1998年コリント人への手紙第二 第3講

 

新しい契約に仕える者

 

御言葉:コリント人への手紙第二3:1?18

要 節:3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」

 

 今日の御言葉は私達がどうやって新しい契約に仕える者、つまり、福音の働き人となったのか、また、新しい契約に仕える務めがどれほど栄光であるかを教える御言葉です。さらに新しい契約に仕える者に与えられる祝福について言っています。私達クリスチャンはイエス・キリストを信じることによって罪と死から救われ、永遠のいのちが与えられました。また、神の国に対する生ける望みを持つようになりました。これは神様が私達クリスチャンに一方的な恵みによって与えられたプレゼントです。クリスチャンはこのような祝福だけではなく福音を宣べ伝える新しい契約に仕える使命も同時に与えられました。今日の御言葉を通してこの恵みを心に刻み、この恵みに基づいて生活する神様のしもべとなるように祈ります。

 

?。神様の推薦状(1?3)

 

 1、2節をご覧下さい。当時コリント教会にはユダヤの律法の教師達がいました。彼らはエルサレム教会の推薦状をもらって来たので自分達だけが教える資格があり、パウロは推薦状がないので使徒でもなく神様の働き人としての資格もないと主張しました。それについてパウロは、自分が神様のしもべであることを証しする推薦状が、必要ないと言います。なぜなら、コリント教会の聖徒たちが、パウロが神様のしもべである推薦状だからです。この推薦状は一回きりのものではありません。この推薦状は神様が使徒パウロの福音の働きを祝福して与えてくださった霊的な実です。霊的な実こそ一番信頼できる推薦状です。人々が書いた推薦状は偽物を作ったり、誇張したりもできます。しかし神様の推薦状は偽物を作ることも誇張することもできない一番確実で真実な推薦状です。

 使徒パウロは3節で神様の推薦状と人々が作った推薦状とは本質的に違うことを言います。「あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。」人が墨によって書いた手紙や石の板に書いた手紙は年月が経つと消え去るようになります。しかし、キリストがコリント教会の聖徒達の心の板に書かれたものは永遠に消え去ることがありません。ですからこの手紙は一番確実な手紙であり、信頼できる手紙です。

 以上から神様の御業を行うためには神様の推薦状が必要であることを学びます。昔も今も人々は推薦状をよく使います。推薦状はその人がどんな人であるかを知り、信頼するための証明書の役割をするので誰からどんな内容の推薦状をもらったかによってその人を客観的に評価することができます。推薦状は進学の時にも就職の時にも必要です。同じく神様の御業に仕えるためには神様の推薦状が必要です。世の中のいくら立派な人から推薦状をもらったとしても神様の推薦状がなければ福音の働き人だと言えません。神様に用いられた人はみな人々の推薦状より神様からの推薦状をもらうために励みました。チャールズ・スポルジョンは正規神学校の教育を受けませんでしたが、17歳から牧会を始めて多くの人々を主に導く偉大な主のしもべとなりました。DLムディーは小学校しか出ませんでしたが、独学で勉強して多くの人々を主に導く偉大な御言葉のしもべとなりました。私達は人々の推薦状より神様の推薦状を慕い求めるべきです。私達が神様の推薦状を持つとき、人々からの評価に縛られず、確信を持って主のみわざのために働くことができます。

 

?。栄光ある務め(4?18)

 

 4?6節では私達がどのようにして新しい契約に仕える者となったのかを言っています。そして7?11節では新しい契約に仕える務めがどれほど栄光あるものであるかを古い契約の務めと比べながら説明しています。

