1999年ルカの福音書第10講

 

弟子の祈りの生活

 

御言葉:ルカの福音書11:1?13

要 節:ルカの福音書11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言

    いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。』」

 御言葉、祈り、賛美は信仰生活の三位一体だと言われています。その中で祈りは霊的な世界の奥義を悟り、霊的な人として成長するのに非常に大切な役割をします。もし私達が祈りを学ばなければ霊的な世界の深い奥義を知ることも、神様に用いられる霊的な人として成長することもできません。

 今日の御言葉はイエス様が弟子達に教えてくださった主の祈りです。私達は毎週主日礼拝の最後にこの主の祈りを捧げています。これは短いですが、いかに祈るか、また何を祈るかについて、私達の知るべきことを教えています。この時間、主が私達に教えてくださった祈りについて学び、主の御心にかなう祈りを捧げることができるように祈ります。

 

?.祈りの内容(1-4)

 

 1節をご覧下さい。イエス様はある所で祈っておられました。イエス様が祈っておられることはルカの福音書の所々に出ています。イエス様はある時には夜明けに起きて祈られました。ある時には祈りながら夜を明かされました。それはイエス様がどんなに祈りを愛し、祈りに励まれたかを見せてくれます。ヘブル人への手紙5:7には次のように記されています。「 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」

 イエス様の祈りが終わると、弟子のひとりが、イエス様に言いました。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」。弟子達はイエス様が朝から晩まで力強く働かれる様子を見て来ました。ところが、弟子達は一日8時間以上寝たのにも関わらず、暇さえあれば居眠りしました。弟子達は力強く働かれるイエス様を不思議に思い、その秘訣を知りたくなりました。ついに彼らは祈りがイエス様の力と知恵の源であることがわかりました。それで彼らは祈りについて関心を持つようになりました。過去彼らは「今日は何を食べるか、誰が偉いか」などに大きな関心がありました。そのような彼らにとって祈りは、非現実的で愚かなことのように思われました。しかし、今は祈りについての態度が変わりました。彼らは祈りについて学ぼうとする霊的な望みを持つようになったのです。ところが、いかに祈るか、また何を祈るかについて分かりませんでした。それで自分達にも祈りを教えて下さるようにイエス様にお願いしました。

 2-4節には主の祈りの内容が出ています。最初の二つの祈りは神様と神様の栄光に関するものであり、次の三つの祈りは私達の要求と必要に関するものです。

 第一に、「父よ」。この言葉は私たちが誰に祈らなければならないかを教えてくれます。マタイの福音書には「天にいます私達の父よ」と書いてあります。ユダヤ人は、神様は人間が近づけない聖なる方、万物を治められる恐れるべき方、罪人を容赦なく裁かれる厳しい方として考えていました。しかし、イエス様は神様を「父よ」と呼ぶように言われ、神様と私達との関係が親子の関係であることを教えてくださいました。それは実に驚くべきことです。父なる神様は御言葉によって天地を創造された全能なる方であり、私達の罪のために一人子さえ惜しまずお与えになった愛の神様です。また、子供達の要求を喜んで満たしてくれるお父さんのように私達のすべての必要なものを満たしてくださる方です。また、私達を災いと危険から守ってくださる保護者です。神様は私達を造られた創造主であり、私達のいのちの主です。私達がこの神様を父と呼ぶことができるのは、大きな恵みです。過去私達は神様を父と呼ぶことができませんでした。しかし、イエス様を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになりました(ヨハネ1:12)。子供にとって親は頼れる存在です。私はヨハネ君が通っている学校で仕事をしています。ヨハネ君にとって私は頼れる存在です。自分の友達が困っている時には私のところにその友達を連れて来て助けを求めるほどです。この前、ヨハネ君は自分の友達の上履きが倉庫の屋根に上がってしまったので私のところに連れて来ました。私ははしごを持って行ってその上履きをとって上げました。ヨハネ君は友達に「私のお父さんだよ」と誇らしく言いました。弱い私でさえヨハネ君にとって頼れる存在なのに私達が父と呼ぶ方は天地万物を創造された神様なのです。この神様を「お父さん」と呼ぶことはどれほど大きな特権であり、恵みでしょうか。私達はこの神様を「父よ」と呼ぶことによって段々親しみを感じるようになります。

 第二に、「御名があがめられますように」。これは私たちが一番最初に祈らなければならないことです。ギリシヤ語で「あがめる」とは「異なった」とか「区別された」の意味があります。ですからこの祈りは、「神の御名が他のすべての名と区別して取り扱われるように。神の御名には、他のものと全く違った独自の地位が与えられますように」という意味です。神様はすべての被造物から誉れと栄光、賛美を受けるにふさわしい方です。しかし、人々は主の御名をあがめません。人々は神様を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もしませんでした。その結果、人々は滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうものに拝む偶像崇拝者になり、欲望と情欲の奴隷となってしまいました(ローマ1:21-27)。詩篇の著者は次のように歌いました。「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私達は私達の神、主の御名を誇ろう」(詩20:7)。

