1999年 創世記第6講

神様の裁きと救いの箱舟

御言葉:創世記6:1?9:17

要 節:創世記6:13,14

「そこで、神はノアに仰せられた。『すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、

彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。

あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、

内と外とを木のやにで塗りなさい。』」

 今日学ぶ御言葉には罪悪なこの世を裁かれる神様とこのような時代の中でも一人で信仰の中心を守りながら救いの箱舟を造るノアが出ています。今日の御言葉を通して私達がどんな人生を送るべきかを深く考えて見ることができるように祈ります。特に堕落した時代に神様とともに歩んだノアの信仰について学ぶことができるように祈ります。

?.ノアが生きていた時代(6:1-7) 

 

 創世記の著者はまずノアが生きていた時代の人々の結婚観について話しています。1,2節をご覧ください。「さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。」ここで人の娘達とは世俗的な不信仰な生き方をしている女達です。神の子らは堕落後も続いて来た神様に忠実な信仰者の群れです。本来結婚は神様によって定められ、神様の栄光を現わすためのものですから、神様に対する信仰によって男女が結び合わされてなければならないはずです。しかし、神の子らは人の娘達がいかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻としました。彼らはエバが罪を犯した時と同様に、表面的な美しさに引かれて、神の御心ではなく自分の思いによって、神の栄光のためでなく自分の欲望を満たすために結婚しました。これを見る時、ノアの時代が腐敗するようになった動機は結婚観が間違っていたことであることがわかります。

 人間的な結婚の結果、彼らはどんな状態に転落するようになりましたか。3節をご覧ください。そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられました。人は神の霊によって「生きもの」となりました。ですから、人は霊的な存在として聖なる生活をする時、人としての価値があり、人らしくなります。しかし、彼らは霊的なことには無関心で、心に神様を受け入れることを嫌がりました。神の霊が人のうちにとどまらないならば、人は死すべき肉にすぎず、もはや真の意味で生きることはできません。彼らは神様のかたちを失って動物のように本能的、官能的な存在になりました。イエス様はこのような彼らについて次ぎのように言われました。「ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。」(ルカ17:27)。

 4節をご覧ください。「神の子らが、人の娘たちのところにはいり、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。」ネフィリムは侵略者、暴君、巨人という意味です。これは、当時、力持ちが英雄とされる弱肉強食の時代であったことを言ってくれます。すなわち、体格が大きく格好いい人は人気がありましたが、背が低くからだが小さな人は人気がありませんでした。5節をご覧ください。「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」この御言葉は神様が彼らを裁かれるしかなかった根本的な理由について言ってくれます。ノア時代の人々の罪は一時的に現われる現象ではなく、根深いものでした。枝が腐ると枝だけ切ってしまえばいいですが、木の根が腐ると根こそぎ取り除かなければなりません。その時代は根本的に人の心が腐敗し、心に計ることがみな、いつも悪いことだけでした。神様を捜し求める人もいなく、善を行なう人もいませんでした。すべての人々が罪に汚染されて罪を罪とも考えず、罪悪感さえ感じられませんでした。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められました(6)。そして主はこの世を裁こうと計画されました。一章で神様は人間を造られてから非常によかったと言われました。しかし、今は人を造ったことを悔やみ、心を痛められました。これは決して主の側に失敗があったということではありません。人間が本来の創造の目的から離れて生きていたために、主は心を痛められました。聖なる御自身のかたちに造った人間が罪の中を歩んでいるのを見る時、主は心の底から悲しまれます。そしてその罪を裁かれます。

 神様はノア時代の人々を裁こうとされましたが、彼らに悔い改める機会をくださいました。3節bを見ると、主は「人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられました。これは人の寿命が短くなるということを意味しているとも考えられますが、神様が裁きを人に下す前に、百二十年の猶予期間を与えられたという意味です。?ペテロ3:9は次ぎのように言っています。「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」神様が裁きを猶予された120年間は彼らにとって恵みの日であり、救いの日でした。彼らが悔い改めて主に立ち返ることができる日でした。

?.神様とともに歩んだノア(6:8-7:5)

 そのような時代に誰が神様の心にかなっていましたか。8節をご覧ください。「しかし、ノアは、主の心にかなっていた。」ノアは神様の前に恵みを見出していました。彼は自分の力に頼って歩まず、主の恵みによって歩む人でした。彼は世の人々が神様から離れていた時代に彼らと違って神様とともに歩みました。神様は世の人々をご覧になる時、心を痛められましたが、ノアをご覧になる時、非常に喜ばれました。

