1997年使徒の働き第11講

 

マケドニヤに渡って来て、私達を助けてください

 

御言葉:使徒の働き15:36?16:40

要 節:使徒の働き16:9

「ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、

『マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。』」

 

 今日の御言葉はパウロの第2回伝道旅行によってヨーロッパがどのようにして開拓されたかの内容です。この御言葉から私達は聖霊の大きな計画と導きを学ぶことができます。この時間、私達も使徒パウロがマケドニヤ人の幻を見たように幻を見ることができるように祈ります。何よりも聖霊が私達に置かれた大きな計画は何かを悟り、聖霊の導きに従い、神様のみわざに尊く用いられるように祈ります。

 

?。幻を見たパウロ(15:36?16:10)

 

使徒パウロが第二回伝道旅行に出かけた動機と目的は何ですか。36をご覧ください。幾日かたって後、パウロはバルナバにこう言いました。「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。」ここで幾日たって後とは第一回伝道旅行を終えてエルサレム総会に行って来て幾日たってからです。熱情的な使徒パウロは幾日も休んでいるとまた伝道に行きたくてたまらなくなりました。それでバルナバに第一回伝道旅行の時に開拓した教会をたずねて行くことを提案しました。第一回伝道旅行は徹底的な計画と準備の中で成し遂げられました。アンテオケ教会のクリスチャン達は断食と祈りをして彼らを送り出しました。しかし第二回伝道旅行は初めからそれほど大きな計画の中で始めたのではなく、第一回伝道旅行の時に開拓した教会をたずねるという単純な動機から始まりました。しかし聖霊は第一回の時と同じく第二回の伝道旅行の時にもともにして導かれ、パウロの考えを越えたみわざを成し遂げられました。

16:1,2節をご覧ください。それからパウロはデルベに、次いでルステラに行きました。ルステラは第1回伝道旅行の時に、石に打たれながら開拓したところです。信仰生活で苦しみや迫害を受けると、もうそんな道は歩みたくないと思うことが多くあります。しかし、パウロは、ルステラであれほど悲惨な体験をしたのにも関わらず再び訪問しました。そこにテモテという弟子がいました。彼はどんな人ですか。彼は信者であるユダヤ婦人の子で、ギリシヤ人を父としていました。彼はルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人でした。テモテ第二1:4,5節を見ると、彼は涙の多い人でした。彼は純粋な心、牧者の心で満ちた人でした。また、彼は偽りのない信仰を所有した真実な人であり、忠実な人でした。

3節をご覧ください。パウロは、このテモテを連れて行きたいと思いました。第一回伝道旅行の時には福音を伝えて彼を弟子としましたが、第二回伝道旅行の時には彼を同労者として連れて行こうとしました。パウロはいつまでも彼を幼子のように思わず、同労者として扱いました。ここで私達はテモテを同労者として得たパウロを通して福音のみわざのためには同労者を得ることが大切なことであることを学びます。福音のみわざはいくら立派な人だとしても自分一人ですべてを成し遂げることができません。必ず共に働く同労者が必要です。ところがこの同労者はそれほど簡単に得られません。時間とお金とを投資し、真心を注ぐ犠牲を通して得ることができます。何よりも主に切に祈る時に必要な同労者を立ててくださいます。福音のみわざの勝敗はともに働く同労者を得るかそうでないかにかかっています。

ところが、パウロがテモテを福音の同労者として得ようとした時に問題がありました。それはテモテが割礼を受けてない異邦人だったことです。それでパウロは、その地方にいるユダヤ人の手前、テモテに割礼を受けさせました。これは15章で割礼を反対したパウロの姿とは違います。彼は福音を伝えるのにおいてユダヤ人達の邪魔を受けないためにそのようにしました。彼はユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです(コリント第一9:20)。パウロのすべての関心はひとりでも多くの人々を救うことにありました。彼はそのために自分のすべてのものを犠牲にする準備ができている人でした。

 4、5節をご覧ください。パウロと彼の同労者たちは町々を巡回して、エルサレムの使徒たちと長老たちが決めた規定を守らせようと、人々にそれを伝えました。それはただ信仰によって、ただイエス・キリストの恵みによって救われるという福音の真理でした。パウロが開拓地の幼い信仰の人々を訪問して彼らを重い律法のくびきから解放してあげると彼らの信仰を強められ、日ごとに人数を増して行きました。

