1999年コリント人への手紙第二 第6講(♪560)

 

心を広くしてください

 

御言葉:コリント人への手紙第二6:1?7:16

要 節:コリント人への手紙第二6:13

「私は自分の子どもに対するように言います。それに報いて、

あなたがたのほうでも心を広くしてください。」

 

 私たちは先週のメッセージを通して和解の務めについて学びました。福音のみわざは人々の魂の問題を扱っているのでこの世の一般的な仕事とは違います。それは霊的なことですから霊的な見方を持って扱わなければなりません。そのためには問題を扱う人が霊的な人になるべきであり、明白な霊的な原則を持っていなければなりません。使徒パウロは主と福音のためにはっきりとした霊的な原則を持って働きました。今日の御言葉を通して私たちが福音のみわざに仕える福音の働き人として持つべき原則について学ぶことができるように祈ります。

 

?.恵みをむだに受けないようにしてください(6:1-2)

 

 1節をご覧ください。パウロは神様とともに働く者として、コリント教会の人々に懇願します。「神の恵みをむだに受けないようにしてください。」神様は、キリストにあって、私達をご自分と和解させ、また和解の務めを私達に与えて下さいました。私達は自分の犯した罪のために永遠に滅びるしかない者でした。神様はこのような私達を哀れみ、一人子イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。そしてイエス様は私達の身代わりとして死なれ、救いの道を開いて下さいました。誰でもこのイエス様を救い主として信じて告白する者は永遠の滅びから救われ、神様の子供となる恵みを与えて下さいました。神様は私たちに救いの恵みだけではなく和解の務めを与えてくださいました。このような神様の恵みは私たちの努力の代価として与えられたのではなく神様の一方的な恵みによって値なしに与えられたものです。ですから私たちは畏れかしこんでこの恵みにふさわしい生活をしなければなりません。

 ところが、この恵みは一方的な恵みなのでむだにしやすいです。たとえば空気や水は人間になければならない必須的なものです。ところが人々はそれを大切にしなかったので汚染されつつあります。それで今は水も買って飲む時代になりました。いつかは空気も買う時が来るかもしれません。このようにイエス様の救いの恵みは値なしに与えられたものだとして感謝せず、むだにしてしまいやすいのです。

 それでは私たちが神の恵みをむだにしないためにはどうすればいいでしょうか。そのためには受けた恵みをいつも感謝する生活をすることが必要です。そして、その恵みをいつも証しすることに励まなければなりません。使徒パウロはコリント第一15:10で次のように証ししました。「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」彼は神様から受けた恵みをむだにしないためにほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。彼が多く働いたのは自分を誇るためでも、義務感によってでもありませんでした。彼は神様の恵みに感謝してそのように多く働いたのです。ですから彼はそれほど多く働いたのにもかかわらず、少しも高慢になりませんでした。

 2節で使徒パウロは私たちが神様の恵みをむだにしてはならない理由について言っています。「神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」この御言葉から私たちは限りなく恵みと救いを施すことを切に望んでおられる神様の御心を知ることができます。使徒ペテロは次のように言いました。「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」神様はこのように私達に恵みを施しすべての人が救われることを切に望んでおられます。しかし、いつまでもその恵みの時が与えられているのではありません。歴史的には人類歴史の終わりの時があり、人には死ぬ時があります。人類歴史はいつ終わりの日を迎えるかわかりません。私達の世代にその日を迎えることがないとしても私達はいつ、どこで、どんなふうに死を迎えるかわかりません。ですから、私達は恵みの時を大切にしなければなりません。

 「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」使徒パウロは今が恵みの時、救いの日であることを強調しています。ここで時は救いのみわざを成し遂げておられる神様の時を意味します。私達が恵みの時を逃してしまうなら二度とその時が来ないかもしれません。人々はどんな事でも今すぐするより後に回す習性があります。英語勉強も「いつかは英語勉強をするつもりだ。そして、私もやればきっと英語が上手になるだろう。」と思いながらも実際には後に回して勉強をしません。そのようにして一年、二年、十年が過ぎてしまう人々が多くいます。霊的なことも同じです。いつかは熱心にする予定だが、今は忙しくてできないと思います。そうすると、一生忙しくてできません。私達が恵みを受ける機会を逃しても後でまた機会があるだろうと思うと永遠にその機会が与えられないかも知れません。ですから、私達は今日、この時間、この瞬間を逃さず、神様の恵みをしっかりつかまなければなりません。ヘブル人への手紙の著者は次のように勧めました。「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。『きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。』と言われているからです。」(へブル3:12‐15)。

