2000年マルコの福音書第22講

生きている者の神

御言葉:マルコの福音書12:13?27

要 節:マルコの福音書12:27

「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。

あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」

今日の御言葉はイエス様が二つの質問に答えた内容です。イエス様はその答えを通して私達に国家と神様に対してクリスチャンがどんな姿勢を持つべきかについて教えてくださいます。また、イエス様は信仰がなくて考えだけが複雑なサドカイ人達に言われました。「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」イエス様はこの御言葉を通して神様はどんな方であるかを私達に教えてくださいます。

?.納税に関する論争(13-17)

イエス様が宮を清められ、ぶどう園の農夫のたとえを通して宗教指導者達を叱られると彼らは悔い改めるところか、イエス様をわなに陥れようと企んでいました。13節をご覧ください。「さて、彼らは、イエスに何か言わせて、わなに陥れようとして、パリサイ人とヘロデ党の者数人をイエスのところへ送った。」パリサイ人とヘロデ党の人は対照的な人々です。パリサイ人達は律法主義者としてカイザルに税金を納めることを反対していました。反面、ヘロデ党の人は世俗主義者で、カイザルに税金を納めることを積極的に支持していました。日頃は、敵対関係だった彼らがイエス様をわなに陥れることに力を合わせました。14a節をご覧ください。彼らはイエス様のところに来て、言いました。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。」彼らの言葉はへつらいの言葉でしたが、この言葉の中にイエス様の本当の姿が現われています。第一に、イエス様は真実な方です。当時の指導者達は偽り者でした。政治指導者達は正義を行なうと言っていましたが、実は不正腐敗を行なっていました。宗教指導者達は敬虔なふりをしていましたが、実は偽善者達でした。しかし、イエス様はただ真理だけを証しされました。イエス様は真実な方なので私達が信頼できる方です。第二に、真理に基づいて神の道を教えてくださる方です。人々はいくら正しいことだとしても人の顔色を見て言うことをためらう場合が多くあります。真理を語ると聞く人々が喜ぶと思いますが、必ずしもそうではありません。不義を行なう人々はそれを嫌います。また、人々は祝福されるのは好みますが、真理に従うことは好みません。そういうわけで真理の御言葉をまっすぐに説き明かすことを恥じる人になりやすいです。しかし、イエス様は人の顔色を見ず、真理の御言葉をまっすぐに説き明かされました。

14b節をご覧ください。「ところで、カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないのでしょうか。」この質問の中にはどんな罠がしかけられていますか。この質問はどう答えてもわなに陥るようになっています。税金を納めることが律法にかなっているといえば、一般の人々から非難されます。イエス様は裏切り者、臆病者とみなされるでしょう。だからと言って、税金を納めることは律法にかなっていないといえば、彼らはイエス様をローマに報告し、ローマの反逆者として逮捕させるでしょう。彼らは、イエス様を全く逃れることのできないわなに陥れたと確信していたに違いありません。

それではイエス様はどのように答えられましたか。15節をご覧ください。イエス様は彼らの擬装を見抜いて言われました。「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」 彼らは持って来ました。そこでイエス様は彼らに言われました。「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです。」と言いました。デナリ銀貨はローマの貨幣で、税金を納める時に使いました。表面には月桂冠をかぶったカイザルの肖像が刻まれ、「アウグストの子、聖なるアウグスト・ティベリウス・カイザル」と書いてありました。それはカイザルの所有物であることを言っています。17節をご覧ください。するとイエス様は言われました。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らはイエス様の知恵ある答えに驚嘆しました。

それでは「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」という言葉の意味は何でしょうか。第一に、カイザルのものはカイザルに返しなさい。イエス様は一国の市民として国家に税金を払うことは義務であると教えてくださいます。当時のユダヤ人達はカイザルに税金を払うことは不当なことだと思いました。しかし、国家は神様によって制定されたし、統治者に権威を与えてくださったのも神様です。ローマ13:1は次のように言っています。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」国民の義務の中に納税の義務があります。ところが国民が法律に定められている義務を無視すると、国家は混乱するでしょう。人々は、一緒に生活するために法律に従うことを同意するのでなければ、一緒に住むことはできません。国家がなければ人々が享受できない、多くの有用な施設があります。国家が人に与えるすべての恩恵を受け入れておきながら、すべての責任を拒否することは誰にもできません。ですから、カイザルのものはカイザルに返さなければなりません。

