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m14x-mas1.神様に見捨てられたイエス・キリスト

2014年クリスマス特集第1講

私たちのために、
神様に見捨てられたイエス・キリスト

御言葉:マタイの福音書27:11−66
要 節:マタイの福音書27:46
「三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。」

 メリークリスマス!!私たちの救い主、イエス様の誕生を心からお祝いします。
 先週の御言葉を通して、私たちは、「ゲツセマネの祈り」について、学びました。
これは、「イエス様の大祭司の祈り」とも言われています。イエス様は、神様の御心を成し遂げるために、オリーブ山で、血の汗を流すほどに切実に祈られました。それは、全ての人々を罪と死から救うために、イエス様が「神の子羊」となられ、救いの御業を完成することでした。祈りを終えられたイエス様は、イスカリオテのユダの裏切りによって、逮捕されました。大祭司カヤパの官邸で、ユダヤの議会(サンヘドリン)によって尋問されました。そして、神性冒瀆罪で、イエス様を処刑にすることに決定しました。
 今日学ぶ箇所は、このイエス様が神様に捨てられ、十字架の上で尊い血を流し、死んで葬られる出来事が記されています。イエス様が神様に捨てられ、十字架につけられたのは、私たちの罪と咎を贖うためでした。このイエス様の十字架の死と復活によって、私たちは罪と死から解放されたのです。クリスマスは、この救い主であるイエス様の誕生をお祝いし、記念する日です。
この時間、私たち一人一人が、世の罪を取り除く神の子羊としてお生まれになったイエス様のことを考え、心に深くお迎えすることができるように祈ります。また、私たちの身代わりとなって神様に捨てられ、十字架の上で尊い血を流されたイエス様のことを考え、救いの恵みに預かることができるよう、お祈りします。
 11節をご覧ください。「さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに『あなたは、ユダヤ人の王ですか。』と尋ねた。イエスは彼に『そのとおりです。』と言われた。」
イエス様が総督ピラトの前に立った時、ピラトはイエス様に尋ねました。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」宗教指導者たちは、イエス様を処刑するためにピラトに引き渡しましたが、その訴状は、「ローマの皇帝カイザルに反逆している」として、政治犯としてイエス様を訴えました。その当時の、ユダヤ人の王はヘロデですが、彼はローマ帝国カイザル公認の王でした。このヘロデをさしおいて、別に王を立てることは、まさにローマの皇帝カイザルに対する反逆行為にあたりました。それにも関わらず、イエス様は少しもためらわずに、お答えになりました。「そのとおりです。」
イエス様は、神様がお認めになった「ユダヤ人の王」です。ここで、「ユダヤ人の王」とは、旧約時代に預言されたキリスト、救い主であることを話してくれます。「クリスマス」とは、「キリストを祭る」という意味があります。そのキリストがイエス様です。クリスマスの時期になると、教会では、ヘンデルの「メッサイヤ」を合唱し、演奏します。一度は聞いたことがある「ハレルヤ」では、イエス様を指して、「王の王、主の主、万軍の王」と歌っています。このイエス様がお生まれになったのがクリスマスなのです。また、クリスマスの時期になると、「東方の博士たち」の話が出て来ます。
イエス様がベツレヘムの地でお生まれになった時、東方の博士たちはヘロデの王に次のように尋ねました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」(2:2)。イエス様は、神様が約束された救い主であり、天の御国を統べ治める王です。イエス様は、総督ピラトの前では、ご自分がユダヤ人の王であることを、はっきりとお示しになりました。反面、宗教指導者たちが、イエス様に不利な証言をしている時には、何もお答えになりませんでした。「どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。」とあります(14)。普通、冤罪になれば、人は自分の無罪を主張するものです。私は仕事をしていると、よくクレームの電話がかかって来ることがあります。その中で、明らかに身に覚えのないことで、苦情を言われることがあります。「私ではありません」と言いたくもなります。その時は、「誠に申し訳ありませんでした。」と丁重にお詫びをしますが、電話を切った後では、はらわたが煮えくりかえります。「一体、誰がそのようなことをやらかしたのか」と犯人捜しをし、一言、文句が言いたい気分です。ところが、イエス様はどうでしょうか。ゲツセマネで、切に祈られたイエス様は、十字架を背負うことを決断されました。神様に頼って祈ったイエス様は堂々としていました。ユダヤ人たちが不利な証言をしても、ゆるがない心を持っておられました。神様の御子としての威厳も兼ね備えていたことでしょう。イエス様の態度の前は、当時の権力者である総督ピラトも非常に驚くほどでした。
 18節を見ると、ピラトは、宗教指導者たちが、自分たちのねたみからイエス様を引き渡したことに、気づいていたことが分かります。イエス様には、何の罪もありませんでした。そこで、ピラトは、過越しの祭りに、群衆のために、いつも望みの囚人をひとりだけ赦免している慣習を利用しようとしました。そこで、群衆に尋ねました。
17節をご覧ください。「あなたがたは、だれを釈放して欲しいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」バラバは悪名高き囚人でした。ピラトは、バラバの名前を上げることで、群衆がイエス様を釈放して欲しいと願うのを期待したようです。
ところが、群衆の反応は予想外のものでした。彼らは「バラバだ。」と答えました(21)。そして、いっせいにイエス様を「十字架につけろ。」と言いました(22)。ピラトは、何とかしてイエス様を釈放しようとしました。しかし宗教指導者たちから説きつけられた群衆は、ますます激しく「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫び続けました。結局、ピラトの手に負えなくなりました。群衆の暴動を恐れたピラトは、群衆の願い通りに、バラバを釈放せざるを得なくなりました。そして、イエス様をむち打ってから、十字架につけるために引き渡しました。ネブ・ギブソン主演の「パッション」には、その光景が生々しく描かれています。イエス様のからだは、むちで打たれた事によって、肉がえぐられました。その傷口から血が流れ出て、血で真っ赤に染まっていました。
ローマの兵士たちは、イエス様の着物を脱がせて、緋色の上着を着せました。それから、いばらで冠を編み、イエス様の頭にかぶらせました。イエス様の額は、いばらで傷つけられ、血が流れ出ていました。イエス様の右手に葦を持たせた後、彼らはイエス様の前にひざまづいて、からかって言いました。「ユダヤ人の王さま。ばんざい」(27-29)。そして、彼らはイエス様につばきをかけ、葦を取り上げてイエス様の頭をたたきました。こんなふうに、イエス様をからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出しました(30,31)。イエス様の体は、もはや限界に達していました。心身共に疲れ果ててしまったイエス様は、十字架を背負うだけの気力すら残っていませんでした。それで、ローマの兵士たちはシモンというクレネ人に、イエス様の十字架を、無理やりに背負わせました(32)。
 ゴルゴダという所に来てから、兵士たちは、イエス様を十字架につけました。イエス様の両手首と両足首に太い釘を打ち込みました。刑場には、釘を打つことが響き渡りました(カンカンカン)。そして二人の死刑囚の真中にイエス様の十字架を立てました。イエス様の罪状書きには、当時の公用語である、ラテン語とギリシャ語とヘブル語で「ユダヤ人の王」と書かれていました。それは、はからずも、世界中の人々に、イエス様が約束されたメシヤであることを知らせることになりました。

15ACTS11M 初めてキリスト者と呼ばれるようになった弟子たち

2015年使徒の働き第11講(by 李ヨシュア)

初めてキリスト者と呼ばれるようになった弟子たち

御言葉:使徒の働き11:19〜12:25
要 節:使徒の働き11:26 「彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」

今日学ぶみことばには、アンテオケ教会の誕生の様子が描き出されています。エルサレムから地の果てまでの宣教の歩みの中で、後に異邦人宣教の重要な拠点となる教会です。弟子たちは、そのアンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになります。この異邦人宣教は、ステパノが殉教した出来事がきっかけでした。その日から、激しい迫害の嵐がエルサレムの教会を襲い、使徒以外の者たちはみな、ユダヤとサマリヤへと散らされたのです(8:1)。しかし彼らは、タンポポのようにその飛ばされた所で、神のことばを宣べ伝えながら、巡り歩きました(8:4)。それによって、神のことばは広く異邦人の世界にまで及んでいくようになったわけです。それは人間の考えと理解を超えた神のご計画と聖霊の働きがあったからこそ、成し遂げられたものでした。そして、「・・・エルサレム、ユダヤとサマリヤ全土、および地の果てにまで、私の証人となります」(1:8)とのみことばが、こうした迫害によっても実現されたのです。

さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、どこまでも進んで行ったのでしょうか。11章19節に挙げられている地名の「フェニキヤ、キプロス、アンテオケ」は、すべて異邦の地を指します。その中の「アンテオケ」は、当時、ローマ、アレクサンドリヤに次ぐローマ帝国の第三の都市として栄えた、人口50万人ほどの国際都市でした。「東方の女王」「麗しいアンテオケ」「大いなるアンテオケ」などと賞賛されるほど、様々な文化や宗教がごった返す大都市でした。またシルクロードの出発点としても知られる貿易の都市でもありました。彼らはそこに何をするために行ったのでしょう。アメリカン・ドリームのような夢を抱いて、億万長者になりたくてでしょうか。いいえ、彼らはただ激しい迫害から逃れるためだったのでした。

そこで彼らは、誰にみことばを語ったでしょうか。それは異邦人でしょう!と思ったら違いました。19節後半部には、「ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった」とあります。というのも、最初はどこに行ってもユダヤ人だけを福音の対象とし、イエス様が命じた「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタ28:19)という使命からは、非常に遠かったわけなのです。ところが、その中にいた何人かのキプロスとクレネ出身の弟子たちが、ギリシヤ人にも、主イエスのことを宣べ伝えました(20)。これは今までの宣教のやり方と全く違う新しい挑戦でした。享楽的な罪の町アンテオケで、それも福音とは全く無縁な生き方をしている異邦人に、主イエスの福音を宣べ伝えたのです。その結果は、「大ぜいの人が信じて主に立ち返った」(21b)です。それは何故でしょうか?彼らがとても上手に伝道したのでしょうか。あるいは様々な工夫がなされたのでしょうか。それとも誰かが優れた才能を発揮したのでしょうか。勿論、主は人を用いて福音を拡大させられます。ところが、根本的に人を主に立ち返らせるのは、神の力のみです。21節に書いてあるように、「主の御手が彼らとともにあった」からなのです。このようにして、異邦の地で初めて、アンテオケ教会が誕生したわけです。異邦人伝道の始まりは異邦人から始まったということに、神様の不思議なわざを感じられます。
私が清州にあるUBF教会に足を踏み入れた大学3年生の頃は、同じ年の友が2人いました。当時、教会のみなは、世界宣教に燃えていました。「聖書と靴一足だけあれば、世界のどこまでも・・・」、というビジョンに満ちていました。最初は3人共に鶏を捌く職業で、アメリカへ渡って行こうとしました。しかし、ビザが得られなかったこともあって、一人はリトアニアへ、一人はドイツへ、そして私は日本へ、と散らされて行きました。その他の先輩や後輩もほとんど、安定的な仕事を辞めて、アメリカを初め、中国、チリ、マレーシア、ニュージーランド、オーストラリア、ドイツ、イタリアなどに散らされ、今も現地の人々に主イエスのことを宣べ伝えています。この日本UBF教会も、まだ開拓教会みたいな小さいものですが、主の御手がともにあってLAやPNG、タイに宣教師を派遣してきました。宣教において一番大切のものは、「イエスは主である」というただ一つのメッセージです。時が良くても悪くても、結果が見えても見えなくても、福音を語り続けることです。そこに主の御手がともにあり、主が私たちの人生やこの教会を大いに祝福してくださるのです。

11章22〜24節をご覧ください。「大ぜいの人が信じて主に立ち返った」という知らせを聞いた、エルサレム教会は、バルナバをアンテオケに派遣しました。バルナバはキプロス生まれのレビ人で、「慰めの子」と呼ばれる立派な人物で(4:36)、さらに聖霊と信仰に満ちた人でした(24a)。なぜ、彼はアンテオケ教会に派遣されたのでしょうか。23節をご覧ください。「彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を固く保って、常に主にとどまっているようにと励ました」とあります。それは、「一人一人に、どんな犠牲をはらっても、絶対に主から離れないようにと忠告し、励ます」(L・B11:23)ためでした。彼がそこに着いて目の当たりにした光景は、神の恵みが彼らに満ちている様子でした。主イエスのことを信じ、多くの異邦人が救われた教会には、神の恵みが満ちていたのです。バルナバが彼らに励ましたことばは、一言で言えば、「主にとどまっている」ことでした。

なぜ、「主にとどまっている」ことが、それだけ大切なのでしょうか。イエス様はこう言われます。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。・・・」(ヨハ15:4)と。具体的に言えば、主のみことばにとどまること、主の愛にとどまることです。ルカの福音書8章には、「種を蒔く人のたとえ」が記されています。その中に、岩の上に落ちた種のたとえがあります。「岩の上に落ちるとは、・・・聞いたときには喜んでみことばを受け入れますが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまう」(ルカ8:13)人のことです。アンテオケ教会の人々の信仰は、まさにそういう状態になりかねない懸念がありました。ですから、バルナバはそういうことを見通して、彼らが常に主にとどまっているように、と励ましたのではないでしょうか。「千里の道も一歩から」と言うように、地の果てにまで福音が広がっていくためには、何よりもまず主のことばにしっかりと根を下ろすことが大切です。神様の導きによる「Doing」の前に、しっかりと「Being」に徹することこそが、成長の秘訣だったわけです。これによって、アンテオケ教会では、更に大ぜいの人が主に導かれました。こうして、アンテオケ教会の成長と共に、この集いは周囲の異邦人社会からも注目を浴びる存在となっていったわけです。

25節をご覧ください。バルナバは、タルソに滞在していたサウロを捜しに出かけて行きました。なぜ、バルナバはサウロを捜しにわざわざタルソへまで行ったのでしょうか。26節からその理由を知ることができます。それは、異邦人の宣教において、サウロが最適任者だったからです。サウロと言えば、主イエスから異邦人宣教に選ばれた器です(9:15)。また、彼は律法にも精通しており、ギリシヤ語もローマ語も話せる者でした。何より彼は、ダマスコへ行く途上で主イエスに出会って、生まれ変わったはっきりとした信仰の体験をした者でもありました。だから、バルナバは、このようなサウロをタルソからアンテオケに連れて来たわけです。では、彼ら二人は、そこで、何をしたのでしょうか。

26節をご覧ください。「彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった」とあります。バルナバとサウロはきっと、聖書の学びに一番心血を注いだはずです。そして毎朝聖書を黙想し、祈る訓練や教育にも力を入れていたに違いありません。もしかして、異邦人宣教に必要な語学をも教えていたのかもしれません。しかも、彼らは「まる一年の間」、集中的に教え続けたというのです。「継続は力なり」ということばがあります。彼ら二人はどんな事情があっても、弛まず挫けずに主イエスのことを教え続けたのです。その結果、どうなりましたか。26節の後半部です。「弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった」とあります。「キリスト者」と訳されていることばは、「クリスチャン」ということばの語源となったもので、「キリストに属する者たち」という意味です。ここで大切なのは、彼らを指してキリスト者と呼んだのは、クリスチャンではない周囲の人々であったという事実です。人々は主イエスを信じる者たちの姿を見て、「あれはキリストに属する者たちだ」と呼んだわけなのです。当時は、この呼び方は軽蔑や嫌悪の感情もこもったことばでした。しかし、ことばの響きがどうであれ、これは異邦人の弟子たちがキリストのことばに根づき始めたことを物語っています。

