2000年マルコの福音書第23講

あなたの神である主を愛せよ

御言葉:マルコの福音書12:28?44

要 節:マルコの福音書12:30

「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」

 私達はマルコの福音書12章の前半部で罪人のためにひとり子を遣わされた神様の愛について学びました。神様は一人子をお与えになったほどに私達を愛してくださいました。ですから私達も神様を愛することは当たり前なことです。それでは私達はどのように神様を愛さなければならないでしょうか。イエス様は「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と言われました。これは一番大切な戒めです。これは私達の永遠のいのちと関わる大切なものです。この二つの戒めを実行することが信仰生活をよくすることであり、幸せになることです。この時間、一番大切な二つの戒めの意味を考えながら私達の信仰生活を振り返ってみることができるように祈ります。

?。一番目の戒め(28ー30)

 28節をご覧ください。律法学者の一人が、イエス様が神様の知恵によってサドカイ人達の質問にみごとに答えられたのを知って、イエス様に尋ねました。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」律法学者は旧約聖書に通じている人です。彼はサドカイ人とは違って復活も永遠のいのちも信じました。彼は聖書を研究しながら疑問に思っていたことをイエス様に尋ねました。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」モーセの律法には613個の戒めがありますが当時それをいろいろ分類しようとしました。613個の戒めの中で積極的な戒めと消極的な戒めに分類したり、重い戒めと軽い戒めにわけたりしました。またすべての戒めを一つの戒めにまとめ、どれが一番根本的な戒めであるか絶えず論争していました。一番大切な戒めは私達が絶対的に守らなければならない戒めです。それは私達の永遠のいのちと関係がある大切な戒めです。私達が一番大切な戒めをよく守る時神様との正しい関係性を結ぶことができます。一番大切な戒めは信仰生活の根拠となり、人生の基礎となります。

 29節をご覧ください。イエス様は答えられました。「一番大切なのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。』イエス様はまずわれらの神である主と言われました。この神様はアブラハムの神様、イサクの神様、ヤコブの神様です。私達を罪から救ってくださった神様であり、天地万物を創造された全能の神様です。それだけではありません。私達といつも共におられる神様です。イエス様はこの神様が唯一の神であり、他に神がないと宣言しておられます。

 それではこの唯一の神様をどのように愛しなければなりませんか。30節をご覧ください。「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」この御言葉は私達が最優先に愛するべき対象は何であり、また、どのように愛しなければならないかを教えてくれます。

第一に、私達が最優先に愛するべき対象は神様です。私達には愛するべき対象が多くいます。私達は私達を生み、育ち、教えてくださるためにすべての犠牲を惜しまない親を愛します。また、親は自分が産んだ子供を愛します。夫は妻を愛し、妻は夫を愛します。ある人は芸術を、ある人は国を愛します。ある人は権力を、ある人はお金を愛します。私達人間は誰からか愛されなければならない存在であり、愛するべき対象がなければならない存在です。ところが私達が最優先に愛さなければならない対象は神様です。私達がまことに幸せになりたければ私達の心の中心に神様を受け入れ、神様を一番優先して愛さなければなりません。

ダビデは神様を一番優先して愛しました。彼は愛する神様を考えながら多くの賛美詩を書きました。「主、わが力。私は、あなたを慕います。主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。」(詩18:1-3)。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」(詩編23:1-3)。彼の賛美詩には神様に対する愛があふれています。神様に対する愛は彼に大きな力となりました。敵から追われる苦難の時にも彼は神様を愛しました。罪を犯して苦しんでいた時にも彼は神様を愛し、悔い改めることができました。