 第一に、新しい契約に仕える者としての資格と力を与えてくださった神様(4?6)。4,5節をご覧下さい。パウロは神様の御前で確信を持っています。「私たちはキリストによって、神の御前でこういう確信を持っています。何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。」パウロは自分が新しい契約に仕える者となった資格は神様からのものであることを強調しています。自分に資格があると思うと、高慢になり、人々からそれにふさわしいもてなしを受けようとします。しかし、何の資格もないのに神様の恵みによって福音の働き人となったと思うと謙遜になり、感謝するようになります。その人は神様の助けを求めて神様に喜ばれる実を結ぶようになります。パウロは神の教会を迫害する人だったので石に打たれ死ぬべき者でした。しかし彼は神様の恵みによって救われ、新しい契約に仕える者となりました。彼はその恵みに感謝し、次のように証ししました。「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(コリント第一15:10)。

 それでは神様はどのようにして私達を「新しい契約に仕える者」として立てて下さいましたか。6節をご一緒に読んでみましょう。「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」神様は私達に新しい契約に仕える資格を与えると同時にその務めに必要な力も与えてくださいました。この新しい契約に仕える者は文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。この御言葉が意味することは何でしょうか。ここで文字は旧約の律法を意味し、御霊は聖霊を意味します。旧約、つまり、古い契約は神様がイスラエルと結ばれた契約です。それはイスラエル人が神様の御言葉に聞き従うなら彼らの神となり、イスラエル人は神の民となる契約です。この契約は双務契約ですから一方がその契約を守らないとその契約は自動的に破棄されるものです。イスラエル人は神様の御言葉に逆らったのでその契約は破棄されました。

 しかし、新しい契約は古い契約とは違います。新しい契約は神様が新しいイスラエルと結ばれた契約です。この契約は神様が人間の弱さを深く理解し、哀れみによって与えられた契約です。この契約は恵みによる契約であり、何の条件も要求しない契約です。この契約は神様のほうから一方的に与えられた片務契約です。この新しい契約はイエス様が私達の罪のために十字架につけられ死なれることによって成就されました。古い契約は動物の血による契約ですが、新しい契約は神の小羊であるイエス・キリストの血による契約です。イエス様は弟子達との最後の晩餐の時、杯を彼らに与えながら言われました。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」(ルカ22:20)。古い契約も罪を赦す効果がありました。神様はイスラエル人が罪を犯すたびに動物の血を流すことによって罪が赦されるようにしてくださいました。しかし、その効果は一時的で不完全だったので人々は罪を犯すたびにいけにえを捧げなければなりませんでした。古い契約の制度は救いのみわざにおいて一つの模型として将来来るべき影にすぎませんでした。

 新しい契約は動物の血ではなく生きておられる神の御子イエス・キリストの血による契約です。このイエス様の血は何の罪もない神様の小羊の血なので罪の赦しの効果は完全で永遠です(ヘブル9:12)。使徒ペテロはイエス様の血の力について次のように証ししました。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(?ペテロ?:18,19)。私達は昔のイスラエル人がしたように罪を犯すたびに飛行機に乗ってエルサレムに行っていけにえを捧げる必要がありません。なぜなら誰でも罪を犯した時、神様の御座の前に出て行き、罪の赦しを受けることができるからです。ここには何か自分のほうから用意しなければならないものはありません。ただイエス様が自分の罪のために十字架につけられ死なれたことを信じればいいのです。私達が信仰によって神様の御座の前に出て行って自分の罪を悔い改めれば、神様はどんなひどい罪をもイエス・キリストの尊い血によってきよめてくださいます。自分の犯した罪が大きすぎると思って少しでも自分のほうからきよめてから出て行こうとする必要がありません。ただイエス様の血の力に頼ってありのまま出て行けばいいのです。すると、主は私達の罪を雪のように白くしてくださいます。「罪はひのごと赤くあるとも、罪はひのごと赤くあるとも、恵みの神の御力は雪のごとくに、雪のごとくに、白くしたまわん、白くしたまわん」(聖歌435)。