27〜30節には、異邦人教会がユダヤ人教会に対して、救援をする美しい出来事が記されています。後に、使徒パウロはこのことを、「聖徒たちをささえる交わりの恵み」(?コリ8:4)と述べています。これからは、その美談についてお話します。預言者の一人アガポという人がエルサレムからアンテオケに来て、「世界中に大飢饉が起こる」と預言しました。当時教会で預言者は、使徒に次ぐ教師として認められていました。預言者の役割は、主のことばを語ることや、人の徳を高めること、そして勧めをなし、慰めを与えることでした(?コリ14:3)。彼の預言は的中して、クラウデオの治世(AD41-54)に起こりました。その大飢饉はパレスチナ地方、特にエルサレム一帯が最も酷かったと伝えられています。エルサレム教会の人々は、きっと生活に非常に困窮していたはずです。アンテオケ教会は、「ユダヤに住んでいる兄弟たち」が大飢饉で困窮していることを知り、さっそく「それぞれの力に応じて」救援物資を送ることに決めました。そしてそれを実行して、バルナバとサウロの手によって、エルサレム教会の長老たちに送ったのです。今年で、東日本大震災から4年の年月が過ぎました。死者・行方不明者だけで約1万8千人を超え、原発の事故もあって今現在も約23万もの人が避難生活を余儀なくされているそうです。前代未聞の大被害を受けた被災地の人々を助けようと、世界から救援金や物資が送られました。私たちの教会も、それぞれの力に応じて、精一杯の献金をして寄付しました。被災地の人々が一日も速く元の生活に戻れますように祈ります。これからも皆様の力に応じてささげた献金を、助けが必要なところに良く支援できますように祈ります。

12章に入りますと、エルサレム教会に対するヘロデ王の迫害から始まります。1〜5節をご覧ください。ヘロデ王 は、教会の中のある人々を苦しめようとして、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺しました。このヤコブは、主が「・・・わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします」(マル10:39)と預言した者です。その預言通りに、彼はヘロデの剣によって殉教の杯を飲んだのです。それがユダヤ人の気に入ったことを見たヘロデは、「2匹目のドジョウを狙っ」て、今度は教会のトップリーダーであるペテロを捕らえて牢に入れました。そしてその牢を十重二十重(とえはたえ)に取り囲み、十六人の兵士たちによって監視させました。それは、過ぎ越しの祭りの後に、ペテロを民の前に引き出して殺そうと考えていたからです。そのような最大の危機に瀕していた時、教会は彼のために何をしましたか。あらゆる手段を講じようと、みんなが東奔西走していたのでしょうか。いいえ、そうではありません。教会は心を一つにして、「主よ!ペテロをお守りください。彼を牢から救い出してください」と、熱心に祈り続けていたのです(12:5)。教会(クリスチャン)にとって、最大の武器は祈りです。クリスチャンに求められる祈りについて、聖書の一節をご紹介いたします。エペソ6章18節です。「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」

私の家庭は、毎晩三人で心を合わせて祈っています。現在私の会社では、不渡りの話も出始めており、また給料の大幅カットのうえ、毎月給料がでるかどうかという話もあります。私は会社のことでストレスを受け、心と魂が潰れそうになったりもしました。さらに、大きな試練が私の家庭を襲い掛かってきました。去年12月に突然Jrヨシュアが家から出られなくなり、救急車で病院に搬送されたとの衝撃的な知らせを受けました。晴天の霹靂とも言うべき大パニックでした。私は瞬間、これはサタンの仕業であることを感じ、家族みんなで祈ることを提案しました。こういう訳で祈り会が始まったのですが、今までとは違う切実さがありました。また、教会の信徒のためにも毎日切に祈りました。しかし、大学と専門学校の不合格やそれによってビザ申請ができなくなった知らせを聞いた時には、非常に残念で、自分のことのように涙が出そうになり、心を痛めました。しかし、ここにも私たちが知らない神様の大きな御旨があることを信じます。私たちは「苦しい時の神頼み」ではなく、常に主にとどまっていながら絶えず祈りましょう。そして教会の皆様の祈りの課題を共有し、互いに祈り合って行きましょう。

エルサレム教会のみなが心を一つにして祈った時に、どのように応えられましたか。6〜17節の箇所です。神様は御使いをペテロのいる牢に遣わしました。御使いはペテロに、「急いで立ち上がりなさい」と言いました。これは、「タリタクム」と言われた復活のイエス様の御声です。すると、彼の手から鎖が落ちました。復活の御声を聞くと、足かせも鎖もペテロを縛っておくことはできませんでした。ペテロは御使いの助けによって、ついに、牢から外に出されたのでした。そして彼は我に返って、「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ」(11)と言いました。その後も、自分のために、祈っていた兄弟姉妹たちの前に現われ、主がどのようにして牢から救い出してくださったかを、彼らに話して聞かせました(17)。反面、エルサレム教会を迫害したヘロデ王は、どうなりましたか。彼は「神に栄光を返さなかった」ため、主の使いに打たれて死んでしまいました(12:23)。まさか!虫に噛まれて息が絶えたとは、驚きです。このように神様のお裁きは厳しいものです。

結論として、主のことばは、どのように広がって行きましたか。この国にもこのようなリバイバルが起こるようにと願いながら、12章24節をお読みしたいと思います。「主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った。」 ハレルヤ♬♪アーメン。

15ACTS1M 聖霊があなたがたの上に臨まれるとき

2015年使徒の働き 第1講メッセージ(朴エズラ)

聖霊があなたがたの上に臨まれるとき

御言葉:使徒の働き1:1−26
要 節:使徒の働き1:8 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」」

今日から使徒の働きを学ぶように導いてくださった神様に感謝します。使徒の働きは、イエス様が復活された後、地の果てにまで、わたしの証人となるようにという使命をうけた弟子たちが、どのようにエルサレムからローマまで福音を伝えたかについて、記録したものです。使徒の働きは28章までしかありませんが、私たちは現在29章の舞台を飾っていると言えます。私たちが使徒の働きを通して、何故福音が地の果てにまで伝えられなければならないのか、この福音を伝える証人の姿勢はどうあるべきかについて学べるように祈ります。
今日は、第1講として私たちの上に聖霊が臨まれ、力を受けることによって、イエスキリストの証人の人生が生きられることについて学びたいと思います。昔、ベニーヒン(Benny Hinn)牧師が書いた、『聖霊様、おはようございます!』(1994)という本を読んだことがあります。イエス様を信じるようになった私たちの中には、常に聖霊がともにおられます。現代の私たちには、神様とイエス様は目に見えない存在ですが、聖霊様が私たちとともにおられ、私たちを導いてくださいます。私たちが今日の御言葉を通して聖霊に満たされ、力を受けることが出来るように祈ります。

?。聖霊を送ると約束されたイエス様 (1-5)
1-3節では使徒の働きの前書きです。ここでルカの福音書と使徒の働きが繋がれていることを説明しています。そこで、使徒の働きの著者もルカの福音書を書いたルカであることが分かります。
イエス様は復活した後、40日の間、弟子たちとともにおられながら、彼らに復活信仰を植え付けました。イエス様が十字架に付けられ死なれた後、弟子たちの信仰は揺らぎ、共同体が壊れる危険性がありました。そこで、イエス様はガリラヤを訪れ、彼らを助けられたのです。具体的に、数多くの証拠をもって、ご自分が生きていることを弟子たちに示されました。わき腹と手の平を見せながら、十字架の釘の痕を触ってみるように助け、復活したご自身の姿を彼らに直接証しされました。また多くの復活の証人たちの証言も聞くようにされました。イエス様の福音の証人となるためには、まず復活信仰が絶対的に必要だったからです。次に、イエス様が教えた内容は神の国に関することでした。
イエス様を信じながらも、この世に望みをおく時、聖霊の力を受けることは難しいです。そこで、イエス様の地上での教えも神の国に関するものでした。そして、使徒たちに神の国に対する望みを植え付けて、世界宣教を担えるように準備させました。
それでは、イエスさまは弟子たちに復活信仰を植え付けた後、どんな方向をくださいましたか。
4、5節をご覧ください。“彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。/ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」”
ここで、4節の「父の約束」とは、「聖霊のバプテスマ」であることが分かります。ヨハネは悔い改めのしるしとして水でバプテスマを授けて、イエス様を受け入れるように心を準備させました。しかし、弟子たちが受ける聖霊は罪の赦しを与える聖霊のバプテスマを指しています。
当時、エルサレムは弟子たちにとって非常に危ないところでした。弟子たちはガリラヤを舞台にしてイエス様とともに活動しました。しかし、イエス様がエルサレムに上られてから宗教指導者たちの執拗な迫害を受けて、最後にこのエルサレムで逮捕されて十字架につけられました。したがって、エルサレムは弟子たちにとって一刻もはやく離れたい場所でした。ペテロは、エルサレムでイエス様のうしろから遠く離れて付いていく途中、命の危険を感じて三度もイエス様を否定せざるを得ませんでした。ほかの弟子たちもイエス様が十字架で死なれる時、みんな命の危険を感じて逃げた場所でした。彼らにとって、エルサレムはまことに恐ろしくて早く逃げたい危ない場所でした。
私たちも自分の属している所の状況が悪かったり、気に入らなかったりすると新しい環境をもとめ、そこを離れてどこかに逃げたい気持ちになります。新しい環境で新しく始めたいからです。しかし、この世では、私たちの気に入る完全な環境はありません。どんな所に行っても、気に入る部分と気に入らない部分があります。イエス様は、私たちが息苦しい所、気難しいところから逃げるのではなく、乗り越えて打ち勝つことを願われます。
それでは、なぜ、イエス様は、弟子たちにエルサレムを離れないように言われたのでしょうか。
それは、聖霊を待つためでした。イエス様はエルサレムで全人類の罪を贖うために十字架の上で死なれて3日目に復活されました。そして、弟子たちにエルサレムで聖霊を待ちなさいと言われました。旧約のユダヤ人たちがメシヤを待ったように、イエス様の弟子たちはイエス様の昇天後に聖霊を待つべきです。私たちは再び来られるメシヤを待っています。待つためには忍耐が必要です。我慢して待たなければなりません。聖霊を待ちなさいとは、聖霊に頼りなさいという意味でもあります。イエス様が一緒におられる時は、弟子たちはイエス様だけにもっぱら頼れば問題ありませんでした。しかし、イエスキリストが昇天された後は、キリストの霊である聖霊に頼りなさいという命令です。現代の私たちにとって直接会えなくなりましたが、今もイエスキリストは聖霊によって私たちとともにおられます。イエス様が弟子たちとともに生活したように、聖霊も私たちとともに住まわれます。私たちも弟子たちのように全面的に聖霊を信頼し、頼らなければなりません。

?。イエスキリストの証人の人生を願われるイエス様 (6-11)
6節をご覧ください。“そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」” イエス様が 40日間神の国に対して教え、最後の日に「父の約束を待ちなさい」とおっしゃると、弟子たちはやっと待ちに待っていた祖国の解放の時が来たと誤解をしました。当時、イスラエルの状況は、国が滅びてから約 600年の間バビロン、ペルシア、ギリシャの植民地となり、異国の人々に蔑視され、さげすまれました。またその頃には全世界を支配していたローマ帝国の植民地となっており、苦しい毎日でした。イスラエルの民たちはローマの政治的な圧迫と人権蹂躙の中で奴隷のような惨めな状態にありました。ローマの経済的な搾取によって民たちの生活は飢えの苦痛を受けていました。神様の選民であるプライドは深く傷つけられ、羞恥と屈辱を耐え忍ぶしかありませんでした。志のあるイスラエルの若者なら、誰もが祖国イスラエルをローマから解放させる切実な願いを持っており、これこそが、当時の民たちの切実な現実問題でした。弟子たちはイエス様の神の国に対する教えを聞いて大きな感動を受けました。イエス様があらゆる病人を癒し、荒波と風も鎮められ、死んだ者も生き返らせる働きを目撃して、イエス様を通して祖国の独立の夢を成し遂げるためにイエス様に献身的に頼りました。イエス様が将来大きな能力でローマ軍隊を追い出して地上のメシヤ王国を建設することを夢見ました。その夢とビジョンのため、彼らは生活の頼りであった舟と父親を捨ててイエス様についてきました。
しかし、イエス様は彼らの期待を裏切り、逮捕されてピラトから死刑宣告を受けて十字架の上で無力に死なれました。イエス様の死と同時に、彼らの望みも泡水のように消えてしまいました。ところが、イエス様は約束された通り、再び3日目によみがえられて、彼らに現われました。彼らは新しく力と勇気を得ました。とくに、壊れた彼らの夢も再び復活しました。イエス様が40日間、神の国に対して教える時、彼らは、それを地上のメシヤ王国建設だと思い込み、イエス様がエルサレムで地上のメシヤ王国を建設し、王になれば、彼らはイエスキリスト内閣の各大臣になる夢を持つようになりました。同時に、祖国イスラエルがローマの植民地の統治下から回復される夢を持っていました。そういった夢を膨らませている時、イエス様が急に、彼らを離れようとしたので、イエス様に質問せざるを得ませんでした。“「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」”
彼らの質問にイエス様は何と答えましたか。7-8節をご一緒に読んでみましょう。“イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。/ しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」”
イエス様はイスラエルの回復は神様の主権にあるので、すべてを主に委ねて、弟子たちがやるべきことを教えてくださいました。“しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」”
弟子たちはほとんどが地方の田舎出身であり、きちんとした教育を受けることができませんでした。また彼らの代表者であるペテロも、魚ばかり取っていた漁師出身でした。イエス様がともにしない時、彼らは、弱い存在であったし、自分たちを逮捕しようとする宗教指導者たちを恐れるしかない弱虫の人々でした。イエス様は彼らの弱さを誰よりもよくご存じでした。そこで、彼らに聖霊を約束されたのです。では、聖霊は具体的にどんな働きをしますか。
第一に、聖霊を受けると、力を受けます。
“しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます(8a)”
ここで、力とは、語源がダイナマイトと同じです。弟子たちに聖霊が臨まれる時、人々に対する恐れも乗り越えて、力のあるしもべとなれます。実際に、ペテロが聖霊の力を受け、大胆にメッセージを伝えると、一度で3,000人が悔い改めたり、次には5,000人が悔い改め、バプテスマを受けて、弟子に加えられ、使徒たちの教えを堅く守り、交わりをするようになりました。このように聖霊を受ける時、現実の圧力と恐れを乗り越えて、大胆に神様の御言葉を伝える、大胆で力のある働きをすることができます。
第二に、イエス様の証人として働くように助けます。“そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります(8b)。」”
「わたしの証人となります。」とは、(NIV聖書では)「You will be my witnesses」となっており、イエス様の強い意志が現れています。聖霊が臨まれる目的は、すべての人がイエス様の証人になるためでした。これはイエス様のこの世での最後の地上命令であり、私たちクリスチャンにくださった使命です。福音を知らない時、人々は罪と死の問題の解決が出来ないため、罪のなかで死ぬしかありません。このような人々に罪のゆるしの福音、復活の福音を証することで罪が赦され、死の勢力から離れ、希望と意味ある人生、究極的には永遠の命を得るようにする証人の人生こそ、この世で最も偉大で価値ある仕事なのです。この世には、たくさんの仕事がありますが、このように死んでいく魂を生かすことより重要で至急な仕事はありません。使徒たちは、イエスさまからこのように偉大で重要な使命を受けたのです。この使命は、弟子たちに与えられた特権なのです。このように重要で至急な仕事なので、イエス様は使命だけ与えたのではなく、聖霊を送り、聖霊さまの力によってこの使命を担うようにされました。すなわち、証人となる主体は、弟子たちの力で担えるのではなく、ひとえに聖霊さまの力が臨まれる時、担うことができるのです。世のことは、自分の力と知恵で努力さえすればある程度は成し遂げますが、イエス様を伝え、人を救うことは自分の力と知恵では絶対に出来ないことです。証人の人生は、聖霊が臨まれる時のみ可能です。そこで、イエス様はいきなり、「私の証人となりなさい」と言われませんでした。聖霊を注いでくださると約束してくださったのです。弟子である私たちが証人の職務を担える原動力は、まさに聖霊さまなのです。聖霊が世界宣教を担える力をくださるのです。人間的な能力と才能が多いからといって世界宣教をよく担えるのではありません。むしろ、人間的な能力をたくさん持っていると、聖霊の力に頼らなくなり、それが聖霊の力を受けさせないようにする障害要因にもなります。信仰によって聖霊の力を受ける時のみ、すべての限界状況を乗り越え、力のある証人の人生を生きることができるのです。したがって、私たちは聖霊様に頼り、聖霊さまが私たちのなかで働き、聖霊さまが主体となって私の中で強く働き、私を用いてくださるように自分を備えておかなければならないのです。
現在アフリカの宣教師として遣わされた李サムエル宣教師は、どうすれば聖霊に満ち溢れた人になれるかについて、『聖霊様とは』という本で、次のように記しています。「現代、私たちはあまりにも忙しい生活をしています。サタンは必要のないことにまで関わらせ、私たちをどんどん忙しくさせます。それがサタンの狙いです。聖霊さまを熱望する時間を奪っていきます。目を覚まさなければなりません。朝、起きるや否や聖霊様を心の奥底から切に熱望すべきです。聖霊様無しには一瞬も生きられないという姿勢を持たなければなりません」と。
来週学ぶ予定の、使徒の働き2:38節には、聖霊を受けるためには、私たちが日々どのように生きるべきかについて教えてくれます。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」と。御言葉にもあるように、私たちが、毎日、聖書の御言葉によって照らされる罪を、瞬間瞬間悔い改め、祈ることによって聖霊に満たされる1年となるように祈ります。
先週、私たちは新年修養会を通してたくさんの恵みを受け、各自2015年の要節と祈り課題を決めたと思います。出発したばかりの2015年、各自が御言葉と祈りによって聖霊充満となり、力強いキリストの証人としての2015年を過ごせるように切に祈りたいと思います。そこで、私たちをめぐるあらゆる現実問題にも負けず、打ち勝つことが出来るように祈ります。また、クリスチャンの数が少ない周りの環境であっても、大胆に聖書の御言葉をのべ伝えることができるように祈ります。私も、使徒の働き6:4「私たちはもっぱら祈りと御言葉の奉仕に励むことにします」を今年の要節とし、御言葉と祈りにもっぱらはげみ、聖霊様のくださる力によって力強いキリストの証人としての1年を過ごせるように祈りたいと思います。
9-11節をご覧ください。イエス様が弟子たちに御言葉を残した後、彼らが見ている間に、天に上って行かれたので、弟子たちは天をずっと見つめていました。その時、白い衣を着たふたりの御使いたちが、彼らのそばに立って言われました。“「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」”。イエス様とともに生活した3年間、弟子たちにとってイエス様は彼らの主であり、保護者であり、師匠でした。そういったイエス様が急に昇天されると、弟子たちは意外な出来事に対する驚きと、離別による悲しみによって天を見つめていました。その時、御使いを通して、イエス様の再臨を知らせてくれました。弟子たちはイエス様が地上でイスラエルを再興されないなら、イエス様と一緒に天国に行きたいという思いが強かったでしょう。しかし、イエス様は弟子たちがイエス様の再臨を備える働きをするように助けました。
イエス様の再臨を準備する人生とは、どんな人生でしょうか。昇天されたイエス様が再臨を準備する間に、私たちはこの地上でイエス様が言われたとおりに、聖霊に満たされ、力を受けた後、私たちが住んでいる東京をはじめ、日本中、さらには地の果てにまでイエス様の証人となることが求められます。つらい時、さびしい時、悲しい時、この世で失敗する時、弟子たちのようにこの世を去り、イエス様のおられる天国に行きたいと思いがちです。私たちも弟子たちのようにいつまでも天だけを呆然と見つめないで、積極的に聖霊に満たされる生活が出来るように祈ります。

