06REV05 鋭い、両刃の剣を持つ方

2006年ヨハネの黙示録第5講   

鋭い、両刃の剣を持つ方

御言葉:ヨハネの黙示録2:12?17
要 節:ヨハネの黙示録2:16「だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。」
 
先週、私たちは主がスミルナ教会に送られた手紙を学びました。そこで、主は「死に至るまで忠実でありなさい。」と言われました。私たち一人ひとりが死に至るまで忠実であっていのちの冠を受け取ることができるように祈ります。
 今日の御言葉は主がペルガモの教会に宛てられた手紙です。ペルガモは、この手紙が送られた当時、ローマがアジア地方の首都にした所でした。この地にBC4世紀に建てられたアスクレピオン(ローマ時代の医療センター・音楽療法 現代の精神療法のための70mもある地下道等が整備されていた)は当時の医科大学付属病院でした。医学の父と呼ばれるヒポクラテスがそこで働いていたといわれています。また、ペルガモは非常に文化が進んでいてBC197 ?160年頃には世界最大の図書館が建てられ、20万巻の本があったそうです。このペルガモの発展を嫉み、警戒したエジプトでは本を作るのに必要なパピルスの輸出を禁じたほどでした。しかも、ペルガモはパピルスの輸入ができないと、自立的に羊の皮を伸ばして作った羊皮紙を発明したほどの力を持っていました。
 このようにペルガモは政治の都市、医学の都市、学問の都市、文化都市として繁栄し、栄えていました。今日の東京のような都市だったようです。ところで本文の御言葉によると、ペルガモは「サタンの住むところ」、「サタンの王座」があるところでもありました。霊的には危険な所であったのです。それは、ペルガモの町でローマ皇帝の礼拝が行われていたからです。ローマというのは、もともと女神の名前です。そしてこの女神の霊が一人の人間、つまりローマ皇帝に入っていると考えられるようになり、皇帝を祭る神殿が建てられるようになりました。そして、ローマの政府は、皇帝礼拝を行うことによって帝国をまとめることができると考えていました。
  そのような時代に皇帝礼拝の中心地になっていたペルガモは、クリスチャンとして生きることが難しい都市でした。でも東京に東京UBF教会があるように、ペルガモにもペルガモ教会があり、小さな群れですが、聖書の神様を礼拝していました。イエス様は彼らに何と言われましたか。今週も、先週のように、この教会に対するイエス様の自己紹介、イエス様の賞賛と叱責、そしてイエス様の方向について皆さんとともに考え、学びたいと思います。どうか、聖霊が私たちにうちに力強く働いてくださるように祈ります。

?.イエス様の自己紹介
12節をご覧ください。 「また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。』」とあります。イエス様は鋭い、両刃の剣のような御言葉です。ヘブル4:12節は言います。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」とあります。たまに、私たちはだれも私を理解してくれないとつぶやきます。また、「だれも私のことを分かってくれない」と言われるでしょう。事実、だれも私のことを分かっていません。私はこの教会の牧者として皆さんのことをよく知り、よく理解してあげたいと思っていますが、実はよく知りません。何も知らない自分が悲しく思われる時もあります。しかし、イエス様は私たちのことをよく知っておられます。心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。ですから、私たちは神様がどのように判別されるだろうかということをつねに考え、心のいろいろの考えから神様を愛し、神様を敬って神様に従わなければなりません。だれも私のことを知らなくても、神様は私たちのすべてがご存知です。ですから、私たちは、いつも神様の御前で生活しなければなりません。それがペルガモの教会、東京UBF教会に送られたイエス様のメッセージです。ではイエス様はペルガモの教会のどんなことを知られ、どのように判別されましたか。

?.イエス様の賞賛
 13節をご覧ください。「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。」イエス様は当時のクリスチャンたちが住んでいるところを知っておられました。そこにサタンの王座があることを知っておられました。実際に、この都市には医療の神、エスクラピアスの神殿があって、ギリシャ人たちがサタンだと思っている蛇の形を作って拝んでいました。また、ゼウス神の神殿がありました。「サタンの王座」と言われているのは、このゼウス神の神殿のことでしょう。
 当時、世界的な都市であったペルガモはサタンの王座があるほどにサタンの世界でも力を入れている所だったのです。今日の東京にもサタンの王座があるのではないでしょうか。大きな都市に住んでいる人々は毎日のように詐欺、不品行、麻薬、ヤクザの活動、売春、盗難事故などの犯罪に直面しています。淫乱と快楽、物質主義と利己主義などの勢力がきよく、正しく生きようとしている人々を脅かしています。姉歯元建築士やライブドアの堀江氏などを非難しながらも、知らず、知らずに彼らの影響を受けます。不倫や性犯罪が報道されると、彼らを非難しながらも、自分も知らずに性的犯罪に対して無感覚的になって行きます。それで、心の中では敬虔に生きようとしている人たちも、さまざまな誘惑を受けているのです。
ペルガモにある教会の聖徒たちも日常生活の中でさまざまな問題に直面しました。サタンが住んでいる所、サタンの王座があるところで暮らしていたからです。特に、ペルガモはローマ皇帝の礼拝がとても盛んな所でしたので、クリスチャンにとって生きることが非常に難しい都市でした。しかし、彼らはそんな環境の中でも神様に対する信仰を守りました。彼らはイエス様の御名を真実に信じました。彼らは最後まで信仰をあきらめませんでした。
私たちは、信仰生活に困難が生じると、それを避けたいと願う時があります。はなはだしくは信仰さえ捨ててしまおうと考える人もいます。そのほうが一時的に楽だからです。しかし、このような逃げる姿勢は、決して本当の勝利を得ることができません。むしろ、その困難を乗り越える時に、私たちは勝利を経験することができます。また、困難を乗り越えて強くなることができます。ペルガモのクリスチャンは厳しい状況の中でも信仰にとどまりました。しかも、彼らはキリストの名を堅く保って、キリストに対する信仰を捨てませんでした。
当時は皇帝礼拝が強要されて「主はシーザーと言え」と言われていました。そして、それだけ言えば、多神教のローマでは、主日礼拝を守ることも許されました。しかし、クリスチャンは「主はシーザーと言え」と言われると、「主はイエス」と答えていたそうです。彼は少しも偶像崇拝と妥協しませんでした。当時先進国の世俗主義と妥協することもありませんでした。ひたすらイエス様に忠実でありました。それで、アンテパスという人は殺されてしまいました。伝説では、彼は金属で作った牛の中に入れられて徐々に焼き殺されていったそうです。忠実な証人アンテパスが金属で作った牛の中に入れられ、徐々に焼かれていく時、その苦しみはどんなに大きかったでしょうか。また、イエス様に対する信仰を捨てなければ、あなたがたもこのように焼き殺されると脅かされるとき、聖徒たちはどんなに怖かったでしょうか。しかし、彼らは最後まで自分のいのちをかけて信仰を守りとおしました。死に至るまで忠実でありました。ですから、復活の主キリストは「しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。」と彼らを賞賛されたのです。

?.イエス様の叱責
 ペルガモ教会は、大多数の聖徒たちが信仰の中心を守り、死に至るまで忠実でありましたが、ある聖徒たちの中には世俗主義へと妥協していく人たちが現われていました。彼らの中にバラムの教え、ニコライ派の教えを堅く握っている者たちがいたのです。そこで、復活の主、イエス様は彼らが悔い改めるように助けておられます。
 14,15節をご覧ください。「しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。」とあります。では、バラムの教え、ニコライ派の教えとは何でしょうか。
この間、エペソ教会は「ニコライ派の行ないを憎んでいる」ということを学ぶ時にも触れましたが、バラムの教えとニコライ派の教えは同じものと考えられます。バラムという言葉はヘブル語です。そして、ニコライと言う言葉はギリシャ語です。ともに「民を征服する」という意味を持っています。その教えは何でしょうか。
聖書でバラムのことを調べてみると、彼は妥協主義者の預言者でした。民数記22?25章を見ると、バラムのことについて知ることができます。イスラエル人がヨルダンのエリコをのぞむ対岸のモアブの草原に宿営した時です。モアブの王バラクはイスラエルがエモリ人のすべての民を打ち殺し、ひとりの生存者も残さなかったことを知り、イスラエルを非常に恐れました。そこで、彼はイスラエルを呪ってもらうために預言者バラムを招きますが、バラムは神様にうかがい、バラクの所に行こうともしませんでした。その最初の信仰を守ったら良かったのですが、バラクが何度もつかさたちを遣わして誘うと、彼はバラクの所に行きました。そして、バラクに手厚くもてなされると、バラムの心は揺れ動き、妥協してイスラエルを呪おうとしました。しかし、神様は彼の口に言葉を置かれたので、彼はイスラエルを祝福しました。イスラエルを呪うところか、「お!神様!イスラエルを祝福してください。」と言ったのです。彼は正しいことを行ったのです。しかし、最初の決断を守らず、ここまで来てしまうと、霊的には無気力な者になってしまいました。彼がバラクと妥協し、仲良くなってしまった時、イスラエルの民はモアブの娘たちと妥協し、仲良くなりました。そして、彼らとみだらなことをし始めました。娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝みました。こうしてイスラエルは、バアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りはイスラエルに対して燃え上がりました。
それで、ユダヤ人の間では、バラムの教えが妥協主義、人々を不品行と偶像礼拝の罪に誘い込む悪い影響を意味するものになっていました。ところが、ペルガモ教会の中にはそういうバラムの教えが悪影響を及ぼしていたのです。もちろん、大多数の人々は聖なる国民としてアイデンティティを持っていました。キリストの忠実な証人アンテパスのように信仰の純潔を守り通しました。ところが、一部の人々はノンクリスチャンの生き方に影響を受けていたのです。当時、一般の人々は誰でも偶像に供えた肉を食べ、お酒を飲んでいました。また、純潔を守るという考えは全然なくなっていました。不倫することや結婚の前にセックスすることに対しても恥ずかしいことだとも、悪いことだとも考えていませんでした。むしろ、そういう人たちが能力ある人、持てる人として評価される社会でした。
それで、クリスチャンの中でも、自分だけが特別に変わった人間として生きているのではないか、自分だけが保守的な教会のメンバーとして古い考え方をしているのではないかと迷う人が増えていきました。特に頭の回転が速い人々の中では聖書の教えに従うことだけでは貧しくなるばかりで金持ちにならないと思う人が増えました。献身的で純粋なクリスチャンより、かっこういいクリスチャン、賢いクリスチャンになろうとしました。彼らはできるだけギリシャ・ローマの社会の中で妥協しながらクリスチャンとして生きようとしていたのです。そして、そのような人々に対してぺルガモの教会のリーダーたちは厳しい態度を取らず、彼らを放置していました。リーダーたちも、先進国の首都であるペルガモで生活をしながら世俗主義の影響を受けていたからです。教会の純粋性よりも数字的な成長、信者たちの福音的な生活よりもこの世での成功を求めていました。また、聖徒の罪を指摘し、悔い改めを促した時に聖徒たちから言われることを怖がっていました。バラク王の要求が神様の御心ではないことを知っていながらも、彼に何も厳しいことを言えなかったバラムのように適当に神様の御言葉を伝えていました。神様の御言葉を伝えることはしていますが、人の罪を指摘して悔い改めるように促すことはできない状態であったのです。そこで、イエス様はペルガモの教会に「あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人がいる。」と叱責しました。また、主は彼らに「それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。」と叱られました。では、そんな彼らに与えられたイエス様の方向は何でしょうか。

?.イエス様の方向
 16節をご一緒に読んでみましょう。「だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。」主は「だから、悔い改めなさい」と言われました。私たちは祭司の王国、聖なる国民として生きることを望んでいます。また、この世と調子を合わせてはいけないと教えられています。私たちは、知らず知らずのうちにこの世の教え、この世の価値観などの影響を受けて、いつのまにかそれに合わせて生きていないでしょうか。
 私は今回、息子の受験を通して自分がこの世の価値観で生きていることを深く悟りました。子どもに入試の3ヶ月前受験勉強をさせましたが、その間、私の心は神様のみわざより子どもの成績によって揺り動かされました。それに心が奪われてしまう時が多くありました。学校の内申書の成績が思ったより良くなかった時はさびしくなり、塾での模擬試験の結果が良かった時はすでに合格したかのように思ったりしました。たてまえは「日本宣教のために、息子を日本の学校に入れてください」と言っていましたが、ほんねは「日本の学校ではなく、日本で一番いい学校に入れてほしい」ということにありました。自分の息子が合格し、成功することこそが日本宣教のためにも、神様のみわざのためにも益になると思い込んでいました。子どもに神様の御言葉を伝えてはいましたが、彼が悔い改め、主の御言葉に従うように助けることは怠けていました。まずは受験戦争で勝利してほしいと願っていたからです。宣教師でありながらもこの世の価値観に染まっていたのです。まるで、バラムのようになっていました。こんな私に神様は「悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣を持ってあなたと戦おうと」と言われました。それで私は世の価値観に染まっていて、バラムの教え、ニコライ派の教えを奉じていたことを悟って悔い改めました。それから子どもに「これからは夜明けにパパといっしょに教会に行って祈ることを忠実に行なおう」と言いました。私が悔い改めにふさわしい実を結ぶように祈ります。もし、私たちの中でひとりでもバラムやニコライ派の教えの影響、世俗主義の影響を受けているなら、それを悔い改めて信仰の純粋性を守りましょう。ペルガモ教会のアンテパスのように殉教されてもイエス・キリストへの信仰を守り通す忠実なクリスチャンとして生きることができるように祈ります。
 イエス様は世俗的なクリスチャンが悔い改めなければ、直接に訓練されます。神様の訓練は恐ろしいものです。イスラエル人はエジプトからカナンまで、ただ40日間で行ける距離だったのに、主のしもべモーセにつぶやき、不平不満を言い出した不信仰のために40年間も訓練を受けました。しかも信仰の人ヨシュアとカレブ以外にはカナンに入ることもできず、荒野で死んでしまいました。また、約束の地、カナンで彼らの子孫が神様の御前で高慢な者になり、不従順の罪を犯していながらも悔い改めなかった時は、70年間もバビロンの捕虜として苦しみを受けるようにされました。もし、私たちが信仰告白してクリスチャンとして生きていてもこの世と調子を合わせて生きていながらも、世俗的な生活を悔い改めないなら、どうなるでしょうか。イエス様が直接に私たちを訓練されるはずです。神様が訓練される時、一番目の道具は鋭い剣のような神様の御言葉です。主日礼拝の御言葉、日ごとの糧の御言葉などを通して私たちの心に悟りを与えてくださいます。二番目の道具は聖霊です。聖霊は私たちの生活の中で起こる出来事を通して、良心の声を通して罪について、義について悟らせてくださいます。三番目の道具は神様のしもべたちです。主のしもべを通して言われます。そして最後の道具は一番恐ろしい環境です。これは個人的にも、国家的にも、世界的にも言えることです。事実、地球温暖化のために地球の環境が破壊され、世の終わりが近づいていることを感じさせています。また、先週は、富士山が300年ぶりに噴火するだろうという記事を読んだのですが、神様が環境を通して私たちを訓練される時は本当に恐いことが起こるのです。イエス様は私たちの罪のために私の環境を通して訓練することもできます。ですから、私たちは御言葉を通して示されたときに悔い改めなければなりません。聖霊から示される時、主のしもべから言われる時に悔い改めるのです。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます(?ヨハネ1:9)。教会には、私たちのたましいが赦されて元気に祝福された人生を生きるように導く使命が与えられています。ですから、教会でも、厳しいことばが言われます。いつも、いつも居心地の良いことだけが言われるのではありません。罪に対して、妥協する生き方に対してははっきりとしたメッセージが伝えられる時もあるのです。そういう祝福のことばより、悔い改めのメッセージを伝えることはやさしくありません。しかし、教会で言いづらくても悔い改めを迫るのは、そのままで生き続けると、結局そのたましいが滅んでしまうからです。神様は一人の罪人でさえも 滅びないようにと願っておられます。ですから、神様が悔い改めを迫るのは、悔い改める者にたくさんの祝福が与えられるからです。ではどんな祝福でしょうか。

