2000年マルコの福音書第19講

人の子が来たのも

御言葉:マルコの福音書10:32?45

要 節:マルコの福音書10:45

「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、

また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

人は誰でも偉くなりたいと思っています。一度しかない人生をどうすれば価値があり、生きがいのある人生として送ることができるかを思います。今日の御言葉は、誰が一番偉いのか論争していた弟子達にどんな人が真に偉いのかを教えてくださったイエス様の御言葉です。また、どのようにすれば偉大な人生を送ることができるのか、その秘訣を教えてくださった御言葉です。何よりもイエス様はその模範を示されることによって、私達がその足跡をたどっていくようにしてくださいました。この時間、仕えるために来られたイエス様について学び、真に偉大な人生、生きがいのある人生を送ることができるように祈ります。

?.先頭に立って歩いて行かれたイエス様(32-34)

32節をご覧ください。イエス様は神様の御旨に従って十字架につけられ死ぬためにエルサレムに上る途中でした。イエス様に置かれた神様の御旨はイエス様が人類を罪から救うために神の小羊として十字架につけられ死なれることでした。イエス様はエルサレムには悲惨な十字架が待っているのを知っておられました。それを知っていながらエルサレムに向かって行く道は非常に孤独な道であり、大きな苦しみがある道でした。できれば避けたいと思い、足が重くなる道でした。しかし、イエス様はどうでしか。イエス様は先頭に立って歩いて行かれました。イエス様は避けようとすれば避けられる道を先頭に立って歩いて行かれました。ここにイエス様の勇気が見られます。それはイエス様が神様の御旨に従って十字架を負う決断をなさったからです。イエス様のこの決断によって私達は罪の赦しと救いの恵みを受けるようになりました。私達が宣教師あるいは牧者として主と福音のために生活するためには十字架を負う決断と覚悟をしなければなりません。それは私達の信仰生活において大切なことです。苦難は私達の人生の中で避けられないものです。しかし、どんな姿勢を持って苦難に向かうかによって結果は全く違います。この前、東京UBF日韓戦サッカ大会がありました。その時、〇〇牧者が日本チームのメンバ達に「逃げないで。逃げないで。」と叫ぶ声を聞きました。ボールが来るのを恐れて逃げる心があれば試合に勝つことができません。同じく苦難に対して逃げようとすればするほどその人の人生において苦難は何の意味もないものになります。苦難によって大きな苦しみを受け、失望し、絶望するだけです。しかし、この苦難に立ち向かう時、私達はその苦難によって信仰が成長するようになります。また、人々を救いに導くことができます。最近、SBCのメッセージを準備している牧者達はメッセージの準備で苦労しています。それでこのような苦労から逃げようとする心を持っている人もいるかも知れません。しかし、苦労があっても最善を尽くしてメッセージを準備する時、主はそのメッセージを通して大きな働きをしてくださることを信じます。私達が十字架に向かって先頭に立って歩いて行かれたイエス様の足跡をたどって行くように祈ります。

イエス様が苦難に向かって進んで行かれる様子を見た弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えました。すると、イエス様は再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められました。33、34節をご覧ください。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」この御言葉は三回目イエス様が弟子達に言われたことばです。最初に言われたのはペテロが信仰告白した後でした。その時、ペテロはイエス様をいさめたのことでイエス様から厳しく叱られました。二番目は悪霊につかれた子供を癒して下さった後です。しかし、弟子達は、この御言葉が理解できませんでした。また、イエス様に尋ねることさえ恐れていました。イエス様は弟子達に段々詳しく御自分が受ける苦難と死に対して言われました。それでは、イエス様はなぜ弟子達が理解できず、尋ねることさえ恐れているのに繰り返して十字架の言葉を言われるのでしょうか。

第一に、弟子達の心を用意させるためでした。イエス様はこれから苦難を受け、十字架につけられ死ななければなりません。ところが、弟子達はそれを受け入れる心の準備が全くできていませんでした。このように心が準備されてないのにいきなりに大きな衝撃を受けると躓きやすいです。イエス様は彼らがつまずかないように十字架の死と復活が神様の御旨の中で行われていることを繰り返して教えてくださったのです。