 

?。福音の働き人が持つべき原則(6:3‐13)

 

 第一に、道徳的原則と霊的原則(3‐10)

 3節から使徒パウロは自分が福音の働き人としてどんな原則を持って働いて来たのかを言っています。「私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと」この務めは和解の務めです。彼は和解の務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないように気をつけました。私たちはこのような話を聞く場合があります。「私はイエス様を信じたいけれどもあの人を見ると信じたくない。」それはその人の人格や行動や生活が福音のみわざを妨げていることを現わしています。もし、私達が学生として勉強に怠けて成績が悪くなれば、それによって福音のみわざを妨げる結果を招くことがあるでしょう。また、職場の仕事に怠けたり、忠実にしなければ人々はその人を非難するだけではなく、さらに、「クリスチャンでもしょうがないね」と福音に対して心の門を閉じてしまいます。福音は福音を宣べ伝える人を通して伝えられるので福音を宣べ伝える人の人格や生活がとても大切な働きをします。もし、私達の人格が人々に悪い影響を及ぼしたり、言葉はうまいけれども実際の生活はそれとは違う場合に、人々は私達の宣べ伝える福音に耳を傾けようとしないでしょう。

 4‐7節までは使徒パウロが栄光ある福音の務めがそしられないために、具体的にどんな生活をしたかを言っています。「あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。すなわち非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも、また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により」彼はまず忍耐しました。この忍耐は受動的に耐え忍ぶのではなく積極的に耐え忍ぶことを意味します。私達は忍耐できず感情的になり神様の栄光を遮る時がどんなに多くあるでしょうか。ところが、忍耐は人間の力によってではなく信仰の訓練を通して結ばれる聖霊の実です(ローマ5:3、4)。

 パウロは福音のみわざに仕えながら受けた苦難を三つずつ分けて言いました。悩みと苦しみと嘆きは一般的な苦難であり、むち打たれることや入獄や暴動は外部から肉体に与えられる苦難であり、労役や徹夜や断食は自ら受けた苦難です。使徒パウロが受けた苦難を考えると恥ずかしいばかりです。しかし、私達は彼ほどではありませんが、福音のみわざに仕えながら様々な苦難があります。時には働きすぎて体の具合が悪くなることもあります。時には徹夜したり、ちゃんと食事を取れない時もあります。また、無視されたり、憎まれたり、迫害されたり、からかわれたりもします。私達がこのような苦難を受ける時、悲しくなりやすいです。しかし、私達が主と福音のために受ける苦しみは将来与えられる栄光に比べれば取るに足りないものです。ですから、私達はむしろ苦難を喜ぶべきです。

 6‐8a節までは苦難の中でどんな原則を持って働いて来たのかを言っています。純潔と知識と、寛容と親切は道徳的な原則であり、聖霊と偽りのない愛と、真理のことばと神の力は霊的な原則です。私達は道徳的な原則と霊的な原則をすべて守らなければなりません。今日、多くの福音の働き人が霊的な原則だけを守り、道徳的な原則を無視するために悪い影響を及ぼす場合が多くあります。反面、道徳的な原則だけを強調して霊的な原則を無視すると霊的な影響力を及ぼすことができません。私達は道徳的な原則と霊的な原則をともに大切にしなければなりません。

 純潔は物質の問題と異性の問題が純潔を計る尺度になります。いくら多くの仕事をして大きな仕事をしたとしてもこの問題に清くなければ悪い影響力を及ぼすようになります。アメリカの有名なTV伝道者ジム・スワグとジム・ベイカは説教がとても上手だったので彼の説教を聞いて涙を流す人々が多くいたそうです。しかし、彼らは物質と情欲の問題に陥り、悪い影響を及ぼすようになりました。反面、ビリ?グラハム牧師は物質と異性の問題において清い人だったので今もアメリカの人々の中で最高に尊敬されています。

 知識は福音に関する霊的な知識を言います。福音の働き人となるためには福音に対する霊的な知識を持っていなければなりません。そのために熱心に聖書を学ぶ必要があります。寛容と親切は反対者の敵意に対する寛大な態度を言います。

 聖霊は福音のみわざに仕える時、自分の力や知恵によらず、聖霊の力を受けることを意味します。私達が1:1聖書勉強をする時、熱心に聖書を教え、おいしい物を買って仕えると、羊は何の問題なしに成長すると思いますが、実際にはそうではないことを経験するようになります。それは私達の力によっては人の心を動かすことができないことを言ってくれます。人の心を動かし、変化させるのは聖霊の力によって可能です。聖霊の力を受けるためには祈らなければなりません。  