結論的に17節をご一緒に読んでみましょう。「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」 ここでイエス様は、神様の言葉に聞き従う者にふたつのものを約束しておられます。隠れたマナと新しい名が書かれた白い石です。マナというのはエジプトから脱出したイスラエルの民が荒野を旅していた時に神様が与えてくださった食べ物でした。イスラエルの民は、毎日そのマナを食べて生きることができました。でもそのマナを食べて永遠に生きることはできませんでした。ところが、イエス様は言われました。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません(ヨハネ6:35)。ここで「隠れたマナと」は、主イエスご自身のことであることが分かります。ペルガモの教会は、この世に妥協した結果、主イエス様を見失っていました。イエス様を見失って聖徒たちは、教会に通っていても生命力を失っていました。しかし、主イエス様を信じる者にはいのちのパンであるイエス様からいのちを得ることができます。イエス様はご自身が私たちに必要な助けを与えてくださいます。エペソ人への手紙の1章1-3節を見ると、主イエス・キリストは私たちに天にあるすべての霊的な祝福をもって私たちを祝福すると約束しておられます。不思議なことに日本語の「愛」と言う漢字は「マナ」とも読みます。愛する弟子を「愛弟子」と言いますね。イエス様は私たちに対する神様の愛です。神様は私たちを選び出して傷のない者にし、ご自分の子どもとするために、ひとり子さえも惜しまずにお与えになったほどに私たちを愛してくださいます。そして、その愛によって神様から注がれる祝福は、私たちが直面する状況に関係なく注がれます。決して消えることがありません。キリストにあって、わたしたちはそのように消えることのない神様の愛と祝福、しかも天にある全ての祝福を得ることができるのです。
 もう一つ白い石とは何を意味するのでしょうか。いろいろな解釈がありますが、一番知られている解釈によると、「石」は、これをもらう人のことを言いますが、それはまるでイスラエルの12部族が大祭司の胸当ての中にはめこんだ宝石によって表されたことと同じです(出エジプト28:15?21)。この石は白いです。この白さはきよさ、美しさ、栄光(黙示録3:4)を表わします。そして、石自体は長く残れると言うことで不滅を象徴します。ですから、白い石とは罪からの自由と、あらゆる罪を洗い清められたこと、きよめられた状態で永遠に生きられる存在を指します。石に書かれる新しい名前とは、新しく生まれ変わり、新しくされた名前のことです。私たちはまだ知りませんが、天国にあるいのちの書には新しくされた名前、天国にふさわしい名前が記されているのです。ですから、悔い改めてイエス様を信じ、イエス様をいのちのマナとして生きる者はこの地上での生涯も、死んだ後も永遠に安全に守られているのです。

 この時間、私たちの前には二つの道が開かれています。どちらを選ぶかとは私たちの自由です。選択を迫られています。悔い改めて神様が与えてくださる永遠の祝福を受け取るのか、それとも、今のままの生き方を続けて神様のさばきを受け取るのかということです。2000年前のペルガモの教会だけではなく、私たちも同じチャレンジを受けているのです。皆さんはどちらの道を選んで行きたいでしょうか。どうか、悔い改めて神様が与えてくださる永遠の祝福を受け取ることができるように祈ります。

06REV06 近ごろの行ないが初めの行ないにまさっている教会

2006年ヨハネの黙示録第6講

近ごろの行ないが初めの行ないにまさっている教会

御言葉:ヨハネの黙示録2:18?29
要 節:ヨハネの黙示録2:19「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。」

 先週、私たちはペルガモにある教会に送られたイエス様の手紙を学びました。ペルガモは「サタンの住むところ」、「サタンの王座」があるところでしたが、キリストの忠実なしもべたちはそんな環境の中でも信仰を守り通しました。でも、一部の聖徒たちはバラムの教えやニコライ派の教えを奉じていました。鋭い、両刃の剣を持っておられる主はそれを知っておられ、彼らが悔い改めて信仰の勝利を得る者になるように命じられました。鋭い、両刃の剣を持っておられる主は私たちのすべてを知っておられます。そして私たちが鋭い御言葉によって世俗主義を悔い改めて、最後まで信仰を守り通す勝利者になることを願っておられます。私たちはペルガモのようにサタンの王座があるような東京に住んでいるから世俗主義の影響を受けやすいです。でも日々御言葉を通して汚染される世俗主義を悔い改めて信仰の勝利を得る者として生きるように祈ります。
今日は主がテアテラの教会に送られた手紙を学びます。テアテラはトルコ共和国の町で現在のアクヒサルです。先週学んだペルガモから南東へ60kmほど離れている所ですが、リュウコス川沿いの肥沃な平原に町がつくられているそうです。肥沃な平野ですから、住みやすいところですが、軍事的には外部の攻撃から自分たちを守ることがなかなか難しい所でした。それで、戦争が起こるときごとに攻撃されて何度も町が壊されたそうです。こういう経験を通して市民たちは生き残るために一致団結する結束力を強めて行きました。そこで、テアテラは小アジアのいずれの町よりも早く同業組合(ギルド)が誕生しました。ギリシャ語碑文によると、この町には羊毛、紫布、亜麻布、衣服、土器、銅細工、染料などの多くの組合があったそうです。 
特にテアテラ産の紫布は世界的に有名になっていました。ホーマーの最古最大の叙事詩「イリヤード」によると「テアテラ市には世界的に有名な紫布が生産された」と記されているそうです。このテアテラ市出身の紫布商人として今でも世界的に有名な人はルデヤです。彼女はテアテラ出身の最初のクリスチャンのひとりです。使徒の働き16:14によると「テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。」とあります。ルデヤはパウロの良き同労者になります。では、主がこのテアテラにある教会に語られたメッセージは何でしょうか。今週も、この教会に紹介されたイエス様の御姿、イエス様の賞賛と叱責、イエス様の方向を中心に考え、私たちに語られた主の御言葉として受け止めて行きたいと思います。

?。イエス様の自己紹介
18節をご覧ください。「また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。』」とあります。当時、テアテラ市の守護神はテュリムノスで、太陽神でしたが、イエス様は、イエス様ご自身が燃える炎のような目を持って彼らを守っておられることを示唆しておられます。この町の守護神は太陽神ではなく、イエス様なのです。そして、「足は光り輝くしんちゅうのような、神の子」とはこの地の銅細工人組合に関連する表現からきているとされています。銅細工人は自分たちが作った宝石の輝きを誇っていましたが、イエス様は、その足が光り輝くしんちゅうのようなお方なのです。
 イエス様は罪を見逃す節穴のような目ではなく、罪を焼き尽くす義の力を持つ燃える炎のような目を持っておられます。また、十字架への試練の道を自ら歩み尽くされた主の足は、光り輝き、しんちゅうのように、すべての邪悪をその足で踏み砕く力を持っています。イエス様は私たちの罪を贖うために十字架にかかって死なれましたが、死と罪に打ち勝ち、死者の中からよみがえられました。よみがえられた主こそがテアテラを守られる真の神様であり、彼らを義のうちに正しくさばかれるさばき主です。では、燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような方が言われるテアテラ教会の状態はどうだったでしょうか。

 ?。イエス様の賞賛
19節をご一緒に読んでみましょう。「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。」主はエペソ教会については「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。(2a)」と言われました。ここでは「労苦」が除かれています。おそらく、テアテラの聖徒たちは、エペソとか、サタンの王座があるペルガモに比べれば信仰生活のために苦労することは少なかったようです。でも、エペソでは非難されていた「愛」と「信仰と奉仕」がここテアテラでは賞賛されています。また、エペソ教会に対しては「どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい」と叱られた行ないがテアテラ教会に対しては賞賛されています。しかも、「あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。」と言われています。テアテラ教会は聖徒たちの信仰が日々成長していたのです。ここで、成長する教会、健康な教会の姿を見ることができます。エペソ教会は初めの愛を捨てましたが、テアテラ教会は初めの愛にまさって主を愛していました。彼らは初めより真実に主を愛していました。彼らは初めよりもっと熱心に主を信じ、主に仕えていました。それは彼らがますます熱く主を愛したから可能なことでした。
 行ないや信仰や忍耐があっても愛がないなら、主に受け入れられなかったはずです。私たちは主がエペソ教会に言われたことからも分かりますが、聖書のほかの箇所でも言われていることです。マタイ7:22、23節を見ると「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」とあります。また、?ヨハネ3:18によると「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」とあります。テアテラ教会の聖徒たちはことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実を持って愛していたのです。その愛の行ないが初めの行ないにまさっていました。ほんとうに、すばらしいクリスチャンの姿です。テアテラ教会の聖徒たちは年を取れば取るほど信仰が成長し、愛の行ないも成長していたのです。「昔、あなたがたもほんとうに熱心な教会でしたが・・・」と言われるではありませんでした。「近ごろほんとうに恵みがありますね。ほんとうに変わっていますね」と言われる教会でした。また、「あなたも牧者や宣教師になった時は、心が燃えていたよ。」と言われるのではなく、「あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっているよ。ほんとうに素晴らしい」と言われる方たちが多くいる教会でした。
 テアテラ教会の事情を考えてみると、彼らがいつも初めの行ないにまさって行ない、今日は昨日より成長しているような信仰生活をすることは簡単ではありませんでした。先ほど、序論でも言いましたが、彼らは生き残るためにギルドを組織し、ギルドを中心に経済活動をしていました。その活動の中でさまざまな人々と交わり、交わりのためにお酒を飲み、時には享楽的なこともしました。接待のために歌舞伎町のような所に行って売春をする人々もいました。そんな雰囲気の中でクリスチャンは聖なる国民らしく行ない、世の光と塩として役割を果たさなければなりませんでした。だからと言って、世の人々と調子を合わせなければ組合の仲間から仲間はずれにされる恐れがありました。また仲間はずれになる経済的な損害をもたらしました。そこで、クリスチャンの葛藤がありました。
 今日も、クリスチャンが置かれている状況はテアテラの状況と似ています。私たちはこの世の人々の交わる中で世俗的な価値基準による圧力を受けながら生活をします。それでクリスチャンの価値基準も低くなってしまいがちです。最近は世の離婚率と教会の離婚率の違いがあまりないと言われます。最近日本では「熟年離婚、新成田離婚」がはやっていると言われています。先週園児二人が友だちの母親によって殺される恐ろしい事件があります。日々道徳基準が低下されています。伝統的な道徳を守り、何よりも聖書の御言葉のとおりに生きることがなかなか難しくなっているのです。しかし、いつも真理は真理です。私たちは過去より現在、昨日より今日の行ないがますます聖書的になって行かなければなりません。何よりも忍耐を思って愛の行ないをし続けることは大切なことです。信仰は、愛から出る行ないが伴ってこそ生きたものとなります。ところが、初めの行ないにまさった愛の行ないをするためには忍耐がなければできません。子どもに対する愛にも、夫や妻に対する愛にも忍耐がなければ愛し続けることが難しいでしょう。愛することは、忍耐することであるとも言えるでしょう。ですから、イエス様はこの忍耐をとても大切にしておられることが分かります。エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、これから出てくるフィラデルフィアでは忍耐が特に賞賛されています。ヤコブ先生もヤコブの手紙1:3,4節でこう言いました。「信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」
 私たちが「あなたの近ごろの行ないは初めの行ないにまさっている」と言われるクリスチャン、日々成長するクリスチャンとして生きるために欠かせない徳目が忍耐なのです。私たちは忍耐を持って完全な者となる目標を目指して行かなければなりません。「僕は完全な者にはなりえない。天国の隅っこでいいよ。」あきらめていると、初めの行ないにまさるどころか、現状維持もできません。むしろ、腐っていき、悪臭を周囲に放つことになってしまいます。私たちは気づいたことくらいは、悔い改め、忠実に完全を目指して祈り、努力していく必要があります。ですから、イエス様はテアテラ教会を賞賛しながらも非難すべきことも言われます。では何を非難されましたか。

?。イエス様の叱責
20?23節を読んでみましょう。「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。」とあります。
イエス様がテアテラ教会を非難されたことは「イゼベルという女をなすがままにさせている」ことです。イゼベルは、列王記18章を読んでみると、バアル神をイスラエルの中に導入した人です。彼女は夫のアハブを誘ってイスラエルを深い偶像礼拝の中に陥れました。この時に、あの有名な預言者エリヤが出てきて、バアル神と対決しました。もちろん、エリヤは、このイゼベルのバアル預言者たちとカルメル山で戦って勝ちました。ところがイゼベルはあきらめることなく、エリヤをも殺そうとしました。つまり、イゼベルは、もともと神の民ではありません。イスラエルの王と結婚したバアル礼拝者であり、イスラエルに偶像礼拝、姦淫、不品行をもたらした女です。テアテラの教会でも本当はクリスチャンではないのに、教会の中にはいって来て変な教えをしているイゼベルがいました。世的な価値観を持って入り込んで人々を、誤りに導きました。不品行を行なわせていました。また、偶像礼拝に導いていました。
 テアテラ教会は愛と信仰、奉仕と忍耐を持っていながら、このような恐ろしい偶像礼拝と不品行がはびこっていました。なかなか信じられないのですが、りっぱな教会として言われても注意すべきことが不品行であり、偶像礼拝であることが分かります。それで、テアテラ教会をローマカトリック教会に例える方もいます。その働きには、驚くような愛と信仰の奉仕を見ることができます。また、忍耐もあり、日本の過去の殉教者はキリシタン、すなわちカトリック教徒です。しかしながら、その教会は、マリヤ信仰や聖人信仰を取り入れているということです。メキシコの宣教師たちから聞いたのですが、南米のカトリック教会の中はお寺とそっくりだそうです。
 しかし、イエス様は現在のローマカトリック教会だけではなく、私たちにも言われます。クリスチャンの中にもまじめに信仰生活をよくしているようですが、イゼベルの教えに誘われて不品行に落ちてしまう場合がよくあるからです。今日は、雑誌やインターネットを通して不品行の誘惑が氾濫しています。そして、一時的に有名だった教会のリーダーも女性の誘惑、情欲の誘惑によってつまずいてしまう場合もあります。私たちも例外ではありません。不品行を悔い改めなければなりません。神様により大切にしているものがあるなら、偶像崇拝の罪も悔い改めなければなりません。ところが、テアテラ教会には、主が悔い改める機会を与えても不品行を悔い改めようとしない人々がいました。彼らに対する警告がどうですか。「見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。」とあります。」とあります。
イエス様は、どのような人に対しても、悔い改めの機会を与えてくださいます。あの裏切り者ユダにも、悔い改めの機会を与えられました。テアテラ教会の人々にも悔い改める機会を与えられました。ところが、イゼベルは不品行を悔い改めることはしませんでした。その結果、イゼベルという女本人は、性病にかかってしまいます。また、女の教えにだまされて姦淫を行なう者たちは、大患難の中に投げ込まれます。神様は私たちの行ないに応じてひとりひとりに報いられます。テアテラにいる人たちの中でもイゼベルの教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていない人たちには神様が、ほかの重荷を負わせません。「サタンの深いところ」と出てくるので、この女はオカルトにも導いたようです。そういう変な教えを受け入れなかった人々、まだ、それを知らない人々は幸いです。そういう人たちには神様が、ほかの重荷を負わせないからです。今、私たちがイゼベルの教えによる不品行に陥っていないなら大きな感謝です。イゼベルの深い教えを受け入れていない、まだ知っていないなら、それも感謝です。しかし、少しでも気づかされるところがあるなら、悔い改めなければなりません。信仰生活は今日だけで終わるのではありません。主が来られるその日まで続きます。では、その日まで私たちはどうするべきでしょうか。

?。イエス様の方向
25?29節をご覧ください。「ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。また、彼に明けの明星を与えよう。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」とあります。
イエス様の方向は「ただ持っているものを、しっかりと持っている」ことです。これは、簡単なようですが、実は難しいことです。世の中は変わり移るからです。私はアメリカUBFの日ごとの糧の表紙を見ると、感心しますが、私が初めに見た時から今まで変わっていないからです。だからと言って日本の日ごとの糧の表紙が季節ごとに変わることに反対するのではありません。ただ、私は個人的に変わらない神様の御言葉に対する態度、もっているものをしっかりと持っているような態度を感じ取ることができるからです。私は毎週メッセージを伝えていますが、毎度新しいものを伝えているのではありません。古くから伝えられている御言葉を伝えているだけです。今日伝えているメッセージも2000年前のことです。でも、主は私たちがこのイエス・キリストの福音をしっかりと持つように命じておられます。
私たちが今もっている真理の御言葉をしっかりと保っていれば勝利を得る者となります。そして、神様から諸国の民を支配する権威をいただきます。イエス様が神様から受けている権威を私たちも受けるようになるのです。諸国を支配するこの統治は千年間つづきます。復活した者たちがキリストとともに王となることが約束されています。千年王国における統治です。
 また、「彼に明けの明星を与えよう。」と約束されています。私たちは神様が与えられる明けの明星によって世の光となります。暗い世の中で埋没されてしまう人生ではなく、主の真理の御言葉を守っていればこの世を照らす世の光となるのです。ダニエル書12章を見ると、多くの者を義とした者が、世々限りなく星のようになると約束されています。真理の福音を守り、それを伝えて多くの者を義とした者たちに輝かしい栄光が約束されているのです。
テアテラ教会はギルドという組合中心の社会の中で御言葉を守り、行ない続けることが難しかったでしょう。商売が盛んなところで、多くの人々が日曜日にも店を開いていました。クリスチャンだけが日曜日には休むことも難しかったでしょう。組合員の飲み会に欠席することも、仕事だけでも疲れているのに、夜の祈祷会、聖書勉強会に参加することも優しくなかったはずでしょう。しかし、テアテラ教会は日々成長していました。生まれたばかりの初代教会のような愛の交わりも、祈りも、信仰の行いも、聖徒たちの奉仕も成長していく教会でした。彼らのように、自分たちが持っている真理の御言葉を守り、信仰を守る者には輝かしい栄光が約束されています。