6?10節の御言葉を通して私達は三つの大切な事実を学ぶことができます。

第一に、福音のみわざの主体は聖霊であることです。諸教会の信仰は強められ、日毎に人数を増して行くパウロのアジヤでの宣教はビジョンがありました。これからパウロはもっとアジヤ宣教に励もうとしました。ところが6節をご覧ください。「それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。」聖霊がアジヤでみことばを語ることを禁じられました。どのように禁じられたかに対しては様々な説があります。雪がたくさん降ったので行けなかったという大雪説、切符をなくしてしまったので行けなかったという切符紛失説などがあります。また、パウロが食事をするとお腹が痛くなって下痢をしました。メッセージを伝えると何だか舌が重くてよく伝えることができませんでした。しかし、パウロはどうしてもアジヤに福音を伝えようと北の方に向かいました。こうしてアジヤの東北にあるフルギヤ・ガラテヤの地方を通ってムシヤに面した所に来ました。それではパウロはなぜこれほどアジヤ宣教に夢中になっていたのでしょうか。それは第一回伝道旅行を通して持つようになったアジヤの人々に対する牧者の心があったからです。彼らは魔術、不品行、偶像崇拝などに深く陥っていました。パウロはこのような彼らを深く哀れみました。それで彼は黒海の下の方にあるビテニヤのほうに行こうとしました。彼は決して退くことを知らない不屈の人でした。彼の人生哲学は「信じる者にはどんなことでもできる。」でした。彼は「できるものならと言うのか、信じる者にはどんなことでもできる。」と叫びながら続けてアジヤ宣教にチャレンジしました。ところがイエス様の御霊がそれをお許しになりませんでした。電車の時間に遅れたり、やっと後の電車に乗ってみたら反対車線の電車でした。再び、乗り換えて今度はやっとうまく行けるかなと思うと途中事故があって電車が止まってしまいました。何もうまくできることがありませんでした。それは聖霊がお許しにならなかったからです。このように聖霊がお許しにならないとうまくできるものが何一つありません。

ここで私達は福音のみわざの主体が聖霊である事実を学ぶことができます。聖霊は道を開いたり、閉じたりします。ところが人々は福音のみわざの主管者は団体や個人だと思います。しかしそうではありません。私達の集まりも聖霊が主管者となって導いておられます。個人も同じです。自分がどこかの国を開拓したいと望みを持つことはいいですがその望み通りになることもならないこともあります。特に神様のみわざのために働こうとする動機の中に人間的な理想や野望が介入していると聖霊はお許しになりません。また、聖霊の計画が他にある時にもお許しになりません。ファンジョセピン宣教師は日本で生まれ、永住権も持っていました。当然日本語も上手でした。彼女は寺崎アブラハム牧者の1:1牧者です。彼女は日本宣教のために祈っていたし、すべての条件が良かったので日本の宣教師として派遣されると思っていました。ところが聖霊はそれをお許しにならず、ラトビア宣教師として導いてくださいました。

第二に、幻を見たパウロです(8,9)。8節をご覧ください。パウロは聖霊がお許しにならないと今度はムシヤを通って、西側のトロアスに下りました。パウロは二度も道が塞がれたので北の方に行くのが気になりました。彼はなぜ神様はアジヤの宣教を許さないかと残念な心を持っていたかも知れません。そのような彼はある夜、幻を見ました。9節をご覧ください。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願する幻でした。幻の中で懇願しているマケドニヤ人はホームレースのような姿だったでしょう。髪の毛は乱れていて、何年もお風呂に入ってなかったかいやなにおいがぷんぷんする人だったでしょう。彼は非常にやせて骨だけが残っている哀れな姿でパウロのほうに手を伸ばして助けを求めていました。「マケドニヤに渡って来て、私達を助けてください。お願いします。」ところが、当時マケドニヤ人は豊かな生活をしていました。彼らは文化人であり、知識人であり、先進国の人々でした。このような彼らに助けなんかいらないと思われますが、なぜパウロに助けを求めているのでしょうか。それを知るためには彼らの霊的な状態を知る必要があります。多くの人々が内面の不安の問題で占いをするのでそこでは占い師が金を儲けていました。彼らはあらゆる偶像を崇拝していました。彼らは自分たちも知らない神を造って拝んでいるほどでした。彼らは神様を知らないので空しいものを追いかけ、虚無の奴隷となっていました。彼らはその虚しさのゆえに快楽の奴隷となりました。コリントのアフロディテ神殿には千人以上の売春婦がいました。ですからマケドニヤ人は罪とサタンの奴隷となって非常に苦しんでいるあわれな状態でした。彼らは溺れ死にそうになっていたので早く助けなければなりませんでした。それでパウロのような福音を伝える牧者を待っていたのです。それを見ると彼らに本当に必要なものが何かがわかります。彼らに本当に必要なのはお金でもなく知識でもなく福音でした。

