2000年マルコの福音書第5講

 

罪人を招くために来たのです

 

御言葉:マルコの福音書2:13?22

要 節:マルコの福音書2:17

「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、

病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』」

 

 先週、私たちは、イエス様が中風の人に「あなたの罪は赦されました。」と宣告し、彼を歩かせた出来事を学びました。その出来事を通してイエス様はご自分が罪を赦す権威を持っておられることを明らかにされました。今日の御言葉はイエス様が取税人レビを召してくださる出来事が記されています。イエス様は当時公認された罪人である取税人を弟子として召されました。この出来事は当時の伝統と価値観をくつがえすような革命的な事件でした。この出来事を通して、イエス様はご自分が罪人を招くために来られたことを教えてくださいました。それでは取税人レビはどんな点で罪人であり、彼を弟子として召されたイエス様はどんな方でしょうか。この時間、罪人を招くために来られたイエス様の御前に出て行き、罪が赦され、健全な信仰生活を送ることができるように祈ります。

 

?.レビを召されたイエス様(13-17)

 

13節をご覧下さい。イエス様は中風の人の罪を赦してから狭い家から出て涼しい湖のほとりに行かれました。すると群衆がみな、みもとにやって来ました。イエス様はそこで彼らのために神の国の福音を教えられました。

14節をご覧下さい。イエス様は、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所に座っているのをご覧になりました。群衆はみな、イエス様のみもとに出て行ったにもかかわらず、レビはその仲間に入ることができず、ひとりで寂しく収税所に残っていました。レビは取税人でした。当時ユダヤはローマの植民地でしたが、取税人はローマ帝国の税金を徴収する人でした。彼らは実際に国家会計に納めるものより多くのものを徴収することによって一般の人々から、強奪者と呼ばれ、嫌悪の的になっていました。外国のために同胞から重税を集めるために憎まれ、ユダヤ人社会の仲間入りを許されず、友人となることさえも嫌がられました。彼らは当時遊女達とともに罪人として公認された者達でした。特に敬虔なパリサイ人達は取税人を人間とも扱わず、彼らと一緒に食事をすることは嫌悪すべきことであり、大きな罪を犯すことだと思っていました。

それではなぜレビはみなに嫌われている取税人になったのでしょうか。その理由はよくわかりませんが、彼には彼なりの事情があったと思います。彼の両親は彼が神様をよく信じ、神様の栄光のために生きることを願ってレビという名前をつけました。彼は子供の時からモーセの五書を学び、十戒を覚えたでしょう。旧約聖書に現われている神様の愛と大いなる力について聞きながら成長しました。食事の時にはお父さんが「今日も日ごとの糧を与えてくださり感謝します。」と祈ると、「アーメン」と答えました。ところが、彼は成長しながら神様に対する信仰が揺れ始めました。選民イスラエルがローマの植民地となって圧政されていることを見ながら神様の存在について疑いが生じました。神様が生きておられるならなぜ自分の民がこれほど苦しまなければならないのかと思いました。すると、次第に神様に対する反発心が生じました。御言葉に従って生きる人は敗北者のように思われました。そこで、彼は神様から離れて行くことを決心しました。彼は神様の御言葉に従ってきよく、正しく生きることは理想にすぎないと思いました。そして「現実は現実。現実の世界ではお金が神だ。お金が全てだ。」と思い、金を儲ける決心をしました。ところが、植民地の人が金持ちになる道は非常に狭い道でした。彼は金持ちになるために何でもやると思い、みなに嫌われている取税人になりました。そのためには彼は利己的になり、貧しい人を哀れむ心も、同胞も捨てなければなりませんでした。彼はユダヤ人としてのアイデンティティも、選民意識も捨てました。徹底して世俗的な者になりました。結局彼は公認された罪人になりました。彼は多くのものを手に入れたと思いましたが、実はもっと多くのものを失っていました。同胞を失い、友人を失い、良心を失い、自分の本来の人生の意味や目的を失いました。彼は罪によって孤独な人生を送っていました。彼はやっと利己心が自分を破滅の道に導いていることがわかりました。しかし、もう彼は自分の力ではそのような取税人の生活から逃れることができなくなりました。彼は群衆がイエス様の御言葉を聞くために湖のほとりに行く時にも孤独と空しさと罪意識で苦しみながら収税所に座っていました。彼には誰かの助けが必要でした。

イエス様はこのようなレビをご覧になりました。レビのうわべではなく、彼の心をご覧になりました。利己心、孤独、空しさ、罪意識によってさまよっている一匹の羊をご覧になりました。そして、イエス様は彼を哀れんでくださいました。人々はレビを見ると、彼を裁き、罪に定めましたが、イエス様は彼を深く哀れみ、彼に深い関心を示されたのです。そして、彼に言われました。「わたしについて来なさい。」このイエス様の御言葉は何を意味しているのでしょうか。