結論的に、私たちの愛と信仰、奉仕と忍耐が去年より今年に成長しているどうかを顧みて見ましょう。近ごろの行ないは初めの行ないにまさっているでしょうか。私は最近、「ある宣教師は近ごろ1:1しながら変わっている。言葉に恵みがある」と聞かれました。私もそのように言われる者になりたいと思います。私たちの教会全体の行ないが初めの行ないにまさっている教会、つねに成長する教会でありますように祈ります。そして、いつも目を覚ましていて不品行と偶像礼拝を悔い改め、真理の御言葉を単純に守る教会でありますように祈ります。

06REV07 目をさましなさい

2006年ヨハネの黙示録第7講

目をさましなさい

御言葉:ヨハネの黙示録3:1?6
要 節:ヨハネの黙示録3:2A 「目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。」

先週、私たちは「近ごろの行ないが初めの行ないにまさっている教会」テアテラ教会のことを学びました。皆さん、先週の行いが先々週の行ないにまさっていたでしょうか。どうか、今週の行ないは先週の行ないにまさるものとなるように祈ります。
今日学ぶサルデスは、先週に学んだテアテラの町の南西に位置していました。現在のトルコのサリヒリという都市の西に位置しています。かつて毛織物(Wool Making)と染色技術が盛んで、大変栄えていた町でした。特にここは、平野より400mほど高い位置にあり、古代ギリシヤの城砦の町として、難攻不落の町として知られていました。実際にそこに入るには一つの道しかなかったのでサルデスの住民は「だれも自分たちの町によじ登ることができない」という高慢と自負心を持っていました。平和の都市としてあり続けるだろうと思っていたのです。しかし、難攻不落の町であったにもかかわらず、紀元前549年と218年に敵軍によって占領されました。一度目は敵軍のペルシヤ軍がサルデスの町にやって来た夜、ひとりの兵士はかぶとが絶壁を転がり落ちる音を聞きました。そこで彼らは城壁を護っている兵士がうたた寝をしていることに気づいて城壁をよじ登りましたが、やはり見張りの兵士も、町の人々も寝ていました。結局サルデスの住民も、見張りをしている人さえも目を覚ましていなかった時に敵軍によって陥落されてしまったのです。二度目もほとんど同じでした。また、この町は、AD17年にあった大きな地震によって町の一部が破壊されました。つまり、この手紙が送られたAD90年代の人々は、町の歴史を通して「盗人のように来る」敵や予期しなかった災いによって町が破壊され、滅びることもありうることがよく分かっていたのです。ですから、サルデスにある人々にとって「目を覚ましなさい」と言われるイエス・キリストの御言葉は身にしみる言葉であったに違いないと思います。平和に過ごしている私たちにとっても身にしみる御言葉であります。
どうか、本文の御言葉を通して目を覚ますように。主の恵みを思い出して感謝し、御言葉を堅く守る生活、悔い改める生活によって白い衣を着て、イエス・キリストとともに歩む者となりますように祈ります。

?.イエス様の自己紹介
 1節をご覧ください。「また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」イエス様はサルデス教会に対してご自分を「神の七つの御霊、および七つの星を持つ方として紹介しておられます。「神の七つの御霊」とはこの世と教会に影響を及ぼし、働いておられる聖霊を指しています。聖霊はアダムの子孫として死ぬべき人間を生かす働きをなさいます。?コリント15:45節を見ると「聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。」とあります。聖霊は生かす御霊なのです。サルデス教会は、生きているとされていますが、実は死んでいる状態でした。死んでいる状態の聖徒を生かす方が神の七つの御霊に表現されたイエス様です。イエス様は彼らを御言葉によって生かします。イエス様はご自分を「七つの星」として紹介しておられますが、「星」とは神様の御言葉を伝え、迷っている人々を真理のイエス様へと導く役割をします。マタイの福音書2:9を見ると、星が東方の博士たちを先導して幼子イエス様の所まで導きました。星によって東方の博士たちは救い主イエス・キリストに出会い、この上もなく喜びました。星は博士として生きていましたが、実は死んでいた東方の博士たちのたましいを生かす働きをしたのです。このように、人は星のような御言葉によって正しく導かれ、いのちが生かされます。ヨハネ5:25を見ると「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」とあります。御言葉を聞く者は生きるのです。
ですから、神の七つの御霊、及び七つの星を持つ方として表現されているイエス様は聖霊と御言葉によって死んでいるサルデス教会を生かす働きをなさいます。それで、私たちが私たちのうちに働いておられる聖霊、御言葉の権威を信じて御言葉を聞くなら、生きる者となるのです。生きていますが、実は死んでいる状態の人であっても、御言葉を聞くなら、正しい道を知り、いのちが生かされることを経験するようになります。では、サルデス教会の状態はどうでしたか。
もう一度1bをご覧ください。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」とあります。厳しい言葉です。サルデス教会はイエス様を信じてクリスチャンになっていたから「生きている」とされていました。イエス様も彼らがイエス様を信じているクリスチャンであると言うことを知っておられます。ところが、彼らは「クリスチャン」として呼ばれているだけであって、実は死んでいる状態でした。決してイエス様は否定的な思考で物事を考える方ではありません。あわれみ深く、寛容な方です。今まで四つの教会を学んできましたが、やはりイエス様はできる限り、教会全般について良いことを語りたいと思っておられる方です。でも、イエス様が七つの御霊として七つの教会を行き巡る中でサルデス教会について言わざるを得ないことがありました。それは「大多数の聖徒が死にかけている、つまり、彼らは霊的に眠りかけているような状態である」ということです。まさに「もう死んだ」とも言える状態でありました。
「死んでいる」ということは成長もなく、変化もないということです。実を結ぶこともできません。サルデス教会の聖徒たちは、当時の先進国リュディア首都の市民として、その中でも聖なる国民としてのプライドを持っていました。礼儀正しく、親切であり、聖書勉強や礼拝にもまじめに参加していました。日曜日になると多くの人が朝寝坊をし、遊びに行きますが、サルデス教会の聖徒たちはまじめに教会に通い、いろんな活動をしていました。それで、周りの人々から「あなたがたこそ生きている」とされていました。しかし、イエス様がご覧になると、彼らは死んでいました。親切でまじめな生活がマンネリ化されているだけであって、本当は死んでいたのです。穏やかな教会であって何の問題もなさそうに見えましたが、実は問題がありました。それは問題がないことが問題でした。人は問題があるとその問題の解決を求めて必死に祈り、神様に頼ります。そして、そのような取り組みの中で、聖霊の働き、御言葉の力を体験していきます。
私は日本に来てビザ問題、子どもの問題、職場の問題があった時に、叫びの祈り、涙の祈りをささげざるを得ませんでした。時にはとてもつらかったし、さびしく、悲しかったときもありました。でもそれらを通して霊的にいろんなことを悟り、学びました。問題の中で神様のあわれみ、神様の恵みとは何なのか、自分がいかにちっぽけなもので、愚かなものであるかも悟りながら神様の大いなる恵みを経験しました。私だけではなく、多くのクリスチャンが問題を通して心が貧しくなって神様に祈り、神様に頼って大いなる神様の恵みを体験してきたでしょう。問題を通して生きている者らしく生きることができるし、また、問題を通して霊的に成長し、実を結んでいくのです。ですから、パウロはこう言いました。「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです(ローマ5:3?5)。」パウロがさまざまな問題だけではなく、患難さえも喜んだのは、それを通して聖霊によって神様の愛が自分の心に注がれていることだったからなのです。
私たちは何の問題もなく、平和に暮らすことを願いますが、不思議なことに何の問題もない日が続くと、人間は神様に必死に目を向けなくなるのです。すると、使徒たちによって示された熱心も情熱も冷えていきます。結局、霊的な感覚が鈍くなって神様との交わりも失われていきます。うたた寝(正式に床に入らず、しばらく寝ること、眠り)の状態になり、サタンに征服されてしまいます。結局、死んでいる状態になってしまうのです。それがサルデス教会の状態でした。
ところが、この状態はサルデス教会だけではなく、私たちの教会、私の状態でもあるのではないでしょうか。かつて早稲田大学も、東京大学もサークル活動をしていました。でも、今はキャンパスミッションを使命としていながらもサークル登録さえできない状態になっています。天幕生活、共同生活をしながらUBFで弟子訓練を受けて牧者や宣教師になったことをプライドにしていたのに、今はそういう活動が死んでいます。私個人的にも、さまざまな問題が解決され、先週は私以外の家族全員も永住権を取りましたが、霊的な熱心と情熱は冷えている自分を告白せざるを得ません。「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」と言われる主の御言葉は、まさに私に言われる御言葉です。私は御言葉を通して悔い改めていますが、挫折の中でも希望を見ることができました。一つは東京UBFのアブラハム、アブラハム牧者の変化です。今年初めにアブラハム牧者は自ら進んで兄弟牧者チームをヨシュアチームに名づけ、四つの祈り課題も提示しました。また、先々週は新学期のみわざの準備のために牧者たちの集まりをしたいと提案してくれました。牧者たちが日本宣教のために主体的に積極的に取り組んでいこうとしているのです。本当に素晴らしいことです。もちろん、祈りの課題のとおりに、牧者たちが毎週所感を書いて発表する中で受けた恵みを分かち合い、心を合わせて祈り、御言葉を口ずさむ生活をすることはやさしくないだろうと思います。特に牧者たちが会社生活をしながらキャンパスに行ってフィッシングし、弟子養成することはなかなか難しいでしょう。しかし、そのような状況の中でさまざまな問題にぶつかり、その問題のために神様に切実に祈りながら、聖霊と御言葉の力を体験するでしょう。そのうち、私たち自身が生かされて霊的に成長するでしょう。成長だけではなく、豊かな実も豊かに結ぶこともできます。そうなると、日本UBF開拓20周年記念事業として祈っている教会堂建築も神様の助けによってできます。教会堂建築を始めると、さまざまな問題にぶつかることもあるでしょうが、それによって私たちはますます生きた信仰を持つようになることを信じます。
 では、「生きているとされているが、実は死んでいる」教会に与えられたイエス様の方向は何ですか。

?。イエス様の方向
2、3節をご一緒に読んで見ましょう。「目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。」
第一の方向は「目をさまし、死にかけているほかの人たちを力づける」ことです。「目を覚ましなさい」というのは、英語で「Wake up!」です。「起きなさい」と言われます。何よりもイエス様は霊的な眠りから目を覚ましなさい」と言われます。「快楽の眠りから目を覚ましなさい」「怠けている状態から目を覚まさない。」と言われているのです。居眠りしているクリスチャンにとって必要なのは目を覚ますことです。「ああしていない、こうしていない」と言うことよりも、自分の方から目を覚ますことです。私が目を覚ますと隣の人も目を覚まします。私は学校で教えながら、教会でメッセージを伝えながらよく感じていることがあります。それはひとりが居眠りし始めると、その周りの人たちも居眠りをするようになるということです。また、ひとりがちゃんとした姿勢で聞いていると、その周りの人たちも目を覚ましているということです。サルデス教会にも、そういう聖徒たちがいました。4節を見ると「サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。」とあります。残念ながら皆ではありませんでしたが幾人かがいたのです。東京UBF教会でも幾人かがいます。聞くのに忍耐が必要なメッセージであっても目を覚ましてよく聞いている方たちがいるのです。でも、私の願いが皆が目を覚ましていることです。礼拝の時間だけではありません。いつもの霊的な状態が目を覚ましている状態であることです。目を覚ましてからはどうしますか。「そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい」と言われています。私たちは力づけられること、励まされること、愛されることを願いますが、主は私のほうから目を覚まし、死に掛けている人たちを力づけるように命じておられます。霊的に死にかけている人、怠けている人を非難するものではありません。あきらめるものでもありません。むしろ彼らの弱さを理解して愛し、励まして力づけなさいということです。私たちクリスチャンはいつも、もらうことより、与えること、力づけられることより力づけることのために励まなければなりません。それは神様の御前に全うされるまで続けなければならないことです。ところが、本能的に自己中心的になりがちな私たちにとって神様の御前に全うされるまでいつも目を覚まし、死に掛けている人々を力づけることはやさしくありません。ではどうすればそれができるでしょうか。
イエス様は第二の方向として「だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。」と言われました。私たちはイエス・キリストによって多くの恵みを受けてきました。霊的に死んでいたのに、イエス・キリストによって救われ、生かされる恵みを受けました。罪とサタンの奴隷から救われて神様の皇太子になりました。それだけではありません。今まで私たちは私たちに必要なすべてを神様から受けました。私たちはいつもその恵みを思い出さなければなりません。「おどろくばかりのめぐみなりきこのーみのけがーれをしれるわれに(聖歌229)」また、私たちは神様の御言葉を聞いてきました。その御言葉を思い出してそれを堅く守り、悔い改める生活をすることです。御言葉を思い出して口ずさみ、御言葉から離れていることが気づかされた時にはすなおに悔い改めなければなりません。毎週聞いている御言葉によって自分の罪、霊的に死に掛けている状態が気づかされたら、悔い改めて御言葉を堅く守らなければならないのです。悔い改める生活によって罪悪の生活、怠けた生活を捨てて聖なる国民として善を行なう生活をすることです。自分に対して悔い改めがなければ目を覚ますことも、人を力づけることもできません。イエス・キリストの十字架の血潮に頼って悔い改め、赦された人たちがほかの人たちを力づけることもできます。では、そのように生きる人々に与えられるイエス様の祝福の約束は何ですか。

?.イエス様の祝福の約束
4?6節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』
 サルデス教会には、目を覚まして、ほかの人たちを力づけている人たちがいました。彼らは自分たちが受けた恵みと御言葉を思い出して罪を悔い改める生活もしていました。イエス・キリストの血潮によって着させてくださった義の衣を汚さない人が幾人かいたのです。彼らは「クリスチャンであるくせに何だ」と言われませんでした。むしろ、彼らによってイエス・キリストの義が表わされ、キリストの御名があがめられていました。彼らはイエス・キリストとともに歩むことができます。たとえ、この世の快楽や不道徳的な生活、なかなか直らない自分の性格のために汚されたとしても、それが気づかされたときには、すぐにキリストの血潮に頼って悔い改めている人は白い衣を着てキリストと歩む生活ができます。すると、この世の貪欲、快楽から得られない喜び、この上もなく喜びに満たされることができます。キリストは私たちの罪を赦し、きよくしてくださるからです。イザヤ1:18節は言います。「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」私たちはキリストによって私たちの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなり、紅のように赤くても羊の毛のようになるのです。それで私たちはこの世で白い衣を着てキリストとともに歩みながらキリストによって力づけられてほかの人を力づける人生を生きることができます。それだけではありません。イエス様は「わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。」と約束してくださいました。キリストによって罪が赦され、きよめられて白い衣を着ている人々は、いのちの書に記されていて、やがて天国で輝かしい栄光を受けるようになります。イエス・キリストによって救われて白い衣を着るようになったにもかかわらず、罪と世の快楽、貪欲などによって再び衣を汚してしまうなら、多くの疑い、苦悩、嘆き、罪意識の中で生きるしかありません。そしてその人たちはやがて第二の死を迎えるようになります。しかし、白い衣を汚さない人々は、この世で喜びと幸せの衣を身にまとって生きることができるし、第二の死を迎えることなく、永遠にイエス・キリストと父なる神様と幸せに生きることができるのです。

結論的に、私たち一人ひとりが目を覚ますように祈ります。サルデス教会には、白い衣を着てキリストと歩むことになる人は幾人しかいませんでした。今の教会にも幾人しかいないかも知れません。でも、私たちがその幾人かのひとりになりましょう。私だけでも、情熱的に、忠実に主の御言葉を堅く守り、悔い改める生活をして、幾人しかいなくても、その少人数のグループに属する者となろうと決断することができるように祈ります。

06REV09 熱心になって、悔い改めなさい

2006年ヨハネの黙示録9講

熱心になって、悔い改めなさい

御言葉:ヨハネの黙示録3:14?22
要 節:ヨハネの黙示録3:19「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」

 聖書を指して「神様の熱い愛の手紙である」という人もいます。適切な表現であると思います。本当に、神様は私たちを熱く、熱く愛しておられます。ご自分のひとり子をお与えになったほどに私たちを愛しておられます。神様の愛のゆえにこの地上に来られたイエス様も私たちを熱く、熱く愛してくださいました。イエス様は私たち人間を本当に熱心に愛する生涯を過ごされました。ご自分のいのちをお与えになったほどに私たちを愛してくださいました。私たちの罪を贖うために十字架にかかって貴い御血を流し、死なれたほどに私たちを愛してくださいました。そして、死者の中からよみがえられたイエス様は今もなお、私たちを熱心に愛しておられます。そして、主が私たちを愛したように、私たちも、熱く主を愛することを望んでおられます。愛の交わりを望んでおられます。
 今日の御言葉はラオデキヤ教会を熱く愛しておられるイエス様が彼らを叱り、懲らしめられたことです。先週、学んだフィラデルフィヤ教会は叱られるところがなかったのですが、ラオデキヤ教会は褒められるところがありません。でも、イエス様はこの教会を愛して、熱心に愛して叱ったり懲らしめたりしておられます。そして、現代の教会は小アジアにある七つの教会の中でこのラオデキヤ教会に一番近いと言われています。ラオデキヤ教会は今の私たちの教会であるといえるほどに似ているということです。では、イエス様がラオデキヤ教会に送られたメッセージは何でしょうか。どうか、私たち一人ひとりがイエス様の懲らしめをないがしろにしないように祈ります。熱心になって悔い改めるように祈ります。それこそ、終末に生きている私たちが主との親密な交わりを保ち、目を覚ましている近道であるからです。

