2000年マルコの福音書第4講

あなたの罪は赦されました

 

御言葉:マルコの福音書2:1?12

要 節:マルコの福音書2:5

「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました。』と言われた。」

 

 私達は誰でも美しく価値ある人生を送りたいと思います。ところが、いくら願ってもなかなか願うようにはならず罪を犯し、醜く、無意味な人生を過ごす時が多くあります。そのような時、私達はできれば過去の人生を精算して新しく出発したいと思います。そのために周りの環境を変えて見たり、旅行をして見たり、仕事や勉強に熱中するなどいろいろな努力をします。しかし、始めの中はまるで自分の人生が変わったかのように思われますが、しばらく経つといつの間にか、また過去と同じ生活を繰り返しているのがわかります。それでは私達はどうすれば過去の暗くて運命的な生活、無気力な生活を捨てて明るくて生き生きとした生活をすることができるのでしょうか。今日の御言葉はその秘訣を教えてくれます。この時間、私達が信仰によってイエス様のところに出て行き、罪の赦しの恵みを受け、新しい人生を出発することができるように祈ります。

 

?.信仰をご覧になったイエス様(1-5a)

 

 1,2節をご覧下さい。イエス様はらい病人をきよめてから数日経って、再びカペナウムに来られました。その時、イエス様が家におられることが知れ渡ると、多くの人が集まりました。そのため、戸口のところまですきまもないほどになりました。彼らはそれぞれイエス様から解決してもらいたい問題を持っていました。しかし、イエス様はこの人たちに、御言葉を話しておられました。イエス様は彼らにどんな人生が価値があるのか、いのちの道は何かを教えてくださいました。当時律法学者やパリサイ人達の教えには権威がなく、感動も恵みもありませんでした。ただ彼らの教えは人々に重荷を負わせるだけでした。それで人々は霊的な飢饉で苦しんでいました。その時イエス様が現われて神の福音を宣べ伝えておられました。イエス様の教えは律法学者達のようではなく、権威と恵みと感動を与える教えでした。イエス様の御言葉は長い飢饉で苦しんでいた人々を生かしました。人々は非常に熱心にイエス様が言われることを聞いていました。彼らはイエス様の御言葉を通して心の奥底から湧き出る喜びと平安、魂の真の安息を得るようになりました。

 先月結婚式の時にセンターは戸口のところまですきまもないほどに多くの人々が集まったことがありましたが、これからは聖書を学ぶために戸口のところまですきまもないほどに多く集まるように祈ります。そして、彼らがイエス様の御言葉と愛によって癒され新しい人生を出発することができるように祈ります。

 イエス様が御言葉を話しておられる時、人々はどんな人をイエス様の所に連れて来ましたか。3節をご覧ください。そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、イエス様の所に連れて来られました。彼らはイエス様がどんな病人も癒してくださるといううわさを聞いたでしょう。彼らは友人である中風の人を担架に乗せて走りました。「おい。中風。直ったら一緒にバスケットボールをやろうぜ。」と励ましながらイエス様のところに連れて来ました。しかし群衆のためにイエス様に近づくことができませんでした。彼らはそこに座り込んで待つしかありませんでした。あるいは別の機会にイエス様に出会うことを考えて帰るしかありませんでした。しかし集まりが終わっても、明日来ても同じ障害はあります。それでは中風の人をかついで来た四人の友達はどのようにしてその障害を克服したのでしょうか。その時彼らには誰も考えつかなかった創造的な知恵が浮かびました。それは屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろすことでした。パレスチナの家の屋根は平らでした。そこは通常、休憩や黙想の場所として使われていました。またそこに上るために家の外に階段があるのが普通でした。また、屋根も簡単にはがすことができました。賢い四人の目にそれが見えたのです。しかし彼らが考えたことを実際に行動に移すことはやさしいことではありませんでした。屋根をはがすと人々から非難されます。イエス様に叱られるかも知れません。しかし、彼らは信仰によって屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろしました。彼らの床つり降ろし作戦は大成功しました。彼らは信仰によれば何でもできると思っている人々でした。彼らには中風の人に対する愛とイエス様に対する信仰がありました。彼らには愛によって働く信仰がありました(ガラテヤ5:6)。彼らはこの信仰によって障害を克服して中風の人をイエス様に出会わせました。彼らは信仰によって考え、信仰によって行動する信仰の勇士達でした。

