2015年使徒の働き5講 

主イエスの復活を非常に力強くあかしした使徒たち

御言葉:使徒の働き4:32―5:16
要 節:使徒の働き4:33「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。」

 先週、私たちはペテロが 「イエス・キリスト以外には、だれによっても救いはない」と証ししたことを学びました。宗教指導者たちはペテロとヨハネとの大胆さを見、生まれつき足なえから癒された人が一緒にいるのを見てはふたりを議会から退場させました。そして、二人にいっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならないと脅かしてから釈放しました。すると、二人は仲間たちのところに行き、祭司長や長老たちから脅かされたことを報告しました。そこで、人々は心を一つにして声を上げて「主よ。今彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちに御言葉を大胆に語らせてください。」と祈りました。すると、一同は聖霊に満たされ、神様のことばを語り出しました。その後、教会はどうなったでしょうか。
 今日の本文である32節を見ると、信じた者の群れは、心と思いを一つにしていました。だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていました。まことに麗しい愛の共同体になっていたのです。持ち物に対する人の心はそれぞれです。夫婦であってもお金の使い方が違います。育ってきた環境が違うからそれぞれの関心、好き嫌いも違うでしょう。それで、多くの人々は夫婦でも通帳を別々にして財産を管理しているそうです。ところが、初代教会はいろんな地域から集まって来た信者たちが心と思いを一つにしていたのです。ほんとうに素晴らしい共同体になっていたことが分かります。では、どうやってこのように素晴らしい愛の共同体になることができたでしょうか。本文の御言葉を通して私たちが目指している教会の姿を学ぶことができるように祈ります。
 
第一に、力強い証と大きな恵みがありました。
33-35節をご覧ください。「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。」とあります。使徒たちはイエス様の復活を非常に力強く証ししました。彼らは宗教指導者たちから「イエスの名によって語ってはならない」と脅かされていたにも関わらず、イエス様の復活を力強く証したのです。どうやってそれほど力強いキリストの証人になったのでしょうか。
それは、聖霊の働きです。イエス様は天に帰られる前、弟子たちに「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)と言われました。その約束のとおりに、聖霊が使徒たちの上に臨まれたので、彼らは力あるキリストの証人となりました。彼らは力強く「十字架に殺されたイエス様は、復活して、今生きておられる」と証ししていたのです。生きておられるキリストが生まれつきの足なえを癒したと証したでしょう。青年は幻を語り、老人は夢を語っていたでしょう。彼らの間で力あるわざと不思議としるしを行なわれる復活のキリストは証しました。「キリストは生きておられる(♪257番)」という賛美もしながら証したと思います。
すると、すべての者の上に主の大きな恵みがありました。すると、人々は「喜び」と「寛容」の雰囲気になりました。緊張した雰囲気ではなく、失敗や弱さを受け入れ、愛し合う雰囲気になったのです。その中で聖霊は豊かに働き、聖徒たちはのびのびと成長して行きました。
 ところが、今の私たちはどうでしょうか。日常生活の中で「復活の主、生きておられるキリスト」を体験しているでしょうか。日常会話の中で「イエス様は生きている」と言うのを証しているでしょうか。私たちは、毎週礼拝の後にフェローシップで交わる時間を持っています。そこで、生きておられるキリストを体験した信仰の証、恵みの報告があるでしょうか。・・・・自分の中でいつの間にか、イエス様を観念的なものにしている方はいないでしょうか。特に祈りが少なくなると、いつの間にか、信仰生活が知識的、観念的になってしまうと思います。
私たちは祈りを通して生きておられるイエス様を体験し、イエス様の復活を証しすることができます。その人の上に大きなイエス様の恵みが臨みます。さらにそこにはイエス様の働きがあるようになります。するとますます生きておられるイエス様を生々しく体験することはできます。したがって今、自分には復活のキリストを体験することも、大きな恵みもないと感じている方はまず祈りから始める必要があります。使徒の働きを読んでみると、聖書を見ると、信者たちは声を上げて祈ったり、夜を通して祈ったり、祈りに専念したりしています。どうか、そういう祈りをしてみてください。すると、復活の主、今も生きて働いておられる主を体験するようになるでしょう。自分の上にも主の大きな恵みがあるようになります。私たちに恵みがなければ心細くなり、喜びも寛容もなくなって行きます。しかし、恵みがあると喜びと寛容があるので何でも分かち合うことができるようになります。雨が大地に降り注ぐように主の恵みが私たちのうちに注がれると、私たちの心は癒され、喜びに満たされるようになります。人々を慰め、施すこともできるようになります。そういう人が増えることによって私たちの教会もますます麗しい愛の共同体になって行きます。その具体的な例がバルナバの献身です。
36、37節をご覧ください。「キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。」とあります。レビ人というのは、イスラエル12部族の一つの部族に属していました。旧約聖書によると、彼らはもともと自分たちの地所を持っていませんでした。彼らは他の11部族が所得の10分の一を受けていたから、それが相続財産になりました。また、それによって土地を購入することもありました。だからレビ人の中でも相当の財産を持っている人たちがいました。バルナバはそうしたレビ人の中の一人だったのでしょう。彼はそれを売り、その代金を使徒たちのところへ持って来たのです。どうやってそれができたでしょうか。
貧しい人、生活に苦しい人を見てかわいそうに思ったからでしょうか。事実、そう言う心があったかも知れません。しかし、ただセンチメンタルな同情心だけでは自分の財産を売ることまではなかなか難しかったと思われます。それより、バルナバもイエス・キリストの御名の力を体験する中で、大きな恵みを受けたと思われます。だから、彼は喜びと寛容な心から神様のためにささげる大決断ができたのです。そうでなかったらこのようなことはできないのです。人を慰め、人に施すためにはまず神様から大きな恵みを受けなければなりません。
私たちがバルナバのような生き方をしたいと思うなら、まずは主イエス・キリストの復活を信じ、生きておられるキリストを体験することが必要なのです。そのうちに、イエス様と心から交わる中で大きな恵みを受けると人のために施しをしたいと言う心も生まれてくることでしょう。その時に自らすすんで自分の持ち物を主にささげ、人々を慰めるために用いるのです。どうか、私たちのうちにもバルナバのように大きな恵みを受け、大きな施しもできる人が増えますように祈ります。  

