2015年使徒の働き第9講

わたしの選びの器です

御言葉:使徒の働き9:1−31
要 節:使徒の働き9:15「しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」」

今年、私たちは使徒の働きを学び始めてから先週まで福音がエルサレムからユダヤとサマリヤの全土まで伝えられたことを学びました。特に、先週は伝道者ピリポによってアフリカのエチオピヤ人にも福音が伝えられたことを学びました。
今日はイエス様がご自分の御名を運ぶ器、選びの器にされたパウロについて学びます。彼はどのようにしてイエス・キリストに出会ったでしょうか。パウロがイエス様に出会い、回心したことはキリスト教の歴史にとってきわめて重大な出来事です。使徒の働きの中に三度も繰り返して記されているほどに大切な出来事です(22:3-16、26:9-18)。
御言葉を通してパウロをキリストの御名を異邦人に運ぶ器として選ばれた神様の愛とご計画を悟ることができるように祈ります。同時に、私たち一人一人をキリストの御名をこの日本人に、世界のキャンパスの学生たちに運ぶ器として選んでくださった神様の御心も深く悟り、キリストの選びの器としての姿勢を新たにして行くことができるように祈ります。

1節をご覧ください。「さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、」とあります。先週、学んだようにサウロはステパノを殺すことに賛成していました。それだけではありません。サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れていました(8:1,3)。しかし、クリスチャンに対する彼の敵意はそれで収まるものではありませんでした。「なおも」主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えていたのです。その熱心さはエルサレムから約200キロメートルも離れているダマスコまでも手を伸ばそうとしたほどです。彼は大祭司にダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるように頼んでいます。それはダマスコのクリスチャンを、男だろうが女だろうが、見つけた次第縛り上げ、エルサレムに連行するためでした。ところが、そんな彼にどんなことが起こりましたか。
3-7節をご覧ください。「ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。」とあります。
ここでサウロとはアラム語の名前で、一般にはパウロ(小さき者)と言われています。そのサウロがダマスコの近くまで来たときに、不思議な経験をしました。それは同行していた人たちも目撃していたことから分かるように、実際にあった出来事です。ここでイエス様はサウロに「なぜわたしを迫害するのか。」と言われました。サウロが迫害していたのは、クリスチャンや、その教会でした。イエス様に対してしたことではありませんでした。しかし、イエス様は「なぜわたしを迫害するのか。」と言われたのです。なぜなら、教会はキリストの体であり、キリストは教会のかしらであるからです(コロサイ1:18)。私たちクリスチャンはイエス・キリストの体の一部です。だから、私たちが痛い時に、イエス様も痛く、私たちが悲しい時にもイエス様も悲しんでおられます。同じ体だからこそ、私たちと共感し、同情しておられます。時々、私たちは誰も自分と共感してくれないような寂しさを経験します。辛くて苦しい時もあります。イエス様はそのような私と共感し、私を深く同情しておられます。私の味方として私を助けてくださいます。
パウロは先頭に立ってクリスチャンを迫害していました。ユダヤ人はステパノを石で打ち殺しました。その時もイエス様は迫害を受け、石で打ち殺される苦痛を経験しておられたのです。だからイエス様は「サウロ、サウロ、なぜわたし(・・・)を迫害するのか」と言われました。サウロが「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、「わたしは、あ(・)な(・)た(・)が迫害しているイエスである。」と答えられました。多くの人々が迫害を受けましたが、イエス様は「私たちは…」と言われませんでした。また、多くの人々がクリスチャンを迫害しました。しかし、イエス様は「あなたがたが・・・」と言われませんでした。イエス様は「わたし」と「あなた」という1対1の関係の中で話しておられます。パウロからは「教会を迫害したのは私だけではないでしょう?」と言い返したくなるような場面です。しかし、イエス様はパウロを1対1の人格的な関係の中に入れていることが分かります。イエス様は私にもイエス様と1対1の人格的な関係の中に入っていることを願っておられます。
私たちに仲間意識があります。良い意味での仲間意識が強くなると、互いに協力し合い、励まし合って行くことができると思います。ところが、自分の罪や過ちに対しても自分が責任を取ろうとしないで、仲間と一緒に責任を取ろうとします。何か悪いことが指摘されても「私だけではないでしょう。」と言います。
