2000年ローマ人への手紙第3講

 

信仰がない世

 

御言葉:ローマ人への手紙2:1?3:20

要 節:ローマ人への手紙3:9,10

『では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。」』

 

先週私達はローマ人への手紙第2講で異邦人の罪について学びました。神様なしの異邦人は結局偶像崇拝と情欲の罪の奴隷になっていることがわかりました。きょうはユダヤ人の罪について学びます。きょうの御言葉は異邦人と比べて自分達は義人だと思っているユダヤ人と道徳主義者達の罪に対してです。きょうの御言葉を通して信仰がない世はどんな状態であり、また、すべての人々が必ず福音を信じなければならない理由は何かについて学びたいと思います。メッセージを通して自分の罪を悟り、神様の恵みとあわれみを求めるように祈ります。

 

?.ユダヤ人の罪(2:1-3:8)

 

 使徒パウロは異邦人の世界からユダヤ人の世界に目を向けます。彼らは律法に頼り、神様を誇る人々です。世の中には道徳的に堕落した人々もいますが、良心に従って正しい生活を送ろうとする人々も多くいます。彼らは法律なしにも生きられそうな人々です。私達はそのような人々を見ると、「あの人も罪人かな」と思います。また、彼ら自身も自分は正しく、罪人ではないと思っています。しかし、使徒パウロはそのような彼らも例外なく罪人であることを述べています。

さばくユダヤ人(2:1-16)

2:1節をご覧下さい。「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。」ユダヤ人は偶像崇拝や情欲の罪を犯す異邦人の姿を見て、彼らを犬や豚のように見下しました。しかし、人間は根本的に罪人ですから他人をさばく資格がありません。他人をさばく人は自分自身を罪に定めることになります。結局他人をさばくことは横になってつばを吐くことことと同じです。なぜなら、さばく人が、同じことを行なっている罪人だからです。ですから、罪人が罪人をさばくことはできません。それでは人々はなぜ他人をさばくのでしょうか。他人をさばく人の特徴は自己義が強いことです。自分は他人よりすぐれた点があると思う人が優越感を持って他人をさばきます。そのような人々は、自分の行いが自己義となって他人をさばくのです。それは他人をさばくことによって自分の正しさを証明するためです。しかし、神様の御前では五十歩百歩です。このような人は自分が罪人であることをなかなか認めようとしません。神様の御前で自分がどんな罪人であるかを知らず、悔い改めようとしません。彼らの問題はかたくなさと悔い改めのない心です。彼らはメッセージを聞くとそれは自分に対するメッセージではなく、他人に対するメッセージだと思います。この話はあの人が聞けばいいのにと思います。イエス様はこのような人々に言われました。「なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気が付かないのですか。」「偽善者達。まず自分の目から梁を取り除けなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7:3,5)。ですから、まず他人をさばく前に自分自身を顧みることが必要です。

3節をご覧下さい。「そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。」他人をさばく人は、自分は神のさばきを免れると思っています。しかし、彼らは神様の御怒りを自分のために積み上げているのです(5)。ダムの中に水が段々貯まることと同じです。そして、限界を超えると神様にさばかれます。ノア時代の人々がそうでした。ソドムとゴモラも罪が満ちた時、裁かれました。ですからかたくなさと悔い改めのない心を捨てて悔い改めなければなりません。それでは神様が人を裁かれる基準は何ですか。

第一に、神様は、ひとりひとりに、その行いによってさばかれます。6節をご覧下さい。「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。」神様の裁きは個人的で人格的です。また、そのさばきの基準は一人一人の行いです。人は必ず行いという生活の実を結びます。神様は律法なしに罪を犯した者も、律法の下にあって罪を犯した者もその行いによってさばかれます。ですから、神様のさばきは公平です。もし、行いではなく富や知識によってさばくとしたらそれは不公平なことです。金持ちは救われ、貧乏人は救われないとしたらそれは不公平です。また、聖書に対する知識がある人から救われるとしたら神学博士が有利でしょう。しかし、行いによるとすれば神学博士だとしても主の御言葉に従ってなければさばかれるでしょう。13節をご覧下さい。「それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。」ですから、聖書勉強をたくさんして多くの聖書に対する知識を持っていることで満足してはいけません。御言葉に聞き従うことが大切なことです。ですから、私達は聖書を学び、悔い改めの行い、従順の行い、愛と謙遜の行い、献身の行い、信仰の行いなどが伴うように励まなければなりません。

