調子を合わせて生きていました。地上のものに心が縛られた生活をしました。彼は祈りの人ではありませんでした。彼は恥ずかしい結末を迎えました。彼は悲惨な実を結びました。皆さんは今日の学びを通して自分が誰に似ていると思ったでしょうか。どんな人生を生きたいと思ったでしょうか。昨日夜明けの祈りの時間に歌った曲の歌詞が今日の御言葉で私が伝えたかったことをよく表現していたので、皆さんに紹介します。「1.キリストの御言葉の中にとどまり続けるなら、私達はキリストの心を教えられ、励まされ、振り向くとそこに豊かな実りがある。 2.十字架のキリストの愛にとどまり続けるなら、私達はキリストの恵みを教えられ、励まされ、振り向くとそこに豊かな実りがある。 3.愛し合う交わりの中にとどまり続けるなら、私達はキリストの愛を教えられ、励まされ、振り向くとそこに豊かな実りがある。」皆さん。自分の人生を振り向いた時、そこに何があるでしょうか。ロトはたぶん虚しさ、罪による実りしかなかったでしょう。しかし、信仰によって生きたアブラハムには豊かな実りがありました。私達がアブラハムのように仕える人、祈る人となりましょう。子ども達に主の道を守らせ、正義と公正とを行わせるようにしましょう。この国の人々のためにとりなしの祈りを捧げ、時が良くても悪くてもしっかり主の御言葉を宣べ伝えましょう。すると、主は私達を必ず祝福し、私達を通してこの国を生かし、祝福してくださることを信じます。振り向くと、自分の人生に豊かな実りがあることに気づく時が来ると信じます。

14Genesis26M あなたを大いなる国民にする

2014年創世記26講

あなたを大いなる国民にする

御言葉:創世記46-48章
要 節:創世記46:3,4「すると仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。」

  先週、私たちはヨセフが兄弟たちと会ったことを学びました。ヨセフは自分を殺そうとし、自分を売ってしまった兄たちに会いました。でも彼の心に恨みは全くありませんでした。彼は「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。…」と告白しました。それから、ヨセフは父ヤコブと家族もエジプトに招きました。そうしてヤコブは家族とともにエジプトに下って行きます。そこでどんなことがあったでしょうか。
今日の本文にはヤコブ一家がどのようにしてエジプトに下って行ったか、ヤコブは何をしたかについて記されてあります。ここで私たちはヤコブに与えられた神様の御言葉、パロとヨセフの子どもたちに対するヤコブの祝福について学ぶことができます。どうか、本文の御言葉を通して祝福の神様を学ぶことができるように祈ります。

46章1節をご覧ください。「イスラエルは、彼に属するすべてのものといっしょに出発し、ベエル・シェバに来たとき、父イサクとの神にいけにえをささげた。」とあります。もともとヤコブは息子のヨセフが死んでしまったと思っていました。ところが、そのヨセフがまだエジプトで生きていて、そこで総理大臣にまでなっていました。それを聞いたヤコブはぼんやりしていました。ヨセフが送ってくれた車を見てからやっと元気を取り戻しました。(ハイレベルで素晴らしい車だったようです。)そこで、ヤコブは「私は死なないうちに彼に会おう」と言って、彼に属するすべてのものと一緒に出発したのです。そのうちにベエル・シェバに着きました。ベエル・シェバはアブラハムも(21:33)、イサクも(26:23,25)神様を礼拝したところです。そこに辿り着いた時にヤコブは神様への礼拝が思い出されたでしょうか。彼はベエル・シェバに来たとき、父イサクとの神にいけにえをささげました。彼は人情としては一刻も早く最愛の息子ヨセフに会いたかったと思われます。でも、まず第一に神様に礼拝したのです。さすがヤコブだなあと思われます。エジプトでどんなに愛する息子が待っていようと、どんなに食糧が豊かであろうと、それが第一になりませんでした。エジプトは異邦人の地です。そこに行ってこの世調子を合わせて生きるなら祝福の民としてのアイデンティティを失ってしまうでしょう。だから、エジプトに入る前にまず神様に礼拝し、それによって心を整えていたのです。神様はまず第一に神様を礼拝する者を捜し求めておられます。そして、祝福してくださいます。
私たちが教会から出て行く所はエジプトのようなところだと思います。また、私たちは毎日エジプトである世の中に出て行く生活をしていると言えるでしょう。私たちがそのような生活の中でまず第一に神様を礼拝し、神様の祝福を携えてこの世に遣わされて行くことはとても大切なことです。夜明けに祈り、日ごとの糧の御言葉を通して神様の祝福を携えて行く人は祝福された人生を送ることができるからです。では、神様はヤコブをどのように祝福してくださいましたか。
2‐4節をご一緒に読んでみましょう。「神は、夜の幻の中でイスラエルに、「ヤコブよ、ヤコブよ」と言って呼ばれた。彼は答えた。「はい。ここにいます。」すると仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。」神様は恐れずにエジプトに行くように命じられました。この命令の中に神様がヤコブに約束された三つの祝福が示されています。
一つ目はアブラハムの祝福を受け継がせてくださることです。神様はアブラハムを祝福してくださいました。彼の名を大いなるものとし、彼の名は祝福となると約束してくださいました。ヤコブはその「祝福」を受け継ぎ、「祝福の民」としてエジプトに遣わされているのです。実際にヤコブの子孫はエジプトで大いなる国民となります。400年後はエジプト人がユダヤ人を恐れて彼らの誕生を防ぐほどに大いなる国民となります。
二つ目は神様自身が彼といっしょにエジプトに下るという祝福です。神様はカナンの地だけではなく、エジプトに下る時にもいっしょにいてくださるのです。再びカナンに上る時も神様がいっしょにいて導いてくださるのです。このように神様は私たちがどこに行っても一緒にいてくださいます。
神様が私といっしょにいてくださるのは素晴らしい祝福です。私たちは神様が私たちと一緒にいることを思い起こして、安心して生きることができます。神様がいつもともに私たちと一緒にいてくださると信じるところからすべての力が得られます。
私が自分の生活を振り返ってみると子どもの時は母が一緒にいてくれることだけでも力になりました。今は妻がいっしょにいてくれるだけでもかなり安心できます。でもいつも一緒にいることはできません。しかし、神様の「一緒」は、いつもパーフェクトです。良いリーダーは、一番良い席に座って腕を組んで「もっと働け。怠けるな。お前はできないからクビだ。」とは言いません。一緒に輪の中に入って、「僕たちが一緒にいればきっとうまくいく。」と励まし合い、真の希望を与えてくれるはずです。私たちの神様は最高のリーダーとしていつもともにいてくださいます。いつも私たちと一緒にいて、私たちを育てて導いてくださいます。
私たちが寂しいのは、バラバラで生きていると思っているからです。夫婦が空間的に一緒にいてもバラバラ生きているつもりでいるので、いつも寂しく、いつも迷うのです。けれども「一緒に考えてみましょうよ」とか「一緒にやって行こうよ」と言うふうに言われるとすごく元気が出ます。そんな喜びの言葉を大事な人にかけてあげましょう。(練習として隣の方に)「一緒にやって行きましょう。」「一緒に食べましょう」「一緒に帰りましょう。」と話しかけてみましょう。そう言われるとほんとうに元気になれるでしょう。ただ、それをパーフェクトに言えるのは神様だけです。神様はいつも私たちと一緒にいてくださるからです。皆さん、人から言われても嬉しい言葉は何でしょうか。
結婚した人は聞いたことがあるでしょう。「あなたと生涯一緒にいたい。」そういう言葉だと思います。ほんとうに愛する人から「あなたと一緒にいたい。」と言われるほど嬉しいこともないでしょう。そう言われてすべてが変わり、そこからすべてが始まります。ところが、全能の神様、ご自分のひとり子さえ惜しまずにお与えになったほどに私たちを愛しておられる神様から「あなたと一緒にいたい。いつもあなたと一緒にいるよ。」と言われるのです。アブラハム、イサク、ヤコブとともにいてくださる神様が私と一緒にいてくださるのです。私たちの人生は1人旅ではありません。たとえ、親友と言える友達がいなくても、永遠の親友であられる神様が一緒にいてくださいます。どうか、いつもともにいてくださる全能神様、愛の神様を信じて新しく出発しましょう。
三つ目は最愛の息子ヨセフとの再会の祝福です。ヤコブはヨセフが死んだと思っていました。子どもの死ほど辛くて悲しいこともないでしょう。「涙とともに見上げる時」という本の著者はこう言っています。復活は信じているけども、「復活の希望は慰めにならなかった」と。「エリック(亡くなった息子)はいなくなってしまった。いま、ここにエリックはいない。私はいま彼と話すことも、いま彼を見ることも、いま彼を抱くこともできない。ある友人がこう語ってくれた。『彼はやさしい御手の中にあるのだよ』と。それが本当だとしても、それでエリックがいま私の手元に戻ってくるわけではない。それが私の深い悲しみなのだ。その悲しみに対して、彼を取り戻すこと以外にどんな慰めがありえるだろうか。(百万人の福音56頁)」ほんとうに、そうでしょう。私も弟を亡くし、親を亡くしてから悟ったのですが、愛する人を失った人の悲しみは何も慰めになりません。ただ、希望を持つだけです。ところが、神様はヤコブに失っているはずのヨセフに会わせてくださるのです。実際にヤコブは異国の地エジプトで総理大臣になっているヨセフに会います。
このように、私たちもこの地上で死別し、失っていると持っていた人との再会ができます。やがて私たちは日本に宣教師として遣わされましたが、まだ若い時に天に召されたヨセフ宣教師と再会します。ほんもののヨセフとの再会もできます。この世では失っていた、愛する家族と再会します。ヤコブ、イサク、アブラハムとも再会します。神様が私たちと一緒にいて天国まで導いてくださるからです。
5−7節をご覧ください。神様から祝福されたヤコブはベエル・シェバを立ちました。神様の祝福と約束を確信してエジプトに向かって出発したことでしょう。彼は家族と一緒にパロが送った車に乗ってエジプトに着きました。
8−27節にはエジプトに下ったヤコブ家族の名前と数が記されてあります。エジプトへ同行した人は66人にのぼっています。ヤコブ、ヨセフ、ヨセフのふたりの子どもを含めて70人の人々がエジプトに下って行ったと知られています。
28‐34節にはヤコブがヨセフと再会したことが記されてあります。ヨセフはエジプトで第二人者である総理大臣の地位にありながらも、自分の父や兄弟が「エジプト人に忌み嫌われている羊飼い」であることを少しも恥ずかしく思いませんでした。ヨセフは兄たちに自分たちが羊飼いであることを決して隠さないように厳しく忠告しています。エジプトでは祭司たちが社会における最高の階級であり、羊飼いは身分的には最も下層階級に属し、人々から軽蔑されていました。しかし、羊飼いの身分を隠すな、と言ったのです。それはヤコブの子孫が決してエジプトに同化してはならない、あくまでもイスラエルであり、祝福の民であり続けなさいということです。ここにヨセフの信仰がはっきりと表れています。彼はエジプト人の前に名誉や地位を求めず、神様から与えられた羊飼いの天職を守りながら神様から祝福された民としてアイデンティティを持って生きることを強く願っていたのです。実際にヤコブにはそのアイデンティティがありました。
47章7節をご覧ください。「それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、パロの前に立たせた。ヤコブはパロにあいさつした。」とあります。ここで「ヤコブはパロにあいさつした」というのはNIV聖書に「Jacob blessed Pharaoh.」とあります。新共同訳にも「ヤコブはファラオに祝福の言葉を述べた。」とありますし、口語訳には「ヤコブはパロを祝福した。」とあります。つまり、羊飼いのヤコブですが、エジプトのパロより上の者として彼を祝福したのです。パロと言えば、「太陽王」の原型であり、神の化身(ケシン)とも言われていました。文字通り、古代世界のすべての栄光と権力の権化(ゴンゲ)のような存在です。それに比べればヤコブは一介の食糧難民にすぎません。全く無に等しい存在です。しかし、彼は神様から祝福された民の体表としてパロの前に立っています。驚いたことに、ヤコブがパロを祝福しているのです。これは本当に荘厳な光景です。ヘブル人への手紙7章7節を見ると「いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。」とあります。明らかにヤコブがパロよりも偉いわけです。ヤコブは自分が祝福の民であると信じていたからこそ、エジプト王さえも恐れず、へつらわずに祝福したことでしょう。アブラハムが受けた「地上のすべての民族はあなたによって祝福される(12:3)」という約束が、とうとう、アブラハムの子孫であるヤコブの口を通して、エジプト王にまで及んでいます。それは、主がヤコブとともにいてくださったからです。そしてガラテヤ3:14を見ると「このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」とあります。アブラハムの祝福がキリスト・イエスによって異邦人である私たちにも及んでいます。その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになりました。つまり、御霊が私たちとともにいてくださるからこそ、私たちもアブラハムのように、ヤコブのように祝福されます。また、私たちが祝福すると、人々も祝福されるのです。
従って私たちもヤコブのようなアイデンティティを持つ必要です。私たちは信仰によってこの国を祝福するために選ばれた神様の器です。だから、私たちも「この国のすべての民は私によって祝福される」という確信を持つ必要があるのです。私は宣教師であり、牧師ですが時々は自分の足りなさ、自分の弱さのために委縮されます。実際に、私にはパロのような地位も権力もありません。ただ、神様に選ばれた祝福の源であり、神様から遣わされた日本の宣教師であるというアイデンティティを持っています。また、私によって私の家族も、私の教会も、私の職場も、この日本も祝福されるという信仰を持っています。その信仰が弱くなる場合もありますが、ほんとうに信仰を持っていると神様が私によって人々を祝福してくださることを何度も経験して来ました。霊的にも生活においても祝福されることを見て来ました。
昨日も祈り会の時に証しましたが、先週も密かに自分で体験したことを明かしさせていただきます。皆さんご存知のように先週は金曜日に台風8号が東京を直撃する恐れがあると天気予報が続きました。それで私の学校でも対策を立てました。木曜日に初等部は10時20分登校にしました。初等部の教頭から中高等部もそうすることを求められました。でも私は明日台風警報にならないかも知れないと言って反対しました。それから、私が夜も学校に泊り、仕事をしながら祈りました。東京は6時に台風警報がないように祈ったのです。その通りに夜明けの5以降は東京都内の天気予報に警報がありませんでした。神様が私の学校も東京都も祝福してくださいました。私にとって不思議な体験でした。
張パウロ宣教師は会社からリストラされた時、目の前が真っ暗でした。彼は倉庫で肉体労働しながら何とか家族を支えていました。ところがその時に、リーマンショックで銀行からリストラされた内藤さんはパウロ宣教師と一緒に倉庫でアルバイトしながら福音を聞き、御言葉を学ぶことができました。それによって慰められ、力づけられたそうです。それで去る6年間忍耐しながら負債を返済し、今は銀行の仕事も復帰しているそうです。パウロ宣教師によって祝福されたのです。今はパウロ宣教師も社長になっていますが先週は会社の将来性が認められて500万円の融資も受けるようになったそうです。これからこの国の数多くの人々がパウロ宣教師とその会社を通して祝福されるでしょう。
48章ではヤコブがヨセフの二人の子どもマナセとエフライムも祝福します。ヨセフは父ヤコブが死にそうだという知らせを受けると、息子二人を連れて行きます。父親のヤコブに彼らを祝福したもらうためでした。ヤコブは二人の孫を見ると、渾身の力を振り絞ってベッドの上に身を起こします。そして二人を祝福しました。来週、学ぶ予定の49章では12人の息子たちをそれぞれにふさわしく祝福します。特別の祝福が行われます。