 旧約の聖書に出ているヨブという人は一日のうちに、多くの財産と子供たちを失ってしまいました。しかし、彼はその時にも神様を賛美しました。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ1:21)。ヨセフは兄達によって奴隷として売られた時にも、誤解されて監獄に入れられた時にも、エジプトの総理大臣になった時にも神様の御名をあがめました。イエス様はこの世におられる時、神様の御名をあがめられました。そればかりではなくご自分の死を通して神様の御名をあがめられました。

 このように私達がどんな状況の中でも神様の導きを信じて感謝する生活をする時、主の御名があがめられます。また、神様は「あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから」と言われました(レビ11:44)。私達は罪から離れて聖なる生活をすること時、主の御名があがめられます。

 今日多くのクリスチャン達が実生活で神様の栄光を現そうとするより欲望のままに生きる生活をするために神様の御名がノンクリスチャンの間で侮辱を受けています。神様の御名より自分の名前を現わすことを好み、神様の有益より自分の有益ばかり求めるため神様の栄光を遮ります。私達の人生の目的、信仰生活の目的、また羊を養う目的が純粋に神様の御名をあがめることでなければなりません。

 第三に、「御国が来ますように」。クリスチャンの究極的な希望は神の国です。聖書は失楽園と復楽園の二つの単語で要約することができます。アダムの不従順によって神の国が失われましたが、イエス・キリストの従順によって神の国が回復されました。ここで神の国とは何でしょうか。それは地理的な位置ではなく神様が支配する領域を意味します。ですから「御国が来ますように」は「神様が支配してくださるように」という祈りです。神様が私の心を支配し、家庭を支配し、私達の集まりを支配し、この国と全世界を支配してくださるように望むことです。

 この世はアダムの堕落の後、サタンが支配するようになりました。サタンが支配する所には争い、分裂、殺人、淫乱、ねたみ、欺き、悪巧み、不正腐敗があります。しかし、神様が治められる所には恵みと愛があります。喜びと平安、寛容と親切があります。ですから誰に支配されているかは大切な問題です。人々が豊かな環境の中でも不幸な人生を送っているのは、サタンに支配されているからです。私達が福音を宣べ伝えることはサタンに奪われた領域を取り戻し、神の国を拡張することです。私達ひとりひとりが、イエス様を自分のキリストとして告白し、自分の心の主として迎え入れると、心に神の国が来ます。私達はキャンパスの学生たちがこのイエス・キリストを受け入れ、彼らの中に神の国が来るように祈らなければなりません。また、この国に神の国が来るように切に祈らなければなりません。

 第四に、「私達の日ごとの糧を毎日お与えください」。これは現在の必要を満たしてくださるように祈ることです。この祈りから二つのことを考えてみたいと思います。

 まず、イエス様は「日ごとの糧を毎日与えてください」と祈るように言われたことです。なぜ1ヶ月分とか一年分をまとめて与えて下さるようにせず、毎日与えて下さるようにと言われたのでしょうか。それは毎日謙遜に神様に頼るようにするためです。人は食べ物が豊かにあって足りないものがなければ高慢になって神様の恵みを忘れてしまいがちです。申命記を見ると、神様はイスラエル人に乳と蜜が流れているカナンの地に入ると神様を忘れないように繰り返して言われました。私達はアルバイトをしたり、仕事をしたりして自分の力で日ごとの糧を得たと思いやすいです。しかし、神様が太陽の光と雨を下さらなければ収穫ができないし、神様が私達に健康と知恵を与えてくださらなければ仕事ができません。

 もう一つは、「私達」という思想です。イエス様は「私の日ごとの糧」ではなく、「私達の日ごとの糧」を与えて下さることを祈るように言われました。この祈りは、私達が、自分中心の祈りをしてはならないことを教えてくれます。これは利己主義を捨てて共同体意識を持つようにしたことです。自分だけよく食べればいいという利己主義は自分も国も世界もだめにしてしまいます。自己中心と利己心は人々を不幸にさせる原因になります。

 「日ごとの糧を毎日お与えください」という祈りは単純に食べるものだけを求める祈りではありません。それは実際の生活において必要なすべてのものを求める祈りです。それがお金であることもあるし、健康や就職のことになることもあります。まだ結婚してない方は結婚のために祈り、子供がいる人は子供の養育のために祈らなければなりません。それはすべてのことを神様に頼り、神様に助けを求める生活をすることです。そのように祈る時、主が必要なものを与えてくださいます。アメリカに行った時、車を運転する宣教師達が出発の前に必ず祈ることを見ました。たぶん主が守って下さるように祈ったでしょう。彼らは小さなことでも日々祈ることが身についていました。私は日本に来たばかりの時に祈ると運動靴が与えられ、自転車が与えられ、ズボンが与えられることを体験しました。主は私が小さなものでも祈るとそれを与えてくださいました。その時だけではなく今も職場で起きた問題、子供のこと、主のみわざに仕えること、メッセージの準備など一つ一つ祈る時に主はその祈りを聞いてくださることを体験しています。私達も小さなことでも主に祈る生活が身につくように祈ります。