 第二に、神様は全身全霊を捧げて愛するべきお方です。イエス様は「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。」と言われます。心理学者であるゲリコリスは「心の探求」という本の中で次のように言いました。「心は目で見ることも重さを計ることも解剖して見ることもできない。しかし人のすべての考えが心から出ており、それはその人のすべての行動を規制する。」神様は私達のうわべではなく心をご覧になる方です。神様は私達が心から愛することを願っておられます。ところがこの心が他のものに奪われてしまうと口先だけで愛するようになります。神様は私達が心を世のものに奪われると悲しまれます。ソロモンは若い時には神様を愛しましたが祝福の時に異邦の女性達に心が奪われ偶像礼拝者になりました。彼は神様の恐ろしい呪いから逃れることができませんでした。それでイエス様は心を尽くして神様を愛せよと言われます。そのように神様を愛する時に、神様の愛が私達の心に注がれどんな人も愛することができるようになります。思い(soul)は肉体のいのち、あるいは性品を意味します。思いを尽くして神様を愛することは神様が私達に与えてくださったいのちと個性と才能を尽くして愛することです。知性(mind)を尽くして神様を愛することは、私達の考えを尽くして愛することです。私達は何をすれば神様を喜ばせることができるかを考えて神様に仕えるべきです。力は肉体の能力で私達の若さと情熱、エネルギを意味します。若者は力があります。この力を持ってまるでボクサーがリングの上で力を尽くして試合をするように私達が全力を尽くして神様を愛して見ましょう。すると私達は偉大なみわざを成し遂げることができます。

 ところで、心、思い、知性、力は分離して考えることはできません。それは総合的に考えなければなりません。ですから、心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして神様を愛することは私達の全身全霊を捧げて愛することです。それは生ぬるい愛ではありません。神様はなまぬるく、熱くも冷たくもない愛を願われません。冷たいか、熱いかであってほしいのです。神様は私達が心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして愛するべき対象です。

それでは私達が全身全霊を捧げて神様を愛する時にどんな祝福がありますか。私達がこのように神様を愛すると、愛の力によって新しく変えられます。栄光から栄光へと変えられます。また、愛する神様とともにする時間がとても楽しくなります。もう夜明けの祈りを捧げることがつらいことではありません。愛する神様に会って話し合う楽しい時間になります。また、どうすれば神様を喜ばせるかを考えます。愛する神様の御言葉に耳を傾け、その御言葉に従います。愛する神様のためなら喜んで自分を犠牲にすることができるようになります。愛する神様が喜ばない罪から離れ、聖なる生活をするようになります。神様と深い愛の関係性が結ばれるのでどんな状況の中でも恐れたり、心配したりしません。神様の愛が心に注がれるのでどうしても愛せなかった人を愛することができるようになります。すべての憎しみ、ねたみが消え去り、まことの喜びと満足と幸せを味わうようになります。神様を愛する時に女性はきれいになります。男は男らしくなります。私達が全身全霊を尽くして神様を愛することが幸福の秘訣であり、勝利の人生を過ごせる秘訣です。

 それでは神様を愛することは具体的にどのようにすることでしょうか。神様を愛する具体的な表現は神様の御言葉を愛することです。神様を愛する人は聖書の御言葉を喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさみます。また神様を愛する具体的な表現は祈ることです。人は誰でも愛する人と話し合うことを楽しみます。神様に全然個人的な祈りをしない人が神様を愛しているとは言えません。また神様を愛する具体的な表現は兄弟を愛することです。私達が心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして神様を愛することができるように祈ります。

?。二番目の戒め(31ー34)

