2015年使徒の働き第2講

聖霊による不思議なわざ

御言葉:使徒の働き2:1-47
要 節:使徒の働き2:17,18「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」

お知らせの時間に報告させていただきますが、アジア支部長修養会のために祈ってくださり心から感謝します。修養会の一ヶ月前にシンガポール行きの飛行機事故もありました。でも16カ国から57人の方が無事にシンガポールに着きました。私にとっては4年間のアジア支部長の任期を終える修養会でもありました。神様の哀れみと皆様のお祈りのお陰で無事に任務を全うすることができたことを心から感謝します。
今日は皆さんと共に使徒の働き2章を学びます。ここに、私たち東京UBFが目指す教会の姿があります。私は東京UBF教会のモデルを求めて聖書を読んでいくうちに使徒の働き2章でこれだという思いがしました。特に、2章は47節まであります。この47と言う数字から47都道府県の日本、47カ国のアジアも思い浮かぶようになりました。そこで、私は東京UBF教会が日本の47都道府県、アジアの47カ国に影響を及ぼす教会になることも目指すようになりました。
どうか、今年使徒の働きを学びながら私たちの姿が使徒の働きの教会の姿に変えられて行きますように祈ります。力ある聖霊のみわざ、不思議なわざが私たちの経験となりますように祈ります。使徒の働きにある使徒たちのすべての信仰と告白とあかしが私たちの信仰と告白とあかしとなりますように祈ります。
今日の第2章には初代教会が誕生するようになった五旬節の出来事が記されてあります。どうか、あの五旬節に臨まれた聖霊が今日も私たちのうちに力強く働いてくださいますように祈ります。

