1997年使徒の働き第2講

青年は幻を見
御言葉:使徒の働き2:1?47
要 節:使徒の働き2:17

「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」

 先週私達はイエス様が弟子達に与えられた世界宣教の命令と宣教命令を受けた弟子達がどのようにして聖霊の器を作ったかを学びました。今日の第2章にはペンテコステの日の出来事が記されています。聖霊が注がれたのは、ペンテコステ、すなわち五旬節の日でした。この時間、五旬節の聖霊降臨の出来事と使徒ペテロの復活のメッセージと教会の誕生について学びたいと思います。

?。聖霊に満たされた使徒達(1ー21)

 イエス様が天に上って行かれた後、弟子達はみな心を合わせて、祈りに専念していました。また、マッテヤを選び、聖霊の器を造りました。1節をご覧ください。五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていました。ユダヤには三大祭りがありました。すなわち過越の祭り、五旬節、かりいおの祭りです。五旬節はイスラエル人がエジプトから脱出した後、シナイ山で、モーセに律法が与えられたのを記念する祭りでした。その日にはあらゆる国々に散って寄留していた敬虔なユダヤ人達がエルサレムに集まりました。

 みなが一つ所に集まっていた時どんなことが起こりましたか。2、3節をご覧ください。「すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。」聖霊が激しい風が吹くように臨んだことは聖霊の強力な活動を意味します。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまったことを見ると、聖霊が人格的にひとりひとりに臨まれたことがわかります。それでは聖霊が炎のように臨んだことには何の意味があるのでしょうか。炎は熱いです。聖霊は熱い炎のように人々の心を熱く感動させます。また、炎はすべてのものを燃やします。このように聖霊は人々の心の中の汚れたものを燃やし、きよくします。彼らが聖霊に満たされたとき、どんな不思議なことが起こりましたか。

 第一に、他国のことばで話し出しました。4節をご覧ください。「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」彼らは外国語は学んだことがないガリラヤの田舎者でした。しかし、聖霊が臨まれた時、他国のことばで話し出しました。恐れと自意識がなくなり、大胆に御言葉を語るようになりました。このように神様は世界宣教の使命だけではなくその使命を果たすために必要なものを満たしてくださいます。私達が福音を宣べ伝える時、神様は私達に福音を悟る知恵、神様の御心を知る知恵、真理の御言葉をまっすぐに解き明かすことができる力を与えて下さいます。ですから私達は神様の御言葉に従って行こうとするとき、神様が必要なものを備えてくださることを信じなければなりません。

 第二に、彼らはビジョンに満たされるようになりました。エルサレムには、敬虔なユダヤ人達が、天下のあらゆる国から来て住んでいましたが、それぞれ自分の国のことばで弟子達が話すのを聞いて、驚きあきれてしまいました。しかし、その中には「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。」と言ってあざける者たちもいました。彼らの目にはすっかり変わった弟子達がまるで酒に酔っているように見えたでしょう。普段はあまり話さない人でも酔っ払ったら勇気が出て大声を出したり、普段はできない行動もします。しかし、酔っ払うと目の焦点を失い、ふらふらし、ことばがはっきりとしません。しかし、弟子達は酒に酔っている人と違いました。彼らの言葉には力があり、目はきらきらと輝いていました。他国の言葉の発音も正確でした。

  そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に「今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。」とはっきりと言いました。当時ユダヤの社会では朝から酒を飲むことは禁じられていました。ペテロは弟子達が酔っているのではなく預言者ヨエルによって語られた事が成就したと言います。17、18節をご覧ください。「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」終わりの日は、イエス様が天に上って行かれてから再臨する時までを意味します。特にイエス様の再臨が近づけば近づくほど人類の救いのために聖霊はもっと激しく働きます。旧約の時代には特定の人々にだけ聖霊が臨まれましたが、新約の時代には神様を信じるすべての人々に臨まれます。聖霊が臨まれると息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見ます。聖霊が臨まれると青年は幻を見ます。幻はビジョンです。ビジョンは将来成し遂げられる神様の希望を意味します。ビジョンと人間的な野望は似ているようですが根本的に違います。ビジョンは神様から来るものですが、人間的な野望は自分から出たものです。ビジョンは神様中心ですが、人間的な野望は自己中心です。ビジョンは神様の栄光を表わしますが、人間的な野望は自分の栄光を現わします。ビジョンに満たされた人は他人にも恵みとなりますが、人間的な野望に満ちた人は他人に迷惑をかけます。ビジョンは神様から出たものですから必ず成就されますが、人間的な野望は欲に基礎しているのでそうではありません。ところが、私達は人間的な野望に捕われているのにビジョンに満ちていると錯覚する場合があります。しかし人間的な野望に捕われている人はどこかがおかしいです。それではビジョンに満たされるとはどんな状態を言うのでしょうか。それは現実に安住せず、人類の救いの御業に用いられたい霊的な望みに満たされた状態を意味します。このような人は現実に縛られてないので根本的に自由があります。また言葉と行動に力があり、生き生きとした生活をします。考えるスケールは大きく、開拓精神と冒険心で満ちています。しかしビジョンがない人は開拓や冒険を好まず、できるだけ楽な生活を欲しがるのです。十字架を負うことを好まず、安定的な生活、世の楽しみを好みます。聖なる霊的な望みよりこの世に望みを置いています。このような人は若者だとしても本当の若さを失った人です。若者らしい人はビジョンに満たされた人です。このような人は霊的なことを慕い求め、御霊に属することをひたすら考えます。また、神様に用いられることを最高の価値として思い、神様のためならどんな犠牲も払います。L.Aの金イサク宣教師は韓国にいた時、検事でした。しかし、宣教のビジョンが与えられた時、それを捨てて留学生としてアメリカに行き、新聞配達をしながら宣教師の生活をしました。神様はこのような彼を祝福し、L.Aの中に大きなみわざを成しておられます。シカゴの安ヨセフ宣教師は去る20年間外交官としていろんな国々を回りながら使徒パウロのように開拓のみわざに仕えました。彼はもう苦労せず、昇進して公使や大使になる道だけが残っていました。しかしその時から全幅的に世界宣教のみわざに仕えるために辞表を出してアメリカに行きました。このようにビジョンに満たされている人は価値観が完全に変わります。物質的で肉的な人が霊的な人に変わります。しかし、ビジョンがない人は自然にお金や快楽を愛する人になります。ビジョンがない人は現実の問題に縛られて心が腐敗します。それでしん言29:18は次のように言っています。「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。」。ビジョンと御言葉は密接な関係があります。?サムエル3:1を見ると「主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。」とあります。その人の心に御言葉がないとき、自然に肉的なことをもっぱら考えます。その人はいつも罪の誘惑に苛まれるようになります。使徒パウロはローマ8:6で肉の思いは死であると言いました。しかし御言葉が心に刻まれている人はひたすら霊的なことを考えます。私達に聖霊が臨まれ、この国の560キャンパスの開拓と世界宣教のビジョンを見ることができるように祈ります。

?。ペテロの五旬節メッセージ(22ー40)

 ペテロは聖霊のみわざを証しした後、続けてイエス様の十字架と復活を証ししました。イエス様は彼らの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれ、御自分が約束されたメシヤであることを証しされました。しかし、ユダヤ人達は、このイエス様を、ローマ人の手によって十字架につけて殺しました。しかし神様は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。これは偶然の出来事ではなくすでに聖書に預言されたことです。詩篇16編でダビデはこのイエス・キリストの復活を預言しています。31、32節をご覧ください。「それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」イエス様の十字架の死と復活を証ししたペテロは彼らの罪を指摘しました。36節をご覧ください。「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」ここで「主」は神様を指し、「キリスト」は約束されたメシヤを指します。イエス様は死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示され、私達の救い主となられました。ペテロは「このイエスを、あなたがたが十字架につけたのです。」と言って彼らの罪を指摘して罪を悔い改めるように助けました。ペテロがほとんど外国から来ている彼らに向かって「あなたがたが十字架につけたのです。」と言った意味は何でしょうか。それは彼らの罪がイエス様を十字架につけたことを意味します。そうです。イエス様は私の罪のために十字架につけられたのです。私の高慢の罪、不従順の罪、情欲の罪、背きの罪、感謝せずつぶやいた罪、安逸の罪など。このような私の罪が何の罪もないイエス様を十字架につけて殺したのです。ペテロのメッセージを聞いた民達の心にどんな御業が起こりましたか。彼らは「私はイエス様が十字架につけられる時、外国にいたのになぜ私がイエス様を十字架につけたと言うのですか。」と言いませんでした。彼らはペテロのメッセージを聞いて心を刺されました。人はイエス様の十字架の意味が本当にわかるとき、誰でも心が強く刺されます。それでペテロとほかの使徒たちに、言いました。「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」これは真実な悔い改めの姿勢です。彼らは神様に犯した自分の罪を悟ってどうしたらいいかわかりませんでした。そこでペテロは彼らに答えました。38節をご覧ください。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」ペテロは彼らにはっきりと救いの道を提示してあげました。その救いの道は何ですか。私達が救いの道に入るためにはまず自分の罪を悔い改めなければなりません。悔い改めは救いに至る関門です。悔い改めは自分の罪を真実に告白し方向を変えることです。悔い改めは心と行為の両者の変化を含むものです。その後イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなければなりません。それはイエス様をキリストとして信仰告白し、イエス様に属する人となった証明として受けるものです。イエス様の尊い血によって罪が赦され、心が聖くなると聖霊が臨まれます。聖霊は悔い改めてイエス様をキリストとして受け入れた人に与えられる神様のプレゼントです。私達も自分の罪を悔い改めて賜物として聖霊を受けることができるように祈ります。

