1999年コリント人への手紙第二 第5講(♪465)

 

和解の務め

 

御言葉:コリント人への手紙第二5:1?21

要 節:コリント人への手紙第二5:18

「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」

 

 私達は先週のメッセージを通して人間は土の器に過ぎませんが、イエス様は宝であることを学びました。私達がこの宝であるイエス様を受け入れ、イエス様を愛し、イエス様を証しする人生を生きる時、私達も宝であるイエス様によって宝のような人生を送ることができます。

 今日の御言葉はクリスチャンがどんな望みを持つべきであり、この望みを持ってこの世で担うべき使命は何かを教えています。

 

?.天にある永遠の家(1?10)

 

 第一に、地上の幕屋と天にある家(1?7)

 1節をご覧下さい。「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。」パウロは私達の肉体を幕屋にたとえています。これは人間の肉体の弱さ、臨時性をたとえて言った言葉です。鉄で作った自動車のエンジンも一日24時間使い続けると、5,6年後には廃車するしかないそうです。しかし、人間の心臓は重さが230?340グラム位しかなりませんが、平均70年位24時間動いています。神様が創られた人間の体はすばらしいものです。しかし、いくら健康な人でも歳を取るにつれて壊れて行きます。聖書は人生の虚しさを次のように歌っています。「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」(詩篇90:10)。歳を取ると壊れるだけではなく、病気や事故に会うともっと早く壊れます。人はいくら富と権力と名誉を所有して足りものがない人でもいつかは壊れる時が来ます。人間はいくら努力しても罪のために死を免れることができません。

 それでは人間は死んだらすべてが終わるのでしょうか。いいえ。そうではありません。聖書は死が人生の終わりではなく死後に永遠の新しい世界があることを教えています。私達の住まいである地上の幕屋がこわれても、神のくださる建物、すなわち、人の手によらない、天にある永遠の家があるのです。クリスチャンにはこの天にある永遠の家に対する望みがあります。これは神様が設計して建てられた家です。この家はイエス・キリストの十字架と復活によって建てられた家です。この家は朽ちるこも、汚れることも、消えて行くこともない家です。また、この家には涙も苦しみも死もなく、いつもいのちと平和と愛が溢れています。死が人生の終わりではなく死後に私達の体が新しい栄光の体によみがえらされることを考えるとどんなにうれしいことでしょうか。この天にある永遠の家に対する望みがある人は目に見えるものに縛られず、また、どんなに絶望的な状況の中でも失望せず、希望に満ちた生活をすることができます。

 死が人生の終わりだと思って生きている人と天にある永遠の家を望みながら生きている人の人生は完全に異なります。死を人生の終わりだと思って生きている人はこの世を否定的に見ます。それで状況が難しくなると、この世から逃避するために自殺したり、この世を愛して快楽的になります。また、死んだらすべてが終わりだと思っているので何をしても虚しく、真のビジョンや夢を持つことができません。それで自然に小市民的になり、自己中心的になり、利己的になり、貪欲的になります。反面、この世がすべてではなく来るべき永遠の家がある思う人の生活には余裕があります。この世はしばらく泊まって行く旅館にすぎないので与える生活をすることができます。また、聖なる旅人として聖なる生活をし、勤勉な生活をします。一言でこの世から逃避したり、この世を愛したりせず、この世に遡って暗闇を照らす世の光、腐敗を防ぐ世の塩としての人生を生きるようになります。

 2?4節でパウロは肉体の限界のためにうめきますが、死んで早く神の国に入ろうとするのではなく生きて栄光ある体を着ることを切に慕い求めていることを言っています。私達は聖なる生活をしたいと思いますが、絶えず生じる罪の欲望によってうめきます。また、肉体の弱さのためにうめきます。そのために早く肉体の限界から離れて神の国に入りたいと思う人もいます。使徒パウロが天にある永遠の家を慕い求めていたのは、難しい現実を逃れようとしたのではなく、天からの住まいを着たいと望んでいることでした。すなわち、生きて栄光ある復活の体を着ることを望んでいたのです。