 14節を読んでみましょう。「また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。』とあります。ここで、ラオデキヤにある教会にいわれるイエス様はどんな方ですか。イエス様はご自分を「アーメンである方」として紹介しておられます。「アーメン」というのは「そのすべてが良しとされ、そのとおりである」という意味です。イエス様は神様のすべての御言葉に対して「そのとおりです。」と答えて従いました。王の王であり、全宇宙の統治者であられるキリストですが、神様の御旨に従って卑しいこの地に下りてこられました。キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです(ピリピ2:6?8)。イエス様は神に造られたものの根源である方なのに、ご自分を卑しくしてこの地に来られ、実に十字架にかかって死なれるまでに「アーメン」と従われたのです。本当に忠実で、真実な証人です。ですから、イエス様のニックネームの人は「アーメン」であるのです。「アーメン、イエス!」と言われる方なのです。私たちも神様の御言葉に対していつも「アーメン」と答える者でありますように祈ります。世の中では目立つような発言をする人が認められるかもしれません。しかし、神様はイエス様のようにいつも「アーメン」と従う人を認め、祝福してくださいます。神様のみわざでは「アーメン」と従う従順の人が用いられます。私たち一人ひとりが「アーメン、ダニエル」「アーメン、○○○」と呼ばれるほどに神様に従う者でありますように祈ります。では、アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がご覧になったラオデキヤ教会の状態はどうでしたか。
15,16節を読んでみましょう。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」とあります。ラオデキヤは地理的に交通が便利なところでした。昔も今も交通が便利なところは発達しやすいですが、ラオデキヤの町も、とても発達していました。皆さん去年、12月、東京に来られた韓国の朴ダビデ牧者のことを覚えているでしょうか。ダビデ牧者は勉強会の時、ヨーロッパ国際修養会の後、聖地巡礼として行ってきたラオデキヤのことを教えてくれました。行って見ると、本当に聖書の御言葉がよく理解できたと言いました。なまぬるく、熱くも冷たくもない状態も理解できたそうです。
ラオデキヤの町は、あの昔も配水管が通っているところでしたが、それは温泉からのものだったそうです。彼の話によると、ラオデキヤの住民はヒエラポリスの温泉から配水管を通して水を運んでいるそうです。ところが、その水は途中冷えてしまい、生ぬるくなるそうです。それをおいしく飲める水にするためには、もっと冷やすか、再び熱くしなければなりませんでした。そして、もう一つの水路がありますが、それはババ山にある雪と氷が溶けて流れる冷たい水が流れていました。この冷たい水は清水であって目の治療にも役立っていたそうです。ところが、温泉地のヒエラポリスは羊毛の染色業が発達していて染色の工場からのほこりが多かったために眼病にかかっている人も多かったそうです。ラオデキヤの人々は彼らのために清い水で「コロウリオン(Kolourionn)」という目薬を作って売りましたが、とても儲かっていたそうです。それで、ラオデキヤは非常に繁栄し、栄えていました。先週、AD17に大地震のためにはフィラデルフィヤの住民は乏しくなり、自分の故郷を離れて行った人々が多かったことを教えられましたが、ラオデキヤの住民は大地震による莫大な被害があってにもかかわらず富んでいたのです。豊かになり、乏しいものは何もないと言えるほどになっていました。
しかし、イエス様は彼らに言われます。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」とあります。
皆さんはどんな水が好むでしょうか。なまぬるい水というものほど、おいしくない水はありません。私たちは何かを飲むときに、冷たいか、熱いかどちらかの飲み物を選ぶでしょう。なまぬるいのは欲しくありません。自動販売機を見ると、冷たいか、熱いと書いてあります。「なまぬるい」と書いてあるものは見たことがありません。だれもほしがらないからでしょう。なまぬるいものを飲んだ場合は吐き出してしまいます。ところが、このラオデキヤ教会は、その町にある水のようになまぬるくなっていました。そこで、イエス様は、彼らに「わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。」と言われました。では、皆さんの心はどうでしょうか。隣の方に互いに聞いてみましょう。「あなたの心は冷たいでしょうか、熱いでしょうか。」イエス様は私たちにもこう言われるでしょう。わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」イエス様は私たちに「わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。」と言われるのです。このように言われるイエス様は、ほんとうに私たちを愛しておられる方です。私たちを熱く愛するために、富んでおられる方なのに貧しくなられました。愚かで弱い者を癒し、強くするためにご自分は卑しくなられました。どうしても罪に溺れている人間を救おうとする熱意のために、ご自分の全生涯を燃やされました。滅びに至る人々を救うために十字架にかかって死なれたほどに私たち人間を熱く、熱く愛されたのです。そして、イエス様は、この熱い愛がイエス様の片思いに留まってしまうことなく、私たちの心にも伝わり、私たちも熱くなることを願っておられます。私たちがイエス様を熱く愛するなら、イエス様も私たちをますます熱く愛してくださいます。イエス様は「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます(ヨハネ10:17)。」と言われました。ここに、私たちがもっともっと神様に愛される秘訣があります。神様は私たちを一方的に愛しておられる方です。でも、イエス様は「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。」と言っておられます。この言葉から私たちが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるほど主を愛するなら、その犠牲、その熱い愛のゆえに、神様が私たちを愛してくださることを示唆してくれます。つまり、イエス様は私たちが今の生活に満足せず、もっともっと熱く愛してほしい、と願っておられるのです。また、その愛のゆえに、私たちを忠告し、懲らしめられます。

17,18節をご覧ください。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金(純潔の信仰)をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」
「自分が富んでいる、豊かになって、乏しいものは何もない」というのは、いまの自分の生活に満足している姿です。もちろん主にあって満足する心は大事です。使徒パウロは「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです(?テサロニケ5:18)。」と言いました。すべての事について感謝することは、キリスト・イエスにあって神様が私たちに望んでおられることなのです。しかし、ラオデキヤ教会の聖徒たちは神様の恵みと祝福に対する感謝ではなく、自分の力によって自分が富んでいる、豊かになって、乏しいものは何もない。」と高ぶっていました。どんなに神様に熱く愛されていたのかを忘れていました。どんなに神様の恵みを受けたのかを忘れていました。彼らも乏しかった時は、心も貧しくなって切実に主を求めていました。さまざまな問題を感じた時、涙の祈りをしていました。目薬が売れなくて生活が困っていた時にも切実に祈りました。ところが、いつの間にか、彼らが涙によって祈り求めたことは思い出になってしまいました。「ああ、あの時は熱かった。僕の心も燃えていたのだ。」と思い出話をしているけれども、今の心はなまぬるくなっていたのです。目薬がよく売れて自分の生活が安定的になると「自分が富んでいる、豊かになって、乏しいものは何もない。」と言いながら主を求めませんでした。クリスチャンなのか、ノンクリスチャンなのか、分からない状態になっていました。自分の霊的な状態がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知りませんでした。自分の霊性がどんなに地に落ちているのか、神様の御言葉に対してどんなに無感覚になっているのかを知りませんでした。自分の生活がどんなに汚染されているのか、どんなに汚れているのかを知りませんでした。最近、偽装したことで恥を受けている人たちのことがテレビや新聞に報道されていますが、人の罪は現わされるものです。罪を悔い改めず、汚れた生活を続けると、いつかは現わされるのです。主がラオデキヤ教会をご覧になると、すぐにも彼らの裸の恥が現わされる状態になっていました。なのに、彼らはそれを知りませんでした。まさに、彼らはみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者でありました。主がご覧になると、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸のものであったのです。私たちは主の目で自分を見る必要があります。私たちは人と比較して、「自分はそんなに悪くない」と思ってしまいますが、神様の御前で自分がどんな者として評価されているかを考える必要があります。イエス様の評価こそ、正しい評価であるからです。
イエス様は私たちを正しく評価し、対策も教えてくださいます。もう一度、18節をご覧ください。「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」とあります。「火で精錬された金」とは、試練によって練り清められた純潔の信仰のことです。1ペテロ1:7をみると「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」とあります。私たちは試練を避けないでそれを通して金より尊い信仰を深める必要があるのです。そして、「白い衣」は、先週も話しましたが、キリストの義であり、罪の赦しによるきよめです。私たちの罪はイエス・キリストの赦しによって白くなります。「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」とあります。ここで「論じ合う」ということは主の御前に罪を言い表すことです。罪を言い表して悔い改めることによって私たちは雪のように白くなります。?ヨハネ1:9にも「 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。とあります。悔い改めによって白くなり、きよめられると、そこに聖霊を迎え入れなければなりません。「目薬」とは、御霊によって目が開かれることを意味しています。霊的に盲目になっている目が開かれるためには聖霊の働きが必要です。聖霊と交わる時、私たちは正しい価値観を持って主を熱く愛し、再び来られるイエス様を待ち望みながら目を覚ましていることができます。 ですから、私たちにとって大切なことはイエス様の忠告を素直に受け入れて悔い改めることです。
  19節を読んでみましょう。「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」ここで、「懲らしめ」という言葉が出てきましたが、イエス様は「愛する者」に対してそれを行なわれます。ヘブル人への手紙12:5,6節には「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」とあります。
イエス様はラオデキヤ教会を懲らしめておられますが、それはイエス様が彼らを熱く愛しておられるからなのです。彼らはイエス様の愛する聖徒たちであるからこそ、熱心になって、悔い改めてほしい。」ということです。「反省しなさい。悔い改めなさい。」と叱ったり懲らしめたりすることばはとても厳しい表現です。だから、だれでも言えることばではありません。親とか先生、とても親しい友人でなければなかなか言えないことばでしょう。
私は父親から殴られたことは、ただ一度あります。小学校二年生時、父が店に行ってタバコを買って来るように言われましたが、私は途中友だちに会って遊んでしまいました。父は戻って来ない子どもが心配になったでしょうか、私を探しに出てきて見つかると家に連れて行きました。そして、家の門に入るやいなや殴りました。おばあさんが来て助かったのですが、もう歩けなくなるかと思うほどに殴られました。でも、そのように懲らしめられたからこそ、その後は父の話をよく聞き従って非行に走ることなく青少年期を過ごしたと思います。私たちを愛する人は、本気になって私たちの過ちを叱ったり懲らしめたりします。そして、その懲らしめをないがしろにしないで、悔い改める人を暖かく迎えてくれます。私の父も私が殴られて反省しえて謝ると、すべての罪を赦し、暖かく迎えてくれました。ましてあわれみ深いイエス様が私たちを迎え入れてくれないはずがありません。イエス様は私たちが悔い改めてイエス様を迎え入れることを待っておられます。
 20節をご一緒に読んでみましょう。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
ここに、悔い改める者を待っておられるイエス様の愛がよく表われています。この御言葉は、しばしば、伝道集会のときに用いられるし、伝道用紙に書かれている場合も多くあります。皆さんの耳にも慣れているでしょう。W.H.Huntという画家は「戸の外に立ってたたく」イエス様の姿を描きました。その絵を見ると、戸の外からは開くことができないようになっています。中にいる人だけが門を開くことができるようになっているのです。王の王、主の主、神の御姿であられるイエス様が卑しい私たちのところまで来てくださり戸の外に立っておられます。私たちが心の扉を開くことを待っておられます。主はあなたの心の扉をノックしておられます。そして、あなたのところにはいって、あなたとともに食事をすることを待ち望んでおられるのです。ともに食事をするということは、とても親しい交わりです。今日でもともに食事ができるということは深い交わりができるという意味を持っていますが、当時の食事は、現在のものより、もっと深い意味があります。「食べている人と一つになる」という意味があります。ユダヤ人は丸型の大きなパンとスープを食卓の真中に置いて食べていたそうです。同じパンから食べ、同じスープから飲むことによって、互いが一つになっていることを確かめていたのです。そのために、当時のユダヤ人は異邦人と食事をすることを避けました。イエス様は、御霊によって私たちと一つになることを求めておられます。親密な交わりに招いておられます。
この親密な交わりのために私たちの心もノックしておられます。どうか、私たち皆が心の扉を開いてイエス様を迎え入れることができるように祈ります。偽りの教えや、作り話に引き寄せられてなかなかイエス様に心が燃えない方はいないでしょうか。新学期を迎えて準備として新しいチラシ、伝道用紙も作られていますが、まだ心が冷たくも、熱くもない状態である方はいないでしょうか。
私たちを熱く、熱く愛しておられる主の愛を覚えてなまぬるくなっている心を熱心に悔い改めましょう。そして、戸の外に立ってたたいておられるイエス様を迎え入れましょう。他でもなく、私たち自身のためです。なまぬるい状態が続くなら、主は私たちを吐き出してしまいます。その日が近づいています。イエス様が来られると、何をなさいますか。
21、22節をご覧ください。「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」
イエス様が再び来られるその日、悔い改めてイエス様を迎え入れた人たちは、イエス様の座に着かせていただきます。イエス様が勝利を得て、父なる神様の御座に着いたのと同じです。私たちはキリストとの共同統治をする者となり、主と同じように、神の国を治めるところに着つくのです。

以上で、イエス様がラオデキヤの教会に言われた御ことばを学びました。どうか、聖霊によってへりくだって熱心に悔い改めて主のあわれみを求めることができるようにしていただきましょう。「悔い改めなさい」と言われると、厳しく聞こえると思いますが、それこそ、イエス様との関係性を回復する道です。「悔い改めなさい」というのは、「イエス様との関係性を回復しなさい。」ということなのです。今日まで七つの教会に言われた主の御言葉を学びましたが、自分に言われた主の御言葉として受け入れる方は幸いな方です。懲らしめられるとき、悔い改め、異物を取り除くとき、戸の外に立ってたたいておられる主に出会うことができます。熱心に悔い改めてますます親密な主との交わりができるように祈ります。

05GAL-01 ほかの福音はない

2005年ガラテヤ1講  
     
ほかの福音はない

御言葉:ガラテヤ1:1?24
要 節:ガラテヤ1:7「ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。」

 ガラテヤ人への手紙の鍵になる要節は2章16です。「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」この御言葉は、この手紙の中心テーマであり、本質的なメッセージです。使徒パウロはこの御言葉を中心として異端、異なる福音に対して戦いました。その福音に対する情熱と献身とは、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの心を打ちました。ルターはこの手紙によって心が燃やされ、推進力を得て16世紀ヨーロッパの宗教改革運動を推進することができたのです。それで『ガラテヤ人への手紙』は、宗教改革の行進曲とも言われています。
ルターにとってこの手紙は最愛の書物でした。ルターは「ガラテヤ人の手紙は私自身の手紙である。私はまるでこの手紙と結婚しているようです。これは私の愛する妻、カタリナである」と言っていたそうです。僕はあまり妻を愛していないという人もいるかも知れませんが、ルターは自分の妻をフランスと取り替えることができない、かけがえの存在として愛していました。また、彼が自分の妻カタリナがいるから世界の司祭の中で一番幸せな者だと言っていたそうです。というのはそれほどにガラテヤ人への手紙を愛し、愛読していたということです。私たちも読書の季節、この秋にガラテヤ人への手紙を愛し、愛読してパウロやルターのような信仰とスピリットを持つことができるように祈ります。
今日の御言葉はこの手紙の序論として発信者と受信者を明らかにしてから「パウロ自身の使徒職の正当性」を主張し、「ほかの福音はない。」と言うことを明らかにしています。特にパウロは自分が伝えた福音は、直接、イエス・キリストから受けたものであって、全く間違っていない絶対的なものであることを証しています。私たちは、今絶対的な価値観よりも、相対的な価値観がもっと認められている時代に生きています。特に、多神教の国である日本では唯一の神、唯一の福音に対する抵抗感があるような気がします。そういう宗教文化のためなのか、ほかの宗教に対しても、ほかの人に対して寛大さが見られます。言葉も人のことを配慮する言い方が発達しています。例えば、今日のメッセージのタイトルも普通なら「ほかの福音はないでしょう」とか「ほかの福音はないと思います。」というような言い方をするでしょう。「ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。ほかの福音はない。」と言うような話し方には抵抗感を感じるのです。それで、祈りや礼拝に対して「絶対にしなければなりません。絶対に守らなければなりません。」と言うことに対して言いすぎだと思うのです。
私はUBF教会に来て「絶対従順、絶対福音」という言葉をよく耳にしました。また、精鋭部隊、霊的士官学校、グリーンベレーなどの言葉を耳にしました。普通の教会とは違ってちょっと過激的な教会だなあと思いました。でも、当時私は弱くてだらしない人間だったのでUBFが気に入ったけれども、日本に来てUBFは日本キリスト教の特攻隊になるのだというと、兄弟姉妹たちからの反応は期待はずれでした。ある日、ある兄弟は私に言葉が強い、怖いよと言われました。それで、今は気をつけていますが、いつの間にか、自分の心に福音に対する情熱が弱くなっていることを感じます。本文の御言葉を読んでみると、パウロはとても強い、特攻隊以上に強い印象を与えてくれました。言い方も過激的であるほどです。純粋な心で福音真理を守ろうとする意欲がとても強く感じられます。どうか、本文の御言葉を通して私たちが自分のアイデンティティを発見し、絶対的な福音信仰を回復することができるように祈ります。ガラテヤ人への手紙が東京UBFへの手紙となり、パウロの信仰とスピリットも受けることができるように祈ります。