1節をご覧ください。「五旬節の日になって、みな一つの所に集まっていた。」とあります。五旬節とは過越しの祭りから五十日目の祭りという意味です。50日の間にイエス様の復活、40日後の昇天がありました。その後、120名ほどの聖徒たちが祈りに専念していました。そこにどんなことが起こりましたか。
2,3節をご覧ください。突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡りました。20年前の阪神・淡路地震のようなことが起こったのです。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまりました。弟子たちが一つのところに集まり、心を合わせて祈っている時に聖霊が臨まれたのです。ここで、聖霊はそれを祈り求め、待ち望む者たちに臨まれることが分かります。イエス様はルカ11:9-13節のところで、「〜求めなさい。そうすれば与えられます。〜〜 してみると、あなたがたも、悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」と言われました。求めるなら、与えられます。聖霊を慕い求め、一つの所に集まり、心を合わせて祈り求めるなら、神様は約束の聖霊を注いでくださいます。
私たちは毎週一つの所に集まって祈っています。あの弟子たちのように聖霊を慕い求めて祈っているでしょうか。神様は礼拝のために集まっている私たちが心を一つにして祈り求めている時に聖霊を注いでくださいます。私たちがますます聖霊を慕い求めて祈り、聖霊に満たされますように祈ります。主日礼拝の時だけではなく、いつも、どこで聖霊のご臨在を慕い求めて祈りましょう。それによって聖霊が豊かに注がれることを体験して行きますように祈ります。では、聖霊が注がれた時にどんなことが起こりましたか。
4節をご覧ください。「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」とあります。彼らは他国の言葉で話し出しました。彼らは自分の力ではなく、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出しました。つまり、聖霊によって外国語を大胆に語るようになったのです。カンボジアの李ドヨル宣教師は英語勉強のためにシンガポールに行きました。でも、なかなか話せませんでした。ところが、宣教のためにカンボジアに行って神学校で教える時は不思議にも英語で教えることができました。去年は兄弟姉妹たちに聖書を教えるためにカンボジア語にも挑戦しました。英語よりも難しい言葉でした。しかし、聖霊の助けによってひとりを教えると、彼が1年生の1人を教えるようになりました。それでビジョンを持つようになり、今年から首都のプノンペンに引越しして行くそうです。聖霊を受けると、不思議なわざを体験し、さらにビジョンを持ってキリストの証人として働くようになることが分かります。
しかし、聖霊を受けていないユダヤ人たちは聖霊の力と働きを理解することができませんでした。120名ほどの弟子たちがそれぞれ自分の国のことばで話すのを聞いて、驚きあきれてしまいました。7節では「驚き怪しんで」、12節では「驚き惑って」と言っています。これらのことばは、それを聞いた人たちが、いかにもとまどっていた様子を表しているものです。彼らには何事が起こっているのかがさっぱり分かりませんでした。そこで、ペテロは11人の弟子たちとともに立って説教をします。
そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に「今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。」とはっきりと言いました。朝から酔っぱらっている人はいないでしょう。特に当時のユダヤ社会では朝から酒を飲むことは禁じられていました。だから朝から120名ほどの人々が酔っぱらっているはずがないことを説明して彼らがよく知っている旧約聖書の御言葉が成就したことを教えています。
17,18節をご一緒に読んでみましょう。「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」これは、紀元前800年頃に預言者ヨエルの預言したことばです(ヨエル書2:28〜32)。そして、「終わりの日」は、イエス・キリストがこの世に来られてから再び来られる時までを意味します。つまり新約時代です。旧約の時代には特定の人々にだけ聖霊が臨まれました。ヨセフは少年の時に一つの幻を見ました。兄弟たちが自分を拝むようになることでした。30歳になった時に、その通りになっていました。アブラハムは老人になった時に夢を見ました。大いなる国民の父となることでしたが、その通りになりました。このように旧約時代には特定の人々が預言をし、夢を見たのです。
しかし、終わりの日、つまり、新約の時代には神様を信じるすべての人々に聖霊が臨まれます。すると、息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見るのです。預言、幻、夢とはビジョンのことです。老若男女(ロウニャクナンニョ)なく、すべての人がビジョンを持つようになるということです。また、主は「わたしのしもべ」「はしため」にも聖霊を注ぐと約束されました。つまり、身分や国籍を問わずすべての人に聖霊が注がれ、それによって誰でもビジョンを持って立ち上がる時代が始まるということです。ほんとうに素晴らしいことです。
実際にイエス様を信じるすべての人々に聖霊が注がれています。それで少年も、青年も、老人もビジョンを持つようになります。誰でも聖霊に満たされると、聖なるビジョンに燃える人になります。その時、物質的で肉的な人が霊的な人に変わります。考え方が積極的になります。勤勉な人になります。そうして、ビジョンのとおりになることを経験して行きます。私はこのUBF教会で36年目になりますが、その間に数多くの人々が聖霊を受け、ビジョンに燃えてそのビジョンのとおりになることを見て来ました。ここに宣教師たちも誰かに説得されて来たのではなく、聖霊を受けると、ビジョンを持つようになり、日本の宣教師になったと思います。
1981年に私が通い始めた韓国の光州UBFのホールは今の東京UBFより少し広いものでした。でも、この建物の4階の面積を合わせると、あの時の光州センターより広くなります。しかも当時の光州UBFは3階だけを借りていました。ところが、小さいUBF教会でも人々は聖霊を受けてビジョンに満ちていました。彼らは世界の果てまで行くことのために祈っていました。私もその雰囲気に圧倒されて世界のために祈り、何も知らずに一つの国の支部長になりたいとも祈りました。今になって考えてみると、私たちに聖霊が注がれ、ビジョンを持つようになって祈っていたのです。ところが、40代になってみると、そのとおりになっていました。アジア大陸の支部長にもなっていました。もし、私がイエス・キリストを信じず、聖霊を受けなかったら、ビジョンを持つこともできなかったでしょう。箴言29:18を見ると「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。」とあります。またローマ8:6では「肉の思いは死である」とあります。私もほしいままにふるまい、肉の思いによって滅びの道に歩んでいたことでしょう。現実の問題に縛られて心が腐敗して行ったと思います。しかし、神様の深い哀れみによってイエス様を信じて聖霊を受けると、ビジョンを持ち、ビジョンのとおりになることを経験して来ました。それで、私は40代からは「日本の47都道府県にキャンパス牧者」、「アジア47カ国に宣教師を派遣する」というビジョンに燃えています。
このメッセージを準備しながら「老人は夢を見る」と言う言葉に恵みを受けました。UBF先輩たちは60代、70代になっても夢を見てシルバー宣教師として遣わされています。それで今年はUBFにSBF(シルバーバイブルフェローシップ)が誕生するそうです。何と素晴らしいことでしょうか。老人になっても夢を見て新しく出発できるのです。
どうか、この教会に聖霊が激しく臨まれて一人ひとりが幻を見、夢を見ることができるように祈ります。47都道府県、47カ国に出て行くビジョンにも満たされますように祈ります。私も、定年になると、日本の47都道府県の中でまだ開拓されていない所か、アジア47国の中で一つの国に出て行きたいと思います。
ペテロは聖霊のみわざを証しした後、続けてイエス様の十字架と復活を証ししました。特に十字架の言葉をはっきりと伝えています。
36節をご覧ください。「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」そこにいた人々はピラトがイエス様を十字架につけたと思っていたでしょう。ローマ兵士たちが十字架につけて殺したと思っていたでしょう。あるいはイエス様をピラトに渡した宗教指導者たちがイエス様を殺したと思っていたでしょう。イエス様の死は自分たちとは関係がないと思っていたのではないでしょうか。しかし、ペテロは彼らに向かって「あなたがたが十字架につけたのです。」と言ったのです。
ペテロのメッセージを聞いた民達の心にどんな御業が起こりましたか。彼らはペテロのメッセージを聞いて心を刺されました。人はイエス様の十字架の意味が本当にわかるとき、誰でも心が強く刺されます。私も初めて十字架の意味が少しでも分かった時に心を刺されて泣きました。今でも十字架の意味を悟ると泣いてしまいます。それで彼らも十字架の言葉を聞いてペテロとほかの使徒たちに、言いました。「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」これは真実な悔い改めの姿勢です。彼らは神様に犯した自分の罪を悟ってどうしたらいいかわかりませんでした。そこでペテロは彼らに答えました。
38節をご覧ください。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」ペテロは彼らにはっきりと救いの道を提示してあげました。悔い改めこそ、救いに至る関門です。悔い改めは自分の罪を悔しく思い、反省するだけではなく、方向を変えることです。その後イエス・キリストの名によってバプテスマを受けて新しく出発して行きます。すると、すると、その人の罪がイエス様の尊い血によって罪が赦され、きよめられた所に聖霊が臨まれます。聖霊は悔い改めた人に与えられる神様のプレゼントです。
聖霊は今日の私たちにも「神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」と言われると思います。ピラトやローマ兵士、ユダヤの祭司長たちではありません。私がイエス様を十字架につけた張本人です。私の罪のためにイエス様は十字架につけられたのです。神様が死者の中からよみがえらせて私の主・キリストとされたイエス様を私が十字架につけたのです。特に不信仰によって神様を悲しませて来ました。今回、メッセージを準備しながら聖霊の働き、大いなる聖霊の力を制限していた罪を悟りました。聖霊が臨まれると、私たちは力を受けます。私が悔い改めて聖霊の力、聖霊の働きをますます確信して行きます。どうか、私たち一人一人が自分の罪を悔い改めて賜物として聖霊を受けることができるように祈ります。