?。聖霊を受ける準備をする弟子たち(12-26)
弟子たちは聖霊を受ける準備をするために何をしましたか。
第一に、イエス様の御言葉に順従しました(12)。12節をご覧ください。“そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。”弟子たちはイエス様が昇天された後、すぐオリーブ山を越えてガリラヤに行きたい思いがくすぶったでしょう。故郷のガリラヤに行ってイエス様の証人になることもできました。エルサレムは危ない所であり、漁師が多かった彼らにとって、仕事を探すことも難しかったでしょう。しかし、エルサレムを離れないように言われたイエス様の御言葉に順従して、再びエルサレムに帰って来ました。弟子たちは危ない場所ですが、自分たちの安全よりもイエス様の約束の御言葉をより大切に考えました。そして、イエス様の御言葉に順従してエルサレムに帰って来ました。
第二に、みな心を合わせ、祈りに専念しました(13,14)。13-14節をご覧ください。“彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。/ この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。”
イエス様の弟子たちがエルサレムに帰って来た時、彼らは当然、行く所もなく、彼らが主に集まったマルコの屋上の間(使 12:12)に上がりました。そこには、十一使徒と女性たちとイエス様の肉身の家族たちが集まっていましたが、その数は120人ほどでした。彼らは聖霊を受けるために、心を合わせて祈りに専念しました。14節をご一緒に読んでみましょう。“この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。” 彼らは心を合わせて、祈りに専念しました。
心を合わせて、祈りに専念したという意味は、祈る時、みんなが一つになったということです。そして、同じ祈り題目を持って心を合わせて祈りました。祈りが答えられるまで諦めず、祈りました。彼らは周りの環境が難しいからこそ、より一層祈りに力を入れました。どんな環境と条件でも乗り越えられる、強力な祈りをささげたのです。このように、同じ声、同じ心、同じ祈り課題で祈る時、神様の祝福を受けることができます。
イエス様の弟子たちは、彼らの主であり、師匠であるイエス様との急な離別によって、未来に対する漠然とした不安と恐怖にさいなまれず、むしろ積極的に祈りました。彼らは彼らの恐れと悲しみを祈りに昇華させました。祈ることによって、未来に対する不確実な約束を確かな望みに変えました。その結果、彼らは約束された聖霊を受けることができました。さらには、究極的に世界を変える世界的なリーダーたちになることができました。彼らによってキリスト教は全世界に広がり、現在私たちも信じるようになったわけです。このように悲しみと孤独に打ち勝つことは、まさしく積極的な祈りであることを学ぶことができます。このように彼らが祈りに専念するためには忍耐する祈りが必要だったでしょう。彼らは聖霊が臨まれるまで忍耐して諦めず繰り返して祈りました。2015年、私たちも心を合わせて祈りに専念することができるように祈ります。

15ACTS12M 信仰の門を開いてくださった

2015年使徒の働き第12講 

信仰の門を開いてくださった

言葉:使徒の働き13:1-14:28
要 節:使徒の働き14:27「そこに着くと、教会の人々を集め、神が彼らとともにいて行なわれたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったこととを報告した。」

 今年、私たち「使徒の働き」を学んでいますが、この書物にすべての使徒の働きが記されているのではありません。先週まで勉強した前半部(1章-12章)では、主に使徒ペテロの働きが記されてありました。地理的にはエルサレムとユダヤ、サマリヤまでにユダヤ人を中心にしたが使徒たちの働きです。
 今日から学ぶ後半部(13章-28章)は、主に使徒パウロの宣教活動が中心になっていますし、地理的にもユダヤを超えて世界の人々に広がって行きます。その中でも今日の御言葉には異邦人に信仰の門を開いてくださったことが記されてあります。パウロは現在トルコの南部地方になっている小アジア地方から開拓して行きます。開拓、開店など何か新しく始めることはやさしくないと思います。先週、教会の一階に開店した「ピーシャイ・タイカフェ」を見ると、契約してから準備期間だけで2か月以上かかりました。言うまでもなく、誰も知らない新しい地域に行って教会を開拓して行くことはやさしくなかったでしょう。使徒パウロはどのようにして新しい地域を開拓して行くことができたでしょうか。聖霊はどのように働いて彼を助け、異邦人に信仰の門を開いてくださったでしょうか。本文の御言葉を通して使徒たちの働き、聖霊の働きを深く学ぶことができるように祈ります。

?.アンテオケの教会と小アジアでの伝道(13:1-52)
1-3節をご覧ください。アンテオケの教会にはバルナバ、ニゲル(黒い人)と呼ばれるシメオン、クレネ出身のルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、それにパウロなどが預言者や教師になっていました。生まれも、育ちも違うし、顔色も身分も違う人たちが預言者や教師として活動していました。ある日、彼らが主に礼拝をささげ、断食していると聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われました。それで彼らはさらに断食して祈ったあと、ふたりに手を置いて任命し、送り出しました。
ここで、素晴らしい教会の姿を見ることができます。彼らには主への礼拝、断食、祈りがありました。宣教師を任命して送り出す宣教の働きがありました。何よりも聖霊の御声を聞いて従う教会でした。私たちの教会にも礼拝と断食と祈りがあります。宣教師を任命して送り出すこともありました。これからもますます主を礼拝し、祈りと断食をしながら聖霊の御声に聞き従うことができるように祈ります。
特に、今日はイエス・キリストが十字架の苦難を受けられた受難週の第一日に当たります。イエス様はこの日曜日にエルサレムに入城され、木曜日に聖餐式を行なわれました。そして金曜日に十字架にかかって死なれ、葬られました。土曜日は墓に納められていました。キリスト教ではこの一週間を受難週として守っています。断食をしたり遊びに行くのをやめたりしてそれぞれ努力して敬虔に過ごそうとします。私たちもこの一週間は夜8時に祈り会を通してイースター修養会を準備し、イエス・キリストの受難を覚えて行きたいと思っています。この期間にはパソコンやスマートフォンなどのSNS断食もしながら敬虔に過ごすことができるように祈ります。今週だけではなく、常に、アンテオケの教会のように、主を礼拝し、断食と祈りをしながら聖霊の御声を聞いて交わり、聖霊に従う生活ができるように祈ります。では教会から送り出されたふたりは何をしましたか。
4-8節をご覧ください。ふたりは聖霊に導かれてセルキヤに行き、そこから船でキプロスに向かいました。その島のサラミスという町に着くと、さっそくユダヤインの会堂で神のことばを宣べ始めました。ヨハネ(マルコ)も助手として同行しました。彼らは島全体を巡回して、最後にパポスという町に来ました。そこで、にせ預言者でバルイエス(イエスの息子)と名乗る魔術師に出会いました。彼は総督セルギオ・パウロの取り巻きのひとりでした。総督は賢明な人で神の御言葉を聞きたいと思うほどに霊的な望みを持っていたのでバルナバとパウロを招きました。ところが、魔術師は、ふたりに反対しました。パウロやバルナバの言葉に耳を傾けないようにそそのかし、総督を信仰の道から遠ざけようとしました。しかし、聖霊に満たされたパウロはどうしましたか。
9-11節をご覧ください。「しかし、サウロ、別名でパウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、言った。「ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。見よ。主の御手が今、おまえの上にある。おまえは盲目になって、しばらくの間、日の光を見ることができなくなる」と言った。するとたちまち、かすみとやみがかれをおおったので、彼は手を引いてくれる人を捜し回った。」とあります。パウロの呪いによって信仰の道を遠ざけていた魔術師エルマは盲目になってしまいました。この出来事を目のあたりにした総督は、主の教えに驚嘆して信仰に入りました。これは考えてみればすごいことです。その地方のトップ、つまり県知事とか都知事とか、そういう人が信仰を持つに至った、ということです。しかしこれは決して特別な、この時代の事だけではありません。パウロによって切り開かれたローマ帝国への宣教は、どんどん広がっていきました。313年にはローマ皇帝がキリスト教を公認しました。そして391年には、キリスト教を国教に定めるに至りました。こういう素晴らしい出来事の後もパウロの一行は伝道旅行を続けます。
13節をご覧ください。パウロの一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡りました。ここでヨハネと呼ばれるマルコが一行から離れ、エルサレムに帰ってしまいました。その理由は分かりません。同労の問題があったのか、健康の問題があったのかは分かりません。信仰の強いパウロが感情的になって言い過ぎてしまうことがあったかも知れません。私たちと同じ人間だからあり得ることでしょう。確かなことは、弱さを持っていながらも福音を伝える働きを進めて行ったことです。パウロたちはペルガから進んでピシデヤのアンテオケに行きました。ここのアンテオケはパウロを送り出したシリアのアンテオケとは違うアンテオケです。そこでも安息日に会堂にはいると、会堂の管理者たちから話す機会が与えられました。パウロが立ち上がり、手を振りながらメッセージを伝えました。
16-41節までは使徒パウロのメッセージです。まず17-21節でイスラエルの歴史を紹介しています。神様はご自分の民イスラエルを大きな力によってエジプトから導き出し、約四十年間、荒野で養われました。それからカナンの地に入らせて七つの民を滅ぼし、その地を相続財産として分配されました。その後、預言者サムエルの時代までは、さばき人たちをお遣わしになりました。彼らが王をほしがったので、神様はサウロをイスラエルの初代王として立ててくださいました。それから、彼を退けて、ダビデを立てて王とされました。パウロはそのイスラエルの歴史をダビデまでに語りました。それはダビデに対してメシヤの約束が与えられているからです。その約束の救い主がイエス・キリストです。
最近、流行っている幸福の科学の大川さんとか、儒教の孔子、仏教の仏陀、イスラム教のモハメットなどは、誕生の前から預言されたという話を読んだことも、聞いたこともありません。しかし、イエス・キリストの誕生は旧約聖書に預言されていたのです。キリストの道を備える先駆者バプテスマのヨハネのことも預言されていたし、そのとおりに現れてイエス様の道を備えました。
24、25節をご覧ください。「この方がおいでになる前に、ヨハネがイスラエルのすべての民に、前もって悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。ヨハネは、その一生を終えようとするころ、こう言いました。『あなたがたは、私をだれと思うのですか。私はその方ではありません。ご覧なさい。その方は私のあとからおいでになります。私は、その方のくつのひもを解く値うちもありません。』」とあります。旧約聖書に預言されたとおりにバプテスマのヨハネが現れて悔い改めのバプテスマを宣べ伝えました。キリストが自分のあとからおいでになることも言いました。そして、その通りにイエス様はキリスト、メシアとして来られたのです。
それによって救いの言葉は私たちに送られました。従ってだれでもこのイエス様をキリストとして受け入れ、信じるなら救われるようになったのです。それは誰よりも旧約聖書を持ち、信じているはずのユダヤ人がよく分かっていることでした。しかし、ユダヤ人たちはイエス様を信じるどころか、十字架につけて殺してしまいました。ところが、それも聖書に預言されたとおりでした。イザヤ書53章5節によると「しかし、彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」とあります。イエス様はユダヤ人の背きの罪のために、私たちの罪と咎のために、十字架につけられて死なれたのです。しかし、神様はキリストをどのようにされましたか。
30-37節をご覧ください。ここで、パウロはイエス様の復活をはっきりと証ししています。ユダヤ人はイエス様を十字架につけて殺しましたが、神様はイエス様を死者の中からよみがえらせました。復活は、神様の打ち負かされないご計画と力との証拠でした。これもまた聖書の御言葉通りになったことです。特にパウロは詩編2:7「あなたは、あなたの聖者を朽ち果てるままにはしておかれない。」と言ったダビデの預言はイエス様の復活を預言していると証しました。結局、パウロのメッセージの結論は何ですか。
38、39節をご一緒に読んでみましょう。「ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。」とあります。パウロはモーセの律法によってではなくイエス様を信じることによって罪から解放されると証しています。「解放される」と言うのは、「赦される、義と認められる」という意味です。私たちはイエス様をキリストとして信じるなら、その信仰によって罪が赦され、義と認められるのです。これこそが罪の赦しの福音です。
私たちは宣教旅行の途中でエルサレムに帰ってしまったマルコのように弱くなる時があります。自分の限界にぶつかり、同じ罪を繰り返して犯してしまうと、自分自身も自分を赦せなくなります。しかし、それでも主を信じて悔い改め、主の御前に出て行くなら、主は私たちを赦し、恵みを施してくださいます。私たちは、ただ、イエス・キリストを信じるなら救われるのです。それではこのパウロのメッセージに対する反応はどうでしたか。
42-44節をご覧ください。ふたりが会堂を出るとき、人々は、次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼みました。会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神様を敬う改宗者たちが、パウロとバルナバについて来ました。それで、ふたりは彼らと話し合って、いつまでも神の恵みにとどまっているように勧めました。すると、次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来ました。ところが、人々が多く集まって来る群衆を見たユダヤ人たちは、ねたみに燃えました。彼らはパウロの話に反対して、口ぎたなくののしりました。その時、パウロとバルナバは新しい方向をつかむようになりました。
46、47節をご覧ください。「そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」とあります。パウロはイザヤ49:6節の御言葉に基づいて異邦人宣教の方向をつかみました。異邦人は心が開かれていました。異邦人たちは、それを聞いて喜び、主のみことばを賛美しました。ここから、異邦人宣教が具体的に始まって行きます。どのようにして異邦人の心が引かれ、開拓のみわざが起こるようになったでしょうか。