 6bをご覧下さい。「文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」この御言葉は私達がどのようにして新しい契約に仕える者となったのかを言っています。ここで文字は殺し、御霊は生かすという言葉には深い意味があります。文字、つまり、律法自体が人を殺すのではありません。律法は神様が与えられたものですから聖なるものです。しかし、人間が弱くても聖なる律法を守る力がないのが問題です。ローマ7章を見ると、パウロの霊的な葛藤について書いてあります。彼は律法を守ることによって救いを得ようと努力しました。すなわち、彼は人間の努力によって救いを得ようとしたのです。彼はパリサイ人として、律法による義についてならば非難されるところのない者でした。ですから彼は救いの喜びに満たされているはずでした。ところが彼が律法を守ろうとすればするほどもっと強い罪の鎖につながれる自分を発見しました。彼はこのような葛藤の中で大切な事実を悟るようになりました。それは律法は罪を悟らせるだけで罪から救うことはできないということです。ですから人は律法によって自分が罪人であることを悟った時、罪悪感のために苦しみ、結局その罪によって死ぬのです。ですから律法が殺すのではなく罪が殺すのです。パウロは、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっている自分を発見しました。それを通して彼は自分のうちには善を行ないたい願いはありますが、善を行なう力がないことがわかりました。むしろ悪の力が自分を支配して奴隷としてしまうことを悟り、絶望の中で叫ぶしかありませんでした。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)。これは善を行なおうと努力する人間が持っている葛藤であり、絶望です。

 しかし彼は絶望の時に私達の罪のために十字架につけられたイエス様に出会いました。すると、彼の口からは感謝の言葉が出てきました。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」(ローマ7:25)。そしてローマ8:1,2節でその理由を説明しています。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」私達がイエス様を救い主として信じる時、罪と死の勢力から解放されて御霊の勢力の中に入るようになります。私達はこの聖霊によって罪と死の勢力から解放されて新しい契約に仕えることができるのです。それは実に驚くべき恵みです。

 第二に、栄光ある新しい契約に仕える務め(7?11)。7?9節でパウロは古い契約に仕える者の栄光と新しい契約に仕える者の栄光を比べて言っています。古い契約に仕える者の栄光はどうですか。それは神様がイスラエル人に律法を与える時の状況を見ると分かります。イスラエル人は430年間エジプトで奴隷生活をしていましたが、神様の大いなる力と愛によって解放されました。しかし彼らは体は自由になりましたが、考え方や生き方は以前と同じく奴隷の状態でした。彼らは感情的で物質的で淫乱でした。また、異邦人の影響を受けて偶像礼拝をしました。彼らはみな、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした(エペソ2:3)。彼らは忍耐心も足りなく感謝も知らず、すぐ自分の牧者につぶやきました。

 神様はこのような彼らに鏡のような律法を与えてくださいました。律法を与えられた目的は彼らが自分の罪を悟り、神様に救いを求めるようにするためでした。それだけではなく律法は神様の聖なる民であり、祭司の国としての内面性を持つように訓練する役割をしました。イスラエル人は律法を通して道徳的にきよく聖なる民となることができました。律法は彼らにとって必ず必要なものでした。

 今日私達にも律法が必要です。今日は不道徳の時代を超えて脱道徳の時代になっています。不道徳の時代には罪を犯すと罪悪感を感じて苦しみますが、脱道徳の時代には罪を罪として認めようとしません。たとえばヨハネの福音書4章を勉強すると夫を五人も変えたサマリヤの女が罪人であると学びます。ところが今の若者達は「サマリやの女がなぜ罪人ですか。能力が多い人ではありませんか。」と言いながらそのような女性をうらやましく思います。このような人々には罪人としての自分を悟り、救われるようにするためには律法が必ず必要です。このような律法を教える務めは栄光ある務めです。その務めはどんなに栄光があったのか、モーセがシナイ山から神様の律法をもらって下りて来た時、モーセの顔が輝いていたのでイスラエル人は彼の顔を見ることができないほどでした。このようにもし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょうか。