先月学校の教師が殺され、路上で警官が襲われた事件が起こりました。いずれも中学生がナイフを持って犯行に及んでいます。東大の佐藤学教授は新聞のインタビューで「このままでは子供達は崩壊しますよ。文部省は鈍感です。世界の子供の中で日本ほど崩壊が進んでいる子供はいません。」と言いました。親は忙しくて子供達が悩んでいても、話を聞くことができません。それで子供達の心には葛藤や傷が蓄積されています。それがせきが切れるように噴出する時に、このような事件が起こったと言いました。日本の若者達は家庭や学校、社会から受けたストレスで非常に傷つけられています。その傷を何とかして癒さなければなりません。彼らは内面の葛藤や傷を持って苦しみながら助けを求めています。「私達を助けてください。」昨日東大での伝道の時出会った八巻兄弟は「やることないから食事しに学校に来た。」と言ったそうです。この世の知識やお金が若者達の心を癒すことができません。彼らに必要なのはイエス・キリストの福音です。福音こそこの時代の若者達の問題を解決する唯一のものです。私達に助けを求めているキャンパスの兄弟姉妹達を見る目を与えてくださるように祈ります。そして、彼らを哀れむ牧者の心を持って彼らを助けることができるように祈ります。

第三に、聖霊のみわざに敏感に従うパウロです。10節をご覧ください。「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。」パウロは幻を見て、神様の御旨を確信しました。その時、パウロは直ちに自分の計画を諦めてマケドニヤに行こうとしました。パウロは敏感に聖霊の方向に従いました。彼はまるで軍人のようでした。彼は神様が願われる方向にいつでも従う準備ができている人でした。

それでは聖霊はなぜパウロをマケドニヤに導いたのでしょうか。聖霊はパウロが計画したことよりもっと大きな計画を持っていました。それは彼をマケドニヤに導き、ローマを通して地の果てにまで福音を宣べ伝えさせることでした。人がいくら立派な計画を立ててもそれは神様の計画には及びません。人間の見る視野は狭いですが、神様は遠くまた、全体的なことをご覧になります。神様の御心は私の心より広くて高いのです。イザヤ55:8,9節には次のように書いてあります。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・主の御告げ。・・天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」聖霊はこのようにパウロが計画したことよりもっと大きな計画の中で導かれました。私達が自分の道を計画してもそれを導くのは聖霊です。

聖霊はUBFの集まりも大きな計画の中で導かれました。1960年代にUBFは東南アジヤ宣教のために祈っていました。それから8年間の祈りの後、ひとりの宣教師をシンガポールに派遣しました。ところがその人はつまずいてしまいました。神様はこの出来事を通して東南アジヤの宣教の扉を閉ざし、代わりにドイツとアメリカへの宣教の扉を開かれました。そして今まで20年間の間世界85カ国に1400名の宣教師を派遣してくださいました。1985年には当時不可能に見えた旧ソ連と中国のために祈った時、宣教の扉を開かれ、多くの宣教師達を派遣してくださいました。神様は私達の考えを越えた方向に導き、世界宣教のみわざに用いておられます。聖霊はこの国日本でもご計画を持って働いておられます。神様は日本宣教と世界宣教のみわざの中で私達を用いておられます。私達が聖霊の導きに敏感に従うことができるように祈ります。主のためにいつでも従い地の果てにまで行って福音を宣べ伝えることができる準備された主の働き人となるように祈ります。

 

?。ピリピの開拓(16:11?40)

 