 31節をご覧ください。「次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」人々は基本的に自分を愛します。それで自分の健康や安全や幸福に対していつも関心を持っています。体の具合が悪くなるとすぐ薬を飲んだり、病院に行ったりします。また人々は自分を尊く思い、尊重する自尊心を持っています。その自尊心が傷つけられると怒ります。また人は自分を喜ばせようとします。イエス様は私達が自身のように隣人を愛しなさいと言われます。これは二番目の大切な戒めです。では、私達の隣人とは、誰のことでしょうか。隣人とは、今座っている隣人のことでしょうか。ルカの福音書10章を見ると、同じ質問をする律法の専門家にイエス様は良きサマリヤ人のたとえを話してくださいました。ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われました。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行きました。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行きました。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行きました。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って助けてあげました。このように言われたイエス様は律法の専門家に「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」と聞きました。彼は言いました。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエス様は言われました。「あなたも行って同じようにしなさい。」イエス様のたとえから考えて見ると、私達の隣人とは単に隣に座っている人、隣に住んでいる人達だけではありません。私達の助けが必要なすべての人々、神様の愛が必要なすべての人々が私達の隣人です。キャンパスの若者達は強盗に襲われて半殺しになった人のように情欲や虚無、高慢の罪によって半殺しになっています。イエス様は私達を彼らに近づき、彼らを助けてあげることを願われます。彼らの隣人となることを願っておられます。ところが、イエス様のたとえからわかるようにこの戒めを実践することはやさしくありません。それを実行するためには自分を捨てることや自分を犠牲にすることが要求されるからです。それで祭司とレビ人は強盗に襲われた人を見て反対側を通り過ぎて行きました。もし強盗に襲われた人が祭司やレビ人の愛する人であったなら、助けてあげたことでしょう。このように自分の気に入る人は愛することはできても、そうでない人を愛することが難しいのです。人を愛しているように思えても、結局は自分を愛しているのです。私達はそういう弱さを持っています。人間の愛には限界があります。サマリヤ人のように隣人を愛するためには自分が死ななければなりません。自分が生きたまま人を愛することは限界があります。人間の堕落した本性によっては本当の隣人となることができません。

それでは私達はどうすれば隣人を自分のように愛することができるでしょうか。そのためには神様の愛を知らなければなりません。神様の愛を知る時に、隣人を自分のように愛することができます(?ヨハネ4:11)。イエス・キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、御自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。イエス様は罪によって半殺しになっている私達を助けるために近寄って来てくださいました。そして罪人を救うために御自分の尊いいのちをも犠牲にしてくださいました。このイエス様こそ私達の本当の隣人です。良きサマリヤ人です。私達はこのイエス様を通して隣人への愛を学ぶことができます。私達は弱くてなかなか隣人を自分のように愛することができませんが、敵であった私達さえ愛してくださったイエス様の愛を学ぶ時に、私達も隣人を自分のように愛することができます。

 32、33節をご覧ください。律法学者はイエス様の御言葉に感動を受けて言いました。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない。』と言われたのは、まさにそのとおりです。また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」彼はイエス様の言葉を聞いて信仰の本質を悟りました。信仰生活はただ礼拝をよく捧げ、奉仕に励むことだけではなく神様を愛し、隣人を愛することです。イエス様はこの律法学者が賢い返事をしたのを見て、言われました。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエス様にあえて尋ねる者がいませんでした。

?。やもめのレプタ銅貨(35ー44)

 35節からイエス様は宮で教えておられました。イエス様は律法学者達の誤ったメシヤ観を正しく教えてくださいました。彼らはキリストの神性を知りませんでした。イエス様はダビデがキリストを主と呼んだ御言葉を通してキリストの神性を教えてくださいました。38-40節でイエス様は弟子達に律法学者たちには気をつけるように言われました。「彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、また会堂の上席や、宴会の上席が大好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人達は人一倍きびしい罰を受けるのです。」

 41-44節でイエス様は献金に対する正しい価値観を植え付けてくださいました。多くの金持ちは献金箱の中に大金を投げ入れていました。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れました。一レプタは一デナリの128分の一に相当する最小単位の銅貨です。ですから今の100円にもならない金額です。貧しいやもめはそれを恥ずかしく思いながら入れていたでしょう。しかしイエス様は弟子達にやもめがどんな点ですべての人よりも多くの献金をしたと教えましたか。43、44節をご覧ください。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、有り余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」イエス様は量よりは質をご覧になり、絶対評価をされる方です。捧げた献金の金額より捧げた人の状況と心と動機をご覧になる方です。やもめは心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして神様を愛しました。

 結論、神様はひとり子をお与えになったほどに私達を愛してくださいました。神様は私達を罪と死から救ってくださいました。この神様は私達が心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして愛するべき唯一の主です。私達が毎日この神様と愛の関係性を結び、神様の豊かな愛に満たされて隣人を自分のように愛することができるように祈ります。