2000年マルコの福音書第16講

彼の言うことを聞きなさい

御言葉:マルコの福音書9:1?13

要 節:マルコの福音書9:7

そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、

「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。

マルコの福音書9章からはイエス様がエルサレムに行く途中あった出来事とエルサレムで受けられる苦難と十字架の死、復活に関する出来事が記されています。今日の御言葉はイエス様の御姿が変わられた出来事です。今日の御言葉を通して御姿が変わられたイエス様はどんな方であり、また、私達が聞かなければならないイエス様の御言葉は何かについて学びたいと思います。

?.御姿が変わられたイエス様(1-4)

1節をご覧ください。イエス様は弟子達に言われました。「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」この御言葉は8章に続く御言葉として十字架に関する御言葉を負担に思っていた弟子達に神の国に対する望みを与えてくださった御言葉です。8章でペテロの信仰告白を聞いたイエス様はご自分がキリストとして受ける苦難と死、復活に対して教えられました。その時、ペテロは激しく反発しました。イエス様はこのようなペテロをお叱りになりました。弟子達は、エルサレムに死ぬために行くというイエス様の言葉に衝撃を受けて恐れと悲しみ、失望に満たされていました。特にイエス様から「サタン」と叱られたペテロはもっとそうでした。イエス様はこのような彼らに視聴覚教育を通して復活の栄光を見せてくださることによって十字架の教えを受け入れるように助けようとされました。「神の国が力をもって到来する」とは、近くは六日たってイエス様の御姿が変わられる出来事を言っています。また、イエス様の復活の事件を言っています。イエス様は苦難に対して恐れている弟子達に将来彼らが受ける復活の勝利と栄光に対して言われました。

2節をご覧ください。イエス様が弟子達に十字架の苦難と復活を教えてから六日たって、イエス様は、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれました。そこで、どんな驚くべきことが起こりましたか。2b,3節をご覧ください。「そして彼らの目の前で御姿が変わった。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。」イエス様は栄光の御姿に変わられました。これは着替えたような変化ではありません。これは本質的な変化です。まるでさなぎが蝶々に変わるような変化です。さなぎはみすぼらしいものですが、蝶々になると、自由に空を飛べる美しい姿に変わります。イエス様は制限された肉体を脱ぎ捨てて神の国で暮らせる栄光の姿に変わられたのです。山に上る前のイエス様の姿は罪人に仕えるために見とれる姿もありませんでした。輝きもなく、私達が慕うような見栄えもありませんでした。イエス様は枕するところもない貧しい生活をしておられました。取税人や罪人達の友となって彼らとともに食事をされました。宗教指導者達からはいつも攻撃の的となり、非難されました。イエス様は様々な病気にかかっている人々、悪霊につかれた人々に仕えるために見とれる姿もありませんでした。しかし、イエス様は本来そのような方ではありません。イエス様は天地万物を創造された神様として力と栄光に満ちた方です。変わられたイエス様の姿はキリストの本来の姿であり、死者の中からよみがえられる復活の姿です。再び来られる栄光の主、勝利の主、力ある主の姿でした。その姿はイエス様を信じて従うクリスチャン達が、将来イエス様が来られる時、変えられる栄光の復活の体です(?コリント15:49)。

イエス様が弟子達の見ているところでこのような栄光の姿を見せてくださったのには、どんな意味があるでしょうか。今まで弟子達の目に映ったイエス様はみすぼらしい姿でした。食べ物がなくて麦の穂をつんで食べる時には悲しい考えが生じたでしょう。しかし、彼らがこのような貧しい生活に耐えられたのはイエス様がイスラエルを回復することを期待していたからです。ですから、イエス様が苦難を受けて死なれることを言われるとそれを受け入れることができませんでした。十字架につけられ死なれた後、よみがえることは彼らにとって想像もできないことだったのです。復活の栄光と最後の勝利に対する確信なしに十字架を負うことはできません。

