2000年創世記第16講

 

ヨセフとともにおられる神様

 

御言葉:創世記37:1?41:57

要 節:創世記39:2,3

「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。

彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。」

 

神様はアブラハムを選ばれ、彼を大いなる国民とすると約束されました。また、彼の子孫は、他の国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられると言われました(創15:13)。神様はこの御業のためにヨセフを選ばれました。創世記37章からはヨセフの物語が始まります。彼は神様がアブラハムとイサクとヤコブ、三代信仰の先祖達を通して種を蒔いた実だと言えます。彼は試練の時にも栄光の時にも少しも揺れることなく神様を恐れ敬い、神様とともに歩みました。神様はこのような彼とともにおられ勝利の人生、いのちを生かす人生として用いられました。きょうの御言葉を通して神様はヨセフをどのように訓練し、また、ヨセフとともにおられる神様はどんな方であるかについて学びたいと思います。

 

?.夢見るヨセフ(37:1-11)

 

1節をご覧下さい。「ヤコブは、父が一時滞在していた地、カナンの地に住んでいた。これはヤコブの歴史である。」「これはヤコブの歴史である」と言いながらヤコブの代わりにヨセフの物語が出ているのはヤコブの後半部の生涯がヨセフの生涯と不可欠な関係があるからです。ヨセフの物語は十七歳のときから始まります。ヨセフは彼の兄たちと羊の群れを飼っていました。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいました。ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げました。兄達が父を騙して羊達を売ったお金で酒を飲んだりしたようです。大抵弟は兄の影響を受けて育ちます。特に悪い影響は受けやすいです。ヨセフには10人も兄達がいたのでなおさらのことです。しかし、ヨセフが兄達の悪いうわさを父に告げたのを見ると、彼は正直者で、正しく生きようとしていたことがわかります。そのために彼は兄達から憎まれるようになりました。それにヨセフはヤコブの年寄り子であったがゆえに特に父から兄弟のだれよりも愛を受けていました。彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができませんでした。これはえこひいきでもありますが、ヨセフのことを考えてみると彼にはこのような愛が必要でした。ヨセフの母親ラケルは早く死んだからです。

 ところが、兄達がますますヨセフを憎むようになったことが起こりました。あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げました。「どうか私の見たこの夢を聞いてください。見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」これはヨセフには嬉しい夢ですが、兄達にとっては腹が立つ夢でした。ところが、これで終わりませんでした。ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話しました。「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです。」。今度の夢は兄達だけではなく父と母も彼を拝む内容でした。父は彼をしかって「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」と言いました。兄たちは彼をねたみましたが、父はこのことを心に留めていました。

神様はヨセフに指導者になる夢を与えてくださいました。一般的に夢は無意識の世界に潜在する渇望の表現だそうです。皆さんはどんな夢を見ていますか。夢にもいろいろあります。大抵目が覚めたら何の夢を見たかすっかり忘れてしまう場合が多くあるでしょう。また、トラブルに巻き込まれたり、誰かに追いかけられたりする夢を見る時が多くあるでしょう。いい夢はストーリがある夢だそうです。また、スケールが大きい夢を見るのがいいらしいです。そのような夢を見ると脳の働きが活発になるそうです。そのような夢を見るためには寝る前に首の周りをもんでから寝ると効果があるらしいですので、皆さんも試してみたらいかがでしょうか。しかし、ヨセフが見た夢はこのような一般的な夢とは違う神様からの啓示でした。神様は将来彼をいのちを救う指導者として用いようとして夢を通して啓示されました。ヨセフは少年の時から純粋で真実な心を持っていたゆえに神様に用いられる基礎が整えられていました。神様はこのような彼に将来指導者になる夢を与えてくださいました。ヨセフは自分に与えられたこの夢がいつかは実現されると確信してその夢を持ち続けていたでしょう。私たちも目先のことだけを見ないで10年、20年後のことを考えながら夢を持つことができるように祈ります。10年後この国に1000人の聖書先生が立てられることと100のキャンパスが開拓される夢を持ち続けて祈りましょう。ヨセフは指導者になる夢を持っていましたが、この夢が実現するためには神様の訓練が必要でした。

 

?.苦難を受けるヨセフ(37:12-40:23)

 

奴隷として売られたヨセフ(37:12-39:6a)