第二に、福音の真理を教えるためでした。イエス様が十字架につけられ死なれ、よみがえられることは福音の核心です。弟子達はイエス様をキリストとして告白しましたが、まだ福音の奥義をよく知りませんでした。彼らはエルサレムに行けば偉くなることばかり考えていました。彼らは十字架を恐れ嫌っていました。十字架の言葉が出るとアレルギー反応を起こしました。しかし、十字架の教えは必ず受け入れなければならない福音の真理です。それでイエス様は彼らに福音の真理を教えるために繰り返して言われました。イエス様は弟子達が十字架を愛し、積極的に自分の十字架を負う人になることを願われました。後に弟子達はイエス様が言われた福音の奥義を悟り、十字架を愛し、積極的に十字架を負う人たちになりました。

ここで私達はイエス様を通して人をどのように助けなければならないかを学ぶことができます。私達は兄弟姉妹達を助ける時に時には食べる物を用意して仕えます。時には御言葉を教えます。祈ってあげます。まるで母が子供の面倒を見るように繊細に仕えます。このような牧者の愛によって兄弟姉妹達に神様の愛と恵みが何かを知るようになります。しかし、このようなことだけでは足りません。それからさらに進んで十字架を教えなければなりません。ところが、それはやさしいことではありません。なぜなら人の本性は十字架を嫌っているからです。十字架なしに恵みや祝福だけを受けたい心を持っているからです。しかし、キリスト教で十字架を除いたらキリスト教は成り立ちません。イエス様の十字架と復活はキリスト教の土台なのです。牧者の愛が砂だとすれば十字架はシメントのようなものです。この二つがよく混ぜ合わされると堅い福音の基礎が作られます。このような人はどんな迫害や誘惑が押し寄せて来ても揺れることない福音の家を建てることができます。しかし、十字架を学ぶことができなかった人はまるで砂の上に家を建てた人のようです。結局恵みだけを受けて自分勝手な道を行ってしまいます。ですから兄弟姉妹達をよく助けることは十字架の道を教えることです。

?.ヤコブとヨハネの要求(35?41)

イエス様が十字架の苦難に対して教えておられた時、弟子達は何を考えていましたか。35節をご覧ください。さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエス様のところに来て言いました。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」彼らはまるで子供達が自分の欲しいものを親に買ってもらいたいと思って指切りげんまんをするように言いました。彼らはイエス様に恵みを求めるのではなく、債権者が当然の権利を要求するような姿勢を持って言いました。今まで主のために何もかも捨てて献身したので当然の報いを受けるべきだという姿勢です。イエス様は彼らに言われました。「何をしてほしいのですか。」すると、彼らは「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」と要求しました。

それでは彼らはなぜイエス様がエルサレムに上って行かれる時にこのようなことを要求したのでしょうか。彼らはエルサレムが近づくと焦り始めました。彼らはイエス様がエルサレムに上られメシヤ王国を建設すると主なる大臣になりたいと目指していました。彼らは野心家でした。一度ならず、イエス様が彼らを、選ばれた三人の弟子達に加えられたので、多分彼らの野心がかき立てられたのでしょう。彼らは自分達には第一級の地位が与えられるものと考えていました。ところが、一つ気になることがありました。それはペテロの問題でした。彼らはいつもペテロと比較していました。彼らは競争心と妬みで苦しんでいました。ある日、イエス様は弟子達に「あなたがたは、わたしをだれだと思いますか。」と尋ねられました。すると、ペテロが「あなたは、キリストです。」と言いました。それを聞いたヤコブとヨハネはペテロがイエス様から認められたと思い、妬みのゆえに心がうるさくなりました。「あー、くやしいな。私も知っていたのに。」と思ったかも知れません。しかし、その後ペテロがイエス様から「下がれ。サタン。」と叱られた時には内心非常に喜びました。彼らは人間的な野心のため霊的な目が暗くなりました。彼らはイエス様が言われた言葉をほとんど理解していませんでした。