初代教会の聖徒達がローマの激しい迫害の中でも信仰を守ることができた秘訣は何でしょうか。彼らはイエス様が復活されたように自分達も必ず復活し、最後の勝利をするという確信があったからです。彼らはその確信のゆえに迫害の中でも喜ぶことができました。使徒ヨハネはキリストを証ししたゆえに、パトモスという島に島流しされました。そこで彼は幻の中で栄光のイエス様を見ました。黙示録1:13 ?16節に次のように記されています。「それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」使徒ヨハネはこのイエス様を見た時、その栄光に圧倒されてその足元に倒れて死者のようになりました。彼は苦難の中でも栄光のイエス様を覚えていました。

皆さんの心の中にどんなイエス様の姿が刻まれていますか。私達も弟子達のように枕するところもないイエス様、貧しいイエス様、自分の生涯を犠牲にされたイエス様、休まず働かれたイエス様、重い十字架を負われたイエス様だけを考えやすいです。すると信仰生活が重く感じられます。十字架を負うはっきりとした理由と目的を失い、いつまでこのような生活を続けなければならないかと思うと喜びがなくなります。しかし、私達の心に強く照り輝く太陽のようなイエス様、白く光る衣を着ておられるイエス様の姿が刻まれていると私達の信仰生活は変わります。私達が信じて従うイエス様は死の力を打ち破られた復活の主、勝利の主です。このイエス様は光り輝く御座に座っておわれ、世界を治めておられる栄光の主であり、将来大きな力と栄光の中で再び来られる裁き主であり、すべての敵を滅ぼし永遠に治める王の王です。このイエス様を考える時、十字架は負担になるものでも恥じるものではなく、栄光のものになります。できれば十字架を避けようとするのではなく、喜んで十字架を負うようになります。使徒パウロが主のためにそれほど多くの苦難を受けても少しも挫けないで喜びと力に満ちた信仰生活をした理由は何でしょうか。それは苦難の後に来る栄光を見ていたからです。彼は「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」と言いました(ローマ8:18)。ペテロは十字架の言葉を負担に思い、受け入れませんでしたが、復活されたイエス様に出会ってからは姿勢が完全に変わりました。彼が書いたペテロの手紙を見ると、彼は模範的に十字架を愛する人となりました。彼の手紙には十字架による復活の栄光と神の国に対する生ける望みに満たされています。彼は迫害を受けて散って寄留している聖徒達に次のように言いました。「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。」(?ペテロ4:12、13)。

弟子達はイエス様の姿が変わられるのを見て驚いていました。その時、さらに彼らを驚かせることが起こりました。4節をご覧ください。エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエス様と語り合っていました。ルカの福音書9:31節を見ると、彼らは栄光のうちに現われて、イエス様がエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していました。それでは旧約の多くの預言者達の中でモーセとエリヤが現われたのにはどんな意味があるのでしょうか。彼らが現われたのはイエス様の死の意味を教えてくれます。弟子達はイエス様の死を普通の人の死と同じく考えていました。死はすべての終わりであり、敗北であり、失敗だと思いました。特に若い時に宗教指導者達に逮捕されて死ぬことは悲しいことでした。そのためにペテロはイエス様の死を必死に止めようとしました。しかし、イエス様の死はこのような死とは根本的に違います。モーセは、イスラエル民族の最も偉大な律法授与者でした。エリヤは、最も偉大な預言者でした。旧約聖書は律法と預言者だと言います。これはイエス様が旧約聖書に約束されたメシヤであることを言ってくれます。ですから、イエス様の死はメシヤとしての死であり、人類の罪を購うための死です。

