2015年使徒の働き第8講

伝道者ピリポ

御言葉:使徒の働き8:1-40
要 節:使徒の働き8:12「しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。 」

先週、私たちは殉教者ステパノについて学びましたが、今日は、伝道者ピリポについて学びます。ステパノとピリポは信徒たちの中で中心的な役割を果たしていた人物です。ステパノの殉教が福音伝道の火種となり、ピリポの伝道によって福音の炎がユダヤとサマリヤに広がって行きます。では、ピリポはどのような姿勢で福音伝道に励んだでしょうか。神様は彼をどのように用いられたでしょうか。
この時間、本文の御言葉を通して私たち一人ひとりが伝道者ピリポを深く学んでピリポのような伝道者として成長して行きますように祈ります。

?.サマリヤを開拓した伝道者ピリポ(1-25)
1節をご覧ください。「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。」とあります。ここで「その日」とは、ステパノが殉教の死を遂げた日のことです。その日にエルサレムの教会に対する激しい迫害が起こりました。それで、使徒たち以外の者がみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされました。来週、金ヨハネの牧者は柏市に引越ししますが、それは自分が希望した会社に就職したからです。いろいろ準備して行くでしょう。しかし、エルサレム教会の人々は地方に行くことを希望していませんでした。ただ、迫害のためにユダヤとサマリヤ地方に散らされたのです。それは生活の基盤がない所での大変な生活が始まったことです。それでも、彼らは御言葉を宣べ伝えながら巡り歩きました。彼らは迫害のために自分たちが希望したり、計画したりしなかった地方に行きましたがそれでも御言葉を宣べ伝えたのです。ところが、彼らがそのようにしているうちに神様の御言葉は実現されて行きました。使徒1:8節に「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまで、わたしの証人となります。」とありです。この御言葉のとおりに、福音が散らされた平信徒たちを通してエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土に広がって行ったのです。
このようなみわざはキリスト教の歴史にも現れています。17世紀ヨーロッパで清教徒たちは弾圧・迫害を受けていました。それで、102人の清教徒たちは迫害から逃れるためにメイフラワー号に乗船してアメリカに行きました。アメリカでも大変な生活が続きました。でも信徒たちが御言葉を伝えることによってキリスト教国家のアメリカが建国されました。20世紀は韓国でも36年間の植民地生活、朝鮮戦争の中でクリスチャンは激しい迫害を受けました。多くの方たちが殉教され、教会は焼かれました。ところが、そういう迫害・試練の中でも御言葉を伝えたので、韓国教会に奇跡的な成長がありました。
このようなみわざが私たちのうちにも起こっています。日本UBFの宣教師たちは激しい迫害ではありませんが、就職や進学のために東京から地方に散らされて行きました。それによって日本の13都道府県にUBF教会が開拓されました。全ダビデ宣教師が大学院進学のために長崎に散らされましたが、今年25周年になりました。先月は25周年を記念してセンター購入をし、4月19日には開拓25周年感謝礼拝をささげるそうです。結局、私たちには迫害や試練があっても神様はそれも働かせて益としてくださいます。自分の現実問題のために散らされても、そこで御言葉を伝えるなら、神様は伝道者として用いてくださいます。
5節をご覧ください。「ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。」とあります。おそらく、ユダヤ人にとって行きたがらない地域だったと思われます。なぜなら、サマリヤは、紀元前722年にアッシリヤに侵略されてから混血族になってからは同族ユダヤ人から捨てられ、蔑視されていたからです。でも、ピリポサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを伝えました。すると彼らもピリポの話を聞きました。ピリポの行っていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けました。そこで、福音によって人が生まれ変わるみわざが起こりました。その代表的な例がシモンの変化です。