 第二、神様への恐れがありました。
5章1,2節をご覧ください。「ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。」とあります。
ここには、アナニヤとサッピラという夫婦が登場します。彼らはバルナバのように尊敬されたいと思ったでしょうか。あるいはバルナバから刺激されたでしょうか。アナニヤ夫婦も自分たちの持ち物を売ってそれを使徒たちのところに持ってきました。この持ち物というのは8節で「地所」と置き換えられています。おそらく、彼らは、自分たちの土地を売り、その代金を使徒たちのところへ持ってきたと思われます。自分の土地を売って献金をしたのです。それはなかなか難しいことでしょう。だから、バルナバのように自分の畑を売ってささげる人は尊敬されます。私が大学3年生の時、通っていた教会の建築がありました。その時、ある先輩は自分の家を売って献金しました。私は非常に驚きました。ほんとうに素晴らしいことでしょう。後でその先輩の家族が非常に祝福されて行くことを見て私は神様への献身と信仰とは何かということも体験的に学ぶことができました。バルナバをはじめ多くの信者たちは信仰によって宣教のみわざのために献金をしたと思います。自分の土地や財産を売ってでも宣教のみわざを支えようとする情熱がありました。
ところが、アナニヤにはそういう情熱がなかったようです。彼はその代金をささげる際に、その一部を自分たちのために残しておきました。そこでペテロが、「これがあなたの売った代金のすべてですか。」と尋ねました。すると、アナニヤは「そうです」と答えました。その代金の一部を残して置いたと言えば良かったと思いますが、偽ってしまいました。そこでペテロは彼に何と言いましたか。
3,4節をご覧ください。「そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分たちのために残しておいたのか。それはもともとあなたのためであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」とあります。アナニヤ夫婦は人々を欺いていました。しかし、ペテロは、彼らが人を欺いたのではなく、神様を欺いたのだと言いました。そう言うと、アナニヤは息が絶えて、死んでしまいました。
ここで、神様を欺くことはどんなに大きな罪であるかが示されています。その罪の代価は死でした。神様への欺きが、即、死刑ということになりました。彼らは想像を超えた酷い罰を受けています。神様はそれほどのさばきをなさった目的は何だったでしょうか。
5節の後半のことばをご覧ください。「そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。」とあります。同じことが11節にも記してあります。「そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。」とあります。この恐れというのは、怖いといった恐れのことではなく、聖い恐れです。神様は生きておられるという厳粛な思いです。教会にはこの聖い恐れが必要でした。教会が調子よく進んでいきますと、いつしかこの聖い恐れというものを感じなくなってしまうことがあります。神様を神様とも思わなくなってしまうのです。そうなったらさまざまな腐敗や罪がはびこるようになって内側から崩壊することになってしまいます。なぜなら、教会はキリストのからだであり、神のいのちである聖霊の宮だからです。教会は神様を恐れて生きる時のみ、大きく前進していくことができます。このアナニヤとサッピラの事件は、そうした罪の恐ろしさと、その罪がもたらす影響というものを示しながら、そういうものを取り除いていく必要性を訴えていたのです。教会に神様を恐れることがなければ人々は人間中心になってしまいます。ですから、聖なる恐れがあるときに教会は一致して愛の共同体を維持することもできます。