?.教会の誕生(41-47)
ペテロのことばを受け入れた者は、バプテスマを受けました。その日、三千人ほどが弟子に加えられました。このようにして初代教会が誕生したのです。それでは初代教会の特徴は何ですか。
42節をご覧ください。「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」とあります。彼らは使徒の教えを聞くだけではなかったようです。メッセージを聞くだけで終わらなかったのです。所感を書いて堅く守る闘争をし、その恵みを分かち合う交わりをしていました。xx牧者は仕事の関係で朝の主日礼拝に参加していますが毎週書いた所感をコピーして私にも渡してくださいます。去年、一年間も私は彼女の所感を通して何度も励まされて来ました。
東京UBFがこれからも初代教会のように御言葉を学び、堅く守って行きますように祈ります。また彼らは共に食事をしました。共に食事をしたことは愛の具体的な表現です。私たちは毎週の主日には昼食を一緒に食べています。この食事会を通して私たちの愛がますます深まって行くことを感謝します。そして、彼らは祈りに励みました。祈りは生きておられる神様との交わりで聖徒達の霊的な呼吸です。祈る人は霊的に生きている人です。祈るところに聖霊のみわざがあります。43節をみると、「そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。」とあります。それでは聖徒達の実際の生活はどうでしたか。

結論的に44-47節をご一緒に読んで見ましょう。「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」とあります。このように愛と喜びが溢れる聖徒達の生活はすべての民に好意を持たれました。彼らは聖徒達の生活をうらやましく思いました。主は毎日救われる人々を仲間に加えてくださいました。私たち東京UBFも初代教会のように聖霊に満たされて御言葉を学んで堅く守る生活、愛の交わり、祈り生活がますます大切にして行きますように祈ります。東京の大学生たちが東京UBFのうわさを聞いてうらやましく思って集まって来るみわざが起こりますように祈ります。すると、主が毎日、救われる人々を仲間に加えられるように祝福してくださると信じます。