 どうやって私達の死ぬべき体が死なない永遠の体に変わり、どうやって朽ちるものが朽ちないものに、卑しいものが栄光あるものに、弱いものが強いものに、血肉のからだが御霊に属するからだに変えられるのでしょうか。それは全能の神様が成し遂げてくださいます。ですから確かなものです。神様は御言葉によって無から天地を創造された方です。また、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた全能の方です。人間には不可能なことですが、神様にすべてが可能です。神様は私達に聖霊を保証としてくださいました(5)。私達の体は地上で生活するように造られました。しかし、地上にある幕屋が壊れると、神様は私達の体を天にある永遠の家で暮らせるように栄光ある体によみがえらせてくださるのです。

 6節をご覧下さい。「そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。」「心強い」とは大胆で、望みに満たされ、信念に満ちた勇敢な姿を言っています。これは現在形として現在も続けてそのような望みと確信を持って生きていることを言っています。ある人々は神の国に対する望みは年老いた人に必要なもので、若者には必要ではないと思っています。しかし、決してそうではありませんん。神の国に対する望みは私達の現実と密接に関連しています。信仰がない人は生ける望みがないので根本的に不安、恐れから解放されることができません。しかし、信仰によって生きる人は神の国に対する望みがあるのでどんな状況の中でも絶望せず、信仰によって大胆な人生を送ります。私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます(7)。なぜなら、信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです(ヘブル11:1)。

 第二に、主に喜ばれる人生(8?10)

 使徒パウロにとって、肉体を離れる日は喜びの日です。しかし、パウロは生死を超越したはっきりとした人生の目的と方向がありました。9節をご覧下さい。「そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。」ここで「念願する」とは主に喜ばれることを最高の価値として考えて霊的な野望を持って生きることを意味します。人は心に野望を抱く時、その野望を成し遂げるために全力を尽くします。たとえば権力に対する野望がある人はそれを握るために全力を尽くします。金持ちになろうとする野望を持っている人は寝ても覚めても「どうすればお金を儲けることができるか」を考えます。大学者になる野望を持っている人は寝る時間も忘れて実験や勉強に励みます。このように野望を抱く時、その野望はすべての苦しみや逆境の乗り越えさせる原動力になります。この世の野望がそうであるなら、霊的な野望はどうでしょうか。この世の野望は人を失望させますが、霊的な野望は決して人を失望させません。主に喜ばれることを念願することは聖なる野望です。このような聖なる野望を持っている人は何をしても神様に喜ばれるためにします。

 主に喜ばれることが人生の第一の目的です。人生の目的には二つがあります。主を喜ばせるか、それとも自分を喜ばせるかです。人は自分を喜ばせる人生を生きると幸せになると思います。ところが、自分を喜ばせようとする人は自己中心的になり、利己的になります。そして、神様が願われることを探すより自分の考えや計画に従います。神様がこのような人を喜ばれるはずがありません。神様が喜ばれない人に神様の下さる喜びや平安、幸せが与えられるはずがありません。

 しかし、神様を喜ばせようとする人は自分を否認して神様中心、キリスト中心に生きています。このような人は神様が自分のために何をしてくださるのかを考える前にまず自分が神様のために何ができるかを考えます。どんな状況の中でも神様の御旨を求め、神様に感謝します。どんな不幸な出来事に会ってもつぶやかず、神様が愛するので訓練を与えてくださったと思い、むしろ神様に感謝するようになります。このような人は神様が喜ばれ祝福してくださいます。このような人は神様に愛され、幸せな人生を送ることができます。

 ヘブル人への手紙11章を見ると、信仰によって神様に喜ばれた信仰の勇士達が出ています。その中でエノクのことについて次のように書いてあります。「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」(ヘブル11:5)。私達が神様の祝福を受けるためには神様に喜ばれていることが、あかしされなければなりません。多くの人々が神様の祝福を受けることを願いながらも神様に喜ばれるためには励みません。そうしながら神様の祝福だけを願い、祝福してくださらないと思うとつぶやきます。神様がこのような人を祝福するはずがありません。このような人には祝福の代わりに訓練を与えるでしょう。私達が神様の祝福を受けることを願うなら神様に喜ばれていることが、あかしされるように励まなければなりません。私達は人々の評価より神様の評価に関心を持たなければなりません。

