2014年マタイの福音書7講  
                           
わたしがあなたがたをやすませてあげます

御言葉:マタイの福音書11:1−30
要 節:マタイの福音書11:28「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

 日本は「平均寿命世界一の国」であると言われています。それでもこの日本には多くの人々が「疲れた。疲れている。疲れ切っている。」と言っています。大人から子供まで「疲れた」が口癖で全国共通語になっています。挨拶も「お疲れ様です。ご苦労様です。」と言いますね。どうしてそれほど疲れているでしょうか。どうすれば疲れがとれるでしょうか。
 今日の御言葉でイエス様は疲れた人、重荷を負っている人を招かれます。安らぎを得る方法を教えてくださいます。どうか、御言葉を通してイエス様のお招きを受け入れ、イエス様を学ぶことができるように祈ります。そうして、イエス様から与えられる休みと安らぎを得ることができるように祈ります。

?.疲れている原因
  第一に信仰の確信が揺らぎ始めると疲れます。
1節をご覧ください。「イエスはこのように十二弟子に注意を与え、それを終えられると、彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた。」とあります。「このように」とは「先週、私たちが学んだように、」と言える言葉です。イエス様は12弟子を遣わされるときに「イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい」、「人々には用心しなさい」、「人を恐れず、神を恐れなさい。」などの注意を与えてくださいました。その後、イエス様は彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを去りました。12弟子を遣わすことだけではなく、イエス様ご自身も教え、宣べ伝えることを続けられたのです。そうして、キリストのみわざはますます拡張されて行きました。
 2,3節をご覧ください。「さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」とあります。キリストのみわざについて聞いたヨハネですが、キリストのみわざには関心を示していません。イエス様と12弟子の活動によってキリストのみわざが広がっていたので大変喜ぶべきでした。事実、彼にキリストに対する信仰があった時はキリストのみわざを喜んでいました。イエス・キリストをあがめていました。彼はイエス様に対して「私よりもさらに力のある方です。私は、その方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」と言いました。 (マタイ3章)。それほどにイエス・キリストに対する確信があったのです。その時、彼は疲れることなく、元気いっぱいに働いていました。監獄に入れられることも恐れずに不義と戦いました。
 それなのに彼は、今イエス様がキリストであるかどうかの質問をしています。なぜでしょうか。それは、ヨハネ自身のキリストに対する信仰が揺れていたからです。彼は「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」と言っています。彼はイエス様にバプテスマを授けることも躊躇ったほどにキリストとして確信していたのに、その信仰が揺らぎ始めていたのです。なぜこうなったでしょうか。
おそらく、彼は獄中にいる自分を助けて来てくださると期待していたことでしょう。彼は困っている人、苦しんでいる人を助ける活動こそキリストのみわざだという先入観を持っていたと思われます。イエス様に対して自分なりの期待感と先入観があったのです。ところが、その通りになりませんでした。そこで、彼の信仰は揺れ始めたのです。イエス様に期待することと、現実のギャップに悩む時、疲れてしまうでしょう。イエス・キリストのみわざに対する確信が弱くなると疲れてしまうのです。
 私たちも最初にイエス様に出会って救われた時はどうなりますか。罪深い自分を救ってくださったキリストの恵みのゆえに謙遜になります。「イエス様こそ、生ける神の御子キリストです。」と告白します。キリストのためなら生きることも、死ぬことも益ですと歌います。するとなんだか元気になります。心から生ける水が流れることを感じるようになります。キリストのためなら教会堂の掃除をすることも光栄に思います。「トイレの掃除だけでも私がやります」というほどになります。ところが、自分がイエス様に期待することと現実のギャップが大きくなると、どうなりますか。現実問題が解決されることに集中されるようになります。キリストに出会った時の信仰は弱くなります。「本当にイエス様がキリストなのでしょうか、私の祈りを聞いておられるでしょうか。私は別の方を待つべきでしょうか」と思うようになるのです。イエス・キリストは何もやってくださらないと思って別のところを求める場合もあります。偶像崇拝者に戻り、つまずいてしまう場合もあります。しかし、そのような時こそ忍耐を持ってキリストのみわざを信頼しなければなりません。キリストに対する絶対的信頼をさらに深めて行くべきです。だれでもイエス・キリストにつまずかない者は幸いです。ではキリストは何をしておられたでしょうか。
4-6節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」イエス様はヨハネがキリストに対して正しい知識を持つように、キリストのみわざを確信するように助けてくださいました。ヨハネの活動を無視したのではなく、イエス様ご自身のみわざを教えてくださったのです。先入観や自分中心の期待を捨て、主のみわざを確信することによってヨハネも安らぎを得ることができるからです。
ヨハネはヘロデ王の不義と戦いましたが、イエス様は福音のために働いておられました。目の見えない者が見、足のなえた者が歩くことのために働かれました。ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞こえるように働かれました。死人が生き返ることのためにも働かれました。このようなキリストの働きによって人々は癒され、安らぎを得ました。新しいいのちを得ました。人々から捨てられてしまうほどに弱く病んでいる人たちが癒され、彼らのたましいが行かされるみわざがあったのです。
ではヨハネの働きは無用でしょうか。いいえ。私たちは正義のために戦っている人々をさばいてもいけません。イエス様は正しいことを正しく言う正義感のある人を愛し、認めてくださいます。
7-15節を読んでみると、イエス様はヨハネがいかに偉大な人であるかを説明してくださいました。ヨハネはイエス様が「 女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」とお認めになったほどに偉大預言者だったのです。ただ、彼はキリストに対する知識が不十分であったために、イエス様の十字架の死と復活を知っている現代のクリスチャンには及びません。私たち人間はイエス・キリストの十字架の死と復活を信じることによって救われるからです。私たちはイエス・キリストの十字架と復活を通して神様の愛がどれほど大きいものか知っています。私たちのためにご自分のいのちまでも惜しまずにお捨てになったイエス様の愛を知り、信じています。その信仰を失い、その信仰が弱くなると、疲れてしまいます。日々の生活の中で「疲れた。今日も疲れた。」と言わざるを得ない状態になってしまうのです。