それでは行いと信仰とはどんな関係があるでしょうか。行いは信仰の現れです。正しい信仰を持っている人は正しい行いが伴うはずです。木がその実によってわかるように、その人が本当に信仰を持っているかどうかは行いを見ればわかります。正しい信仰を持っている人は良い実を結ぶようになります。ですから、私達は知識や言葉だけではなく、聖霊の実を結ぶために励まなければなりません。悔い改めにふさわしい実、聖なる生活の実を結ばなければなりません。礼拝のメッセージを聞いても外に出るとすっかり忘れてしまったらあまり意味がありません。一週間その御言葉に聞き従うことによって生活の現場で実を結ぶことが大事なことです。日ごとの糧の御言葉を通して学んだことをその一日に実践することができるように励まなければなりません。もちろんなかなか実践できない時もあるでしょう。一日を顧みると自分の弱さにため息をつく時もあるでしょう。しかし、あきらめてはいけません。自分が弱いからこそ私達は主に助けを求め、主に頼っているのです。今すぐ実を結ぶことができなくても日々主の御言葉に聞き従う生活をする時、私達の人生は水路のそばに植わった木のように豊かな実を結ぶようになることを信じます。

第二に、人生の目的に従ってさばかれます(7,8)。

7、8節をご覧下さい。「忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。」ここで「求める」、「従う」とはその人の人生の目的を意味します。栄光と誉れと不滅のものとを求める者とは、霊的なことを求め、神様の栄光を求めるのが人生の目的である人のことです。このような人には永遠のいのちが与えられます。栄光と誉れと平和が与えられます。党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者とは、自分の有益を求めることが人生の目的で、利己的な人です。その人は食べるにも、飲むにも、何をするにも自分の有益のためにします。いくら慈善事業を多くしているとしてもその目的が自分の名誉のためにするなら、その人には神様の怒りと憤りが下されます。患難と苦悩が与えられます。ですから、私達は毎日自分の人生の方向が神様にあるのか、自分にあるのかチェックして見なければなりません。私たちは自分が羊を養う目的、信仰生活をする目的などが純粋な目的を持って神様の栄光のためにしているかどうかを点検する必要があります。私達が忍耐を持って善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者となるように祈ります。

以上から見ると、神様のさばきは公平です。神様は公平に人の行いや人生の目的に従ってさばかれます。義である神様は罪を犯した人々を裁くしかありません。この神様を考えるとわがままの人生を送ってはいけません。しかし、神様の目的は決してさばきではありません。ヨハネ3:17節は次のように言っています。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」2:4 節をご覧下さい。「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」神様は慈愛と忍耐と寛容の神様です。この神様は罪を犯した人々を今すぐさばかれず、長く忍耐しておられます。その理由は何でしょうか。?ペテロ3:9節は次のように言っています。「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」神様は人をさばくのが目的ではありません。また、さばくのを好まれる方でもありません。神様は豊かな慈愛と忍耐と寛容を持ってすべての人々が神様を知り、悔い改めて救われることを願っておられます。

 

形式的なユダヤ人(2:17-29)

 

ユダヤ人たちにとってもう一つの問題は割礼の問題です。割礼はユダヤ人を神様の選民として認めるしるしです。無割礼の人は、その民から断ち切られなければなりませんでした(創17:14)。割礼は安息日とともに捕虜生活の中でも選民のアイデンティティを持たせたものです。それほど大切だったので男の子が生まれて八日目が安息日だとしても必ず割礼を受けさせました。ところが、問題は体の割礼を受けたことですべてだと思ったことです。彼らは選民としての特別な祝福を受けました。鏡のような律法が与えられ、それを通して神様の御心を知ることができました。また、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえることができました(18)。それで彼らは律法に頼り、神様を誇りました。自分達は盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任していました。ところが、彼らの教えることと、実生活は違いました。彼らの問題は何ですか。21,22節をご覧下さい。「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。」彼らは人を教えながら、自分自身を教えませんでした。メッセージを伝えても他人を教えるだけで自分を教えませんでした。所感を書きませんでした。書いても御言葉から教えられて深く悔い改める生活をしませんでした。外側と内側が違う二重生活をしました。そのようにする時、何の役にも立たない古い皮袋になってしまいました。そのために神様の名は、異邦人の中でけがされました。今日もクリスチャンだと言いながらノンクリスチャンと同じ生活をしていると神様の御名が汚されるようになります。パウロは「もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。」と言いました。割礼は神様の選民のしるしです。それは神様が約束された祝福を受ける資格証や約束手形のようなものです。ところが、後になって彼らは割礼を救いの条件や手段として考えて割礼さえ受ければ救われると錯覚しました。真の割礼は心の割礼です。心から神様を愛し、神様の御言葉に聞き従う生活をすることです。割礼は今日洗礼のようなものです。洗礼を受けたことで終わるのではなく、主の御言葉に聞き従うことが大切なことです。自分を教える生活に怠けてはいけません。御霊によって心が変えられた人です。彼らは人々からの誉れより神様からの誉れを求める霊的な人です。イエス・キリストの尊い血によって新しく生まれた人です。ですから、割礼や律法などの形式が大事なのではなく、中味が大事です。