また、モーセとエリヤの共通点は苦難を通して栄光に至ったことです。モーセは奴隷の民イスラエルをエジプトから解放し、神様の約束の地に導くために多くの苦難を受けました。また、エリヤも偶像崇拝をしている民を救うために多くの苦難を受けました。しかし、彼らの苦難はイエス様の苦難に比べると取るに足りないものです。イエス様は人類のすべての罪を背負って多くの苦難を受けられました。イエス様は苦難を通して人類の救いの御業を完成されました。モーセとエリヤは生涯多くの苦難を受けたので惨めな姿で現われるはずでした。しかし、彼らは栄光のうちに現われました。彼らは主と福音のために苦難を受ける人がどんな栄光を受けるかを見せてくれた証人です。イエス様はこの出来事を通して弟子達が苦難を受ける姿勢を変えて積極的に十字架を負ってイエス様に従うように助けてくださいました。

?.彼の言うことを聞きなさい(5?13)

この驚くべき光景を見たペテロはどんな提案をしましたか。5節をご覧ください。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」なぜ彼がこのような提案をしたかについて6節は「実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。」と言っています。彼は恐怖に打たれたので自分も知らないうちに本音を言ってしまいました。今までペテロはイエス様に従いながら多くの苦労があったでしょう。時には群衆のために食事する暇もありませんでした。ある時にはとてもお腹がすいていたので安息日に麦の穂をつんで食べました。その時、パリサイ人たちから非難されて喉が詰まりそうになりました。また、ペテロはイエス様の首席弟子としての席を守るためにいつも緊張した生活をしました。ですから、これ以上は苦労したくないと思いました。ペテロは山の上に家を建て、そこでイエス様やエリヤ、モーセとともに楽しい生活をしたいと思いました。山から下りて行くとそこには様々な病気を患っている人々、悪霊につかれた人々が待っていました。同労しにくい弟子達も待っていました。

私達はこのようなペテロをよく理解することができます。昔も今も苦難を嫌がる人間の本性には変わりがないからです。よい成績を取って奨学金をもらいたいと思いますが、勉強はすきではありません。英語を上手に話せるようになりたいが、英語勉強は嫌がります。多くの人々をイエス様に導きたいと思いますが、福音を宣べ伝えることは嫌がります。御言葉のしもべになりたいと思いますが、聖書を読んだり、祈ったりすることは好きではありません。栄光はほしいですが、十字架は避けたい、ここに私達のジレンマがあります。それではそのような信仰生活に喜びがあるでしょうか。そうではありません。十字架がなければ栄光もありません。結局腐敗した本性に従い、滅びるしかありません。

ペテロはイエス様の御姿が変わられ、モーセとエリヤと語り合っていた意味を知りませんでした。神様はこのようなペテロと弟子たちをどのように助けてくださいましたか。7節をご覧ください。 そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がしました。雲は神様の臨在と栄光と威厳を象徴します。神様がこのように直接言われたことはそれがどれほど大切なことであるかを示しています。

それでは弟子達がイエス様の御言葉を聞かなければならない理由は何であり、また、どんな御言葉を聞かなければなりませんか。イエス様は神様の愛する子として絶対権威を持っておられる方です。その方の言葉を聞くか聞かないかは人の命にかかわる大切な問題です。軍隊で将軍の言葉は兵士達にとって絶対的な権威を持っています。それなら神の子イエス様の御言葉は言うまでもありません。それでは弟子達が聞かなければならない御言葉は何でしょうか。それは十字架と復活に関する御言葉です。特に、十字架の言葉は聞くことがいやでも聞かなければならない言葉です。弟子達は十字架の言葉は聞こうとしませんでした。恵みと祝福、罪の赦しなどの御言葉は「アーメン」と受け入れいましたが、苦難と十字架、使命に関する御言葉は「ノーメン」と言いました。しかし、体にいい薬は苦いように私達にいのちを与え、救いを与える十字架の福音は飲み込むのに苦いです。しかし、十字架の御言葉は飲めば飲むほどその深い味がわかります。私はコーヒーをブラックで飲みますが、最初は苦くて味がよくわかりませんでした。しかし、飲めば飲むほど味がわかって、今は砂糖などを入れると美味しくありません。コーヒーは飲んでも飲まなくてもそれほど変わりがありませんが、十字架の御言葉は違います。それを苦いと思い、聞かなければ結局いのちを失うようになるのです。私達は栄光の後ろにはいつも苦難が伴うことを覚えなければなりません。有名なピアニストになるためには毎日10時間の練習をしなければならないそうです。考えてみれば人生自体が苦難の道です。ところがこの道を主と福音の御業のために使命の十字架を負って行くことはどれほど栄光あることでしょうか。ですから、私達は十字架の福音に耳を傾けなければなりません。安逸は人を滅びに至らせますが、十字架は人をいのちの道に至らせます。十字架の言葉は救いに至らせる言葉です。私達が毎日自分の十字架を負ってイエス様に従うことによって栄光ある人生、偉大な人生を過ごすことができるように祈ります。

