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15EASTER1M 私は主にお目にかかりました

2015年イースター第1講 (By 寺崎アブラハム)

私は主にお目にかかりました

御言葉:ヨハネの福音書20:1−31
要 節:ヨハネの福音書20:18
「マグダラのマリヤは、行って、『私は主にお目にかかりました。』と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。」

 イエス様は、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために、十字架につけられ死なれました。そして墓に葬られました。また、聖書に従って、三日目に死者の中からよみがえられました(?コリ15:3,4)。このイエス様の十字架の死と復活が、福音の核心です。
 さて、本文の御言葉には、復活の証人たちが出て来ます。彼らが、特別な存在という、わけではありません。私たちと同じ、ごくごく平凡な弱い人に過ぎませんでした。マグダラのマリヤは、愛するイエス様を失ったと言う深い悲しみの中にありました。弟子たちは、ユダヤ人たちを恐れていました。トマスは疑いで満ちていました。ところが、彼らは、よみがえられたイエス様に出会うことによって、彼らの人生が大きく変わりました。悲しみの女マリヤは喜びの人になりました。恐れで満ちていた弟子たちは力強く大胆になりました。疑いで満ちていたトマスは、復活に対する確信で満たされるようになりました。
 この時間、本文の御言葉を学ぶ中で、よみがえられたイエス様が、ここにいる一人一人と共におられますように、祈ります。そしてよみがえられたイエス様に出会う中で、喜びで満ちあふれ、力強く大胆になり、確信に満ちた人生を送ることができるように、祈ります。

 1節をください。「さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして墓から石が取りのけてあるのを見た。」イエス様が墓に葬られてから三日たった日の朝でした。その時、マリヤは、イエス様に香油を塗るために、墓に来ました。そして、墓から石が取りのけてあるのを見ました。それで、走って、シモン・ペテロとヨハネのところに来て、言いました。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」(2)。愛するイエス様のからだがないことで、マリヤの悲しみは、さらに大きくなりました。
 マリヤの話を聞いた二人の弟子たちは、走って墓のほうへ行きました。ヨハネが先に墓に着きましたが、墓の中に亜麻布が置いてあるのを見ただけで、中にははいりませんでした(5)。遅れて着いたペテロが先に墓の中に入りました。イエス様の頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見ました。
ヨハネも墓の中にはいって来ました。そして、その光景を見て、イエス様のからだがなくなっていたことと、きれいに整理整頓された亜麻布や布切れを見て信じました。彼は墓の中にイエス様がいない真相を見て分かったのです。そして、その時、イエス様が復活したことを信じました。しかし、「イエス様が死者の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していませんでした。ここに出て来る「聖書」とは、旧約聖書です。それは、聖霊がまだ与えられておらず、聖霊によって、イエス様の復活が何を意味しているのかを示されていなかったからだと思います。そして、それはイエス様の十字架の死の意味も、完全な形では理解していなかったでしょう。そういう意味で、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために、十字架につけられ死なれました。そして墓に葬られました。また、聖書に従って、三日目に死者の中からよみがえられた(?コリ15:3,4)という聖書を理解していなかったのです。
11節をご覧ください。「しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。」マリヤは、イエス様のからだがなくなったことを、受け入れることができなかったようです。悲しみのあまり泣きました。ところが、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ時、ふたりの御使いが、イエス様のからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとって座っているのが見えました(12)。ふたりの御使いは彼女に言いました。「なぜ泣いているのですか。」彼女は答えて言いました。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」(13)。こう言って、マリヤがうしろを振り向いた時、イエス様が立っておられるのを見ました。しかし、彼女はイエス様であることが分かりませんでした。
 15a節をご覧ください。イエス様はマリヤに言われました。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」よみがえられたイエス様がマリヤの目の前に立っておられるのに、これ以上、悲しむ必要があるでしょうか。マリヤは死んだイエス様のからだを捜していました。それでイエス様を園の管理人だと思って言いました。「あながた、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか行ってください。そうすれば私が引き取ります。」(15b)。死はすべての物を奪って行きます。そして一度、死別すると、永遠に会えなくなります。マリヤの心の中には、そのような思いで満たされていたと思います。ところが、人の力ではこのような問題を解決することができません。その時、イエス様は彼女に語りかけてくださいました。
 16節をご覧ください。イエス様は彼女に言われました。「マリヤ。」この御声は、愛と憐れみで満ちていました。マリヤに取って、聞き覚えのある言葉でした。その時、マリヤは振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエス様に答えました。そしてイエス様にすがりつこうとしました。しかし、イエス様はマリヤに言われました。
「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上ってはいないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」(17)。イエス様は、マリヤを、最初の復活の証人としてお立てになりました。ここで、弟子たちに対するイエス様の変わらない愛が、よく現れています。イエス様が逮捕された日の晩、弟子たちはイエス様を裏切り、イエス様を見捨てて逃げて行きました。ところが、イエス様は弟子たちを指して、「わたしの兄弟たち」と言われました。また、イエス様の父が弟子たちにとっても父であり、イエス様の神様が弟子たちにとっても神様であることを話されました。今、イエス様と弟子たちは一つになりました。イエス様が神様のもとに上る前なので、マリヤには、「わたしにすがりついてはいけません。」と言われました。では、よみがえられたイエス様に出会ったマリヤの反応はどうだったのでしょうか。
 18節を、皆さんと一緒に読んで見たいと思います。「マグダラのマリヤは、行って、『私は主にお目にかかりました。』と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。」「私は主にお目にかかりました。」「よみがえられたイエス様にお会いしましたよ。」マリヤは喜びで満ちあふれていました。この喜びを分かち合おうと、弟子たちのもとに行きました。そして、イエス様の御言葉を、そのまま弟子たちに告げました。ここで復活の主に出会ったマグダラのマリヤの喜び、力強く大胆な伝道者に変えられた彼女の姿と変化を見ることができます。
二千年前のユダヤ人社会でも、異邦人社会でも、女性の地位は無いに等しいものでした。裁判において判決を下す場合、二人または三人の証言者が必要でしたが、そこに女や子どもは含まれませんでした。つまり、一人前の人として数えられていないのです。その女性たちが、復活の主イエスの最初の目撃者であり、証言者でした。
そして、よみがえられたイエス様は地上から上げられて、神様のもとへ上って行かれます。その時、無にひどしい女性の中でも無視されていたマグダラのマリヤが最初に主を見たのです。かつて悪霊の虜になっていた女、体を売っていた女、世の人々から見下され、捨て去られていたマリヤが誰よりも先に復活の主を見ました。そこで、彼女は主イエス様に引き寄せられ、「わたしは主を見ました」と叫んでいるのです。墓の前で泣き叫んでいた女が、復活の主イエス様を見ることを通して、そしてすがりつく自己愛が断ち切られることを通して、喜びと感謝をもって「私は主にお目にかかりました」と証言しているのです。ここに復活の真相があるのです。
復活の主は今も、マグダラのマリヤのように、最も低くなっている人にご自分を見せてくださいます。復活の主は、自分の弱さのために疲れている、病んでいる人、自分の罪のために絶望し、恥ずかしく思っている人のそばにいてくださいます。仕事のために、人間関係のことで疲れている私の傍に来ていてくださいます。この復活の主にお目にかかりますように祈ります。私たち一人一人が、今日の御言を通して、それぞれに主イエスを見、その呼びかけの声を聴き、「わたしは主を見ました」と、愛する人々に証言することが出来ますように祈ります。

  ところが、弟子たちは、喜ぶことができませんでした。19a節をご覧ください。「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、」弟子たちはユダヤ人を恐れていました。その時、イエス様は来られ、彼らの中に立って言われました。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエス様は、その手とわき腹を彼らに示されました。十字架につけられた時の傷を弟子たちに見せてくださったようです。弟子たちは、主を見て喜びました。イエス様はもう一度、彼らに言われました。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(21)。そして、こう言われると、弟子たちに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。」ここで、福音の御業は、弟子たちの能力や熱意ではなく、聖霊の力によって行なわれることが分かります。これから、弟子たちがイエス様の復活の証人として生きる時に、聖霊の助けが必要不可欠です。何より、よみがえられたイエス様に頼らなければ、力強く確信に満ちたメッセージを証しすることはできません。イエス様は弟子たちに罪を赦す権威をお与えになりました。弟子たちがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。しかし、弟子たちが誰かの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります(23)。

 さて、十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエス様が来られた時に、彼らといっしょにいませんでした。それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った時、トマスはその言葉を信じようとはしませんでした。「私は、その手に釘の跡を見、手の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」恐らく、トマスの心の中には、「なぜイエス様は、私の前では姿を見せてくださらないのか」という思いがあったようです。その八日後には、トマスも弟子たちといっしょにいました。戸が閉じられていましたが、イエス様が来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われました(26)。それからトマスに言われました。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」イエス様は、トマスが言った通りの方法で、トマスにも復活信仰を植えようとされました。トマスはイエス様に言いました。「私の主。私の神。」
 29節をご覧ください。イエス様は彼に言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」このイエス様の御言葉は、今日、私たちに向けられた御言葉でもあります。復活祭を迎える中に、実際に、直接この目で、イエス様にお会いしたわけではありません。マグダラのマリヤを始め、多くの復活の証人たちを通して、また、聖書の御言葉を通して、「イエス様の復活」を信じ、心に受け入れるようになるのです。「私は主にお目にかかりました。」このように証しする人々の姿はどうでしょうか。イエス様が十字架につけられた時のマリヤは悲しみで満ちていました。しかし、よみがえられたイエス様に出会ってから、彼女は喜びで満たされています。恐れの中にいた弟子たちも、よみがえられたイエス様を通して、大胆に御言葉を宣べ伝えるようになりました。しるしを見ないと信じないと言ったトマスもまた、よみがえられたイエス様を通して、「私の主、私の神。」と告白しています。トマスは、もう疑うこともないでしょう。イエス様の復活を通して、変えられた人々を通して、イエス様の復活を確信することができるのです。そして復活信仰を受け入れた私たちも、喜びと確信の中で証しする力を得るようになります。「私は主にお目にかかりました。」

 毎年2月から4月にかけて、私はひどい花粉症に悩まされるしかありません。病院に行って、薬を処方してもらいますが、年々薬は強くなっていきますが、全く効果ない日が続きました。花粉が多く飛んでいる日には目が痛く、赤くなり、涙目になります。その上、体がだるく、仕事にも支障をきたすほどでした。3月に入ると、一人の社員が「辞める」と言い出し、その引き継ぎに手惑いました。ヘルパーからは休むと電話が来て、その穴を埋めるために、自分たちの休みを削ることが多くなりました。人が減った分、仕事が山積みのようになり、自分たちでは対応できない状況にまで追い詰められました。休み返上の上、残業で帰りが遅くなり、クレームが続く中、別の社員は心身共に疲れ切ってしまい、鬱状態にまで落ち込みました。毎月体調を崩しては2−3日休むため、その仕事をカバーするのも容易ではないのに、更に休む日が多くなると、「休みたいのに休めない」状態が三週間ほど続きました。更に、別の社員からは「土日に仕事ができないか」と言われたので、「もう限界です」と答えるしかありませんでした。日曜日には、礼拝の前後に仕事が入るため、ゆっくり御言葉を聞くこともできず、黙想できない日が続きました。会社内での緊迫した雰囲気の中で、鬱状態の社員を守ることにだけ、神経をとがらせました。自分は、障害の分野、精神疾患でもプロだと言うプライドがあり、何とかして助けようと、専門書を借りて読んだこともありました。しかし失敗に終わると、挫折感しか残りませんでした。その時、神様は、私が天の御国を仰ぎ見るように助け、導いてくださいました。韓国語の賛美で、「오 거룩한 성」(聖なる都)を口ずさむたびに力がみなぎって来ました。マタイ11:28節でイエス様は私に言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」この御言葉に基づいて、私は全ての重荷を主にゆだね、イエス様に頼るようになりました。鬱状態の社員のために、とりなしの祈りをするようになりました。すると、緊迫した会社の雰囲気ががらりと変わるようになりました。仕事の負担は変わらないものの、休みなく働いている私に、「少しは休め」と声をかけて来るようになりました。鬱状態だったその人も、精神的に安定するようになりました。そして会社を良くしようとする思いを抱くようになりました。  
 私は、本を読みながら、「能力のある人、熱心な人ほど鬱になりやすい」こと、鬱が深刻になると自殺にまで、至ることを知るようになりました。そして、自分に復活信仰がない時、ノンクリスチャンと同じ状態になりやすいことを知るようになりました。しかし、よみがえられたイエス様は私に現れて、「平安」を約束してくださいます。私が復活の証人として、よみがえられたイエス様を証しする生活を願われます。死んで三日目に死者の中からよみがえられたイエス様を信じる時、私も死や限界を乗り越えることができます。辛い限界から目を上げ、神様を見上げることができます。「私は主にお目にかかりました。」と喜びで、大胆に、確信を持って証しすることができます。すると、それを聞いて信じる人々も、変えられるようになります。

多くの人々がイエス様の復活を証ししています。「私は主にお目にかかりました。」そしてその変えられた姿を見て、イエス様の復活を信じて、確信するようになります。すると、悲しみが喜びに、恐れが平安に、疑いが確信に、そして力強い人生を歩むようになります。この時間、よみがえられたイエス様が一人一人の上に臨まれ、復活信仰の上に堅く立てられるように祈ります。

もう一度、18節の御言葉を読んで、終わりたいと思います。

15EASTER2M 神様を愛し、人を愛しなさい

2015年イースター修養会第2講 (By 金ヨハネ)

神様を愛し、人を愛しなさい

御言葉:ヨハネの福音書21:1-25
要 節:ヨハネの福音書21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」

昨日は寺崎アブラハム牧者が伝えたメッセージを通して、死の力を打ち破り、よみがえられたイエス様について学びました。よみがえられたイエス様は今も生きておられ、信じる者に喜びと平安を与えてくださいます。
今日は復活されたイエス様を信じる者が何をするべきかについて学びたいと思います。イエス様はマタイの福音書24章で世の終わりの前兆について言われた時、「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなる」と言われました。先週、ケニアではイスラム過激派の集団が、大学のキャンパスを襲撃して148人を殺害する事件が起きました。イスラム過激派組織「アルシャバーブ」は犯行を認めていて、「イスラム教徒は解放し、キリスト教徒を殺害した」と話しています。人は愛され、愛する時に幸せを感じます。愛が冷たくなると、幸せもなくなります。イエス様は罪人を愛し、罪人を救うためにご自分のいのちを捨ててくださいました。今日学ぶヨハネの福音書21章には、よみがえられたイエス様が弟子達のところに訪ねて来られ、彼らの必要を満たし、彼らとの愛の関係性を回復してくださる内容が書いています。特に、イエス様を三度知らないと言ったペテロとの関係性を回復し、イエス様の羊を飼う使命を与えてくださいます。この時間、神様を愛すること、人を愛することについて学んでみましょう。