?. 信仰の門を開いてくださった(14:1-28)
14章1-7節をご覧ください。イコニオムでも、ふたりの使徒は連れ立ってユダヤ人の会堂にはいり、話をしました。すると、ユダヤ人もギリシヤ人も大ぜいの人が信仰に入りました。しかし、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちをそそのかして、兄弟たちに対し悪意を抱かせました。それでも、ふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語りました。異邦人とユダヤ人が彼らの指導者たちといっしょになって、使徒たちをはずかしめて、石打ちにしようと企てました。そのとき、ふたりはそれを知って、ルカオニヤの町であるルステラとデルベ、およびその付近の地方に難を避け、そこで福音の宣教を続けました。
具体的にパウロはルステラにある足のきかない人に目を留め、彼にいやされる信仰があるのを見て、大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」と言いました。すると彼は飛び上がって、歩き出しました。パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ。」と言いました。パウロとバルナバにいけにえもささげようとしました。それに対して使徒たち、バルナバとパウロはどうしましたか。「そうなんだ。私が神なんだ。私を拝め。」と言ったでしょうか。決してそうではありませんでした。
14、15節をご覧ください。「これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて、群衆の中に駆け込み、叫びながら、言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。」とあります。ここで、衣を裂いて、群衆の中に駆け込んだのは、自分の立ちも同じ肉体を持っている人間であることを示すためでした。そして神様が、「天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった方」として説明しました。
ところがパウロがルステラで福音を宣べ伝えている時、ユダヤ人たちはパウロを妬みました。彼らはアンテオケとイコニオムから来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにしました。何度も何度も石に打たれたパウロは死んだ人のようになっていました。実際に死んでいたかも知れません。彼らは死んだものと思ってパウロを町の外に引きずり出しました。しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行きました。パウロは石に打たれ、死にそうになっても少しも迫害に負けませんでした。神の国への望みがあったからです。
22節をご覧ください。「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言いました。この望みのゆえに彼は多くの苦しみの中でも落胆しませんでした。むしろ艱難の中でも喜びました。なぜなら今の時のいろいろの苦しみは、将来私達に啓示されようとしている栄光と比べれば、取るに足りないものと思っていたからです(ローマ8:18)。私たちにも神の国に対する望みがある時、苦難の十字架を負うことができるし、艱難さえも喜ぶことができます。ふたりの使徒はピシデヤを通ってパンフリヤに着き、ペルガでみことばを語ってから、アタリヤに下り、そこから船でアンテオケに帰りました。そこに着くと、教会の人々を集め、宣教報告をしました。どのような報告をしましたか。
最後に14章27節をご一緒に読んでみましょう。「そこに着くと、教会の人々を集め、神が彼らとともにいて行なわれたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったこととを報告した。」彼らは自分たちがどれほど苦労したかを報告しませんでした。「皆さん、私がどれだけが苦難を受けたのか、死にそうになっていたよ。皆さんも分かってほしい。」と言いませんでした。彼は神様が彼らとともにいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったこととを報告しました。実際に異邦人はやみの中にいました。彼らの心は閉ざされていました。パウロは彼らに福音の光を照らす異邦の光として選ばれましたが、その任務を果たすことはやさしくありませんでした。しかし、神様がともにおられ、任務を果たせるようにしてくださいました。何よりも、閉ざされている異邦人に信仰の門を開いてくださいました。神様が主を礼拝し、断食をし、祈りをしているアンテオケ教会から派遣されたパウロを異邦人の宣教のために貴く用いられました。だから、福音によって小アジア地方を開拓し、宣教旅行を続けることができます。教会を開拓し続けることができました。
今日も、福音の光を知らず、やみの中にいる人々にキリストの福音を伝えることは決してやさしくありませんでした。 閉ざされている人々に福音を伝えることは岩に卵を投げるようなものです。パウロも多くの苦難を受けました。しかし、神様は主を礼拝し、祈る私たちとともにおられます。私たちが福音を伝える時、異邦人に信仰の門を開いてくださいます。だからこそ、全くイエス・キリストを知らない人々にキリストの光を照らすことができます。聖霊が私たちとともに働いてくださるからです。この日本の人々に信仰の門を開いてくださるからです。ですから、私たちも使徒パウロのように異邦人の光として働き、用いられることができます。どうか、主が私たちを異邦人の光として用いられますように祈ります。

15ACTS02M 聖霊による不思議なわざ

2015年使徒の働き第2講

聖霊による不思議なわざ

御言葉:使徒の働き2:1-47
要 節:使徒の働き2:17,18「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」

お知らせの時間に報告させていただきますが、アジア支部長修養会のために祈ってくださり心から感謝します。修養会の一ヶ月前にシンガポール行きの飛行機事故もありました。でも16カ国から57人の方が無事にシンガポールに着きました。私にとっては4年間のアジア支部長の任期を終える修養会でもありました。神様の哀れみと皆様のお祈りのお陰で無事に任務を全うすることができたことを心から感謝します。
今日は皆さんと共に使徒の働き2章を学びます。ここに、私たち東京UBFが目指す教会の姿があります。私は東京UBF教会のモデルを求めて聖書を読んでいくうちに使徒の働き2章でこれだという思いがしました。特に、2章は47節まであります。この47と言う数字から47都道府県の日本、47カ国のアジアも思い浮かぶようになりました。そこで、私は東京UBF教会が日本の47都道府県、アジアの47カ国に影響を及ぼす教会になることも目指すようになりました。
どうか、今年使徒の働きを学びながら私たちの姿が使徒の働きの教会の姿に変えられて行きますように祈ります。力ある聖霊のみわざ、不思議なわざが私たちの経験となりますように祈ります。使徒の働きにある使徒たちのすべての信仰と告白とあかしが私たちの信仰と告白とあかしとなりますように祈ります。
今日の第2章には初代教会が誕生するようになった五旬節の出来事が記されてあります。どうか、あの五旬節に臨まれた聖霊が今日も私たちのうちに力強く働いてくださいますように祈ります。

1節をご覧ください。「五旬節の日になって、みな一つの所に集まっていた。」とあります。五旬節とは過越しの祭りから五十日目の祭りという意味です。50日の間にイエス様の復活、40日後の昇天がありました。その後、120名ほどの聖徒たちが祈りに専念していました。そこにどんなことが起こりましたか。
2,3節をご覧ください。突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡りました。20年前の阪神・淡路地震のようなことが起こったのです。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまりました。弟子たちが一つのところに集まり、心を合わせて祈っている時に聖霊が臨まれたのです。ここで、聖霊はそれを祈り求め、待ち望む者たちに臨まれることが分かります。イエス様はルカ11:9-13節のところで、「〜求めなさい。そうすれば与えられます。〜〜 してみると、あなたがたも、悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」と言われました。求めるなら、与えられます。聖霊を慕い求め、一つの所に集まり、心を合わせて祈り求めるなら、神様は約束の聖霊を注いでくださいます。
私たちは毎週一つの所に集まって祈っています。あの弟子たちのように聖霊を慕い求めて祈っているでしょうか。神様は礼拝のために集まっている私たちが心を一つにして祈り求めている時に聖霊を注いでくださいます。私たちがますます聖霊を慕い求めて祈り、聖霊に満たされますように祈ります。主日礼拝の時だけではなく、いつも、どこで聖霊のご臨在を慕い求めて祈りましょう。それによって聖霊が豊かに注がれることを体験して行きますように祈ります。では、聖霊が注がれた時にどんなことが起こりましたか。
4節をご覧ください。「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」とあります。彼らは他国の言葉で話し出しました。彼らは自分の力ではなく、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出しました。つまり、聖霊によって外国語を大胆に語るようになったのです。カンボジアの李ドヨル宣教師は英語勉強のためにシンガポールに行きました。でも、なかなか話せませんでした。ところが、宣教のためにカンボジアに行って神学校で教える時は不思議にも英語で教えることができました。去年は兄弟姉妹たちに聖書を教えるためにカンボジア語にも挑戦しました。英語よりも難しい言葉でした。しかし、聖霊の助けによってひとりを教えると、彼が1年生の1人を教えるようになりました。それでビジョンを持つようになり、今年から首都のプノンペンに引越しして行くそうです。聖霊を受けると、不思議なわざを体験し、さらにビジョンを持ってキリストの証人として働くようになることが分かります。
しかし、聖霊を受けていないユダヤ人たちは聖霊の力と働きを理解することができませんでした。120名ほどの弟子たちがそれぞれ自分の国のことばで話すのを聞いて、驚きあきれてしまいました。7節では「驚き怪しんで」、12節では「驚き惑って」と言っています。これらのことばは、それを聞いた人たちが、いかにもとまどっていた様子を表しているものです。彼らには何事が起こっているのかがさっぱり分かりませんでした。そこで、ペテロは11人の弟子たちとともに立って説教をします。
そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に「今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。」とはっきりと言いました。朝から酔っぱらっている人はいないでしょう。特に当時のユダヤ社会では朝から酒を飲むことは禁じられていました。だから朝から120名ほどの人々が酔っぱらっているはずがないことを説明して彼らがよく知っている旧約聖書の御言葉が成就したことを教えています。
17,18節をご一緒に読んでみましょう。「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」これは、紀元前800年頃に預言者ヨエルの預言したことばです(ヨエル書2:28〜32)。そして、「終わりの日」は、イエス・キリストがこの世に来られてから再び来られる時までを意味します。つまり新約時代です。旧約の時代には特定の人々にだけ聖霊が臨まれました。ヨセフは少年の時に一つの幻を見ました。兄弟たちが自分を拝むようになることでした。30歳になった時に、その通りになっていました。アブラハムは老人になった時に夢を見ました。大いなる国民の父となることでしたが、その通りになりました。このように旧約時代には特定の人々が預言をし、夢を見たのです。
しかし、終わりの日、つまり、新約の時代には神様を信じるすべての人々に聖霊が臨まれます。すると、息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見るのです。預言、幻、夢とはビジョンのことです。老若男女(ロウニャクナンニョ)なく、すべての人がビジョンを持つようになるということです。また、主は「わたしのしもべ」「はしため」にも聖霊を注ぐと約束されました。つまり、身分や国籍を問わずすべての人に聖霊が注がれ、それによって誰でもビジョンを持って立ち上がる時代が始まるということです。ほんとうに素晴らしいことです。
実際にイエス様を信じるすべての人々に聖霊が注がれています。それで少年も、青年も、老人もビジョンを持つようになります。誰でも聖霊に満たされると、聖なるビジョンに燃える人になります。その時、物質的で肉的な人が霊的な人に変わります。考え方が積極的になります。勤勉な人になります。そうして、ビジョンのとおりになることを経験して行きます。私はこのUBF教会で36年目になりますが、その間に数多くの人々が聖霊を受け、ビジョンに燃えてそのビジョンのとおりになることを見て来ました。ここに宣教師たちも誰かに説得されて来たのではなく、聖霊を受けると、ビジョンを持つようになり、日本の宣教師になったと思います。
1981年に私が通い始めた韓国の光州UBFのホールは今の東京UBFより少し広いものでした。でも、この建物の4階の面積を合わせると、あの時の光州センターより広くなります。しかも当時の光州UBFは3階だけを借りていました。ところが、小さいUBF教会でも人々は聖霊を受けてビジョンに満ちていました。彼らは世界の果てまで行くことのために祈っていました。私もその雰囲気に圧倒されて世界のために祈り、何も知らずに一つの国の支部長になりたいとも祈りました。今になって考えてみると、私たちに聖霊が注がれ、ビジョンを持つようになって祈っていたのです。ところが、40代になってみると、そのとおりになっていました。アジア大陸の支部長にもなっていました。もし、私がイエス・キリストを信じず、聖霊を受けなかったら、ビジョンを持つこともできなかったでしょう。箴言29:18を見ると「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。」とあります。またローマ8:6では「肉の思いは死である」とあります。私もほしいままにふるまい、肉の思いによって滅びの道に歩んでいたことでしょう。現実の問題に縛られて心が腐敗して行ったと思います。しかし、神様の深い哀れみによってイエス様を信じて聖霊を受けると、ビジョンを持ち、ビジョンのとおりになることを経験して来ました。それで、私は40代からは「日本の47都道府県にキャンパス牧者」、「アジア47カ国に宣教師を派遣する」というビジョンに燃えています。
このメッセージを準備しながら「老人は夢を見る」と言う言葉に恵みを受けました。UBF先輩たちは60代、70代になっても夢を見てシルバー宣教師として遣わされています。それで今年はUBFにSBF(シルバーバイブルフェローシップ)が誕生するそうです。何と素晴らしいことでしょうか。老人になっても夢を見て新しく出発できるのです。
どうか、この教会に聖霊が激しく臨まれて一人ひとりが幻を見、夢を見ることができるように祈ります。47都道府県、47カ国に出て行くビジョンにも満たされますように祈ります。私も、定年になると、日本の47都道府県の中でまだ開拓されていない所か、アジア47国の中で一つの国に出て行きたいと思います。
ペテロは聖霊のみわざを証しした後、続けてイエス様の十字架と復活を証ししました。特に十字架の言葉をはっきりと伝えています。
36節をご覧ください。「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」そこにいた人々はピラトがイエス様を十字架につけたと思っていたでしょう。ローマ兵士たちが十字架につけて殺したと思っていたでしょう。あるいはイエス様をピラトに渡した宗教指導者たちがイエス様を殺したと思っていたでしょう。イエス様の死は自分たちとは関係がないと思っていたのではないでしょうか。しかし、ペテロは彼らに向かって「あなたがたが十字架につけたのです。」と言ったのです。
ペテロのメッセージを聞いた民達の心にどんな御業が起こりましたか。彼らはペテロのメッセージを聞いて心を刺されました。人はイエス様の十字架の意味が本当にわかるとき、誰でも心が強く刺されます。私も初めて十字架の意味が少しでも分かった時に心を刺されて泣きました。今でも十字架の意味を悟ると泣いてしまいます。それで彼らも十字架の言葉を聞いてペテロとほかの使徒たちに、言いました。「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」これは真実な悔い改めの姿勢です。彼らは神様に犯した自分の罪を悟ってどうしたらいいかわかりませんでした。そこでペテロは彼らに答えました。
38節をご覧ください。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」ペテロは彼らにはっきりと救いの道を提示してあげました。悔い改めこそ、救いに至る関門です。悔い改めは自分の罪を悔しく思い、反省するだけではなく、方向を変えることです。その後イエス・キリストの名によってバプテスマを受けて新しく出発して行きます。すると、すると、その人の罪がイエス様の尊い血によって罪が赦され、きよめられた所に聖霊が臨まれます。聖霊は悔い改めた人に与えられる神様のプレゼントです。
聖霊は今日の私たちにも「神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」と言われると思います。ピラトやローマ兵士、ユダヤの祭司長たちではありません。私がイエス様を十字架につけた張本人です。私の罪のためにイエス様は十字架につけられたのです。神様が死者の中からよみがえらせて私の主・キリストとされたイエス様を私が十字架につけたのです。特に不信仰によって神様を悲しませて来ました。今回、メッセージを準備しながら聖霊の働き、大いなる聖霊の力を制限していた罪を悟りました。聖霊が臨まれると、私たちは力を受けます。私が悔い改めて聖霊の力、聖霊の働きをますます確信して行きます。どうか、私たち一人一人が自分の罪を悔い改めて賜物として聖霊を受けることができるように祈ります。

?.教会の誕生(41-47)
ペテロのことばを受け入れた者は、バプテスマを受けました。その日、三千人ほどが弟子に加えられました。このようにして初代教会が誕生したのです。それでは初代教会の特徴は何ですか。
42節をご覧ください。「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」とあります。彼らは使徒の教えを聞くだけではなかったようです。メッセージを聞くだけで終わらなかったのです。所感を書いて堅く守る闘争をし、その恵みを分かち合う交わりをしていました。進藤真綾牧者は仕事の関係で朝の主日礼拝に参加していますが毎週書いた所感をコピーして私にも渡してくださいます。去年、一年間も私は彼女の所感を通して何度も励まされて来ました。
東京UBFがこれからも初代教会のように御言葉を学び、堅く守って行きますように祈ります。また彼らは共に食事をしました。共に食事をしたことは愛の具体的な表現です。私たちは毎週の主日には昼食を一緒に食べています。この食事会を通して私たちの愛がますます深まって行くことを感謝します。そして、彼らは祈りに励みました。祈りは生きておられる神様との交わりで聖徒達の霊的な呼吸です。祈る人は霊的に生きている人です。祈るところに聖霊のみわざがあります。43節をみると、「そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。」とあります。それでは聖徒達の実際の生活はどうでしたか。