たまに私は「2階のゲストルームの隣にあるトイレは電気がついていたよ」と言われます。主に私がゲストルームを使っているので『気をつけなさい』と言われているような気がします。そこで私は「私だけじゃないでしょう」と言い返したくなります。しかし、イエス様は私に「あなたが消してほしい」と言われると思います。ヨハネの福音書を見ると、ペテロはヨハネのことを指して「主よ。この人はどうですか。」と言います。するとイエス様はペテロに「私の来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたはわたしに従いなさい。」と言われました(21:21、22)。イエス様は私たちがご自分のとの個人的な関係性、1対1の人格的な関係性を持っていることを願っておられるのです。
そして、イエス様は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである「I am Jesus.」」と言われました。「イエスであった」ではありません。つまり、イエス様は今も生きておられるということです。十字架にかかられて知らなれたイエス様が復活し、天に上られましたが、聖霊によって今も生きておられるのです。ですから、イエス様は「立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」とも言われました。イエス様は生きて働いておられることが分かります。これからパウロが町にはいり、そこでしなければならないことも教えてくださいます。ずっと彼とともにおられ、彼とともに働いてくださいます。では、イエス様に出会ったサウロはどのように変えられたでしょうか。
8,9節をご覧ください。「サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。」とあります。地に倒れていてイエス様の御声を聞いたサウロは地面から立ち上りましたが、何も見えませんでした。目は開いていても何も見えなかったのです。そこで人々は彼の手を引いてダマスコへ連れて行きましたが、彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしませんでした。三日間、お墓の中にいる人のように暗闇の中で飲み食いもできなかったのです。彼はイエス様が十字で死なれてから三日間はお墓の中に葬られていた状態を経験しました。その三日間、サウロは完全に低められていたことでしょう。そこで何を考えたでしょうか。多くの苦しみを受け、イエス様にかかられて死なれ、三日間葬られてイエス様の十字架の死を考えたことでしょう。自分が迫害し、殺すようにしてしまったステパノの殉教を考えていたでしょう。何よりも罪人のかしらのような自分から迫害を受け、自分の罪のために死なれたイエス様のことを深く、深く考えていたと思われます。それによって彼はイエス様との真実な出会いが確かめられ、確信することができたと思われるのです。
では私たちはどうでしょうか。私たちがイエス様に出会った経験はどのようなものだったでしょうか。サウロがあのダマスコで経験したようなイエス様との出会いがあるでしょう。はたして私のダマスコはどこでしょうか。
私たちはサウロのように超自然的な、不思議な体験ではなかったも知れません。しかし、イエス様との出会いがあったはずです。世界UBF総裁のアブラハム金宣教師は博士論文ができなくて非常に困っていました。ところが、ある晩、夢の中で実験の方向が示されました。その通りにすると、素晴らしい論文ができました。その論文で博士号をとり、陸軍士官学校の教授になったと証していました。こういう経験をする方も多くいます。静かに、1:1聖書勉強を通して真理の御言葉の意味を深く悟ってキリストに出会った人もいます。どっちにしてもイエス・キリストの出会いがあったからこそクリスチャンになっているはずです。
ところが、長い人生の中で、イエス様との出会いの喜びを忘れてしまう場合があります。イエス・キリストを信じ、教会に通っていても、イエス様に出会った自分のダマスコの喜びも、感激も失っているのです。いつの間にか実際の生活の中でイエス・キリスト以外のものを追い求めていることはないでしょうか。イエス・キリストの御名によって自分の必要ばかり求めていることはないでしょうか。もし、今の自分の心にイエス様との1対1の人格的な関係性、それによる喜びと感謝がないなら、ダマスコの向かっていたパウロのようになっていることだと思います。神様を信じて熱心に働いていてもイエス・キリストと出会いがなければ、それこそ熱心にダマスコに向かっていたサウロと同じ状態です。
私たちはただ熱心に生きることだけではなくk、イエス様との出会う喜びと感激が必要だと思います。そのためにはパウロが経験した三日間のダマスコが必要でしょう。三日間の断食をしながらイエス様の御声に耳を傾け、イエス様と交わるのです。三日間の断食ではなくても静かにイエス・キリストを黙想する時間が必要です。そのようにしてイエス様に出会うことを経験して行くのです。そこでサウロのように悔い改め、主に人生を明け渡さなければならないのです。そのときサウロがパウロに返られたように、私たちも神の器へと変えられていくのです。そして、今まで迫害していたイエス様のために、いのちまでもささげるようになります。ですから、今日、イエスの御前に進み出て行きましょう。イエス様のもとに出る者に、主は真理を示してくださり、栄光から栄光へと主と同じ姿へと変えてくださるのです。