1、2節をご覧ください。シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子は、主がガリラヤへ行くように言われた御言葉に従い、ガリラヤに来ていました。3節をご覧ください。シモン・ペテロが他の弟子たちに言いました。「私は漁に行く。」すると、彼らは「私たちもいっしょに行きましょう」と言って出かけて、小舟に乗り込みました。彼らのうち何人かは、元々ガリラヤ湖で魚を取る漁師でした。ところが、夜通し働いても何もとれませんでした。夜通し働いても何の成果がなかった時、どんな気持ちだったでしょうか。夜が開けて明るくなっていましたが、彼らの心は暗くなっていたでしょう。「ああ!何をしてもうまくいかないね」と思って意気消沈していたでしょう。とても疲れていたし、お腹もすいていたでしょう。
そんな時、誰が彼らのところを訪れましたか。4節をご覧ください。夜が明けそめたとき、イエス様は岸べに立たれました。けれども弟子たちには、それがイエス様であることがわかりませんでした。その時、イエス様は彼らに言われました。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは何も取れなかったので、力なく答えました。「はい。ありません。」イエス様は彼らに言われました。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろしました。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができませんでした。夜通し網をおろし続けても一匹の魚もとれなかったのに、イエス様から言われたとおりにすると、一発でおびただしい魚が取れたのです。先週1日に入社した金ヨハネ牧者は次の日から営業の仕事を始めました。最初の日には先輩と一緒に回りましたが、ヨハネ牧者にも一人で営業をする機会が与えられたそうです。ところが、一発目で契約が取れたそうで、喜んでいました。
私たちは朝早くから夜遅くまで働いても、自分が立てた目標を達成することはできないことがあります。熱心に勉強したのに、受験の日に体調を崩してしまい、目指す大学に入れないことも起こります。努力しても目指していた職場でのポストにつくことができない時もあります。人間の知恵や力に頼った時、それが無益な働きになる場合も多くあります。箴言16:9には次のような言葉があります。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」弟子たちは夜通し働いても何も取れませんでした。しかし、主の御言葉に従った時、網を引き上げることができないくらいおびただしい魚を取りました。しかも網がやぶれなかったように、すべてはうまくいきました。このように主の御言葉に従う時、生きておられる主は私達に驚くべきことをしてくださいます。主の御言葉に聞き従う人は、水路のそばに植わった木のように時が来ると、実がなり、その葉は枯れません。その人は、何をしても栄えます。主は私達の失敗を挽回させてくださいます。私達の必要を満たしてくださいます。すべてのことを働かせて益としてくださいます。私たちが主の御言葉に聞き従い、おびただしい魚を取る体験ができるように祈ります。金ヨハネ牧者は5月に行われる営業トーナメントで1位を目指しています。彼が神様に頼り、おびただしい契約が取れるように祈ります。それを通して生きておられる主に出会うことができるように祈ります。
網をおろして、おびただしい魚を取った出来事は、弟子達が三年ほど前に経験した出来事と余りにも似ていました。そこで、イエス様の愛されたあの弟子、ヨハネがペテロに言いました。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込みました。湖に飛び込む時には、上着を着ていた人は脱ぐことが普通です。私も服を着たまま泳いだことがありますが、服が重くなって泳ぐのに大変でした。ところが、ペテロは上半身裸でしたが、わざわざ上着を着て、水の中に飛び込みました。彼には、主にお会いするのに裸でいることができなかったでしょう。しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来ました。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからです。
イエス様は弟子たちをどのように迎えてくださいましたか。9-13節をご覧ください。こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見ました。イエス様は彼らに言われました。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げました。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいでした。それほど多かったけれども、網は破れませんでした。イエス様は彼らに言われました。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいませんでした。イエス様は来て、パンを取り、彼らにお与えになりました。また、魚も同じようにされました。
イエス様は母親が朝早く起きて子供のために食事を用意するように、炭火焼の美味しい魚とパンを用意して弟子たちを迎えてくださいました。そして、彼らに言われました。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」イエス様が食事に招いても弟子たちは申し訳なく思って食べようとしなかったのか、イエス様は直接に彼らにパンと魚をお与えになりました。イエス様は意気消沈していた彼らを慰め、励ますために食事を用意してくださいました。イエス様はいつも弟子達の必要を満たしてくださいました。弟子たちは主の恵みを裏切ったのにも関わらず、イエス様は弟子達を相変わらず愛してくださいました。弟子達はイエス様を見捨てましたが、イエス様は決して彼らを見捨てませんでした。私たちは信仰生活において、しばしば躓いたり、失敗したりすることがあります。その時、自分はもう駄目だと言って、自暴自棄になったり、信仰生活まで放棄してしまうのは決して正しいことではありません。私たちは本当は初めから駄目な人間です。しかし、主はこのような駄目な人間を救ってくださいました。放蕩息子のような者を見捨てることなく愛してくださいました。主は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われます。私たちが意気消沈していた時、私たちのところに来てくださり、慰め、力づけ、必要を満たしてくださいます。主の変わらない愛に感謝します。
15-17節をご覧下さい。彼らが食事を済ませたとき、イエス様はシモン・ペテロに言われました。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエス様に言いました。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエス様は彼に言われました。「わたしの小羊を飼いなさい。」イエス様は再び彼に言われました。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエス様に言いました。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエス様は彼に言われました。「わたしの羊を牧しなさい。」イエス様は三度ペテロに言われました。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエス様が三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエス様に言いました。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエス様は彼に言われました。「わたしの羊を飼いなさい。」
イエス様から三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたペテロの心はどうだったでしょうか。イエス様は十字架の苦しみを受ける前、弟子達に言われました。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。」その時、ペテロは「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」と言いました。ところが、イエス様が言われた通り、その日の夜、ペテロは三度もイエス様を知らないと言いました。主が「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか」と三度言われた時、ペテロはあの日の悲しい出来事を思い出したでしょう。ペテロの心は砕かれました。彼は、もうあの日のように「主よ。私はこの人たちより二倍はあなたを愛します」と答えることはできませんでした。その代わりに「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えました。彼は謙遜に愛の告白をしています。すると主は、「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。羊はペテロのものではなく、主のものです。イエス様がご自分のいのちを代価として払って買い取ってくださった羊です。その羊を飼うことをペテロに任せてくださるのです。本当に信頼する者ではなければ、自分の大事なものは任せられません。詩編34:18は次のように言っています。「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。」主は心の打ち砕かれたペテロにご自分の羊を任せてくださいました。「飼う」「牧す」とは、食べ物の世話をし、見張りをし、あらゆる危険から守って養い育てることです。つまり他の人のために生きること、他の人を愛することです。イエス様を愛する人が必ずするべきことは羊を養うことです。羊を養うことはイエス様に対する愛の表現です。その愛は、ほかの人の面倒を見ることにおいて具体化されるのです。
私は目指していた職場でのポストにつくことができなくて苦しんだ時がありました。昇進しようと三回もチャレンジしましたが、失敗しました。私より10歳下の人が上司になったこともありました。その後に上司になった人は、私をやめさせようといろんな手段を使って圧迫しました。そして、今の上司は以前私の部下であった人です。このような出来事によって私の心は打ち砕かれました。私は世のものに縛られていた心を悔い改め、天上のことを思うようになりました。仕事をやめたいと思った時もありましたが、耐える力が与えられ、今は楽しく職場生活をするようになりました。三年前、主は?テモテ4:2「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」という御言葉を与えてくださいました。私はこの御言葉に従い、羊を飼うことができるように祈りました。その年、中村政国兄弟、中村秀行兄弟、全ダビデ兄弟と聖書勉強をするようになりました。そして、去年は蛇平聖也兄弟と蛇平光則兄弟を、今年は今井想野兄弟を聖書勉強に導いてくださいました。先週礼拝の時には中村政国兄弟が洗礼を受けました。中村さんは毎週金曜日の夜7時に聖書勉強をしていますが、いつも早く教会に来て私を待っています。仕事がある時を除いては毎週礼拝にも参加しています。本当に良い羊です。私は彼が洗礼を受けるようになって本当に嬉しく思いました。先週の礼拝には私と聖書勉強をしている4人の兄弟たちが参加しました。中村秀行兄弟は日曜日に好きなサッカの練習や試合がありますが、礼拝に参加することを決断しました。蛇平聖也兄弟と今井想野兄弟も良い羊です。二人ともハンサムな羊です。CBF子ども達に親しまれ、礼拝が終わると一緒に遊んでくれます。昨日は4年くらい前に一回聖書勉強をしたことがある鈴木洋光兄弟から、「今度顔を出させてください」とラインで連絡が来ました。私は今日の御言葉を黙想しながら、主は尊い羊を任せるために私の心を打ち砕かれたことを悟りました。そして、私を信頼して多くの羊を任せてくださったことを悟りました。すると、私の心は癒され、感謝と喜びで満ち溢れました。今年、私は心優しくへりくだっておられるイエス様を学ぶことを祈っています。私が良い牧者であるイエス様を良く学び、任せてくださった兄弟たちによく仕えることができるように祈ります。
18節をご覧下さい。「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」この謎めいた主の御言葉について、著者ヨハネが解説しています。19節をご覧下さい。「これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。」ペテロは今まで自分の願うとおりに生きて来ました。言いたいことがあれば遠慮なく言いました。しかしこれからは羊の牧者として自分を犠牲にする生活をしなければなりません。牧者としてのペテロの道はやがて殉教に至ります。そしてペテロは殉教の死を成し遂げることによって神様の栄光を現します。こうお話しになってから、主はペテロに言われました。「わたしに従いなさい。」イエス様は牧者として模範を示してくださいました。ペテロもこのよい牧者であるイエス様に見習う生活をするように命じられました。
ペテロは振り向いて、イエス様が愛された弟子があとについて来るのを見ました。この弟子はあの晩餐のとき、イエス様の右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか」と言った者です。ペテロは彼を見て、イエス様に言いました。「主よ。この人はどうですか。」ペテロがこのように主に尋ねたのは、ヨハネはイエス様を知らないと言わなかったから、自分よりも良い死に方をするのではないかと考えたかも知れません。しかし、その動機が何であったにせよ、主は彼の質問に対して、次のように言われました。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」他の人と比べないで「あなたはわたしに従いなさい」と言われたのです。主に従って行く者達にとって脇見をすべきではないことを教えてくださいます。イエス様が私たちを召されることは個人的なことです。ですから、イエス様と自分との縦の関係が大切です。神様が私に願うことは何かを考えてその御心に従うことが大切です。
23節をご覧下さい。そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡りました。しかし、イエス様はペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか」と言われたのです。
25節をご覧下さい。「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。」主イエス・キリストのなさった御業と恵みがいかにすばらしいものであるかということは、この世界と比較しても到底比較できないほどのものです。

ヨハネはヨハネの手紙第一4:7-11節で次のように言いました。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」神様は愛です。神様が私達をどれほど愛しておられるかを知る人は幸いな人です。さらに、神様を愛し、人を愛する人は本当に幸せな人です。神様は私達を信頼して「わたしの羊を飼いなさい」と言われます。私達が任せてくださった羊をよく養うことができるように祈ります。

15ACTS13M 心を信仰によってきよめてくださる神様

2015年使徒の働き13講

心を信仰によってきよめてくださる神様

御言葉:使徒の働き15:1-16:5
要 節:使徒の働き15:8、9「そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」

先週、私たちはイースター修養会を通してイエス・キリストの復活、イエス・キリストの愛、イエス・キリストから与えられた使命を確認することができました。
今日は「心を信仰によってきよめてくださる神様、すなわち、信仰によって救われ、きよめられる」という真理を確認したいと思います。そのためにまず、イースターの前週に学んだことを思いだしたいと思います。パウロとバルナバは、第1次宣教旅行を終えてから彼らを派遣したアンテオケ教会に戻り、宣教報告をしました。そこで彼らは神様が宣教を行なった使徒たちと共にいて、彼らのわざを助けてくださったこと、神様が異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告しました。それから、母教会であるアンテオケ教会でかなり長い期間を弟子たちと過ごしました。ところがその時に大変な問題が起きました。