イエス様は野心のために霊的な目が暗くなっている彼らを見て心を痛められたでしょう。彼らが求めていることがこの世の権力者と全く同じであることに驚いたでしょう。それではイエス様は彼らが栄光を受けるためにまず払うべき代価が何であると話されますか。38節をご覧ください。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」ここで杯は悲しみと苦しみの杯です。バプテスマは十字架の死を意味します。イエス様は彼らがイエス様とともに栄光を受ける前にまず十字架の苦難に参加する覚悟ができているかどうかを聞かれました。イエス様は二人の弟子達に、十字架なくしては栄光がないことを教えて下さいました。イエス様の質問に対してヤコブとヨハネは「できます。」と答えました。彼らは「総理大臣にならせてくださるなら、何でもできます。」という気持ちでした。イエス様は彼らの答えをどのように受け入れられましたか。39節をご覧ください。イエス様は言われました。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。」イエス様は彼らが野心を持ってそのように言いましたが、彼らの答えを認めてくださいました。彼らの答え通りにヤコブは弟子達の中で最初の殉教者となりました。彼はヘロデ王によって剣で殺されました(使徒12:2)。また、ヨハネは同じようには殉教の死はとげませんでしたが、彼はキリストのために多くの苦しみを受けました。しかしイエス様は栄光に対してはどのように言われますか。40節をご覧ください。「しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」栄光は神様の主権に属することです。確かなことは神様の御旨に従うために苦難を受ける人には神様からの報いがあるということです。

41節をご覧ください。十人の弟子達がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てました。それは、ヤコブとヨハネが彼らを出しぬき、きたない利益を得ようとしていると思ったからです。それを見ると、ヤコブとヨハネだけえではなく弟子達みな同じく権力に対する欲があったことがわかります。彼の欲のために彼らの友情が破壊されてしまう恐れがありました。イエス様はこのような彼らを呼び寄せて、イエス様の国における偉大さと、この世の王国の偉大さの基準の違いについて言われました。また、誰が一番偉いかと論争する弟子達に本当に偉い人はどんな人であるかを教えてくださいました。

?.仕える者の道理を教えられたイエス様(42?45)

42節をご覧ください。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。」この世の王国における偉大さの基準は権力です。今日も権力を握った人は上から指示し命令します。すると、人々はその命令に服従します。権力を持っている人は多くの人々が仕えてくれます。人々は権力があれば何でもできると思います。ですから一度権力を握ると絶対にそれを放そうとしません。弟子達はそのような世の支配者達の影響を受けていました。このような弟子達にイエス様は何と言われますか。43、44節をご覧ください。「しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」イエス様は「しかし、あなたがたの間では、そうではありません。」と言われました。それは、弟子達は世の人々が持っている価値観とは違う価値観を持たなければならないことを教えてくださいます。イエス様の国においては、偉大さの基準は仕えることです。偉大さは、自分のために他の人々を従わせることではなく、人々に仕えるために、自分自身を従わせることです。

人々は仕えられる人が偉いと考えます。しかし、イエス様は「偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」と言われました。人々は社会的な地位のある人や権力を持っている人が偉いと思います。しかし、イエス様は「人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」と言われました。真に偉大な人は仕える人、みなのしもべになる人です。

それではイエス様が言われた、「仕える人、みなのしもべ」とは具体的にどんな人でしょうか。

第一に、謙遜な人です。仕える人の一番大きな特徴は謙遜です。謙遜は「他人を自分より優れた者だ」と思う心です。私達は他人に仕える時、「私はあなたよりすぐれている」という優越感を持ちやすいです。しかし、優越感を持って仕える時、相手は快く受け入れません。ですから、私達が人々に仕えるためには謙遜でなければなりません。謙遜な心は、人は誰でも神様の前で平等であり、神様のかたちに似せて造られた尊い存在であることを認める時に生じます。人は誰でも尊い存在です。人は誰でも長所があり短所があります。謙遜な人は人の長所は生かし、短所は担います。このように謙遜に仕える人を人々は心から尊敬します。仕事や勉強などで疲れているのにもかかわらず、センターに来た兄弟姉妹達を笑顔で迎えて遅くまで聖書勉強によって仕えている方を見ると、恵みを受けます。年上ですが、年下の学生達に謙遜に仕えている方を見ると恵みを受けます。貧しい生活の中でも同労者達や兄弟姉妹達を食事に招いて仕えている方を見ると、恵みを受けます。このように謙遜に仕える人々がいるところに主の御業は起こります。モーセが偉大な人だったのは、謙遜に奴隷の民に仕えたからです。聖書は彼について「さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」(民12:3)と記しています。

