2015年イースター第1講 (By 寺崎アブラハム)

私は主にお目にかかりました

御言葉:ヨハネの福音書20:1−31
要 節:ヨハネの福音書20:18
「マグダラのマリヤは、行って、『私は主にお目にかかりました。』と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。」

 イエス様は、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために、十字架につけられ死なれました。そして墓に葬られました。また、聖書に従って、三日目に死者の中からよみがえられました(?コリ15:3,4)。このイエス様の十字架の死と復活が、福音の核心です。
 さて、本文の御言葉には、復活の証人たちが出て来ます。彼らが、特別な存在という、わけではありません。私たちと同じ、ごくごく平凡な弱い人に過ぎませんでした。マグダラのマリヤは、愛するイエス様を失ったと言う深い悲しみの中にありました。弟子たちは、ユダヤ人たちを恐れていました。トマスは疑いで満ちていました。ところが、彼らは、よみがえられたイエス様に出会うことによって、彼らの人生が大きく変わりました。悲しみの女マリヤは喜びの人になりました。恐れで満ちていた弟子たちは力強く大胆になりました。疑いで満ちていたトマスは、復活に対する確信で満たされるようになりました。
 この時間、本文の御言葉を学ぶ中で、よみがえられたイエス様が、ここにいる一人一人と共におられますように、祈ります。そしてよみがえられたイエス様に出会う中で、喜びで満ちあふれ、力強く大胆になり、確信に満ちた人生を送ることができるように、祈ります。

 1節をください。「さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして墓から石が取りのけてあるのを見た。」イエス様が墓に葬られてから三日たった日の朝でした。その時、マリヤは、イエス様に香油を塗るために、墓に来ました。そして、墓から石が取りのけてあるのを見ました。それで、走って、シモン・ペテロとヨハネのところに来て、言いました。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」(2)。愛するイエス様のからだがないことで、マリヤの悲しみは、さらに大きくなりました。
 マリヤの話を聞いた二人の弟子たちは、走って墓のほうへ行きました。ヨハネが先に墓に着きましたが、墓の中に亜麻布が置いてあるのを見ただけで、中にははいりませんでした(5)。遅れて着いたペテロが先に墓の中に入りました。イエス様の頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見ました。
ヨハネも墓の中にはいって来ました。そして、その光景を見て、イエス様のからだがなくなっていたことと、きれいに整理整頓された亜麻布や布切れを見て信じました。彼は墓の中にイエス様がいない真相を見て分かったのです。そして、その時、イエス様が復活したことを信じました。しかし、「イエス様が死者の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していませんでした。ここに出て来る「聖書」とは、旧約聖書です。それは、聖霊がまだ与えられておらず、聖霊によって、イエス様の復活が何を意味しているのかを示されていなかったからだと思います。そして、それはイエス様の十字架の死の意味も、完全な形では理解していなかったでしょう。そういう意味で、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために、十字架につけられ死なれました。そして墓に葬られました。また、聖書に従って、三日目に死者の中からよみがえられた(?コリ15:3,4)という聖書を理解していなかったのです。
11節をご覧ください。「しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。」マリヤは、イエス様のからだがなくなったことを、受け入れることができなかったようです。悲しみのあまり泣きました。ところが、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ時、ふたりの御使いが、イエス様のからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとって座っているのが見えました(12)。ふたりの御使いは彼女に言いました。「なぜ泣いているのですか。」彼女は答えて言いました。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」(13)。こう言って、マリヤがうしろを振り向いた時、イエス様が立っておられるのを見ました。しかし、彼女はイエス様であることが分かりませんでした。
