2000年マルコの福音書第2講

 

人間をとる漁師にしてあげよう

 

御言葉:マルコの福音書1:16?28

要 節:マルコの福音書1:17

「イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』」

 

先週、私達は「福音を信じなさい」という御言葉を学びました。福音を宣べ伝え始められたイエス様は、その後、まず福音の働き人を呼ばれました。イエス様は何人かの漁師達を、人間を取る漁師として呼ばれました。この世を海にたとえるなら、人々は航海する間にいろいろな物を取ります。ある人はお金を取ります。ある人は学問を取り、ある人は名誉と権力を取ります。ところが、イエス様は漁師達を、人間を取る漁師として召されました。彼らを弟子として召されました。イエス様は弟子として召された人を育ててくださいます。今日の御言葉を通してイエス様の弟子として召されたことがどれほど大きな恵みであるのかについて学びたいと思います。また、私達がイエス様について行くことによって罪と死の海に溺れている人々を救う御業に尊く用いられるように祈ります。

 

?.弟子たちを召されたイエス様(16-20)

 

16節をご覧下さい。「ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。」イエス様はガリラヤ湖のほとりを通られました。ガリラヤ湖は「ゲネサレ湖」とか、「テベリヤの湖」とも呼ばれています。この湖は南北20キロ、東西12キロの大きな湖です。この湖はいつも水がきれいで魚も多くあるそうです。この湖畔にはカペナウム、マグダラ、コラジン、テベリヤなどの町があり、イエス様の活動の舞台となっています。イエス様はそこを通られるとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になりました。彼らは趣味で網を打っていたのではありません。彼らは漁師として生活のために網を打っていたのです。それは私達が生活のために職場で働いていることと同じです。大抵の人々は職場の生活によってストレスを受けています。小渕総理が入院していてこん睡状態が続いていますが、総理としての仕事は激務であったと伝えられています。人々は激務でストレスを受けながらも生きるために仕方なく働かなければなりません。人々はもっと豊かな生活のために熱心に働いています。しかし、いくら豊かな生活ができてもいつか死ぬことを考えると、人生は空しくなります。人々は「何のために生きるべきか、もっと意味ある人生は何か」などを考えます。ある人はお金こそ人生をすばらしいものにするに違いないと思い、そのお金を追い求めています。また、ある人は一度だけの人生を思いっきり楽しむために次から次へと快楽を追い求めています。一方では、慈善事業やボランティア活動を通して人生の意味を見出そうとする人々もいます。これはとてもいいことです。しかし、心にある空しさを解決することはできません。これらの活動は、心の空しさを一時的にしか覆い隠すことができないのです。シモンとアンデレもまじめに働いていましたが、心の問題を抱えていたに違いありません。彼らは毎日繰り返される生活に疲れていました。彼らはもっと意味ある人生、本当に幸せな人生とは何かを考える人々でした。また、考えるだけではなく、真理を捜し求めている人々でした。エレミヤ29:13節は次のように言っています。「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」イエス様は福音の働き人を探しておられました。そして湖で網を打っているシモンとシモンの兄弟アンデレをご覧になりました。イエス様は熱心に働いていますが、人生の空しさに苛まれている彼らをご覧になりました。イエス様は海でいつ死ぬかわからないので、恐れと不安を感じながら生きている彼らをご覧になりました。人生の目的と意味を知らなくて苦しんでいた彼らをご覧になりました。そして、イエス様は彼らのたましいの叫びを聞いておられました。イエス様は人のうわべをご覧になるのではなく、人の心をご覧になる方です。