 第二に、人は幼子のようにならないと疲れます。
16-19節をご覧ください。「この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」とあります。
 ここに喜びも悲しみも感じない人々の姿があります。何でもかんでも弁解し、批判的な人々の姿もあります。ヨハネも、イエス様も素晴らしい福音を伝えましたが、人々は喜びませんでした。悔い改めて悲しむこともしませんでした。むしろ福音に対して勝手な評論家になっていました。食べないと悪霊につかれているのだと言い、食べると食いしん坊だと言いました。ああいえばこう言い、こういえばああ言っていたのです。このように、何もかも批判する人の心には安らぎがありません。人に対するさばき、不平と不満などで騒いでいます。だから、いつも疲れるだけです。哀れな人たちです。イエス様が彼らのことを考えると、とても心を痛められたようです。イエス様は悔い改めない町々の不信仰について嘆かれました。
21-24節をご覧ください。「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」とあります。このようなイエス様の嘆きには理由があります。それは、イエス様がメシヤであることを証明する数多くのみわざを見ているのにもかかわらず、これらの町々が悔い改めなかったからです。イエス様が彼らの町に来られたので、イエス様に関する知識を増えていたでしょう。でも、本当の意味ではキリストを知らなかったのです。
25-27節をご覧ください。「そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」とあります。自分の賢さや知恵を誇る評論家のようではなく、幼子のようになると、神様を知ることができるということです。幼子は笛を吹いてやると、踊ります。うちの子どもたちがまだ幼かった時は、CDフレアから音楽が流れるだけでも踊りだしていました。恐い顔をしたり、弔いの歌を歌っているような顔をしたりすると、子どもたちの顔も悲しい表情になりました。幼子は素直に反応するのです。ですから、イエス様が私たちに要求されるのは、多い知識ではなく、幼子のような素直さです。幼子のように素直に反応して喜び、悲しむのです。幼子は疲れていません。だから、神様の御言葉が語られるときに反応できる方は幸せです。御言葉を通して疲れがとれる生活ができます。
パウロチーム勉強会の時によく笑います。御言葉に素直に反応できるからだと思います。私は先輩の宣教師たちが御言葉に反応して素直にお話をし、大笑いすると、一日の疲れが完全に癒されます。李ヨシュア宣教師はよく言います。「今日も実はここまで来るのが重かったけれども御言葉を勉強すると元気になりますね」と。本当にそうです。私自身もよく経験していることです。もし、ヨシュア宣教師が「俺はこの箇所を何度も勉強したよ。」と思って家で休んでいると疲れが取れるでしょうか。そうではないと思います。疲れていても教会に来て御言葉に反応すると、不思議に疲れが癒されるし、ストレスも解消されるのです。たましいに安らぎが来ます。従って私たちはどうするべきでしょうか。