 偽りのない愛は真実な愛です。それは利己的な愛や自己中心的な愛ではなく、無条件的な愛、犠牲的な愛です。偽りのない愛は人を感動させ、変化させる驚くべき力があります。この愛は神の愛であり、イエス・キリストの愛です。

 真理のことばは福音、すなわち、和解の御言葉を指しています。パウロは敵対者達のように御言葉を混雑にせず、真理の御言葉をまっすぐに説き明かしました。また、パウロは福音を宣べ伝える時、人の力によらず、神の力によって宣べ伝えました。

 パウロはローマの兵士達が右手に剣を左手に盾を持って戦ったように左右の手に義の武器を持って戦いました。彼の武器は義の武器でした。この義とは信仰による神様の義です。パウロが人々からほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることに縛られず、また自己義や不義を主張したりしなかったのは、このキリストの義の武器を持っていたからです。熱心に働いた後、自己義が生じて高慢になったり、失敗した時、不義に陥ったりするのはキリストの義の武器を持ってないからです。パウロは人の義が神様の御前で不潔な着物のようであることをよく知っていました(イザヤ64:6)。

 8b‐10節をご覧下さい。「私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」使徒パウロが道徳的な原則と霊的な原則を持って福音のみわざに仕えた時、外側から見える姿と神様の御前での実際的な姿が対照的でした。人々はパウロが熱心に福音を宣べ伝えて弟子養成をしていると人々を惑わす人だと非難しました。しかし、彼は真理の御言葉に聞き従い、真理の御言葉を宣べ伝える真実な人でした。彼は人に知られないようでも、神様にはよく知られている人でした。また、彼は苦難を受けて死にそうでも、復活信仰によって生きていました。彼が主と福音のために苦難を受ける時には罰せられているように見えました。しかし、彼は神様の助けによって殺されませんでした。私達の主イエス・キリストは十字架につけられ死なれると人々は、彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと思いました。しあし、イエス様は私達のそむきの罪のために刺し通され、私達の咎のために砕かれました。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされました。(イザヤ53:4)。

 パウロは福音のみわざのために、羊達のためにいつも悲しんでいるようでしたが、根本的にいつも喜んでいました。彼は患難さえも喜び、牢に入れられても喜びました。ピリピ人への手紙は彼が獄中で書いた手紙です。彼は獄中でピリピの聖徒達に次のように勧めました。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」

 また、彼は仕事をしながら福音のみわざに仕えていたため貧しいようでした。しかし、実際に彼は多くの人を富ませる生活をしました。彼は何も持ってないようでも、すべてのものを持っていました。豊かさは所有の多少にあるのではなくどれほど多くの人々に与える生活をするかにあります。使徒パウロは多くの人々にいのちの福音を宣べ伝え、キリストの愛を与えたので誰よりも豊かな生活をしました。箴言11:24,25節には次のような言葉があります。「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。」キリストを受け入れれば、無一文でもすべてを所有できます。全世界を支配される神様は、私が今手に何も持ってなくても、必要な時、必要なものを与えてくださるからです。

 パウロが真実で、復活信仰によっていつも喜び、多くの人々を富ませる豊かな生活ができた秘訣は何でしょうか。それは彼が実生活の中でイエス・キリストに見習う生活に励んだからです。彼は牢の中でピリピの聖徒たちに次のように証しました。「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」(ピリピ3:10、11)。キリストが私の中に住んでくださることで、弱い人間にできないことができるようになります。パウロは「生きているのは、もはや、私ではない。キリストが、私のうちに生きておられるのである。」と言いました。そのキリストによって、彼が現実に出会ったさまざまな苦しみの中で、神様のしもべとしてのあかしができたのです。パウロは神様のしもべとして、主の前に謙遜に、ほんとうだと信じる道をひたすら歩みました。彼がキリストに見習う生活に励んだ時、彼はキリストによって勝利の人生を過ごすことができました。

 第二に、狭い心と広い心(11?13)

 これからパウロは自分がこのような話をする理由について言っています。コリントの聖徒達は使徒パウロが牧者として狭い心を持っていて自分達に対して律法的だと思いました。しかし、実はパウロの心が狭くなったのではなくコリントの聖徒達の心が狭くなっていたのです。パウロは父が子供に対するように彼らに向かって心を広く開きました。彼は広い心を持っていました。もし彼が狭い心を持っていたなら自分を非難したり、問題だらけのコリント教会の人々を愛することができなかったでしょう。しかし、パウロはコリント教会の人々を広い心を持って変わらず愛していました。そして、彼は子供に話すように言います。「私は自分の子どもに対するように言います。それに報いて、あなたがたのほうでも心を広くしてください。」(13)。

