2000年マルコの福音書第1講

福音を信じなさい

 

御言葉:マルコの福音書1:1?15

要 節:マルコの福音書1:15

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

 

桜が満開する春になりました。今までローマ人への手紙を通して恵みを与えてくださった主に感謝します。今日からはマルコの福音書を学びます。マルコの福音書の勉強を通して実生活の中で仕えることを学ぶことができるように祈ります。仕える生活、与える生活、自分を犠牲にする生活こそ価値ある生活です。本文の御言葉はバプテスマのヨハネがどのようにして福音の御業を備えられ、イエス様がどのようにして人類の救いの御業を始められたかを言っています。御言葉を通して福音を信じ、神の国を所有することができるように祈ります。

 

?.福音の御業の準備(1-8)

 

1節をご覧下さい。「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」著者マルコはまず人類の歴史に神の子イエス・キリストの福音が始まったことを宣布しています。福音とは何でしょうか。福音は「すばらしい喜びの知らせ」、あるいは「よきおとずれ」という意味です。ですから、1節の御言葉は、この世にすばらしい喜びの知らせが伝えられましたが、それは神の子イエス・キリストに関することだという意味です。当時ローマ人は戦争で勝利した知らせや皇太子の誕生の知らせなどを福音と言いました。しかし、戦争での勝利の知らせはローマ人にとっては福音かも知れませんが、負けた国にとっては決して福音ではありません。マルコの証し通りに神の子イエス・キリストだけが福音になるのです。なぜでしょうか。それはイエス・キリストは人類を罪と死から救うことができる救い主だからです。

「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」イエス・キリストがこの世に来られたことによって、希望と喜びを与える福音の御業が始まりました。闇が支配する世界に光が照らされるようになりました。永遠の死が支配する世界に永遠のいのちの御業が始まりました。罪の奴隷となっていた人々が罪から解放される御業が始まりました。福音は個人の人生を変えるだけではなく、国を変える力があります。ですから、福音が入る国は希望があります。

2,3節をご覧下さい。「預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、」福音はイエス様の誕生から本格的に始まりましたが、実際にはその以前から神様が用意しておられたものです。預言者イザヤはイエス様がお生まれになる600年前にイエス様が来られることとイエス様の道を用意する先駆者が現われることを予言しました。

 イエス様の先駆者として遣わされた人は、祭司ザカリヤとエリサベツ夫婦の間に生まれたバプテスマのヨハネです。彼は、どのようにして主の道を用意しましたか。4節をご覧下さい。「バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。」荒野は人が住めないところです。岩と蛇とさそりだけがあるところです。ここでバプテスマのヨハネは罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説きました。「悔い改めのバプテスマ」は、悔い改めた人に与えるバプテスマのことです。彼は人々に悔い改めを促しました。その当時のイスラエルの人には、悔い改めは自分達がすることではなく、異邦人がするべきことだと思っていました。そのイスラエルの人達に、あなたがたこそ悔い改めなければならないとヨハネは言ったのです。そして、悔い改めた人にそのしるしとしてバプテスマを授けました。

悔い改めとは何でしょうか。悔い改めは心を変えることです。悔い改めは具体的に四つの段階の行動を通して心を変えます。まず自分の罪を認めて、その罪に対して心を痛めます。そして、その罪を告白し、その罪を具体的に切り捨てて離れます。悔い改めは罪を愛していた人が、非常な罪深さのゆえに罪を憎むようになることを意味します。悔い改めにはふさわしい実がなければなりません。また、悔い改めは具体的でなければなりません。バプテスマのヨハネは取税人には決められたもの以上取り立てたことを悔い改めるように言いました。兵士達には力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしたことを悔い改めるように言いました(ルカ3:13,14)。私達は神様を信じない不信仰、偽り、不平、高慢、安逸を愛する心、絶望感、淫乱、貪欲、うそをつくこと、恐れなどを具体的に悔い改めなければなりません。それでは悔い改めさせることがなぜイエス様の道を用意することになりますか。それは悔い改めた人がイエス様を受け入れることができるからです。