8節をご覧ください。弟子達が急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエス様だけで、そこにはもはやだれも見えませんでした。イエス様は山から降りられる時、弟子たちに、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と特に命じられました。そこで彼らは、そのおことばを心に堅く留め、死人の中からよみがえると言われたことはどういう意味かを論じ合いました。彼らはイエス様の御言葉がよく理解できませんでしたが、心に堅く留めて考え始めるようになりました。そして、彼らは疑問に思っていたことをイエス様に尋ねて言いました。「律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っていますが、それはなぜでしょうか。」当時の律法学者達はマラキ預言者の予言に基づいてまずエリヤが来てすべてを回復してからメシヤが栄光のうちに現われて治めるようになると教えました。それはローマの植民地として苦難を受けているイスラエル人に勇気と希望を与える教えでした。イエス様はこのような弟子たちに、人の子について、の記録が何であることを教えてくれますか。12節をご覧ください。「エリヤがまず来て、すべてのことを立て直します。では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。」イエス様は、メシヤは栄光を受ける前に必ず多くの苦しみを受け、さげすまれることを言われました。苦難による栄光、これが聖書の教える真理です。ここでイエス様が言われたエリヤはバプテスマのヨハネを指します。彼はエリヤのような心と力によって悔い改めのバプテスマを授けることによってメシヤの道を整えました。しかし、人々は、好き勝手なことを彼にし、彼を殺しました。同じくイエス様はメシヤとしてこの世に来られましたが、人々は受け入れませんでした。イエス様は人々の霊的な無知と高慢と妬みと不従順の罪のために多くの苦しみを受けられ、蔑視を受けられました。しかし、このような苦難を通して人類の救いの御業を完成された後、復活の主、勝利の主、栄光の主となられました。

私達もみな高い山に上って御姿が変わられたイエス様に出会いましょう。そして、このイエス様の姿を心に刻み、喜びを持って自分の十字架を負ってイエス様に従いましょう。私達はサマー・バイブル・キャンプのために祈っています。サマー・バイブル・キャンプを通して聖霊の働きによって自分の罪を悔い改め、罪の赦しと救いの恵みを受けるように祈っています。また、羊たちとともに参加するために祈っています。祈らなければ何も起こりません。しかし、祈ることはやさしいことではありません。それで祈りは労働だとも言います。また、毎日集まって祈ることは大変なことです。しかし、サマー・バイブル・キャンプを成功し、神様の栄光を見るためには心を合わせて祈らなければなりません。人の救いは人間の力によっては不可能なことです。ただ聖霊の働きによってのみ可能です。私達は先週から毎日集まって祈っています。今週からはそれに24時間リレー祈りを始めるようになりました。私達が積極的に祈る時、今年のサマー・バイブル・キャンプを主が大きく祝福してくださることを信じます。安逸は私達を滅びに導きますが、十字架は私達をいのちに導きます。私達が十字架に対するはっきりとした考えを持って主の後に従うことができるように祈ります。