 信仰は目に見えません。しかし信仰がある人と信仰がない人の考えや行動は全然違います。信仰がない人はその考えが否定的であり、消極的であり、運命的です。しかし信仰がある人はその考えが肯定的であり、積極的であり、挑戦的です。信仰がない人は障害にぶつかるとすぐ落胆し、絶望し、つまずいてしまいます。しかし信仰がある人は同じく落胆し、絶望しつまずいても再び起き上がります。

 使徒パウロがルステラを開拓する時でした。ユダヤ人達は異邦人に福音を伝えるパウロを民族の裏切り者だと思い、群衆を抱き込み、石打にしました。そして、人々はパウロが死んだものと思って、町の外に引きずり出しました。弟子達はパウロを取り囲んで悲しんでいました。その時、パウロは立ち上がって再びその町に入って福音を宣べ伝えました。そして弟子達の心を強め、信仰にしっかりとどめるように次のように勧めました。「私達が神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない。」(使徒14:19ー22)。パウロはただ信仰によって不死鳥のような人生を過ごしました。

 私達はこの国の福音化のために祈っています。ところがキャンパスの兄弟姉妹達に福音を宣べ伝え、彼らをイエス様のところに連れて行くためにはいろいろな障害にぶつかります。また彼らを弟子として育てる過程でも障害にぶつかります。最初は信仰によってチャレンジしますが、失敗が重なるとあきらめたい心が生じます。自分は牧者の体質ではないという否定的な考えも生じます。しかし、この時こそ祈りの体験、信仰の体験ができる良い機会です。信仰によって難関に挑戦すると状況が完全に変わります。考えが肯定的になり、不可能な状況の中でも可能性を捜すようになります。そのような障害にぶつかった時、神様に知恵を求めて祈ると、主がその障害を克服できる知恵をくださいます。信仰とは障害物の前であきらめず、挑戦して克服することです。ヘブル10:38、39は次のように言っています。「『わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。』私達は、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」私達が信仰によって、キャンパスの学生達をイエス様に連れて行くことができるように祈ります。

 5a節をご覧下さい。「イエスは彼らの信仰を見て」イエス様は彼らの信仰をご覧になりました。人々は集会を邪魔した彼らを非難したに違いありません。常識のない人だと非難したでしょう。確かに彼らの行動は非常識なことでした。しかしイエス様は彼らの行動より彼らのうちにある信仰をご覧になりました。彼らの信仰とは中風の人をかついで来た友人達の信仰だけではなく、担架に担がれてでもイエス様のところに連れて来られた中風の人の信仰も含まれています。彼らはイエス様の力を信じました。彼らはとにかくイエス様のところに行きさえすれば、イエス様は咎められず、受け入れてくださることを信じました。彼らの信仰は理論的な信仰ではなく、実際的な信仰であり、行動する信仰でした。

 

?.罪を赦す権威者イエス様(5b-12)

 

イエス様は彼らの信仰をご覧になり、中風の人に何と言われましたか。「子よ。あなたの罪は赦されました。」イエス様は中風の人に「子よ」「My son」と呼ばれ、彼を息子のように暖かく受け入れてくださいました。中風の人は愛しにくい人です。長い間、お風呂に入ってないので体から嫌なにおいがしたでしょう。しかし彼が信仰によって出て来た時、イエス様は彼を神様の愛する子供として暖かく受け入れてくださいました。イエス様は誰でも自分の罪を認めてあるがまま出て行く人を暖かく受け入れてくださいます。