?.ほかの福音はありません(1?10)
1節をご覧ください。「使徒となったパウロ・・私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。・・」とあります。
パウロは手紙のはじめから礼を欠くほどの自己主張をしています。勢い込んで、自分が使徒であることを強調しています。使徒とは、単に遣わされた者ではありません。ある使命を帯びて遣わされた使者、大使の意味です。新約聖書では、神様の福音を宣教する使命を受けて派遣された者、「全権大使」の意味です。当時、キリストの使徒であることの条件はキリストと行動を共にした人であり、キリストの復活の証人であることでした。パウロは、明らかに、この条件を満たしてはいませんでした。彼はイエス様と侵食を共にしていた12弟子ではなかったからです。それ以上に、パウロは教会の迫害者でありました。そこで、ガラテヤ教会にひそかに入り込んだ異端の人々はパウロが偽物だと言っていました。ところが、もしパウロが偽者の使徒として知らされると、パウロが伝えた福音も偽物になってしまいます。パウロにとってそれこそ我慢できないことでありました。徹夜してでも手紙を書かざるを得なくなりました。そこでパウロは「私、パウロは、教会を迫害したサウロではない、パウロだ」、「私・パウロは、いい加減な人間ではない、使徒そのもの、全権大使なのだ」と言っているのです。なぜなら、パウロが使徒となったのは人からでなく、人によってではなく、イエス・キリストによって使徒となったからです。しかもキリストを死者の中からよみがえらせた父なる神様によって使徒となったのです。実際に、彼はダマスコに行っている途中、よみがえられたイエス様に出会い、異邦人の使徒として選び分けられました。このように、彼はイエス様から直接に使徒として召されました(使徒9章)。これは使徒パウロにとってゆるぎない事実でした。パウロが使徒となった根拠と起源は「父なる神である」と言えるし、方法・手段を言うなら「イエス・キリスト」を通してです。ここに人間など介入していません。「私の場合、救いと召命は、直接、純粋に、神様ご自身から来ました。死んだ者の神ではなく、生きている者の神様です。イエス・キリストの神、イエス・キリストを死者の中から復活させられた神様です。」と言うふうにパウロは主張しています。だからと言ってパウロは教会を無視しているのではありません。パウロは諸教会に受け入れられ、諸教会と共にいました。あの「エルサレムの先輩の使徒」たちにもキッチリ承認されていました。
2節をご覧ください。「および私とともにいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ。」とあります。ここで、パウロとともにいるすべての兄弟たち」とはこの手紙を支持し、この手紙に同意する教会のメンバーたちです。パウロはひとりぼっちではありません。パウロのそばに多くの賛同者がいます。つまり、パウロは神様から直接召され、キリストの教会に承認され、キリストの教会とともにある者なのです。パウロは直接にイエス・キリストに出会い、御声を聞いたけれども、教会の一員としての立場を忘れませんでした。このあたりに、パウロの非凡さがうかがわれます。すぐれたバランス感覚です。
3節をご覧ください。「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」とあります。パウロは恵みと平安を祝福しました。恵みとは神様の救いのみわざであり、平安とは救われた民たちの心の平安です。クリスチャンが受ける恵みの証拠は心の平安によって現われます。パウロはそれを体験し、ガラテヤ人たちも体験しているはずですがその祝福を保つためには、この福音を守らなければならないことを伝えています。パウロは教会の破壊的な迫害者、悪魔的な殺人者でした。ところが、今、「パウロス・アポストロス」と叫ばせるものになったのは、「あなたの罪は赦された」と宣言してくださる、主の恵みと、恵みがもたらす平安意外の何ものでもありません。復活の神と、十字架のキリストから来る、恵みと平安がなければ、今の自分はない。あなたがたもない、それゆえに、この福音を守らなければならないということを伝えているのです。
4,5節をご覧ください。4節に「キリストは今の悪の世界から私たちを救い出そうとして」と書いてあります。これは、神様の恵みの目的です。キリストは私たちを今の悪い世界から救い出すために十字架にかかられて御血を流されました。ここでの「悪の世界」とは堕落した罪人たちに満たされている世界です。サタンに支配されている今の世界、キリストに敵対している今の世界です。このような世界では人間が苦しまれるしかありません。「男はつらい」と言いますが、女もつらい世の中でしょう。人々の心に真の平安もいのちもありません。しかし、イエス様はイスラエル人をエジプトの奴隷状態から救い出されたように、私たちも救い出してくださいました。来世の永遠のいのちはもちろんのこと、現世においてもほんとうの平安といのちを享受するようにしてくださいました。罪が赦された者として祈りの力を体験し、神様との交わりができるようにしてくださいました。それはイエス・キリストが私たちの罪のためにご自分をお捨てになったことによって私たちに施された恵みです。これはほんとうに驚くべき恵みです。それで、パウロは「どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン」と神様に栄光を帰しています。John Newtonは「驚くばかりのめぐみなりき・・・」と賛美しています。私たちの心にもこの救いの恵みと感激が満ち溢れるように祈ります。
6節をご覧ください。「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。」とあります。「私は・・・驚いています。」とは口語訳を見ると「・・・私には不思議でならない」となっています。批判、非難の気持ちを入れた言葉、言い方です。感情的に、というよりも、むしろじっくりと考え巡らしてみても、どうしても分からない、何がなんだか分からない、という言い方です。パウロの手紙は、例外なく、宛先の教会の優れている点を認めてほめ、感謝することから始まっています。例えば、ローマ人への手紙には「まず、第一に、・・・私の神に感謝しています。」とあります。?コリント人への手紙には「・・・あなたがたのことを、いつも神に感謝しています。」エペソ人への手紙には「あなたがたのために絶えず感謝をささげ、・・・」とあります。しかし、この手紙の場合は、非難を持って始めています。「そんなにも急に見捨てて、」とあるように、パウロはガラテヤ人の変心、しかも急速度で変わってしまった彼らの心に驚いて驚いたのです。もともと、パウロの伝えている福音とはこれです。「人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。(2:16;ローマ3:24;エペソ2:8)」ガラテヤ人たちはこの福音を捨ててほかの福音に移って行きましたが、そのほかの福音とは救いに至る道がただ信仰によるのではなく、「信仰+律法の行ない」によるという教えです。この教えのために、純粋なガラテヤ教会の聖徒たちの心が急速度に変わって行ったのです。しかし、パウロはなんと断言していますか。
7節をご一緒に読んでみましょう。「ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。」
パウロは「ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。」と断言しています。ここの「ほかの福音」というところの「ほかの」というのは、「ヘテロス」というギリシヤ語が使われています。それは同じ性質を持っていて形だけが違うことではなく、異質のものを意味しています。ですから、「ほかの福音」はその中身がまったく異なる、質が違うから、福音とは呼べないものだということです。
私たちは私たちが受けた純粋な福音をほかのものにしてしまう悪魔の仕業に注意しなければいけません。イエス・キリストの福音を宣べ伝えているなかで、「そしてですね…キリストを信じることの他に、あれこれのことをしなければいけません。」という言葉を付け加えようとします。エホバの証人たちは聖書の御言葉を認めても「地獄はない」といいながら一定の量の伝道をしなければ救いはないと教えています。モルモン教も、統一教会も、ただイエス・キリストを信じることによって救われることを否定しています。ジョセフスミスと文センメイが再臨主であるかのように教えています。ところが、教会でもあるところでは救われた証拠として異言ができなければならないと言います。それで、そういうところでイエス様を救い主として信じていながらもその証拠として異言の賜物を受けるために努力します。もちろん、神様から賜物をいただいて異言を語り、預言をすることは素晴らしいことです。しかし、異言が救いの条件になったり、人を判断する材料になったりしてはいけません。祈ることは素晴らしいことですが、大学合格のためには自分の教会で親が「100祈祷」をしなければならないというようなことをしてはいけません。これらは福音そのものよりもご利益に基づいたほかの福音です。私たちはまず悔い改めてイエス・キリストの十字架の恵みを深く受けてそれを感謝し、その恵み心の中に置くべきです。多神教の考えが根付いている人々はキリスト教も仏教、信徒、イスラム教など、多くの宗教の中で一つであると思っています。どちらにしても自分にとって有益になればいいじゃないかと思います。このような考え方が教会にも入り込んでくると、悪影響を及ぼします。心から悔い改めて福音を信じることより、祝福と恵みだけを求めて教会を移っていく人々が増えていきます。多くの指導者たちはこのような現象がますます深化されて行くことを心配しています。罪に対して涙ながら悔い改める心とイエス様の十字架と復活に結びつく信仰者が少なくなっているのです。純粋に福音精神を守ってイエス様の愛し、イエス様のように、使徒パウロのように生きようとする情熱と献身が見えなくなっているのです。何かの異質のもの、相対的な考え方、ご利益信仰などのほかの福音が教会に入り込んでいるのです。それに対するパウロの心がどうですか。
8,9節をご覧ください。「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。」
パウロは恵みの福音を本質から変えてしまい、ガラテヤ人たちをかき乱していた偽教師たちを糾弾しています。パウロは、ものすごい強い言葉をここで用いています。「のろわれるべきです」と言っています。これは「地獄へ落ちよ、永遠の滅びへと向かえ、」というような非常に強いことばです。それだけ、福音を変えてしまうことが恐ろしいことであるかが分かります。パウロは、天の御使いであっても、そして私たち自身であっても、と言っています。どんなに信頼できそうな存在が来ても、私たちはそれを決して信じてはいけないのです。どんなことがあっても、意固地になっても、たった一人になっても、パウロたちが宣べ伝えた福音に反することを言う者たちに対しては、ノーと言って、はねつけるべきなのです。
ご一緒に10節を読んでみましょう。「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」
パウロは「呪われよ。呪われよ。」と叫びました。人間としてそのような言葉を口にしていいのでしょうか。答えは「いいのだ!当然である。」ということです。彼の動機はただひとつ、あのキリストの福音を守りたい、十字架の福音、復活の福音を守りたい、キリストのいのちがかかった福音を守ることにあったからです。もし、パウロが人の歓心を買おうとするようなら、そんなことを言えません。ところが、パウロは「キリストの福音に反することを伝えるなら、その者は呪われるべきだといいました。それはパウロが人の歓心を買おうとしなかったから言えた言葉です。彼はキリストのしもべとしてひたすらキリストの福音のために戦いました。福音のためなら、私は何でもするという覚悟で貫いています。人には妥協していいことと、妥協してはならないことがあります。ゆずっていいことと、ゆずってはならないことがあります。パウロはキリストの福音のためなら、いのちをかけて守るべき戦いをしました。
私たちが人々の人気、人の関心を買おうとして福音を伝えるなら、福音が変質してしまいます。私たちは神様の羊たちを愛するべきです。しかし、その愛は神様を愛することに優先することができません。ヨハネの福音書21章を見ると、イエス様はペテロにまず、イエス様に対する愛を確認してから羊たちを愛するように命じられました。私たちはまず第一に神様を愛し、次に隣人を愛するべきです。そして、愛されることばかり求める人ではなく、神様を愛し、隣人を愛する人として成長し、弟子養成もそういう方向を持ってしなければなりません。人より神様を喜ばせることが大切です。?コリント5:9をみると、「そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。」

?.キリストの啓示による福音(11?24)
11,12節をご覧ください。「兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」 パウロは1節で自分の使徒職の起源が神様にあることを主張しましたが、ここでは彼が宣べ伝えた福音の起源が神様にあることを主張しています。彼は、ただイエス・キリストの啓示によって福音を受けたと主張しています。そして、それを証明するために彼の回心前と回心後の生活を語っています。パウロが回心する前の状況はどうでしたか。
13、14節をご覧ください。以前ユダヤ教徒であったころのパウロは激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。また彼は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。
パウロは自分の信じていた宗教への熱心さのゆえに、教会を迫害し、滅ぼそうとしました。彼は、このことがとてつもない重い罪を犯していたのです。ところが、この人生が一変します。それはキリストとの出会いによってです。パウロはそれを証しています。
15、16aをご覧ください。「けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、」とあります。神様は、パウロを、恵みをもって召してくださいました。そして、律法主義の第一人者を、恵みの福音の第一人者と変えてくださいました。これが神様の恵みです。もっともふさわしくない者を用いられるのです。そして、ここでパウロは、「生まれたときから私を選び分け」と言っています。「生まれたときから」というのは、母の胎内にいるときから、というのが直訳です。彼は、自分がイエス・キリストの知識に至る前から、母の胎内にいるときから、神様がこの働きのために自分を召してくださったのだ、ということが分かりました。すると、パウロは、生まれてからの自分もすべて神様によって導かれたこと、神様によって信仰に至ったことが分かりました。同じように、私たちの人生にも神様が関わってくださいます。私は年を取れ取るほどすべてのことは主が主権的になさったということを悟っています。私が何かを行なったからという人生ではなく、神様がこのように行なってくださったという恵みの足跡を見ることができるのです。これが恵みの福音ではないでしょうか。
 ではパウロがイエス様に出会い、回心してからはどうしましたか。
16b、17節をご覧ください。「私はすぐに、人には相談せず、先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。」とあります。直接・純粋に主からの召命を受けたパウロは直接・純粋にイエス・キリストに答えようとしました。いや、そのとき、主イエス・キリスト以外のことは、まったく頭になかったようです。すべての心、すべての精神、すべての思い、すべての力は、このただひとりのお方、主キリストに集中していました。まさに、彼はイエス・キリストに捕えられました。そこで、彼は人には相談しませんでした。先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上りませんでした。総本部、大使徒たちにもあいさつせずにアラビヤに出て行きました。何のためにアラビヤに出て行ったでしょうか。黙想のためでしょうか。伝道のためでしょうか。多くの学者たちはパウロが黙想のためにアラビヤに出て行ったと言います。そこで3年間、旧約聖書と関連してイエス様の生涯と十字架の死、復活を黙想しながら福音の啓示を受けたはずだと言っています。それから3年後、パウロはケパ(ペテロ)をたずねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間滞在しました。ペテロを訪ねたパウロの心は、キリストの生涯を知りたい、教会と宣教の実状を知りたい、自分を知らせ、代表使徒たちを知りたい、交わりを確立したいというところにあったことでしょう。しかし、主の兄弟ヤコブは別として、ほかの使徒にはだれにも会いませんでした。パウロは、余計な人には会っていないことを強調しています。それから、シリヤおよびキリキヤの地方に行きました。『使徒の働き』9:30によれば、カイザリヤから海路タルソに送り出されています。その後、シリヤ、キリキヤを巡回伝道したのです。
 ところが、22節をご覧ください。キリストにあるユダヤの諸教会にはパウロの顔を知られていませんでした。けれども、「以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている。」と聞いてだけはいたので、彼らはパウロのことで神様をあがめていました。

 結論的に、パウロが宣べ伝えるところの福音は、神様からのものであり、イエス・キリストの直接の啓示であることを確信することができます。私たちの救いは、ただイエス・キリストの十字架を信じる信仰から来るものです。ほかの福音はありません。神様がくださるこの福音にこそ、私たちを救いに至らせる恵みと力があります。福音に余計なものを付け加えると救いの力を失ってしまいます。しかし、福音は純粋であればあるほど、つまり、純粋に信じれば信じるほど救いの力を体験することができます。福音は変わり行く世の中でも永遠に変わらない救いの真理です。私たちにはこの福音に対する絶対的な確信が必要です。私たちが信じるところの福音は、このパウロからのものでなければいけません。そして、この福音こそ私たちにいのちと喜び、平安を与えてくれます。私たちがこの福音をますます確信を持って伝えることができるように祈ります。私たちの歩みが、人から言われたところの規則や決まり事によって縛られるのではなく、神ご自身の恵みの中に生かされたものとなりますように、お祈りします。母の胎内にいる前から前から私たちをキャンパスのたましいたちの使徒であり、キリストのしもべとして選び分けてくださった神様に感謝と賛美をささげます。

05-05 愛によって働く信仰

2005年ガラテヤ人への手紙第5講

愛によって働く信仰

御言葉:ガラテヤ人への手紙5:1-15
要 節:ガラテヤ人への手紙5:6「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける、受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」

 先週、私たちはイエス・キリストの十字架によって神様の子どもになったことを学びました。つまり、私たちは十字架信仰によって罪の奴隷ではなく、神様の子どもとして自由の人になったのです。本文の御言葉は、自由を得た人たちが、その自由をどのように使うべきかについて教えています。一言で言うなら、その自由を、肉の働く機会としないで、愛を持って互いに、仕え合いなさいということです。パウロは愛を通して働く信仰を強調しています。どうか、このパウロの生きた手紙を通して愛によって働く実践的な信仰、生きた信仰を学ぶことが出来るように祈ります。