1節をご覧ください。「さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」と教えていた。」とあります。ユダヤから下って来たある人々は割礼を受けているクリスチャンです。つまりユダヤ教からキリスト教に改宗したクリスチャンです。彼らが異邦人出身の多いアンテオケ教会に来て割礼も受けなければ救われないと教えていました。それはアンテオケ教会に混乱と動揺をもたらしました。今までパウロとバルナバから異邦人がユダヤ人になる必要はない、だれでもイエス・キリストを信じるなら救われると教えられていたからです。結局、教会でパウロやバルナバとユダヤから来た人々との間に激しい対立と論争が生じました。同じ教会の中でパウロとバルナバは福音を守るために戦いました。ユダヤ人は、ユダヤ人のプライドを守るために戦いました。
教会の中でこのように戦うことは良くないと思われます。教会だけではなく、学校でも、会社でも内輪もめすることは良くないでしょう。それで、「意見の対立が予想される時は事前に根回しをしろ。」と言われます。実際に、根回しをしておかないと会議にやたらと時間がかかったり、何度も何度も同じ議題で会議を開かないといけなかったりします。だから事前にキーパーソンに根回しをして結論が出やすい環境を整えておく必要もあると思います。しかし、会議の時間を短くするために根回しをし、妥協して福音真理を曲げるようなことをしてはいけません。アンテオケ教会のように激しく対立と論争が生じても戦うべきです。それで、時には教会でも激しい対立と論争のような戦いもあります。パウロとバルナバはこの福音の真理を守るために少しも妥協したり、譲ったりしませんでした。もし彼らがユダヤから来た人々と妥協したなら、一時的に教会は平穏になってもキリスト教はユダヤ教の一派となってしまったことでしょう。またユダヤ人と異邦人との差別問題も生じたはずですし、世界宣教において致命的な打撃を受けたと思われます。では、アンテオケ教会はその問題をどのように解決しようとしましたか。
2b節をご覧ください。パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになりました。アンテオケ教会は生まれたばかりの開拓教会だったので使徒たちや長老たちがいるエルサレム教会からの判断をいただくために代表たちを送ったのです。それでパウロたちは教会の人々に見送られました。フェニキヤとサマリヤを通る道々では、異邦人の改宗のことを詳しく話しました。すると、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらしました。ところが、彼らがエルサレムに着いた時にはどういうことが起きましたか。
4節をご覧ください。「エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たちと長老たちに迎えられ、神が彼らとともにいて行なわれたことを、みなに報告した。」とあります。彼らはアンテオケ教会で第一次宣教報告をした時にように「アーメン。アーメン。ハレルヤ!」とうなずきながら神様を賛美するだろうと期待したでしょう。ところが、エルサレム教会の雰囲気は違いました。彼らの熱い宣教報告に水をかけるような人々がいました。「パリサイ派の者で信者になった人々」です。彼らは空気が読めないというか、頑固というか、ともかく面倒な人々です。彼らが立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである。」と言いました。彼らは異邦人が救われるには、ユダヤ人にならなければならないというようなことを主張したのです。もちろん、割礼も、さまざまな戒めも、それ自体はとても良いものです。パウロもローマ人への手紙で「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、またよいものです(7:12)」と言いました。しかし、律法も、戒めも救いの必要条件ではありません。
聖書によると、律法には律法の役割があります。ガラテヤ3:24を見ると「こうして、律法は私達をキリストへ導くための私達の養育係となりました。私達が信仰によって義と認められるためなのです。」とあります。当時、養育係には子供を無事に学校へ送り届けて、教師に子供を任せる役割がありました。そのように律法の役割は、人をキリストに導くことです。私たちが律法を通して自分の罪を悟ることができ、悔い改めることもできます。しかし、イエス・キリストを受け入れ、キリストを信じて救われると、神様の子どもとなります。その後には神様が聖霊を通して私たちを導いてくださいます。今度は律法ではなくて、キリストを信じる信仰によって神様の赦しをいただき、神様の恵みによって生きるようになります。救われてからも、ただ信仰によって生きるようになります。
ところが、パリサイ派のクリスチャン達は長い間良いものとして持ち続けていた律法に対する未練があったようです。彼らはイエス様を信じることも、聖霊を受けることもいいですが、律法を守り、割礼を受けなければならないと主張したのです。しかし律法を優先するユダヤ教と福音の真理を優先するキリスト教は両立できません。ですから福音と律法が衝突することは避けられないことです。この問題が解決されなければ、教会に激しい対立と論争が続くようになるでしょう。それではエルサレム教会はこの問題をどのように解決しましたか。
6、7a節をご覧ください。使徒と長老達は、この問題を検討するために集まりました。すると使徒と長老達の間で、激しい論争がありました。当時エルサレム教会にはユダヤ人が大部分でした。ですからパリサイ派のキリスト教の影響力が大きかったのでしょう。彼らの中には高い社会的な地位や学問がある人々もいたでしょう。彼らはとても合理的で説得力ある主張をしたでしょう。彼らは「アブラハムも、モーセも、イエス様も割礼を受けました。そして、ここに集まっている使徒達と長老達もみな割礼を受けました。ですから異邦人が割礼を受けるのは言うまでもありません。」と主張する時には本当に彼らの話が正しく聞こえました。このような激しい論争があって後、ペテロは自分の体験を通して、神様がどんな方であることを証しましたか。
7b節をご覧ください。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。」ペテロはコルネリオのことを思い起こし、神様が異邦人に福音を宣べ伝えさせるために自分を選んだことを証しました。彼はコルネリオの出来事に現れた客観的な聖霊のみわざを根拠にして異邦人を何の条件なしに受け入れるべき理由を言いました。
8、9節をご一緒に読んでみましょう。「そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」ここで、ペテロは、コルネリオの救いに関連して大切な原則を表明します。救いは徹底的に信仰によるという原則です。人間の行いによるのではありません。律法を守り、割礼を受けているユダヤ人から見ると、数千年も神様の教えもなく、犬のように卑しんでいた異邦人の行ないは気に入りなかったでしょう。しかし、神様は心をご覧になるお方です。異邦人でも心から悔い改めてキリストを信じるなら救われます。神様はキリストを信じる者を生まれ変わらせ、神様の子どもとしての尊い特権を授けられます。また、信仰によって彼らの心をきよめられるようにしてくださいます。もし行ないをご覧になるならユダヤ人は律法を持っているから有利になるわけです。しかし、神様は心にある信仰をご覧になるのです。だからユダヤ人と異邦人の区別をなさいません。9節に「私たちと彼らとに何の差別もつけず」とあります。また、神様は人のうわべではなく心の中心をご覧になる方です。この神様は異邦人も神様を恐れ敬い、福音を信じるならその人を受け入れ、その証拠として聖霊を与えてくださいました。ですから神様の前では割礼者も無割礼者も、ユダヤ人も異邦人も差別がありません。
10節をご覧ください。「それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。」とあります。ペテロはユダヤ人の矛盾についても話しています。彼らが割礼を主張することは彼らの先祖も、自分たちも負い切れなかったくびきを異邦人のクリスチャンに負わせるのは神様を信じないで試みる罪なのだと言い切ったのです。彼の言う通りに律法は誰も負いきれないくびきです。パウロ自身も負い切れませんでした。彼は何とか律法を守ろうとしましたが、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と嘆息するしかありませんでした(ローマ7:24)。だから、ユダヤ人が負いきれなかったくびきを再び異邦人の首に掛けようとするのは、神様を試みることであり、福音の中から来る自由と喜びが奪われることです。私たちはただイエス・キリストを信じる信仰によって救われているからです。
11節をご覧ください。「私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」とあります。ペテロも私たちも主イエスの恵みによって救われたことを信じているのです。それなのに、別のものをさらに他の条件をつけてはいけません。後に、パウロも「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」(エペソ2:8)と宣言しました。
私たちは神様が遣わされたイエス・キリストの十字架の恵みを信じることによって救われるのです。イエス様は、負い切れない律法のために苦しんでいる私たち人間のために十字架につけられ死なれました。十字架の死によって私たちの負うべき律法の代価を払ってくださいました。そして三日目に死者の中からよみがえられてイエス様が私たちの主・キリストであることを明らかにしてくださいました。私たちはこのイエス様の十字架と復活を通して私たちを救ってくださる神様の恵みを信じる信仰によって救われたのです。
それなのに、もし救われた人でも、律法の行いによっては救いが取り消されるなら、どうなるでしょうか。私たちは日々の行ないに不安な生活をしなければならなくなります。しかし、神様はそんな方ではありません。私達はただイエス・キリストを信じたその瞬間から救われました。神様の子どもとなりました。そして、永遠のいのちが与えられたのです。だから、今は神様の子どもとして救いの恵みに感謝し、その感謝んのゆえに神様の御言葉に従おうとするのです。この恵みによって喜び、感謝し、この恵みによって与えられる力といのちにあふれて神様を愛し、隣人を愛する生活をします。神様が与えられた使命を担って行きます。
ところが、私たちは、ただ主の恵みによって生きているでしょうか。言うのは簡単ですが、実生活の中で恵みによって生きることはやさしくないようです。それは私たちが因果応報的な考えに支配されて来たからだと思います。何がうまくできないと、自分は霊的闘争が足りないからしようがないと思います。なかなか変えられない自分の良くない習慣のために自分は祝福される価値がないと思います。その時に、サタンは「おまえはそれでもクリスチャンであると言えるか、それでも宣教師なのか。」とささやきます。そこで、すると、心が弱くなり、自分のクリスチャン生活に絶望します。一方、何もかもうまくできると、どう思いますか。日頃の行ないが良いからだと思います。「ぼくは偉い、偉大な人なのだ。」と思い、高ぶって自己義に陥ります。このようなことを考えてみると私達が主の恵みを知り、主の恵みによって生きるというのはそれほど簡単なことではないことがわかります。
ですから私達はイエス様の恵みの世界をより深く広く知るために祈ることが必要です。使徒ペテロは「私達の主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」(ペテロ第二3:18)と言いました。私達がイエス・キリストの恵みと知識においてますます成長することができるように祈ります。ほんとうに祈りによって神様と交わりができると、恵みの上に、さらに恵みを受ける生活ができます。大きな失敗をし、罪を犯したとしてもキリストの十字架の恵みのゆえに赦されて平安に生きることができます。どんなに大きな事をした時も神様の恵み、神様の祝福によるものだから謙遜になって感謝することができます。それで、日々の生活の中で神様の栄光を見ることができるし、恵みの上に、さらに恵みを受ける生活ができるのです。これがクリスチャンライフです。どうか、私たちがすべての律法的な考え、因果応報的な考えから離れてイエス・キリストの恵みによって生きる信仰生活ができるように祈ります。
12節をご覧ください。ペテロの話を聞いた全会衆は沈黙してしまいました。そして、バルナバとパウロが、彼らを通して神様が異邦人の間で行なわれたしるしと不思議なわざについて話すのに、耳を傾けました。ふたりが話し終えると、最後にヤコブがこう言いました。ヤコブはイエス様の弟であるヤコブで、この会議の議長でした。彼はアモス9:11,12の御言葉を引用してコルネリオ事件やパウロとバルナバによる異邦人宣教はすべて神様がすでに予言されたことが成就されたことを確証しました。そしてこれらの事実に基づいて結論を下しました。エルサレム総会は結局この問題に対してどんな結論を下しましたか。
28,29節をご覧ください。「聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。」
使徒と長老達はこの決定が聖霊と私達の決定だと言いました。それは聖霊が願われることであり、聖霊の導きであることを確信していました。ただ、保守的な考えで生きているユダヤ人クリスチャンへの配慮も提案します。それは、異邦人クリスチャンであっても「偶像に供えた汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けること」をお願いすることでした。これは、必要条件とか、妥協案ではありません。ユダヤ人から救われた人も、異邦人から救われた人も、心を一つにして愛し合うための配慮です。この結果の手紙を手渡したとき、聖徒たちの反応はどうでしたか。
31節をご覧ください。エルサレム総会での決定をを読んだ人々は、その励ましによって喜びました。彼らは律法主義者達による重荷を捨てて主の恵みと喜びに満たされるようになりました。
結論としてもう一度8,9節をご一緒に読んでみましょう。「そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」
神様は私たちの深い部分、人に知られないところで考えていること、私たちの心を全部ご存知です。それは私たちを裁くためではなく、赦し、きよめる為です。人間の中にはユダヤ人もいるし、異邦人もいます。この教会にもいろいろな人がいます。まじめな性格的の人もいます。いい加減な人もいます。人生いろいろです。確かなことは、神様がすべての人を愛し、同じ条件で救ってくださるということです。私たちはただ信仰によって、ただイエス・キリストの恵みによって救われるのです。どうか、聖霊の助けによってこの信仰の世界、イエス・キリストの恵みの世界に深く入ることができるように祈ります。

15ACTS05M 主イエスの復活を非常に力強くあかしした使徒たち

2015年使徒の働き5講 

主イエスの復活を非常に力強くあかしした使徒たち

御言葉:使徒の働き4:32―5:16
要 節:使徒の働き4:33「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。」

 先週、私たちはペテロが 「イエス・キリスト以外には、だれによっても救いはない」と証ししたことを学びました。宗教指導者たちはペテロとヨハネとの大胆さを見、生まれつき足なえから癒された人が一緒にいるのを見てはふたりを議会から退場させました。そして、二人にいっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならないと脅かしてから釈放しました。すると、二人は仲間たちのところに行き、祭司長や長老たちから脅かされたことを報告しました。そこで、人々は心を一つにして声を上げて「主よ。今彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちに御言葉を大胆に語らせてください。」と祈りました。すると、一同は聖霊に満たされ、神様のことばを語り出しました。その後、教会はどうなったでしょうか。
 今日の本文である32節を見ると、信じた者の群れは、心と思いを一つにしていました。だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていました。まことに麗しい愛の共同体になっていたのです。持ち物に対する人の心はそれぞれです。夫婦であってもお金の使い方が違います。育ってきた環境が違うからそれぞれの関心、好き嫌いも違うでしょう。それで、多くの人々は夫婦でも通帳を別々にして財産を管理しているそうです。ところが、初代教会はいろんな地域から集まって来た信者たちが心と思いを一つにしていたのです。ほんとうに素晴らしい共同体になっていたことが分かります。では、どうやってこのように素晴らしい愛の共同体になることができたでしょうか。本文の御言葉を通して私たちが目指している教会の姿を学ぶことができるように祈ります。
 
第一に、力強い証と大きな恵みがありました。
33-35節をご覧ください。「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。」とあります。使徒たちはイエス様の復活を非常に力強く証ししました。彼らは宗教指導者たちから「イエスの名によって語ってはならない」と脅かされていたにも関わらず、イエス様の復活を力強く証したのです。どうやってそれほど力強いキリストの証人になったのでしょうか。
それは、聖霊の働きです。イエス様は天に帰られる前、弟子たちに「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)と言われました。その約束のとおりに、聖霊が使徒たちの上に臨まれたので、彼らは力あるキリストの証人となりました。彼らは力強く「十字架に殺されたイエス様は、復活して、今生きておられる」と証ししていたのです。生きておられるキリストが生まれつきの足なえを癒したと証したでしょう。青年は幻を語り、老人は夢を語っていたでしょう。彼らの間で力あるわざと不思議としるしを行なわれる復活のキリストは証しました。「キリストは生きておられる(♪257番)」という賛美もしながら証したと思います。
すると、すべての者の上に主の大きな恵みがありました。すると、人々は「喜び」と「寛容」の雰囲気になりました。緊張した雰囲気ではなく、失敗や弱さを受け入れ、愛し合う雰囲気になったのです。その中で聖霊は豊かに働き、聖徒たちはのびのびと成長して行きました。
 ところが、今の私たちはどうでしょうか。日常生活の中で「復活の主、生きておられるキリスト」を体験しているでしょうか。日常会話の中で「イエス様は生きている」と言うのを証しているでしょうか。私たちは、毎週礼拝の後にフェローシップで交わる時間を持っています。そこで、生きておられるキリストを体験した信仰の証、恵みの報告があるでしょうか。・・・・自分の中でいつの間にか、イエス様を観念的なものにしている方はいないでしょうか。特に祈りが少なくなると、いつの間にか、信仰生活が知識的、観念的になってしまうと思います。
私たちは祈りを通して生きておられるイエス様を体験し、イエス様の復活を証しすることができます。その人の上に大きなイエス様の恵みが臨みます。さらにそこにはイエス様の働きがあるようになります。するとますます生きておられるイエス様を生々しく体験することはできます。したがって今、自分には復活のキリストを体験することも、大きな恵みもないと感じている方はまず祈りから始める必要があります。使徒の働きを読んでみると、聖書を見ると、信者たちは声を上げて祈ったり、夜を通して祈ったり、祈りに専念したりしています。どうか、そういう祈りをしてみてください。すると、復活の主、今も生きて働いておられる主を体験するようになるでしょう。自分の上にも主の大きな恵みがあるようになります。私たちに恵みがなければ心細くなり、喜びも寛容もなくなって行きます。しかし、恵みがあると喜びと寛容があるので何でも分かち合うことができるようになります。雨が大地に降り注ぐように主の恵みが私たちのうちに注がれると、私たちの心は癒され、喜びに満たされるようになります。人々を慰め、施すこともできるようになります。そういう人が増えることによって私たちの教会もますます麗しい愛の共同体になって行きます。その具体的な例がバルナバの献身です。
36、37節をご覧ください。「キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。」とあります。レビ人というのは、イスラエル12部族の一つの部族に属していました。旧約聖書によると、彼らはもともと自分たちの地所を持っていませんでした。彼らは他の11部族が所得の10分の一を受けていたから、それが相続財産になりました。また、それによって土地を購入することもありました。だからレビ人の中でも相当の財産を持っている人たちがいました。バルナバはそうしたレビ人の中の一人だったのでしょう。彼はそれを売り、その代金を使徒たちのところへ持って来たのです。どうやってそれができたでしょうか。
貧しい人、生活に苦しい人を見てかわいそうに思ったからでしょうか。事実、そう言う心があったかも知れません。しかし、ただセンチメンタルな同情心だけでは自分の財産を売ることまではなかなか難しかったと思われます。それより、バルナバもイエス・キリストの御名の力を体験する中で、大きな恵みを受けたと思われます。だから、彼は喜びと寛容な心から神様のためにささげる大決断ができたのです。そうでなかったらこのようなことはできないのです。人を慰め、人に施すためにはまず神様から大きな恵みを受けなければなりません。
私たちがバルナバのような生き方をしたいと思うなら、まずは主イエス・キリストの復活を信じ、生きておられるキリストを体験することが必要なのです。そのうちに、イエス様と心から交わる中で大きな恵みを受けると人のために施しをしたいと言う心も生まれてくることでしょう。その時に自らすすんで自分の持ち物を主にささげ、人々を慰めるために用いるのです。どうか、私たちのうちにもバルナバのように大きな恵みを受け、大きな施しもできる人が増えますように祈ります。  

 第二、神様への恐れがありました。
5章1,2節をご覧ください。「ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。」とあります。
ここには、アナニヤとサッピラという夫婦が登場します。彼らはバルナバのように尊敬されたいと思ったでしょうか。あるいはバルナバから刺激されたでしょうか。アナニヤ夫婦も自分たちの持ち物を売ってそれを使徒たちのところに持ってきました。この持ち物というのは8節で「地所」と置き換えられています。おそらく、彼らは、自分たちの土地を売り、その代金を使徒たちのところへ持ってきたと思われます。自分の土地を売って献金をしたのです。それはなかなか難しいことでしょう。だから、バルナバのように自分の畑を売ってささげる人は尊敬されます。私が大学3年生の時、通っていた教会の建築がありました。その時、ある先輩は自分の家を売って献金しました。私は非常に驚きました。ほんとうに素晴らしいことでしょう。後でその先輩の家族が非常に祝福されて行くことを見て私は神様への献身と信仰とは何かということも体験的に学ぶことができました。バルナバをはじめ多くの信者たちは信仰によって宣教のみわざのために献金をしたと思います。自分の土地や財産を売ってでも宣教のみわざを支えようとする情熱がありました。
ところが、アナニヤにはそういう情熱がなかったようです。彼はその代金をささげる際に、その一部を自分たちのために残しておきました。そこでペテロが、「これがあなたの売った代金のすべてですか。」と尋ねました。すると、アナニヤは「そうです」と答えました。その代金の一部を残して置いたと言えば良かったと思いますが、偽ってしまいました。そこでペテロは彼に何と言いましたか。
3,4節をご覧ください。「そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分たちのために残しておいたのか。それはもともとあなたのためであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」とあります。アナニヤ夫婦は人々を欺いていました。しかし、ペテロは、彼らが人を欺いたのではなく、神様を欺いたのだと言いました。そう言うと、アナニヤは息が絶えて、死んでしまいました。
ここで、神様を欺くことはどんなに大きな罪であるかが示されています。その罪の代価は死でした。神様への欺きが、即、死刑ということになりました。彼らは想像を超えた酷い罰を受けています。神様はそれほどのさばきをなさった目的は何だったでしょうか。
5節の後半のことばをご覧ください。「そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。」とあります。同じことが11節にも記してあります。「そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。」とあります。この恐れというのは、怖いといった恐れのことではなく、聖い恐れです。神様は生きておられるという厳粛な思いです。教会にはこの聖い恐れが必要でした。教会が調子よく進んでいきますと、いつしかこの聖い恐れというものを感じなくなってしまうことがあります。神様を神様とも思わなくなってしまうのです。そうなったらさまざまな腐敗や罪がはびこるようになって内側から崩壊することになってしまいます。なぜなら、教会はキリストのからだであり、神のいのちである聖霊の宮だからです。教会は神様を恐れて生きる時のみ、大きく前進していくことができます。このアナニヤとサッピラの事件は、そうした罪の恐ろしさと、その罪がもたらす影響というものを示しながら、そういうものを取り除いていく必要性を訴えていたのです。教会に神様を恐れることがなければ人々は人間中心になってしまいます。ですから、聖なる恐れがあるときに教会は一致して愛の共同体を維持することもできます。