シモンは魔術を行って、サマリヤの人々を驚かせ、自分は偉大な者だと話していました。「自分は偉大な者だ」と話しているのは、彼はとても自己中心的な人で、高慢な人だったということでしょう。ところが、そんな人でもピリポが伝道すると福音を信じてバプテスマを受けました。さらに彼はピリポについて行くようになりました。魔術師が伝道者の弟子になったのです。それは聖霊がシモンのうちに力強く働いてくださったからです。では聖霊はどのように働いてくださいますか。
 14、15節をご覧ください。「さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。」とあります。聖霊は神様の御言葉を聞いて受け入れる人々のために使徒たちを遣わされました。使徒たちは人々が聖霊を受けるように祈り、彼らの上に手を置きました。すると、彼らは聖霊を受けました。あのペンテコステの日にありました聖霊のみわざがサマリヤの町でも起こりました。
ここで、私たちは聖霊の働きを学ぶことができます。聖霊は聖なる都エルサレムだけではなく、サマリヤのような所にも臨まれるということです。時間的にもペンテコステの日だけではありません。どこでも、いつでも神様の御言葉を受け入れる人々に聖霊が臨まれるということです。そして、聖霊の働きによって人々も、国も変えられるということです。伝道者が御言葉を伝えると、それを受け入れる人々に聖霊が臨まれます。そして使徒の働きによって人々は変えられて行きます。使徒パウロは聖霊の示しによってマケドニア地方に渡って行き、ローマに行って福音を伝えます。すると、人々に聖霊が臨まれ、聖霊の働きによって福音がローマ帝国全体にも広がりました。中世になると、神様の御言葉がフランスやドイツなどのヨーロッパ諸国に伝えられました。近世には、イギリスに、アメリカに広がりました。そして、20世紀にはアメリカから、韓国、フィリピンなどの太平洋沿岸地域も福音が伝えられました。
従って私たちも御言葉を伝えると受け入れる人がいますし、彼らの上にも神様が聖霊を注いでくださるということを信じなければなりません。聖霊は一方的に臨まれる時もありますが、御言葉を受け入れる人たちのうちに、臨まれ、力強く働いてくださいます。それで、だから、使徒ではなく、平信徒であってもサマリヤの人々のように聖霊の働きを体験することができます。ダイナマイトのように爆発的な力がある聖霊の体験ができるのです。
シモンはその驚くべき力を見て、聖霊を受けるようにしてくれる使徒の権威が欲しくなりました。そこで、彼は使徒たちのところに金を持って来て「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にもください。」と言いました。彼は金で聖霊を受けれられるようにする権威を買い取ろうとしました。彼はイエス・キリストを信じ、バプテスマを受けたのにもかかわらず、まだ価値観が変わっていませんでした。そこで、ペテロは何と言いました。
20-23節をご覧ください。「ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」」とあります。金は無くなるものです。ペテロはそれとともにシモンも滅びるがよいと言いました。厳しい言葉です。そして、お金で神の賜物を手に入れようとするのは悪事であることを教えてくれました。シモンは魔術師の世界では金で何でも解決したかも知れません。しかし、教会でもそのような価値観で生きるなら、ダメです。特に聖なる神の賜物を金で買おうとすることは大きな罪です。ここでペテロは「悔い改めて、主に祈りなさい」と言ってから「そうすれば赦される」と言いませんでした。彼は「あるいは」ということば使っています。ペテロは「必ず赦される」と言ったのではなく「赦されるかも知れない」と言ったのです。つまり、金で神の賜物を手に入れようと思っていることは悔い改めても赦されないかも知れないほどに大きな悪事だということです。それは聖霊を汚す罪だからでしょう。ペテロの叱責を受けたシモンは答えて「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」と言いました。やっと謙虚な思いになっていることが分かります。このようにして、使徒たちは、主のことばを語り、教会の問題も解決してからエルサレムへの帰途につきました。そしてその時もサマリヤ人の多くの村でも福音を宣べ伝えました。