第二に、神のものは神に返しなさい。パリサイ人は「カイザルに税金を納めるべきか、納めるべきでないのか」を聞きました。しかし、イエス様は「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」と言われました。イエス様がご覧になるとパリサイ人の問題は税金の問題ではなく、神様に返すべきものを返さないことでした。私達が国家に対して義務があるように神様に対する義務があります。私達は神様のものである十分の一を神様に返さなければなりません(申12:11)。それを返さないことは神様のものを盗むことです。また出エジプト記23:19には「あなたの土地の初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない。」と言っています。また、安息日も主の日なので区別して守らなければなりません。私達は神様のかたちににせて造られた神様の貨幣です。人は神様に属するのです。神様は私達が心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神様を愛することを願っておられます。国家と人とは共に神に属します。国家と神様との要求が重なるなら、神様への忠誠が優先します。カイザルに対しては義務だけ果たせばよいのです。義務を超えて崇拝する必要はありません。カイザルも私達と同じく神様から創られたものだからです。しかし、神様は創造主であり、いのちの主です。被造物である私達が創造主である神様に心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛することは当然なことです。人々はカイザルに返すものは仕方なく返します。なぜなら返さなければすぐ督促状が届き、それでも払わなければ罰金を払うようになるからです。しかし、神様のものは返さなくても督促状が届いたり、罰金を払ったりしないので脱税しやすいです。ぶどう園の農夫達のように収穫の分け前を捧げないことがあります。私達は皆空手でこの世に生まれ、空手でこの世を去るようになります。私達はこの世で神様のものをしばらく借りて使っているだけです。神様のものを自分のもののように思っている人はいつそれを失うのではないかと思い、不安な生活をします。しかし、神様は私達が積極的に神様のものを神様に返す時、地上でも大きく祝福してくださいます。その人には喜びと平安があります。私達がカイザルのものはカイザルに、神様のものは神様に返すことができるように祈ります。

?.復活に関する論争(18-27)

パリサイ人とヘロデ党の人がイエス様を罠に陥れようとしましたが、失敗して帰ると、今度はサドカイ人たちが、イエス様のところに来て、質問しました。彼らは貴族的であり金持ちでした。祭司たちの大部分を彼らが占めていました。彼らは世俗主義者達として平穏と特権を維持したいと願ったので、自然に政治権力者に協力的になりました。彼らは、ただ成文化した聖書のみを受け入れ、旧約聖書の最初の五書、すなわちモーセの五書だけを認めました。サドカイ人たちは不死について信じていなかったし、霊や御使いについても信じていませんでした。また、復活、裁き、永遠のいのちを否認しました(使徒23:8)。彼らはなぜ復活はないと主張していたのでしょうか。もし復活があれば裁きも信じなければならないし、そうすれば自分の欲に従って生きることができないからです。彼らは目に見える世界だけがすべてであると考えている現実主義者達でした。

このような現実主義者にとって復活の真理を教えるイエス様は邪魔になる存在でした。彼らは個人の復活の信仰が馬鹿げて見えるように意図された質問をしました。19-23節までをご覧ください。「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がないばあいには、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。」申命記25:5ー10によると、兄弟たちが一緒に住んでおり、子供がなくて彼らの中のひとりが死ねば、その死んだ兄の未亡人を妻とし、その兄のために子供をもうけるのが、次の弟の義務でした。サドカイ人たちは現実的にはありえない質問を問いかけることで、復活の思想をまったく馬鹿げたものとしのです。彼らは復活はあってはならないと主張したかったのです。しかし、キリスト教は復活の宗教です。復活がなければキリスト教の土台が崩れるようになります。

イエス様は彼らが復活に対して何を誤解しているのかを教えてくださいました。24、25節をご覧ください。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。

人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」

第一に、彼らは聖書を知りませんでした。彼らはモーセ5書の中に復活に関する教えがないと言って復活の真理を否認しました。しかし、イエス様は彼らが認めていたモーセ五書の一つである出エジプト記3:6を持って復活の真理を教えてくださいました。彼らは自分達が聖書をよく知っていると思っていましたが、実はそうではありませんでした。

第二に、彼らは神の力を知りませんでした。彼らは復活をこの世の生活の続きとして考えていました。復活してからも今の世界と同じくめとったり、とついだり、年老いて死んだりすることしか考えられませんでした。なぜなら、彼らはいつもこの世のことばかり考えている現実主義者だったからです。しかし、人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようになります。土で造られた人間は寂しく弱い存在なので助け手が必要です。結婚はこのように体を持っている人間に必要なものです。しかし、復活の時には、御使いのようになるので結婚する必要がありません。また、この世ではいつかは死ぬので子孫を残す必要があります。しかし、復活の時には、永遠に生きるので子供を産む必要がありません。それだけではなく復活の時には、御霊に属する体によみがえらされるので罪の欲に苦しむことがありません。来るべきいのちは、この世の言葉では考えることができないことです。コリント第一の手紙15:42-44節で使徒パウロは人の復活について次のように語りました。「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」これは天地万物を創造された全能の神様の力によってできることです。サドカイ人たちは全能の神様を自分達の理性の世界、経験の世界に閉じ込めてしまいました。彼らは神様の力を知りませんでした。