 15a節をご覧ください。イエス様はマリヤに言われました。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」よみがえられたイエス様がマリヤの目の前に立っておられるのに、これ以上、悲しむ必要があるでしょうか。マリヤは死んだイエス様のからだを捜していました。それでイエス様を園の管理人だと思って言いました。「あながた、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか行ってください。そうすれば私が引き取ります。」(15b)。死はすべての物を奪って行きます。そして一度、死別すると、永遠に会えなくなります。マリヤの心の中には、そのような思いで満たされていたと思います。ところが、人の力ではこのような問題を解決することができません。その時、イエス様は彼女に語りかけてくださいました。
 16節をご覧ください。イエス様は彼女に言われました。「マリヤ。」この御声は、愛と憐れみで満ちていました。マリヤに取って、聞き覚えのある言葉でした。その時、マリヤは振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエス様に答えました。そしてイエス様にすがりつこうとしました。しかし、イエス様はマリヤに言われました。
「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上ってはいないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」(17)。イエス様は、マリヤを、最初の復活の証人としてお立てになりました。ここで、弟子たちに対するイエス様の変わらない愛が、よく現れています。イエス様が逮捕された日の晩、弟子たちはイエス様を裏切り、イエス様を見捨てて逃げて行きました。ところが、イエス様は弟子たちを指して、「わたしの兄弟たち」と言われました。また、イエス様の父が弟子たちにとっても父であり、イエス様の神様が弟子たちにとっても神様であることを話されました。今、イエス様と弟子たちは一つになりました。イエス様が神様のもとに上る前なので、マリヤには、「わたしにすがりついてはいけません。」と言われました。では、よみがえられたイエス様に出会ったマリヤの反応はどうだったのでしょうか。
 18節を、皆さんと一緒に読んで見たいと思います。「マグダラのマリヤは、行って、『私は主にお目にかかりました。』と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。」「私は主にお目にかかりました。」「よみがえられたイエス様にお会いしましたよ。」マリヤは喜びで満ちあふれていました。この喜びを分かち合おうと、弟子たちのもとに行きました。そして、イエス様の御言葉を、そのまま弟子たちに告げました。ここで復活の主に出会ったマグダラのマリヤの喜び、力強く大胆な伝道者に変えられた彼女の姿と変化を見ることができます。
二千年前のユダヤ人社会でも、異邦人社会でも、女性の地位は無いに等しいものでした。裁判において判決を下す場合、二人または三人の証言者が必要でしたが、そこに女や子どもは含まれませんでした。つまり、一人前の人として数えられていないのです。その女性たちが、復活の主イエスの最初の目撃者であり、証言者でした。
そして、よみがえられたイエス様は地上から上げられて、神様のもとへ上って行かれます。その時、無にひどしい女性の中でも無視されていたマグダラのマリヤが最初に主を見たのです。かつて悪霊の虜になっていた女、体を売っていた女、世の人々から見下され、捨て去られていたマリヤが誰よりも先に復活の主を見ました。そこで、彼女は主イエス様に引き寄せられ、「わたしは主を見ました」と叫んでいるのです。墓の前で泣き叫んでいた女が、復活の主イエス様を見ることを通して、そしてすがりつく自己愛が断ち切られることを通して、喜びと感謝をもって「私は主にお目にかかりました」と証言しているのです。ここに復活の真相があるのです。
復活の主は今も、マグダラのマリヤのように、最も低くなっている人にご自分を見せてくださいます。復活の主は、自分の弱さのために疲れている、病んでいる人、自分の罪のために絶望し、恥ずかしく思っている人のそばにいてくださいます。仕事のために、人間関係のことで疲れている私の傍に来ていてくださいます。この復活の主にお目にかかりますように祈ります。私たち一人一人が、今日の御言を通して、それぞれに主イエスを見、その呼びかけの声を聴き、「わたしは主を見ました」と、愛する人々に証言することが出来ますように祈ります。