第三に、教会の成長がありました。
13、14節をご覧ください。 「ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。」
 「ほかの人々」とは、ノンクリスチャンのことです。彼らは、ひとりもこの交わりに加わろうとしませんでしたが、それらの人々は彼らを尊敬していました。また、主を信じる者はますます増えて行きました。ちょっと矛盾しているように思われますが、事実です。 おそらく、あのアナニヤとサッピラの事件の後で、彼らの間には非常な恐れが生じ、この群れに加わることはできないと考えていたのでしょう。それでも心の中では彼らを尊敬していたのです。だから、誰かがイエス・キリストを力強く証してくれると、主を信じるようになります。そうして信じる者はますます増えて行くのです。
それは初代教会に限らず、今の日本でも同じことが言えるでしょう。クリスチャンってすごいなぁ、いい人だなぁ、大したもんだいと思っている人々がいます。でも、自分はその中に入ろうとしません。それが日本の多くの人々の態度だと思います。しかし、そのような中でも、主を信じる人たちはますますふえていくのです。そうして、イエス・キリストを信じて救われると、自分たちの間で多くのしるしと不思議なわざを体験して行くようになります。復活の主を体験するようになるのです。
15節と16節をご覧ください。ついに、病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロがそこを通りかかるときには、せめて彼の影だけでも、だれかにかかるようにしたほどになりました。人々はキリスト教会を大いなるものと認めていただけでなく、実際にその中に加わることによって、大きくふえていったのです。
 今日、私たちは家庭でも、 学校でも、 社会でも、心と思いを一つにすることは難しい時代に生きています。どこにおいも、みんなばらばらです。しかし、クリスチャンは違います。クリスチャンには従うべき一定の基準があるのです。それが聖書です。神様のみことばは、神様のみこころが記されてあります。だから、聖書の教えによって心と思いを一つにすることができます。家族も、教会も、世界も聖書の御言葉を通して一致することができます。自己中心や虚栄といった態度によって人を遠ざけ、人を騙すのではなく、へりくだって互いに人を自分よりもすぐれた者と思うようになります。つまり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしていくようになるのです。私たちの教会の姿がそのように変えられて行きますように祈ります。すると、教会の姿は、世間の人たちから見ても非常に魅力的で、彼らの尊敬と信頼を勝ち取り、さらに力強く前進していくようになります。

結局のところ、すばらしい愛の共同体としての教会とはどういう教会でしょうか。力強くイエス・キリストの復活をあかしし、大きな恵みがあるところです。神様への恐れと成長がある教会です。特に神様を恐れることはとても大切であると思われます。そうすれば、主はその歩みを確かなものとし、祝福してくださいます。私たちの上に大きな恵みをあるようになります。神様を神様とせず、神様を欺きながら、利己的に生きようとするなら、そこにはいろいろな乱れが生じてくるでしょう。教会の内部もばらばらになってしまいます。ですか、結局のところ、神様を恐れることはとても大切です。私たちひとりひとりがただ神様を恐れ、神様のみこころに歩む者でありますように祈ります。また、心と思いを一つにして神様に仕え、人々を愛する者として生きることができるように祈ります。

14Matthew14M大能と輝かしい栄光を帯びて来られるイエス様

2014年マタイの福音書第14講 

大能と輝かしい栄光を帯びて来られるイエス様

御言葉:マタイの福音書24章1-51  
要 節:24章30そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。

先週、私たちはイエス様が偽善の律法学者、パリサイ人の罪に対して警告し、彼らの罪のゆえに滅亡するエルサレムのことで「ああ、エルサレム、エルサレム」と嘆かれたことを学びました。ところが、イエス様の弟子たちは、あのエルサレムにある宮を見てその表面的な素晴らしさに感嘆しました。イエス様は内側、目に見えないところをご覧になりましたが、弟子たちは外側だけを見たからです。そこで、イエス様はそのような宮も崩れてしまうと言われました。それから、イエス様が終末と再臨に関する説教をしてくださいました。「オリーブ山の説教」と呼ばれていますが共観福音書の中で一番長い説教です。ここで、私たちは私たちクリスチャンが持つべき生き方について学ぶことができます。

1節をご覧ください。「イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。」とあります。マルコの記録によると、弟子のひとりがイエス様に「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう(13:1)。」と言いました。事実、この宮に使われていたみごとな石は、高さ2メートル、幅3メートル、長さ20メートルもある巨大な石でした。また、そのような石でつくられた宮の建物は金箔でも覆われていてまさに素晴らしい建物でした。ところが、イエス様は何と言われましたか。
2節をご覧ください。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」とあります。イエス様は断固として、宮が破壊されることを予告されました。事実、エルサレムの宮だけではなく、目に見える地上のものは朽ちるものであり、消えて行くものです。人々は弟子たちのように目に見えるものに執着し、「目に見えるもの」に惚れてしまいますが、永遠に残るのは「見えないもの」なのです。
天の御国、父なる神様、主イエス・キリスト、永遠の栄光、信仰、愛、望みなどのように最も大切なものは見えないものです。親子関係、夫婦関係、師弟関係など人間関係も目に見えないですがとても大切です。何よりも、私たちクリスチャンにとって大切なのは神様との親密な関係です。私たちはそういうものにこそ、目を留め、それらを大切にする価値観を持たなければなりません。?コリント4章18節を見ると、使徒パウロは「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」と言いました。ところが、イエス様の弟子たちは、まだ、霊的価値観がはっきりしていなかったようです。イエス様が偽善の律法学者、パリサイ人たちを叱責し、「ああ、エルサレム、エルサレム」と嘆かれたにもかかわらず、宮の美しさだけに目をみはっていたからです。彼らにとって宮の破壊を予告されたイエス様の言葉はなかなか理解できませんでした。そこで、弟子たちは、イエス様がオリーブ山ですわっておられると、ひそかに「お話ください。いつ、そのようなことが起こるでしょうか。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」と質問しました。それに対してイエス様は答えて言われました。それが「オリーブ山の説教」と呼ばれている本文の御言葉です。この時間、その説教を三つのポイントに分けて皆さんと分かち合いたいと思います。

第一に人に惑わされないように気をつけることです。
4,5節をご覧ください。「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」とあります。世界には「私こそキリストだ」と名乗る人々が多くいます。日本の新宗教の教祖が数多くいますが、その信者人口は何と3542万人もいます(別冊宝島2130)。宗教的混乱が起こっているのです。
恥かしいことですが、先週、私はある宗教団体の人の話に惑わされてしまいました。韓国の歴史講演会のために来たと言いながら著者が30年間も資料を集め、研究し続けて書いた歴史の本だから、韓国ではよく知られていますが海外同胞にも知らせるために来たといました。それから、この貴重な本を無料で寄付しますので図書館に置いてくださいと頼みました。私は韓国のルーツを教えるためにいい本だと思って受け取りました。でも、彼らの話があまりにもうまかったので韓国から来たばかりの先生たちに確認してみました。全然知らないと言われました。そのうちに、「ズンサンドウ」という宗教団体のものであることがわかりました。私は瞬間的に惑わされていたのです。幸いに彼らの正体が分かったのでその本を生徒たちに配らずに捨てることができました。私たちはこのような偽キリストに惑わされないように気をつけなければなりません。

第二に、戦争や自然災害、苦しみがあっても最後まで耐え忍ぶことです。
6,7節をご覧ください。「また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気を付けて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。」とあります。戦争のことや、戦争のうわさは毎日のように聞こえています。特に韓国は休戦中なので戦争の話を聞いてあわてている人も多くいます。ところが、2013年12月現在で、世界に広がる紛争の数は40以上あると言われました。その紛争地域に暮らす人々の数はなんと23億人を超えると言われています。これは世界の三分の一の人々がなんらかの紛争の影響下に暮らしていることを意味しています。世界の飢餓人口は8億500万人で9人に1人が飢餓に苦しんでいます(国連食糧農業機関(FAO))。「地震」のような自然災害は私たちも身近に経験しています。今年も日本では御嶽山噴火がありました。死者数も雲仙・普賢岳の43人を超え、戦後最悪の57人となりました。ところが、自然災害の中で活火山だけでも世界中に1500ほどあります。日本だけでも110か所があって47か所には監視・観測体制ができているほどです。この地球は、後どれだけ私たちが住むことができるでしょうか。本当に心配される状況です。このような状況の中で私たち人間が直面するのは苦しみです。
8、9節をご覧ください。「 しかし、そのようなことはみな、生みの苦しみの始めなのです。そのとき、人々は、あなたがたを苦しめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。」 とあります。キリストの弟子たちは苦しみに会うことだけではなく、殺されることもあると言うことです。こういう迫害が日本でもありましたし、今もイスラム教の国々では多くの宣教師たちが苦しみに会い、殺されています。そのときは、人々が大勢つまずき、互いに裏切り、憎み合います。人は互いに愛し合う存在なのに互いに裏切り、憎み合います。にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人々の愛は冷たくなります。このような時に、クリスチャンが持つべき態度は何でしょうか。
12、13節をご一緒に読んでみましょう。「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。/しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」。互いに愛し合っているところでは愛することがそれほど難しくありませんが、人たちの愛が冷たくなっている所でキリストの愛を実践することは難しいです。人間関係において愛が冷たくなっている現実はとても辛いしょう。しかも、キリストの愛を証しすればするほど、かえって憎まれることになるとどんなに辛くなるでしょうか。聖書を教えながら愛し続けても分かってくれないし、むしろそれが誤解されて傷付けられるときはほんとうに悲しくなります。さらに、自分のことえもうまく行かないような時には本当に苦しくなります。何もかも放棄したくなるかも知れません。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。「最後まで」と言われているということは、「最後がある」ということです。迫害は終わりがあります。苦しみにも必ず最後があります。だから「耐え忍ぶこと」もできます。(隣の方と挨拶しましょう。最後まで耐え忍ぶ者は救われます。)。では私たちが最後まで耐え忍びながら励むべきことは何でしょうか。
14節をご一緒に読んでみましょう。「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから終わりの日が来ます。」ここで、私たちは終わりの日が来るまで励むべきことが何かを学ぶことができます。それは言うまでもなく全世界に福音を宣べ伝えることです。終わりの日まで励むべきことは全世界に福音を宣べ伝える世界宣教なのです。キリストが再臨されてからは福音を宣べ伝えなくてもいいです。ただ、その日までは全世界に福音を宣べ伝えて行きます。それから、イエス・キリストが再び来られる勝利の日、喜びと感激の日を待ち望むのです。その日の望みがあるからこそ、福音を宣べ伝える伝道、1:1聖書勉強に励むことができます。

第三に、イエス・キリストの再臨を待ち望むことです。
15節をご覧ください。「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば」とあります。このダニエルの預言はルカの福音書にもっと分かりやすく「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら(21:20)」と言い換えています。そして歴史的にローマ軍の包囲によって実現しました。イエス様はその時には「山へ逃げなさい。」と言われましたがそれを知っていたクリスチャンたちはその通りにしたので助かりました。しかし、歴史家ヨセフォスによると、一人の偽預言者が「神殿に上れば助かる」と言ったことを聞いて惑わされた人々は山に逃げなかったために皆死んだそうです。ですから、私たちはイエス様の御言葉をよく覚えていて惑わされないように気をつけなければなりません。終末に現われるにせ預言者達は大きなしるしや不思議なことをして見せるので惑わされやすいです。しかし、そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。なぜでしょうか。イエス様はすべての人が分かるように来られるからです。
27〜29節をご覧ください。イエス・キリストが来られる時は、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来られます。太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。だから、「キリストがここにいる」「そこにいる」と言われなくてもその日はキリストの再臨が分かるのです。
30節をご一緒に読んで見ましょう。「そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」再び来られるイエス様は輝かしい栄光の姿で来られます。その時、なぜ「地上のあらゆる種族は、悲しみながら」キリストを仰ぎ見るのでしょうか。それは再臨の時には、あらゆる人々が神の子であるイエス・キリストを十字架につけて死なせた罪深さを知るからです。その時、キリストが救い主であることが全世界に明らかにされます。神様の主権が全地に表わされます。そのとき、主は、神様を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです(?テサロニケ1:8,9)。しかし、クリスチャンにとってその日は勝利の日であり、喜びと感激の日です。
31節をご覧ください。「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使い達は、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」とあります。その時、いのちの書に名前が記されている人々の名前が呼ばれます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私達が、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。これは主にお会いする大きな祝福です。
今、私たちは鏡にうつすようにぼんやり映るものを見ていますが、その時には、顔と顔を合わせて見ることになります(?コリント13:12)。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります(?テサロニケ4:17)。 現在、私たちは主との親しい交わりに日々あずかっています。夜明けの祈りの時間から主との交わりを始め、生活の中で主と交わりができることは大きな祝福です。しかし、私たちの肉のゆえに、主との交わりに限界があります。けれども、その時には、本当に親しく交わることができるのです。それだけではありません。私たちは私たちより先に召された方々にお会いするのです。どのような状況であるかは分かりません。ただ、その時、私たちに天上のからだが与えられ、誰であるかがわかるようにされて、なつかしい方々との再会ができるのです。また、その時、私たちはキリストに似た者に変えられます(?ヨハネ3:2、3)。パウロは、それを「天上のからだ」「栄光のからだ」と呼んでいます(?コリント15:51-53)。
ですから、選びの民であるキリスト者にとって、イエス様の再臨は、究極的な救いが実現する待望の時であり、喜びの時であり、勝利の時です。この望みは私たちを失望させることがありません。この望みがある時、私たちはどんな苦難の中でも失望することがありません。
従って私たちはその日を待ち望みながら生活をしなければなりません。特に今はいろいろな前兆を通してその日が近づいて来たことが分かります。
32,33節をご覧ください。「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」とあります。この御言葉はイエス様が今まで教えられた終末の前兆を見たら、終末が近づいていると知るべきだということです。ところが、私たちはイエス様の預言の御言葉が一言も間違いなく成就されることを経験しているのです。だからこそイエス様の再臨も確かなものです。
35節をご覧ください。「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」とあります。イエス様は終末の預言が御言葉のとおりに成就することを強調されました。私たちは確かにキリストが大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。従ってどのように生きるべきでしょうか。
42〜44節をご覧ください。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」とあります。
ここで、大切なことは「目を覚ましていなさい。」「用心していなさい。」と言うことです。事実、私たちが目を覚ましていなければ惑わされてしまいます。最後まで耐え忍ぶこともできなくなってしまいます。キリストの再臨を待ち望むこともできなくなってしまうでしょう。従って、私たちはいつでも主を迎えることができるように目を覚ましていなければなりません。それでは目を覚ましているということはどのようにすることでしょうか。
45〜51節をご覧ください。忠実な思慮深いしもべにならなければなりません。忠実な思慮深いしもべは主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えます。主人が帰って来た時に、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。このしもべの立場はすべてのキリスト者に当てはまります。すべてのキリスト者は、主からの賜物を与えられて、その管理を任されているからです。私たちは忠実な思慮深いしもべとして、主から任された努めを全うする生活に励まなければなりません。主は「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と誉めて下さるでしょう。私達が忠実な思慮深いしもべたちになるように祈ります。

 結論、神様は歴史の主管者です。神様が旧約聖書に示してくださったすべての預言、約束の御言葉は新約時代に実現されています。さらに、聖書に預言されたとおりにメシアとして来られたイエス様の御言葉も実現されて来ました。キリストの預言のとおりにこの時代には多くの終末の前兆が起こっています。それほどイエス様が再び来られる時が近づいていることになります。こういう時だからこそ、霊的な価値観、キリストの再臨への望みを新たにして行きますように祈ります。もし、今の苦しみが大変であっても最後まで耐え忍び、主のわざに忠実な思慮深い者として生きるように祈ります。