 10節は私達が神様に喜ばれる者となるために励まなければならない理由が何かを言ってくれます。「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」ここでキリストのさばきの座は人類最後のさばきの座として永遠のいのちと永遠の死が分けられる座です(テサロニケ?1:6‐10)。キリストのさばきを受けるのには例外がありません。また、このさばきは団体で受けるのではなく各自その肉体にあってした行為に応じて受けます。キリストのさばきはまるで試験のようです。学生達は試験がなければあまり勉強をしません。しかし、試験があれば良い点数を取るために一生懸命に勉強します。私達クリスチャンは基本点数があって天の御国に入ることは合格しましたが、神様から「良くやった。良いしもべだ。」と賞賛される人になるためには一生懸命に勉強しなければなりません。

 

?.和解の務め(11?21)

 

 11?21節は私達が神の国に対する望みを持っている人が主に喜ばれるために励むべき使命は何かを教えています。

 第一に、新しい被造物(11‐17)

 11節はパウロが真実に行なわないと非難する人々に対する答えです。パウロは、主を恐れていたので神様の前と人々の良心にも明らかになることを望みました。パウロは自分の誠実さを、人々にわかってほしいと願っています。彼は、神様の目から見れば、自分の手は清く、動機は純粋であることを、疑っていません。13節をご覧下さい。「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。」パウロは、自分の行動の奥にある唯一の動機は、神様に仕え、コリント人に仕えることだけだと強調しています。パウロが人々から気が狂ったと思われたことは、一度や二度ではありませんでした。彼はキリストのため、人々のためなら、何でもやる用意ができていました。使徒の働き26章を見ると、パウロがフェスト総督の前で自分がどのようにしてイエス様を信じてキリストの証人になったのかを話す場面が出ています。パウロの証しを聞いていたフェストは大声で言いました。「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている。」するとパウロは次のように言いました。「フェスト閣下。気は狂っておりません。私は、まじめな真理のことばを話しています。」そして「私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」と言いました。

 私達がイエス様を信じて主のために熱心に働くと人々は「イエスに狂った」と言います。キリスト者という言葉はアンテオケ教会の聖徒達が熱心にイエス様を信じるのを見て「キリストに狂った人」という意味でつけた名前です。人々をよく見ると何かに狂って生きていることがわかります。同じ職場の何人かの人々はゴルフに狂っているように見えます。いつもゴルフの話が話題になるし、時間があればゴルフの練習をしています。多分その人々は夢の中でもゴルフをする夢を見ているでしょう。もし、私の頭がゴルフボールに見えるかもしれません。ある人は賭博に狂いました。それをやめるために手を切りました。ところが、後からは足で賭博をする自分を見て絶望したそうです。ある人は家に帰る時にはいつも居酒屋によってお酒を飲みました。ある日、お酒をやめることを決断していつも寄っていた居酒屋を通りすぎました。ところが、通り過ぎた自分自身がとても誇らしく思われて記念に一杯飲んだそうです。ある人はパチンコに、ある人はコンピュータに、ある人はお金に、ある人は権力に、ある人は快楽に狂っています。学問に狂った人や芸術に狂った人は良い方向で狂った人々です。このように人々は何かに狂っているのです。ところが、人々はお金に狂った人はおかしいと思いませんが、神様に狂うとおかしく思います。しかし、神様に狂った人生こそ正気の人生です。

 使徒パウロは14節で自分が狂っていると言われながらも熱心に神様のために働く原動力が何かを言っています。それは、キリストの愛が彼を取り囲んでいるからです。キリストの愛はどんな愛ですか。それはすべての人々のためにご自分を犠牲にした愛です。パウロはこのキリストの愛に感動されて人々にキリストの愛を施すのに惜しみませんでした。キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです(15)。