 それではノアはどんな人でしたか。9節をご覧ください。「これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」正しい人であったというのは彼が何の罪もない完全無欠な人であったということではありません。伝道者の書7:20には「この地上には、善を行ない、罪を犯さない正しい人はひとりもいないから。」と言っています。ここで正しい人とは神様と正しい関係を持っていたことを意味します。彼は罪人である自分を悟って神様の前で悔い改める生活をしました。また全き人とは道徳的な意味より信仰的な意味として全き信仰によって神様を100%信頼して生きる人のことです。ノアもとがと罪がある弱い存在でした。彼は自分の弱さを知っていた故に、神にすがり、神に頼って生活しました。彼は他の人々が信仰を捨てて欲望に従って生きていたその時代に信仰によって生きた正しい人であり、全き人でした。

 それでは彼がどうやって堕落したその時代に正しい人であり、全き人として生きることができたでしょうか。9b節を見ると彼は神様とともに歩んだと書いてあります。他の人々がノアと違う道を歩んでいるのに一人ノアだけが神様とともに歩むことは難しいことだったと思います。人々は信仰によって正しい生活をしようとしますが、キャンパスや職場の雰囲気に調子を合わせてしまう場合があります。そして回りの人々から非難されたり、疎外されたりしないために積極的に罪を犯すことはないとしても雰囲気に合わせようとします。しかし、ノアはそのような堕落した人々やその時代に調子を合わせませんでした。すべての人々がお金や人間中心に生きている時、彼は神様の御前で神様の御言葉に従って生きる生活に励みました。彼はまるで流れる水を遡って行く魚のようにその時代の罪と戦う聖なる生活をしました。彼は消極的に信仰だけを守ったのではありません。ペテロ?2:5節を見ると、彼は積極的に義を宣べ伝えました。彼はその時代の影響を受けるよりその時代に影響を及ぼす人生を送りました。神様はこのようなノア一人を尊く思われました。そして恐ろしい裁きの中で彼に救いの恵みを施してくださいました。主がそのご計画のために用いようとする人は決して完全無欠な何の欠点もない人ではありません。主は自分の弱さを覚えて主に頼り、主と共に歩む人を用いられるのです。

 11,12節はどれほどこの世が堕落していたかを言っています。「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。」彼らの関心はこの世のことだけであり、欲望のままに生活していました。それでは神様は神様とともに歩んだノアをどのように救われましたか。13,14節をご一緒に読んで見ましょう。そこで、神様はノアに仰せられました。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。」神様はノアに裁きの計画を言われてから箱舟を造るように言われました。そして箱舟の大きさや形やどんな材料を使うかについて詳しく言われました。神様は「あなたは自分のために」ゴフェルの木の箱舟を造るように言われました。これを見ると、信仰生活は根本的に自分のためであることがわかります。しかし、神様はノア一人だけが入れる小さな舟を造るように言われませんでした。ゴフェルの木は舟の材料としては最高のものでした。木のやには防水の役割をします。箱舟の長さは約140メートル、その幅は約23メートル、その高さは約14メートルです。これは一万五千トン級のものであったと思われます。

 ノアの神様の御言葉に対する畏敬心はどうでしたか。6:22節をご覧ください。「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行なった。」目に見えない神様が120年後に洪水が起こるからと言って箱舟を準備するように言われた時、それを信じて準備することはやさしいことではありませんでした。しかし、ノアはそれが神様の御言葉ですから信じて箱舟を用意する生活をしました。彼は自分の考えの通りにしなくて、神様が命じられた通りにしました。ゴフェルの木が見つかりにくいからと言ってすぐ見つける杉の木にしませんでした。舟が大きすぎるからと言って十分の一のサイズに変更しませんでした。彼は自分の都合に御言葉を合わせるのではなく御言葉に自分を合わせました。彼は愚かほどに主の御言葉に聞き従いました。ノアは「すべて」の神様の命令に聞き従いました。自分にとって都合の良い、従いやすい命令にだけではなく、従いにくい命令にさえも従ったのです。彼には神様を恐れかしこむ信仰、神様の救いと裁きに対する信仰、家族に対する愛がありました。ヘブル11:7はそれに対して次のように言っています。「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」彼は神様を恐れかしこんで、箱舟を造りました。彼もサタンが植え付ける疑いや不信仰によって苦しんだこともあったでしょう。今日のように晴れの時には「本当に洪水の裁きがあるのかな」、「こんなに大きい舟を造る必要があるのかな」という疑いが生じていたかも知れません。しかし、彼はそのような時に神様がくださった裁きと救いの御言葉によってそのような問題を克服することができました。彼はいつも神様とともに歩みました。彼はいつも神様を愛し、神様に頼りました。また、いつも喜び、すべてのことについて感謝し、絶えず祈りました。それによって彼は世の人々が知らない神様の慰めと平安を得ることができました。神様は箱舟を造る生活を通してノアの信仰を成長させ、彼を通して世の人々に裁きに対して警告されました。  