第一に、この御言葉は罪を赦してくださるという約束の御言葉です。「わたしについて来なさい。」この御言葉は彼がどんな罪を犯したとしてもイエス様について来るなら赦してくださるという約束の御言葉です。レビは今まで利己心のゆえに多くの人々を苦しめました。ところが、イエス様はこのような彼を罪に定められませんでした。イエス様は彼を迎え入れ、彼のとがと罪を赦してくださると約束してくださいました。

第二に、新しい人生の方向となる御言葉です。彼は今までお金について来ました。金になることなら何でもしました。同胞から何と言われてもまるで鬼のように税金を取り立てました。そのような彼にイエス様の弟子になる見込みは全く見えませんでした。お金ばかり考えている彼がどうやって、人のために、また、神様のために自分を犠牲にするイエス様の弟子になることができるのでしょうか。しかし、イエス様はこのような彼からも大きな可能性を見出し、新しい人生の方向を与えてくださいました。「Fellow money」から「Fellow Jesus」へ人生の方向を変えるようにしてくださいました。人がどんな人生の方向を持っているかはとても大切なことです。その方向によって彼の人格が形成され、彼の人生が決定されます。取税人レビは、能力は多くあったものの、人生の方向が間違っていました。このようなレビにイエス様は、「わたしについて来なさい。」と言われ、彼を弟子として召されました。とても利己的な彼を弟子として召されることはやさしいことではありません。しかし、イエス様は期待をもって召されました。レビはイエス様の期待とおりにマタイの福音書の著者、セイントマタイになりました。罪人の代名詞であった彼が罪人達の牧者になりました。皆に嫌われていた彼がみなに愛される人になりました。彼は今まで自分の机の上に「金持ちは幸いです。」と書いて置いた人生の座標をはがして「心の貧しい者は幸いです。」と新しく書いて貼っておきました。

それではイエス様から「わたしについて来なさい。」と声をかけられた時、レビの反応はどうでしたか。彼は立ち上がってイエス様に従いました。自分に「わたしについて来なさい。」と一声かけられただけですぐその召しに従ったのは、彼にとっては人生で最大の決断でした。彼は罪悪の生活を捨ててイエス様に従う決断をしました。イエス様を全幅的に信頼し、すべてのことを主に委ねました。黙示録3:20節を見ると、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」とあります。イエス様は私のところに来られて心の戸をたたいておられます。ところが、この心の戸は内側から鍵がかかっているので外側からは開けることができません。心の戸は自分だけが開けることができます。イエス様がレビの心の戸をたたかれた時、レビはすぐに心の戸を開けてイエス様を迎え入れました。彼にはイエス様に対する信仰と勇気がありました。

レビが立ち上がってイエス様に従った時、彼の内面に驚くべき変化が起こりました。彼には今まで味わうことができなかった喜びと平和が満ち溢れました。彼はイエス・キリストにあって新しく造られた者となりました。15節をご覧ください。「それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大勢、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大勢いて、イエスに従っていたのである。」レビは心から湧いて来る喜びのゆえに宴会を開きました。そして、その宴会に同僚の取税人や罪人たちを大勢招きました。レビはイエス様に出会った喜びを仲間の取税人や罪人達と分かち合いたいと思ったでしょう。ユダヤ社会から疎外された状態にある彼らのつらさや切なさを知っていたレビは、彼らにも自分を変えて下さったイエス様に接する機会を与えてやりたいと思っていたに違いありません。人はイエス様の招きを受け、罪の赦しとその確信を与えられた時から、新しい人生が始まり、キリストを他の人々にも紹介したいという願いを自発的に持つようになります。レビの家では天国の宴会が開かれました。そこでイエス様はメッセージを伝え、レビは代表所感を発表しました。タイトルは「Fellow moneyの人生からFellow Jesusの人生へ」でした。他の弟子達は取税人レビの弟子としての仲間入りを祝う賛美をしました。「罪をば犯して神に背き敵とう我さえなお愛したもうー」他の取税人や罪人達は180度変わったレビを見て驚くばかりでした。彼の変化は他の取税人や罪人達の関心をイエス様に向けさせました。そして、大勢の罪人がイエス様に導かれるようになりました。