?.愛によって働く信仰(1?6)
1節を読んでみましょう。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」キリストは自由を得させるために、私たちを罪と律法の奴隷状態から解放してくださいました。そのために、イエス様は天から地へ、神様から人へと低くなられました。十字架にかかって死んでくださいました。私たちはイエス・キリストの十字架の犠牲を引き換えにして自由を得るようになったのです。私たちが自由を得て平安を持つようになったのは、測り知れないイエス・キリストの大きな犠牲があったからです。その犠牲がどんなものなのかをパウロはピリピ2:6?8節で言っています。一緒に開いてみましょう。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」とあります。イエス・キリストは自由を得させるために人としての性質を持って現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われたのです。」そうです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えませんでした。自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われたのです。それによって私たちは罪の束縛から解放され、自由を得ました。ですから、ガラテヤ人も、私たちも測り知れない代価を払って自由を得たことを覚えなければなりません。キリストの大きな犠牲によって私たちは真の自由を所有し、永遠に自由に生きるようになったのです。そして、ガラテヤ教会の聖徒たちは、その自由を享受していました。そこで、パウロは「ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」と言っているのです。今まで「あなたがたはよく走っていたのだ。そのまま、しっかり立っていなさい。」「またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」ということです。「くびき」とは動物のくびにかけて束縛するものです。私は子どもの時、父が畑を耕す時には牛の首にくびきをかけて働かせていました。すると、牛の表情もなんか重く感じられました。牛が私と一緒に野原にいるときは自由ですが、くびきをかけられると、自由はなくなったからです。まさに、ガラテヤ教会の聖徒たちは、パウロと一緒にいた時は野原で跳ね回る子牛のように生き生きとしていました。しかし、今は、奴隷のくびきを負わせられようとしていました。そこで、パウロは「またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」と訴えています。ここで、奴隷のくびきとは律法による割礼です。「割礼を受けることは奴隷のくびきを負うことだ、またと律法の奴隷になるのか」ということです。では、もし、ガラテヤ人たちが割礼を受けるなら、どうなりますか。
2?4節をご覧ください。第一に、キリストは彼らにとって何の益もないのです。キリストによって得られる罪の赦し、救いと永遠のいのちの祝福を失ってしまいます。救いの条件の中に割礼を入れているのであれば、イエス・キリストの十字架は何の意味もなくなってしまうからです。ですから、割礼は、絶対に「ノー」です。キリストの十字架の信仰だけで、恵みにより、完全に、私たちは救われるからです。もし、割礼を受けることが条件付きなら、それはキリストの救いを、不完全なものにしてしまうのです。割礼を受けた人だけが完全なクリスチャンになります。すると、他のクリスチャンと比べて自分たちは、一段と優れているように思うでしょう。そして、その行ないで自分を正しい者としてしまいます。その瞬間、救われたのがイエス・キリストの恵みであることもわからなくなります。結局、キリストの十字架の死を、犬死にしてしまうことになるのです。
第二に、割礼を受ける人には律法の全体を行なう義務が与えられます。もし、救いの条件に、「割礼」を持ち込むなら、割礼だけでは終わらないことを知るべきです。割礼の他にも数多くある律法を行わなければならなくなるのです。律法の中で割礼だけを適用することは理屈が通りません。律法全体を行なう義務があるのです。そこまで考えずに割礼を救いの条件に出してはなりません。一部だけを取り出して、律法を守った気分になるなら、それは大変な間違いです。もし、律法を取り出すなら、全体を守らなければならないのです。でも、それは不可能なことでしょう。それは、絶望的なことです。それは到底負い切れないくびきなのです。そこで、パウロは、「あなたがたは、そのような覚悟が出来ているのか?無理なことを言うなよ。」と問いかけているのです。第三に、割礼を受ける者は、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったことになります。つまり、キリストによる救いとは、彼らと無関係になってしまうことです。異端の恐ろしさは、キリストを否定しないことです。この世の人々も「イエス・キリスト」という言葉を自然に使っています。異端の中にも十字架があります。復活もあります。聖書も信じます。正統的であるように見えます。いや、正統派よりも、もっと純粋で、熱烈で、情熱的である面があります。問題は、「キリスト信仰+割礼(何か独特のもの)=救い」ということになることです。キリスト+ムン鮮明とか、キリスト+ヨセフ・スミスとか、プラスアルファーが問題なのです。そういうわけで、割礼を受ける者たちはキリストから離れ、恵みから離れる深刻な状態に転落してしまいます。ですから、「ただ、キリストを信じる信仰によって救われる」という福音の上にしっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなければなりません。
5節を読んでみましょう。「私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。」「義をいただく望み」というのは神様と正しい関係性を結ぼうとする望みです。ガラテヤ人たちはどうすれば正しく生きられるか、どうすればずっと神様と正しい関係性を結んでいられるかということに問題意識がありました。彼らはただ、動物的に生きていたのではなく、常に正しいことも求め、聖なる民として生きることを望んでいたのです。何よりもパウロは信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いていました。彼は神様の民として義をいただく望みを熱心に抱いていたのです。そんな彼は悟り、確信したことは何ですか。
6節をご一緒に読んでみましょう。「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける、受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」パウロは義をいただく望みを熱心に抱いていた結果、愛によって働く信仰だけが大事なのが分かりました。神様と正しい関係性を結んで生きる道は、愛によって働く信仰しかないことが分かったのです。律法は動機よりも結果を大事にします。結果によって判断し、評価するから冷たくて堅いものです。この世は法治主義であって律法主義だから、仕事においても成果を出さなければならないから厳しいでしょう。律法によると、「割礼を受けたか、受けなかったか、できるか、できないか、守るか守れないか」というようなことが大事になります。しかし、キリスト・イエスにあっては割礼に何の価値もなく、無割礼にも、何の価値もないのです。価値があるのは、愛によって働く信仰です。キリストにあって大事なのは、尊いのは、割礼があるとかないとかではなくて愛によって働く信仰だけなのです。「愛によって働く信仰」というのはどういう信仰なのでしょうか。それは言葉のとおりに働く信仰です。愛を通して働いてくる信仰です。日常生活の中に、愛を通して実を結んでくる信仰、実践的信仰です。例えば、イエス様は「罪人や弱者を愛しなさい」という律法を残したのではなく、同族から嫌われている収税人や罪人たちとともに食事しました。すると、これを見たパリサイ人たちは、イエスの弟子たちに「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」と言いました。彼らは律法によってこのような言い方をしたのです。律法は人を裁き、非難するものです。本当に冷たいものです。しかし、イエス様はこう言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:9?12)。イエス様はご自身が愛によって働かれたし、あわれみ、愛によって働く信仰こそが人を癒し、生かすことを教えてくださったのです。イエス様の生涯は実に愛を実践する生涯でした。
事実、キリスト信仰は、律法という教えをひたすら守る宗教活動ではありません。神様と人との自由な人格的な交わり、そこから生まれてくる愛が大切なものです。イエス・キリストの愛を知り、その愛を受け止めた時に、自己中心的な私たちにも起きてくるイエス・キリストへの愛です。これこそキリスト信仰の本質です。クリスチャンの行ないは救われるため、誰かに認められるために行なうものであってはなりません。キリストによって救われて、その愛に感銘を受けて起こる、自発的な「愛」によって働く行ないなのです。キリストの愛に基づく自発的な愛の行動です。人の評価を気にしたり律法や決まりを気にたりして行なうものではありません。そういうことを気にしすぎると信仰生活が宗教生活になり、生ぬるくなってしまいます。ところが、なんだか信仰生活が長くなると、単純な心よりも複雑になり、律法の知識も増えて行くのでくびきを負わせられようになってしまうような気がします。いろいろ考えると、肩が重くなるのです。本当のクリスチャンとして生きるということは、ただ、ただ、キリストの愛に感銘を受けて愛によって働く信仰生活をすることを意味します。人の評価ではない、自分らしく、神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する自由な生活です。また、思いのとおりに愛することができなかったときには、素直に「ごめんなさい」と言える自由を持って働く信仰生活です。本当にシンプルな生活です。イエス・キリストは、あのカルバリの十字架によって、私たちをそういう愛と自由の世界へと招いてくださいました。ですから、キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける、受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。

?.律法主義へのパウロの怒り(7?12)
7?10節をご覧ください。ガラテヤ聖徒たちはパウロの伝道によって救われてからよく走っていました。彼らの実践的な愛の生活は感動的なものでした。キリストの十字架の愛に感動して神様を愛し、隣人を愛する生活をしていたのです。ところが、律法主義者というわずかなパン種が、教会に入ってきて人々を乱しました。「乱した」と言うのは、動揺させたことです。彼らの教えは合理的であり、理解しやすいものでした。なぜなら、信仰とは目に見える形がありませんが、割礼を受けるか、受けないかは目に見えるものだからです。それで、聖徒たちは動揺して純粋な福音信仰から離れるようになっていきました。少しの『パン種』でも、こねた粉の固まり全体を膨らませる力を持っています。ですから、悪いやつらが教えている律法主義のパン種を取り除かなければなりません。そこで、パウロは聖徒たちを乱す者は、「だれであろうと、さばきを受けるのです。」と厳しく警告しています。
歴史的にキリスト教会に入り込んでキリスト教を汚染させる二つの流れは律法主義と自由主義です。私たちは少しのパン種でもこういうものを警戒しなければなりません。律法主義は御言葉を守り行なうことに力を入れている教会に入り込みやすいものです。神様を愛する心から情熱的に御言葉を学び、守ることに励みますが、それがいつの間にか律法主義になってしまう場合があります。教会の初期にある情熱も愛情もなくなり、律法と教会の決まり、権威だけが残る形です。もう一つの流れは、律法的になっていることへの反発から自由主義になることです。すると、真理に基づいた絶対的な集まりであるはずの教会に、相対的な考えが入ります。それがパン種になります。人は、初信者の時は謙遜に御言葉を学び、先輩の牧者や宣教師の話も素直に聞きます。キリスト教に関する情報も少ないから、ただ御言葉から恵みを受けて感謝します。1:1聖書勉強だけでも涙を流します。大きな恵みのゆえに、教会の集まりにも絶対的に参加します。ところが、ある程度信仰生活が長くなると、自分なりの自分の考えを持つようになります。ほかの教会の情報も知るようになります。人の餅はおいしく見えるものです。また、自分に有益になることだけが大きく見えるものです、すると、自分の意見と違う人を受け入れにくくなるし、他の教会と比較すると、不平不満も生じます。それで、その気持ちを信仰の弱い人たちに言い出すと、心を乱すようになります。つぶやきのことばは、純粋に、単純に聖なる生活をしようとする人々の心を動揺させ、教会から、信仰から離れるようにしてしまいます。それで、教会に自由がありすぎても問題になるのです。ですから、私たちは「何でもかんでも自由じゃ。律法的だよ。」というようなことばに気をつけなければなりません。もしかしたら自分お言葉がわずかなパン種となり教会を乱すこともありうるからです。特に言葉に気をつけなければなりません。箴言15:2を見ると「知恵のある者の舌は知識をよく用い、愚かな者の口は愚かさを吐き出す。」とあります。口から愚かさを吐き出す者たちは自分の人格の愚かさを表わしてしまいます。私たちのことばがわずかなパン種になって教会を乱し、悪影響を及ぼしてしまうことがありうるのです。私たちは言葉に十分気をつけなければならないし、口を人のことを言うためではなく、祈るために使うべきです。わずかなパン種は言葉だけではありません。私たちの小さな行動もパン種になりうるのです。「私一人くらいは・・・」と思って行動したことが教会全体に影響します。ですから、私たちがわずかなパン種を取り除くことは大切です。これくらいはというものであっても取り除くべきです。
11節をご覧ください。「兄弟たち。もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けることがありましょう。それなら、十字架のつまずきは取り除かれているはずです。」パウロが割礼を宣べ伝えたなら迫害を受けなかったはずです。しかし、彼は十字架の福音を宣べ伝えることによって罪に挑戦し、律法主義者たちと戦いました。「十字架の福音」がこの世の教えとはあまりにも違っていたために彼は迫害を受けました。しかし、パウロは迫害に屈することなく、律法主義者たちにさらに厳しいことを言っています。
12節をご覧ください。「あなたがたをかき乱す者どもは、いっそのこと不具になってしまうほうがよいのです。」とあります。パウロは迫害を受けても少しも妥協することなく、福音の上にしっかり立って十字架の福音真理を守りました。

?.律法の本質、愛を持って仕え合いなさい(13?15)
律法主義者たちに対する怒りと彼らが受ける裁きについて話したパウロは13?15節で本来的な律法の生き方を教えています。
13節をご一緒に読んでみましょう。「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」ここで、私たちは自由を与えられるために召されたことが分かります。「召された」というのは「声をかけられ、名前を呼ばれて、招集された。」ということです。ギリシャ語で「召す」とは、「カレオー」であり、「教会」とは「エクレーシア」ですが、このエクレーシアとは、エク・カレオーという言葉が名詞化したものだそうです。つまり、エクレーシアとは罪の奴隷になっている罪の世界、罪によって束縛されている肉の世界から外へ呼び出された、召された人々の集まりなのです。神様は私たちをキリストの十字架のゆえにすべての罪を赦し、罪の世界から外へ召して自由を与えられました。罪の世界への自由ではなく、罪からの自由です。ですから、自由だからといって、またと罪の世界に戻ってはいけないのです。パウロは、「ただ、その自由を肉の働く機会としないで、」と書いています。「肉の世界から召して自由を与えられたのに、与えられたその自由を肉の働く機会とするな」と、パウロは警告しています。ガラテヤ人たちは、「自由」とは、まるで罪深い人間の本性のままで生きることであるかのように解釈してはなりません。自由は放縦ではないからです。放縦のために自由を濫用することは罪深い人間の本性に潜んでいる一つの悪です。私たち人間は自由を「罪を犯す権利」として、また「自由さ」を人間の本性のままで行動できる特権」であるかのように考えてしまいがちです。はなはだしくは、今日、夜遊びをすることも、お酒を飲むことも、主日礼拝を守らないこと、わいせつサイトに入ってみることも、淫乱な雑誌を見ることも「自由だ」という場合もあります。  
この間、ある人からこういう話を聞きました。自分は自由に飲んで罪を犯しても日曜日に教会に行くと、悔い改めるから大丈夫だ、罪を犯しても悔い改めもしない人よりましだ、と言うのです。果たしてどうでしょうか。悔い改めが何かも知れないノンクリスチャンと、「クリスチャンは自由人」だから自由に罪を犯しても悔い改めればいいと思う人に対して神様がどう判断なさるでしょうか。私たちは、決して自由を肉の働く機会としてはなりません。私たちに与えられたその自由はイエス・キリストの十字架の犠牲と引き換えに与えられています。では、どうして、イエス・キリストは、そこまでして、私たちに自由を与えようとしているのでしょうか。パウロは「愛をもって互いに仕えなさい。」と言っています。「愛する」ということです。愛すると言うのは、どんなに命令されてもできないものです。律法によって強制的に「愛しなさい」といわれて、愛せるでしょうか。「愛する」というのは、自分の心から自然と湧きあがって来る、自由、自発的な想いがなければできないのです。「愛は、お金で買えない」という言葉があります。本当に、命令によっても、律法によっても、どんな権力、権威、圧力、脅しをかけても、愛だけは買えません。私たちが本当の意味で「愛する」ためには、必ず「自由」というものが必要なのです。
 14、15節をご覧ください。「律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」とあります。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。愛するという事、これこそ神様が私たちに求めておられることです。イエス・キリストの願いもただ一つ、私たちが愛しあうという事です。
パウロはこの愛を実践しました。パウロは身をもって実践しました。何よりもイエス様がそのような生涯をなさいました。ヨハネの福音書13章?16章を読んでみると、世にいる自分のものを愛されたイエス様は、その愛を残るところなく示されたことが記されています。イエス様ご自身が奴隷となって働かれました。13章4、5節を見ると「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」とあります。イエス様は弟子たちの足をお洗いになったのは、愛によって働く信仰があったからです。ある人「愛を教えてくれるのは、愛でしかない。」と言いましたが、イエス様は言葉や口先だけではなく行ないによって愛しておられたのです。その愛の頂点は十字架です。イエス様はその大きな愛を、十字架によって教えてくださいます。十字架の上で、イエス様はこう祈られた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか、わからずにいるのです。」これは、律法をよく守っている人のために祈られたわけではありません。自分は正しいことをしているつもりで、実は罪を犯し続けている罪人たちのために祈られたのです。十字架に釘を打つものとは誰でしょうか。それは、私です。自分は正しいつもり、できているつもりで、人を裁いたり、非難したりする、私たち人間です。そんな罪人を赦すためにイエス様は十字架上で祈られたのです。どうか、私たちが人々に律法の正しさを要求するよりも、自由に自発的にイエス・キリストの愛を実践する生活ができるように祈ります。