第二に、他人のために自分を犠牲にする人です。仕える人は自分の有益より他人の有益を求める人です。そのためには献身と犠牲が必要です。人には自分の有益のためにはどんな犠牲も惜しみませんが、他人の有益のために自分を犠牲にすることは惜しむ心があります。しかし、仕える人は自分の時間と物質とすべてを捧げて他人のために犠牲にする人です。このように他人のために自分を犠牲にする人が真に仕える人であり、偉大な人です。

第三に、心が病んでいる人をあるがまま受け入れ癒す人です。多くの人々は心の病を患っています。外見は何の問題もなさそうに見える人でも実際には心が病んでいる人々が多くいるのです。本気で聖書を学んでみると、誰でも病んでいる自分を知ることができます。そして、その病が罪から来たことを知るようになります。罪と言う病はこの世のどんな薬によっても、立派な医者によっても癒すことができません。その病気はただ罪人を招くために来られたイエス様だけが癒すことができるのです。イエス様はどんな病人でもあるがまま受け入れ癒してくださいます。私達はこのように心が病んでいる人を見ると、その人を判断したり、裁いたりしやすいです。しかし、そのような人を判断したり、裁いたりすることは仕える人が持つべき心構えではありません。それよりあるがまま受け入れ忍耐を持って助ける人が仕える人です。具体的に罪によって病んでいる人々のために祈り、聖書の御言葉を教える人です。さらに神様に用いられる人として成長するように助ける人が仕える人です。

このように仕える人が偉大な人です。偉大さの尺度はどれだけ大きな権力を持っているかではなく、どれだけ多くの人々に仕えることができるのかにかかっています。それは決してやさしいことではありません。人は誰でも自分を低め、犠牲にするより自分を高くし、人々から認められたい心があるからです。ですから、人に仕えることは自然にできるものではありません。高くなりたい、認められたい本性を否認して自分を低くし、他人のために自分を犠牲にするためにはイエス様を見習う生活に励まなければなりません。イエス様は弟子達に仕える人になりなさいと教えてくださっただけではなく、自ら模範を示してくださいました。45節をご覧ください。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」イエス様は本来天地万物を創造された創造主として人々から仕えられるにふさわしい方です。しかし、イエス様は仕えられようとする心を否認されました。むしろ積極的に仕えることを決心されました。そして生涯多くの人々に謙遜に仕えてくださいました。罪によって病んでいる人々をあるがまま受け入れ仕えてくださいました。イエス様の生涯は、仕えることに徹底された生涯でした。それは、自分によいことをしてくれる人にだけでなく、ご自分を裏切ったイスカリオテのユダの足をも洗われたように、すべての人に仕えてくださったからです。イエス様は人々に仕えるためにすべてのことを犠牲にされました。イエス様は多くの人々にいのちを与えるためにご自分の命さえも犠牲にされました。イエス様が人々に仕える生涯のクライマックスは罪人を生かすために十字架につけられ死なれたことです。イエス様は人類を救うために一つしかない尊い命を犠牲にされたのです。この犠牲によって罪人が救われ、永遠の命を得るようになりました。ですから、このイエス様こそ一番偉大な方です。

私達は利己的なこの世で仕える人の模範を示してくださったイエス様を積極的に学ぶ時、多くの人々に仕える偉大な人生を送ることができます。救いの御業が起こるところには必ず誰か仕える人々がいます。その人は人々が認めてくれなくても神様は認めてくださいます。その人は真に偉大な人です。

結論、イエス様は様々な罪人に仕えてくださいました。イエス様は野心家であった弟子達に最後まで仕えてくださり、彼らは多くの人々に仕える偉大な人々になりました。さらにイエス様は人類の罪のために十字架につけられ死なれることによって罪人に仕えてくださいました。このイエス様によって私達は罪から救われ、永遠のいのちを得るようになりました。私達が仕えるために来られたイエス様に見習い、多くの人々に仕える者となるように祈ります。