今年も早稲田大学に一万人を超える大勢の新入生達が入学しました。私達は先週毎日キャンパスで新入生を募集しました。特に、パイオニアチームとヨハネチームの牧者達、そして、山内兄弟や〇〇兄弟達が一生懸命にチラシを配りながら参加しました。ところが、大多数の学生達は聖書勉強に興味を示しませんでした。早稲田UBFの隣にはバスケットボールのサークルがありましたが、そこには多くの学生達が集まって来ました。しかし、私達はむりやりに連れて来なければなかなか登録しようとしませんでした。それで私達もバスケットボールサークルやバイオリンサークルを作りましょうと言う方もいました。しかし、このような学生達の反応を見て失望してはなりません。なぜなら、少ないですが、その中にはシモンやアンデレのような人々がいるからです。イエス様は大勢の人々の中で少人数の弟子たちを選び、彼らを育てられました。私達はこのイエス様から学び、キャンパスでシモンやアンデレのように真理を探し求めている学生達を探さなければなりません。神様は私達の祈りを聞かれ、早稲田大学で51人、東大で14人の新入生を登録させてくださいました。彼らが聖書勉強につながり、福音を信じることができるように祈ります。また、彼らの中でシモンやアンデレのような霊的な指導者達が生まれ育つように祈ります。

17節をご覧下さい。イエス様は彼らに言われました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」この御言葉にはどんな意味が含まれているのでしょうか。

第一に、「わたしについて来なさい」とは、彼らを弟子として召される御言葉です。イエス様は弟子たちを探しておられました。弟子は先生に学ぶ人です。イエス様は彼らを、一生イエス様を学ぶ弟子になるように召されました。大学は四年間勉強すれば卒業ですが、イエス様の弟子学校は卒業がありません。イエス様の弟子は生涯教育を受ける学校に入るのです。ですから、イエス様の弟子として召された人は、一生学びつつ、成長して行くことができます。イエス様はシモンとアンデレにどうすればもっと多くの魚が取れるかを教えるために弟子としたのではありません。彼らを、いのちを生かす神様の御業に用いるために弟子として召されたのです。シモンとアンデレは今までガリラヤ湖で熱心に働きながら、真面目な生活をしていました。彼らの夢は熱心に働いて自分の舟を所有することであったかも知れません。ところが、その目的は自分と自分の家族のためでした。人は自己中心の生活をするとき、幸せになれると思いますが、実はそうではありません。自己中心の生活は神様の創造の目的から外れた生活です。そのような人生は的を外れた矢のようにいくら遠く飛んで行っても神様が願われる目標に到達することができません。イエス様を中心とした生活は神様と隣人のために生きることです。神様と隣人のために生きるとき、真に幸せな人生になります。このように神様の召されはその人の人生を意味があり、価値がある人生、幸せな人生、偉大な人生にします。イエス様はシモンとアンデレを弟子として召されることによって、彼らがどんな人生を送るべきか、その方向を示してくださいました。