 今日もノア時代と同じです。この時代にも悪が増大し、人々は快楽を愛し、罪を犯しても罪悪感さえ感じていません。私は最近起こった一連の事件のニュースを聞いて人の心の中にひそんでいる罪の力に驚きました。ある母親は保険金を目当てに自分の息子を殺しました。また、自分の子どもを餓え死にさせた母親もいました。ある母親は自分の子どもを一晩中殴って縛って置きましたが、子供が死んでしまいました。先週池袋では通り魔が包丁とハンマを持って無差別に人を刺して二人が殺された事件が起こりました。動物さえも自分の子どもは殺すことはしません。しかし、人間は堕落すると自分の子どもさえも殺してしまうのです。人はいくらでも堕落し、肉に過ぎない存在になることができるのです。まさにこの時代はノア時代と同じく、いやそれ以上に神様の前に堕落しています。このような時代の雰囲気の中で信仰によって生きることはやさしくありません。

 しかし、ノアはこのような時代にどんな人生を送りましたか。その時代の人々がみな信仰を捨てて欲望に従って生きていた時代にノアは神様に従いました。彼は神様の裁きが必ずあることを信じてその時代の人々が滅びの道に向かって歩んでいること哀れみ、伝道者の人生を送りました。神様の御言葉に絶対的に従い、救いの箱舟を造る使命を担いました。神様は私達もノアのように神様とともに歩む人生を送ることを願っておられます。罪悪な時代にさかのぼって信仰生活をすることを願っておられます。私達もノアのように他の人々がどんな人生を送っているとしても神様とともに歩み、箱舟を造る生活ができるように祈ります。

 ついに巨大な箱舟が完成されました。神様は「あなたとあなたの全家族とは、箱舟にはいりなさい。」(7:1)と仰せられました。そしてすべてのきよい動物と空の鳥の中から、雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつを取って箱舟に入るようにしました。7:4節をご覧ください。「それは、あと七日たつと、わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から消し去るからである。」神様は七日後にこの世を洪水で裁かれると言われました。ノアとその家族とすべての動物は神様の命令に従って箱舟に入りました。それは救いの行列でした。16節をご覧ください。彼らがみな箱舟に入ると、主は、彼らのうしろの戸を閉ざされました。箱舟の戸は今まで誰でも入ることができるように開いていましたが、時になると、閉ざされました。神様が閉ざされたこの戸は誰も開けることができません。これから恵みの時代は過ぎ去り、恐ろしい裁きだけが残りました。救いの機会はいつもあるのではありません。必ず天の御国の戸が閉ざされる時が来ます。その時、いくら戸を開けてくださいとお願いしてももう遅いのです。その時にはすべてが終わりです。主はノアが箱舟を建造している間も、忍耐を持って人々の悔い改めを待っておられました。最後の一週間もノア達を通して神様の裁きと救いが宣べ伝えられましたが、人々はそれに聞き従わなかったので、もはや彼らに救いの機会はなくなってしまったのです。ヨハネ12:36節でイエス様は言われました。「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」。

?.洪水の裁きと契約の虹(7:6-9:17)

 ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日は歴史的な裁きの日でした。その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれました。これは、下からは地下の水脈が何らかの原因で破裂して水が吹き出し、上からは大雨が降り注いだことを意味しています。そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降りました。川は氾濫し、水は家まで入りました。ついに家も山も水におおわれるようになりました。ついに富士山もエベレスト山も水におおわれてしまいました。世のすべてのものが水におおわれてしまいました。屋根の上で、山の上で助けを求めて叫んでいた人々も動物もみな水の中に沈んでしまいました。21-23節をご覧ください。著者は洪水の裁きの恐ろしさを強調しています。「こうして地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群生するすべてのものも、またすべての人も死に絶えた。いのちの息を吹き込まれたもので、かわいた地の上にいたものはみな死んだ。こうして、主は地上のすべての生き物を、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥に至るまで消し去った。それらは、地から消し去られた。ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。」その日には神様はいないと言っていた人々、欲望のままに生きていた人々、聖書勉強を拒んだ人々、クリスチャンを変な者扱いした人々、偶像崇拝をしていた人々などひとりも例外なく水におおわれて死にました。

 その時、箱舟にいたノアとその家族だけが生き残りました。「ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。」この御言葉は驚くべき恵みの御言葉です。すべての人々が裁かれ死にましたが、箱舟にいたものたちだけが救われたのです。神様は今日の私達のためにイエス・キリストを救いの箱舟として与えて下さいました。箱舟に入ったノアとその家族だけが救われたように、イエス・キリストの中に入る人だけが救われるのです。箱舟の中にいのちがあり、安息があり、平安があったようにイエス様の中に真のいのちと平安と永遠の安息があります。以上から私達は洪水の裁きを通して幾つかの大切な事実を学ぶことができます。

 第一に、神様の裁きは恐ろしく、その裁きは徹底的であるということです。人々は神様のさばきを軽んじています。こんな平和な時代に世の終わりがあるかと思います。他の人も行く地獄なら自分だって行けないだろうかと言います。天国は満員だから自分は地獄に行くと冗談を言います。しかし、そのように言う人々は神様の裁きがどれほど恐ろしいものであるかを知らないからです。黙21:8には火と硫黄との燃える池の中で永遠に苦しむ裁きがあることを言っています。また、マルコ9:48、49では「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。すべては、火によって、塩けをつけられるのです。」と言いました。 

 第二に、神様の裁きは必ずあるということです。人々は神様の裁きを信じません。死んだらすべてが終わりだと思い、生きている間、快楽を求めます。しかし、死んですべてが終わるのではありません。ヘブル9:27は「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と言っています。使徒ペテロは次のように警告しました。「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」(ペテロ?3:10、11)。聖書は将来恐ろしい火の裁きがあることを厳かに警告しています。私達がこのような裁きが必ずあると思うなら自分の人生を無駄に過ごすことはできません。自分の一回きりの人生をどのように過ごせばいいのか真剣に考えるようになります。それは非常に大切なことです。救われるか裁かれるかそれは救いの箱舟であるイエス様の中に入るかどうかにかかっています。今日の礼拝に参加している方々みな救いの箱舟であるイエス様の中に入ることによって救われ、永遠のいのちを得ることができるように祈ります。また、私達も今の時代がまさにノアの時代と同じように、いやそれ以上に神様への反逆と暴虐に満ちた時代であることをしっかりと見極め、神様の裁きと救いの福音を宣べ伝えることができるように祈ります。

 洪水の裁きは終わりましたが、地上はまだ水で覆われていました。神様は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられました。それで、神様が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めました。箱舟は、アララテの山の上にとどまり、 水はますます減り続け、一年後には完全に水が地から引きました。箱舟から出たノアは、主のために祭壇を築きました。彼は神様の救いの恵みに感謝しました。主は、これから洪水で世を裁かれないという証拠として雨の後、虹が現われるようにされました。虹を見ると平和を感じます。私達は虹を見るたびに神様の愛と恵みを覚えることができます。

 結論、以上から神様の裁きと救いの箱舟を造ったノアについて学びました。ノアの洪水の歴史的な事実です。神様は忍耐を持って人々の悔い改めを待っておられます。しかし、やがて、「人の子が来るのは、ちょうどノアの日のようだからです」(マタイ24:37)とイエス様が言われたように、イエス様の再臨と神様の裁きの日が来ることをしっかりと心に留めておかなければなりません。私達はこの裁きが来る前に救いの箱舟であるイエス様の中に入らなければなりません。私達一人一人がノアのように神様とともに歩みながら主の御言葉に聞き従うことができるように、神様の裁きと救いの福音を宣べ伝えることができるように祈ります。