私たちの神様は祝福の神様です。検索してみると旧約聖書だけでも213節の中に「祝福」という単語が一回以上あります。ある人の調べによると、この祝福という言葉は実に400回以上も出て来るそうです。新約聖書では、祝福をなさるのは主イエス・キリストです。イエス様は幼子たちの上に手を置いて祝福されました。このように真の祝福は神様から、イエス・キリストから与えられます。ただ、それは人間を通して行われます。だから、私たちはアブラハム、イサク、ヤコブが受けた祝福を通して祝福は何かを学ぶことができます。確かにそこに土地の約束、一緒にいてくださる神様のご臨在がありました。しかし、必ずしも地上の祝福だけが祝福なのではありません。アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストを通して成し遂げられた罪の赦し、救い、永遠のいのちを含んだ祝福こそが真の祝福です。イエス様は十字架の最後に「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)」と言われました。この祝福、イエス・キリストの十字架による罪の赦し、それによる救いと永遠のいのちこそ本当の祝福なのです。私たちの天地創造の神様、神様の御子イエス・キリストを信じる信仰を与えられていることを感謝します。その信仰によってアブラハム、イサク、ヤコブのように祝福された人生を生きるようにしてくださった神様を心から賛美します。

14Genesis16M イサクの結婚

2014年創世記第16講 

イサクの結婚

御言葉:創世記24:1-67
要 節:創世記24:44その人が私に、「どうぞお飲みください。私はあなたのらくだにも水を汲んであげましょう。」と言ったなら、その人こそ、主が私の主人の息子のために定められた妻でありますように。』

 先週、私たちはアブラハムが神様の命令に従って最愛の息子イサクを全焼のいけにえとしてささげたことを学びました。実際に全焼のいけにえとして捧げたのは神様が備えられた雄羊でしたが、神様はそれをアブラハムが自分のひとり子を惜しまずにささげたことにしてくださいました。アブラハムの信仰の忠実さと神様を恐れ、愛し、第一とする心が認められたのです。さらに、それは「主の山の上には備えがある。」という信仰へつながって行きました。
今日、学ぶ24章でもアブラハムは最愛の息子イサクの結婚において神様が彼の妻も備えておられると信じていたことが分かります。ここで、息子の結婚に関するアブラハムの信仰、アブラハムからイサクの妻を見つける任務を命じられたしもべの祈りと忠実さ、イサクの妻として迎えられるリベカの信仰と内面性を学びたいと思います。