 以上から私達は狭い心と広い心があることがわかります。狭い心はどんな心でしょうか。それは自己中心的な心であり、律法的な心です。狭い心を持っている人はすべてのことを自分の基準に合わせて判断するので相手に対して誤解と偏見を持ちやすいです。また、相手をあるがまま受け入れることができません。道が狭い時、渋滞となるように心が狭い時、多くの問題が発生します。心が狭い人は人との関係性がうまく行かないのです。

 同じ出来事を見ても狭い心を持っている人と広い心を持っている人の見る目は違います。たとえば、走っている子供が転んだ時、ある親は「走らないように言ったのになぜ走ったの。バカじゃないか。」とすぐ怒ります。しかし、ある親は子供の顔を見ながら「大丈夫。痛いだろう。」と言います。広い心を持っている人は相手の立場で考えます。それは他人中心の心であり、さらに神様の側で考える神様中心の心です。このような人は心が太平洋のように広くて多くの人々を抱いて謙遜に仕えることができます。狭い心を持っている人の所は人々が避けますが、広い心を持っている人の所には人々が集まります。

 私達が神様の祝福を受けてさらに神様に用いられる人となるためには心を広くしなければなりません。私達の信仰が成長するとは狭い心から離れて相手を深く理解して仕える広い心を持つことです。広い心はイエス様の心であり、神様の心です。神様は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛されました。そして御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つようにしてくださいました。また、イエス様はすべての人々の罪を背負って十字架につけられ死なれました。そして十字架の上で自分を十字架につけた罪人のために祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。」(ルカ23:34)。私達がイエス・キリストの心、神様の心を学び、心を広くして世界の人々のために祈り、仕える人として成長することができるように祈ります。

 

?.神の宮(6:14?7:16)

 

 第一に、聖なる生き方(6:14?7:1)

 6:14?7:1節までは今までパウロが扱って来た主題とは違う主題を扱っています。ここで扱っている主題は、クリスチャンは生ける神の宮なので不信仰の世と妥協しないで聖なる生活をしなければならないということです。正義と不法、光と暗闇、キリストとベリアル、神の宮と偶像とは本質的に違うので交わることも一致することもできないように、信者と不信者とはくびきをいっしょにつけないように言っています。すなわち、これは不信者との結婚、偶像崇拝、道徳的な堕落、世俗化、混合主義を警戒する御言葉です。コリントは偶像崇拝と道徳的な堕落が盛んになっているところでした。このような雰囲気の中で生活すると妥協しやすいです。しかし私達はどんな状況の中でも信仰の純粋性を守り、聖なる生活をしなければなりません。積極的にこの世の暗闇と戦い、腐敗を防ぐ世の光、塩の役割をしなければなりません。なぜなら私達は生ける神の宮であり、聖なる神の民だからです。そのためには神様との交わりを持つことが必要です。私たちは神様から聖なる生活ができる無尽蔵なものをいただくことができます。神様との交わりの時にはどんなに親しい人とも交わりを絶ち、あふれる恵みをいただいてから共にしなければなりません。パウロは7:1節で次のように勧めています。「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」

 第二に、神様の御心に添う悲しみ(7:2?16)

 7:2‐4節でパウロはもう一度彼らが心を開いてパウロを受け入れ、愛と信頼の関係性を回復することを願いました。5‐16節にはパウロがコリント教会の人々の罪を責める手紙を送った後、悲しんでいましたが、テトスを通して彼らが悔い改めたことを聞いて慰めを得て喜ぶ姿が出ています。彼は自分の手紙でしばらくの間コリント教会の人々を悲しませましたが、彼らが悔い改めて神様と正しい関係性を結ぶようになったことを聞いて喜んでいます。世の悲しみは根本的に不信仰から来る悲しみであり、この世を愛する心から来る悲しみなので何の益にもなりません。このような悲しみは神様の愛を疑わせ、信仰から離れさせ、結局死をもたらします。しかし神のみこころに添った悲しみは、信仰によって生きようとすることから来る霊的な悲しみです。このような悲しみは救いに至らせます。

 結論、私達が神様から受けた恵みを無駄にしないように恐れかしこんで恵みにふさわしい生活をすることが出来るように祈ります。また、霊的な人となって道徳的、霊的な原則を持って福音のみわざに仕えることができるように祈ります。何よりも広い心、すなわち、イエス・キリストの心、神様の心を抱いて世界を抱く人として成長することができるように祈ります。