15ACTS08M 伝道者ピリポ

2015年使徒の働き第8講

伝道者ピリポ

御言葉:使徒の働き8:1-40
要 節:使徒の働き8:12「しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。 」

先週、私たちは殉教者ステパノについて学びましたが、今日は、伝道者ピリポについて学びます。ステパノとピリポは信徒たちの中で中心的な役割を果たしていた人物です。ステパノの殉教が福音伝道の火種となり、ピリポの伝道によって福音の炎がユダヤとサマリヤに広がって行きます。では、ピリポはどのような姿勢で福音伝道に励んだでしょうか。神様は彼をどのように用いられたでしょうか。
この時間、本文の御言葉を通して私たち一人ひとりが伝道者ピリポを深く学んでピリポのような伝道者として成長して行きますように祈ります。

?.サマリヤを開拓した伝道者ピリポ(1-25)
1節をご覧ください。「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。」とあります。ここで「その日」とは、ステパノが殉教の死を遂げた日のことです。その日にエルサレムの教会に対する激しい迫害が起こりました。それで、使徒たち以外の者がみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされました。来週、金ヨハネの牧者は柏市に引越ししますが、それは自分が希望した会社に就職したからです。いろいろ準備して行くでしょう。しかし、エルサレム教会の人々は地方に行くことを希望していませんでした。ただ、迫害のためにユダヤとサマリヤ地方に散らされたのです。それは生活の基盤がない所での大変な生活が始まったことです。それでも、彼らは御言葉を宣べ伝えながら巡り歩きました。彼らは迫害のために自分たちが希望したり、計画したりしなかった地方に行きましたがそれでも御言葉を宣べ伝えたのです。ところが、彼らがそのようにしているうちに神様の御言葉は実現されて行きました。使徒1:8節に「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまで、わたしの証人となります。」とありです。この御言葉のとおりに、福音が散らされた平信徒たちを通してエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土に広がって行ったのです。
このようなみわざはキリスト教の歴史にも現れています。17世紀ヨーロッパで清教徒たちは弾圧・迫害を受けていました。それで、102人の清教徒たちは迫害から逃れるためにメイフラワー号に乗船してアメリカに行きました。アメリカでも大変な生活が続きました。でも信徒たちが御言葉を伝えることによってキリスト教国家のアメリカが建国されました。20世紀は韓国でも36年間の植民地生活、朝鮮戦争の中でクリスチャンは激しい迫害を受けました。多くの方たちが殉教され、教会は焼かれました。ところが、そういう迫害・試練の中でも御言葉を伝えたので、韓国教会に奇跡的な成長がありました。
このようなみわざが私たちのうちにも起こっています。日本UBFの宣教師たちは激しい迫害ではありませんが、就職や進学のために東京から地方に散らされて行きました。それによって日本の13都道府県にUBF教会が開拓されました。全ダビデ宣教師が大学院進学のために長崎に散らされましたが、今年25周年になりました。先月は25周年を記念してセンター購入をし、4月19日には開拓25周年感謝礼拝をささげるそうです。結局、私たちには迫害や試練があっても神様はそれも働かせて益としてくださいます。自分の現実問題のために散らされても、そこで御言葉を伝えるなら、神様は伝道者として用いてくださいます。
5節をご覧ください。「ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。」とあります。おそらく、ユダヤ人にとって行きたがらない地域だったと思われます。なぜなら、サマリヤは、紀元前722年にアッシリヤに侵略されてから混血族になってからは同族ユダヤ人から捨てられ、蔑視されていたからです。でも、ピリポサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを伝えました。すると彼らもピリポの話を聞きました。ピリポの行っていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けました。そこで、福音によって人が生まれ変わるみわざが起こりました。その代表的な例がシモンの変化です。
シモンは魔術を行って、サマリヤの人々を驚かせ、自分は偉大な者だと話していました。「自分は偉大な者だ」と話しているのは、彼はとても自己中心的な人で、高慢な人だったということでしょう。ところが、そんな人でもピリポが伝道すると福音を信じてバプテスマを受けました。さらに彼はピリポについて行くようになりました。魔術師が伝道者の弟子になったのです。それは聖霊がシモンのうちに力強く働いてくださったからです。では聖霊はどのように働いてくださいますか。
 14、15節をご覧ください。「さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。」とあります。聖霊は神様の御言葉を聞いて受け入れる人々のために使徒たちを遣わされました。使徒たちは人々が聖霊を受けるように祈り、彼らの上に手を置きました。すると、彼らは聖霊を受けました。あのペンテコステの日にありました聖霊のみわざがサマリヤの町でも起こりました。
ここで、私たちは聖霊の働きを学ぶことができます。聖霊は聖なる都エルサレムだけではなく、サマリヤのような所にも臨まれるということです。時間的にもペンテコステの日だけではありません。どこでも、いつでも神様の御言葉を受け入れる人々に聖霊が臨まれるということです。そして、聖霊の働きによって人々も、国も変えられるということです。伝道者が御言葉を伝えると、それを受け入れる人々に聖霊が臨まれます。そして使徒の働きによって人々は変えられて行きます。使徒パウロは聖霊の示しによってマケドニア地方に渡って行き、ローマに行って福音を伝えます。すると、人々に聖霊が臨まれ、聖霊の働きによって福音がローマ帝国全体にも広がりました。中世になると、神様の御言葉がフランスやドイツなどのヨーロッパ諸国に伝えられました。近世には、イギリスに、アメリカに広がりました。そして、20世紀にはアメリカから、韓国、フィリピンなどの太平洋沿岸地域も福音が伝えられました。
従って私たちも御言葉を伝えると受け入れる人がいますし、彼らの上にも神様が聖霊を注いでくださるということを信じなければなりません。聖霊は一方的に臨まれる時もありますが、御言葉を受け入れる人たちのうちに、臨まれ、力強く働いてくださいます。それで、だから、使徒ではなく、平信徒であってもサマリヤの人々のように聖霊の働きを体験することができます。ダイナマイトのように爆発的な力がある聖霊の体験ができるのです。
シモンはその驚くべき力を見て、聖霊を受けるようにしてくれる使徒の権威が欲しくなりました。そこで、彼は使徒たちのところに金を持って来て「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にもください。」と言いました。彼は金で聖霊を受けれられるようにする権威を買い取ろうとしました。彼はイエス・キリストを信じ、バプテスマを受けたのにもかかわらず、まだ価値観が変わっていませんでした。そこで、ペテロは何と言いました。
20-23節をご覧ください。「ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」」とあります。金は無くなるものです。ペテロはそれとともにシモンも滅びるがよいと言いました。厳しい言葉です。そして、お金で神の賜物を手に入れようとするのは悪事であることを教えてくれました。シモンは魔術師の世界では金で何でも解決したかも知れません。しかし、教会でもそのような価値観で生きるなら、ダメです。特に聖なる神の賜物を金で買おうとすることは大きな罪です。ここでペテロは「悔い改めて、主に祈りなさい」と言ってから「そうすれば赦される」と言いませんでした。彼は「あるいは」ということば使っています。ペテロは「必ず赦される」と言ったのではなく「赦されるかも知れない」と言ったのです。つまり、金で神の賜物を手に入れようと思っていることは悔い改めても赦されないかも知れないほどに大きな悪事だということです。それは聖霊を汚す罪だからでしょう。ペテロの叱責を受けたシモンは答えて「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」と言いました。やっと謙虚な思いになっていることが分かります。このようにして、使徒たちは、主のことばを語り、教会の問題も解決してからエルサレムへの帰途につきました。そしてその時もサマリヤ人の多くの村でも福音を宣べ伝えました。

?.1:1伝道をしたピリポ(26-40)
26節をご覧ください。「ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)」とあります。主の使いがピリポに行くように指示したガザは荒野でした。だれもいないだろうかと思われるところです。でも、ピリポは立って出かけました。彼は主の指示に従ったのです。そこで、どんな事を体験するようになりましたか。
27節をご覧ください。主の使いに言われた通りにピリポが出て行きますと、そこにエチオピヤ人の女王カンダケの高官がいました。彼は女王の財産全部を管理していて財務大臣のような人です。ここで、神様はこのエチオピヤ人の宦官に出会わせるために、ピリポをわざわざこの荒れ果てた道へと遣わされたことが分かります。ピリポは従順を通して荒野でも人に会わせ、伝道できるようにしてくださる神様の導きを体験しました。
時として神様は、私たちを荒野へと導かれると思われる時があります。私は日本に来てなかなか伝道ができないと、ここは荒野だ、他の国に行った方がいいじゃないかと思いました。ところが、ある日、一人の学生から「モンゴル人みたいに見えますね」と言われました。すると、私はモンゴルに行きないなあと思いました。しかし、神様はある出来事を通して日本人に好感を持ち、愛するようにしてくださいました。
先週、次男が東北大学の受験のために仙台に行ったことで思い出されましたが、私が日本に来て始めて訪問した兄弟は朝鮮語を専攻している「菅原」という兄弟です。1989年に一度仙台に住んでいる彼の家で一泊しましたが、東北大学教授だったお父さんが車に乗せてとても親切に、丁寧に大学の見学をさせてくださいました。その時に日本人に対して非常に良い印象を受けました。モンゴルに行かなくても良いと思うようになりました。神様が私を日本に遣わしたのは、私の考えや思いをはるかに超えた神様の導きがあったのです。
長い人生の中でいったいそこにどんな意味があるのかわからなくて困っている時もあるでしょう。でも、神様を信頼し続けるなら、やがて時が来ると、神様はその意味についても示してくださいます。主は私たちにもエチオピア人の女王の高官のような求道者と出会わせてくださるでしょう。日本の財務大臣のような高官とで出会わせてくださるかも知れません
ピリポが聖霊に従って行くと、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官がいました。女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人です。彼は礼拝のためエルサレムに上り、いま帰る途中でした。彼があの荒地を通っても礼拝のためにエルサレムに行ったことは彼に真理を求める求道心が大きかったと思われます。だから、その日も、彼は揺れる馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいたことでしょう。彼はこのように謙遜になって真理を求めることを通して創造主である神様に出会い、礼拝する時に真の満足があります。神様はカンダケの宦官のように切に捜し求める人に素晴らしい聖書先生を送ってくださいました。
御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われました。そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえました。それで、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言いました。すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言いました。彼は自尊心のために知らないことを知っているふりをしませんでした。彼はピリポに馬車に乗っていっしょにすわるように、頼みました。彼は謙遜にピリポに助けを求めたのです。そのようにしてピリポと宦官は馬車に乗って1:1聖書勉強を始めました。彼が読んでいた聖書の御言葉はイザヤ53:7,8節の御言葉でした。それはイエス様の苦難に関する御言葉です。ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエス様のことを彼に宣べ伝えました。すると、福音が宦官の心の中に働きました。それで彼はイエス様が神様の御子であることを信じました。道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官はバプテスマを受けたいと願い、ピリポは宦官にバプテスを授けました。それから宦官は喜びながら帰って行きました。
このようにして彼が変えられることは、歴史的にどんな意味がありますか。それは彼の一人の変化を通してエチオピアに福音の種が落ちたことです。そして最近までエチオピアはアフリカの唯一のキリスト教の国になりました。彼はアフリカの信仰のアブラハムになりました。これを通して私たちは1:1聖書先生の必要性、聖書勉強の重要性を学ぶことができます。一人との1:1聖書勉強はその国を変えることができます。
この日本にもあのエチオピヤ人の宦官のように神様を捜し求める人々がいるはずです。どうか、私たちが彼らと出会うために、キャンパスに出て行きますように祈ります。キャンパスであのエチオピヤ人のような学生と出会って1:1聖書勉強ができるように祈ります。
  以上から、ピリポはサマリヤの人々に伝道して教会を建て上げ、エチオピヤ人の一人との1:1聖書勉強を通して伝道したことが分かります。彼を用いられた聖霊のみわざは私たちが計り知れないほど深いです。聖霊の働きは私たちの考えをはるかに越えています。ただ、私たちひとりひとりがピリポのように聖霊に従い、聖書を教えるとき、聖霊は私たちを通して働いてくださいます。どうか、私たちがこの日本のためにピリポのような伝道者として導かれ、用いられますように祈ります。

14Matthew15M 良い忠実なしもべ

2014年マタイの福音書第15講 

良い忠実なしもべ

御言葉:マタイの福音書25:1−30
要 節:マタイの福音書25:21「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」

 先週、私たちは「大能と輝かしい栄光を帯びて来られるイエス様」について学びました。イエス・キリストの再臨を待ち望む者は目を覚ましていて忠実な思慮深い者として生きなければならないことも学びました。
今日は二つのたとえを通して忠実な思慮深い者の生き方について学びたいと思います。イエス様の再臨を待っている者としてどのように準備し、どのように生きるかということを学びます。