24章1節をご覧ください。「アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。」とあります。先週も学んだようにアブラハムの人生は決して平坦ではありませんでした。生まれ故郷を離れて行くことからチャレンジであり、一つの冒険でした。信仰の危機も、失敗もありました。信仰の体験もありました。そうこうしているうちにアブラハムは年を重ねて老人になっていました。ではさまざまな試練の中でも信仰を守り通したアブラハムの人生はどうなっていましたか。聖書に「主は、あらゆる面でそのアブラハムを祝福しておられた」と記しています。アブラハム人生はあらゆる面で祝福されていたのです。これが私たちクリスチャンの人生ではないでしょうか。
若い時は挑戦と冒険を経験します。神様を信じている私たちにも、さまざまな心配、不安、思い煩い、そして恐れがあります。仕事で失敗しないだろうか。仕事を失ったらどうしよう。病気になったら。人間関係がこじれてしまったら。飛行機や船、電車の事故が怒ったら…などいう恐れがあります。実際に失敗もあります。自分の不信仰や怠けが原因であっても失敗は私たちを落胆させます。アブラハムのように結婚して25年間も子どもが生まれないような試練もあり得ることでしょう。ところが、そのような時にも信仰から離れないならどうなりますか。祈り、望みえない時に望みを抱いて信じるなら神様を体験することができます。さまざまな出来事の中で神様の深い哀れみと愛、力と不思議な導きを体験して行くことができるのです。
結局、年を重なっていて見ると、ほんとうにあらゆる面で神様から祝福されていることが分かるようになります。年を重ねているおびただしいクリスチャンは言っています。「私はイエス・キリストを信じてからあらゆる面で祝福された」と。私はUBF教会でも数多くの先輩から聞いています。私自身も告白できます。私は田舎者で人々からも田舎者として卑しく見られていると思い、自分自身も自信感を無くしていました。しかし、年を重ねてきた今は人々から愛され、尊敬されていると感じる時があります。先月は弟子から頼まれて500人位が集まった結婚式の司式もやって来ました。「あらゆる面で祝福されているんだなあ」と感じております。
もし、現在は、何もかもうまく行かないと思っている方がいるかも知れません。毎日が辛い、苦しいと思われる試練の中に置かれている方がいるかも知れません。でもあきらめてはいけません。若い時はアブラハムのように信仰によってチャレンジし、冒険して行くものです。どんな時にもアブラハムのように祈り、感謝し、礼拝する生活をしてください。きっと神様はあらゆる面で祝福してくださいます。
2-4節をご一緒に読んで見ましょう。「そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。私はあなたに天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私が一緒に住んでいるカナン人の娘の中から私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」とあります。
年を重ねて老人になっているアブラハムにとって息子イサクの結婚のことを考えなければならなりませんでした。アブラハムにとって人生の最後に残された重大な仕事は、信仰の後継者である息子にふさわしい妻を見つけることでした。そこで、アブラハムは息子の結婚を長年忠実に仕えてきた最年長のしもべに命じました。このしもべが誰なのかは分かりませんが聖書学者たちは15章2節に記されているエリエゼルだと言っています。アブラハムはエリエゼルに天の神、地の神である主にかけて誓わせています。何を誓わせましたか。
一つ目は、カナン人の娘の中から息子の妻をめとってはならないということです。アブラハムの生まれ故郷に行き、親族の中からイサクの妻を選ぶことです。つまり、神である主を信じる信者の中から選ばなければならないということです。カナンには神様を信じる娘たちがいませんでした。しかしイサクの妻になるリベカの家族は主を信じる信者でした。リベカの兄と父親は「主に祝福された方、主から出たこと」と言っています(24:31、50)。そして、22章20-23節を見ると、アブラハムにはアブラハムの兄弟ナホルから子どもたちが生まれたことが伝えられていました。ですから、アブラハムは必ず神様を信じる信者の中から息子の妻を見つけなければならないと命じたのです。
二つ目は、息子は約束の地カナンにいさせることです。しもべはアブラハムに「もしかして、その女の人が私についてこの国へ来ようとしない場合、お子をあなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」と質問しました。それに対してアブラハムは「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。」」と言いました。つまり、約束の子イサクが約束の地を離れてはいけないということです。ではどうやってアブラハムはしもべにこのようなことを誓わせることができたでしょうか。
7節をご一緒に読んでみましょう。「私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える。』と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。」とあります。アブラハムは自分の信仰生活を通して神様を体験し、確信していたことが分かります。彼は神様の御心を第一にして従うなら、必ず神様が働いてくださると信じました。したがって彼はしもべに「天の神、地の神である主にかけて誓わせ」ることができました。アブラハムは神様の御心を第一にして従うなら、必ず天の神、主は御使いを遣わして助けてくださると確信していたのです。
ここで、私たちは息子の結婚でも自分の心ではなく、神様の御心を第一にしているアブラハムの信仰を学ぶことができます。私たちは大切なことほど神様の御心を求めなければなりません。人生において最も大切な結婚だけではなく、就職や進学など重要な決断をする時も、神様の御心を考え、従うことです。そして結婚、就職、進学などの大事なことを決断する時に神様の御心を第一にするなら必ず神様が助けてくださると確信することです。神様は私たちの前に御使いを遣わしてくださいます。私たちのために道を備えられ、助けてくださるのです。特に、私たちの人生の中で結婚ほど大切なこともないと思います。だからこそ、神様の御心を求めべきですし、自分の恋愛感情や親の心よりも神様の御心を第一にして決断するべきです。神様は私たちの結婚が愛と喜びと幸せが満ちていることを望んでおられます。私たちの結婚生活が潤され、私たちの心も満たされることを望んでおられます。ですから、神様は神様の御心を第一にするアブラハムが息子の妻を見つけるために遣わしたエリエゼルの働きを助けてくださいます。ここで、私たちに自分に与えられた使命を忠実に果たしたアブラハムのしもべから、神様のしもべとしての姿勢を学ぶことができます。
第一に、しもべは重大な使命を果たすことを祈りから始めました。
12-14節をご覧ください。「そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください。』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのラクダにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたががしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」とあります。さすがにアブラハムに長年仕えていたしもべですね。信仰の先祖アブラハムの影響を受けています。アブラハムの祈り生活を学んでいたことでしょう。アブラハムが祈ると、神様が彼に恵みを施してくださることを見て来たのです。だからこそ彼は何よりも先に祈りました。また、アブラハムのように具体的に祈っています。以前アブラハムがロトの救いのために祈る時、正しい人50人から10人まで減らして行きました。そのように、しもべも切に祈ったし、具体的なしるしを求めました。普通では起こらないようなことを求めて神様の働きを確かめようとしたのです。
中東地域では旅人に水を飲ませることは、たいていの女性たちが行ないました。けれども旅人のラクダに水を飲ませることはしませんでした。しかも10頭のラクダに女性一人が水を飲ませるようなことは普通ではありません。でも、彼はわざと普通ではないことを求めて神様の働きを目撃し、御心を確認しようとしたのです。また、しもべは女性の外見上の美しさではなく、内面性を求めたことが分かります。彼は背が高い人を求めませんでした。目が美しい人を求めませんでした。心の美しい人を求めました。愛の豊かな女性、思いやりのある人、気配りのある女性を求めたのです。イエス様は山上の説教においてこう言われました。「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい(マタイ5:40-42)。この原理は夫婦生活でも同じです。夫か5回頼んだら、妻は10回従います。妻が5回要求したら、夫は10回答えます。このような態度で行なうならば、世が知らない隠れた力と従順の力が現われるでしょう。ですから、アブラハムの信仰生活を受け継いで行くイサクの妻にもそういう態度、内面性が求められます。そこでしもべは人のために最善を尽くして仕えることだけではなく、動物までも助け、仕えることができる人を祈り求めたのです。では祈りの結果はどうなりましたか。
  15-20節をご覧ください。エリエゼルがまだ言い終わらないうちにリベカが水瓶を肩に載せて出て来ました。彼女はブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘でした。彼女は非常に美しく、処女で男が触れたことがありませんでした。何よりも彼女は心の美しい女性でした。彼女は旅人のしもべに水を飲ませました。彼に水を飲ませ終わると、彼女はラクダのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう」と言いました。井戸から水を汲んでラクダに水を飲ませることは決して簡単ではありません。私は子どもの時、牛に水を飲ませていましたが一度に20リトル以上も飲んでしまいます。ラクダは牛よりもいっぱい飲むでしょう。しかも10頭のラクダに水を飲ませることは大変な仕事です。ところが彼女は急いで水瓶の水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のラクダのために汲んだのです。しかも、隣にいたしもべは水を飲ませてもらうだけで何も手伝ってくれませんでした。彼は主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていました。一度に20リトルを運んだとしても20回も走りながら水を汲みに行ったり来たりしていたのに、隣の男は、ただ黙って彼女を見つめていたのです。それでもリベカは何も文句を言わず、黙々と働きました。何と素晴らしい娘でしょう。エリエゼルはリベカが祈り求めたとおりの女性であって主が自分の旅を成功させてくださったことが分かりました。彼女に尋ねて彼女がアブラハムの兄弟ナホルの孫であることも確認できました。そこで、エリエゼルはひざまずき、主を礼拝してアブラハムの神、主をほめたたえました。
結局、エリエゼルが自分の仕事を神様に祈ることから初めた時に神様がそれを成功させてくださることを体験することができました。祈りが成功の出発点であり、成功の近道だったのです。イエス様も一日一日の仕事をまだ暗いうちに起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈ることから始められました(マルコ1:35)。私たちも何かをする時、具体的に祈ることから始めるなら神様がそれを成功させてくださることを見ることができます。素晴らしい神様の働きを体験する基礎となるものは祈りです。すべての問題の解決のカギも祈りです。どうか、私たちが日々の生活の中で切に祈り、具体的に祈ることを通して自分の仕事を成功させてくださる神様を体験することができるように祈ります。
第二に、しもべは自分に与えられた任務に忠実でした。しもべは神様が彼の旅を成功させてくださったのでリベカの家の中にはいりました。ラクダの荷は解かれ、ラクダにはわらと飼料が与えられました。しもべの足と、その従者たちの足を洗う水も与えられました。それから、しもべの前に食事が出されました。先ほど水だけを飲ませてもらった彼としてすぐにでも食べたかったでしょうか。しかし、彼はまず何をしましたか。
33節をご一緒に読んでみましょう。「それから、その人の前に食事が出されたが、その人は言った。「私の用向きを話すまでは食事をいただきません。」「お話しください。」と言われて、」とあります。彼は家に招き入れられ、もてなしを受けましたが、用事が終わるまでは、それを食べようとしませんでした。しもべは食べることよりも使命を大切にしたのです。そして「お話ください」と言われたとき、彼は「私はアブラハムのしもべです。」と自己紹介をし、あらゆる面で祝福されたアブラハムを紹介しました。それから、アブラハムの命令によってアブラハムの息子の妻を迎えるために来たのですが、アブラハムの神、主が自分の旅を成功させてくださったことを丁寧に説明しました。そこでリベカの家族は神様が導いてくださったことを信じてリベカを連れて行くように許しました。ただ、急な結婚だったのでリベカの兄と母はアブラハムのしもべに十日くらい留まることを求めました。しかし、しもべはどうしましたか。56節をご覧ください。「しもべは彼らに、「私が遅れないようにしてください。主が私の旅を成功させてくださったのですから。私が主人のところへ行けるように私を帰らせてください。」とあります。このことばからも彼がいかに使命に忠実な人だったかが分かります。数多くのクリスチャンは彼から管理者の忠実さを学んだことでしょう。パウロもコリント人たちに送った手紙で「このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。(?コリント4:2)」と言いました。
私たちは教会でも職場でも、学校でも何か任されている任務に忠実でなければなりません。この忠実なしもべの働きによってアブラハムは愛する息子の妻を見つけることができました。では、アブラハムのしもべに見つけられたリベカの信仰はどうでしたか。 
58節をご覧ください。「それで彼らはリベカを呼び寄せて「この人といっしょに行くか。」と尋ねた。すると彼女は「はい、まいります。」と答えた。」とあります。結婚の最終決定はリベカがするようにしましたが、リベカは『はい。まいります。』と言いました。ほんとうに、すばらしいです、リベカはすぐに答えました。そして親や兄もすばらしいです、きちんと娘の意向を聞いています。決心するとは、人に強いられてでもなく、自らが考え決めることです。リベカは神様の御心、神様の導かが分かった時、顔も知らないイサクとの結婚を自ら決断しました。この決断は神様に対する絶対的な主権と愛に対する信仰から出たものです。ほんとうに信仰のある人は神様の主権を信じているから相手を見なくても信仰の人だということだけで安心です。また、その結婚を人間条件によらず、信仰によるものなので、神様が責任を持ってその家庭を導いてくださいます。神様によって結び合わせられ、神様によって導かれる家庭は本当に幸せな家庭になります。リベカの家族は彼女を送りながら祝福して言いました。「われらの妹よ。あなたは幾千万人にも増えるように。そしてあなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」

