2000年 ローマ人への手紙第1講

 

義人は信仰によって

 

御言葉:ローマ人への手紙1:1-17

要 節:ローマ人への手紙1:17

「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです。」

 

ローマ人への手紙は使徒パウロがローマの聖徒たちに送った手紙です。この手紙はパウロの三次伝道旅行が終わる頃である紀元58年頃コリントで書いたそうです。当時パウロは3年間のエペソ開拓を通して福音の力を体験しました。それによって彼はローマ宣教に対する燃えるビジョンを持つようになりました。

彼がローマ宣教に対するビジョンを持って書いたのがローマ人への手紙です。この手紙は他の手紙とは違って教会内部の問題を解決するために書いた手紙ではありません。この手紙はパウロ自身の神学的な立場を組織的に書いた手紙です。ですから、この手紙を学ぶと福音についてよく知ることができます。ですから、私たちがこのローマ人への手紙をよく学ぶと多くの恵みをいただき、確かに新しく生まれ変わるでしょう。

きょうの御言葉はローマ人への手紙の序論です。本文を通して第一に、福音について、第二に、キリスト・イエスのしもべパウロについて学びたいと思います。

 

?.御名のために(1-7)

 

キリスト・イエスのしもべパウロ(1)

1節をご覧下さい。「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」これはパウロの自己紹介です。彼はまず自分はキリスト・イエスのしもべであると紹介しています。しもべとは奴隷という意味です。当時奴隷は主人が自由に買い売りできる所有物であり、生命の保障もなく、家畜より少しましな程度でした。奴隷には自分の立場や都合は許されず、ただ主人に絶対的に服従しなければなりませんでした。パウロの主人はイエス様です。だからパウロは、それが自分にとってどんなに無理であっても、不都合であっても、ふさわしくないことであっても、キリスト・イエスの言葉であるならば、どこまでも絶対的に服従して行きました。彼は悲しみながら自分がイエス様のしもべであると言っていますか。いいえ。彼はイエス様のしもべとしてのアイデンティティと誇りを持っていました。過去パウロは律法の奴隷であり、罪の奴隷でした。その時、彼には喜びも平安もありませんでした。彼の心は砂漠のように枯れていました。しかし、彼がイエス様に出会い、イエス様を自分の主として受け入れた時、彼の人生は完全に変わりました。イエス様のしもべになる時にのみ真の自由と心の平安があります。マルチリン・ルータは神様に絶対的に服従する道以外に自由になる道はないと言いました。イエス様は尊い血の代価を払って私達を買い取られました。ですから私はイエス・キリストのものです。私の人生、私のいのち、若さと時間、すべてがイエス様のものです。ですから、このようなものを主なるイエス様に捧げ、主のために使わなければなりません。それが正しい人生を送る道であり、幸福への道です。

パウロは使徒として召されました。使徒とはある特別な使命のために遣わされた者という意味です。イエス様からこの世に派遣された全権大使です。神様からある仕事を委託された者です。しもべがイエス様との関係を言うなら、使徒はこの世との霊的な位置を意味します。当時12使徒の権威は大きいものでした。使徒の資格はイエス様の目撃者でなければなりませんでした。ところが、パウロはイエス様が地上におられた時、会ったことがありませんでした。それでは彼はどのようにして使徒となったのでしょうか。彼はイエス様を信じる人々を逮捕するためにダマスコに行く途中、突然、天からの光が彼を巡り照らしました。彼はその強烈な光の前に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」というイエス様の声を聞きました。彼は復活されたイエス様に出会い、罪の赦しを受け、異邦人の使徒として召されました。彼は過去神の教会を迫害した者であって、使徒と呼ばれる価値のない者でしたが、神の恵みによって、使徒になったと言いました。そして、自分に対するこの神の恵みが、むだにはならないように、ほかのすべての使徒たちよりも多く働きました(?コリント15:9,10)。