バプテスマのヨハネが悔い改めのバプテスマを説いた時、どんなことが起こりましたか。5節をご覧下さい。「そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」ここで私達は二つのことを学ぶことができます。第一に、人々は誰でも罪の重荷を降ろして自由になりたいと願っていることです。誰でも悔い改めなさいと言われることは嫌がります。「あなたの罪を悔い改めなさい」と言うと「なぜ私が罪人ですか。」と反発します。しかし、人は誰でも罪の重荷を降ろすことを願っています。ですから、私達は羊達が悔い改めて罪の赦しを受けるように助けなければなりません。第二に、荒野でも大きな福音の御業が起こることができます。今日のキャンパスの学生達の心は荒野のようです。競争社会で心が傷ついた人々が多くいます。豊かな生活の中で育った故に弱くて恐れが多くあります。人間関係がうまく行かず、自分の世界を作ってさびしい生活をしています。このような荒野のような学生達のことを考えると、福音の御業が起こるのが難しいと思われます。しかし、そのような荒野でも福音の御業が盛んに起こることは可能です。私達がバプテスマのヨハネのようにこの時代のキャンパスの兄弟姉妹達を哀れむ心と聖霊の力によって助ける時、4月に100人の新入生募集ができることを信じます。

バプテスマのヨハネの生活はどうでしたか。6節をご覧下さい。「ヨハネは、ラクダの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」彼は荒野で生活していました。彼はラクダの毛で織った物を着て、いなごと野蜜を食べていました。今はこれらのものは高級品ですが、当時は貧しい人々の着物と食べ物でした。彼は衣食住に縛られず、使命中心の生活をしました。彼は荒野で神様の御言葉を黙想し祈りに専念していました。彼の力あるメッセージはこのような生活から出ました。彼は区別された生活、きよい生活、貧しい生活をしました。私達が荒野のようなキャンパスの兄弟姉妹たちに仕えるためにもバプテスマのヨハネのように祈りと御言葉を黙想する生活が必要です。私達が祈りと御言葉を黙想する生活を通して神様から力をいただき、新学期の御業に励むことができるように祈ります。

7,8節をご覧下さい。彼は宣べ伝えて言いました。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」ヨハネの人気は絶頂に達していました。人々は彼をメシヤではないかと思いました。このように多くの霊的な実を結び、人気が上がると謙遜になることが難しいことです。しかし、彼は全く謙遜であったので、人々の関心をイエス様に向けさせました。そして、自分と比べてイエス様はどれほど優れた方であるのかを証ししました。それではヨハネが証ししたイエス様はどんな方ですか。彼はイエス様が自分よりもさらに力のある方であると証ししました。自分はかがんでイエス様のくつのひもを解く値打ちもないと言いました。靴のひもを解くのは奴隷の仕事でした。ですから、ヨハネはイエス様と比べると自分は奴隷の役割にもふさわしくない、と言っているのです。また、彼はイエス様と自分の身分が違うだけではなく、その働きも違うことを言いました。自分は悔い改めた人に水のバプテスマを授けますが、イエス様は聖霊のバプテスマをお授けになる方であると証ししたのです。ヨハネは人々に、自分のバプテスマは、人々を水にしずめることですが、イエス様は、人々を聖霊の中にしずめられると語りました。水のバプテスマは悔い改めのバプテスマです。それは、自分の罪を捨てたいという決意を表明した者のために授けるものです。しかし、聖霊のバプテスマは根本的に罪を赦すものです。聖霊は人の生命、人自身と心を清めることができます。どんなにひとい罪も赦してくださいます。また、聖霊のバプテスマは、私達を新しく生まれさせます。このようにバプテスマのヨハネは悔い改めのバプテスマを授けることによって、イエス様の道を用意しました。

 

?.福音の御業の始まり(9-15)