ヨセフは父から「お前の兄さんたちはシェケムで群れを飼っている。さあ、あの人たちのところに使いに行ってもらいたい。」と言われました。すると彼は「はい。まいります。」と答えました。ヘブロンからシェケムまでは70キロも離れています。しかし、ヨセフは喜んで父の言葉に聞き従いました。ところがシェケムまで行ってみると、兄達はもうそこからドタンのほうへ行ったことがわかりました。当時は携帯電話もなかったので連絡も取れませんでした。また、彼は兄達が自分を憎んでいるのでそのまま家に帰ることもできました。しかし、彼はそこから再び24キロも離れているドタンまで行きました。彼には小さなことに忠実なしもべの姿勢があります。彼には父に対する従順する心と任されたことに対する忠実さがありました。人々は大きなことを任せると忠実に働けると言います。しかし、小さいことに忠実な人が大きなことにも忠実です。立派な牧者になるためには1チームの1:1に忠実な人でなければなりません。

ヨセフの兄達はヨセフがはるかかなに来るのを見ました。普通の兄だったらそんなに遠くまで探しに来た弟を喜んで迎えてくれたはずです。しかし、彼らは弟を殺そうと企みました。憎しみはついに殺人に発展しました。しかし、ルベンはこれを聞き、彼らの手からヨセフを救い出そうとしました。結局彼らはヨセフを捕えて、穴の中に投げ込みましたが、ユダがリーダしてヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚でイシュマエル人に売りました。そうして彼らはヨセフが悪い獣にやられたかのように父を騙しました。愛する息子を失ったヤコブは幾日もの間、その子のために泣き悲しみました。兄達は弟を憎み奴隷として売ってしまいました。ヨセフがあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、聞き入れませんでした。しかし、この事件のことで彼らは一生罪悪感にさいなまれました。父に愛されていたヨセフはいきなりに異邦の地に奴隷として売られる惨めな状態になりました。しかし、ここには見えない神様の摂理がありました。もしヨセフが父の家でいたなら彼の夢は果たされなかったでしょう。神様は彼に指導者となる夢を与え、それを実現させるために温室のような家から荒野に連れ出して訓練されました。この訓練はわしの訓練でした。鷲は自分子を翼に乗せて高いところから落とすそうです。するとわしの子は必死に翼をばたばたします。そうして地面に落ちて死ぬ直前に親のわしは翼で受け取ってくれるそうです。このような訓練を繰り返すと後には翼が強くなり力強く空を飛ぶ鳥の王子になります。霊的な指導者になるためにも多くの訓練が必要です。

38章はユダがどのようにしてタマルからペレツとゼラフを得るようになったかを言っています。38章を読んでみると、ユダは嫁であるタマルに後継ぎのために息子を与えなかったのでタマルは遊女の格好をして自分のしゅうとであるユダを騙して彼と寝て子供を産んだのが書いてあります。何でこんな汚い話が美しいヨセフの物語の中に出て来るのか理解するのが難しいです。マタイ1:3に「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ」と記されてあります。ユダはイエス様の系図に出るほど大切な人物ですが、彼も生まれ変わる前には淫らな人であり、約束を守らない不真実な人でした。弟を憎んで奴隷として売った人でした。このような彼がイエス様の系図に出るようになったのは一方的な神様の恵みです。私たちもユダのように生まれながらにしてのろいの子でした。しかし、今や、私達は怒りの子でもなければ、滅びの子でもありません。主イエス・キリストによっていっさいの古きものは葬られ、彼とともによみがえされたのです(コロサイ3:1)。これが恵みの世界です。これが福音の世界です。

 さてヨセフはどこに売られて行きましたか。39:1節をご覧下さい。ヨセフがエジプトへ連れて行かれたとき、パロの廷臣で侍従長のポティファルというひとりのエジプト人が、ヨセフをそこに連れて下って来たイシュマエル人の手から買い取りました。いきなりにヨセフは奴隷となってしまう絶望的で悲しい状況になりました。彼は自分の人生を対する絶望感、悲しみ、将来に対する不安と恐れのために気が狂ってしまうほどだったでしょう。しかし、主がヨセフとともにおられました。39:2、3節をご覧下さい。「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。」彼は神様に対する信仰によって絶望的で悲しい状況を克服することができました。個人信仰がある人は苦難を通してもっと深い信仰を持つようになります。苦難の中でも神様の御旨を悟って神様に感謝し神様の愛を深く感じるようになります。しかし、個人信仰がない人は苦難に会うと神様につぶやいたり、神様の愛を疑います。ヨセフは苦難の時に神様を見上げ神様に頼りました。彼は神様とともに歩みました。