結論的に44-47節をご一緒に読んで見ましょう。「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」とあります。このように愛と喜びが溢れる聖徒達の生活はすべての民に好意を持たれました。彼らは聖徒達の生活をうらやましく思いました。主は毎日救われる人々を仲間に加えてくださいました。私たち東京UBFも初代教会のように聖霊に満たされて御言葉を学んで堅く守る生活、愛の交わり、祈り生活がますます大切にして行きますように祈ります。東京の大学生たちが東京UBFのうわさを聞いてうらやましく思って集まって来るみわざが起こりますように祈ります。すると、主が毎日、救われる人々を仲間に加えられるように祝福してくださると信じます。

15ACTS03M イエス様によって与えられた信仰

2015年使徒の働き第3講

イエス様によって与えられた信仰

御言葉:使徒の働き3:1-26
要 節:使徒の働き3:16そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。

先週、私たちは聖霊の臨在によって形成された最初の教会について学びました。聖徒たちは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていました。そのような素晴らしい教会だったので主も毎日救われる人々に加えてくださいました。それだけではありません。この教会は使徒たちによってナザレ人イエス様が行なわれた力あるわざと不思議としるし、つまり奇跡が行なわれるようになります。
今日はその一つの奇跡を学びます。聖霊によって私たちの間に住まわれるイエス様は使徒たちを通して奇跡を行なわれました。足のなえた人を立たせ、歩かせました。40年間も歩けなかった人が立って歩けるようになったのです。どのようにしてそういういのちのみわざが起こったでしょうか。御言葉を通してイエス・キリストの御名の力、イエス・キリストによって与えられる信仰の力を学びたいと思います。そしてその御名によって癒され、救われた人の人生がどうなるかも学びたいと思います。どうか、主が御言葉を通して私たちの信仰を新たにしてくださいますように。私たちもあの使徒たちのように主が聖霊によってなさる力あるわざと不思議なわざに用いられますように祈ります。

?. ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい(3:1ー11)
1-3節をご覧ください。ある日の午後、ペテロとヨハネは宮に上って行きました。午後三時の祈りをするためです。ユダヤ人には朝の9時とお昼の正午、そして午後3時と、一日に三回祈りをしていました。ペテロとヨハネは、この定まった時間に祈りをしていたことが分かります。毎日、朝に祈ることは難しくありません。毎日夜祈ることもそれほど難しくありません。毎晩寝る前に祈ることができます。しかし、毎日午後3時に祈ることは難しいです。私は正午12時に祈ろうと決断して闘争したことがあります。ところがなかなかできませんでした。特に決まった場所で祈ることはほんとうに難しいと思います。特にペテロとヨハネは、一度に三千人の人たちが救われてかなり忙しかったと思います。それでも彼らは祈りの時間に、祈りの場所に行って祈っていたのです。どんなに忙しくても祈りを第一にしていたことが分かります。ダニエル書を見ると、ダニエルはいつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していました(6:10)。私たちも一日一度でも祈りの時間、祈りの場所を決めてそれを守ることができるように祈ります。
祈りをするために宮に上って行ったペテロとヨハネは、もうすぐ宮だという所で、生まれつき足の不自由な男が運ばれて来るのに出会いました。この男はいつも、宮の「美しの門」のそばに置いてもらい、宮に入る人たちから施しを受けていたのです。ふたりが前を通り過ぎようとすると男は、「だんなさま。どうぞお恵みを」と施しを求めました。ペテロとヨハネはこのような足のきかない人をどのように助けましたか。
4節をご覧ください。ペテロは、ヨハネは立ち止まり、男をじっと見つめました。それは彼に何が一番必要なのかを知るためだったでしょう。彼らは何も考えずに10円、100円を投げて行くのではなく、足のなえた人を憐れむ心から彼を正しく助けようとしたのです。そこで、ペテロとヨハネは彼に「私たちを見なさい。」と言いました。すると、男は何かもらえると思って、ふたりに目を注ぎました。ところが、ペテロは全く意外なことを言いました。
6節をご一緒に読んでみましょう。「するとペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って」とあります。ペテロはそういって彼の右手を取って立たせました。すると男は、驚いたことに足も、くるぶしもたちまち強くなり、しっかりと立ち上がったのです。そして、すたすた歩き始めました。ペテロとヨハネが宮に入ると、彼は跳んだり、はねたりして、神様を賛美しながらついて来ました。
ここで私たちは、人を助ける方法とイエス・キリストの御名の力について学ぶことができると思います。私たちクリスチャンはキリストの愛のゆえに人を助ける生活をしなければなりません。特に、牧者や宣教師は聖書勉強を通して人を助けます。親も子どもを助けなければなりません。だれかを助けることはほんとうに素晴らしいと思います。私は牧者として、宣教師として、職場では教師として何とか人を助けようと考えて来ました。4人の父親としてもどのように助けようかと考えて来ました。そのうちに、ほんとうに生きがいを感じる時が多くあります。私はちょっとだけ助けたので助けたかも忘れているのに、「ほんとうにその時は助かりました。」と言われる時はほんとうに嬉しいです。ところが、人を助けることはやさしくありません。助ける側は善良な心を持って助けますが、相手は誤解して受け入れる場合もあります。自分の子どもでさえ、助ける親の心を誤解してしまう場合があるでしょう。誠意を尽くしてアドバイスをしたつもりなのに「あなたのせいでもっと悪くなったよ。」と言われる場合もあるでしょう。では正しく助けることがどうすることでしょうか。それは助けようとする人の状態を知って共感し、同情することです。足なえの人に必要なのは金銀でした。表面的に見ると、誰が見てもそのように見えたことでしょう。ペテロは彼をじっと見つめているうちに、彼の状態を把握しました。もし、自分に金銀があって100円でも、1000円でもあげたら、一時的には助かるでしょう。でも、明日も、明後日も、しあさっても物乞いをしなければなりません。それを思うと、ペテロははらわたが痛むほど深く同情しました。彼はイエス様が38年間も病気だった人を見て深く同情して「よくなりたいか。」と言われたことを思いだしたかも知れません。そして、イエス様はなら、この人をもっと深く同情し、助けてくださると信じたでしょう。そこで、彼はイエス様によって与えられた信仰によってイエス・キリストの御名を信じるように助けたのです。これこそ、人を正しく根本的に助ける方法です。人の痛み、悩みに共感し、深く同情してイエス様を信じるように助けることです。イエス・キリストの御名によって生きるように助けるのです。それこそが永遠に残る助けです。天国に行けば、イエス・キリストの御名によって生きるように助けた人々が一番輝いていることでしょう。そして、この助け方はクリスチャンなら誰でもできます。クリスチャンなら、イエス・キリストの御名によって救われているし、イエス・来リスの御名によってささげる祈りの体験をしているからです。もちろん、私たちが経済的に精神的に助けることも素晴らしいことです。ただ、それはイエス・キリストの御名に生きる人生につながらないなら一時的なものにすぎないでしょう。ペテロには金銀はありませんでした。しかし、彼にあるものがありました。それはイエス・キリストの名です。彼はナザレのイエス・キリストの御名によって彼に信仰を植え付け、信仰によって歩くように助けました。どうか、私たちも私たちにあるもの、イエス・キリストの御名によって人々を助けて行くことができるように祈ります。
二つ目はイエス・キリストの御名の力について学ぶことができます。第一に、イエス・キリストの御名には人を癒す力があります。ペテロが「私たちを見なさい」と言うと、男は何かもらえると思って、二人に目を注ぎました。ところが、ペテロは彼に一円もあげませんでした。実際には彼には金銀だけではなくお金もなかったかも知れません。しかし、ペテロにはイエス・キリストの御名を信じる信仰がありました。そこで彼は「私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせました。するとどうでしょう。するとたちまち、彼の足もくるぶしも強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩き出したのです。40年間一度も立ったことがない人が立つことだけでも奇跡なのに、膝を伸ばして飛び上がったのです。これは紛れもない奇跡的な癒しです。ペテロは16節で「完全なからだにした」と言っています。イエス・キリストの御名には肉体の癒し、それも完全な癒しがあるのです。私はこのイエス・キリストの御名による癒しの力を信じています。ヤコブ5章14,15節には、「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます」とあります。ほんとうにその通りです。私自身が体験して来ました。これからはオリーブ油も備えていて病気の人に塗って祈ることもしたいと思っています。でも、大事なのは信仰による祈りです。私たちがイエス・キリストの御名によって、信じて祈ると、神様が働いてくださいます。
第二に、イエス・キリストの御名には人を救う力があります。8,9節を見ると癒された男は神様を賛美しつつ、二人と一緒に宮に入って行きました。人々はみな、彼が歩きながら、神様を賛美しているのを見ました。彼のたましいが救われていたのです。おそらく、40歳になっていた男の人は美し門の前にすわっていて多くの人々から助けられていたと思います。慰めの言葉も聞いていたでしょう。しかし、そうした彼らの施しと慰めが彼を救うことはできませんでした。ただ、イエス・キリストの御名が、この男の人を救うことができたのです。ペテロは人を救う力の源がイエス・キリストの名にあることの確認ができたでしょう。
ほんとうに、イエス・キリストこそ、神様が私たち人類に与えてくださった最も素晴らしい賜物です。なぜなら、このイエス・キリストによって私たちは救われて永遠のいのちを持つことができるからです。今あるすべてを失っても、イエス・キリストの御名を信じているなら、私たちはほんとうの満足を得ることができます。険しい世の中で私たちは傷つけられ、病気にかかって悩み、苦しむ時もあります。その状態から救えるのは、金銀でも、お金でも、政治でもありません。この世のいかなる組織や団体でもありません。ただ、イエス・キリストの御名によって救われます。私たち自身がイエス・キリストの御名によって救われていますし、イエス・キリストの御名によって祈りながら救いを体験し続けています。そして、私たちに与えられている使命とは、このイエス・キリストの御名によって人々を救いに導いて行くことです。ペテロとヨハネのように、人々にイエス・キリストを伝え、イエス・キリストの御名によって救われるように助けることです。そうしてイエス・キリストの御名によって生まれつき足なえが癒され、救われる素晴らしいみわざを体験して行くことです。ペテロの信仰によってペテロだけではなく、そこにいる人々も素晴らしい奇跡を体験することができました。足のきかない男が歩きがなら、神様を賛美しているのを見た人々はみな非常に驚いて、ソロモンの廊という回廊に、やって来ました。ペテロはその時に何をしましたか。彼はこの機会を利用して自分の栄光を現わすこともできました。しかし彼は、集まって来た民達の関心を誰に向かせましたか。
12-15節をご覧ください。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの先祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。」ペテロは集まって来た民達の関心をイエス様に向かせました。
16節をご一緒に読んでみましょう。「そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」信仰が単なる知識にとどまってしまい、実際の生活の上で力になっていないことが多くあります。イエス・キリストの名によって、歩くとき、今まで味わうことも見ることもできなかった神様の福音によって、躍り上がって喜び賛美する生活へと変えられて行くのです。イエス様の名を信じる信仰がなければ、イエス様の名も私達の内に力を発揮しません。私達が人に頼り、金銭に頼っている間は、イエス様が来られたことによってもたらされた福音にあずかることはできません。私達が、ナザレのイエス・キリストの名によって歩むというイエス・キリストの御業にふさわしく生きて行く時、祝福にあずかる生活に生きる者となります。私たちがナザレのイエス・キリストの御名を信じる信仰によって自立的に歩く人生、力ある主のしもべとしての人生を送ることができるように祈ります。
19節をご覧ください。「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」ペテロのメッセージを聞いて男だけ五千人が悔い改めてイエス様を信じました(4:4)。彼がナザレのイエス・キリストの御名の力に頼って大胆に悔い改めのメッセージを伝えた時、多くの人々を悔い改めさせ、神様に立ち返らせることが出来ました。しかし、イエス・キリストの御名を信じず、悔い改めなければどうなりますか。
22、23節をご覧ください。「モーセはこう言いました。『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。』」とあります。これは申命記18章15節からの引用です。モーセのような預言者というのは、モーセのように神様と親しい特別な関係にある預言者ということです。この預言者がイエス・キリストです。申命記で預言しゃれていたメシヤ的預言は、イエス・キリストのよって成就したのです。ですから、イエス・キリストに聞き従わない者はだれでも、民の中から滅び絶やされるのです。では、イエス・キリストを受け入れ、信じる人々の生活はどうなりますか。
結論として25、26節をご覧ください。「あなたがたは預言者たちの子孫です。また、神がアブラハムに、『あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける。』と言って、あなたがたの先祖と結ばれたあの契約の子孫です。神は、まずそのしもべを立てて、あなたがたにお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです。」とあります。ペテロは自分の民たちに「あなたがたはほんとうに祝福された民です。あなたがたは預言者たちの子孫です。アブラハムの子孫です。モーセとダビデとアブラハムにすべての約束がまさにあなたがたのものなのです」と言っています。
神様はアブラハムに「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」と約束してくださいました。この祝福がイエス・キリストによって私たちにも与えられるのです。アブラハムに「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」」と約束されたことがそのまま私にも適用されます。誰かが私を祝福するなら、彼も祝福されます。しかし、だれかが私を呪うなら彼は呪われます。私が祝福の源になるのです。実際に、創世記を見るとアブラハムはあらゆる面で祝福されました。彼の子どもイサクも祝福されました。彼が井戸を掘ると、掘る度に水が多く出ました。日本ではどこを掘っても水が出る、お湯が出ると言われますが、パレスチナ地域はそうではなかったのです。だから、その地域の人々はイサクが掘った井戸を奪いました。ところがイサクが掘ると水が出たのです。イサクは行く所々で祝福されました。
私たちもイエス・キリストによって与えられる信仰によって生きるなら、そう言う祝福を受けるのです。しかし、イエス・キリストを拒んだユダヤ人のように、イエス・キリストを信じない、悔い改めない生活を続けるなら民の中から滅ぼされるのです。どうか、私たちが心を新たにし、イエス・キリストの御名を信じる信仰をますます確実にして行きますように祈ります。

14Matthew10M 正しい者たちは、太陽のように輝きます

2014年マタイの福音書第10講 

正しい者たちは、太陽のように輝きます

御言葉:マタイの福音書13:24-52
要 節:マタイの福音書13:43「そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」

先週、私たちは13章に記されている七つのたとえ話の中で種まきのたとえを学びました。良い地に蒔かれた種は実を結び、百倍、六十倍、三十倍の実を結びました。今日も、イエス様のたとえ話を学びます。良い麦と毒麦、からし種とパン種、畑の宝と真珠、地引き綱のたとえについて学びます。ここで、私たちは神の国の性格、私たちに対する神様の御心を学ぶことができます。イエス・キリストを信じて救われている私たちは神様にとって素晴らしい値打ちのある真珠のように尊い存在です。ですから、私たちがからしのように成長し、パン種のように膨張して行くようになります。そして、太陽のように輝く人生を生きるようになります。神様の御言葉が私たちのうちに働いてくださるからです。神様の御言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます(ヘブル)。どうか、本文の御言葉を深く悟り、受け入れることによって日々御言葉の力を体験し、成長して輝く人生を生きるように祈ります。