 第五に、「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。」罪はすべての人が犯している普遍的なものです。いかなる善良な人間も、神様の清さを前にしては、自分が罪人であることを認めるしかありません。ですから、この祈りはすべての人々がしなければならない祈りです。私達に体のためには日ごとの糧が必要であるように霊的ないのちのためには罪の赦しが必要です。罪は神様との関係から生じたので神様から赦しを受けなければなりません。私達が兄弟に対して罪を犯しても結局それは神様に対して罪を犯したことになります。ですから、罪の問題は神様から解決してもらわなければなりません。

 ところが私達が神様に罪の赦しを求める前にしなければならないことがあります。それは私達も私達に負い目のある者を赦すことです。私達がどうすれば私達に負い目のある者を赦すことができるでしょうか。それはイエス様の十字架の赦しの愛を受けると、どんな人も赦すことができます。

 第六に、「私達を試みに会わせないでください」。私達は常に誘惑の危険にさらされています。使徒ペテロは「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」と言いました(?ペテロ5:8)。どんな人にも弱点があって、警戒を怠けると致命傷を受けてしまいます。特に私達が気をつけなければならない試みは情欲と高慢と金銭問題です。この誘惑は私達の力や知恵によって打ち勝つことができません。私達がサタンの試みに会わないように目を覚まして祈るべき理由がここにあります。

 韓国のある牧師はクリスチャンの信仰生活のパタンには、整備パタンと修理パタンがあると言いました。整備パタンの人は自分の弱さを良く知っているので前もって誘惑に陥らないように目を覚まして祈ります。なぜなら、祈らなければ自分が誘惑に陥ってしまうことをしているからです。ところが、修理パタンの人はそのような準備をしません。それで誘惑に陥り、罪を犯してしまいます。それからかなりの時間と力を使ってやっと修理するパタンです。その人の口癖は「人間は弱いですから」です。もちろん人間は弱いから試みに会う時もあります。しかし、それになれてしまってはいけません。自分がなぜ試みに会わされたのか、なぜ敗北したのか、その原因を考えて、繰り返さないようにしなければならないのです。皆さんはどんなパタンの信仰生活をしていますか。修理パタンになれてしまっている人はいないでしょうか。それとも前もって自分の信仰生活をチェックしながら試みに会わないように整備しているパタンでしょうか。「私達を試みに会わせないでください」と祈ることは、ちゃんと整備して安全な信仰生活をするための祈りです。私達は整備する信仰生活をして勝利の人生を送ることができるように祈ります。そのためには毎日目を覚まして祈らなければなりません。

 

?.祈りの姿勢(5-13)

 

 イエス様は弟子達に祈りの内容を教えてくださった後、祈りの姿勢について教えてくださいました。ある人に友だちが旅の途中、真夜中に来ました。彼はもう何日間も食べなかったので飢え死にしそうな状態でした。ところが彼にはちょうど食べ物がなくなってその友人に出してやるものがありませんでした。彼は友人に対する愛のためそのままいられませんでした。それで真夜中に友達のところに行って「君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ」と言いました。すると、彼の友達は家の中からこう答えました。「めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない」。彼はそれを聞いて諦めるしかありませんでした。しかし飢えている友達にどうしても食べ物をあげたい牧者の心のために彼は自尊心を捨ててしつこく頼み続けました。「君。パンを三つ貸してくれ。お願いします」。するとどうなりましたか。8節をご一緒に読んで見ましょう。「あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう」。イエス様はこのたとえを通して積極的な姿勢を持って祈らなければならないことを教えてくださいました。9、10節をご覧下さい。「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」。これは積極的に、また、しつこい姿勢で諦めず続けて祈ることです。そうするとき、主は必ず私達の祈りを聞かれます。

 私達にも霊的な飢饉で死にそうになっているキャンパスの兄弟姉妹達に対する牧者の心がある時、神様に頼み続けることができます。今年私達は全同労者達が羊を得て1:1聖書勉強ができるように祈っています。それで毎日キャンパスに上って祈りをし、Fishingをしています。最初はなかなか羊を得ることができませんでしたが、諦めず続けて祈り、積極的にキャンパスに行ってFishingをする時、主は羊達を与えておられます。先週も楠木姉妹が聖書勉強を始めたし、今井恵子姉妹は来週から1:1聖書勉強をすることを約束しました。1:1聖書勉強も先週50チームを超えました。私達が羊を与えて下さるように祈りつづけ、積極的にキャンパスに行って福音を宣べ伝える時、今年90チームの1:1聖書勉強が達成できることを信じます。4月から始まった夏修養会準備のための150日間の夜明け祈り会も60日目を過ぎました。私達が祈り続ける時にきっと今年の夏修養会に150名が参加できることを信じます。

 11-13節をご覧下さい。「あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」。使徒パウロは「私達すべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私達に恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ8:32)と言いました。

 結論、この時間、主に祈りについて学び、いかに祈るか、また何を祈るかについて学びました。私達が祈りによってますます熟練した主のしもべとして成長することができるように祈ります。積極的に祈ることによって祈りを聞いてくださる主を体験することができるように祈ります。