結論的にイサクは神様の御心を第一にする父親アブラハムの信仰、しもべエリエゼルの祈りと忠実な働きが用いられて素晴らしい信仰の女性リベカと結婚することができました。ここで結婚している人は自分の子どもたちの結婚をどのようにするかを学ぶことができました。まだ結婚していない人はどのような信仰、どのような内面性を持っているべきかを学ぶこともできました。職場や学校、あるいは家で自分に任された仕事をどのように成し遂げ行くべきかも学ぶことができました。ここで共通することは私たちの神様の御心を第一にする価値観と神様に対する信仰です。私たちもそういう価値観と信仰を持って生きるなら、私たちの仕事を成功させてくださる神様を、あらゆる面で祝福してくださる神様を体験して行くことができます。アブラハムの神様が私たちの神様であることを信じて感謝します。

14Genesis27M 神はそれを、良いことのための計らいとなさいました

2014年創世記27講                         
神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。

御言葉:創世記49-50章
要 節:創世記50:20「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」

 今日で今年の創世記のメッセージが終わります。来週からはマタイの福音書のメッセージに入ります。創世記の学びを祝福してくださった神様に心から感謝を申し上げます。私は今年の創世記勉強を通して「私たちの神様は「祝福の神様」だなあ」とつくづく感じさせられました。ほんとうに私たちの神様は祝福の神様です。
神様が天地万物を創造されたことが祝福であり、人間を創造してから最初になさったことも人間を祝福することでした。1章28節に「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生きものを支配せよ。」」とあります。神様は人間に神様ご自身が創造された万物を治め、支配するように祝福してくださったのです。そして創造を完成してから休まれた第七日目も祝福されました。2章3節に「神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それはその日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」とあります。神様は創造のわざを休まれたその時間も祝福されたのです。それから神様はアブラハムを祝福そのものとし、アブラハムの子孫を祝福すると約束されました。その後、今日学ぶ50章まではアブラハムに与えられた神様の約束が実現されていったことです。つまり信仰の先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブが祝福され、彼らが祝福したことが記されてあります。
今日の本文にも神様がヤコブを通して神の民を代表するイスラエルの12部族を祝福されたことが記されてあります。49章28節を見ると「これらすべてはイスラエルの部族で、十二であった。これは彼らの父が彼らに語ったことである。彼は彼らを祝福した時、おのおのにふさわしい祝福を与えたのであった。」とあります。
結局、イエス・キリストを信じて救われた人々は神の民として祝福されています。それで神様の祝福を享受し、人々を祝福する人生を生きるようになります。私たちクリスチャンは祝福されて祝福する人生を生きるのです。
では私たちはどのように祝福され、どのようにして祝福する人生を生きるのでしょうか。ヤコブが預言し、祝福した12人の中でユダとヨセフが受けた祝福を通して神様の祝福を自分のものにして行きたいと思います。