?.だから、目をさましていなさい(1-13)
1,2節をご覧ください。「そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。」とあります。ユダヤの結婚披露宴は、ほとんどが夜、花婿の家で行われました。花婿は、友人の家か親族の家で身なりを整えてから披露宴会場である自分の家に行きますが、その間に花嫁の家によって花嫁と一緒に行きました。その時、花嫁の友人たちは夜行われる結婚披露宴のためにともしびを用意しました。そして花婿を迎えてからはにぎやかに「ともしび」を掲げて花婿、花嫁と一緒に花婿の家に行くのです。ともしびは今のようなランプではなく、棒に布を巻きつけ、火をつけるたいまつのようなものでした。だから、当時の人々は長く使い時のために油の入れ物を持っていました。
イエス様は、このような背景で行われる結婚披露宴をたとえて天の御国は、それぞれがともしびを持って、花婿を迎える10人の娘のようだと言われました。そして「そのうち、五人は愚かで、五人は賢かった」と言われました。ここで、見ると、「五人は愚かで」が「五人は賢かった」よりも先にイエス様のお口から出ています。このイエス様の話し方にある牧師先生はまったく頭が下がり感激したそうです。なぜなら、あの先生は自分が愚かな息子であることを誇ることはできませんが、イエス様が愚かな者、劣った者にことさらにお心を配り優先的に取り上げてくださったからです。私も愚かな者であるから、聖書を読みながらイエス様の配慮、イエス様の哀れみに気づかされると本当に慰められて感激する次第です。では、このたとえにどんな意味があるでしょうか。
イエス様のたとえで、愚かな娘たちは、ともしびは持っていましたが、油を用意して置きませんでした。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていました。ところが、花婿が来るのが遅れました。みな、うとうとして眠り始めました。眠っているうちに夜中になりましたが花婿の一行が花嫁の家の近くに来たでしょうか。眠っている娘たちに『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声が聞こえました。すると、娘たちは、みな起きて自分のともし火を整えました。ところが、愚かな娘たちのともし火はすぐにでも消えそうになりました。彼女たち、賢い娘たちに『油を少し私たちに分けてください。私たちのともし火は消えそうです』と言いました。しかし、賢い娘たちは答えて『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』と言いました。そこで、彼女たちは買いに行ったのですが、その間に花婿が来ました。入れ物に油を用意していた賢い娘たちは花婿と一緒に婚礼の祝宴に行きました。その後、戸が閉められました。その後で愚かな娘たちが来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と頼みました。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言いました。
結局、彼女たちは婚礼の祝宴が参加できなくなりました。残念ながら愚かな娘たちはともしびを持っていながらも喜びと幸せの祝宴に参加することができなかったのです。このたとえがイエス・キリストの再臨を待ち望んでいるクリスチャンに与える教訓は何でしょうか。
教会には愚かな娘も、賢い娘もいるということでしょうか。50%の愚かな人、50%の賢い人がいるということでしょうか。つまり、天国も偏差値の高いクリスチャンは入れるけれども、偏差値の低い人は入れないところなのでしょうか。 もし、たとえから数字的な意味だけを考えるなら十人の娘のうち五人は愚かで、五人は賢いということになります。ここに40名ほど座っておられますが、20人は賢く、20人は愚かであると言うことになります。しかし、決して、そんなことはありません。聖書はイエス・キリストの十字架による贖いと赦しを信じるだけで私たちの罪が赦されて救われると教えています。私たちは神様のひとり子イエス様の十字架と復活による救いを信じることによって救われて神様の子どもとされ、永遠のいのちを得ます。それで私たちは「ただ信ぜよ。ただ信ぜよ。信じる者はみな救われます。」と教えています。「イエス・キリストだけが唯一の救い主、ただ信仰によって救われる」と言うことが福音であり、キリスト教の信仰の原理なのです。賢いか愚かかということによって救われるか救われないかが決まるのではないのです。そこでイエス様はたとえの結論として言われました。
13節をご一緒に読んでみましょう。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」イエス様はたとえの結論として「目を覚ましていなさい」と言われました。それは私たちがその日、その時を知らないからです。終末に、世の終わりに、イエス様が再び来られる時にも同じようなことが言えるということです。私たちクリスチャンが待ち切れないほどにキリストの再臨が遅くなることもあり得るということです。もう再臨はないだろうと思われるほどに遅くなることもあり得るのです。しかし、確かなことはキリストが再び来られるということです。今晩、来られるかも知れません。明日来られるかも知れません。だから、私たちはいつも目を覚ましていなければならないのです。では、眠っていてはいけないでしょうか。
礼拝の時にメッセージを始めると、眠り始めているように見える方もいますがイエス様のたとえでも5節を見ると10人の娘たちはみな、うとうとして眠り始めました。この娘たちもコックリコックリして眠り始めました。ただ、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声が聞こえると起きました。礼拝の時も「叫ぶ声」が聞こえた時に起きてもいいでしょう。大切なのは油の用意をしているかどうかということです。ともしびを持っていても油の用意をしていなければなりません。「油断大敵」という諺があります。「油断」という言葉の語源を調べてみると「ともしび」などの油の準備を怠けったため夜中に油が切れ、敵に襲われ命を落とすことから「油断」になったという説がありました。そのようなことが5人の娘たちに起こりました。5人の娘たちは間に合わないで戸の外に締め出されたのです。では、このたとえで「油」とは何を意味するでしょうか。油とは聖霊のことであり、キリストを信じる人に与えられます。つまり油を用意しておくということは信仰を保ち、信仰によって聖霊に満たされていることです。
信仰は心の中の問題ですから外からは見えません。しかし、行ないは形の上に現れて人々から見えます。それゆえ、人はとにかく外側の行ないには気を配ります。偽善の律法学者、パリサイ人もそうでした。ところが、私たちクリスチャンでさえ、心の中のことはおろそかにしやすいです。しかし外側の行ないが輝くともしびのように立派に見えても心の中に信仰がなければ聖霊との交わりはできません。信仰がなければ外側の行ないも長続きしません。それで外側の行ないがどのように立派に輝いていてもそれだけで主の御前に立つことはできません。「油」本当の信仰、聖霊を「入れ物」、すなわち外からは見えない心の中に入れて置かなければならないのです。
そして、この信仰はとは、個人的、主体的なものです。賢い娘たち「いいえ。あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。」と言いました。冷たく感じますが、これはやむを得ないことです。なぜなら信仰は仲間入りとかおつきあいとかではなく、一人一人「それぞれ」「神様と私」との直接のかかわりです。おのおの自分のを買わなければなりません。イエス様を信じて自分の口でキリストとして告白するなら、その人のうちに聖霊が臨まれます。聖霊の油が注がれて「入れ物に油を持っている」クリスチャンになるのです。それでいつキリストが来られても喜んでキリストを迎え入れることができます。婚礼の祝宴に象徴される喜びと幸せの天国にはいるのです。ではその日、キリストが再び来られるその日までクリスチャンはどのような生活をしなければならないでしょうか。

?.良い忠実なしもべ(14-30)
イエス様は愚かな娘、賢い娘のたとえ話に続いて「良いしもべ」と「悪いしもべ」のことを教えてくださいました。天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。主人は自分の財産をしもべたちの能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけました。当時の労働者の一日分の賃金は一デナリでした。一タラントは6千デナリです。一デナリを1万円にすると、一タラントは6千万円に相当するということです。2タラントの人は1億2千万円、5タラントの人は3億円です。彼らがいかに莫大な資産を任されたかが分かります。しかも、おのおのその能力に応じて資産を預けました。それほど、主人はしもべたちを愛し、信頼していたことでしょう。では、主人が留守の間、三人のしもべたちはどう過ごしたでしょうか。
16‐18節をご覧ください。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけました。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけました。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠しました。彼は商売をして一タラントもうける能力を持っていました。しかし、彼は商売をしませんでした。彼は地を掘って、その主人の金を隠しました。では彼らに対する主人の評価はどうですか。
19節をご覧ください。「さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。」とあります。清算をしてみれば、赤字か黒字かが明確に分かります。五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言いました。「ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。」彼は二倍の利益を残したことを報告しました。その主人は彼に何と言いましたか。
21節をご一緒に読んで見ましょう。「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」主人はしもべを賞賛し、その喜びを分かち合おうとしました。22,23節を見ると、二タラント預かった者も同様に2倍の利益を残して来ましたがイエス様から同じく称賛されました。
彼らがほめられたのは、2倍の実績ではなく、わずかなものに忠実だった心の態度です。聖書の中で「忠実な人」というのは、真実な人、心変わりをしない人、途中で変わらない人、信仰の人を意味します。神様の御前に筋を通して生きている人のことです。主人は主人から預かった物に対する心のあり方、その態度を高く評価してくださったのです。そして、その態度に対して主人は非常に喜んでいることが分かります。主人は彼らにたくさんの物を任せることを約束し、「主人の喜びをともに喜んでくれ」と言いました。
ここで、私たちがわずかな物に忠実な者になると、たくさんの物が任され、神様に喜ばれることが分かります。ところが、多くの人々はたくさんの物が任されたら忠実に働けるけれども小さな物、わずかな物のために忠実になろうとしません。むしろ、小さなもの、小さなことはおろそかにしてしまいます。
私たちクリスチャンも教会生活において小さなことはおろそかにしてしまいがちです。1、2分の祈りには意味を感じません。祈るなら短くても1時間はしなければ・・・と思っている人もいます。メッセージを伝えること、賛美を導くことは大事に思うけれども、兄弟姉妹たちと話し合い、交わること、1分の祈り、1チームの1:1聖書勉強などは軽く思ってしまいがちです。しかし、わずかな1分の祈りができなければ1時間の祈りもできないでしょう。小さなことにも丁寧に生きる人は神様に喜ばれ、祝福されます。
私は自分にはあまり能力がないと思っています。一タラント預かったような者です。思慮深い、頭の良い、賢い人でもありません。ただ、小さなことでも忠実にやろうと心掛けています。自分のことで恐縮ですが、短くても毎日夜明けの祈り、日ごとの糧を書いて食べようとしています。聖書勉強会の時、1:1の時は5分でも早く着いて準備しようと心がけて来ました。毎週の家庭礼拝もほんとうに短い時間ですが変わらずにささげようとして来ました。ところが、振り替えてみると、私の小さなこと、本当にわずかなものに忠実にやろうとした心掛けを大きく祝福してくださいました。ほんとうにわずかなことでも長く忠実にやっていくうちに、成長しますし、大きなこともできるようになって行きます。それを通して大きな場面でも神様に用いられ、喜ばれるようになるのです。ところが、一タラントを預かった者はどうなりましたか。
24、25節をご覧ください。「ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』」とあります。このしもべは自分に預けられたタラントが他の二人に比べて少ないことで内心面白くなかったかも知れません。あまりにも少ないから「蒔かない…、散らない…」と思っていたかも知れません。何よりも彼には主人に対する愛も信頼もなく、「ひどい方だ」と分かっていました。その恐れ、不信仰のために自分のものを少しも投資することができませんでした。それにもかかわらず、相手を悪者に仕立てて自分を正当化しようとしています。罪深い悪人根性をむき出しにしたのです。そこで、主人は彼のどんな点をとがめましたか。
26、27節をご覧ください。「ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけな者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。』」とあります。主人は彼が悪い怠けな者のしもべであることを明らかにしました。結局彼はどんな罰を受けるようになりましたか。
28-30節をご覧ください。「だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。役に立たぬしもべは、外の暗闇に追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」一タラント預けられたしもべはその一タラントまで取り上げられます。役に立たぬしもべとして外の暗闇すなわち、永遠の滅亡に突き落とされてしまいます。
ここで、一タラント預けられたしもべの問題は怠けていたことです。その原因は不信仰です。主人は彼を愛し、彼を信頼していたからこそ、彼の能力に応じて一タラントを預けました。ところが彼は主人に対して「ひどい方だ」と思っていました。主人の愛と信頼を信じなかったのです。このように信仰がなければ人は不安になり、その不安から消極的になります。怠け者になります。
私は学校で生徒たちと話し合いの中で感じていることの一つは子どもに大人に対する信頼がなければ学習意欲も落ちてしまうということです。親に対する信頼、先生に対する信頼がある子どもは意欲的になり、積極的になります。しかし、家庭問題、両親の仲が良くないことに気づいている生徒は学習意欲を失ってしまいます。先生に対する信頼を失った時もその科目の勉強ができなくなってします。同様に神様に対する愛と信仰がなければ怠け者になってしまうでしょう。反対に、家庭問題があり、教師に対する不満があっても神様の愛、自分に対する神様の信頼を強ければその分積極的になります。勤勉な人にもなります。神様のために忠実な生活ができます。神様から愛されている、信頼されているという確信があるから恐れることなく挑戦し、利益を残すこともできます。五タラント、二タラント預かった人はとても主人を愛していました。だから、自分に与えられたタラントを生かして一生懸命に、忠実に働くことができます。神様を愛する人もそうなるのです。それによって有益を残して神様を喜ばせ、自分も喜べるようになります。
結局、終末が近づいているので人々の間で愛が冷たくなっていますが、それでも私たちクリスチャンは信仰を失っていけません。ますます信仰を強くして聖霊に満たされて行かなければなりません。神様が自分を愛し、信頼して自分の能力に応じて与えられたタラントを感謝して忠実に生きることが大切です。どうか、今週もご自分のひとり子さえも惜しまずにお与えになったほどに私を愛し、信頼してくださる神様へ愛と信仰によって良い忠実なしもべとして生きるように祈ります。

15ACTS09M わたしの選びの器です

2015年使徒の働き第9講

わたしの選びの器です

御言葉:使徒の働き9:1−31
要 節:使徒の働き9:15「しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」」

今年、私たちは使徒の働きを学び始めてから先週まで福音がエルサレムからユダヤとサマリヤの全土まで伝えられたことを学びました。特に、先週は伝道者ピリポによってアフリカのエチオピヤ人にも福音が伝えられたことを学びました。
今日はイエス様がご自分の御名を運ぶ器、選びの器にされたパウロについて学びます。彼はどのようにしてイエス・キリストに出会ったでしょうか。パウロがイエス様に出会い、回心したことはキリスト教の歴史にとってきわめて重大な出来事です。使徒の働きの中に三度も繰り返して記されているほどに大切な出来事です(22:3-16、26:9-18)。
御言葉を通してパウロをキリストの御名を異邦人に運ぶ器として選ばれた神様の愛とご計画を悟ることができるように祈ります。同時に、私たち一人一人をキリストの御名をこの日本人に、世界のキャンパスの学生たちに運ぶ器として選んでくださった神様の御心も深く悟り、キリストの選びの器としての姿勢を新たにして行くことができるように祈ります。