ところが、この愛の宴会が盛り上がっていた時、パリサイ派の律法学者たちは、イエス様が罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエス様の弟子たちにこう言いました。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」当時のレビ達は取税人や罪人とともに食事をしないように教えました。彼らは罪人をさげすみ、自分は義人であると思っていました。彼らは罪人を遠ざけ、罪に定めました。彼らには他人に対する理解や愛がありませんでした。事実取税人や罪人とともにすることはやさしいことではありません。取税人はとても利己的です。自分のことしか考えません。このような人と付き合うのは負担があります。彼らは集まったらお金のことばかり話題にします。しかし、イエス様はこのような彼らとともに食事をされました。彼らに仕えてくださいました。彼らが自分達のつらさや苦しみを言い出す時、それに耳を傾けて真剣に聞いてくださいました。イエス様は彼らの友となられました。彼らを心から愛してくださいました。イエス様は、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じ様になられました(ピリピ2:6、7)。イエス様は人となって私達の間に住まわれました(ヨハネ1:14)。マタイは友となられるイエス様を深く悟り、マタイの福音書の最初の部分で「神は私達とともにおられる。すなわちインマヌエル」と言いました。また最後の部分では「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)というイエス様の約束の御言葉を記録しました。

それではイエス様はなぜ罪人たちとともにおられますか。17節を御一緒に読んでみましょう。「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』」この御言葉から私達はイエス様について大切な真理を学ぶことができます。

第一に、イエス様は人々を病んでいる病人としてご覧になりました。イエス様は罪人を癒す霊的な医者としてこの世に来られました。神様から離れた人間はだれでも病んでいる罪人です。医者は病人に「あなたはなぜそんな病気にかかって私を煩わせるのですか」ととがめません。医者は病人を自分の助けが必要な人だと思い、どうしても助けて癒してあげようとします。病人に医者が必要であるように罪人に霊的な医者が必要です。ところが、病んでいるのに自分は健康だと思い違いをしていたり、病気だと言われるのは自尊心が許されなかったりして、多くの人々がたった一度の自分の貴重な人生を浪費しています。まるで不治の病にかかっている人がその事実を知らずに「私は丈夫です。」と言っていることと同じです。しかし、確かなことは自分が知らなくてもそのまま放置していると必ず死ぬと言うことです。自分が病人、すなわち罪人ではないと思うと癒されることができず、死ぬしかありません。私達は自分が霊的に病んでいること、すなわち、罪人であることを知るためには鏡のような神様の御言葉に自分を照らして見なければなりません。そのようにする時、自分がなぜ罪人であるかがわかります。罪人には救い主が必要です。イエス様は罪人の救い主としてこの世に来られました。

第二に、イエス様は罪人を招くために来られました。イエス様は中風の人を招かれました。そして彼の罪をお赦しになり、自立的な人生を過ごすように助けてくださいました。イエス様は利己心によって病んでいるレビを招かれ、弟子としてくださいました。もしイエス様が正しい人を招くために来られたなら、中風の人やレビのような人を招くはずがありません。イエス様が罪人を招くために来られたからこそ私のような罪人も救われました。ある人は自分の罪が多くあるから少し整理して行こうとします。しかしそのような人はイエス様が正しい人を招くために来られたと誤解している人です。イエス様は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来られました。

第三に、イエス様の哀れみです。イエス様が取税人達を赦し、彼らとともに食事をされたのは、罪人に向けられた大きな哀れみのゆえです。取税人レビは罪のためにいたんだ葦のようで、くすぶる燈心のようでした。世の人々はいたんだ葦は役に立たないと言って折ってしまいます。くすぶる燈心は消してしまいます。しかし、イエス様はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない哀れみ深い方です。このキリストの哀れみによって取税人レビは生かされました。くすぶる燈心のような彼の人生は世の光となり、すばらしいイエス様の弟子、セイントマタイになりました。イエス様の哀れみによってみなに嫌われていた彼の人生は、2000年の年月が経った今もなお世界中の人々から愛される人生に変わりました。罪人招くために来られ、私達を罪から救ってくださる哀れみ深いイエス様を心から賛美します。

 

?.新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです(18-22)

 

18節をご覧ください。ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていました。そして、イエス様のもとに来て言いました。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」ユダヤの宗教では、一年を通じてただ一日だけ強制された断食の日がありました。それは贖罪の日でした。しかし厳格なユダヤ人たちは毎週二日、月曜日と木曜日に断食しました。それは午前六時から午後六時まで続きましたが、その後には普通の食事をとることができました。彼らは断食日に顔を白くし、またよごれた衣服を着て外に出、彼らが断食していることを誰にも見落されないようにし、またすべての人が見て、彼らの信仰を敬うようにしました。