ヤコブの長男はルベンです。長男とは基本的に父の力と権威の象徴です。しかし、ルベンは父の妾であり、異母兄弟ダンとナフタリの母との不倫の罪のために長子としての権利を失いました。
シメオンとレビは妹ディナが町の人間に辱めを受けたことに怒り、その町の男たちを皆殺しにしましたがその殺害の罪のために、彼らも長子の権利を受け継ぐことはできませんでした。結局、長子の権利はユダに受け継がされるようになります。
49章8‐12節をご一緒に読んでみましょう。「ユダよ。兄弟たちはあなたをたたえ、あなたの手は敵のうなじの上にあり、あなたの父の子らはあなたを伏し拝む。ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。彼はそのろばをぶどうの木につなぎ、その雌ろばの子を、良いぶどうの木につなぐ。彼はその着物を、ぶどう酒で洗い、その衣をぶどうの血で洗う。その目はぶどう酒によって曇り、その歯は乳によって白い」上の3人兄弟とは違って大いに祝福されていることが分かります。ユダはほかの兄弟たちの上に立ち、彼らを治める獅子のようになります。王権はユダ部族から離れず、ダビデとソロモンのもとで最も強力になります。ほかの部族を支配し、指導するようになって行くのです。「ついにはシロが来て」とありますが、それは、王なるメシヤであるイエスキリストが来て、国々の民すなわち全世界の民をイエス御自身が支配されるということを現しています。 エペソ1:20.21節に「“神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせて、天上においてご自分の右の座に着かせて、 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりではなく、次の来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」とあります。
なぜ、ユダがこのように褒め称えられたでしょうか。それはユダに罪の告白と悔い改めがあったからだと思われます。この間学んだように37章を読んでみると、ユダは知らなかったとしても、遊女に変装した嫁のタマルと性的交わりを持ってしまいました。それは嫁のタマルが嘘をついた罪に原因がありました。しかし、ユダはタマルによって自分の罪が暴露された時、正直に自分の罪を認めました。このように、自分の犯した罪を認めることは、私たち人間にとって、最も難しいことの一つです。私も何か自分の過ちや罪が指摘されると言い訳が先に浮かんできます。実は私たちの先祖アダムとエバから自分の罪を認めないで妻のせいにし、蛇のせいにしていました。そのように、私たちはなかなか自分の罪を認めることができないのです。それで、ますます罪を深めて行きます。ところがユダは罪を認めました。そして悔い改めました。その後のユダは、体を張ってヨセフと向き合いつつ、ヨセフの前でかつての自分たちの罪を告白しました。ヨセフは後に、自分の銀の杯を弟ベニヤミンが盗んだような仕掛けをし、うなだれて自分の所に帰って来た兄たちに向かってこう言いました。「あなたがたのしたこのしわざは、何だ。私のような者はまじないをするということを知らなかったのか。」それに対してユダが答えて言いました。「私たちはあなたさまに何を申せましょう。何の申し開きができましょう。また何と言って弁解することができましょう。神がしもべどもの咎をあばかれたのです。今このとおり、私たちも、そして杯を持っているのを見つかった者も、あなたさまの奴隷となりましょう。」ユダはヨセフに対する罪は神様に対する罪であることを、はっきり認識していました。神様がその罪を暴露されたことを知り、その罪を認め、悔い改めているのです。
 さらに彼は、ベニヤミンだけをエジプトに置いて行くように迫るヨセフに向って言いました。「もしもベニヤミンをヤコブのもとに連れ返らない時は、ヤコブに対して「生涯その罪を背負い続ける」と約束したことを言い、自分だけを奴隷として、ベニヤミンを父の許に返してくれるように懇願したのです。このように、ユダは、罪を犯したけれど、その罪を認め、悔い改め、その償いのために身を投じる人に変わっていました。そして、ヤコブはそのユダこそ、兄弟たちにたたえられるべき存在であることを告げて祝福しました。
 結局、長子の祝福はユダに及んだのです。ユダの子孫からダビデが生まれ、イエス・キリストはダビデの子孫からお生まれになりました。ユダの次に大きな祝福を受ける者はヨセフです。
22‐26節をご覧ください。「ヨセフは実を結ぶ若枝、泉のほとりの実を結ぶ若枝、その枝は垣を越える。弓を射る者は彼を激しく攻め、彼を射て、悩ました。しかし、彼の弓はたるむことなく、彼の腕はすばやい。これはヤコブの全能者の手により、それはイスラエルの岩なる牧者による。あなたを助けようとされるあなたの父の神により、また、あなたを祝福しようとされる全能者によって。その祝福は上よりの天の祝福、下に横たわる大いなる水の祝福、乳房と胎の祝福。あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり、永遠の丘のきわみにまで及ぶ。これらがヨセフのかしらの上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭上にあるように。」ヨセフへの祝福は、ユダへのものとともに最高です。よく見ると、ユダには救い主による王国と福音の祝福がありますが、ヨセフには実質的な祝福があることが分かります。このヨセフへの祝福は四つに分けることができます。一つ目は良い実を結ぶ若枝になることです。二つ目は敵に攻められ、悩まされても負けないことです。三番目は全能者の手、神様の力による助けです。そして四つ目は天の祝福、地の祝福が豊かに下ることです。これらのことをまとめているなら神様の御手から与えられる力による祝福であると言えるでしょう。神様の祝福によって私たちに必要な力が与えられるのです。
24節はご一緒に読んでみましょう。「しかし、彼の弓はたるむことなく、彼の腕はすばやい。これはヤコブの全能者の手により、それはイスラエルの岩なる牧者による。」預言者イザヤは「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(40:30、31)」と言いました。人間は、弱い者です。ちょっとした暑さにも負けます。私たちがエアコンをつけているのもこの夏の暑さに負けているからでしょう。若者も疲れ、たゆみます。年取ると働き続けることが不可能になる時もやって来ます。最初は溌剌としていても、すぐに気力も体力も尽きてしまってたるむのです。人間は口で言うほどに、強くもなく、力もありません。ところが、全能者の神様の御手によると私たちの弓はたるむことなく、私たちの腕はすばやくなります。つまり、人は神様の祝福を受ければ、走ってもたゆまず、歩いても疲れないような力をいただくのです。不思議な力です。その力はヤコブ自身が体験したものでした。ヤコブは人間の力がどんなに愚かで、弱いものであるかを、いやと言うほど知っていました。彼は何度もそれを失敗したものです。そして、いま、ヤコブは自分の力ではない力、神様の力の素晴らしさ、その衰えることのない力を知ったのです。だからこそ、彼は神様の祝福によって与えられることを信じてヨセフを祝福しているのです。そして、このヤコブの祝福を受けたヨセフは本当に素晴らしい信仰の人生を生きることができました。その信仰と成熟さが50章19節から21節にあります。
19〜20節をご一緒に読んでみましょう。「ヨセフは彼に言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。」
ほんとうに素晴らしいヨセフの言葉です。「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。」この御言葉でどんなに多くの人の心の目が開かれたことでしょうか。見えない神様が見えるようになったことでしょう。ヨセフの兄弟たちは、父ヤコブが死ぬと、再びヨセフを恐れるようになりました。その理由は、彼らは、ヨセフの赦しと愛の心を理解していなかったからです。今まで彼らが受け入れられたのは父ヤコブを悲しませたくないヨセフの寛容であったけれども、父がいなくなった今は、きっとヨセフが仕返しするだろうと思ったのです。彼らはヨセフの赦しと愛を信じることができなかったのです。信じられないことは何と悲しいことでしょうか。ヨセフは兄弟たちが自分を信用していない話を聞くと、泣きました。彼らの心の態度があまりにもあさましいために、情けなくなったのでしょう。そこで、ヨセフは「もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」と彼らを慰め、やさしく語りかけています。ほんとうに素晴らしいヨセフの愛に感動せざるを得ません。ヨセフの心の底からの愛と思いやりに深く胸を打たれます。
同時に、ヨセフの兄たちのような私たちに対するイエス・キリストの愛も思い浮かびます。時々、私たちもイエス様に対してヨセフの兄弟たちと同じような不信を持っているのではないでしょうか。安心できない不安と恐れがあるのです。確かに、イエス様は私たちの信仰を見て「友よ。あなたの罪は赦されました(ルカ5:20)」と言ってくださいました。イエス様は多くの苦しみを受け、嘲られてから十字架にかかって死なれる直前に「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」と祈ってくださいました。イエス様は私たちが自分で分からない罪までも赦してくださったのです。そうしてすべての救いのみわざを完了なさいました。それなのに私たちはその御言葉を信じないで自分の罪のために苦しみ、恐れるのです。何かうまくいかないと自分の罪のせいだと自虐する時さえあります。しかし、イエス・キリストの十字架の死による贖いを信じる者はすべての罪が赦されました。私たちは神様に対して数々の悪を計画し、罪を犯して来ました。しかし神様はそれらを受けとめて、イエス・キリストの十字架によって恵みに変えてくださったのです。神様は私たちが悪を計ったとしてもそれを良いことのための計らいとしてくださったのです。
ですから、もし私たちが罪の赦しを信じないで神様のさばきを恐れるなら、イエス様はどう思われるでしょうか。ヨセフが涙を流したように、イエス様も御心を痛めながら泣かれるでしょう。一般的に、苦しみと滅亡の原因は自分の罪や悪にあります。ヨセフの兄たちの心から不安と恐れが消え去らない原因はヨセフを虐め、売ってしまったことにあったでしょう。兄たちだけではなく、多くの人々が苦しみ、恐れている原因は自分の過ちと罪にある場合が多いでしょう。ところが、イエス・キリストは私たちの罪と悪の代価を払うために十字架にかかって死んでくださいました。すべての罪と咎を贖ってくださったのです。それで私たちがイエス・キリストの十字架による赦しを信じるなら、神様はその罪を赦し、きよめてくださいます。主は「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」と言われました。私たちがどんなに酷い罪を犯したとしてもその罪を主の御前に告白し、悔い改めるなら、主はすべての罪を赦して下さいます。そして恵みに変えてくださいます。過去の失敗や罪を良いことに変えてくださるのです。そして、私たちも自分に対して悪を計らう者が現われた時に、その人を赦して愛することができるようにしてくださいます。ですから、恐れることなく、イエス・キリストの十字架による贖いを信じて神様の祝福を受け取って行くのです。ヨセフの兄たちがヨセフを通してすべての問題が解決され、ほんとうに祝福されたに、私たちも祝福されることを信じて行くのです。さらに、私たち自身もヨセフのように人々を赦して愛し、祝福する人に変えられて行くことも信じるのです。
ではこの神様の祝福はどのようにして私たちの心の中に、体の中に注ぎ込まれるのでしょうか。それは第一に聖書の言葉を信じることです。神様の祝福は御言葉をパイプとして私たちの心の中に流れ込んで来ます。そして私たちがその御言葉を自分自身のものとして堅く信じる時に、神様の祝福は恵みとなり、力となります。御言葉を通して注がれる神様の祝福が私の人生においていつくしみとなり、平安となり、慰めとなります。第二に、すべてのことにおいて神様中心に考え、口からも神様を認めることです。ヨセフの言葉を調べてみると神様から初めて神様で終わります。彼は口を開くと神様を言いました。
「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。(40:8)」「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。(41:16)」「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです(45:8)」。ヨセフが登場する創世記37章から50章までにヨセフは22回も「神」という言葉を使って告白しています。このように彼は何事も神様中心に考え、神様と関連させて話していました。彼はすべてのことにおいて神様の力と権威を認めて従い、その働きを告白して証していたのです。
このように私たちが神様の御言葉を信じて神様中心に生きるなら神様から祝福された人生を生きるようになるのです。その人は悲劇の人生であっても喜劇の人生に変わって行きます。絶望から希望へ、悲しみから喜びへ、失敗から成功へ変えられて行く人生を生きるようになるのです。そうして、どんな人でも赦し、愛する人生へ変えられて行きます。アブラハムも、イサクも、ヤコブも神様から与えられた御言葉を受け入れ、信じることによって祝福された人生を生きることができました。ある人が、「人生は短期的に見れば悲劇だが、長期的に見れば喜劇だ」と言ったそうです。悲しみに打ちひしがれて涙で枕を濡らす日々が続くこともあります。しかし、祝福の神様を信じ、望みを持って生きていれば、最後には喜びに満たされることになるのです。どうか、私たちがアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフのように神様の御言葉を堅く信じて従い、何事も神様を中心に考え、神様を明かして行きますように祈ります。

14Genesis17M わたしがあなたに示す地に住みなさい

2014年創世記第17講                           
わたしがあなたに示す地に住みなさい

御言葉:創世記25:1-26:33
要 節:創世記26:2,3 「主はイサクに現れて仰せられた。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。」