 主が彼とともにおられたので、彼は幸運な人となりました。神様は彼とともにおられ彼に力と慰めを与えてくださいました。それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねました。39:5節をご覧下さい。「主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。」ヨセフは祝福の源となりました。

 

監獄に入れられたヨセフ(39:6b-40:23)

 ヨセフは体格も良く、美男子でした。このようなヨセフに主人の妻が目をつけて、「私と寝ておくれ。」と毎日誘惑しました。この誘惑は青年のヨセフにとって耐えがたい誘惑でしたが彼は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、彼女といっしょにいることもしませんでした。ところがある日、彼が仕事をしようとして家にはいると、家の中には、誰もいませんでした。それで彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ。」と言いました。家に誰もいなかったので、しつこく誘惑する彼女の要求を受け入れることもできました。ヨセフはこの誘惑に負けるか、戦って勝つか、分かれ道に立ちました。この誘惑はヨセフにとって大きな試練でした。

 それではヨセフはこの耐えがたい誘惑をどのように打ち勝ちましたか。39:8,9節をご覧下さい。ヨセフはまず主人の恵みを覚えて主人に罪を犯しませんでした。何よりも彼は神様に罪を犯さないために励みました。「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」彼は神様を恐れ敬い、神様の御前に生きていました。そして、積極的に罪と戦いました。彼は彼女が上着をつかんだ時、その上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出ました。若い時には無限に成長する可能性もあり、罪の欲望も強くて堕落する可能性もあります。偉大な人になりたがるが、瞬間の情欲を退けることができず、とりかえしがつかない失敗をする人も多くいます。サタンの誘惑は半端なものではありません。すべての環境を備えてしつこく誘惑します。私達は弱くて自分の意思や力によってこのようなサタンの誘惑に打ち勝つことができません。詩篇119:9、10節は若い私達がどのようにして自分の道をきよく保てるかを言ってくれます。「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。」神様の御言葉に従い、聖霊に満たされた生活をする時、誘惑に打ち勝つことができます。神様はこのような人を尊く用いられます。

ヨセフは信仰によって誘惑に打ち勝ちましたがこれによって前よりも大きな苦難を受けるようになりました。ポティファルの奥さんはヨセフが上着を彼女の手に残して外へ逃げたのを見ると、

「あの男が私と寝ようとしてはいって来た」とうそをつきました。それを聞いたポティファルは怒りに燃えてヨセフを監獄に入れてしまいました。この世はとても罪悪で真実に生きようとしたヨセフを踏みにじってしまいました。ヨセフは指導者になる夢を持っていましたが、状況はさらに悪化しました。兄弟達に憎まれ、奴隷として売られ、見ず知らずのエジプトに来て、やっと芽が出たと思ったとたん監獄に入れられました。ヨセフは罪を犯さないために励みましたが、結果的にはもっとひどい状態になりました。しかし、こんな中でも神様の摂理がありました。

監獄の中に入れられたヨセフにとって耐えがたいことは人々からの誤解や非難だったでしょう。それよりも神様の愛に対する疑いが生じやすかったでしょう。「主の御前に正しく生きようとしていたのにどうしてこんなひどい目に会わされたのか。」「神様は本当に私とともにおられ私を愛してくださるのか。」このような疑いが生じると、これは信仰的な危機です。しかし、彼は主がともにおられたので少しも揺れることがありませんでした。彼は監獄の中でも変わらず忠実でした。神様が彼とともにおられたので監獄の中も天国のようでした。神様はこんな彼をどのように助けられましたか。21節をご覧下さい。「しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」それで監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手にゆだねました。ヨセフはまさに罪人達に仕える牧者となりました。主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださいました。

 これらのことの後、エジプト王の献酌官と調理官とが、エジプト王に罪を犯してヨセフが監禁されている同じ監獄に入って来ました。ある日ふたりとも同じ夜にそれぞれ夢を見ましたがその夢の意味が分からなくて苦しんでいました。ヨセフは彼らを心から愛し、仕えていたので彼らの顔色が悪いのにすぐ気づかされ、「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください。」と言いました。それから彼らの夢を聞いて解き明かしてあげました。献酌官長の夢は彼が三日のうちに、地位に戻るという良い夢でした。ヨセフは彼に「あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵みを施してください。私のことをパロに話してください。この家から私が出られるようにしてください。」と頼みました。調理官長の夢は献酌官長の夢と似ていましたが、ヨセフが解き明かした内容は正反対でした。彼は三日のうちに、処刑されるという悪い夢でした。二人ともヨセフが解き明かした通りになりました。ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまいました。ヨセフは続けて監獄での生活をしなければなりませんでした。それが二年も続きました。