 

9節をご覧下さい。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。」イエス様は罪のない方ですから罪を悔い改めた人に授けるバプテスマを受ける必要がありません。しかし、イエス様はヨハネからバプテスマを受けるためにナザレからヨルダン川まで来られました。なぜそのようになさったのでしょうか。マタイ3:15を見るとイエス様は、バプテスマを授けることを遠慮するヨハネに「このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」と言われました。これは神様の御旨に従うことを意味します。イエス様は十字架の死をバプテスマにたとえられました。イエス様はヨハネからバプテスマを受けることによって、神様の御心である苦難と十字架のメシヤの道を行くことを決心されました。

イエス様が水から上がられた時、どんな驚くべきことが起こりましたか。10,11節をご覧下さい。「そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」この事件は何を言ってくれますか。

 第一に、天が裂けました。これは罪によって神様と人間の間を隔てていた壁が崩されたことを意味します。また、隔てていた壁が崩されることによって、神様の祝福を受けるようになったことを意味します。イエス様によって罪人が神様の御前に出て行く新しい道が開かれました。誰でもイエス様を通して神様のところに行けるようになり、神様からの祝福を受けるようになりました。

第二に、イエス様は御霊に満たされました。御霊は知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊です。御霊は真理の霊です。御霊は貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやし、捕らわれた人には解放を、囚人には釈放を告げる霊です(イザヤ11:1,2、42:1,61:1)。イエス様はこのような御霊に満たされました。イエス様は御霊の力を受けて公生涯を始められました。御霊の力によってのみ人を新しく生まれさせることができます。その力によってのみサタンの力を打ち破ることができます。ですから、福音を宣べ伝える人は御霊に満たされなければなりません。私達が悔い改めてイエス様を信じる時、御霊に満たされます。

第三に、天から声がしました。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」神様はイエス様を神様の御子として認めてくださいました。神様は御心に従って十字架の道を歩もうとされたイエス様を喜ばれました。

12,13節をご覧下さい。「そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。」マタイの福音書を見ると、この時、イエス様は40日間断食されたので、体は極度に疲れている状態でした。このような状態でイエス様はサタンの誘惑を受けられました。なぜイエス様は福音の御業を始める前にこのような誘惑を受けられたのでしょうか。それはイエス様がサタンに支配されている人々を救うためにこの世に来られたからです。アダムはサタンの誘惑に負けてその奴隷になりました。サタンの奴隷となった人々は心ならず罪を犯します。誰もこのサタンから救うことができませでした。イエス様は人々をサタンから救うために来られたので、サタンとの戦いは避けられないことでした。また、人間を救うためにアダムの失敗を挽回しなければなりませんでした。それでイエス様はサタンの誘惑を受けられました。マタイの福音書を見ると、イエス様は記された御言葉によってサタンの誘惑を打ち破られました。

 私達はこの世においてサタンの誘惑から逃れることはできません。新しい御業を始めようとすると、サタンはそれを妬んでどうしても妨害しようとします。サタンは信仰によって生きようとする人に将来に対する恐れを植え付けます。家族からの誤解や迫害によってこころを弱くします。弟子養成を失敗したり、進学ができなかったり、他の困難にぶつかるとサタンは信仰を奪おうと働きます。しかし確かなことは、私達はサタンの誘惑に打ち勝たれたイエス様に頼り、神様の御言葉に頼る時、そのような誘惑に打ち勝つことができるということです。そして、そのような誘惑に打ち勝った時、私達はより男らしくなり、強くなります。信仰ももっと成長するようになります。