 イエス様は中風の人に驚くべきことを宣言されました。「子よ。あなたの罪は赦されました。」中風の人がイエス様のところに連れて来られたのは病気を癒してもらうためでした。ですから、当然人々はイエス様が中風の人に「子よ。あなたの病気は癒されました。」と言われると思っていました。人々は彼の根本問題は中風の病気だと思いました。それが彼の人生を不幸にした原因だと思いました。ですから、その病気さえ解決できればきっと幸せになれると思いました。しかしイエス様は彼の病気よりもっと深刻であり、根本的な問題が罪であると考えました。もし、中風の人が病気だけ癒されるとそれから彼はどうなるかわかりません。溢れる力を抑えきれず、お酒を飲み、今まで自分を無視した友達を殴るかも知れません。また、今までは考えだけで犯していた罪を具体的に行動に移すかも知れません。イエス様が彼が不幸になった原因が病気ではなく、罪によるものだと思われました。彼は中風の病気のためにいつも横になっているので、何の罪もないように思えます。中風の人になったことだけでも悲しいことなのに罪人として扱われるイエス様を冷たい方だと思うかも知れません。しかし、イエス様は病気の解決より彼の内面にある罪の問題の解決を優先的にしなければならないと思われました。それで「あなたの罪は赦されました。」と言われたのです。それでは彼は具体的にどんな点で罪人だったのでしょうか。

第一に、彼は無気力であることです。中風の人は脳の血管が破裂して言葉の障害を起こしたり、手足など体の一部分の麻痺などを起こします。中風の人の精神は正常ですから「バスケットボールもやりたいし、キャンパスに行ってフィッシングもしたい」と思いますが、手足が思うように動いてくれません。心は生き生きとした生活をしたいですが、心ならず無気力な生活をするしかありません。このような人は神様の御前に罪人です。神様は人間を開拓し、征服し、治める偉大な使命人として造られました(創1:28)。人間は神様の栄光のために熱心に使命を担う時、真の喜びがある幸せな人生になります。

第二に、依存的であることです。中風の人は病気のために仕方なく他人に頼らなければならないと思われます。しかし、問題は他人から助けてもらうことではなく、そのために依存心が生じることです。依存心が強い人は他人が自分を助けてくれなければ何もできないと思います。そのような人は自分でできることさえ他人の助けを求めます。しかし、人は自立的な存在として造られました。自立は神様に頼ることです。人は神様に頼って自立する時、能力ある人生を過ごすことができます。しかし、人が同じ人間に頼る時、中風の人のように役に立たない人になります。このような人は神様の御前で罪人です。

第三に、感謝しないことです。中風の人は他人から助けてもらうことを当たり前のように思います。ですから、他人から助けてもらっても感謝しません。むしろ気に入らないと不平不満を言います。いつもすべての原因を他人のせい、親のせい、環境のせい、神様のせいにします。自分の立場を考えながら悲しい考え、運命的な考え、敗北的な考えをします。ローマ1:21を見ると神様を知っていながら、その神様を神様としてあがめず、感謝しないことが罪の根だと言いました。私達は基本的に神様の恵みに感謝しなければなりません。デサロニケ第一5:18ではすべてのことについて、感謝することが、キリスト・イエスにあって神様が私達に望んでおられることだと言っています。私達はどんな状況の中でも積極的に感謝題目を捜し、感謝しなければなりません。そのようにすると、心に神様の恵みが臨み、喜びが生じます。感謝せず、恨んだり、つぶやくことは大きな罪です。

 人は罪から救われるためには自分が神様の御前で罪人であることを認識しなければなりません。すなわち、自分が罪によって永遠に滅びるしかない罪人であることを認識する時、救いを求めるようになり、救い主を捜すようになります。罪の認識がなければ救いの必要性も感じず、罪の中で死ぬようになります。律法社会では律法によって罪意識を強く感じました。ところが罪の文化が発達するにつれて段々罪意識が弱くなり、罪を犯しながらも良心が麻痺され罪を罪として認識しなくなりました。それでは罪意識がないからといって、その人の罪の問題が解決され、死なないのでしょうか。そうではありません。毒物であることを知らなくても飲めば死ぬように、罪に対する認識がなくても罪を犯すとその罪によって滅びるようになります。聖書は「罪の報酬は死である」と厳しく警告しています(ローマ6:23)。ですから罪に対する認識を持つことはとても大切なことです。罪に対する認識を持つためには良心が生き返らなければなりません。良心が麻痺された人は死んだも同様な人です。良心が生き返るためには神様の御言葉を勉強しなければなりません。神様の御言葉は罪によって無感覚になっている良心を目覚めさせてくれます。最初に聖書を学ぶと心が平安になるところか、以前よりももっと苦しくなることを経験します。それでこれ以上勉強ができないと言う人もいます。しかしそれは御言葉を学ぶと死んだ良心が生き返ることなのでいい現象です。ですからその時に聖書勉強をあきらめてはいけません。自分が罪によって永遠に滅びるしかない者であることを深く認識し、罪が赦され、救われるまで続けて聖書を学ばなければなりません。