東京UBF教会では、かなりの自由さをもっていると思います。その自由を何のために使っているでしょうか。私たちがその自由を肉の働く機会としないで、神様を愛し、自分を愛し、兄弟姉妹たちを愛するために使いましょう。自由だから、礼拝に遅く来てもいい、自由だから、祈らなくてもいい、自由だから集まりに参加しなくてもいいというのではなく、キリストのゆえに自由になったからこそ、その自由を、キリストのために、神様を愛する、隣人を愛するために使うことができるように祈ります。自由に、心からイエス・キリストに仕えるように、互いに、愛を持って仕えあうことができるように祈ります。

05GAL-06 御霊の実

2005年ガラテヤ人への手紙第6講  

御霊の実

御言葉:ガラテヤ人への手紙5:16-26
要 節:ガラテヤ人への手紙5:22,23「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」

私たちはイエス・キリストによって罪から解放され、自由を得ました。先週、私たちは、その自由を愛によって働くために使うべきことを学びました。私たちに与えられて自由はわがままで行動する放縦ではなく、愛によって働くためのものなのです。では愛とはどうやって得られるものでしょうか。すべての律法の要求を全うする愛はどこから生まれるでしょうか。私たちが「愛しているよ。愛するわ。」ということは難しくありません。しかし、本当に、真実に愛することはなかなか難しいと思います。時々、私はどんな人でも愛すること、愛し続けることができない自分のために悲しみます。では、すべての律法の要求を全うする愛、本当の愛を所有することはどうやってできるでしょうか。パウロは、愛は御霊の実として結ばれることを教えてくださいます。御霊の実は、「御霊によって歩む者」に結ばれるのです。御霊の実は愛だけではありません。聖霊は私たちに愛、喜び、平安、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を結ばせてくださいます。どうか、この時間、御言葉を通して御霊によって歩むことを学び、豊かな御霊の実を結ぶ人生を生きることができるように祈ります。

?.御霊によって歩みなさい(16?21)
16節をご一緒に読んでみましょう。「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」パウロは、先週の御言葉で「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける、受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのだ」ということを語ってきました。事実、愛の働き、互いに仕え合う愛こそ、キリストが私たちに望んでおられることです。ですから、使徒ヨハネもこう言っています。「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」 (?ヨハネ3:8?11)。神様が私たちを愛してくださったので私たちも神様を愛し、神様が愛しておられる人々と仲良く愛し合うべきなのです。では、どうすれば、神様の愛、キリストの愛で愛することができるでしょうか。
強い心で、決断すれば愛することができるでしょうか。一度、イエス・キリストに出会って救われた人は、自然に人を愛することができるでしょうか。確かに、イエス・キリストの十字架の贖いを信じている人は救われています。聖なる神様の子どもです。でも、救われて身分が変わったからといって肉の欲望や誘惑を全く感じなくなるという意味ではありません。イエス様を救い主として信じてバプテスマを受け、クリスチャンになり、牧者や宣教師になって十年、二十年も信仰生活をしても、罪の誘惑を感じつけるのではないでしょうか。
私たちは毎日、日ごとの糧の御言葉を食べながらも肉の欲望を感じ、誘惑され続けていると思います。私たちの内面には過去の罪のパン種が残っています。それで、クリスチャンの中には、教会では丁寧に、敬虔な話をしても、家に帰ると、急に言葉が汚れたり、険しくなったりする人がいます。主日には聖書を読み、敬虔に振る舞っていても平日になると、変な雑誌を読んだり、つまらないインターネットサイトをサーフィンしたりする人もいます。ところが、私たちが悪いことを、ついつい、してしまううちに、私たちはどうなりますか。それをやめられなくなります。私たちは肉の欲望を満足させるようなものに引っ張られていくからです。特に、私たちをつまらないこと、悪事へと誘惑するものは、甘くて美味しい味がします。また、聖書を開いて読むことや読書をすることより、テレビを見たり、インターネットサイトをサーフィンしたりすることが簡単です。だから、本当に強い決心がなければ、日々の生活が肉の欲望のとおりに流されていきます。私たちはそのような生活の中で霊性、霊的な力、霊的な望みを失って行きます。その先はどうなるでしょうか。言うまでもなく地獄です。今はそれほど目立たないかも知れませんが、肉の欲望に身を任せていると、地獄に向かっていってしまうのです。
パウロは、ガラテヤ教会の聖徒たちがいつの間にか、そのような方向に向かっていることを知っていたようです。今のうちに向きを変えなければならない状態でありました。もともと、ガラテヤ教会の聖徒たちはよく走っていました。彼らには良いことをしたいという願いがありました。愛によって働きたいという願いもありました。それを実行したいという意思も強いものでした。実際にパウロはガラテヤ教会を開拓してから彼らの愛の行いに感動していました。それなのに、彼らは律法主義者たちの影響を受けていたのです。「割礼を受ける、受けない」ということで論じ合っていました。愛によって働くのではなく、「愛」とは何か、「律法」とは何か、「割礼」とは何かと議論するばかりでした。なんだか教会の方向が愛よりも律法、実践よりも理論的になっていたのです。そのうち、彼らは何となく、愛によって働く信仰を失い、肉の欲望に従っていました。甚だしくは教会に「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものが入ってきていました。」そこで、パウロは彼らのことを憂い、強く命じています。
もう一度16節をご一緒に読んでみましょう。「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」 
パウロはガラテヤの聖徒たちに「御霊によって歩みなさい」と勧めています。ここで「歩む」ということは隊列を組んで行進する用語です。司令官によって兵士たちが集まり、隊列を組んで一緒に行進することです。つまり、パウロはガラテヤの聖徒たちに「イエス・キリストの兵士として、戦士として隊列を組んで行進しなさい、司令官なる聖霊に導きに従って一緒に行進しなさい」と厳かに命じているのです。「そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」と断言しています。
肉の欲望を満足させるようなことは、隊列を組んでいる時よりもバラバラになっている所にあります。軍隊で見ると、事故を起こす人は、大体みんなと一緒に歩んでいる人ではありません。人にはそれぞれの事情があるでしょうが、一人だけの時間が長くなると、肉の欲望を満足させるようなことを考えます。大体恥ずかしいことはひとりだけいる時にするでしょう。人が見られないところ、ひとりだけいる所で変な雑誌を見るでしょう。淫乱なサイトをサーフィンすることもひとりだけのときでしょう。学校で見ると、生徒たちがみんな一緒にいる時には変なサイトを見ませんが、放課後に一人か、二人が残っている教室では変なサイトや漫画を見ている場合がよくあります。子どもたちも日曜日に教会に来ないでひとりでいると、肉の欲望を満たすようなことを考えます。今日、青少年犯罪の原因の一つは一人だけいる時間が多くなっていることです。
教会もみんなが隊列を組んで行進するような勢いで主のみわざに励んでいる時にはもっぱら霊的なことを求めます。そこには不品行も、汚れも、分裂、分派、ねたみなど、そういった類のものが入ってくる隙間がありません。ところが、個人のプライバシーだけが強調されてバラバラになると、霊的な力を失います。「人格的に、民主的に、自立的に」と言う言葉は良いことばですが、教会全体が一緒になって御霊によって歩むことより個人の立場やプライバシーなどが強調されると、そこに肉の欲望を満足させるようなことが起こります。心の焦点が教会に、神様のみわざにあるのではなく、自分のことにあるようになると、不品行、汚れ、好色、党派心、分裂のようなものが起こるのです。しかし、使徒の働きに出てくる初代教会は隊列を組んで行進する軍隊のようでした。彼が心を一つにし、御霊によって歩む時、肉の欲望を満足させるようなことはありませんでした。今日の教会も、彼らのようによく集まって、隊列を組んで祈り、聖霊に従って歩むなら、肉の欲望を満足させるようなことはありません。どうか、東京UBF教会が初代教会のようによく集まり、隊列を組んで祈り、聖霊によって歩むことができるように祈ります。私たちみんなが協力して御霊によって歩むと、肉の願い、肉の欲望に打ち勝ち、聖なる国民として御霊に導かれるようになります。
 17、18節をご覧ください。「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」ここで、パウロは私たちクリスチャンが御霊によって歩むなら、肉の欲望を満足させるようなことはない理由を教えています。確かに、人が自ら進んですべてのことを聖霊に委ね、聖霊によって歩むなら、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。ところが、疑い深い人間は、なかなか聖霊が自分の指導者、自分の司令官になれるように委ね切ることができません。聖霊は私たちのうちに住まわれ、私たちを導こうとしておられるのに、私たちは聖霊の導きに従っていないのです。そこで、クリスチャンたちの心の中から葛藤が起こります。もちろん、自由に、思いのままに生きようとするなら激しい葛藤もありません。それは自分の自然的な本性に従うからです。しかし、敬虔に生きようとする信仰の人には、葛藤があるのです。自分のしたいと思うことを行なわず、望まない悪を行なってしまうからです。ですから、クリスチャンはこの世に生きている限り、心の中で激動する葛藤を経験します。パウロもそのような経験をしていました。肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。しかし、イエス・キリストを信じる者は、心配しなくても良いです。クリスチャンは原則的にすでに肉の欲望に打ち勝っているからです。私たちはすでに勝利しました。肉の欲望を満足させようとする私はキリストとともに十字架につけられました。過去の私はキリストともに死んだのです。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自分をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです(2:20)。神様が、キリストにあって、私たちが肉の弱さのためにできなくなっていることを行なってくださいました。キリストが、その肉の姿において罪の処罰を受けてくださったのです。そして、私たちは、神様が行なってくださったこと、キリストが私のうちに生きておられることを、信仰を持って受けとめます。そのときに、私たちは聖霊に導かれます。私たちがキリストとともに十字架につけられたこと、罪に対して死んでいることを心から信じ、口で告白するなら、私たちは救われます。そして、私たちのうちにおられる御霊が私たちを導いてくださいます。私たちが信じるその信仰によって自分のうちにキリストが生きておられることを知ることができます。主がともにおられて、この私を導いておられることを意識することができるようになるのです。これが「御霊によって導かれる」ということです。すると、もはや私たちは律法の下にはいません。まだ、律法の下にいる人は、まだイエス・キリストを信じていない人です。
では、律法の下にいる人の生活はどうでしょうか。彼らは行ないの結果によって裁かれるからイライラしています。すぐ怒ります。頻繁に腹が立ち、破壊衝動が起こります。攻撃的になります。何でもかんでも律法によって裁かれるから、心の余裕を失います。あまりにも律法に干渉されるので生きていくのが嫌になります。この間、修養会の時、金ヨハネ宣教師のメッセージを通して律法さんと結婚した人の例えを聞いたのでしょう。律法さんの奥さんは本当につらい生活ですね。つらくて嫌なことが続くと、私たちの内側から罪の本性から自然に出てきます。実として結ばれるのではありません。もともとあるものが出てくるのです。そこで、パウロは「そういう肉の行いは明白です。」と言っています。具体的には「次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のもの」なのです。
これらを五つのグループに分けることができます。第一のグループは性欲にかかわる罪です。不品行、汚れ、好色がこのグループに属しています。これらは人間を汚くする、醜くするものです。第二のグループは宗教的な罪にかかわっています。偶像崇拝、魔術です。これらは人間が神様から離れるようにし、神様に対して罪を犯せます。第三のグループは個人的な憎しみです。敵意、争い、そねみ、憤りです。これらは隣人に対して罪を犯せます。自分自身も心の中で苦しむようになります。第四グループは社会的・集団的罪です。党派心、分裂、分派がこのグループです。これらは人々が互いに競い争うようにして教会、コイノニア会の霊的な交わりを破壊します。社会も滅ぼします。第五のグループは自制を失った罪です。このグループにはねたみ、酩酊、遊興が属しています。ここで、「酩酊」とは酒に酔うことであり、「遊興」とは宴楽、歓楽を意味します。これらはアルコール中毒とエイズなどを通して人の心も、体も病ませて滅ぼします。ですから、パウロはガラテヤの聖徒たちに繰り返して厳しく警告しています。
21節をご覧ください。「前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」とあります。パウロがガラテヤ教会を強く戒めていることは、ただ倫理的なことだけに留まっていません。「こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません」と断言しています。つまり、パウロはガラテヤ教会がかき乱され、惑わされ、ゆがめられた状態、憎しみと分裂・分派などの今のままの状態で、律法主義の下を進むならば、滅びるしかないと警告しているのです。肉の行ないは人間を醜くし、苦しめるだけではなく神の国を相続することもできなくなるようにするのです。肉の行jないから離れない限り、その人は心の中に、神の国の愛と平安、喜びがなくて苦しむだけではなく、やがて恐ろしいさばきを受けるようになります。それは明白なことです。パウロが「肉の行いは明白であって」、と言っているように、肉の行ないをしている者はこの世で地獄の苦しみを味わうだけではなく、新しい天、新しい地に入ることもできないのです。それは明白なことです。しかし、御霊によって歩む者はどうなりますか。

?.御霊の実(22?26)
22?23節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」肉の行ないが「行ない」と書かれているのに対して、御霊の実は「実」と書かれています。新共同訳によると、「御霊の実」とは「霊の結ぶ実」と訳されてあります。ここでの「実」とは御霊が結ばせてくださるものなのです。私たちの行ないは結ばれるものではなく、肉に属しているものです。別に種を蒔かなくても、努力しなくても、私たちは性欲にかかわる罪、偶像崇拝の罪、憎しみと、分裂・分派などの肉の働きをするのです。しかし、御霊の実とは結ばれるものです。もちろん、種を蒔かないところに実が結ばれることはありません。そして、蒔かれた種を育ってくださる方は聖霊なる神様です。?コリント3:6節を見ると「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」とあります。つまり、私たちが実を結ぶように成長させ、実らせてくださるお方は神様なのです。
私たち人間の心は畑のようなものです。良い種が蒔かれると、良い実を結びます。同じ畑でも林檎の種を蒔くと、林檎という実を結び、蜜柑の種を蒔くと蜜柑の実が結ばれます。私たちの心に神様の御言葉が蒔かれると、聖霊の実を結ぶようになります。私たちが「御霊によって歩む」ということは、私たちの心の中に、私たちの生活の中に御言葉の種を蒔き、植えることです。コロサイ3:16、17節を開いてみてください。「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」ることが勧められています。肉の欲望、罪への誘惑、世の快楽への絶えざる関心と興味が心の中を満たしてしまわないように、キリストのことばをたくさん、大量に入れていく必要があります。罪を犯して人生の苦さ、辛さを味わう前に、キリストの御言葉の甘さ、御言葉の面白さを知る必要があるのです。実は、御言葉は蜜よりも甘く、面白いものです。賛美歌も面白いです。感謝にあふれて心から神様に向かって歌ってみてください。どんなことでも神様に向かって祈ってみてください。本当に賛美も、祈りも面白いものです。御言葉を学び、賛美歌を歌い、祈りをささげる、この三つのことは、私たちが教会や家庭で、いつも、いつもしていることです。今日もしています。今もしています。明日もするでしょう。これからもずっとずっとするでしょう。毎日、楽しく面白くやって行きましょう。毎日、日ごとの糧を通してキリストの御言葉を、私たちのうちに住まわせ、賛美歌を歌い、祈りをささげましょう。そうすると、私たちは聖霊に導かれるようになります。御霊によって歩む人生となります。すると、おのずから御霊の実が結ばれます。この実は聖霊ご自身が結んでくださる果実、フルーツです。
もう一度22、23節をご覧ください。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」これらの実は三つのグループに分けることができます。第一に一般的な実として愛、喜びと平安です。私たちが御霊によって歩むと、神様と人に対する愛の実が結ばれ、神様が与えてくださる喜びと平安を所有するようになります。過去、不平不満に満ちていた人が神様を愛し、喜びながら人々に仕えるPeace Makerになります。第二に、社会に対する実として寛容、親切、善意の実が結ばれます。自分自身のことさえ、赦すことができなかった者が聖霊に働きによってどんな人にも寛容であり、親切に仕えることができるようになります。第三に、自分に対する実として誠実、柔和、自制の実を結びます。誠実さというのは何をしても忠実に取り組むことです。柔和とは短気な人でも抱いて仕えることができる内面性です。自制とは神様の栄光のために罪の自分の治めることができる力です。私たちが楽しく御言葉を学び、賛美し、祈っていくうちに、こんなにすばらしい実が結ばれてくるのです。日々肉の行ないのために滅びるしかない私たちがこんなにすばらしい実を結ぶことができるようになったのは、本当に驚くべき恵みです。私たちがこんなにすばらしい恵みを受けているのは、ただ、キリストのイエスについているからです。何か業績があるからでもなく、資格や実力があって与えられたものでもありません。すべては、ただ、キリスト・イエスを信じる信仰によってキリスト・イエスについているからです。
24?26節をご覧ください。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。」とあります。パウロは私たちに、「自分はキリストとともに十字架につけられ、死んでしまった者だと思いなさい。」と言っています。だれでもキリストにある者は、新しく造られた者です。古いものは過ぎ去りました。このことに立ち戻ってください。御霊によって生まれ変わったのですから、さまざまの情欲や欲望に縛られないで御霊によって歩みましょう、と言っています。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。と言っています。「割礼を受けたか、受けなかった」「宣教師の資格があるのか、ないのか」「教会の決まりを守っているのか、守っていないのか」ということで高ぶったり、見下げたりすることは虚栄です。人に栄光が与えられるために、そのようなことを行なうのです。私たちはそういう律法的な価値観の奴隷になってはなりません。律法を守ることによって肉の行ないを取り除くことはできません。御霊によって歩む時、私たちは御霊の実を結び、その実によって律法を全うすることもできます。