26節をご覧ください。「それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。」サドカイ人たちは、尊重しているモーセ五書の中には不死の事実がないと主張しました。ところがイエス様はモーセの五書から引用して復活について記録されていることを証明されました。出エジプト記3:6において、神様はご自身を、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると言われました。アブラハム、イサク、ヤコブはモーセより五百年前に死んだ人々です。ところが、神様は現在形を使って、「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と言われました。それは神様が今生きておられることを言ってくれます。神様は永遠に生きておられる方なのでアブラハムの時代にも、イサクの時代にも、ヤコブの時代にも、モーセの時代にも、そして今も生きておられる方です。また、この御言葉はアブラハム、イサク、ヤコブも現在生きていることを意味します。彼らは死にましたが全能の神様は彼らを生き返らせてくださいました。そして、彼らは神様とともに生きています。イエス様の御姿が変わられた時にもモーセとエリヤが現われました。

アブラハム、イサク、ヤコブは復活の望みの中で生きた信仰の先祖達です。彼らは神様の祝福によって豊かな生活をしていましたが、永遠の神の国を望んでいたのでこの世では旅人として天幕生活をしていました。そして、死んでマクペラの洞穴に葬られました。このような彼らを神様は喜ばれ、復活の新しい命を与え、神の国で永遠に生きるようにしてくださいました。私達はまだ若いですが、いつかはこの世を去る時が来ます。先週24日、格闘技K?1のアンディ・フグ選手が急性白血病で死にました。彼は一ヵ月前までもリングの上で戦っていた哲人と言われていた人でした。そのような彼がまだ35歳の若さで急死しました。彼は病室で「今までで最強の敵ですが、必ず勝ちます。」と言いましたが、死と言う敵には勝つことができませんでした。私は彼のことを考えながら彼の人生が空しいと思いました。ところが、もし100年を生きるとしても結局は死んでしまうと思ったら、どんな人生も空しいものです。そのように思う人は「明日は死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」と言うでしょう。しかし、人生は死で終わるのではありません。死後には栄光の復活があります。私達はみな新しい体でよみがえり、神の国で永遠に生きるようになります。そこには病気もありません。事故もありません。アルバイトもありません。そこにはもはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。その神の国で愛するイエス様と永遠に生きることは何とすばらしいことでしょうか。使徒パウロはそのすばらしさを知っていた故に、「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。」と言いました(ピリピ1:23)。私達にこのすばらしい生ける望みを与えてくださった神様に感謝します。私達がこの望みの中でこの世で旅人の人生を送ることができるように祈ります。

イエス様は27節で結論的に神様がどんな方であるかを言われました。27節をご覧ください。「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」「死んだ者」とは、どんな人でしょうか。死んだ者は生きていない者です。死んだ者は言うことも、働くことも、考えることもできない者です。死んだ者は何の希望もビジョンも意欲もありません。もし神様がこのような死んだ者の神だったら神様も死の力には勝てない方であり、力の限界がある方であり、過去活動した偉い人のような存在です。しかし、イエス様は言われます。「神は死んだ者の神ではありません。」神様は死の力に支配される無能な方ではありません。神様は過去生きていましたが、今は死んだ方ではありません。神様は博物館に保管されている方ではありません。神様は生きている者の神です。生きている者とはどんな者でしょうか。生きている者とは今息をしている人、動いたり、考えたり、働いたりしている人です。生きている人は希望があり、ビジョンがあり、熱情があります。神様はこのように生きている者の神です。神様は永遠に生きておられる方です。それだけではなく人々に永遠のいのちを与えてくださる方です。この神様は死んだ者も生き返らせる方です。それでヨハネの福音書11:25、26節でイエス様は次のように言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」「生きている者」は復活の信仰を持っている者です。信仰によって生きている人です。神様の約束を信じ、復活を信じている人です。生きている者は、復活のいのちがあるので明るく、肯定的です。生きておられる神様がいつもともにおられるので何も恐れません。その人は神様の力を体験します。

ところが復活の信仰がない者、すなわち、サドカイ人達のような死んだ者は、否定的、運命的な生活をします。彼らの考えは死に、表情も死んでいます。彼らは、生きているが死んだも同様な者です。「できない。むなしい。無意味。絶望的だ。」という言葉がいつも口から出て来ます。そのような人は神様を見ることも神様の力を体験することもできません。ですから、私達は不信仰を悔い改めて生きた者の神様、全能の神様を信じなければなりません。すると、すべての限界や絶望、恐れを克服して勝利の人生を送ることができます。神様は死んだ者の神になることを願われません。足りなくても弱くても信仰によって生きる者の神になることを願われます。私達が生きた信仰を持って全能なる神様、復活の力を体験することができるように祈ります。