 さて、イエス様はサウロのためにダマスコにいるアナニヤという弟子を用意されました。主が彼に幻の中で、サウロに尋ねるように言われました。しかし、アナニヤはサウロがどんな人であるかを知っていたのでためらいました。しかし主は彼に命じられました。
 15、16節をご覧ください。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」この御言葉から私たちは大切な事実を学ぶことができます。
第一に、サウロはキリストの御名を運ぶ器であるということです。パウロはイエス・キリストの御名を異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶことです。器の分け方にもいろいろあると思いますが二種類に分けることもできます。「見せる器」と「運ぶ器」です。ある時、伊勢丹新宿本店で開かれたイベントに出展された器も見たことがあります。ある作品は桜そしてライラックの色合いがやさしく心を癒してくれました。このように、見せるために、展示のために造られた器は美しさが求められるでしょう。しかし、物を運ぶ器は違います。見せるために、飾りのために造られた器ではありません。色合いよりも鍛えられた強さが求められます。そして、器そのものよりも何を運ぶかが大切です。王様は自分の宝を入れた器を大切にするでしょう。
神様はパウロを貴いキリストの御名を運ぶ器として選ばれました。世のどの宝よりも大切なイエス・キリストの福音を宣べ伝える器として選ばれたのです。神様はその器をどんなに大切にされるでしょうか。パウロはキリストの御名と名誉のために用いられる器です。神様は彼をとても大切にし、どんな迫害を受けても壊れない器として鍛えて用いられます。もちろん、パウロは見せる器ではなく、運ぶ器だからこそ苦労も多いでしょう。神様はアナニヤに「彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないか」と伝えるように言われました。パウロがキリストの御名を世界に運ぶためには苦しみも必要でした。しかし苦労しても福音のみわざのために、御名のためにする苦労は栄光あるものです。それは価値ある苦しみです。なぜなら、彼を通して運ばれるキリストの福音によって多くの人々が滅びから救われるようになったからです。また、彼自身のためにも神様が用意しておられる義の栄冠が用意されているからです。
第二に、サウロは選びの器であるということです。イエス様はサウロを一方的な恵みによって選ばれました。イエス様は彼に大きな御旨を置かれました。彼を通して異邦人に福音を宣べ伝えさせようとしたのです。サウロは人間劇に見ると優秀なユダヤ人でした。ローマの市民権を持っていました。また、彼は当時有名なガマリエルの門下で学び、当時の哲学や思想に優れていました。また、彼には自分のいのちをも捧げて任された使命を果たす忠誠心と熱情がありました。しかし、パウロが選ばれたのは彼の国籍や身分、人柄や実力ではありません。霊的にみると、彼は迫害者です。彼自身が告白しているとおりに罪人のかしらです。そんな彼を神様は一方的に選んでくださったのです。イエス様はご自分の敵になっている彼を一方的な恵みによって選ばれました。同様に、私たちが選ばれたのは一方的な神様の恵みです。神様は一方的な恵みによってこの時代の大学生たちに、この日本にキリストの御名を運ぶ、福音を宣べ伝える者として選んでくださいました。私たちを選びの器にしてくださった主の恵みを賛美します。
サウロは復活したイエス様に出会った後、ただちに、諸会堂で、イエス様は神の子であると宣べ伝え始めました。サウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせました。彼はイエス様の復活の証人となりました。彼は過去イエス様を迫害する不義の器でしたが、これからは主と福音のために自分のからだを義の器としてささげるようになりました。彼は罪人のかしらであった自分を救い出し、主の働き人としてくださった恵みを忘れず、謙遜に、そして忠実に世界宣教の使命のために働きました。このパウロの姿勢は今の私たちに模範となります。

結びの言葉として31節をご一緒に読んでみましょう。「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。」激しい嵐が通った後には平安が教会を訪れました。サウロ一人の回心によって神様のみわざはますます盛んになりました。
今日も神様はご自分の主権によってご自分の御名を運ぶ人を選び、救いのみわざを成しておられます。どうか、私たちがどのようにして救われたのか、イエス様との出会い、イエス様との初恋の思い出を思い出しましょう。何のために私を選んでくださったのかを考えてみましょう。どうか、私たちがキリストの御名をこの日本に、世界に運ぶ選びの器として尊く用いられますように祈ります。