結論的に、豊かな神様の恵みによって、律法の下にあった過去の私たちはキリストの十字架の死とともに死んでしまいました。肉の欲望、さまざまの情欲の奴隷になっていた私はイエス・キリストの十字架の死とともに死んでしまったのです。今はよみがえられたキリスト、聖霊が私のうちに住んでおられます。そして、聖霊を豊かに住まわせることは私自身です。悔い改めて、きよい心を持つとき、聖い御霊が私たちのうちに力強く働いていくださいます。そのために、私にできることは、私のうちにキリストの御言葉を植えることです。自分の中にキリストの言葉を、たくさん詰め込むのです。喜んで楽しんで、御言葉を読み、讃美歌を歌い、祈る、それが御霊によって歩むことです。すると、私たちの人生は豊かな御霊の実を結ぶようになります。実りの季節、この秋に、私たちのうちにも豊かな御霊の実が結ばれるように祈ります。

05-07GAL キリストの律法を全うしなさい

2005年ガラテヤ人への手紙第7講 

キリストの律法を全うしなさい

御言葉:ガラテヤ6:1-18
要 節:ガラテヤ6:2「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」

 ガラテヤ人への手紙の最後の章になりました。去る二ヶ月間、ガラテヤ人への手紙の御言葉を通して「信仰の義の福音」を明らかにし、「信仰の自由の福音」を守るように導いてくださった主の恵みを感謝します。パウロは、先週の御言葉で「御霊によって歩みなさい(16)」と言いました。「御霊によって歩む」と言うことは、隊列を組んで行進するということです。ところが、行進していく中で落後する人が出てきた時にはどうするべきでしょうか。御霊に歩んでいく仲間の中で、だれかがあやまちに陥ったらどうすればいいでしょうか。また、私たち自身は、ガラテヤ人への手紙を通して学んだ福音真理に対してどんな態度を持って生きるべきでしょうか。本文の御言葉を通してクリスチャンとして実際生活を守る生活ができるように祈ります。

?.善を行なうのに飽いてはいけません(1?10)
1節を読んでみましょう。「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」私たちクリスチャンは、御霊によって歩み、御霊の実を結ぶことを望んでいます。でも、願わずにあやまちに陥ってしまう場合もあるでしょう。よくあやまちに陥ってしまう人と一緒に生活をしなければならない時もあります。では、人のあやまちに対して、自分のことに対してどうするべきでしょうか。パウロは、まず「御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい」と命じています。大体、私たち人間は、自分に対しては甘くても人に対しては厳しいものです。人のあやまちに対しては口がうるさくなります。実際に正すことはできないくせに、陰口で言うことはよくするのです。それで、週刊誌とか、新聞の社会面にはスキャンダルとか、政治家の汚職、詐欺事件、盗難事件、殺人事件など人のあやまちに関する記事がほとんどです。人々はそういう記事を読んで人のあやまちを口にしてさばきます。しかし、御霊の人であるクリスチャンは、柔和な心であやまちに陥った人を正してあげなければなりません。ここで、パウロはガラテヤ教会に対して「御霊の人であるあなたがた」と言っています。「ああ、愚かなガラテヤ人たち。」と嘆いたパウロですが、ここでは同じ教会に対して「御霊の人であるあなたがた」と言っているのです。と言うのはガラテヤの聖徒たちが「御霊の人である」自覚を持って行動することを願ったからでしょう。私たちは自分に対して「こんな者だからしようがない。」と思わないで「御霊の人である」という自覚を持って振る舞う必要があります。「御霊の人」とは聖霊が留まっている人で、クリスチャンのことです。クリスチャンは普通の人間のように歩いてはいけません。常に人に関心を持って愛し、助ける必要があります。そして、あやまちに陥った人に対して無関心であってはなりません。自分のうちに住まわれる御霊に頼り、勇気を持って柔和な心で人を正してあげるべきです。人を正すことはやさしくありません。正すと、切れてしまう人もあるからです。それでも、教会は、柔和な心であやまちに陥った人を正す積極的な愛を実践しなければならないのです。そして、人を助け、人を正す人は、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなければなりません。自分も全く同じ罪を十分に犯してしまうような者だと知って恐れおののかなければなりません。神様の御前に、謙虚になって、「罪人のかしら」出身であることを忘れず、自分の肉の弱さのために神様の助けを祈り求める必要があるのです。
どうか、私たちが謙虚な心を持って自分を顧みながら悔い改め、あやまちのある人を正すこともできる霊的な人として成長することができるように祈ります。特に人を正すとき、主からの励ましとあわれみの言葉で助けることができるように祈ります。では人を具体的に助けるということは何でしょうか。
2節をご一緒に読んでみましょう。「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」「互いに重荷を負いなさい」と言っています。「重荷」とはあやまちの結果である重圧、緊張、のしかかる不安と恐れのことです。つまり、重荷を負い合うということは、人の悩み、のしかかる不安と恐れなどを理解し、負い合うことです。重荷を負い合ってくれる人によって重荷を負っている人は、慰められ、安らぎを得るようになります。
今年、四月、私は弟が交通事故で亡くなった夜、落ち着かず、兄としての悲しみと重荷を負っている時、家に来てくださったり、電話をかけてくださったりする方たちによって大きな慰めを得ました。重荷を負い合ってくださる方たちによって悲しみの心、傷ついた心は、少しずつ癒されてきました。本当に重荷を負い合うことは律法の教えにまさるものです。いくら正しい律法を語り合っても、重荷を負い合うことがなければ、そこには命も、力もありません。しかし、互いに重荷を負い合うところには慰めと激励があって、心が癒され、いのちが生かされるみわざが起こります。特に互いに謙虚な心を持って重荷を負い合う人たちが集まる教会は、生きた教会です。そこで、新しい創造のみわざが起こります。神様を愛し、隣人愛する律法を全うする教会になります。しかし、互いに重荷を負い合うのではなく、自分のことばかり主張するような教会は、どうなるでしょうか。人々が疲れてしまうでしょう。家でも同じことが言えるでしょう。何でも口出しをし、自分のことばかり言っている人の前では疲れてしまうでしょう。りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思う人たちと付き合うことは疲れることです。高慢な人とは話し合うことだけでも疲れるでしょう。ですから、私たちは自分自身がりっぱでもないのに、何かりっぱでもあるかのように思うことがないように気をつけなければなりません。
私たちはたまに、人を驚かせるようなりっぱなことをすることができます。一時的には自分のすべてをささげて献身的に兄弟姉妹たちに仕えることもできます。キャンパス伝道と1:1もできます。ちょっと努力すれば、りっぱな牧者だとか、りっぱな宣教師だと認められることもできます。しかし、持続的に善を行ない、伝道し続けることはなかなか難しいでしょう。ところが、一時的にやったことで自分には何か良いものがあるといううぬぼれた思いが出てきます。りっぱでもあるかのように思うのです。そうなると、互いに重荷を負い合い、愛を持って仕え合うことができなくなります。ですから、私たちはおのおの自分の行ないをよく調べてみる必要があります。よく考えてみると、あんな弱い部分がある、こんな醜い部分がある、あんな失敗をしている、などなど、引き出したら、いくらでもごみが私たちの生活から出てきます。このことを思うと、自分がりっぱであると思っていたことが、他の人には到底誇ることはできないということがよく分かるのです。ですから、霊的な人は、自分の行ないをよく調べてみる生活に励みます。御言葉の黙想、所感、日記などを通して真実な自分の姿を発見して悔い改め、へりくだる生活に励むのです。すると、人のあやまちよりも自分の負うべき使命が見えてきます。それで、自らを省みる生活がよくできている人は人のことを言う前に黙々と自分の使命を担います。
5節をご覧ください。「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」とあります。ここの「重荷」と、2節の「互いの重荷」の重荷(βάρςバロス)とは違います。2節の重荷は、まさに人の人生の重荷になることを意味していますが、5節の重荷(φορτίονポルティオン)とは自分に与えられた任務、責任、義務を表わすことばです。私たちは、それぞれ神様から任された任務、責任があると言うことです。自分の負うべき責任を負わなければ、結局、それは他人の重荷となります。ですから、自分のやるべきことを行なうことが大切なのです。主の恵みに基づいて神様から任された任務をしっかり果たしていくことができるように祈ります。
6節をご覧ください。「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。」とあります。「教える」という役割を受けているものがいて、「教えられる」という役割を受けている人もいます。御言葉を教える人はよく準備して教える必要があるし、教えられる人は教える人に感謝を表わす必要があります。ところが、ガラテヤ教会では御言葉を教える人をあまり尊く思っていなかったようです。牧者は誕生日のプレゼントをしたり、食事をおごったりしても羊の方はあまりお返しをしていなかったようです。そこで、パウロは物質的なもの、霊的なもの、精神的なものなど、良いものを分け合うように勧めています。私たちがすべての良いものを分け合う生活をすると、神様がごらんになり、祝福してくださいます。
 7節をご覧ください。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」とあります。神様は侮られるような方ではありません。私たちは御言葉を教えるために涙を持って祈り、マンツーマンノートを準備し、フィッシングのために励んでいてもなかなか伝道の実、弟子養成の実が結ばれないと落胆しやすいです。私はUBF新聞に載せられたヨーロッパ国際修養会、CIS国際修養会のことを通して恵みを受けながらも日本の支部長として劣等感を感じる時もありました。しかし、神様は侮られるような方ではありません。御言葉の種を蒔けば、実を結び、刈り取る時が来ます。問題は御言葉を教えるために立てられた牧者として、宣教師として御言葉を教えているかどうかということです。神様は御言葉を教える人の祈りと努力も、教えられた人が良いものを分け合うことも、全部知っていて報いてくださいます。それだけではありません。
8節をご覧ください。「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」とあります。私たちが自分のことしか考えず、自分の腹のためだけに財産を用いるのであれば、それにふさわしい報いを受けます。ルカ17:27-29節を見ると「ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。」とあります。自分の肉のために蒔く者は、ノア時代の人やソドムの人たちのように滅ぼされてしまうのです。しかし、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取ります。御霊に歩み、御言葉に取り組んでいれば、必ず豊かないのちにあずかるようになります。ローマ2:7節を見ると「忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、」とあります。ここで、私たちは何を求めるか大切であることを学ぶことができます。私たちが、くだらないテレビ番組を見つづけて、それで霊的に成長しようと考えるのは間違っていると思います。しかし、この時代を理解し、御言葉をよく教えるためにふさわしい番組を見ることは良いことでしょう。食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていることが悪いのではなく、何ためにしているのか、それが重要なことです。目的が神様のためなのか、自分の肉のためなのかということが大切なのです。1:1をしても自分の栄光のために、教会で認められるためにするなら、それは肉から滅びを刈り取るようになります。しかし、伝道のために、羊の永遠のいのちのために映画を見たり、バスケットボールをやったりするなら御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。ですから、私たちは頻繁に、毎日、御言葉に照らして自分の内面を調べてみる必要があります。神様の御前に生きる時、何を求めているかが大切なことだからです。御霊の人である私たちは、常に、栄光と誉れと不滅のものを求め、御霊のために蒔く者として生きなければなりません。ところが、一時的ではなく、全生涯を上げて御霊のために蒔くことはやさしくありません。堕落しているこの世に生きている限り、御霊によって歩み続けることはなかなか難しいのです。それで、使徒パウロは言っています。
9節をご一緒に読んでみましょう。「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」善を行なうことはすばらしいことです。悪を行ないたいと思っている人はいないでしょう。だれも善を行なうことを望んでいると思います。ところが、善を行い続けることはなかなか難しいことです。もともと、良いことは難しいでしょう。肉の命を助ける医者の仕事も良い仕事だから医者になることも、医者として人を治療することも難しいものです。永遠のいのちを与える牧者の仕事は言うまでもありません。とても大切な仕事だから難しいのです。特に、御霊のために蒔いても、その結果がすぐに見えるとは限りません。時間がかかります。だから、忍耐が必要です。そこでパウロは、善を行なうのに飽いてはならない。失望せずに、行ない続けなさい、と言っています。遅くても、必ず実を結ぶのです。ただ、日本のクリスチャンには、特に忍耐が求められるかも知れません。目に見えるかたちではなかなか現われない宣教だからです。しかし、これが無駄に終わることはありません。必ず刈り取る時期が来ます。涙とともに種を蒔く者は喜びながら刈り取るのです。
ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう(10)。私たちはすべての人に対して善を行なうことが必要ですが、特に信仰の家族に行なわなければなりません。困っている人、私たちの助けが必要な人が、この東京には何万人もいるでしょうが、まず自分たちの中で困っている人を助けなければなりません。まず、私たち家族で助け合っていく、これがクリスチャンの原則です。

?.大事なのは新しい創造です(11?18)
11節をご覧ください。「ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています。」とあります。パウロは代筆者に彼の口述を筆記させました(ローマ16:22)。それは、パウロの体が衰え、目が悪くなっていたからだと言われます。でも最後の結びの言葉を自分で書きました。不自由な手であっても、超重要な事項は激しく揺れ動く心情で書いたのです。
12?13節を読んでみましょう。「あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。」
ガラテヤの聖徒たちの中に旧約聖書の教えに従って割礼を受けなくてはいけないと教える人がいました。パウロはこの教えに対して、間違っていると反対しました。なぜなら、割礼を受けた人たちは、律法を守ろうとする純粋な動機から割礼を受けたのではなかったからです。彼らは、キリストを知らないユダヤ人の不信者に認めてもらうため、ただそれだけのために割礼を受けさせました。割礼を受けさせることによって、敬虔そうで、献身的そうで、信仰深そうな厳しさを打ち出そうしたのです。律法を大切にしているからではありませんでした。ただ、自分たちの肉を誇りたいために割礼を強制したのです。しかし、パウロはどうですか。
14節をご一緒に読んでみましょう。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」パウロは「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」と断言しています。彼はだれよりも十字架の恵みを深く知っていました。彼がイエス様に出会う前は、だれよりもイエス様とその聖徒たちを迫害していました。彼のキリスト教会に対する猛烈な態度は気の狂った犬のようでした。彼は自分自身のことが罪人のかしらであったと告白しています(?テモテ1:15)。実に彼は燃える地獄の池に投げ捨てられるべき罪人のかしらでした。ところが、イエス様の十字架の恵みによって彼は新しく生まれ変わりました。十字架の恵みによって罪人のかしらから世界の歴史の流れを変えてしまう大使徒になりました。ですから、何が大事なことでしょうか。
15節をご一緒に読んでみましょう。「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」 新しい創造、つまり、御霊によって新しく生まれることです「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(?コリント5:17) イエス・キリストによって私たちに新しい創造が起こっています。これは奇跡です。割礼、学歴、地位などが問題ではなく、イエス・キリストの十字架による、新しい創造こそが大事なのです。これが、パウロがガラテヤ3章、4章で論じていた、信仰によるアブラハムの子孫ということです。神様によって新しくされたこの歩みが大事なのです。割礼という外の傷は大事なことではありません。私たちが、外見のことを大事にすることが、どれだけたくさんあることでしょうか。教団・教派、何々神学、年齢、牧師・信徒、聖霊派・福音派など、数え出したら切りがありません。私自身も、UBFの宣教師であることを誇りとして思っています。しかし、私がUBF宣教師であること、牧師であることが大事なことではありません。大事なのは、イエス・キリストの十字架によって過去の私は死に、よみがえられたイエス様とともに生かされていることです。イエス・キリストの十字架、それによって私たちは救われました。十字架によってすべてが新しくなりました。この新しい創造が大事なのです。私たちはただ、「キリストにあって、新しく創造された神の子どもである。」という真理を保っていかなければならないのです。
 16―17節をご覧ください。「どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、兄弟たちよ、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。」パウロは、最後の挨拶の中で、イエス・キリストの十字架によって新しく生まれた自分の身に焼印を帯びていることを告白しています。当時、囚人や奴隷に自分のものだというしるしとしての焼印を帯びていました。パウロはキリストの奴隷としてその身に、キリストの焼印を帯びていたのです。実際に、彼の体はあざだらけ、傷だらけでした。これはパウロがキリスト者であることのしるしであり、パウロのようではなくても、クリスチャンすべてのしるしなのです。パウロはイエス様の奴隷であることを誇りとしています。

結論的に、ガラテヤ人への手紙の学びは終わりますが、これからの生活が、律法的なこと、形式的なことを捨てて、ただ、福音真理の上に堅く立って生きるように祈ります。善を行なうことをあきらめないで、福音の種を蒔き続けるように祈ります。特に、割礼を受ける、受けないという外面的なことよりも、イエス・キリストの十字架によって日々新しく創造されて行くことができるように祈ります。