  ところが、弟子たちは、喜ぶことができませんでした。19a節をご覧ください。「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、」弟子たちはユダヤ人を恐れていました。その時、イエス様は来られ、彼らの中に立って言われました。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエス様は、その手とわき腹を彼らに示されました。十字架につけられた時の傷を弟子たちに見せてくださったようです。弟子たちは、主を見て喜びました。イエス様はもう一度、彼らに言われました。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(21)。そして、こう言われると、弟子たちに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。」ここで、福音の御業は、弟子たちの能力や熱意ではなく、聖霊の力によって行なわれることが分かります。これから、弟子たちがイエス様の復活の証人として生きる時に、聖霊の助けが必要不可欠です。何より、よみがえられたイエス様に頼らなければ、力強く確信に満ちたメッセージを証しすることはできません。イエス様は弟子たちに罪を赦す権威をお与えになりました。弟子たちがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。しかし、弟子たちが誰かの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります(23)。

 さて、十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエス様が来られた時に、彼らといっしょにいませんでした。それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った時、トマスはその言葉を信じようとはしませんでした。「私は、その手に釘の跡を見、手の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」恐らく、トマスの心の中には、「なぜイエス様は、私の前では姿を見せてくださらないのか」という思いがあったようです。その八日後には、トマスも弟子たちといっしょにいました。戸が閉じられていましたが、イエス様が来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われました(26)。それからトマスに言われました。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」イエス様は、トマスが言った通りの方法で、トマスにも復活信仰を植えようとされました。トマスはイエス様に言いました。「私の主。私の神。」
 29節をご覧ください。イエス様は彼に言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」このイエス様の御言葉は、今日、私たちに向けられた御言葉でもあります。復活祭を迎える中に、実際に、直接この目で、イエス様にお会いしたわけではありません。マグダラのマリヤを始め、多くの復活の証人たちを通して、また、聖書の御言葉を通して、「イエス様の復活」を信じ、心に受け入れるようになるのです。「私は主にお目にかかりました。」このように証しする人々の姿はどうでしょうか。イエス様が十字架につけられた時のマリヤは悲しみで満ちていました。しかし、よみがえられたイエス様に出会ってから、彼女は喜びで満たされています。恐れの中にいた弟子たちも、よみがえられたイエス様を通して、大胆に御言葉を宣べ伝えるようになりました。しるしを見ないと信じないと言ったトマスもまた、よみがえられたイエス様を通して、「私の主、私の神。」と告白しています。トマスは、もう疑うこともないでしょう。イエス様の復活を通して、変えられた人々を通して、イエス様の復活を確信することができるのです。そして復活信仰を受け入れた私たちも、喜びと確信の中で証しする力を得るようになります。「私は主にお目にかかりました。」

 毎年2月から4月にかけて、私はひどい花粉症に悩まされるしかありません。病院に行って、薬を処方してもらいますが、年々薬は強くなっていきますが、全く効果ない日が続きました。花粉が多く飛んでいる日には目が痛く、赤くなり、涙目になります。その上、体がだるく、仕事にも支障をきたすほどでした。3月に入ると、一人の社員が「辞める」と言い出し、その引き継ぎに手惑いました。ヘルパーからは休むと電話が来て、その穴を埋めるために、自分たちの休みを削ることが多くなりました。人が減った分、仕事が山積みのようになり、自分たちでは対応できない状況にまで追い詰められました。休み返上の上、残業で帰りが遅くなり、クレームが続く中、別の社員は心身共に疲れ切ってしまい、鬱状態にまで落ち込みました。毎月体調を崩しては2−3日休むため、その仕事をカバーするのも容易ではないのに、更に休む日が多くなると、「休みたいのに休めない」状態が三週間ほど続きました。更に、別の社員からは「土日に仕事ができないか」と言われたので、「もう限界です」と答えるしかありませんでした。日曜日には、礼拝の前後に仕事が入るため、ゆっくり御言葉を聞くこともできず、黙想できない日が続きました。会社内での緊迫した雰囲気の中で、鬱状態の社員を守ることにだけ、神経をとがらせました。自分は、障害の分野、精神疾患でもプロだと言うプライドがあり、何とかして助けようと、専門書を借りて読んだこともありました。しかし失敗に終わると、挫折感しか残りませんでした。その時、神様は、私が天の御国を仰ぎ見るように助け、導いてくださいました。韓国語の賛美で、「오 거룩한 성」(聖なる都)を口ずさむたびに力がみなぎって来ました。マタイ11:28節でイエス様は私に言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」この御言葉に基づいて、私は全ての重荷を主にゆだね、イエス様に頼るようになりました。鬱状態の社員のために、とりなしの祈りをするようになりました。すると、緊迫した会社の雰囲気ががらりと変わるようになりました。仕事の負担は変わらないものの、休みなく働いている私に、「少しは休め」と声をかけて来るようになりました。鬱状態だったその人も、精神的に安定するようになりました。そして会社を良くしようとする思いを抱くようになりました。  
 私は、本を読みながら、「能力のある人、熱心な人ほど鬱になりやすい」こと、鬱が深刻になると自殺にまで、至ることを知るようになりました。そして、自分に復活信仰がない時、ノンクリスチャンと同じ状態になりやすいことを知るようになりました。しかし、よみがえられたイエス様は私に現れて、「平安」を約束してくださいます。私が復活の証人として、よみがえられたイエス様を証しする生活を願われます。死んで三日目に死者の中からよみがえられたイエス様を信じる時、私も死や限界を乗り越えることができます。辛い限界から目を上げ、神様を見上げることができます。「私は主にお目にかかりました。」と喜びで、大胆に、確信を持って証しすることができます。すると、それを聞いて信じる人々も、変えられるようになります。

多くの人々がイエス様の復活を証ししています。「私は主にお目にかかりました。」そしてその変えられた姿を見て、イエス様の復活を信じて、確信するようになります。すると、悲しみが喜びに、恐れが平安に、疑いが確信に、そして力強い人生を歩むようになります。この時間、よみがえられたイエス様が一人一人の上に臨まれ、復活信仰の上に堅く立てられるように祈ります。

もう一度、18節の御言葉を読んで、終わりたいと思います。