第二に、彼らを弟子として育ててくださると言う約束です。イエス様は彼らに「人間をとる漁師にしてあげようと。」と約束されました。それではどうやって彼らが人間を取る漁師になることができるのでしょうか。イエス様は「わたしについて来なさい。」と言われました。イエス様について行けばイエス様が育ててくださいます。イエス様は私達が足りなくてもイエス様の弟子学校に入れば責任を持って育ててくださいます。最初から偉大な人として生まれた人はいません。偉大な人は養育されるのです。聖書の中に出ている偉大な主のしもべたちはみな神様に養育されて神様の御業に尊く用いられました。ノアは100年間養育されました。アブラハムは25年間養育されました。アブラハムは子供もない75歳の年老いた人でした。彼には大きな希望がありませんでした。しかし、神様はこのようなアブラハムを召されました。そして、彼を祝福の源とし、彼を信仰の先祖として育ててくださいました。ヨセフは13年間、モーセは40年間養育されました。神様の養育を受けていなかったとき、モーセはどうやって自分の民を救おうとしましたか。彼は民を助けるつもりでしたが、むしろ血気によって人を殺してしまいました。そのような状態では神様の働き人として用いることができませんでした。それで、神様は彼を荒野に導かれ、40年間養育されました。その後、彼は謙遜な人となり、イスラエルの民をエジプトの奴隷から解放する御業に尊く用いられました。ヨシュアは40年間、エリシャは10年間、ダビデは20年間養育されました。イエス様の弟子達も、パウロも同じくこの神様の養育の過程を通りました。シモンとアンデレは一生ガリラヤ湖で魚を取りながら人生を送るはずの人々でした。彼らはいつ突風に会って湖に溺れて死ぬか知りません。彼らは一生懸命働いて将来ガリラヤ地域の漁師労働組合長になる夢を持っていたかも知れません。しかし、それが彼らを救うことはできません。しかし、イエス様は彼らを弟子として召され、彼らを罪から救われ、偉大な主のしもべとして育ててくださいました。神様はこの養育過程を通して肉的な人を霊的な人に、自分に頼っていた人を神様に頼る人に変えてくださいます。この養育過程を通った人はみな、時になると神様が尊く用いてくださいます。反面、その養育過程を通らない人はたとえ人間的な能力や才能が多くあっても、主の働き人として用いることができません。ダビデとサウルの違うところはどこにあるのでしょうか。サウルは立派な家系の人でした。彼は美しい若い男で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいませんでした。彼は民の誰よりも、肩から上だけ高い人でした。すなわち、彼は背が高くて力持ちでした。彼は勇ましい勇士でした。ダビデもこのようなサウルと似ています。それでは二人にはどんな違うところがあったのでしょうか。サウルは神様の養育過程なしにイスラエルの王になりました。その結果、彼は高慢になりました。結局、彼は戦いのさなかに倒れて自殺するようになりました。ダビデはサウルから逃げて荒野で20年間神様の訓練を受けました。彼はその過程を通して神様の心にかなった人になりました。彼は神様の偉大なしもべになりました。皆さんはどんな神様の養育過程の中にいますか。その養育過程は荒野の生活です。苦しみがあります。神様は私達を愛し、神様の御業に用いられる器になるように育ててくださいます。私達がイエス様の召されに従い、この時代に必要な人間を取る漁師になることが出来るように祈ります。

私達が、神様に神様に召されたのは大きな恵みです。私達がキャンパスの牧者、あるいは宣教師として召されたのは、私達に何か資格があったからではありません。それは一方的な神様の恵みによるものです。それで使徒パウロは「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(?コリント15:9、10)と言いました。私達が働けない年寄りになってからではなく、力ある若い時にイエス様の弟子として召され、救いの御業に用いられているのは神様の恵みです。イエス様は私達を召されただけではなく、人間を取る漁師として育ててくださいます。漁師は自分のために働く人ですが、人間を取る漁師は神様と隣人のために働く人です。また、漁師は魚を殺す仕事をしますが、人間を取る漁師は人のたましいを生かす仕事をします。人間を取る漁師は一人の救いに最高の価値を置きます。ですから、人間を取る漁師は人を尊く思い、愛します。人間を取る漁師は罪の海で溺れている人にいのちの綱である福音を宣べ伝えます。さらに、その福音によって神様に用いられる人になるように助けます。ですから、この仕事こそ世のどんな仕事よりも価値があり、意味があります。はっきりとした人生の目的と意味があります。ダニエル書12:3節にはこう書いてあります。「多くのものを義としたものは、世々限りなく、星のようになる。」人を生かす喜びは世のどんな喜びにもまさるものです。

イエス様は弟子達に大きな望みを持っておられました。漁師である彼らの現在の姿を考えて見ると、望みを持つことが難しいことでしたが、イエス様は彼らが人間を取る漁師になる望みを持っておられました。イエス様は私達をご覧になるときも、現在の姿より将来偉大な主のしもべとして成長する望みを持ってご覧になる方です。