 イエス様が福音の御業を始められる頃、どんな衝撃的な事件が起こりましたか。14a節をご覧下さい。ヨハネが捕らえられました。ヘロデ王はヨハネを捕らえ、牢に入れました。なぜ彼はヨハネを捕らえ、牢に入れましたか。マルコ6:17,18節を見ると、ヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤを自分の妻としました。誰もこのような彼の罪を指摘できませんでした。しかし、ヨハネはヘロデに、「あなたが兄弟の妻を自分のものとしていることは不法です。」と彼の罪を指摘したのです。それでヘロデ王はヨハネを捕らえ、牢に入れました。これを見ると、その時代がどれほど腐敗した闇の時代であったかがわかります。指導者ヘロデ王は残酷で淫乱な人でした。そのような指導者に支配されている民は苦しむしかありませんでした。彼らには何よりも政治的な自由が必要に思われます。

 しかし、その時、イエス様は、どこで何をしておられましたか。14b、15節をご覧下さい。「イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』」イエス様は血肉の戦いではなく、霊的な戦いをされました。暗闇の時代を福音によって照らそうとされました。その時代に一番必要なのは、神の福音でした。

イエス様は「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」と言われました。「時が満ち」とは、神様が創世記から準備しておられた人類の救いの時が満ちたという意味です。神の国は神様が治める国です。その時代の人々に一番必要なのは、パンでもローマからの独立でもありませんでした。彼らに一番必要なのは神の国でした。イエス様は私達に神の国を与えるためにこの世に来られました。ローマ14:17節は次のように言っています。「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」神様との正しい関係性を結ぶ時に心に神の国が臨まれます。神の国が臨まれる時、心に平和と聖霊による喜びがあります。誰がこの神の国を所有することができますか。イエス様は「悔い改めて福音を信じなさい。」と言われます。悔い改めて福音を信じる人が神の国を所有することができます。他の方法によっては神の国を所有することができません。イエス様は私達を恵みと真理、愛と公義によって治めてくださいます。イエス様が治められるところに神の国が来ます。神の国に入るためには必ず悔い改めなければなりません。悔い改めと福音を信じることは同時に起こることです。悔い改めて福音を信じる時に罪の赦しの恵みを受けます。死の世界からいのちの世界に入ります。これは自由に選択してもいいようなことではありません。必ず悔い改めて信じなければならないことです。神の国を所有するために大金を払う必要も、苦行する必要もありません。悔い改めて福音を信じる時に神の国を所有し真に幸せな人生になります。韓国に2000人以上の人々を教会に導いた女性がいます。その方がそのように熱心に伝道するようになったのには、きっかけがありました。その方の近所に若い夫婦が住んでいました。彼女は普段その夫婦を食事に招いたりしながらよい関係性を結んでいました。そして、いつかはその若い夫婦を伝道しようと思ってはました。しかし、彼らはまだ若かったので、これからゆっくり伝道してもいいのではないかと思っていました。ところが、ある日、悲劇が起こりました。その若い夫婦の夫が自殺してしまったのです。それを聞いた彼女は大きなショックを受けて悔い改めました。その後、自殺した人の奥さんを伝道するために訪問した彼女はその奥さんからさらにショックになる話を聞きました。それは自殺した男性は死ぬ前に「彼女が通っている教会に行ってみたい。一人で行くのは恥ずかしいからその女性が誘ってくれれば行く」と言っていたそうです。その話を聞いた彼女は、「自分が早く福音を知らせて教会に導いたなら自殺なんかしなかったはずなのに」「イエス様を信じなさいと一言でも伝えなら」と思って深く悔い改めました。それからは熱心に福音を伝えて今は2000人以上の人々を教会に導いたそうです。このように福音は誰にも必要なものです。若いからまだ大丈夫だと思ってはいけません。イエス様は最初から福音を宣べ伝えられました。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」この悔い改めて福音を信じる人だけが神の国を所有することができます。神の国に入ることができます。ですから、誰にも急いでこの福音を宣べ伝えなければなりません。

結論、神の御子イエス・キリストは私達に神の国を与えるためにこの世に来られました。私達が悔い改めて福音を信じることによって神の国を所有することができるように祈ります。また、この福音をキャンパスの兄弟姉妹達に宣べ伝えることができるように祈ります。