召されに対する確信がある人は、この世がどのように変わっても、誰が何と言っても揺れることなく神様からの召されに従います。しかし、その確信がない人は状況によってよく揺れ動きます。また、根のない木のように実を結ぶことができません。私たちが神様に用いられるために「私はこのことのために召された」という確信を持つことが必要です。

また、パウロは神の福音のために選び分けられました。選び分けとはある特別な仕事のために区別されたことを意味します。パウロは神の福音のために選び分けられました。当時福音はまだ広く伝えておらず、人々は神の福音に対する偏見や誤解を持っていました。パウロはこの福音を伝える使命を受けました。彼はその福音を宣べ伝えるために智恵と力を尽くしました。今日も福音に対する誤解と偏見を持っている人々が多くいます。福音を福袋のように考えている人もいます。福音が科学文明や自由主義の神学思想、また、神秘主義と混ざって変質しています。私たちはこのような中で十字架の福音、復活の福音を守るために選び分けられました。私たちには福音を正しく理解し、それを宣べ伝える使命があります。パウロは異邦人に福音を伝える器として選び分けられました。それは特殊使命です。UBFは世界のキャンパスの福音化のために選び分けられました。

 

神の福音(2-4)

使徒パウロは福音をどのように紹介していますか。

福音の起源(2)

2節をご覧下さい。「・・この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので」福音の起源は神様です。神様は人間が堕落した時、救い主を約束されました(創3:15)。また、アブラハムの子孫からメシヤを与えてくださると約束され、預言者たちを通して約束されました。ですから神の福音は神様から始まり、神様によって完成されます。福音は頭のいい人が作り出したものではなく、神様から来たものです。

福音と旧約聖書の関係

2節で言った聖書とは、旧約聖書のことです。ヨハネの福音書5:39節を見ると、聖書はイエス様について証していると言っています。神様は預言者たちを通して、イエス様に対して予言されました。イエス様の誕生の場所、誕生方法、彼の生涯と十字架と復活、昇天などすべてが旧約聖書に予言されています。福音の根拠はこの聖書にあります。旧約聖書は一日のうちに書かれたものではありません。聖書は約千五百年の間、四十名の著者達によって書かれました。記録された場所も時代も著者も違います。ところが、驚くほど一つの流れ、すなわち、統一性がありますが、それはイエス・キリストに関することです。このように福音は明白な歴史的な事実の上に根拠を置いているために信頼できるものです。旧約聖書の中であかしされ、長い間イスラエル人が、神の約束として待ち望んでいた方が、キリスト・イエスです。

福音の内容(3,4)

福音の内容は御子に関することです。それでは神様の御子イエス様は、どんな方ですか。3、4節をご覧下さい。「御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」

第一に、イエス様は、肉によればダビデの子孫としてお生まれになった王です。神様はダビデの子孫からメシヤを送ってくださると約束されました。ですから、イエス様がダビデの子孫としてお生まれになったことは、約束されたメシヤとしてダビデの王位を受け継がれた王であることを言っています。

第二に、霊的には神の御子です。イエス様が神様の御子であることをどのようにして知ることができますか。イエス様は死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示されました。復活はイエス様が神様の御子であることを証明する出来事です。死の問題は罪の問題とともに人間の一番大きな問題です。ところが、この問題を解決した人は誰もいません。一人も例外なくこの罪と死の前に屈服しました。死は人間の王となり、人間を虚しくし、絶望させ、すべての幸せを奪って行きました。ですから、人間にとって一番大きな敵は死です。ところが、イエス様はこの死の力に打ち勝ち、死者の中から復活されました。イエス様の復活によって私たちには真のいのちと平安と望みと勝利が与えられました。使徒パウロはこのイエス様を指して「私たちの主イエス・キリストです。」と告白しています。イエス様は私達を罪と死から救うことができる主キリストです。

 

恵みと使徒の務め(5-7)