第三に、教会の成長がありました。
13、14節をご覧ください。 「ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。」
 「ほかの人々」とは、ノンクリスチャンのことです。彼らは、ひとりもこの交わりに加わろうとしませんでしたが、それらの人々は彼らを尊敬していました。また、主を信じる者はますます増えて行きました。ちょっと矛盾しているように思われますが、事実です。 おそらく、あのアナニヤとサッピラの事件の後で、彼らの間には非常な恐れが生じ、この群れに加わることはできないと考えていたのでしょう。それでも心の中では彼らを尊敬していたのです。だから、誰かがイエス・キリストを力強く証してくれると、主を信じるようになります。そうして信じる者はますます増えて行くのです。
それは初代教会に限らず、今の日本でも同じことが言えるでしょう。クリスチャンってすごいなぁ、いい人だなぁ、大したもんだいと思っている人々がいます。でも、自分はその中に入ろうとしません。それが日本の多くの人々の態度だと思います。しかし、そのような中でも、主を信じる人たちはますますふえていくのです。そうして、イエス・キリストを信じて救われると、自分たちの間で多くのしるしと不思議なわざを体験して行くようになります。復活の主を体験するようになるのです。
15節と16節をご覧ください。ついに、病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロがそこを通りかかるときには、せめて彼の影だけでも、だれかにかかるようにしたほどになりました。人々はキリスト教会を大いなるものと認めていただけでなく、実際にその中に加わることによって、大きくふえていったのです。
 今日、私たちは家庭でも、 学校でも、 社会でも、心と思いを一つにすることは難しい時代に生きています。どこにおいも、みんなばらばらです。しかし、クリスチャンは違います。クリスチャンには従うべき一定の基準があるのです。それが聖書です。神様のみことばは、神様のみこころが記されてあります。だから、聖書の教えによって心と思いを一つにすることができます。家族も、教会も、世界も聖書の御言葉を通して一致することができます。自己中心や虚栄といった態度によって人を遠ざけ、人を騙すのではなく、へりくだって互いに人を自分よりもすぐれた者と思うようになります。つまり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしていくようになるのです。私たちの教会の姿がそのように変えられて行きますように祈ります。すると、教会の姿は、世間の人たちから見ても非常に魅力的で、彼らの尊敬と信頼を勝ち取り、さらに力強く前進していくようになります。

結局のところ、すばらしい愛の共同体としての教会とはどういう教会でしょうか。力強くイエス・キリストの復活をあかしし、大きな恵みがあるところです。神様への恐れと成長がある教会です。特に神様を恐れることはとても大切であると思われます。そうすれば、主はその歩みを確かなものとし、祝福してくださいます。私たちの上に大きな恵みをあるようになります。神様を神様とせず、神様を欺きながら、利己的に生きようとするなら、そこにはいろいろな乱れが生じてくるでしょう。教会の内部もばらばらになってしまいます。ですか、結局のところ、神様を恐れることはとても大切です。私たちひとりひとりがただ神様を恐れ、神様のみこころに歩む者でありますように祈ります。また、心と思いを一つにして神様に仕え、人々を愛する者として生きることができるように祈ります。