?。教会の誕生(41ー47)

 ペテロのことばを受け入れた者は、バプテスマを受けました。その日、三千人ほどが弟子に加えられました。田舎者ペテロがメッセージを伝えた時、一度で三千人が悔い改めました。彼がこのように力強い御言葉のしもべになったのは聖霊を受けたからです。恐れて三度もイエス様を否認したペテロが大胆に福音を伝えることができたのも聖霊の力です。このようにして初代教会が誕生したのです。それでは初代教会の特徴は何ですか。42節をご覧ください。「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」

 第一に、初代教会は学ぶ教会でした。彼らは使徒達の教えを堅く守りました。使徒達は聖霊に満たされて毎日御言葉を教えました。聖徒達は熱心に聖書を学び、所感を書きました。彼らは真実に悔い改める所感を書いて涙を流しながら発表しました。毎日御言葉の宴会が開かれました。あちこちで1:1聖書勉強をする兄弟姉妹達でセンターはいつもいっぱいでした。初代教会はこのように御言葉を学ぶ教会でした。彼らは聖書勉強に励みました。このように熱心に聖書を学ぶ教会は成長します。御言葉を愛し、御言葉を恐れ敬い、御言葉に従う集まりは生命力があります。神様はこのような教会や集まりを尊く用いられます。

 第二に、初代教会は交わる教会でした。彼らは愛の交わりをしました。彼らは共に食事をしました。愛は実際的で具体的なものです。愛する兄弟姉妹達と共に食事をするとおかずがあまりなくてもおいしくたのしいです。エレミヤFellowshipは毎週早稲田大学文学部キャンパスでeating fellowshipをしていますが、その集まりは非常に恵みがあると聞きました。また、早稲田Fellowshipも先週からキャンパスのサークルルームで集まりを始めたと聞きました。このような聖徒の交わりは非常に大切なことです。信仰生活はひとりでできず、必ず共同体を通して可能です。聖徒達が集まって御言葉を中心に交わり、愛の交わりを持つことはその自体が天の御国です。

 第三に、祈る教会でした。彼らは祈りに励みました。祈りは生きておられる神様との交わりで聖徒達の霊的な呼吸です。祈る人は霊的に生きている人です。彼らは個人祈り、夜明けの祈り、徹夜祈り、二人ずつの祈りなど祈りに励みました。彼らは人間に話す前に、いつでも神様と話しました。いつも世間に出て行く前に、神様の所へ行きました。まず第一に神様と会っていたので、人生のさまざまな問題に立ち向かうことができました。祈るところに聖霊のみわざがあります。祈る集まりに罪人が悔い改めて救われるみわざが起こります。祈る時にサタンがびっくりして逃げてしまいます。神様は祈る集まりを尊く用いられます。

 以上から見ると、初代教会の特徴は御言葉と愛と祈りが豊かな教会です。それが三位一体となったとき、その集まりは生きている集まりとなりました。43節をご覧ください。「そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。」

 それでは聖徒達の実際の生活はどうでしたか。44ー47節をご一緒に読んで見ましょう。「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」第一に、美しい共同体が作られました。人々の心に欲と利己心がなくなりました。それでいっさいの物を共有し、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配しました。第二に、彼らは毎日、心を一つにして宮に集まりました。彼らは福音のみわざのために毎日、心を一つにして集まりました。第三に、神様を賛美しました。彼らは家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神様を賛美しました。賛美は救われた聖徒達の唇の実です。このように愛と喜びが溢れる聖徒達の生活はすべての民に好意を持たれました。彼らは聖徒達の生活をうらやましく思いました。自分達もその仲間になりたいと思いました。それで伝道すると感謝の心を持ってついて来て1:1聖書勉強をしました。主は毎日救われる人々を仲間に加えてくださいました。

 結論、神様が私達ひとりひとりを聖霊によって満たしてくださるように祈ります。聖霊によってビジョンに満たされるように祈ります。私達の集まりが御言葉と愛と祈りと喜びが豊かな集まりとなるように祈ります。主が毎日、救われる人々を仲間に加えてくださるように祈ります。