私たちのように人を教える人は、自分を教えないと二重生活をするようになります。ユダヤ人のように形式的な信仰生活をしやすいです。ですから、他人を教える聖書先生は他人を教える前に自分を教えなければなりません。聖書先生だけではなく、すべてのクリスチャンは神様の御言葉を聞くことだけに留まらず、その御言葉に聞き従う生活をしなければなりません。?コリント9:27で使徒パウロは次のように言いました。「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」所感を書くのは自分を教えることです。御言葉に自分を照らして見て自分を発見し、悔い改めて主の御言葉に聞き従うために書いているのです。忠実に所感を書く時、二重生活に陥らず、神様の御言葉に聞き従う生活ができます。私は毎週礼拝のメッセージを用意して伝えています。ところが、今までどうすればこのメッセージを通して聞く人々を良く教えることができるかを優先的に考えていたのではないかと思われます。そして、自分を教えるのには怠けていました。先週は毎日夜明けの祈りを捧げながら日ごとの糧の御言葉に自分を照らして見ると非常に恥ずかしいことばかりでした。今年は私がまず自分を教える生活に励み、崩れた心の城壁の建て直し、成熟した主のしもべとして成長することができるように祈ります。形式ではなく中味が新しくなる年となるように祈ります。

 

使命を捨てたユダヤ人(3:1-8)

 

3:1節をご覧下さい。「では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。」割礼がそれほど大切なことではないとしたら、割礼を受けたユダヤ人達のすぐれたところは、いったい何かという疑問が生じます。それではユダヤ人たちが受けた特権は何ですか。2節をご覧下さい。「それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。」ユダヤ人には世界の人々に神様の御言葉を教える祭司の国としての特権が与えられました。特権には必ず使命が伴います。ユダヤ人には大きな使命が与えられました。しかし、彼らは特権は誇りましたが、使命は捨てました。それではこのような彼らの不真実によって、神の真実が無に帰することになるのでしょうか。そのような疑問にパウロは4節で「絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。」と言いました。神様はどんな場合にも真実な方です。神様の救いの御業は人間の罪や失敗と関係なく、成し遂げられます。むしろ、彼らの失敗を通してご自分の真実さと栄光を現されます。これに対してユダヤ人は、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、怒りを下す神は不正なのではないかと抗議します。また、彼らの偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ罪人としてさばかれるのかと文句をつけたくなります。「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言います。自分の不義が神様の義をあきらかにしたら、自分に功労賞でもくれるべきではないかと思う人々がいます。すると、イスカリオテ・ユダはイエス様が十字架につけられるように貢献したので賞状と賞品を送るべきです。ヨセフがエジプトの総理大臣になったのは、彼を奴隷としてエジプトに売った兄達のおかげです。このような人々は自分の罪を悔い改めることを嫌がり、変な理論を作り出すのが好きな人々です。彼らの心には悔い改めるより自分の罪を合理化しようとする心があります。このような人々は罪に定められます。

 

?.神様のさばきの下にある全世界(3:9-20)

 

以上から異邦人の世界とユダヤ人の世界を探ってみると、すべての人々が神様の御怒りを免れることができない罪人であることがわかります。9、10節をご覧下さい。「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。それは、次のように書いてあるとおりです。『義人はいない。ひとりもいない。』」「罪の下にある」とは罪の奴隷となっている状態を意味します。世の中に義人はひとりもいません。11-18節は罪の下にいる人々の完全な堕落、完全な腐敗の状態を言っています。11,12節は心から犯す罪であり、13,14節は言葉で犯す罪であり、15-17節は行いによって犯す罪です。

以上(1:18-3:20)の論理の展開を通して、使徒パウロが下す結論は何ですか。19,20節をご覧下さい。「さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」すべての人は神様の御前に罪人です。律法の行いによって義と認められる人は一人もいません。律法は罪を悟らせてくれるだけです。ですから、すべての人々が神様の裁きの下にいます。人は一生苦労しながら食べ物を得、ついに神様の裁きを受けて滅びるしかない惨めな状態です。このような人には真の望みがありません。まるで死刑宣告を受けた人のような絶望的な状態です。しかし、このような絶望的な人間の状態を知ることは大切なことです。なぜなら、イエス・キリストのうちに救いの希望があることを知ることができるからです。私達は自分が神様の御前に滅びるしかない惨めな罪人である自覚を持たなければなりません。また、信仰のないこの世は神様の恐ろしいさばきの下にあることを覚えなければなりません。そして、神様がすべての人々のために用意してくださった救いの福音、すなわちイエス様の十字架と復活の福音を心に受け入れなければなりません。