24-30節を見ると、自分の畑に良い種を蒔きましたが人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行ったことが記されてあります。皆さんにとって人の畑にわざと毒麦を蒔くというのは納得できないかも知れません。一般的にはそうしないでしょう。しかし、彼の敵が夜の間にこっそりやって来て、毒麦を蒔いて行くことはあり得ることです。インドにおいて最も恐い言葉は、「お前の田んぼに、お前の畑に、悪い種を夜の間に蒔いてやる。」だそうです。農家において毒麦を蒔くことは敵が最大の憎しみと恨みを晴らすやり方なのです。適である相手が一生懸命種を蒔いて育てようとしている畑に悪い種を持って来て、夜の間に憎しみを込めて、パーッパーッと蒔いてしまうのです。すると、一週間たち、一か月たち、そのうち芽を出して来るわけです。やがて実ったとき、毒麦も現われるので分かります。それで主人のしもべたちはそれを抜き集めようとします。しかし、主人は『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」と言いました。
一般的に農夫は毒麦が見えるとすぐに抜いてしまうと思います。私は子どもの時にお米の生産地で育ちましたが、稲とひえのことを話してみたいと思います。小学校の高学年、中学生の時の夏休みには田んぼに稲と一緒に出て来るひえを抜く仕事をしたことがあります。私は田んぼに出てひえを抜くのがつらくてよくサボったのですが、ひえと言うのは稲とそっくりで区別が難しいものでした。それでひえだけではなく、稲も抜いてしまいました。ところが熟練したプロが見ると、稲とひえとははっきり区別がつきます。だから、農家では少しでも早く、稲の中からそのひえを抜いてしまいます。
ですから、イエス様が弟子たちに良い麦と毒麦に対して「収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。」と言われた時はびっくりしたのです。「え、なんでイエス様はそんなことを言うのだろう。」と思ったことでしょう。そこで、イエス様はたとえの意味を教えてくださいました。
37−43節にあります。「良い種をまく者」は人の子です。畑はこの世界、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたち、毒麦を蒔いた敵は悪魔、収穫とは、この世の終わりのことです。イエス・キリストは良い種である御国の子どもたちを保護し、守るために、毒麦である悪い者の子どもたちを終わりの日の審判まで待っておられることを教えてくださいました。ここに、イエス・キリストの御心がよく表われています。イエス様は寛容な心で、ギリギリまで裁きを遅らせくださいます。悔い改めを待つキリストのお心です。最後の最後待ってくださる愛です。これこそ、私たちに対する神様のお心であり、言い尽くせない愛でしょう。
だからと言って、私たちがいつまでも神様に甘えていていいということはでありません。自分の中に芽生えてくる毒麦は、一日も早く抜き取る必要があります。速やかな、裁きが必要なのは、自分の中に芽生えてくる毒麦です。私たちがちょっと油断している間に、あるいは、この世の人に合わせている間に、悪い種が蒔かれている可能性があります。また、「信仰的に、また、霊的に、少し眠っていたかな」と思うような時に、巧みに悪魔が私たちの内側に様々な「悪い種」を蒔いている可能性があります。それを最後まで、放っておいてはいけません。自分に対しては厳しくしなければなりません。悔い改める生活を通して毒麦を取り除く必要があるのです。やがて終わりの日にさばかれるからです。しかし、他人に対しては寛容でなければなりません。私たちは、他人をさばくということにおいては「神の裁き」にそれをゆだねる必要があります。イエス様のたとえで、主人のしもべたちはそれを抜き集めようとしました。しかし、主人は『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。』と言われました。他人に対しては極めて寛容な主人の心がよく現われています。
私たちは生活の中で一度悪い人だと思うと、その人を受け入れることがなかなか難しくなるでしょう。速やかにさばかれることを望みます。あの人さえいなければいいのにと思われる人がいるかも知れません。しかし、さばきは神様にゆだねましょう。自分の敵のように思えるほど悪く思われる人であっても切り捨ててしまうのではなく、神様にゆだねるのです。他人に対しては限りなく寛大な心を持って仕えて行くのです。家族、隣人、友人、職場の同僚や上司などの心のうちに芽生えてくる毒麦に対しては慎重でなければならないのです。自分の毒麦には厳しく、人にはやさしくしていくのです。罪深い私を赦すために十字架に架かって死んでくださったイエス・キリストの愛が無駄にならないように自分には厳しくしていきます。また、自分の注がれる神様の限りない愛のゆえに、人々にはやさしくし、毒麦のすべてのさばきは神様にゆだねて生きるのです。そうすると、まずは自分自身が成長します。自分が属している教会も、日々成長して行きます。やがてこの世に大きな影響力を及ぼすようになります。その時、私たちは私たちの父なる神様の御国で太陽のように輝く者になります。
43節をご一緒に読んでみましょう。「その時、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」「彼ら父の御国」とは、明確に天国での話です。そこにあって彼らは太陽のように輝きます。栄光の体をいただいた信者はますます神様の栄光を現わし続けて行くわけです。そういった祝福に与るのだという話がここにされています。そして「耳のある者は聞きなさい。」とは大切なメッセージだから聞きなさいと言うことです。ではどうやって私たちは世の中に毒麦が芽生えて成長しているにも関わらず、霊的に成長し、影響力を及ぼすことができるでしょうか。そして、終わりの日に、私たちの父なる神の御国で太陽のように輝く者になれるでしょうか。
第一に、天の御国は、からし種のようなものだからです。からし種を取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。このからし種は一グラムを量って調べてみると、百粒ぐらい入っているそうです。指で一粒をつかめないほどに小さいものなのです。そんな小さな種が畑に蒔かれると、やがて三メートル、四メートル、この天井の高さよりも大きく生長して、空の鳥がやって来て巣を作って、卵を生んでヒナを育てるほどになるということなのです。それほどに生長して行くのです。
第二に、天の御国は、パン種のようなものだからです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」」とあります。三サトンは、約36リットルです。1.5リットルのファミリーサイズのペットボトルにして24本の分量です。一般の家庭で日常のパンを焼く分量の20倍ほどです。しかも、パン種は粉を変質させ、しなやかで芳しい香りのパンを作り上げます。このように、天の御国は膨張し、拡張されていきます。キリストの芳しい香りを放ち、良い影響を及ぼしていきます。しかも、キリストにある命のゆえに人々は新しい創造を実現していくのです。
イエス様はこのたとえ話を12弟子を中心にする小さなグループに向けて語られました。それにはどんな意味があるでしょうか。私が神学校で勉強している時に教えて下さって岸義弘先生の解説を紹介します。「この世には毒麦も芽生えて来ます。しかし、これが毒麦だと、あなたがたの間で厳しいさばき合いをして分裂を起こしてはなりません。毒麦に手をつけてはいけません。放って置きなさい。そんなことで私の神の国は滅んでしまうようなものではないのだ。教会と言うものは、どんな毒麦があろうが、反対迫害の勢力が来ようが、からし種一粒のようなものです。キリストのいのちがあるから必ず生長し、その枝を張って、大きい木のようになり、世界の国々がその陰に巣を作って、その祝福にあずかる時が来るのだ。」と言うことです。さらに、反対があっても、迫害があっても、ふくらんで来て最後は実においしいパンが焼き上がって来ます。世界中のキリストの香りを放つようになります。だから、今は小さなグループであっても、私の教会がからし種のように小さく思われても希望を失わないで忍耐を失わないで、終わりの日まで信じて進んで来なさい。」と言うことです。そうです。私はクリスチャンの人生に対して小さく出発しても成長し、膨張し、輝くようになると思っています。この世に毒麦も芽生えているから、混乱もあり、試練もありますが最後は勝利者になります。圧倒的な勝利者、太陽のように輝く勝利者になるのです。
ですから、偶然のように、イエス・キリストに出会った人も、必死に捜し求めてキリストに出会った人も、神の国の価値が分かると、すべてを投資して神の国のために働きます。そこで、イエス様はたとえをとして最高の価値についても教えてくださいます。
44−46節をご覧ください。イエス様は天の御国は、畑に隠された宝のようなものだと言われました。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。彼は何も努力しなかったのに、自分の畑に隠された宝を見つけた時、その価値が分かったので自分の持ち物を全部売り払ってその畑を買うのです。また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。この人の場合は賢い人で最も価値あるものを捜し求めていました。だからこそ、良い真珠を見つけた時の喜びも大きかったでしょう。それほど価値があるからです。偶然に宝を見つけた人でも、必死に努力して真珠を見つかった人でも最高の価値が分かった時は自分のものを犠牲にしました。
弟子たちはイエス・キリストに出会ってから大切な家族も、舟も、網も、商売道具も、税理事務所も放棄してキリストに従いました。彼らは最初からキリストの価値が分かっていたのかは分かりません。もちろん、彼らに聖霊の働きかけがあったでしょう。しかし、確かなことは、彼らが天の御国の民として生活しながら天の御国、キリストに最高価値があることが分かったことです。キリストを信じ、キリストに従うことが出来たのは、本当に大きな恵み、一方的な恵みだったのです。特にこの福音書の記録者マタイもそのような経験をしました。キリストの弟子として御言葉を悟る喜び、癒される力と愛を経験しながらやはりイエス様を信じて良かった、何もかも捨ててイエス様に従って良かったと思ったのです。
ですから、12弟子のひとりであるマタイもすべての人々がイエス様のたとえ話に示された天の御国をよく悟り、信じてほしいと思いました。天の御国は成長し、拡張されていくこと、彼らの父の御国では太陽のように輝くことを信じてほしいと切実に願ったのです。そこで、彼はたとえの引き続き、イエス様が信仰を促されたことを記しています。
UBF教会も1961年、今から52年前はからし種のように小さな群れでした。その小さな群れにもイエス・キリストのいのち、いのちの御言葉があったから成長し膨張して来ました。今は世界の98か国に影響するほどに成長し、影響を及ぼしているのです。
日本UBF教会も26年前四畳半の部屋で出発する時はからし種ほどに小さかったのです。今は長崎から仙台まで、世界宣教においてもPNG、アメリカ、タイまでに広がりました。これから、さらに成長し続け、日本とアジア、世界に広がって行きます。私たちの期待を超えて神様が働いてくださるからです。しかし、毒麦、悪い者、不信仰の者であり続けると、どうなりますか。神様のさばきがあります。
47-50節には地引き網のたとえを通して御使いたちによるさばきのことが記されてあります。このたとえが教えていることも明白です。私の父は農村でも夜は魚をとる漁をしていましたので、このたとえもよく理解できます。地引き網で魚を捕った時に、いろいろな魚が網の中に入っています。そこで漁師は魚を見て、良いものと悪いものに分ける、その光景です。恐らく多くの人々がガリラヤ湖で見ていたのでしょう。その彼らがよく知っていることを用いてイエス様は御使いによるさばきがあるという大切なメッセージを与えられました。「正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。」と書いてあります。ちょうどよい麦と毒麦とが分けられるように、この時人々が悪い者と正しい者の二つに分けられるのです。悪い者とは、主を、またそのとうとい救いを拒み続けた未信者の話です。神様の救いがあるということを聞いていながらその救いを拒んだ者たちです。彼らには永遠のさばき、地獄が望みどおり与えられます。望んでいるように与えられます。正しい者とはクリスチャンたちです。彼らは約束どおりに永遠のいのちが与えられます。彼らの父の御国で永遠に輝くのようになります。

どうか、その日を待ち望みながら私のうちに蒔かれたいのちの御言葉を大切にし、御言葉に従う生活ができるように祈ります。何事も毒麦の活動のせいにしないで、彼らのことをさばくこともなく、良い麦として神様に守られ、愛されて行きますように祈ります。どんなに苦しい現実があっても、希望を失うことなく、自分を救ってくださった神様の愛と恵みに感謝しながら素晴らしい宝、最高価値ある神の国の救いを宣べ伝えて行くことができるように祈ります。

15ACTS04M この方以外には

2015年使徒の働き第4講

この方以外には

御言葉:使徒の働き4:1-31
要 節:使徒の働き4:12 「 この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

私たちは1章〜3章の御言葉を通して聖霊がどのように臨まれ、どのように働かれたかについて学びました。特に、先週は生つき足の不自由な男が癒され、救われた出来事を学びました。そこで、ペテロは説教を通してその男はイエス様が与える信仰によって完全に治ったことを証しました。それから、ユダヤ人はイエス様を拒み、十字架につけて処刑しましたが神様が復活させてくださったことも証しました。しかも、それは偶然に起こったことではなく、神様が昔からの預言を実現してくださったことだと証しました。こうなると、ユダヤ人の宗教指導者たちも納得し、受け入れるべきでした。しかし、彼らはペテロとヨハネを逮捕しました。聖霊のみわざが起こっているところに迫害も襲って来たのです。ではペテロとヨハネはその迫害と試練をどのようにして乗り越えて行ったでしょうか。迫害と脅迫の中でも彼らは何を証していたでしょうか。そして、釈放されたペテロとヨハネの報告を聞いた信者たちは何をしたでしょうか。
今日の御言葉を通してペテロとヨハネの信仰的な勇気と霊的価値観、試練の中でも祈りと賛美にあふれている信徒たちの信仰生活を学びたいと思います。