そこで、パウロ一行はトロアスから船に乗り、サモトラケに直航して、翌日ネアポリスに着きました。それからピリピに行ったが、ここはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市でした。パウロの一行はヨーロッパ開拓の大きなビジョンを持ってピリピに来ましたが、歓迎してくれる人は誰ひとりいませんでした。幻の中で見た人もいませんでした。もし間違った幻を見たのではないかと疑うしかありませんでした。これからどうやってヨーロッパを開拓するか漠然としたでしょう。幻は大きかったのですが、現実は荒野のようでした。このような状況の中でパウロはどのようにしてピリピの開拓を始めましたか。

13節をご覧ください。パウロ一行は安息日に、町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話しました。女達が集まると大抵うるさいです。自分たちの話に夢中しているのでなかなか話をかけるのが難しいです。しかしパウロは彼女たちに話をかけて福音を宣べ伝えました。このパウロから何を学ぶことができますか。

第一に、パウロは祈りによって環境を克服しました。彼はピリピには会堂がないからと言って福音を伝えることを諦めませんでした。センターもなく祈り室もありませんでしたが祈り場を捜して祈りました。これから10年前日本に来た時に、私達にも今のような祈り場がありませんでした。それでダニエル宣教師は朝公園に行って祈りました。私は祈り場を捜して日本の教会に行きましたが、平日はドアが閉まっていて入れませんでした。その時、神様は新宿の中央教会の徹夜祈り会に導き、祈るようにしてくださいました。神様は私達の祈りを聞かれ、今のセンターを与えてくださいました。今は24時間いつでも祈ることができる祈り場があります。大声で祈っても大丈夫です。私は最近このようにいい祈り場があるのにも関わらずあまり祈りませんでした。私が開拓の時を考えながらもう一度祈りに励み、祈りによって環境を克服することができるように祈ります。

第二に、彼は具体的に働きました。使徒パウロはヨーロッパ宣教の大きなビジョンの中で具体的に何人かの女達に福音を宣べ伝えました。私達には日本560キャンパスの開拓と世界宣教のビジョンがあります。このようなビジョンの中で私達がやるべきことは1:1聖書勉強です。また、私達は聖書の達人となるビジョンを持っています。そのためには具体的に聖書通読や聖書研究などが必要です。パウロが福音を宣べ伝えるとテアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされました。そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けました(15)。神様はルデヤを同労者として与えてくださいました。そして彼女の家は家の教会となりました。

 16節をご覧ください。パウロ一行が祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会いました。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者でした。ところが、彼女はパウロ一行のあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と叫び続けました。幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と言いました。すると即座に、霊は出て行きました。彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えました。長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じました。この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けました。パウロとシラスは何も悪いことはしてないのに、奥の牢に入れられ、足には足かせが掛けられました。誰も彼らを助けてくれませんでした。彼らの心は真夜中でした。パウロとシラスは落胆しやすいでした。しかし、その時パウロとシラスは何をしましたか。25節をご覧ください。「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」このような真夜中ごろ、彼らは祈りつつ賛美の歌を歌いました。「真夜中に歌え、主への賛美と祈り持って。」彼らには復活の信仰がありました。彼らは目に見える状況よりも、神様の約束、神様の御言葉のほうが確かであるという信仰に生きていたのです。私達も、神様が一人子をお与えになるほどにこの世を愛しておられるということを、どんなことよりも確かなこととして生きているなら、どんな患難の中でも神様を賛美することができます。神様はこのようなパウロとシラスをどのように助けてくださいましたか。26節をご覧ください。突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまいました。震度七度位の地震だったでしょう。目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとしました。ローマの法律では罪人が逃げると看守が代わりに刑罰を受けるので自殺しようとしたのです。そこでパウロは震えながらひれ伏している看守に福音を伝えました。31節をご覧ください。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」そして、彼とその家の者全部がバプテスマを受けました。パウロとシラスは鞭に打たれ、牢に入れられる試練を受けましたが、それを通して看守と彼の家族が救われました。ピリピにもう一つの家の教会が誕生したのです。ヨーロッパ宣教はルデヤと看守を同労者として得ることから始まりました。

 結論、私達は今日の御言葉を通して聖霊のみわざを学びました。私達は時々自分の計画通りにならなくて失望する時があります。しかし、このような時こそ幻を見るよいチャンスです。聖霊は私達ひとりひとりに計画を持って働いておられます。また、この国の救いのみわざに置いても大きな計画を持って働いておられます。神様はその中で私達を召され、用いておられます。私達が聖霊に従うことによって主のみわざに尊く用いられるように祈ります。