 16‐18節は人々が使徒パウロを人間的な標準で判断することに対する答えです。人々は人間的な標準ですべてを評価します。大抵その人が何を所有しているか、どのくらい持っているかによって評価します。しかし、このような評価は正しい評価にはなれまえん。過去パウロもイエス・キリストを人間的な標準で判断していました。その頃は、キリストの名を地上から吹き飛ばし、彼を信じる者達を絶滅し、キリスト教をこの世から抹殺しようとしました。しかし、今は違います。今は彼の判断の基準が変わってしまっています。なぜなら、彼は復活されたイエス様に出会って新しく生まれたからです。彼が新しく生まれると、すべてが新しくなりました。彼の価値観も望みも生活態度も変わりました。この世は少しも変わっていませんが、彼が変わるとすべてが新しく見えました。人々が人間的な標準でパウロを非難したのは彼らがキリストのうちで新しくなってないからです。私達が新しい価値観、新しい望みを持って新しい人生を過ごすためにはキリストによって新しい被造物になれなければなりません。新しく造られた者になると、不平不満は感謝と喜びに変わります。これはキリストの中で新しい被造物として変えられた人だけが受ける祝福です。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(17)。

 第二に、和解の務め(18‐21)

 18節をご覧下さい。「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私達をご自分と和解させ、また和解の務めを私達に与えて下さいました。」私達が新しい被造物として変えられたのは人間の努力や世の哲学や思想によってではありません。これらのことはすべて、神から出ているのです。どうやってそのことが可能ですか。それは神様が、キリストによって、私たちをご自分と和解させて下さったからです。和解とは仲直りです。仲直りは、待っているだけではできません。自分がまず許しを願わなければなりません。夫婦喧嘩した後、相手が和解して来るときを待っているだけでは仲直りができないのです。仲直りが難しいのは、自分が損をしたくないからです。人は神様に逆らって自分勝手な道を歩みました。それによって神様と人とは不和状態になりました。人が死の恐怖にさいなまれ、さばきを恐れるしかないのは神様と和解してないからです。神様はこのような人々を哀れみ、和解の手を伸ばしてくださいました。神様は一人子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださったのです。そして何の罪もないイエス様は神様の小羊として和解の供え物となられました。私達が神様と和解するようになったのはキリストの犠牲によるのです。神様は私達と和解するために損をされたのが十字架です。ここに私達に向かう神様の驚くべき愛があります。使徒ヨハネはこの神様の愛を次のように証しました。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネ第一4:10)。

 私達が神様と和解することによって受ける祝福は何ですか。パウロはローマ5:1、2節でその祝福を次のように歌いました。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」私達は神様と和解することによって罪意識や不安、恐れを離れて真の平安と自由が与えられました。また、律法の世界から恵みの世界で生きるようになりました。過去私達は罪のために聖なる神様の御前に出て行くことができませんでした。しかし、今はイエス・キリストの血の恵みによって神様の御前にいつでも出て行くことができるようになりました。また、神様の子供として神様の愛と守りと導きと養育を受けるようになりました。これは驚くばかりの祝福です。

 私達はこのような恵みと同時に務めも与えて下さいました。その務めは世の人々を神様と和解させることです。この務めはこの世のどんな務めよりも大切な務めです。この世の中には多くの争いや葛藤があります。民族と民族、国と国、地域と地域、人と人の間の争いや葛藤があります。この世は和解が必要です。和解するために和解させる人が必要です。世の中では平和的に和解させた人を尊く思い、賞を与えます。ノベル賞をもらった人を見ると、国と国、地域と地域の争いや葛藤を和解させた人です。このような地域間の和解も大切ですが、それよりももっと大切なのは神様との和解です。神様と和解すると人々の間も和解することができます。それでパウロはコリントの聖徒達に神様と和解するように懇願しています。20節をご覧下さい。「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」神様と和解させる人は、ノベル賞はもらってなくても神様がご覧になると、尊い存在です。神様はその人にノベル賞よりもすばらしい報いを与えてくださいます。私たちクリスチャンはこの世に真の平和をもたらすキリストの使節です。

 私達がこの和解の務めを担うためにはどんな姿勢を持たなければなりませんか。それはキリストの心を持たなければなりません。キリストは私達を神様と和解させるために人となられ、罪人に仕え、十字架に死なれました。キリストの心は謙遜と仕えることと犠牲の精神です。私達がこのキリストの精神を持つとき、和解の務めを果たすことができます。主が私達にキリストの心を与えてくださり、不和が多いこの世に真の平和をもたらすキリストの使節としての務めを良く果たすことができるように祈ります。それによってこの国が21世紀祭司の国として尊く用いられるように祈ります。