先週、私たちはイサクの結婚について学びました。イサクは非常に美しく処女で、男が触れたことがなかった信仰の女性リベカを迎え入れて愛しました。リベカは信仰あるイサクの妻となって愛される幸せな結婚生活を始めました。ところが、そのイサクの家庭も試練がありました。リベカが不妊の女であったために20年間も子どもを産むことができませんでした。ききんの時は経済的な問題、リベカを失われる危機もありました。神様の助けによって問題が解決され、祝福されると、地域の人々から妬まれる問題もありました。ではイサクとリベカはこれらの問題をどのようにして克服したでしょうか。また、どのような信仰生活をしたでしょうか。
この時間、アブラハムが地上での最後に果たした任務、イサク夫婦の信仰生活を学びたいと思います。

?.平安な老年を迎え、長寿を全うしたアブラハム(25:1-11)
25章1,2節をご覧ください。「アブラハムは、もうひとりの妻をめとった。その名はケトラといった。彼女は彼に、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシュバク、シュアハを産んだ。」とあります。今までの流れから考えると、イサクが結婚してからアブラハムは再婚したのかなあと思われます。すると、サラの死後、アブラハムは140歳ごろに再婚して6人の子どもを設けたことなります。しかしそれは無理だと思われます。なぜなら、すでに100歳の時に「自分に子どもが生まれようか」と笑った人だからです。それで、調べてみると、歴代誌第一1章32節に「アブラハムのそばめケトラ」とありました。ケトラはアブラハムのそばめなのです。そして、6節に「アブラハムのそばめたちの子ら」と書いてあります。従ってケトラはアブラハムのそばめたちのひとりだったと思います。アブラハムは、自分の子イサクのためにそばめたちの子どもたちを東に去らせ、イサクから遠ざけました。それによってアブラハムはこの地上での最後の任務を果たします。
5,6節をご覧ください。「アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた。しかしアブラハムのそばめたちの子らには、アブラハムは贈り物を与え、彼の生存中に、彼らを東のほう、東方の国にやって、自分の子イサクから遠ざけた。」とあります。アブラハムは自分の全財産を相続者であるイサクに与えまし。しかし、そばめの子どもたちには贈り物を与えてイサクから遠ざけました。アブラハムはそばめの子どもたちからイサクを守るために意図的に彼らを遠ざけたことでしょう。このようにしてアブラハムはイサクが腹違いの兄弟たちから邪魔されることなく神様の祝福を受け継ぐことができるようにしました。では、アブラハムの最期はどうですか。
8節をご覧ください。「アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。」とあります。ここで「長寿を全うして」と訳されている言葉は、「十二分に満たされて、満足して」というのが直訳だそうです。つまり、「神様がその人のために計画なさったことが全て満たされて、それゆえに十二分に満足してアブラハムは死んだ」ということです。そこで、イサクとイシュマエルは父アブラハムをサラが葬られているマクペラのほら穴に葬りました。
以上で、私たちはアブラハムの信仰生活100年間を学んで来ました。その中で私たちは偉大な信仰者としてのアブラハム、弱い人間としてのアブラハムの両面を見ることができました。彼の生涯は決して完全ではありませんでした。失敗もたくさんありました。奥さんを悲しませることもありました。軟弱な面もあるアブラハムでした。だから、私はこのアブラハムから何度も何度も慰められ、励まされて来ました。アブラハムが「すべて信じる者の父」であるからこそ、弱い私たちであっても神様を信じていれば天国へ行くことができます。天国でアブラハムに出会います。その時に私はアブラハムと握手しながら「あなたのお蔭さまでここまで来ました。」と挨拶したいと思います。神様がアブラハムを通して弱くて足りない私たちでも天国に行ける信仰生活を教えてくださったことを心から感謝します。
?.祈りによって問題を解決したイサク(19-34)
19、20節をご覧ください。アブラハムの子イサクの歴史が始まります。イサクは四十歳でリベカと結婚して誰が見てもうらやましく思えるような夫婦になりました。アブラハムから全財産を与えられたイサクは金持ちです。就職活動もいらない、毎月家賃を払わなくてもいいし、家にはしもべたちもいます。リベカは美人だったし、内面性のある奥さんでした。誰が見ても幸せな夫婦に見えたことでしょう。
私たちの中でもそのように見える夫婦がいるでしょう。職場は安定しているし、知力も霊力も体力も優れている旦那さん、美人で内面性の奥さんのように見える夫婦がいるでしょう。「あの家庭なら何の問題もないでしょう。」と言えるような家庭もいるのです。しかし、ほんとうに何の問題もない家庭があるでしょうか。幸せに生きているように見える家庭でもさまざまな問題があるし、試練もあります。イサクの家庭も例外ではありませんでした。彼の家庭にも試練がありました。
一つ目の試練は子どもが生まれなかった問題です。リベカが不妊の女であったからです。幸せな結婚をしたしても子どもが生まれないと大きな問題になります。今日のような母の日になると、イサク夫婦はどんなに寂しかったでしょうか。20年間も子どもが生まれなかったことは、ほんとうに大きな試練の連続だったでしょう。ではどのようにしてこの試練を乗り越えることができたでしょうか。
21節をご一緒に読んでみましょう。「イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。」イサクは自分の妻のために主に祈りました。問題はリベカにありました。不妊の女だったからです。でもイサクは妻のせいにしませんでした。つぶやくこともしませんでした。多くの夫たちは家庭に問題が発生すると、自分の問題さえ妻のせいにします。小さな事でも責任転嫁するから夫婦喧嘩したり、離婚したりします。しかし、イサクは自分の妻のために主に祈願したのです。しかも20年間、神様に祈り続けました。彼は健やかな時も、病んでいる時も妻を愛し、自分の妻のために主に祈願したのです。ついに神様は彼の祈りに答えられ、彼の妻リベカはみごもりました。神様はイサクの祈りに答えたのでリベカはみごもったのです。それも双子をみごもりました。夫の祈りに力がありましたね。
ここで私たちは問題解決のカギは祈りであることが分かります。あきらめない祈りです。皆さん、20年間も祈り続けている祈り課題があるでしょうか。自分の妻のために主に祈願していることがあるでしょうか。神様は私たちがイサクのようにあきらめないで祈り続けることを望んでおられます。イエス様もルカの福音書の18章であきらめない祈りを教えてくださいました。ひとりのやもめがあきらめないで願い続けた時に不正な裁判官でさえ願いを聞いてくれたことを通していつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えてくださいました。それから「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。(7)」と言われました。神様が私たちの祈りをいつまでも放っておかれることはありません。神様は私たちの祈りに答えてくださいます。私たちが少々あつかましい祈りをささげても神様はそれを聞いていてくださいます。先週学んだエリエゼルのように、イサクのように具体的に祈るなら神様が答えてくださいます。ただ、答えられるのは神様の時です。エリエゼルは祈りがまだ終わらないうちに答えられました。イサクは20年間の祈りが答えられました。従って、祈りにおいて大切なのはあきらめないこと、失望しないことです。イサクのように失望しないで祈り続けるなら、神様が答えてくださいます。そして、私たちは祈る生活を通して問題を解決していただくだけではなく自分自身が信仰の人として成長して行きます。今日の本文でも26章を見ると、イサクはとてもほんとうに成熟した信仰の人として用いられています。彼は祈ることを通して祈りの人、信仰の人として成長し、成熟して行ったのです。イサクは自分の妻のために祈ったのですが、今度はリベカも祈るようになりました。
22節をご覧ください。子どもたちがリベカの腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」と言いました。そして主のみこころを求めに行ったのです。今度は自分が自ら主の御心を求めに行ったのです。すると、主は彼女に仰せられました。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える」とあります。リベカが祈る時に神様の御声も聞くことができました。生まれて来る子どもの将来も知ることができました。ですから、私たちは家庭の中に問題がある時、イサクやリベカのように祈ることが大切です。イサクとリベカは祈る夫婦でした。祈る家庭に神様の祝福と恵みが臨まれます。夫婦が祈ると子どもの将来も見えて来ます。神様が祈りに答えてくださるからです。
もし、自分の信仰生活に祈りが忘れられている方はいないでしょうか。霊的に危機であることを自覚してください。信仰生活に赤信号です。祈らない教会があるなら、その教会も危機であると言えるでしょう。私たちは祈りを休むような罪を犯さないように気をつけましょう。どうか、イサクのように、リベカのように祈り続ける祈りの人として生きるように祈ります。
二つ目の試練は経済的な問題でした。
26章1節をご覧ください。さて、アブラハムの時代にあった先のききんとは別に、この国にまたききんがありました。ききんがあったことは経済的な問題があったことです。今の言葉で言うならリストラされたり、自己破産したりしたことでしょう。裕福な生活をして来たイサクとしては飢饉に耐えることがとても難しかったと思います。それで彼はゲラルのペリシテ人の王アビメレクのところへ行きました。そこからイサクはエジプトに下ろうとしたと思われます。ゲラルはエジプトに行くための国境の付近です。その時、主はイサクに現われて仰せられました。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。」イサクがききんの時にその地に住むこともやさしいことではありませんでした。しかし主が示される地、主の御心の地が最善の地です。神様が示されるその地に住むならどうなりますか。
3,4節をご一緒に読んでみましょう。「あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。」神様はアブラハムに与えてくださった祝福と同じ祝福をイサクに約束されました。神様がイサクを祝福する理由は第一に、アブラハムに誓った誓いを果たすためにです。アブラハムは死に、歳月は流れました。しかし、主の約束は変わることがありません。人が変わっても、主は真実にその誓いを守られます。第二に、アブラハムが神様の御言葉に聞き従ったからです(5)。これを見ると、私たちがアブラハムのように信仰によって生きると、神様は私たちだけではなく、私たちの子孫も祝福してくださることがわかります。では、イサクは神様の御言葉に対してどのように反応しましたか。
6節を見ると「イサクがゲラルに住んでいるとき、」とあります。つまり、彼は神様の約束の御言葉に聞き従いました。すると、神様は約束の通りに彼を守り、祝福してくださいました。まず、弱いイサクの問題を助けてくださいます。彼がゲラルに住んでいる時のことです。彼はリベカのことでその地の人々から殺されることを恐れて自分の妻を妹ですと言ってしまったのです。彼は父アブラハムが二度も犯した同じ失敗を犯してしまいました。ほんとうに恥ずかしいことです。ところが、神様はそんなイサクであっても彼を無視して捨てるようなことをなさいませんでした。むしろ彼を守ってくださいました。ある日のことです。アビメレクはイサクがリベカを愛撫しているのを見て二人が夫婦であることが分かりました。そこでアビメレクは自分の民たちに「リベカに触れる者は、必ず殺される。」と命じて守ってくださいました。それだけではありません。彼の経済的な問題を解決してくださいました。彼を祝福してくださったのです。
12、13節をご覧ください。「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。」とあります。飢饉の時に百倍の収穫を見たことは考えられないことです。しかし、神様には不可能なことがありません。普通には考えられないほどに祝福してくださることができるお方です。私たちはこの神様の祝福を信じるべきです。私たちが神様の祝福を信じて神様の御言葉に聞き従う時、一時的に損するかのように思われる時もあります。しかし、結局は神様によって祝福された人生を送るようになります。