使徒パウロはイエス様によって何を受けましたか。5節をご覧下さい。「このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。」この御言葉から私たちは使徒パウロの人生の目的と使命が何かを知ることができます。

使徒パウロはイエス様によって、恵みと使徒の務めを受けました。恵みとは何でしょうか。恵みとは値なしに与えられるプレゼントです。使徒パウロはイエス・キリストによって、罪の赦しと救いの恵みを受けました。彼は教会の迫害者でした。ステパノを石で打ち殺す時に先頭に立った罪人のかしらでした。彼は律法によれば死刑されるべき者でした。しかし、イエス様は彼のすべての咎と罪を赦してくださいました。彼に救いの恵みが臨まれました。使徒パウロはその恵みについて次のように証しています。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(?テモテ1:15)。私たちもイエス・キリストによって、すべての罪と咎が赦され、救いの恵みを受けました。

使徒パウロは恵みとともに使徒の務めを受けたと言います。これは使命です。彼は異邦人に福音を伝える使命を受けました。それは異邦人の中に信仰の従順をもたらすことです。それはやさしいことではありません。異邦人は偶像崇拝をし、淫乱でした。また、霊的に無知でわがままでした。不従順と反抗心が強い人々でした。このような人々の中に信仰の従順をもたらすことは難しいことです。それで福音を伝えてもあまり負担に思わないように救いの恵みや祝福だけを教えることで満足しやすいです。しかし、パウロは御言葉に絶対的に従うように教えました。それはまるで岩地のような心をハンマで打ち砕くような作業のように難しいことです。多くの霊的な戦いが必要です。しかし、パウロは羊達の罪と妥協しませんでした。御言葉に絶対的に聞き従うように教えました。従順する時、成長します。神様は従順を喜ばれます。神様は能力ある人を用いるのではなく、従順の人を用いられます。従順の信仰が福音信仰です。パウロは自分がイエス・キリストのしもべとして絶対的に服従しただけではなく、教える人々にもそのようにするように教えました。

それではなぜ従順がそれほど大切なことですか。それは人間が堕落した原因が神様の御言葉への不従順から来たからです。罪はアダムの不従順によってこの世に入って来ました。しかし、イエス様の従順によって新しい御業が始まりました。イエス様は神様の御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学ばれました(ヘブル5:8)。イエス様はご自分を低くし十字架に死ぬまで神様に従われました。神様はこのようなイエス様をすべての人々の主であり、キリストとして高く上げられました。

私たちが熱心に使徒の務めを担うことも大切なことですが、何のために働くのかも大切なことです。パウロはイエス様の御名のために働きました。パウロの人生の目的はイエス・キリストの名誉のために生きることでした。パウロは過去自分の名誉のために生きていました。元々彼の名前はイスラエルの初代王であるサウロの名前にちなんでサウロでした。彼はその名前通りに自ら大きい者と誇る高慢な人でした。しかし、イエス様に出会ってからはイエス様の御名のために自分を低くしました。名前も小さいという意味のパウロに変えました。そして、彼はイエス様の御名のために徹底的に自分を捨てる生活をしました。彼は何をするにも自分を通して主の御名があがめられるように祈りました。恵みと使徒の務めは、パウロだけでなく、イエス様によって救われたすべての人々も受けたことです。

6,7節でパウロはローマの聖徒達も、イエス・キリストによって召された人々であると言いました。彼らは神に愛されている人々、召された人々です。パウロは彼らに父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があるように祈りました。

 

?.負債を負った者、使徒パウロ(8-15)

 