 イエス様は人間の罪の問題を解決してくださる罪の赦しの権威を持っておられる方です。「あなたの罪は赦されました。」この御言葉の動詞は現在完了受身形で、罪が完全に赦されたことを宣言することばです。それはまるで死刑宣告を受けた囚人に無罪を宣告することと同じです。イエス様は信仰によってイエス様のみもとに来た中風の人に無罪を宣告し、彼を縛っていた罪の鎖から解放してくださいました。人々は罪を犯し、罪意識にさいなまれています。人々は罪を償うために努力しています。良いことをして犯した罪を償おうとします。また仕事や勉強、遊びに熱中して罪を忘れるために努力しています。しかし、一度犯した罪は心の板に刻まれているので、なかなか忘れられません。忘れたと思っても似たような状況が展開されると昔のことが思い出されその人を苦しめます。結局人間は罪によって不幸になり、ついに罪の報酬として永遠に滅びるようになります。この罪は人の力やどんな努力によってでも解決できません。それでイエス様は「罪を償うためにいいことをたくさんしなさい。」とか「罪意識を忘れるために熱心に心理学を勉強しなさい。」とは言われませんでした。イエス様は一方的に罪を赦してくださいました。罪は罪の赦しの権威を持っておられるイエス様によって赦される時のみ解決することができます。「子よ。あなたの罪は赦されました。」イエス様がこのように罪の赦しを宣言することができるのは、イエス様が私達のすべての罪を背負って十字架につけられ、私達の罪の代価を払ってくださったからです。

ところが、イエス様が中風の人に罪の赦しを宣言する場に律法学者達が数人座っていて、心の中で理屈を言いました。7節をご覧ください。「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」彼らはイエス様が中風の人に「あなたの罪は赦されました。」と言われるのを聞いた時、大きな衝撃を受けました。彼らはイエス様が神様をけがす罪を犯したと思いました。神様おひとりのほか、だれも罪を赦すことができないという見解は正しいです。しかし彼らはイエス様がこの世に来られた神様であることは知りませんでした。

イエス様は彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、自分の霊で見抜いて、言われました。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。」そしてイエス様は彼らに質問をされました。9節です。「中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。」中風の人の罪を赦すことと歩かせることは両方とも人間の力では不可能なことです。彼らの確信によると、罪が赦されなければ、その人はいやされることはできませんでした。もし、中風の人がいやされるなら彼の罪が赦されたことになります。それゆえ、イエス様はご自分が罪を赦す権威を持っていることを、知らせるために中風の人に言われました。「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」すると彼にどんな驚くべきことが起こりましたか。12a節をご覧ください。すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行きました。目に見えない罪の赦しのみわざが、起きて歩くことを通して現われました。

 私達は過去の無力な人生を捨てて新しい人生を送りたいと思っています。それで新年が明けると新しく決断します。しかし、三日も経たぬ内に昔の罪悪な生活にもどってしまう自分を発見します。このような現象は毎年繰り返されます。私達が新しい人生を過ごすためにはイエス様に出会い、罪の赦しを受けなければなりません。罪が赦されると新しくなります。罪が赦されると発揮できなかった可能性がよみがえり能力ある人生を過ごすようになります。罪が赦されると自己中心の人が神様中心、他人中心の人に変わります。また自分のものばかり儲けた人が与える人に変わります。このように罪の赦しのみわざは人を根本的に新しく変えられます。人は新しく生まれると感謝と喜びに満たされ、生命力がみなぎる人生を過ごすようになります。中風の人が罪の赦しの恵みを受けて起きて歩くようになった時、人々はすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神様をあがめました。

この時間、私達も信仰によってイエス様に出会い、罪が赦され、明るくて力ある人生を過ごすことができるように祈ります。「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われる主の罪の赦しの御言葉を聞いて生き生きとした信仰生活を送ることができるように祈ります。