  1-3節をご覧ください。ペテロとヨハネが話しているところへ、祭司たちや神殿の警備隊長、それに、サドカイ人たちがやって来ました。この人たちは、ペテロとヨハネが午後の祈りの時間、ずっと民を教えていた内容を聞いていたようです。ペテロとヨハネはイエス様のことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えていました。それはサドカイ人にとって本当に困る内容でした。なぜなら彼らは「復活はない」と教えていたからです。ユダヤ教には大別して三つの派がありました。パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派です。パリサイ派は律法主義者として、エッセネ派は神秘主義者として知らされています。そして、このサドカイ派は現実主義者でした。彼らの特徴は復活をはじめ、超自然的なことを信じていなかったことです。ところが、ペテロとヨハネは目撃者たちと共に確かな証拠を持ってイエス様の復活を伝えていました。だから、サドカイ人たちは困り果ててしまいました。サドカイ人たちは皆の前でペテロとヨハネの証に反撃することもできず、それを許すこともできなかったからです。結局、彼らはペテロとヨハネに手をかけて捕えましたが、その時はもう夕方だったので、一晩、留置場に入れて置くことにしました。そうすることによって復活の話はそれ以上広がらないだろうと思ったようです。実際に捕えられたペテロとヨハネは何もできなくなりました。しかし、その時にも聖霊は働いておられました。
4節をご覧ください。「しかし、御言葉を聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。」とあります。五旬節の日に三千人が回心して教会に加えられましたがさらに多くの人々が加え続けられました。男の数が五千人ほどですから男女を合わせると大人だけでも1万人を超えたでしょう。一般的に考えると教会のリーダーたちが捕えられたから、人々がその教会のメンバーになることをためらうはずです。ところがそんな人間の予想とは裏腹に大勢の人々がクリスチャンになりました。聖霊は一般的な考え、常識を超えて働いておられたことが分かります。事実、いくら権威ある集団でも、たとえ最高権力機関であっても聖霊のみわざを留めることはできません。
5-7節をご覧ください。翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まりました。大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席しました。彼らは数か月前にイエス様を処刑するようにピラトに渡した人たちです。つまり、彼らはイエス様を十字架につけて殺した張本人たちなのです。そんな彼らが使徒たちを真中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。」と尋問しだしました。その時のペテロとヨハネの気持ちはどうだったでしょうか。普通に考えれば、彼らは「私たちもイエス様と同じようにさばかれて殺されるのではないか」という不安と恐れにさいなまれたはずです。しかも彼らは最高の権力者たちの前で尋問されています。震えて一言も言えないような状況なのです。しかし、ペテロは「民の指導者たち、ならびに長老の方々。…」と言い始めて大胆にイエス様を証ししました。どうしてそのようにできたでしょうか。それは「聖霊に満たされて」いたからです。
8a節をご覧ください。彼らは聖霊に満たされて大胆になりました。彼らはイエス・キリストを信じて聖霊を受けていましたが、聖霊に満たされることによってますます強くなっていたのです。
私たちもイエス・キリストを信じると、聖霊を受けます。そして聖霊に満たされることによってますます強くなります。聖霊に満たされると、力あるキリストの証人になります。したがって私たちはいつも聖霊に満たされることを望む必要があると思います。聖霊充満を期待し、祈り求めるのです。すると、私たちは聖霊に満たされて大胆にイエス・キリストを証することができるようになります。ペテロのように変えられて行きます。
聖霊に満たされていなかったペテロはとても弱い者でした。以前にイエス様が捕えられた時は遠く離れてついて行ったし、女中の前でもイエス様を知らないと言いました。三度もイエス様を知らないと繰り返していたほどに弱かったのです。しかし、ここでは何も恐れずに大胆に説教をしています。それは、彼らが十字架につけ、神様が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によってできたことでした。事実、詩篇118:22節に預言された通りに、イエス・キリストは、家を建てる者たちに捨てられた石でしたが、礎の石となりました。イエス様はユダヤ教の指導者たちによって捨てられ、十字架につけられて殺されましたが、この石こそなくてはならないものでした。神様はこのイエス様を死者の中からよみがえらせたのです。なくてはならない方だったからです。この石こそ一度は捨てられたもののやがて最も栄光に満ちた礎の石となったからです。すなわち、このイエス様こそなくてはならない方、あの礎の石、聖書の中で何千年も前から預言されていた救い主であったということです。ですから、ペテロは結論として12節を言いました。
12節をご一緒に読んでみましょう。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」皆さんにもこのような確信があるでしょうか。ペテロはイエス・キリスト、この方以外に、だれによっても救いはないと確信していました事実、この方こそ、私たちを罪による永遠の破滅から救い、永遠のいのちを与えることのできる唯一の救い主です。ですから、私たちはこの御名を信じなければ救われません。この方の他に誰によっても救いはありません。
日本は多神教の国です。多神教の国だからこそ、日本人には寛容な心があり、誰にも親切にすることができるという人もいます。だから、唯一の神様を証することに対しては抵抗する場合が多くあります。「この方以外には…」ということは独善的、排他的だと言います。そして、あれも神、これも神と言うことに対しては寛容的であると言います。どの神でも信じるなら救われるような教えを好む傾向があります。これが普通の日本人の宗教観ではないかと思います。富士山に登るのも、山梨県から行っても、静岡県から行ってもまじめに、まじめに上れば山頂にたどり着くのだと思うのです。それで、どの宗教もみな同じ、大切なのは信じることだ、たとえ信じなくても良い行ないをすれば、みんな良い所に行くから大丈夫だと言います。しかし、聖書はそのように教えていません。聖書は言います。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」と言うのです。
私たちは最初の人間アダムの子孫として皆が原罪を持っています。その原罪と自分の罪のゆえに、私たちはみんな滅んでしまう存在になってしまいました。ところが、あわれみ深い神様は、そのあわれみによってご自分のひとり子イエス・キリストをお与えになりました。そして、イエス・キリストは私たちのすべての罪を担って十字架に架かって死なれました。それによって私たちのすべての罪の代価を払われ、赦して下さいました。それから三日目に死者の中からよみがえられました。この復活はその以前にも、以後にもありません。イエス様だけが聖書に従って死者の中からよみがえられたのです。だから、このイエス・キリストだけが唯一の救い主なのです。この方以外に救いはありません。そして、この救いは何か悟る知識ではありません。生まれつきの足なえの人が癒され、救われるような奇跡です。福音書にも使徒の働きにもイエス・キリストの御名による数々の奇跡が記されています。私たちがイエス・キリストを信じて救われるということは神様の力を体験することでもあります。自分の人生において変化と癒しを経験して行く力です。
ペテロとヨハネは三年前までガリラヤ湖で漁をしていました。ユダヤ人たちが言っているとおりに無学な人、普通の人でした。ところがそんな彼らが学者やこの世の権力者を前にして、堂々と「この方以外には、だれによっても救いはありません。」と言いました。当時、ユダヤの最高の権力者、知識人たちを圧倒する説教をするほどになりました。それはペテロに知識と力があったからではありません。彼がイエス・キリストの御名によって救われ、イエス様の御名に頼っていたからです。
ユダヤの最高権力者たちは、ペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚きました。人々はこの無学な二人が話すことを不思議に思い、どうすることもできなくなりました。ただ、自分たちが持っている世の権力で彼らを脅そうとしました。そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じました。しかし、ペテロとヨハネは彼らに何と答えて言いましたか。
19、20節をご覧ください。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」彼らは人を恐れず、神様を恐れました。「人を恐れず、神様を恐れる。」これこそ、私たちクリスチャンが持つべき霊的価値観です。イエス様は「からだを殺しても、たましいを殺せない人達などを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい(マタイ10:28)。」と言われました。ペテロとヨハネはこのイエス様の御言葉を心から受け入れ、堅く守っていたことが分かります。彼らは主の御言葉に従ってはっきりとした霊的価値観を持っていたのです。だからが、彼らは最高権力者たちの前でも大胆にキリストの御名を証することができました。結局、宗教指導者たちは、聖霊に満たされた使徒たちの勇気と迫力に圧倒されてどうすることもできず、釈放しました。では、使徒たちはこのような勇気と力をどこから得られたでしょうか。それは聖霊によるものです。
使徒たちは聖霊によって働かれるイエス様とともにいました。だからこそ彼らはイエス様と同じように勇気を持って大胆に語ることができたのです。それは彼ら自身の力によったのではありません。イエス様と深い関係にあった使徒たちが、聖霊の力によって語ったのです。
私たちも同じです。私たちは弱いです。自分の力だけでは何もできないかも知れません。でもイエス様は強いのです。イエス様とともにいるならば、聖霊によってイエス様が私たちに勇気と力を与えてくださいます。聖霊は私たちが大胆にみことばを語ることができるようにしてくださいます。特に、私たちが弱い時こそ聖霊が力強く働いてくださいます。そして聖霊の力によって人々は悔い改め、回心することができます。
 イギリスにチャールズ・スポルジョン(1834-1892)という有名な説教者がいました。彼の語る説教には迫力がありました。彼が活動している時代から150年も超えている今でも彼のメッセージは読まれているほどです。私のような人でも彼が後輩たちへ残した三冊の本を持っているほどです。しかし、ある主日の礼拝の時に、彼は失望感に襲われました。説教の途中で口ごもっただけでなく、なぜかうろたえてしまったのです。彼は説教に失敗したという挫折感にさいなまれました。そこで帰宅の途中でひざまずき、祈りました。「主よ。ないものをあるもののようにされる主よ、私の力のない説教を祝福してください。」
 彼は一週間そのように祈り続けました。ある時は夜中に起きて祈った時もありました。そして、次の聖日にはすばらしい説教をして、失った自信を回復するという決心をしました。その祈りのとおり、次の日曜日にはすばらしい説教をすることができました。礼拝が終わると人々が押し寄せて来て熱烈に賞賛してくれました。満足して家に帰ったとき、彼はあることに気づかされました。彼が振り替えてみると、「あれっ、失敗したと思った先週の説教の時には41人の人が回心しました。それなのに、あんなに賞賛されたきょうの説教では回心者がひとりもいなかったのです。これはいったい、どういうことなのかと思われました。そこで、彼は「私たちの弱さを助けてくださる聖霊の力がなくては何もすることができない」ということが分かったのです。
 そうです、私たちは、私たちを助けてくださる聖霊の力によってのみ人を変えることができます。どんなに無力で、普通の人でも、イエス様とともに歩む生活の中で聖霊に満たされると大胆にみことばを語ることができるようになるのです。
もし、自分が無学で、普通の人であることに失望している方はいないでしょうか。神様はそのような人を用いられるのです。自分が無学で、普通の人であることに感謝しましょう。なぜなら、弱い者、足りない者であるという自覚があるかにこそ、そういう人はもっと主により頼もうとするからです。そして主の力によって大胆にみことばを語ることができるようになるからです。ではどうやって聖霊に満たされることができるでしょうか。それは一方的な神様の働きです。でも聖書を読んで見ると祈る時に神様が私たちのうちに働いてくださることが分かります。
留置所から釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告しました。これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神様に向かい、声を上げて祈りました。彼らは祈りの力を体験していたからこそ、声をあげて祈ったと思います。彼らは何を祈りましたか。彼らは「主よ。彼らの脅迫から私たちを守ってください。無事に信仰生活が送れるようにしてください。」と祈りましたか。いいえ。そうではありません。弟子たちは「あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。」と祈りました。
29、30節をご覧ください。「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされました。聖霊の力によって神様のことばを大胆に語り出しました。神様のみこころと一致した祈りを主は聞いてくださいます。御心に反した祈りが聞かれるわけはありません。私たちの祈りが神様の御心に一致するとき、神様は天地を造られたあの力で応答してくださいます。その時、私たちはどんな権力、どんな脅迫に対してもびくともしない証し人とされるのです。

以上から、ペテロがイエス・キリストの御名によって、足のきかない男を歩かせた出来事を通してイエス・キリストを証ししたことを学びました。イエス・キリスト、この方以外には、だれによっても救いはありません。イエス・キリストの御名は世のすべての人々を罪と死の力から救います。私たちがイエス・キリストの御名を信じる信仰によって自立的に歩く人生となるように祈ります。特に祈り、声をあげて祈ることによって聖霊に満たされますように祈ります。聖霊に満たされてイエス・キリストの御名によって生まれつき足のきかない男のような人々を救いに導くことができるように祈ります。そういう生活を通してイエス・キリストの御名による救いのみわざを体験してますます大胆にイエス・キリストの御名を証しすることができるように祈ります。このイエス・キリストの御名が私達を通してあがめられますように祈ります。

14Matthew11M 生ける神の御子キリスト

2014年マタイの福音書11講

生ける神の御子キリスト

御言葉:マタイの福音書16:13―28
要 節:マタイの福音書16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

先週、弟子修養会を通して私たちのうちに御言葉が早く広がり、またあがめられるように導いてくださった神様に心から感謝します。私たちの教会に曽根祥子牧者、田中彩希子牧者が立てられ、新しい出発ができたことも感謝します。
今日は、ペテロの信仰告白を通してイエス様はどんな方なのか、イエス様について行きたいと思う者が持つべき姿勢は何かについて学びたいと思います。この学びを通して私たちもイエス様がどんな方を知って信仰告白ができるように祈ります。またイエス様について行く弟子としての姿勢を新たにすることができるように祈ります。

?.ペテロの信仰告白(13−20)
13節をご覧ください。「さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」」とあります。ピリポ・カイザリヤにはローマ皇帝カイザルの銅像が置かれていたそうです。人々はその銅像の前を通る時に「カイザルこそ生ける神の子キリストだ」と告白していました。そのようなところで、イエス様は、弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」と尋ねられました。すると、彼らは「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」と答えました。ユダヤ人にとってバプテスマのヨハネも、エリヤも、エレミヤもとっても偉い人たちです。彼らはイエス様を実に偉大な方として思っていたようです。日本社会の中にも広く見られる考え方です。人々は偉大な宗教者のひとりがイエス・キリストだと思っています。日本で急激に広がっている「幸福の科学」という新興宗教も全く同じ考え方をしています。神によって遣わされた人の一人がイエス・キリストで、他にもギリシャ神話の神々や釈迦や日本の偉大な僧侶なども同列だと考えています。しかし、弟子たちはどう思っていたでしょうか。イエス様は弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と尋ねられました。弟子たち自身の主体的・個人的な見解を問われたのです。では、イエス様の質問に対するペテロの答えはどうでしたか。
16節もご一緒に読んでみましょう。「シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」ペテロの答えは百点満点です。ペテロは「ローマ皇帝カイザルが生ける神の子ではありません。イエス様!あなたこそ、生ける神の御子キリストです」という告白をしたのです。キリストとは、「油そそがれた者」という意味です。ユダヤでは油注がれた者が王であり、預言者であり、祭司なのです。だから、ペテロは当時のローマ皇帝がキリストではなく、イエス様が皇帝の上に立つ王の王、主の主であるキリストであると告白しました。さらに、霊的にもイエス様こそ真の預言者、大祭司であると告白したのです。ローマ皇帝の銅像がある地域でそれは非常に危険な告白でもありました。ローマ当局に知らされると処刑されるようなことでした。ところが、ペテロは大胆にも真実な信仰告白をしたのです。イエス様は大変喜ばれました。
17節をご覧ください。「するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」とあります。「バルヨナ」というのは「ヨナの子」と言う意味です。それは罪深い人間の子どもに過ぎないヨナの子であることを教えてくれます。そんな彼が百点満点の答えをしたことは神様の働きによるものです。神様はすでに人類の救いのために働いておられました。私たちを罪と永遠の滅亡から救うために「生ける神の御子イエス・キリスト」をこの地に遣わしてくださいました。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質を持って現われ、ご自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました(ピリピ2:6-9)。ですから、イエス様こそ、生ける神の御子キリストです。ところが、父なる神様はペテロの心に働きかけてイエス様が生ける神の御子・キリストであることを示してくださいました。イエス様がだれであるか、生ける神の御子キリストであるという真理、最も大切な事実をお示しになったのです。だからこそ、恵みであり、幸いなことなのです。自分の知恵や努力によるのではなく、神様が明らかに示してくださったからです。
では、皆さんはイエス様をどんな方だと思っていますか。恐縮ですが、私がイエス様の代わりに質問しますので答えてください。「あなたがたはわたしをだれだと言いますか。」…「あなたは生ける神の御子キリストです。」。ありがとうございます。これは人間の研究や経験や思索などを通してできるものではありません。聖書勉強や祈りの生活を通して神様が親しく示してくださったからできたことです。そう言う意味で私たちもほんとうに幸いな者です。
イエス様はペテロのキリスト告白を非常に喜ばれ、「ペテロ」という岩の上に教会を建てるということまで約束してくださいました。その通りに、ペテロの信仰告白の上に教会を建てられるようになりました。パウロはローマ人への手紙の中で「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死人の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです」と述べています。私たちは「イエスは主である」「イエスはキリストです」という信仰告白によって救われた人たちの集まりが教会です。そしてイエス様は、「わ(・)た(・)し(・)は、この岩の上にわ(・)た(・)し(・)の教会を建てます。」と言われました。教会は私たちが建てるのではなく、キリストが建ててくださるということです。イエス・キリストが集めた集会が教会であり、キリストによって運営されるのです。そしてイエス様は、「ハデスの門もそれには打ち勝てません。」と言われました。それは教会に地獄のような暗闇の勢力に打ち勝つ大きな力を授けられているということです。実際にキリストの十字架の死と復活によって、暗闇の力に決定的なダメージが与えられました。コロサイ人への手紙第2章には、「神は、十字架において、すべての支配の権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。(15節)」とあります。したがって、キリストの教会は霊の戦いにおいて圧倒的な勝利者になります。天においても、地においてもいっさいの権威を持っておられるキリストが教会を用いて働かれるからです。教会はキリストの権威を持っているだけでなく、その権威を行使することができます。ではどのようにして私たちはその権威を用いることができるでしょうか。
19節をご覧ください。「わたしはあなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」とあります。イエス様は信仰告白をしたペテロに天の御国のカギをあげると約束してくださいました。そして、「何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」と約束してくださいました。つまり、天をつなぎ、天を開くような、とてつもない天の御国のカギがペテロに与えられたのです。自動車のカギでも家のカギでも大切です。李ヨシュア宣教師はリベカ宣教師がいらっしゃらない時にカギを会社に置いて来て困ったことを話してくださいました。ヨシュア宣教師の家の門を開くとどれだけの宝物があるかは知りませんがカギがなければ入ることができません。ところがペテロに与えられるカギは天の御国の門を開くカギです。そして、そのカギはイエス・キリストを信じて信仰告白したクリスチャンの祈りです。ペテロの祈りも、私たちクリスチャンの祈りも天の御国に繋がっているのです。それで、私たちが祈ると、すべての権威を持っておられる主がその祈りに答えてくださいます。ですから、私たちは祈りによって暗闇の勢力に打ち勝つことができます。祈りによって天の窓が開かれてあふれるばかりの祝福が注がれる恵みをいただくことができます。
私たちが祈ると、権威あるサタンも、イエス様に従うしかありません。私は弟子修養会の前にテサロニケの手紙を学びながらサタンの働きに気づかされたので一週間の特別祈りを提案しました。それで、私たちは毎晩弟子修養会のために毎日祈り会を開いて祈りました。神様は私たちの祈りに答えてサタンの妨害を退け、本当に素晴らしい弟子修養会を行なわせてくださいました。ですから、ペテロに天の御国のカギが与えられることはものすごく、大きな恵みです。ローマ帝国の皇帝よりも力ある働きができます。今まで、数々の奇跡を体験して来た弟子たちはイエス様がキリストであることを確認し、天の御国のカギももらえるということで思い上がったかも知れません。多くの人々に威張って伝えたかったでしょう。しかし、そのとき、イエス様は、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められました。このようにされた理由はイエス様が弟子たちを保護するためであり、弟子たちに十字架と復活による救いのみわざを教えるためでした。つまり、イエス様がキリストであることは間違いありませんが、十字架と復活による霊的な救い主、キリストであったからです。人々は誤った期待で、イエス様を王にしようとしましたが、イエス様はそのような目的で来られたのではなかったのです。そこで、イエス様は弟子たちに十字架の道を教えてくださいます。