 このような監獄の生活は無意味に思われます。しかし、ここにも神様の深い御旨がありました。ヨセフの夢は指導者になることでした。ところが、神様に用いられる指導者になるためには何よりも謙遜を身に着けなければなりません。神様は高ぶる者を用いることができません。謙遜な人を用いられます。聖書の中に出ている偉大な人物は皆謙遜な人でした。モーセは偉大な神様のしもべとしてイスラエル人をエジプトの奴隷から解放する御業に貴く用いられました。聖書は彼について次のように言っています。「さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」(民数記12:3)。イエス様は実に謙遜な方です。イエス様は、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。そして罪人に仕えてくださいました。神様は謙遜な人を時になると、高く上げてくださいます。ヨセフは監獄に入れられ罪人に仕えることによって謙遜になる訓練を受けました。彼はそれによってどんな人にも謙遜に仕える内面を持つようにしてくださいました。そして、時になると彼を高くあげて神様の救いの御業に貴く用いてくださいました。私たちも謙遜を身に着けることができるように祈ります。

 

?.エジプトの総理大臣になったヨセフ(41章)

 

それから二年の後、パロは夢を見ました。彼はナイルのほとりに立っていたが、ナイルからつやつやした、肉づきの良い七頭の雌牛が上がって来て、葦の中で草をはんでいました。するとまた、そのあとを追ってほかの醜いやせ細った七頭の雌牛がナイルから上がって来て、つやつやした、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くしました。そのとき、パロは目がさめました。それから、彼はまた眠って、再び夢を見ました。見ると、肥えた良い七つの穂が、一本の茎に出て来ました。すると、すぐそのあとから、東風に焼けた、しなびた七つの穂が出て来てあの肥えて豊かな七つの穂をのみこんでしまいました。パロはこの夢のことで心が騒ぐので、エジプトのすべての呪法師とすべての知恵のある者たちを呼び寄せて自分が見た夢を解き明かすように言いました。しかし、誰もそれを解き明かすことができませんでした。そのとき、献酌官長は二年前のことを思い出し、ヨセフをパロに紹介しました。パロは使いをやってヨセフを呼び寄せたので、人々は急いで彼を地下牢から連れ出しました。彼はひげをそり、着物を着替えてから、パロの前に出ました。パロはヨセフに「あなたは夢を聞いて、それを解き明かすということだが。」と言いました。ヨセフは高慢にならないでパロに答えて言いました。「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」彼は神様を証しました。ヨセフはパロから夢を聞いて「パロの夢は一つです。神がなさろうとすることをパロに示されたのです。」と言いました。そして、これからエジプト全土に七年間の大豊作が訪れることとそのあと、七年間のききんが起こり、エジプトの地の豊作はみな忘れられることを解き明かしました。そして解決策まで提案しました。このことは、パロとすべての家臣たちの心にかないました。そこでパロは家臣たちに言いました。「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。」(38)。そしてヨセフを総理大臣に任命しました。神様はヨセフに夢を与えられ13年間の訓練が終わってからついにその夢を実現させてくださいました。ヨセフがエジプトの王パロに仕えるようになったときは三十歳でした。

エジプトの総理大臣になったヨセフは高慢になりがちでした。祝福の時に神様を忘れてしまいがちでした。自分を監獄に入れたポテォファルや彼の奥さんに復讐することもできました。しかし、ヨセフは苦難の時にも祝福の時にも変わらず神様とともに歩む生活をしました。彼が子供達の名前を付けることを見るとわかります。ヨセフは長子を「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた。」という意味でマナセと名づけました。また、二番目の子は「神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた。」という意味でエフライムと名づけました。彼は何事でも「神様が」なさったことだと告白しました。彼の考えや生活の中心は神様でした。神様が主語で自分は目的語でした。彼は神様の主権を認めてすべてのことについて感謝しました。神様を愛し、神様とともに歩みました。彼の信仰は徹底的に神様中心でした。それによって傲慢に勝ち、総理大臣としての仕事を立派に果たすことができました。

結論、神様はヨセフが父の家にいる時も、エジプトに奴隷として売られた時も、監獄の中にいる時も、総理大臣の生活をする時もともにおられました。神様が彼とともにおられたので彼は幸運な人となり、何をしても成功しました。彼は祝福の基となりました。私達もどんな状況の中でも神様と共に歩む生活によって勝利の人生を過ごすことができるように祈ります。