イエス様はこのような彼らに向かって、なぜイエス様の弟子達は断食することができないのか、を言われました。19、20節をご覧ください。「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。」ユダヤでは結婚式の後で、二人が新婚旅行に出かける風習はありませんでした。彼らは家にとどまりました。一週間ばかり家が解放されていて、祝宴や喜びが続きました。はげしい労働の生涯で、結婚の週は人の生涯の中で最も楽しい週でした。この幸せの週には、花嫁と花婿の親しい友人達が招かれて来ていました。そして、彼らは婚礼の式場の子供たちという名で呼ばれていました。結婚式の客達は、実際、すべての断食から除外されていました。イエス様が御自分を花婿に、弟子達を花婿に付き添う友達にたとえられたのにはどんな意味があるのでしょうか。それは信仰生活の性格を表しています。信仰生活は形式と規則に縛られた生活ではありません。禁欲生活でもありません。信仰生活は結婚式の祝宴のように喜びがある生活です。この喜びの源は花婿なるイエス様です。人は花婿であるイエス様に出会い、イエス様と交わる時に真に喜ぶことができます。人生に対するキリスト教の特徴は喜びです。イエス・キリストの発見と、キリストとの交わりが喜びと幸福の鍵なのです。

ところが花婿であるイエス様が奪い去られる日には断食しなければなりません。断食の目的は人に見せるためではなく、神様との関係性を新しくして主に近づくためです。私達は罪のゆえにイエス様との交わりがなくなったり、イエス様が自分の心から離れた時には断食する必要があります。また、信仰生活に喜びがない人は花婿であるイエス様を迎え入れるために断食しなければなりません。

21、22節をご覧ください。「だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」新しい布切れで古い着物の継ぎをすると、衣服が雨に濡れたときには、新しい継ぎ布は縮んでしまいます。そして、それは古い布よりもずっと強いので、古い布を引き裂いてしまいます。また、パレスチナでは、ぶどう酒は皮袋に入れられました。これらの皮が新しい時には、ある程度の弾力を持っています。新しいぶどう酒はなお発酵しており、ガスを発生します。これらのガスが圧力の原因になります。もし皮袋が新しければ、その圧力に耐えることができますが、もしそれが古く、硬く乾いておれば、それは破裂し、ぶどう酒も皮袋も共に失われてしまいます。

ここで真新しい布切れと新しいぶどう酒はイエス様とイエス様の教え、すなわち、福音を指します。そして古い布と古い皮袋は、先祖たちの言い伝えやユダヤ教の伝統を指します。イエス様が福音を真新しい布切れや新しいぶどう酒にたとえられたのは、福音は質的に新しく力があり、新鮮なものであるからです。福音は罪人を新しく生まれさせる力があります。ローマ人への手紙1:16でパウロは次のように言いました。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」この福音の力によって中風の人は罪が赦され、起きて歩くようになりました。この福音の力によって人々に嫌われていた取税人レビがセイントマタイに生まれ変わりました。

イエス様は新しいぶどう酒です。私達が新しいぶどう酒であるイエス様を受け入れるためには新しい皮袋にならなければなりません。私達の体は歳を取るにつれて段々古くなります。ですから新しい皮袋は体ではなく心を意味します。新しい皮袋になるとは心が新しくなることを意味します。それでは私達はどのようにすれば新しい皮袋になることができるのでしょうか。それは神様の御前で真実に自分の罪を悔い改めることによってです。また、絶えず学ぼうとする謙遜な心を持っている時、新しくなります。ピアニストにとって一番危険なのは練習が足りなくて指が硬くなってしまうことです。信仰生活においても同じです。ですから、パリサイ人のように古い皮袋にならないように注意しなければなりません。古い皮袋になる原因に高慢と安逸があります。高慢な人は学ぼうとしません。学ぼうとしないので成長できず、古い皮袋になってしまいます。また、安逸を愛する心も古い皮袋になる原因になります。安逸とは十字架を負うことを避けて楽な信仰生活をしようとする心です。人は十字架がなければもっと信仰生活が楽になると思います。しかし、積極的に十字架を愛し、十字架を負う生活をする時、新しい皮袋になり、喜びと生命力にあふれた信仰生活ができるのです。私達が絶えず悔い改める生活と謙遜に学ぶ生活を通して新しい皮袋になることができるように祈ります。

結論、イエス様は「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

と言われました。この世には正しい人は一人もいません。すべての人が罪人です。イエス様は取税人レビのような私達を招くために来られました。このイエス様は罪人である私達も招いてくださり、新しい人生を過ごすようにしてくださいました。私達がこのイエス様を受け入れる新しい皮袋になり、日々成長して行くように祈ります。