?.愛と信仰によって試練を克服し、良い影響を及ぼしたイサク(26:16-34)
神様の祝福によって非常に裕福になったイサクは人々から妬まれるようになりました。人は地位が上がったり、祝福されたりすると妬まれることもあります。イサクはペリシテ人から妬められました。彼らは父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしました。その地方で井戸は非常に大切なものです。井戸を掘るのは大変な苦労があります。ですから、井戸を譲ることは当時難しいことでした。しかし、イサクは苦労して掘った井戸を何回も譲りました。譲ることばかりしているイサクのことを考えると腹が立ちます。イサクは弱虫のように見えます。それでは本当に彼が弱くてもそのように井戸を譲ったのでしょうか。彼は栄えて、非常に裕福になっているし、多くのしもべたちも持っているのを見ると、決して力がなくて譲ったのではありません。彼が井戸を譲ったのは、神様がベストの道に導いてくださることを信じたからです。また、隣人を愛する愛があったからです。彼はすべてを主にゆだねました。そして、人々を憎まずに、自分がやれることをやって行きました。すると、ついに争いがなくなり、イサクは「今や、主は私たちに広いところを与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」(22)と言いました。主に信頼する者に主は平安と勝利と祝福を与えてくださいます。結局、イサクは不信者達にどんな信仰の影響を及ぼしましたか。
26節をご覧ください。ペリシテ人の王アビメレクは友人アフザテとその将軍ピコルと、ゲラルからイサクのところにやって来ました。彼らはイサクを憎み、イサクを追い出した人たちです。ところが、彼らはイサクに何と言いましたか。28節をご覧ください。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。」29節では「あなたは今、主に祝福されています。」と言いました。地域の人々に良い影響を及ぼしていることが分かります。これはイサクの愛と信仰による勝利です。ローマ12:21には次のように記されています。「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」アビメレクはイサクと契約を結ぶことを提案します。それは主がイサクとともにおられたので、彼に恐れを感じたからです。それで平和条約を結びました。信仰によって生きる時、主は私たちを祝福してくださいます。祝福されると、人々から妬まれることもあるでしょう。それでも、彼らを愛し続けるなら、神様の栄光を現わし、良い影響を及ぼすことができます。その時、人々は私たちを見てこう言うでしょう。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。私もあなたが信じている神様について知りたいと思います。」
どうか、私たちが信仰生活の中でも問題が発生し、試練もあることを認識し、そう言うときこそ神様に祈り続けることができるように祈ります。祝福された時に人々から妬まれても人々を赦し、愛し続けることもできるように祈ります。こういう信仰生活を通してノンクリスチャンの間に主の御名があがめられるように祈ります。

14Matthew01M 天の御国が近づいたから

2014年マタイの福音書第1講

天の御国が近づいたから

御言葉:マタイの福音書3:1-17
要 節:マタイの福音書3:2「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

 神様が先週まで旧約聖書の最初である創世記の勉強を祝福し、今日からは新約聖書の最初であるマタイの福音書を学ぶようにしてくださり心から感謝します。
旧約聖書はキリスト教だけではなくユダヤ教の正典であり、イスラム教においてもその一部が啓典とされています。ユダヤ教では旧約聖書だけが唯一の「聖書」です。そのためユダヤ教では「旧約聖書」とは呼ばれず、単に「聖書」と呼ばれます。キリスト教は旧約の成就としての「新約聖書」を正典として持っています。新約聖書はイエス様の生涯を記した福音書と使徒の働き、そして手紙によって構成されています。
福音書は四つあります。マタイの福音書、マルコの福音書、 ルカの福音書、そしてヨハネの福音書です。マタイとマルコとルカの3人によって書かれた福音書は共観福音書と呼ばれています。共観と言うのは、観察、見方が共通しているという意味です。そして福音書の中で最初に書かれたのはマルコの福音書です。マタイとルカはマルコの福音書を基礎資料として用いたということになります。聖書学者バークレーによるとマタイの福音書はマルコの福音書の言語の51%を、ルカの福音書は53%を用いています。マタイはマルコの福音書を土台にしながらも、イエス様の教えに力を入れていると言えます。
そこで、今年はマタイの福音書の中でもイエス様の教えを中心に勉強したいと思っています。もちろん、イエス様の教えだけではありません。今日の本文のようにバプテスマのヨハネの活動、イエス様の活動も学びます。ただ、毎年福音書を勉強しているので今年はイエス様の教えを中心に勉強するということです。
マタイの福音書が強調しているテーマは王であるイエス・キリストです。彼はイエス様の弟子としての経験、自分が調べた資料からイエス・キリストこそ、聖書(旧約聖書)に預言されたユダヤ人の王、メシヤであることを確信したようです。実際にマタイの福音書を読んでみると王の系図から初めてイエス様はユダヤ人の王として誕生し(2:2)、ユダ人の王として死なれたこと(27:29)を記しています。ユダヤ人なら誰も分かっているはずの旧約聖書を引用してイエス様の誕生、行動、死などが、旧約聖書に預言されている通りになったことを強調しているのです。しかし、この福音書が異邦人を度外視しているのではありません。マタイは異邦人に対するイエス様の御心も紹介しています。8章11節を見ると「あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます」とあります。24章14節には「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」とあります。そして最後の28章では「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。19a)」とあります。確かにマタイはユダヤ人のために書いたのですが、同時にあらゆる国の人々に福音が宣べ伝えられることも願っていたのです。ユダヤ人を始め、すべての人々が王であるイエス・キリストを信じ、その主権に従う天の御国の民になることを願っていました。そして、彼はヨハネとイエス様を通して天の御国のためになるためにはまず第一に悔い改めなければならないことを知っていました。そこでマタイはバプテスマのヨハネが宣べ伝えた第一メッセージを通して悔い改めを訴えています。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」とあっさりと語っています。では、天の御国が近づいた。」と言うのはどういうことを意味するでしょうか。どうすれば天の御国の民になれるでしょうか。どうか、私たちも悔い改めによって愛と平和によって支配される恵みと喜びの天の御国の民として生きることができるように祈ります。