使徒パウロのローマ聖徒達に対する感謝題目は何ですか。8節をご覧下さい。「まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。」ローマの教会は使徒パウロによって開拓されたのではありません。16章を参照してみると、ローマ教会は平信徒達によって開拓されました。彼らのほとんどはローマに移住して来たユダヤ人と異邦人達でした。彼らの中にはパウロの知り合いも多くいました。当時のローマは富と権力と快楽の都市でした。また、あらゆる宗教が氾濫していました。このような雰囲気の中で信仰の中心を守ることは難しいことです。ところが、ローマの聖徒たちは信仰の中心を守るだけではなく、信仰のよい影響を及ぼしていました。パウロは彼らの信仰のために神様に感謝し、彼らのために絶えず祈りました。そして、いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、道が開かれて、彼らのところに行けるようにと願っていました。当時すべての道はローマに通ると言われるほどローマは世界の中心地でした。ですから、ローマは世界宣教の戦略上必ず征服しなければならないところでした。しかし、弱小民族のイスラエルの青年が巨大なローマを征服することは不可能なことでした。それにイスラエルはローマの植民地だったのでもっと難しいことのように見えました。しかし、パウロは信仰によってチャレンジしました。彼にはローマ宣教に対する燃えるビジョンがありました。彼はそのビジョンを持って何とかしてローマに行こうとしましたが、何度もその道が妨げられました。彼はそこであきらめるしかありませんでした。しかし、彼はあきらめず神様が道を開いてくださるように祈り続けました。

 それではパウロがそれほどローマに行こうとした理由は何ですか。

第一に、彼らに御霊の賜物をいくらかでも分けて、彼らを強くしたいからです。御霊の賜物は15節と関連して考えて見ると、福音です。ローマの聖徒達は、信仰はありましたが、まだ福音の世界を深く知ってはいませんでした。彼はローマの聖徒達に福音を宣べ伝えることによって、彼らが福音の上に堅く立つことを願いました。彼らとの互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいと思いました。できるだけ大勢の人たちと交わり、そして私達の信仰の足りないところを、その人たちとの交わりによって補っていただくという謙遜さを持つことが必要です。

第二に、いくらかの実を得ようと思いました。実とは福音を伝えることによって得られる実です。弟子養成の実です。宣教の実です。パウロはローマセンターが宣教師を養い、派遣する世界宣教の中心部になることを願いました。

しかし、パウロがそれほどローマにいる人々に福音を伝えることを願っていた根本理由は、彼に負債を負った者の心情があったからです。14、15節をご一緒に読んでみましょう。「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」

パウロはすべての人々に負債を負っていると言っています。負債を負った者は謙遜です。いつも負債を返さなければならないという考えで心が重いです。それでその負債を返すことができると喜びます。パウロは福音を伝えに行くことが負債を返すために行く者のような心でした。ところが、彼はどんな負債をそれほど多く負っているでしょうか。彼が負債を負っていると言ったのは、イエス様に恵みの負債を負っているということです。彼は元々恵みを受けるにふさわしい人ではありませんでした。彼はキリストに敵対し、聖徒たちを迫害し、殺しました。彼は神様の裁きを受けて滅びるしかない人でした。しかし、イエス様は一方的な恵みによって彼の罪を赦し、彼を闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださいました。それだけではなく彼に福音を伝える使命も任せてくださいました。彼は一生恵みの負債を負った者となりました。主が施してくださった恵みを考える時、彼は感謝の心と使命感に燃えました。彼はこのような心を持って何とかしてローマにいる人々にも福音を伝えようとしたのです。

イエス様はマタイの福音書18:24節で私たちは支払うべき一万タラントの負債を負っていた者であることを教えてくださいました。これは一生返しても返すことができない負債です。しかし、主は一方的な恵みによってそれを免除してくださいました。私たちが福音を伝えることはこのような恵みに恩返しをすることです。負債を負っている者の心情は人を偉大にします。また、能力ある人生を送るようにします。負債を負っている人の心は牧者の心です。私達は神の恵みを思えば思うほど、ほんとうに、誰に対してもそれを支払って行かなければなりません。パウロの伝道の根本にはそれがありました。主が私たちにも使徒パウロのような負債を負っている者の心を与えてくださるように祈ります。