1節をご覧ください。「さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、」とあります。先週、学んだようにサウロはステパノを殺すことに賛成していました。それだけではありません。サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れていました(8:1,3)。しかし、クリスチャンに対する彼の敵意はそれで収まるものではありませんでした。「なおも」主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えていたのです。その熱心さはエルサレムから約200キロメートルも離れているダマスコまでも手を伸ばそうとしたほどです。彼は大祭司にダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるように頼んでいます。それはダマスコのクリスチャンを、男だろうが女だろうが、見つけた次第縛り上げ、エルサレムに連行するためでした。ところが、そんな彼にどんなことが起こりましたか。
3-7節をご覧ください。「ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。」とあります。
ここでサウロとはアラム語の名前で、一般にはパウロ(小さき者)と言われています。そのサウロがダマスコの近くまで来たときに、不思議な経験をしました。それは同行していた人たちも目撃していたことから分かるように、実際にあった出来事です。ここでイエス様はサウロに「なぜわたしを迫害するのか。」と言われました。サウロが迫害していたのは、クリスチャンや、その教会でした。イエス様に対してしたことではありませんでした。しかし、イエス様は「なぜわたしを迫害するのか。」と言われたのです。なぜなら、教会はキリストの体であり、キリストは教会のかしらであるからです(コロサイ1:18)。私たちクリスチャンはイエス・キリストの体の一部です。だから、私たちが痛い時に、イエス様も痛く、私たちが悲しい時にもイエス様も悲しんでおられます。同じ体だからこそ、私たちと共感し、同情しておられます。時々、私たちは誰も自分と共感してくれないような寂しさを経験します。辛くて苦しい時もあります。イエス様はそのような私と共感し、私を深く同情しておられます。私の味方として私を助けてくださいます。
パウロは先頭に立ってクリスチャンを迫害していました。ユダヤ人はステパノを石で打ち殺しました。その時もイエス様は迫害を受け、石で打ち殺される苦痛を経験しておられたのです。だからイエス様は「サウロ、サウロ、なぜわたし(・・・)を迫害するのか」と言われました。サウロが「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、「わたしは、あ(・)な(・)た(・)が迫害しているイエスである。」と答えられました。多くの人々が迫害を受けましたが、イエス様は「私たちは…」と言われませんでした。また、多くの人々がクリスチャンを迫害しました。しかし、イエス様は「あなたがたが・・・」と言われませんでした。イエス様は「わたし」と「あなた」という1対1の関係の中で話しておられます。パウロからは「教会を迫害したのは私だけではないでしょう?」と言い返したくなるような場面です。しかし、イエス様はパウロを1対1の人格的な関係の中に入れていることが分かります。イエス様は私にもイエス様と1対1の人格的な関係の中に入っていることを願っておられます。
私たちに仲間意識があります。良い意味での仲間意識が強くなると、互いに協力し合い、励まし合って行くことができると思います。ところが、自分の罪や過ちに対しても自分が責任を取ろうとしないで、仲間と一緒に責任を取ろうとします。何か悪いことが指摘されても「私だけではないでしょう。」と言います。
たまに私は「2階のゲストルームの隣にあるトイレは電気がついていたよ」と言われます。主に私がゲストルームを使っているので『気をつけなさい』と言われているような気がします。そこで私は「私だけじゃないでしょう」と言い返したくなります。しかし、イエス様は私に「あなたが消してほしい」と言われると思います。ヨハネの福音書を見ると、ペテロはヨハネのことを指して「主よ。この人はどうですか。」と言います。するとイエス様はペテロに「私の来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたはわたしに従いなさい。」と言われました(21:21、22)。イエス様は私たちがご自分のとの個人的な関係性、1対1の人格的な関係性を持っていることを願っておられるのです。
そして、イエス様は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである「I am Jesus.」」と言われました。「イエスであった」ではありません。つまり、イエス様は今も生きておられるということです。十字架にかかられて知らなれたイエス様が復活し、天に上られましたが、聖霊によって今も生きておられるのです。ですから、イエス様は「立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」とも言われました。イエス様は生きて働いておられることが分かります。これからパウロが町にはいり、そこでしなければならないことも教えてくださいます。ずっと彼とともにおられ、彼とともに働いてくださいます。では、イエス様に出会ったサウロはどのように変えられたでしょうか。
8,9節をご覧ください。「サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。」とあります。地に倒れていてイエス様の御声を聞いたサウロは地面から立ち上りましたが、何も見えませんでした。目は開いていても何も見えなかったのです。そこで人々は彼の手を引いてダマスコへ連れて行きましたが、彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしませんでした。三日間、お墓の中にいる人のように暗闇の中で飲み食いもできなかったのです。彼はイエス様が十字で死なれてから三日間はお墓の中に葬られていた状態を経験しました。その三日間、サウロは完全に低められていたことでしょう。そこで何を考えたでしょうか。多くの苦しみを受け、イエス様にかかられて死なれ、三日間葬られてイエス様の十字架の死を考えたことでしょう。自分が迫害し、殺すようにしてしまったステパノの殉教を考えていたでしょう。何よりも罪人のかしらのような自分から迫害を受け、自分の罪のために死なれたイエス様のことを深く、深く考えていたと思われます。それによって彼はイエス様との真実な出会いが確かめられ、確信することができたと思われるのです。
では私たちはどうでしょうか。私たちがイエス様に出会った経験はどのようなものだったでしょうか。サウロがあのダマスコで経験したようなイエス様との出会いがあるでしょう。はたして私のダマスコはどこでしょうか。
私たちはサウロのように超自然的な、不思議な体験ではなかったも知れません。しかし、イエス様との出会いがあったはずです。世界UBF総裁のアブラハム金宣教師は博士論文ができなくて非常に困っていました。ところが、ある晩、夢の中で実験の方向が示されました。その通りにすると、素晴らしい論文ができました。その論文で博士号をとり、陸軍士官学校の教授になったと証していました。こういう経験をする方も多くいます。静かに、1:1聖書勉強を通して真理の御言葉の意味を深く悟ってキリストに出会った人もいます。どっちにしてもイエス・キリストの出会いがあったからこそクリスチャンになっているはずです。
ところが、長い人生の中で、イエス様との出会いの喜びを忘れてしまう場合があります。イエス・キリストを信じ、教会に通っていても、イエス様に出会った自分のダマスコの喜びも、感激も失っているのです。いつの間にか実際の生活の中でイエス・キリスト以外のものを追い求めていることはないでしょうか。イエス・キリストの御名によって自分の必要ばかり求めていることはないでしょうか。もし、今の自分の心にイエス様との1対1の人格的な関係性、それによる喜びと感謝がないなら、ダマスコの向かっていたパウロのようになっていることだと思います。神様を信じて熱心に働いていてもイエス・キリストと出会いがなければ、それこそ熱心にダマスコに向かっていたサウロと同じ状態です。
私たちはただ熱心に生きることだけではなくk、イエス様との出会う喜びと感激が必要だと思います。そのためにはパウロが経験した三日間のダマスコが必要でしょう。三日間の断食をしながらイエス様の御声に耳を傾け、イエス様と交わるのです。三日間の断食ではなくても静かにイエス・キリストを黙想する時間が必要です。そのようにしてイエス様に出会うことを経験して行くのです。そこでサウロのように悔い改め、主に人生を明け渡さなければならないのです。そのときサウロがパウロに返られたように、私たちも神の器へと変えられていくのです。そして、今まで迫害していたイエス様のために、いのちまでもささげるようになります。ですから、今日、イエスの御前に進み出て行きましょう。イエス様のもとに出る者に、主は真理を示してくださり、栄光から栄光へと主と同じ姿へと変えてくださるのです。
 さて、イエス様はサウロのためにダマスコにいるアナニヤという弟子を用意されました。主が彼に幻の中で、サウロに尋ねるように言われました。しかし、アナニヤはサウロがどんな人であるかを知っていたのでためらいました。しかし主は彼に命じられました。
 15、16節をご覧ください。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」この御言葉から私たちは大切な事実を学ぶことができます。
第一に、サウロはキリストの御名を運ぶ器であるということです。パウロはイエス・キリストの御名を異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶことです。器の分け方にもいろいろあると思いますが二種類に分けることもできます。「見せる器」と「運ぶ器」です。ある時、伊勢丹新宿本店で開かれたイベントに出展された器も見たことがあります。ある作品は桜そしてライラックの色合いがやさしく心を癒してくれました。このように、見せるために、展示のために造られた器は美しさが求められるでしょう。しかし、物を運ぶ器は違います。見せるために、飾りのために造られた器ではありません。色合いよりも鍛えられた強さが求められます。そして、器そのものよりも何を運ぶかが大切です。王様は自分の宝を入れた器を大切にするでしょう。
神様はパウロを貴いキリストの御名を運ぶ器として選ばれました。世のどの宝よりも大切なイエス・キリストの福音を宣べ伝える器として選ばれたのです。神様はその器をどんなに大切にされるでしょうか。パウロはキリストの御名と名誉のために用いられる器です。神様は彼をとても大切にし、どんな迫害を受けても壊れない器として鍛えて用いられます。もちろん、パウロは見せる器ではなく、運ぶ器だからこそ苦労も多いでしょう。神様はアナニヤに「彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないか」と伝えるように言われました。パウロがキリストの御名を世界に運ぶためには苦しみも必要でした。しかし苦労しても福音のみわざのために、御名のためにする苦労は栄光あるものです。それは価値ある苦しみです。なぜなら、彼を通して運ばれるキリストの福音によって多くの人々が滅びから救われるようになったからです。また、彼自身のためにも神様が用意しておられる義の栄冠が用意されているからです。
第二に、サウロは選びの器であるということです。イエス様はサウロを一方的な恵みによって選ばれました。イエス様は彼に大きな御旨を置かれました。彼を通して異邦人に福音を宣べ伝えさせようとしたのです。サウロは人間劇に見ると優秀なユダヤ人でした。ローマの市民権を持っていました。また、彼は当時有名なガマリエルの門下で学び、当時の哲学や思想に優れていました。また、彼には自分のいのちをも捧げて任された使命を果たす忠誠心と熱情がありました。しかし、パウロが選ばれたのは彼の国籍や身分、人柄や実力ではありません。霊的にみると、彼は迫害者です。彼自身が告白しているとおりに罪人のかしらです。そんな彼を神様は一方的に選んでくださったのです。イエス様はご自分の敵になっている彼を一方的な恵みによって選ばれました。同様に、私たちが選ばれたのは一方的な神様の恵みです。神様は一方的な恵みによってこの時代の大学生たちに、この日本にキリストの御名を運ぶ、福音を宣べ伝える者として選んでくださいました。私たちを選びの器にしてくださった主の恵みを賛美します。
サウロは復活したイエス様に出会った後、ただちに、諸会堂で、イエス様は神の子であると宣べ伝え始めました。サウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせました。彼はイエス様の復活の証人となりました。彼は過去イエス様を迫害する不義の器でしたが、これからは主と福音のために自分のからだを義の器としてささげるようになりました。彼は罪人のかしらであった自分を救い出し、主の働き人としてくださった恵みを忘れず、謙遜に、そして忠実に世界宣教の使命のために働きました。このパウロの姿勢は今の私たちに模範となります。

結びの言葉として31節をご一緒に読んでみましょう。「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。」激しい嵐が通った後には平安が教会を訪れました。サウロ一人の回心によって神様のみわざはますます盛んになりました。
今日も神様はご自分の主権によってご自分の御名を運ぶ人を選び、救いのみわざを成しておられます。どうか、私たちがどのようにして救われたのか、イエス様との出会い、イエス様との初恋の思い出を思い出しましょう。何のために私を選んでくださったのかを考えてみましょう。どうか、私たちがキリストの御名をこの日本に、世界に運ぶ選びの器として尊く用いられますように祈ります。

14Matthew16M あなたのみこころのように

2014年マタイの福音書第16講

あなたのみこころのように

御言葉:マタイの福音書26:31−56
要 節:マタイの福音書26:39「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」」

先週、神様が収穫感謝祭の礼拝を大きく祝福してくださったことを心から感謝します。私たちクリスチャンにとってすべての事について感謝することは、キリスト・イエスにあって神様が私たちに望んでおられることです。(?テサロニケ5:18)。ところが、私たちの日々の生活はどうでしょうか。いつも喜んで感謝することができているでしょうか。なかなかできない場合もあると思います。むしろ、苦しくて悲しくて辛い時もあるでしょう。目の前にある重い十字架のゆえに、苦しみ悶える時もあるはずです。実は、イエス様もそのようなことを経験なさいました。イエス様は十字架の死を目の前にして、どうしてよいか分からない悲しみを経験なさいました。悲しみのあまり死ぬほどでした。では、イエス様はどうやってそういう悲しみを乗り越えて神様の御心を行なうことができたでしょうか。それは祈りによってです。イエス様は私たち全人類を救うために汗を血のしずくのように大地にしたたらせながら祈られました。そのイエス様の祈りは「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と言うことでした。この時間、このゲツセマネの祈りを通して本当に成熟した祈りを学ぶことができるように祈ります。

マタイの福音書26章にはイエス様が十字架にかかって死なれる直前の出来事が記されてあります。その時にユダヤの地では過越の祭りを迎えて、小羊をほふる準備も整えました。何千、何万頭もの小羊をほふろうとしていました。あちこちから「メーメー」鳴き声が聞こえていました。その翌日、イエス様は、世の罪を取り除く神の小羊(ヨハネ1: 29)として十字架にかかって死なれます。神様が計画し、準備された通りにイエス様は私たち人間の罪を背負って十字架につけられ、贖いの血を流されるのです。そこで、イエス様は、地上での最後の晩餐会の時に、ご自分が流される血の意味について教えてくださいます。それは、私たちの罪を赦すために多くの人のために流される契約の血です。
26章26〜29節をご覧ください。「また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これはわたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。ただ言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどう酒の実で造った物を飲むことはありません。」とあります。ルカの福音書22章19節を見ると、イエス様はパンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」と言われました。イエス様は最後の晩餐の時に聖餐式を制定し、それを行なうように命じられたのです。それで、今日も私たちはイエス様を覚えて聖餐式を行ないます。
最後の晩餐を終えたイエス様は弟子たちと共にオリーブ山のゲツセマネという所へ出かけて行きました。「ゲツセマネ」には「油絞り」という意味があってそこはオリーブの実を砕いて油を絞る場所でした。イエス様はここで「血の汗」(ルカ22:44)を流して祈ります。その姿は、ひきうすにかけられたオリーブの実のようであったでしょう。イエス様はそのゲツセマネの祈りを前にして弟子たちにどんなことを言われましたか。
31、32節をご覧ください。「その時、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」とあります。ここで「わたし」とは父なる神様であり、「羊飼い」はイエス様です。そして散り散りになる「羊の群れ」は弟子たちのことです。イエス様は弟子たちがイエス様のゆえにつまずき、散り散りになることを預言されました。しかも、明日か一週間の後でもなく、今夜、弟子たちが散り散りになると言われたのです。すると、ペテロがイエス様に答えて言いました。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」と。ペテロは何があっても自分は決してつまずかないと言い張りました。そんな彼にイエス様は何と言われましたか。
34節をご覧ください。イエス様はペテロに言われました。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」イエス様はペテロがいかに弱い存在かを示してくださいました。自分が言い張った誓いでも守れない、一日も経たないうちに破ってしまう存在だということです。ペテロは自分の弱さが指摘されると「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」ともっと強く自分の意志をアピールしました。実際に彼は何もかも捨ててイエス様に従って来た人です。それほどイエス様に対する忠誠心が燃えていたのです。でも、彼は自分の弱さに気づいていませんでした。また、自分の背後に働いているサタンの力も知りませんでした。
このように、人間は自分の弱さを知らなければ神様に頼ろうとしません。たいてい、ペテロのようにプライドのある人は神様に祈ろうとしません。自分を信じて頑張るけれども祈りません。自分の弱さを認めたくない本性的な高慢があるからだと思います。だから、人は本当に絶望的な自分の弱さが示されることがなければ神様に頼って祈ろうとはしません。しかし、イエス様はどうなさいましたか。
36節をご一緒に読んでみましょう。「それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」イエス様は「祈ろう」となさいました。しかも「祈っている間」と言っておられるのは、祈るのに時間がかかると言うことです。そこで、イエス様は弟子たちに「ここにすわっていなさい。」と頼まれました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」とも言われました。ここで、イエス様は悲しみのあまり死ぬほどであると言っておられます。たいてい、人は自分の子どもや弟子のような人には弱音を吐けません。しかし、イエス様は弟子たちに「悲しみのあまり死ぬほどです。」と言われました。それはイエス様が人類のすべての罪を背負って神様の呪いを受ける十字架の死を目の前にして限りなく弱い自分を知って祈ろうとしたからです。ではそのような時、イエス様はどんな姿勢で祈られましたか。
39節をご一緒に読んでみましょう。「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』」イエス様は最初に「わが父よ」と祈られました。それほど親しみと信頼があるということです。事実、神様とイエス様、聖霊は三位一体です。一つなのです。ところが、「この杯を飲む」とは神様とイエス様が断絶を味わうことです。イエス様は神様から見捨てられるのです。自分の関係のない人との断絶は悲しくありません。しかし、親しければ親しいほど、一体感が強ければ強いほど見捨てられた時の悲しみは大きいものです。ところが、イエス様は永遠の昔からひとつになっていた神様との交わりを切り離され、見捨てられる経験をなさるのです。ですから、イエス様は、文字通り死ぬほどに悲しむ中で「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈られました。しかし、自分の気持ちを表わすことだけに留まりませんでした。イエス様は、「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と祈られています。イエス様は、父のみこころが成し遂げられることを、ご自分の願いよりも優先されました。
ここで、私たちクリスチャンが求めるべき究極的な祈りの姿勢、成熟したクリスチャンの祈りを学ぶことができます。私たちが何でも自分のほしいままに祈ることも悪くありません。私たちは自分のありのままを神様に告げて祈る必要があります。自分が苦しみの中にいるなら、苦しいと言うのです。悲しみの中にいるなら、悲しいと告白するのです。ただ、いつまでもそれだけなら、信仰の成長は止まってしまうでしょう。祈りを通して神様を経験することができなくなって行きます。
私たちがもっと成長して行くことを願うなら、祈っている間に神様を経験する必要があります。まず自分の苦しみも、悲しみもありのままで主の御前に告げます。そこから自分の願いを求めて祈ります。五分でも十分でも祈ってみるのです。イエス様のようにひれ伏して祈ることもいいでしょう。そのようにして祈っている間に神様の臨在を経験します。そして、祈っている間に神様の御心が示されると、自分の願いではなく、神様の願いを受け入れることが信仰です。イエス様は、私たちに模範を残されました。自分の願うことではなく、神様のみこころがなされることを願う祈りです。これこそ私たちのあるべき祈りです。
実は、イエス様が悲しみのあまり死ぬほどの苦しみを経験しながらも神様の御心を求めたからこそ人類の救いのみわざが成し遂げられました。私たちは自分の願いより神様の御心を求めることによってこの日本と人類の救いのみわざに用いられるようになります。ではイエス様が祈っている間に弟子たちは何をしていましたか。
40節をご覧ください。イエス様は祈り終えてから弟子達のところに戻って来られました。ところが、弟子達は眠っていました。そこで、イエス様は「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。」と叱られました。多くの人は「一時間も祈るんですか。」と言います。一時間も祈ることは長いと思っているからでしょう。ところがイエス様は「一時間でも…」と言われました。ここで、イエス様が弟子たちに、最小限一時間でも祈れる人になってほしいと願っておられたことが分かります。時には一時間でもイエス様と一緒に祈ることを願っておられるのです。私たちが一時間でもイエス様と一緒に祈ることができるように祈ります。ではなぜ弟子たちは目を覚まして祈らなければなりませんか。
第一に、サタンの誘惑があるからです。41節をご覧ください。「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。」私たちが祈り続けるのは、誘惑に陥らないためです。今日もさまざまなことを通して私たちを誘惑しています。眠り、食欲、SNS,インターネットなどが私たちを誘惑します。特にサタンは私たちに「忙しいからしようがない」と思わせて祈らないように誘惑していると思います。私たちに「忙しい、忙しい」と思わせて祈らない人生を送るように誘惑しているのです。ですから、私たちはそういう誘惑に陥らないように祈らなければなりません。実は忙しいからこそ祈らなければなりません。宗教改革者マルティン・ルターは、友人へ手紙にこう語っています。「今日、私は2時間の祈りを必要とするほど忙しかった」。私たちはこうした感覚からはずいぶん遠いところに生きています。忙しければまず削ってしまうのが祈りの時間、あるいは礼拝かもしれません。しかし ルターは今日なすべき一日の務めの重さを思えば思うほど神様の助けと導きなくして務めを果たすことができない自分であることを知っていました。それゆえ「2時間の祈りを必要とするほど忙しかった」のです。つまり、忙しければ忙しいほどもっともっと祈っていたのです。私たちも忙しければ忙しいほど祈る生活ができるように祈ります。
第二に、肉体が弱いからです。イエス様は「心は燃えていても、肉体は弱いのです。」と言われました。その時に、ペテロ達の心は燃えていたかも知れません。しかし、肉体は弱くて眠ってしまいました。ではイエス様の肉体は特別に強かったのでしょうか。いいえ。人となられたイエス様の肉体も私たちと同じく弱かったのです。イエス様がお疲れになっていた時は、突風が吹いてきても船の中で眠っておられました。それほどイエス様の肉体も弱かったのです。だからこそ、イエス様は祈られました。ご自分の弱さを認めたからこそ神様に頼らざるを得なかったのです。本当に自分の肉体の弱さが分かるなら謙遜になって祈るはずです。どうか、自分の弱さを認めていつも祈り続ける者になることができるように祈ります。
42節をご覧ください。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」この祈りは最初の祈りと内容が少し違います。最初の祈りでイエス様はできるならその杯を過ぎ去らせてくださるように祈りました。しかし今度は「どうぞみこころのとおりをなさってください。」と祈られました。イエス様が二度目の祈りをして戻って来て、ご覧になると、弟子達はまたも眠っていました。目をあけていることが出来なかったのです。イエス様は、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じ事を繰り返して三度目の祈りをされました。イエス様は孤独な祈りの戦いをなさいました。ではこのように祈りを続けられた後、イエス様の姿はどのように変わりましたか。
45、46節をご覧ください。それから、イエス様は弟子達のところに来て言われました。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」イエス様が祈っている間に何が起こったでしょうか。悲しみのあまり死ぬほどだった姿ではありません。勝利の確信に満ちた姿が思い浮かばれます。イエス様は祈っている間に神様を経験しておられたことが分かります。祈りを通して悲しみの十字架を担える力をいただきました。イエス様は祈りによってすでに十字架への道を邪魔するサタンに打ち勝たれたのです。ですから、イエス様は力強く「見なさい。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。」と言っておられます。イエス様は祈りによって確信と力を得られたことが分かります。神様は祈っておられるイエス様の味方になって勝利を与えてくださいました。
神様は祈る人の味方です。私は収穫感謝祭を通して今年を顧みてみると詩編118章5〜9節が思い浮かびました。開いてみてください。「苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。主は、私に答えて、私を広い所に置かれた。主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。主は、私を助けてくださる私の味方。私は、私を憎む者をものともしない。主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりもよい。」とあります。私たちが苦しみのうちにいても、主を呼び求めるなら、主は私たちを助けてくださいます。主は私たちの味方だからです。私たちが祈りによって霊的な戦いで勝利し、自分の十字架を負うことができるように祈ります。何よりも祈りによって神様のみこころに従うことができるように祈ります。