それでは、シモンとアンデレはイエス様に召された時、どんな反応を示しましたか。18節をご覧下さい。「すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。」彼らはイエス様から召された時に損益を計算せず、従いました。イエス様について行くためには勇気が必要です。勇気ある人こそ使命人になることができます。19,20節をご覧下さい。「また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。」イエス様は、今度はヤコブとヨハネを呼ばれました。すると、彼らもすぐイエス様について行きました。彼らは正しいと思うことに自分を犠牲にする勇気がありました。網は彼らの生活の手段でした。家族や生活の手段を捨ててイエス様に従うことは、彼らにとって大きな決断でした。しかし、彼らはためらうことなく従いました。彼らは誰から強いられてではなく、自発的にイエス様の弟子学校に入学しました。その学校は恵みと真理が満ち溢れている学校です。いのちと喜びがある学校です。この学校はどんなに足りない者でも信仰によって入学する人を偉大な人として育てます。彼らがイエス様に召された時、すべてのものを捨てて従うことができたのは、それこそ一番価値あることだと思ったからです。使徒パウロもキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思いました。彼はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思いました。それは、彼がキリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、信仰によって義と認められるためでした(ピリピ3:7-9)。神様は私達の捧げる小さな犠牲も大きく祝福してくださいます。本気で主と福音のために捨ててみた人はそれを体験することができます。主に従うと言いながら、自分は何も捨てない人は主を学ぶことができません。神様の召されに従う人を主は祝福してくださいます。それを信じる人は、自分のものを捨てることができます。なぜなら、自分が捨てるものは神様が与えられる祝福に比べると取るに足りないものであることを知っているからです。

 

?.御言葉の権威者イエス様(21-28)

 

21節をご覧下さい。「それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。」イエス様はカペナウムにある会堂にはいって教えられました。22節をご覧下さい。「人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」イエス様の教えは権威がありました。イエス様の教えは人々の心を動かしました。マルコはイエス様の教えは律法学者たちのようではなかったと言っています。それは律法学者たちの教えは権威がなかったということです。なぜ彼らの教えには権威がなかったのでしょうか。彼らは教えることと実生活が違ったからです。人々に対する哀れむ心がなかったからです。また、聖霊の力を受けなかったからです。

しかし、イエス様の教えには権威がありました。イエス様は神様の御言葉、いのちの御言葉を教えられました。神様の御言葉には力があります。神様の御言葉は私達を癒し、励まし、救う力があります。イエス様は人々の内面の苦しみや傷を深く理解し、彼らを深く愛されました。イエス様は聖霊の力を受けられました。そういうわけですから、イエス様の教えは権威がありました。このような霊的な権威は神様から来るものです。

イエス様の御言葉は具体的にどんな人に働きましたか。23,24節をご覧下さい。「すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。『ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。』」汚れた霊は神様の御言葉を聞くのを嫌がります。汚れた霊は福音の御業を妨害します。イエス様と関係性を結ぼうとしません。また、汚れた霊はイエス様を恐れます。

イエス様はその人をどのように助けてくださいましたか。25、26節をご覧下さい。「イエスは彼をしかって、『黙れ。この人から出て行け。』と言われた。すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。」イエス様は汚れた霊につかれた人と汚れた霊とを区別してご覧になりました。そして、その人のうちに入っている汚れた霊をしかられました。「黙れ。この人から出て行け。」すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行きました。イエス様の御言葉は悪霊を追い出す権威があります。イエス様の御言葉は生きておられる神様の御言葉です。

27節をご覧下さい。人々はみな驚いて、互いに論じ合って言いました。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」彼らはイエス様が普通の人ではなく、神様からの権威を受けた方であることを悟りました。こうして、イエス様の評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まりました。

 結論、イエス様はガリラヤの漁師たちを、人間を取る漁師として召されました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」イエス様は私達を、人間をとる漁師として呼ばれます。私達がこのイエス様について行くことによって、罪と死の海に溺れている人々を生かす御業に尊く用いられるように祈ります。