 

?.福音は救いを得させる神の力です(16,17)

 

16節をご覧下さい。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」当時ユダヤ人は宗教的な理想を誇り、ギリシヤ人は智恵を誇りました。ローマ人は権力を誇りました。ところが、イエス様は凶悪な犯罪人が処刑される十字架につけられ死なれました。それで十字架につけられたイエス様は、ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことでした(?コリント1:23)。今日の人々も高度の科学文明を誇り、富と権力を誇ります。特にクリスチャンが少ないこの国ではクリスチャンを変わった人だと思います。弱虫だと思い、時代遅れだと思います。このような時代の雰囲気の中で福音を恥と思いやすいです。堂々と自分がクリスチャンであることを言い表すことを恥と思いやすいです。このように恥と思うのは、福音に対しての確信が足りないからです。それではパウロが福音を恥と思わなかった理由は何ですか。

第一に、福音は、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力だからです(16)。パウロは福音だけが人々を罪と死の力から救うことができる力があることを信じました。この世には不治の病を患っている人々が多くいます。もし、彼らの病気を治せる薬が発明されたとしたら、それは彼らにとってどれほど嬉しい知らせでしょうか。ところが、人間にとってどんな不治の病よりも深刻な病があります。それは罪と死という病です。この罪と死の問題を解決できる特効薬は福音だけです。パウロはこの福音の力を信じていたので少しも恥と思いませんでした。この福音はどんな罪人も新しく生まれさせる力があります。この力はダイナマイトのような超自然的な神様の力です。福音は十字架につけられた強盗が悔い改めた時、直ちに神様の子供としました。この福音の力によってサウロがパウロに変わりました。放蕩息子であったアウグスチヌスがセイントアウグスチヌスに変わりました。使徒の働き19章にはパウロがエペソを開拓する内容が出ています。エペソは偶像崇拝が盛んな町でした。しかし、福音が入ると多くの人々が自分の罪を悔い改めました。魔術を行なっていた人々は本を持ってきて燃やしました。このように福音が入るところにはいのちが生かされる御業が起こります。私たちはこの福音の力を体験して来ました。初めてセンターに来た時には「あの兄弟も変わるかな」と思った兄弟が福音を学ぶうちに新しく生まれ変わることを見ました。福音はどんな人も新しく変える力があります。ですから、この福音の力を信じている人は、誰にも大胆に福音を紹介することができます。

第二に、福音のうちには神の義が啓示されているからです。17節をご覧下さい。「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです。」神様の義には罪を憎み、不義を受け入れない属性があります。義なる神様は公義によってさばかれる方です。ですから、この神様の御前に立つ人は一人もいません。すべての人々が神様の裁きの対象です。しかし、本文で言っている神様の義はイエス様を信じる人の罪を赦し、信じる人を義と認める義です。この神の義は人間の努力や働きによって得ることができません。ただイエス様を信じる人に値なしに与えられるものです。それは初めから終わりまで信仰による義です。

「義人は信仰によって生きる」この御言葉はハバクク2:4節の御言葉の引用です。ハバククの時代には不義がはびこり、不正腐敗が満ちていました。人々は高慢であり、正直ではありませんでした。人々は欲望のままに生きていました。このような時に信仰によって生きることは愚かなことのように思われます。そのように信仰によって生きるといつも損することばかりあるのではないかと思われます。それでこの世と適当に妥協しながら生きることが賢く思われます。しかし、預言者ハバククはそのような時期に、「義人は信仰によって生きる」という神様の御言葉を聞きました。義人はどんな場合にも信仰によって生きるべきです。信仰によって生きる時、神様に認められます。信仰によって生きる時、神様に喜ばれます。信仰によって生きる時、この世で勝利の人生を送ることができます。信仰によって生きる時、罪の赦しに対する確信と永遠のいのちへの確信があります。私たちがどんな場合にも信仰によって生きるように祈ります。