?.1:1伝道をしたピリポ(26-40)
26節をご覧ください。「ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)」とあります。主の使いがピリポに行くように指示したガザは荒野でした。だれもいないだろうかと思われるところです。でも、ピリポは立って出かけました。彼は主の指示に従ったのです。そこで、どんな事を体験するようになりましたか。
27節をご覧ください。主の使いに言われた通りにピリポが出て行きますと、そこにエチオピヤ人の女王カンダケの高官がいました。彼は女王の財産全部を管理していて財務大臣のような人です。ここで、神様はこのエチオピヤ人の宦官に出会わせるために、ピリポをわざわざこの荒れ果てた道へと遣わされたことが分かります。ピリポは従順を通して荒野でも人に会わせ、伝道できるようにしてくださる神様の導きを体験しました。
時として神様は、私たちを荒野へと導かれると思われる時があります。私は日本に来てなかなか伝道ができないと、ここは荒野だ、他の国に行った方がいいじゃないかと思いました。ところが、ある日、一人の学生から「モンゴル人みたいに見えますね」と言われました。すると、私はモンゴルに行きないなあと思いました。しかし、神様はある出来事を通して日本人に好感を持ち、愛するようにしてくださいました。
先週、次男が東北大学の受験のために仙台に行ったことで思い出されましたが、私が日本に来て始めて訪問した兄弟は朝鮮語を専攻している「菅原」という兄弟です。1989年に一度仙台に住んでいる彼の家で一泊しましたが、東北大学教授だったお父さんが車に乗せてとても親切に、丁寧に大学の見学をさせてくださいました。その時に日本人に対して非常に良い印象を受けました。モンゴルに行かなくても良いと思うようになりました。神様が私を日本に遣わしたのは、私の考えや思いをはるかに超えた神様の導きがあったのです。
長い人生の中でいったいそこにどんな意味があるのかわからなくて困っている時もあるでしょう。でも、神様を信頼し続けるなら、やがて時が来ると、神様はその意味についても示してくださいます。主は私たちにもエチオピア人の女王の高官のような求道者と出会わせてくださるでしょう。日本の財務大臣のような高官とで出会わせてくださるかも知れません
ピリポが聖霊に従って行くと、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官がいました。女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人です。彼は礼拝のためエルサレムに上り、いま帰る途中でした。彼があの荒地を通っても礼拝のためにエルサレムに行ったことは彼に真理を求める求道心が大きかったと思われます。だから、その日も、彼は揺れる馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいたことでしょう。彼はこのように謙遜になって真理を求めることを通して創造主である神様に出会い、礼拝する時に真の満足があります。神様はカンダケの宦官のように切に捜し求める人に素晴らしい聖書先生を送ってくださいました。
御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われました。そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえました。それで、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言いました。すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言いました。彼は自尊心のために知らないことを知っているふりをしませんでした。彼はピリポに馬車に乗っていっしょにすわるように、頼みました。彼は謙遜にピリポに助けを求めたのです。そのようにしてピリポと宦官は馬車に乗って1:1聖書勉強を始めました。彼が読んでいた聖書の御言葉はイザヤ53:7,8節の御言葉でした。それはイエス様の苦難に関する御言葉です。ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエス様のことを彼に宣べ伝えました。すると、福音が宦官の心の中に働きました。それで彼はイエス様が神様の御子であることを信じました。道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官はバプテスマを受けたいと願い、ピリポは宦官にバプテスを授けました。それから宦官は喜びながら帰って行きました。
このようにして彼が変えられることは、歴史的にどんな意味がありますか。それは彼の一人の変化を通してエチオピアに福音の種が落ちたことです。そして最近までエチオピアはアフリカの唯一のキリスト教の国になりました。彼はアフリカの信仰のアブラハムになりました。これを通して私たちは1:1聖書先生の必要性、聖書勉強の重要性を学ぶことができます。一人との1:1聖書勉強はその国を変えることができます。
この日本にもあのエチオピヤ人の宦官のように神様を捜し求める人々がいるはずです。どうか、私たちが彼らと出会うために、キャンパスに出て行きますように祈ります。キャンパスであのエチオピヤ人のような学生と出会って1:1聖書勉強ができるように祈ります。
  以上から、ピリポはサマリヤの人々に伝道して教会を建て上げ、エチオピヤ人の一人との1:1聖書勉強を通して伝道したことが分かります。彼を用いられた聖霊のみわざは私たちが計り知れないほど深いです。聖霊の働きは私たちの考えをはるかに越えています。ただ、私たちひとりひとりがピリポのように聖霊に従い、聖書を教えるとき、聖霊は私たちを通して働いてくださいます。どうか、私たちがこの日本のためにピリポのような伝道者として導かれ、用いられますように祈ります。