?.イエス様について行きたいと思う者が持つべき姿勢(21−28)
 21節をご覧ください。「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」とあります。イエス様はご自分がキリストであることを確認された上で、十字架と復活のみわざを彼らに話されました。するとペテロは、「先生、とんでもございません。先生ともあろうお方にそんなことが起こってたまるものですか!」(リビングバイブル)と言ってイエス様をつかんで、いさめ始めました。彼は生ける神の御子キリストが殺されるはずがないと思ったことでしょう。もしそうなら自分の信仰告白の土台が崩れてしまいます。だから、彼は主への忠誠心からそんなはずが、そうしてはいけないと思い、イエス様の十字架の道を認めようとしなかったのです。ところが、主に対する忠誠心から出たはずのペテロ対してイエス様は何と言われましたか。
23節をご覧ください。「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」とあります。ペテロは今さっき、天の父からの啓示を受けたのに、今はサタンの声を聞いてしまいました。私たちにもこのことが起こり得ます。修養会を通して、恵みを受けると、キリストのためなら何でもすると決心します。ところが、世の中で生活しているうちに、サタンの声も聞いてしまうのです。ですから誰かが素晴らしいことを主から示されたからといって、その人がいつも神様からの声を聞いているとは限りません。私たちは楽な道、快楽の道に誘う声に気をつけなければなりません。
キリストの道は十字架の十字架です。この十字架の道は、イエス様に従う者が歩むべき道です。それは、自分を捨てる道であり、自分の十字架を負って行く道です。
24節をご一緒に読んでみましょう。「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
皆さん、イエス様について行きたいと思いますか。そう思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてイエス様について行ってください。ところが、それはやさしくないでしょう。それは自分を捨てる道ですから、世の価値観から見れば損をすることも多いでしょう。ここに書かれてあるとおり、文字通り自分のいのちを捨てて殉教する人もいます。しかし、殉教したからすべてが終わるのではありません。
26節をご覧ください。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」とあります。もし、死なないで、すなわち殉教しないで全世界を手に入れても、まことのいのちである永遠のいのちを損じたら、何の得がありましょうといことです。キリストについて行かなければ、たとえ全世界を手に入れるような人が現れても、死んだら地獄に行ってしまいます。しかし、イエス様について行くならどうなりますか。
27、28節をご覧ください。イエス様は父なる神様の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしておられます。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。その時に、私たちは私たちが自分を捨て、自分の十字架を負ってイエス様について行くために経験した苦しみには比べられないほどの栄光を受けるようになります。輝かしい栄光の冠が私たちを待っているのです。
ですから、私たちは今日も、明日も自分を捨て、自分の十字架を負ってイエス様について行きます。もちろん、殉教しなくても、自分を捨てること、自分の十字架を負うことは決してやさしくありません。それは大変難しいことです。私たちには自我がありますし、もっと休みたい、もっと寝たい、もっと楽に生きたいという本性があります。私にもあります。私は毎朝もっと寝たい、もう少し寝たいという自分を捨てることが難しくてなかなか思った通りに起きられません。ほんとうに、毎日の夜明けに教会に来て祈ることは優しくありません。私には仕事以外に毎週のメッセージを伝える自分の十字架があります。月曜日から土曜日まで職場生活をしながら毎週メッセージを準備するこの十字架も決して軽くありません。しかし、自分を捨て、自分の十字架を負わなかったら今の自分はなかったはずです。本当に、今の自分の自分に感謝し、喜んでいることができるのは少しでも自分を捨て、自分の十字架を負う生活ができたからです。何よりも私にイエス様が生ける神の御子キリストであることをお示しになり、信仰告白できるように働いてくださった神様がいつもともにいて助けてくださったからです。だから、自分を捨て、自分の十字架を負う時は自分を損するかのように思ったけれども、そうではありませんでした。実はいのちを得、豊かに得ることができました。何よりも、自分の十字架による今のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと考えたパウロのように、自分にも報いがあることを信じます。

 結論的に、イエス様はキリストであると告白をした私たちが目指すべき内容であると思われる聖フランシスコの詩の一部を紹介します。
「慰められるよりも慰めることを
理解されるよりも理解することを
愛されるよりも愛することを
望ませてください。私たちは
与えることによって与えられ
すすんで許すことによって許され
人のために死ぬことによって
永遠に生きることができるからです。」
このようにして「小さな死を経験し、自分の十字架を負う」生活ができるように祈ります。それこそ復活の栄光に至る道です。必ず栄光ある神様の報いがあります。この世でも自分を捨て、自分の十字架を負っていく人には神様の報いによる勝利と祝福を体験することができます。どうか、聖霊の働きによって私たちも信仰告白をし、キリストの道、十字架の道に歩むことができるように祈ります。

15ACTS06M 祈りとみことばの奉仕に励んだ使徒たち

2015年 主日礼拝メッセージ 使徒の働き6講                                張パウロ

祈りとみことばの奉仕に励んだ使徒たち

御言葉:使徒の働き5:17―6:7
要 節:使徒の働き6:3,4「そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」

 私たちは、前回の御言葉を通して、聖霊の働きを妨害し、神様に従わなかったときにどのような裁きがあったのかを学びました。神様は、うそをつきながら自分たちの欲望を満たそうとしたアナニヤとサッピラ夫婦を厳しく罰せられ、初代教会の信者たちに警鐘を鳴らされました。しかし、神様はその後、使徒たちの手によってもっと多くのしるしと不思議なわざを行われました。そして、多くの病人が癒される御業をなしてくださいました。
こうした中、使徒たちはふたたび迫害を受けることになります。使徒たちの働きに妬みが燃え上がった祭司長やサドカイ派の人々は、使徒たちを捕らえ、留置場に入れました。しかし、宗教指導者たちの迫害が聖霊の御業をとめることはできませんでした。神様は、使徒たちにいのりといのちのみことを教えるという方向をあたえてくださいました。今日の御ことばを通していのちの御言葉をことごとく語るようにしてくださった主の御旨を知ることができるように祈ります。

?.いのちのことばを、ことごとく語りなさい(5:17〜42)

17、18節をご覧ください。大祭司が属しているサドカイ派の者みなは、妬みに立ち上がり、使徒たちを留置場に入れました。彼らは使徒のたちの述べ伝える言葉をきいて自分のことを顧みるべきでした。しかし、彼らは妬みのとりこになっていました。妬みを抑えないとどのような結果を招きますか?創世記4章に出ているカインは、神様が弟アベルのささげものには目を留められて、自分のささげものには目を留められなかったことで憤りました。彼がこの罪を悔い改めなかったとき、弟を殺しす罪を犯して人類初の殺人者という汚名をおうことになります。
イスラエルの初代王だったサウルの場合は、どうでしたか。彼は、最初は謙遜で主を恐れたひとでした。しかし、ダビデのことで妬みに刈られてから彼の人生は狂ってしまいました。ダビデを殺すために、策略を立て、あらゆる悪巧みを企てました。時には自分のために琴を弾いているダビデに向け、槍を投げつけました。自分の娘ミカルを、ダビデを殺すために、ダビデと結婚させました。国の王が妬みのとりこになったとき、自分も不幸になりイスラエルの民たちも惨めな日々を送るしかありませんでした。
本文のサドカイ派の人たちも使徒たちへの妬みを抑えることができず、留置場に入れて殺すチャンスを伺おうとしました。
私も若いころ、留置場に入れられたことがありました。二晩だけでしたが、1年のように長く感じられました。暗くてもどかしい空間で長くはいたくない場所です。そのとき、友人たちが面会に来てくれたのですが、それが非常にうれしかった記憶が鮮明に残っています。
しかし、留置場に入っていた使徒たちのところに訪ねたのは誰でしたか。それは、友人や家族ではなく、神様のお使いでした。その夜、主の使いが牢の戸を開き、使徒たちを連れ出しました。そして、次のように命じられました。
20節を読んでみます。「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい」。神様は、留置場に入っていた使徒たちに“お疲れ様”、“大変だったでしょう。ゆっくり休んでください”のような優しい御言葉では語られませんでした。今すぐ行って宮の真ん中に立ち、いのちの御言葉をことごとく語るようにされたのです。

 なぜ、神様は留置場から出たばかりの彼らにこのような御言葉を与えたのでしょうか。
それは、いのちの御言葉を述べ伝える伝道が何よりも重要だからです。もし、皆さんの子供や家族が火事で燃えている家に取り残されていたらどうしますか。躊躇せず、救いに燃えている家に入ると思います。わたしたちは、毎日のように救急車のサイレンをよく耳にします。救急車が一般交通法を違反しても問題ないのは大事な命を救うことを優先させるためです。私の長男のパウロ君は、生後6ヶ月の幼いころ、急性脳髄膜炎にかかって痙攣していました。私は救急車を待ちきれなくて、彼を抱いて救急車の方に走って行った覚えがあります。人のいのちはこのように世の何ものより大切です。
神様は、牢屋の戸を破り、彼を連れ出してでも使徒たちを通していのちの御言葉をのべ伝えようとされました。使徒たちの語る御言葉を心から待ち望んでいる、かわいそうな民衆たちをひとりでも早く救おうとされました。
神様が命じられる御言葉をきいた使徒たちは、どのように行動しましたか。彼らは、牢で夜を明かしたはずなのに、夜明けごろ宮に行って教え始めました。使徒たちは神様の指示に黙々従いました。いのちを脅かすサドカイ派のことは恐れませんでした。すべてを主にゆだねて大胆に御言葉をのべ伝えました。

この知らせを受けた守衛長や祭司長たちは、宮で教えている使徒たちを再び連れて来させました。そして、サンヘドリン公会のまえでイエスの名によって教えてはならないと言ったのに、なぜ教えつづけているのかと憤慨して問いただしたのです。

これに対して、ペテロはどのように答えましたか。29節をご覧ください。“人に従うより、神に従うべきです。”ペテロは聖霊による勇気と確信に満ちていました。人の脅かしにまけず神様に従い、果敢に御言葉を伝えました。30節〜32節をご覧ください。“私たちの父祖たちの神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。
ペテロが言っているように、祭司長たちはイエス様を十字架にかけて殺しました。そして、神様はこのイエス様をよみがえらせました。このイエス様こそ、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えてくださる救い主です。使徒たちは、よみがえられたイエス様の証人として、世の権力の前でイエス様について明かしました。
ところで、ペテロの話をきいていた指導者たちは怒り狂い、使徒たちを殺そうとしました。聖霊の働きが活発になればなるほど、サタンの働きも強くなることがあります。使徒たちは絶大絶命のピンチに追い込まれたのでした。
しかし、神様はガマリエルという人を立ててくださって使徒たちを危機から救おうとされました。彼はすべての人に尊敬されている律法学者でした。彼は非常に冷静かつ的確な論理で宗教指導者たちの怒りを沈めるとともに使徒たちのいのちを守りました。39節で彼の話の中で説得力のある重要なポイントがあります。“そこで今、あなたがたに申したいのです。あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」彼らは彼に説得され、”とあります。使徒たちの言動が人から出たものなら、自滅し、神様から出たものならば滅ぼすことができないと説得しました。まさに、そのとおりです。聖霊の御業を人間の力で食い止めようとしてもできないのです。
 宗教指導者たちはガマリエルに説得され、使徒たちをむちで打ってから釈放するしかありませんでした。使徒たちはむちで打たれて傷だらけになってしまいました。ところが苦難と艱難にあった彼らの反応はどうでしたか。
41節をご覧ください。“そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。”使徒たちはイエスの御名のために苦しめられたことを、むしろ喜びました。彼らが受けた苦難とキス跡は、イエス・キリストの痕跡そのものです。そして、使徒たちは毎日、教えることに励み、イエスがキリストであることをのべ伝え続けました。

?.もっぱらいのりとみことばの奉仕に励む使徒たち(6:1〜7)
使徒たちが弾圧の中でもみことばを教つづけると、弟子たちはどんどん増えてきました。しかし、信じる人が多くなると、思わぬところで問題があらわれました。ギリシャ語を使うユダヤ人たちが、へブル語を使うユダヤ人たちに苦情を申しだてました。当時、エルサレム教会は貧乏すぎて食べるのにも困る信者たちに飲食を施す事業もしていました。ところが、ギリシャ語を使うユダヤ人のほうから自分たちのやもめたちの配給がなおざりにされていると不満を言い漏らしたのです。当時の初代教会のスタッフは圧倒的にへブル語のユダヤ人たちが多かったので、外国から入ってきたユダヤ人たちが疎外されることがあったかもしれません。エルサレム教会は、このことで聖霊の枠組みが乱れる可能性も出てきました。
それでは、使徒たちはこの問題をどのように解決しましたか。十二使徒は弟子たち全員を呼び集めて次のように言いました。2,3節をご覧ください。“私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。”最初は120名程度だった教会が聖霊の働きによって3000人か5000人の規模になると、管理しないといけない仕事や組織も増え始めました。献金も増え、救済活動も多くなりました。これだけのことを使徒たちが担うことは難しいはずです。それで、彼らの中から御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を選んでこの仕事に当たらせました。
使徒たちがエルサレム教会の執事を選んだ基準は明確でした。その基準は何でしたか。

第一に、御霊と知恵とに満ちた人を選びました。教会の仕事を任さえた人は、イエスキリストを信じる信仰とすべてにおいて聖霊に頼る謙遜が求められます。社会的な地位や財産を見て、選ぶ人を判断してはいけません。また、知恵というのは社会的な知識や経験よりも神様の前で正しいことや真理を見分ける霊的な力を意味しています。東京UBFにも御霊と知恵に満ちた方々が多くおられることを主に感謝します。
第二に、評判のよい人を選びました。教会の仕事を任された方は、人々に評判が良く、円満な性格の持ち主でなければなりません。生活の面においても信者たちの模範となる人を選ぶことを進めています。
 こうして、使徒たちの提案は承認され、信仰と御霊に満ちたステパノをはじめ7名が選ばれました。
 それでは、使徒たちは何に励むことにしましたか。4節を一緒に読みましょう。“そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。”使徒たちはもっぱら祈りとみことばの奉仕に励むという方向を定めました。例え、イエスを信じる信者が1万人を超えても、環境が変わって自分たちはもっぱら祈りとみことばを教えることに専念することにしました。
 これは神様がもっとも喜ばれることであり、今のエルサレム教会をささえる霊的な原動力になるに違いないからです。神様は、このために彼らが牢に入っていたときに御使いを送って牢の戸を開いて彼らを連れ出しました。それで、いのちのことばをことごとく語るようにいわれたのです。使徒たちは自分たちがエルサレム教会でやるべきことや役割が何なのかを良くわかっていました。
 イエス様は人類を罪から救うために一生涯を、御ことばを伝えるのに力を注ぎました。
イエス様は、夜に人生の疑問をいただいて訪ねてきたパリサイ人の二コデモにいのちのみことばをつたえました。また、真夏に十数キローを歩いて人生の渇きを解決できなかったスカルの井戸のサマリア人の女に生けるみことばをつたえました。また、38年間横になっていた中風の人にも、ツァラーアトにかかり、呪いの人生を送っていた人にも命の御ことばをつたえて、救われた人生を生きるようにしてくださいました。イエス様は、十字架にかかられて血を流して死んでいく中でも一緒にかかっていた隣の強盗にも福音を伝えました。イエス様の生涯はみことばを伝えるのにささげられました。
 使徒たちは、いのりとともにことばの奉仕に励むことこそ、神様がいちばん喜ばれることで神様に従うことだと確信したのです。

結論に入ります。神様はサドカイ派の人たちの迫害によって牢に入れられた使徒たちを外に連れ出
し、いのちの御言葉をことごとく語るように言われました。使徒たちは、この神様の命令に従って弾圧の中でも、また教会の問題の中でもみことばを教えることを止めませんでした。そして、彼らはもっぱらいのりとことばの奉仕に励むことを決断しました。私たちがやっている切なるいのりと1:1聖書勉強はすこしでも怠けてはいけない大事なことです。わたちたちの集まりがイエスキリストを信じる弟子がますます増えてももっぱらいのちとみことばの奉仕に励んだ使徒たちの姿勢を忘れることがないように祈ります。