結論的に、イエス様は押し迫って来る苦しみと試練を前にして祈られました。神様の御前でひれ伏して切実に祈られました。 『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』イエス様はこの祈りによって激しい葛藤と悲しみを乗り越え、積極的に十字架を負って行かれる力を得られました。そしてその祈りがあったからこそ、人類の救いのみわざを成し遂げることができました。私たちもイエス様のように祈ることによって神様のみこころに従い、人類の救いのみわざに用いられますように祈ります。

15ACTS10M 異邦人に福音を宣べ伝えたペテロ

2015年使徒の働き10講

異邦人に福音を宣べ伝えたペテロ

御言葉:使徒の働き9:32―11:18
要 節:使徒の働き10:13 そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。

先週、私たちは神様がキリストの御名を異邦人に運ぶ器として選ばれたパウロがどのようにしてイエス・キリストに出会い、回心したかを学びました。ところが、エルサレム教会は、まだ異邦人にキリストの福音を宣べ伝える用意ができていませんでした。最高指導者であるペテロを始め、ユダヤ人は、旧約聖書に記された割礼、安息日、食べ物や暦に関する規定などを守っていました。それが彼らの民族的な優越意識となり、他民族を卑下する高慢にもなっていました。ペテロにもこのようなユダヤ人の選民意識、人種的・文化的偏見がありました。ペンテコステの聖霊体験をしたペテロでさえ、異邦人への偏見がありました。そこで、神様はペテロが異邦人に福音を伸べ伝えるように導かれました。
本文の御言葉を通して神様の御心を学び、異邦人に福音を宣べ伝える世界宣教のみわざに用いられる器として成長して行きますように祈ります。

9:32-35節をご覧ください。ペテロはルダで、8年の間も床に着いているアイネヤという人に出会いました。彼は中風でした。ペテロは彼に「アイネヤ。イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。」と言いました。ペテロは「イエス・キリストがあなたを癒してくださるのです。」と言っています。すでに十字架につけられて死なれ、よみがえられて今は天におられるイエス・キリストが癒してくださると言うことです。ここにイエス・キリストに対するペテロの信仰が表われています。ペテロはイエス様が癒してくださると信じていました。そして、中風の人であるアイネヤにも立ち上がる勇気と信仰を求めていました。中風で8年間も床に着いていたアイネヤにとって立ち上がることは難しくなっていたでしょう。癒されたいという願いさえも消えうせる状態だったでしょう。私も経験していますが、病気が長く続くと癒されたい意欲さえも失って行きます。私は10年ほど前から毎年冬には腰が痛くなります。3年ほど前から花粉症を患っています。すると、私の心の中ではしようがない気持ちになって来ました。アイネヤもそういう気持ちになっていたのではないでしょうか。しかし、そのような時にも、私たちはイエス様が癒してくださると信じなければなりません。そして、自分の方から寝床を整え、自分で立ち上がろうとする勇気、積極的な姿勢が必要です。幸いに、アイネヤはペテロの言葉を聞いて勇気を得たでしょうか。彼はただちに立ち上がりました。アイネヤは信仰と勇気があったことでしょう。この時間、私もペテロか見倣って病んでいる方たちに言います。「ダニエル!イエス・キリストがあなたを癒してくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。」どうか。私たち一人一人が信仰を持ってイエス・キリストの癒しを体験して行きますように祈ります。アイネヤが癒されると、ルダとサロンに住む人々はみな、アイネヤを見て、主に立ち返りました。さらに、ペテロは死んだ人にもチャレンジするようになりました。
36〜39節をご覧ください。ペテロがヨッパで死んだタビタという女の弟子を生き返らせた出来事が記されてあります。彼女は、多くの良いわざと施しをしていました。ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈りました。そしてその遺体のほうを向いて、「タビタ。起きなさい。」と言いました。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がりました。このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じました。しかし、ペテロの働きはユダヤ人に留まっていました。神様はそんなペテロを異邦人に福音を伝えることができるように導かれます。
10章1節をご覧ください。カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長でした。彼はどういう生活をしていましたか。
2節をご覧ください。彼は敬虔な人で、全家族とともに神様を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神様に祈りをしていました。彼は神様を恐れる人でした。また、彼は植民地の人々を愛し、多くの施しをしました。特に彼はいつも祈る人でした。道徳的にも、霊的にも素晴らしい人だったことが分かります。しかし、残念ながら彼はイエス・キリストの福音を知りませんでした。神様はそんな彼を深く哀れんでくださいました。彼にキリストの福音を知らせようとされました。神様は彼に御使いを遣わしてくださいました。御使いは幻の中で、ヨッパに人をやって、シモン・ペテロを招くように言われました。コルネリオは言われた通りにしました。そのしもべたちの中のふたりと、側近の部下の中の敬虔な兵士ひとりとを呼び寄せ、全部のことを説明してから、彼らをヨッパへ遣わしました。神様はペテロに働いておられました。
9節をご覧ください。コルネリオが側近の部下をヨッパへ遣わしたその翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころです。ペテロは祈りをするために屋上に上りました。昼の十二時頃でした。すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなりました。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになりました。たいてい、お腹が空いている時に夢見ると何が見えますか。私の場合だと食べ物ですね。ところがペテロが夢の中で見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来ました。ペテロは入れ物の中に食べ物が入っていると思ったでしょう。神様は空腹の自分にガリラヤの海辺で食べていた新鮮な魚、焼き魚などを送ってくださるかなと思って中を覗いて見たかも知れません。ところが、これは何と言うことでしょうか。その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいたのです。その中には、ユダヤ人が禁じている豚、こうもり、とかげ、カメレオンのようなものがいっぱい入っていました。ペテロはこのようなものは見るだけでも吐き気が出るほどでした。ペテロは空腹であることも忘れ、もう食欲もなくってしまいました。ところが、そんなペテロに御使いからの声が聞こえました。
13節をご一緒に読んでみましょう。「そして、彼に「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。」という声が聞こえた。」ペテロは驚いて言いました。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」これはユダヤ人として当然な答えでした。ユダヤ人は律法によって徹底的に訓練された民族です。幼い時から厳しい律法を守るように教えられました。レビ記11章に記されている汚れたものには触れたり、食べたりしないように教えられました。ペテロにはその教えを守って来たプライドがありました。異邦人たちはユダヤ人が汚れていると指定しているお肉やお魚も食べていましたがペテロは全く食べなかったからです。彼は犬や豚のような物を食べないし、汚れているものも食べている異邦人を蔑視し、異邦人とつき合うこともしませんでした。
だから神様が食べなさいと言われた物を絶対的に食べるまいと思いました。そこで、彼は。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」と答えたのです。そんな彼に、再び声がありました。
15節をご覧ください。「すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」」とあります。こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられました。神様が三回もそのようになさったのはそれが非常に大切なことだったことを言ってくれます。
福音は全世界的な性格を持っています。神様はアブラハムを召される時にも「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創12:3)と言われました。イエス様は弟子達に「あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28:19)と命じられました。福音が全世界的なものですから福音を伝える人も全世界的な人にならなければなりません。グローバル人材が求められます。インドに行けば、インド人が食べている物を食べなければなりません。タイに行けば、タイ料理を食べなければなりません。そのためにはまず世界のどんな国の人々でも受け入れる広い心を持たなければなりません。ところがペテロはユダヤニズムという狭い世界に閉じ込められていました。ユダヤ人は優秀な民族だというプライドのために外国人を無視し、自分と違う異邦人を受け入れることができませんでした。神様は彼に幻を見せてくださり、彼が世界の人々を受け入れる世界的な主の働き人となるように助けてくださいました。
 ここで、入れ物の中にある汚れた動物は異邦人を象徴しています。異邦人の神様の民、聖なる国民に入れられるということです。神様は異邦人もきよめてくださいます。異邦人も信仰によって義と認められるのです。神様の義はユダヤ人でも異邦人でも差別なしにただイエス・キリストを信じる信仰による義です。神様はユダヤ人だけではなく、誰でもイエス・キリストを信じるなら、その人を汚れた罪からきよめてくださいます。それにはユダヤ人と異邦人に差別がありません。誰でも自分の罪を言い表すなら神様はその人の罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。ですから神様がきよめた人を、きよくないと判断したり、罪に定めたりすることができません。ペテロも異邦人は汚れていると思っていてはいけません。神様はペテロがそのことを悟って受け入れるように入れ物の中に異邦人を象徴する動物を入れて見せられたのです。こうしてペテロも異邦人コルネリオに福音を伝える心の用意ができるように助けられました。その後、どんなことが起こりましたか。
17節をご覧ください。ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑っていると、ちょうどそのとき、コルネリオから遣わされた人たちが、訪ねてきました。その時御霊から彼に「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」という指示がありました。そこでペテロは、その指示に従ってコルネリオの家に行くようになりました。それによってユダヤ人の代表としてのペテロと異邦人の代表としてのコルネリオの歴史的な出会いが成し遂げられました。彼らの置かれていた状況は全く異なっていました。ペテロはガリラヤ湖の一漁師にすぎず、あの憎むべき十字架で死んだイエス・キリストの弟子です。今やそのイエス・キリストを宣べ伝えてローマ帝国の人々を惑わしている弟子たちのリーダーです。一方、コルネリオはユダヤを支配するローマ帝国の百人隊長です。そこには何の接点も見いだせず、彼らの本来の生き方からすれば、一つの共通点も見いだすことがも不可能です。しかし、そんなペテロに聖霊は「下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。」と促されたのです。そうしてこの二人の出会いが成り立ち、歴史的な出来事になります。この出来事を通してペテロの心は広くなり、どんな異邦人も受け入れられるようになりました。
34,35節をご覧ください。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。」彼は神様が人の心をご覧になる方であることを悟りました。ユダヤ人の神様だけではなく異邦人の神様でもあることを悟りました。グローバル化された世界に住んでいる私たちにとっては当たり前な話のように聞こえるかも知れません。しかし、2,000年前のユダヤ人であるペテロにとっては驚くべきことでした。では、どうやってユダヤ人と異邦人が平和を保ち、仲間になることができるでしょうか。
36節をご覧ください。で「神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。」とあります。ペテロはイエス・キリストによって和解され、平和になることを分かったでしょう。イエス・キリストの福音は神様と人間、人間と人間の間を和解させる福音であることも悟ったことが分かります。人間は罪を犯して神様と不和の状態になりました。しかし、罪の赦しによって神様との隔たり、敵意、そして恐怖は過ぎ去りました。それだけではありません。人と人の間には不信感と反目、ねたみと憎しみがあって絶えず争っています。この世は民族と民族の争い、人種との争い、身分間の争い、地域間の争いなどでいつも緊張しています。その中には真の平和がありません。福音はこのようなすべての争いをなくして一つにならせる力があります。福音の中ではすべての壁が取り壊され、真に一つになることができます。ほんとうに、私たちが敵をも愛しておられたイエス・キリストの愛によって人々を愛することができます。私の罪のために十字架にかかって死なれたイエス・キリストによって私たちはへりくだることができます。そうして、人々との平和を保つことができるようになります。
 ペテロはコルネリオに福音を伝え始めました。彼はまずイエス様の美しい生涯を話しました。イエス様はガリラヤから始まって、ユダヤ全土を巡り歩いて良いわざをなさいました。また悪魔に縛れているすべての者をいやされました。それにもかかわらず、ユダヤ人はこのイエス様を十字架にかけて殺しました。しかし、神様はこのイエス様を三日目によみがえらせてくださいました。復活されたイエス様は前もって選ばれた弟子達を復活の証人として立てられました。そして彼らに命じて、このイエス様こそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神様によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われました。このイエス様を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けることができます。イエス・キリストによって病人が癒され、死んだ人が生き返らせられるのです。8年間も中風だったアイネヤが癒され、死んでいたタビタ生き返りました。
だからペテロが確信を持ってなおもこれらのことばを話し続けました。そのとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになりました。これは使徒の働きに現れている現状です。聖霊は祈っている人々に、御言葉に耳を傾けている人々に下って来られることが分かります。割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚きました。
11章1-18節にはエルサレムのクリスチャン達が異邦人の間に起こった聖霊のみわざを認める場面が出ています。使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神様のみことばを受け入れた、ということを耳にしました。彼らは、ペテロがエルサレムに上ったとき、彼を非難して、「あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らといっしょに食事をした。」と言いました。そこでペテロは口を開いて、事の次第を順序正しく説明して言いました。
17,18節をご覧ください。「こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。」とあります。

結局、ペテロとコルネリオとの出会いによってユダヤ人が異邦人を受け入れられるようになりました。神様はエルサレム教会の使徒達や聖徒達のユダイズムを取り壊してこれから起こる異邦人宣教を用意されたことが分かります。特に、神様は指導者ペテロを世界的な福音のしもべとして、グローバル人材として用いようとされました。同様に、神様は私たちにも世界宣教への期待をしておられると思います。私たちが狭い心から広い心、自己中心からグローバル的な考えを持つ主のしもべになることを期待しておられるのです。自分の中に染みついるこれまで培われてきた価値観や宗教性、民族性などを無視することはなかなか難しいでしょう。しかし、福音によって必ず乗り越えられるのだという確信を持っていなければならないと思います。ペテロとコルネリオのように、お互いに受け入れることが難しい関係であってもキリストの平和の福音によって互いに愛し合う関係を築き上げて行くように祈ります。天に国籍を持つ日本人、韓国人、アメリカ人、台湾人としての心を持って民族主義を乗り越えて行くように祈ります。常に、「イエス様ならどうなさるのか」を考えながら、世界の人々を受け入れて大胆に信仰告白をし、イエス・キリストを伝えることができるように祈ります。