 1節をご覧ください。「そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。」とあります。「そのころ」とはまだイエス様がガリラヤのナザレという町に住んでおられた時です(2:23)。そのころ、バプテスマのヨハネが現われました。彼は預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人です(3)。彼がユダヤの荒野で何を宣べて言いましたか。
2節をご一緒に読んでみましょう。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」このヨハネのメッセージは後にイエス様が宣教を開始された時に言われる言葉と全く同じです。4章17節を見ると「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」」とあります。ヨハネも、イエス様も第一のメッセージが「悔い改めなさい。」だったのです。それほど悔い改めが大切であるということでしょう。悔い改めとは言葉の通りに自分の罪を悔いて心を改めることです。その理由は「天の御国が近づいたから」です。「天」とは、神様の代名詞です。一般的に国とは国民・国家・領土と言いますが、ここでは言語の意味が「支配」であるそうです。つまり、天の御国とは神様の支配を指しています。支配には服従が伴われます。支配する者がいれば、服従する者がいるはずです。神様が支配して人間が服従するなら、そこが天の御国、天国になります。イエス様がこの地上に来られることによって天の御国が近づいて来ました。バプテスマのヨハネの後にすぐキリストが現われます。誰でも悔い改めればイエス・キリストを通して神様の支配に服従することができるようになります。ですから「悔い改めなさい。」と言うことです。勝手なことをしている生活から向きを変えなさいということです。そうすると、神様は愛と平和、公平によってその人を支配し、治めてくださるからです。
私たち人間は神様に罪をアダムの子孫として、また自分の罪のためにサタンに支配されています。自分の力によってサタンの支配から救われません。サタンが植え付ける人に対する嫉妬、憎しみ、絶望、淫乱、劣等感、恐れと不安等に支配されて死の陰を歩んでいます。先週まで学んだヨセフの兄たちのように不安と恐れの中で苦しんでいるのです。使徒パウロも悔い改めなかった時は死の陰を歩んでいました。彼はこのように告白しました。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7:24)」しかし、彼が悔い改めてイエス・キリストを信じて神様の支配に服従するようになった時は、どうなりましたか。彼はその恵みと喜びも告白しました。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。(ローマ5:1,2)」死の陰を歩む苦しみから解放されて恵みと喜びの天国の民として生きるようになったのです。
あの有名な讃美歌「アメージング・グレイス」を作詞したジョン・ニュートンは七歳の時に母親が亡くなってしまいました。大きなショックを受けた彼は、反抗期を迎えると共に、非行に陥りました。学校も退学、船乗りになり、放蕩にふける青年期を送りました。乗船する船を次々に変えて、ついに行き着いたところが、結局、アフリカ大陸から黒人奴隷を拉致して輸送する奴隷貿易でした。言うまでもなく、当時、奴隷として拉致された黒人の扱いは家畜以下でした。この奴隷貿易に手を染めていたことから分かるように、彼は傲慢で野心的な人物でした。ところが、そんな彼でも悔い改めると、天国の民になりました。1748年5月10日、彼が22歳で船長として統率した船が大きな嵐に遭い沈没寸前に落ちると、彼は必死に神様に祈りました。その後、奇跡的に嵐を脱して彼の船は難を逃れ、彼と船員は生還しました。その後、彼は本当に悔い改めて神様の支配に服従する人になったのです。彼は神の国の恵みと喜びを体験して39才の時に英国国教会の牧師となります。そして、イギリスで神様の恵みを取り次ぐ者として神様から用いられました。そこで彼は罪の中に陥っていた、救いようのない自分を、罪の中から引き上げて下さった驚くべき神様の恵みを「アメージング・グレイス」に表しました。直訳すると、こういう歌詞であります。「アメージング・グレイス。おどろくばかりの神の恵み。なんと、うるわしい響きだろう。この恵みは私のように挫折し、滅びようとしている者までも救う。私はかつては失われていた者、しかし今は見つけていただいている。かつては目が見えていなかった者、しかし今は見えている。」(聖歌233番を歌ってみましょう。) これはジョン・ニュートンだけの歌ではなくて、悔い改めて神様の支配に服従する私たちの歌でもあると思います。私たちもかつては神様と無縁の生活をしていました。勝手なことをしていました。神様の愛を踏みにじり、滅びの道を歩んでいたのです。けれども、ある日、不思議な仕方で神様の支配に服従する人に変えられました。滅びから救いへと、暗闇から光へと導かれて天の御国の民になったのです。これが神様の愛なのです。本当に驚くばかりの恵みとしか表現できません。私たちが本当に悔い改めて神様の支配に服従するなら、ほんとうに天国の恵み、驚くべき恵みの世界に入られるのです。ヨハネもそのような恵みを経験していたことでしょう。ですから、彼は荒野であっさりと「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と言うことができたのです。そして、悔い改めて天国の恵みを経験しているヨハネの生活は非常に質素なものに変わりました。
4節をご覧ください。「このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。」とあります。ヨハネは当時国民から尊敬されている祭司ザカリヤとエリサベツの間に生まれたひとり子です。父の家には華麗な祭司服があるし、おいしいお肉もあったはずです。食べたいものを食べながら格好よくメッセージを伝えることができたはずです。でも、彼は世の楽しみと楽な生活を捨てました。そして、つまり自分の欲望のままに生きることを悔い改めて荒野に行き、質素な生活をしながら主の道をまっすぐにする使命を果たしました。自分自身から悔い改めにふさわしい行動をしていたのです。このようなヨハネのメッセージにはどれほどの権威がありましたか。
5,6節をご一緒に読んでみましょう。「さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。」悔い改めと信仰告白のみわざが起こったことがわかります。全国的なリバイバルが起こったのです。ところが、ヨハネのメッセージを受け入れず、悔い改めない人たちもいました。
 7、8節をご覧ください。「しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」ヨハネのメッセージを聞いたパリサイ人とサドカイ人もバプテスマを受けて来ました。外見上の姿を見ると彼らも荒野まで来ているから偉いと思われます。しかし、彼らは悔い改めているふりをしているだけでした。つまり、彼らは宗教指導者として「悔い改め」が何かを知り、過去にも「悔い改める」ということばを繰り返していました。ユダヤ人の会堂では美しい祈りが唱えられていました。「父なる神よ、われらを汝(ナンジ)の律法に立ち帰らせたまえ。ああ王なる神よ、われらを引き寄せて汝に仕えさせ給え。ああ主よ、悔い改めを喜び給う汝の御名はほむべきかな。」と。ユダヤ教のラビたちも悔い改めについて教えていました。あるラビはヨナ書3:10節を解釈して、「わが兄弟よ。神が目をとめられたのは、ニネベの人たちが荒布をまとい断食したことではなく、彼らが悪の道を離れて、それを行ないによって示したことである」と言っています。ほんとうにそうです。しかし、彼らは正しい悔い改めを教えながらも悔い改めにふさわしい実を結んでいなかったのです。
私たちはどうでしょうか。毎週、毎日のように悔い改めているはずです。断食したことほどではなくても悔い改めの祈りもしています。ところが、罪と悪の道を離れて、それを行ないによって示しているでしょうか。私自身も毎日日ごとの糧を食べながら悔い改めの祈りもしています。しかし、深い悔い改めも、行ないによって示しているものも少ない自分の姿に気づかされました。悔い改めにふさわしい実を結んでいないのです。私たちに神の国の恵みと喜びがないのは悔い改めがないからです。
私はこのメッセージを準備しながら本当に心から悔い改めてそれを行ないに示している時は心から湧き出る喜びがあったことに気づきました。口からもアメージング・グレイス。おどろくばかりの神の恵みを賛美するようになります。しかし、何とかクリスチャンとして生きているものの、悔い改めがない生活には喜びもありません。悔い改めが少なければ喜びも少なくなります。ところが、ヨハネは悔い改めにふさわしい実を結ばない人々に警告もしています。
 10節をご覧ください。「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」とあります。「悔い改めにふさわしい実を結ばない者たちは、火の中に投げ込まれます。」とヨハネは宣言しています。もちろん、「主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るにおそく、恵みとまことに富」んでいるお方です。ですから、どんなに悪いことをしていても、その人が悔い改めて悪から立ち返ろうとするなら、あわれみを豊かに施してくださる方です。そしてキリストが来られたのは、まさにこの救いのためなのです。さばきのためではありません。
 イエス様はこう言われました。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなくて、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:17)」神様は誰もが救われて、この恐ろしい火によるさばきを免れてほしいと願われています。そのために、御子を十字架の死に明け渡し、あなたの罪を彼の上に負わせたのです。しかし、パリサイ人たちのように聖書の御言葉をよく知り、正しいことを教えていながらも自分は守らない、全く実を結ばない生活をし続けるならさばかれます。ヨハネは悔い改めない人々に「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」警告しています。私たちがこの警告を真剣に受け入れて悔い改めにふさわしい実を結ぶ生活をしますように祈ります。ではどのようにしたら、私たちも悔い改めにふさわしい実を結ぶ生活ができるでしょうか。それは謙遜にあると思います。そのことをヨハネとイエス様から学ぶことができます。
  11節をご覧ください。「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」とあります。ヨハネはキリストを自分よりも力ある方と言いました。また、ヨハネは、その方のはきものを脱がせてあげる値打ちもない、と言いました。そして、「その方は、あなたがたに聖霊と火のバプテスマをお授けになります。」と言っています。ヨハネが驚くほど謙遜になっていることが分かります。イエス様はどうですか。
イエス様は、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになりました。しかし、ヨハネはイエス様にそうさせまいとして、言いました。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」 と言ったのです。しかし、イエス様は、どうなさいましたか。
15節をご一緒に読んで見ましょう。「ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」ここで、イエス様の限りない謙虚さ学ぶことができます。
イエス様はヨハネが言っているようにバプテスマを授けるべき神様なのに、人となられて人と同じくバプテスマを受けようとされました。そして、ヨハネからバプテスマを受けることを「正しいことを実行する」と言われました。キリストは、ご自分に従う者たちの模範になるために、このことを行いました。ここで、私たちは言葉だけのパリサイ人たちとは対照的なイエス様から謙遜を学ぶことができます。もちろん、イエス様は悔い改めることが全くないお方です。でも、イエス様は正しいことを実行なさいました。悔い改めにふあさいうぃ実を結ぶことは正しいことを教えることだけではありません。実行することです。イエス様は何も教えないうちに実行されました。人々に教えてから、ご自分でも実行されたのではなくて、実行されてから教えたのです。謙遜になっている時、神様はどうなさいましたか。
 最後に、16,17節をご覧ください。「こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」 とあります。イエス様がバプテスマを受けると、御霊は、鳩のように下って、イエス様の上に来られました。そして、天のお父様から、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」と言われました。三位一体の神様が、イエス様の公生涯においても、ともに働いておられることが分かります。

 結論的に、悔い改めると、神の御国の民になります。神様の支配に服従しながら恵みと喜びを体験するようになります。謙遜になって悔い改める時に、神様はその人を愛する子として称賛し、喜ばれます。しかし、パリサイ人やサドカイ人たちのようにいくら多くのことを教え、正しい知識を持っていても、聖なる神の民として生きることがなければさばかれます。私たちは悔い改めてイエス様のように正しいことを実行する生活をするように祈ります。何よりも日々悔い改める生活を通して天の御国の恵みと喜びを自分のものとして体験して行きますように祈ります。