 御霊の務めは罪によって死んでいる人々に命を与える務めです。人々は医者の仕事を尊く思っています。なぜなら人のいのちを生かす仕事だからです。このように肉体のいのちを生かす仕事が尊いとすれば人のたましいを生かす務めはどれほど尊いものでしょうか。世の中に多くの務めがありますが、罪によって死んで行く人々を生かす務めより価値があり、尊い務めはありません。

私達はこの栄光がある務めが与えられた人です。

 また、古い契約の務めは罪に定める務めですが、新しい契約に仕える務めは義とする務めです。罪に定める務めは検事のように犯人の罪を明らかにし、罪に定めて裁きます。しかし、新しい契約に仕える務めはイエス様を信じる者を義とし、罪人の罪を赦し、罪から解放してくれます。律法は姦淫の現場で捕まえられた女を石で打つように命じています。しかし、イエス様は彼女の罪を赦し、新しい人生を過ごすようにしてくださいました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)。

 10,11節で古い契約の務めの栄光はしばらくあって消え去る栄光に過ぎませんが、新しい契約の務めの栄光は永続するものであることを言っています。古い契約の務めはまるで暗い夜空の月のようです。真っ暗な夜、光を放つ月はありがたい存在です。しかし月は太陽が現われるとすぐ消え去ります。月の光は反射された光ですが、太陽の光は光そのものですから永続します。イエス様はこの世の光として来られました。イエス様は言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

 私達を罪から救い、永遠のいのちを与えてくださったことだけでも感謝すべきことですが、人を生かす新しい契約に仕える務めを与えてくださったことはどんなに感謝すべきことでしょうか。私達にこのような栄光ある務めを与えてくださった主に感謝致します。

 

 ?。新しい契約によって与えられる祝福(12?18)

 

 12?18節は新しい契約によって与えられる祝福について言っています。

 第一に、真の自由が与えられます(12?17)。モーセは、自分の顔の栄光が結局消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けました。それはイスラエル人が律法の限界を知るようになると、律法に対する畏敬心を持たず、律法に従わない恐れがあったからです。ところがイスラエル人は今日に至るまで、その事実を知らず、律法の栄光が永続すると思っています。彼らは律法を守らなければ救われないと思っています。彼らは律法に縛られています。彼らは律法を守らなければならないという義務感や圧迫感、また、律法を守れなかったことによる罪悪感にさいなまれています。彼らには自由がありません。

 17節をご覧下さい。「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」

この御言葉はイエス様だけが私達に真の自由を与えてくださることを言っています。私達を縛るいろいろなものがありますが、罪意識ほど私達を強く縛り付けるものはありません。人は罪を犯すとそれで終わるのではなく、絶えず罪に定められる考えによって苦しみます。この罪に定められる意識はいくら年月が経っても離れません。ドイツのある50歳の人は27年前にお金を盗もうとしたどころ見つかり、警察を呼ぶと言った女性を殺しました。その後、彼は人を殺した苦しみで何度も自殺をはかりました。それでも彼から罪意識は離れませんでした。結局、彼は苦しみに絶えられず、27年ぶりに警察に自首したそうです。このように罪意識は人を狂わせるほどです。しかし、イエス様は私達をこのような罪意識から自由を与えてくださいます。

 また、イエス様は私達を死の恐れから自由を与えてくださいます。人はいつか死ぬという事実の前にいつも不安、虚しさ、恐れ、焦りを感じています。しかし、イエス様は私達を死の恐れから自由にします。また、イエス様は私達を律法の呪いから自由にします。そしてこれ以上サタンの訴えにさいなまれず、恵みの世界に生きるようになります。

 第二に、新しい契約によってイエス様の栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行く祝福を受けます。18節をご覧下さい。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

 結論、神様はイエス・キリストの血によって私達のすべての罪を赦し、私達を新しい契約に仕える者としてくださいました。これは私達に資格があってではなく一方的な神様の恵みによるものです。私達がこの栄光ある務めを与えてくださった主に感謝し、人を生かす新しい契約に仕える祝福の人生を過ごすことができるように祈ります。