?.休み、安らぎを得る方法(疲労回復の方法)
28-30節をご一緒に読んでみましょう。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」ここで、私たちは休み、安らぎを得る具体的な方法を学ぶことができます。
第一に、イエス様のお招きを受け入れることです。イエス様は。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」と招いてくださいました。 私たちはみな、生活を営む以上、疲れと重荷から逃れる事はできません。「この頃、いつも疲れを感じている。いくら寝ても疲れが取れない、身体が重くだるい。」こんな悩みを抱えている方がたくさんいます。それが私たちの生活でしょう。ところが、疲れているときに疲れている人に行くと、ますます疲れます。一日中、職場で働き、疲れたまま家に帰った時、奥さんから「今日は疲れた。ちょっとご飯を炊いてくれる。」と言われたらどうなりますか。さらに疲れてしまうでしょう。しかし、心やさしく、へりくだっている人に行くと、休まれるし、安らぎを得ます。たとえば、旦那さんが仕事から家に帰ったとき、奥様が優しく謙遜に迎えてくれるなら、一日のすべての疲れがとれるでしょう。でもそれは一時的です。私たち人間はお互いに疲れているからです。ところが、イエス様は誰よりも心やさしくへりくだっておられます。何よりもイエス様は私たちの弱さも重荷も背負って十字架にかかって死んでくださいました。イエス様は私の内側で私を責めたてている全ての罪と、その記憶をご自分の身に引き受けてくださったのです。キリストがあなたのすべての罪の身代わりとなって十字架の上でさばきを引き受けてくださったのです。したがって神様はキリストにあって私たちのことを少しも怒っていません。私たちを迎え入れようと優しく待っておられる方なのです。恐れの原因は全部キリストが十字架の上で取り除いて下さったのです。また、イエス様は死者の中からよみがえることで死を滅ぼされたお方です。イエス様は死という人生最大の重荷を自らの復活によって滅ぼしてしまわれたのです。ですから、私たちがイエス様のお招きを受け入れ、イエス様のところに行くなら、休まれるし、安らぎを得ることができるのです。
第二に、イエス様のくびきを負って、イエス様から学ぶことです。人生は荷車を引いて行くようなものです。私は子どもの時に、牛にくびきをかけてリヤカーを引いて行くようにしました。リヤカーに乗っていると楽しかったです。でも牛がいないと、自分が荷物を載せたリヤカーに引いて行く時もありました。その時に、誰かが一緒になって車を引いてくれると楽になりました。これが休みです。そのように、さまざまな重荷を載せたリヤカーを引いて行くような人生の中にイエス様が来てくださいました。それで、だれでもイエス様のくびきを負って行くなら、イエス様が重いリヤカーを一緒に引いてくださるのです。私たちの重荷が多くてもイエス様が引いてくださるから楽になります。私たちは平安な生活ができるようになります。やすらぎのある素晴らしい人生を持つことができるのです。それから、イエス様を学んでいくうちに、自分のたましいに来る安らぎを体験することができます。人々を休ませることもできるようになります。イエス様はやさしく、へりくだっているとおっしゃいました。人は短期で高慢になっていると自ら疲れます。しかし、イエス様のように心やさしく、へりくだっていると、平安になります。神様を愛し、人を愛する歩みです。イエス様と一緒になった私たちも、神様を愛し、人を愛するなら、その人生がどうなりますか。「そうすればたましいに安らぎがきます」これが、イエス様の約束です。

  人生の中には疲れや心配事があります。きよくなりたいと思ってもきよくなれない、また、家庭や夫婦、親子問題、経済、事業、健康など、人生には色々な問題があります。しかし、イエス様が招いておられます。『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』 これはクリスチャンであっても、クリスチャンではなくても、全ての人に対するイエス様の招きの言葉です。素晴らしい御言葉です。『わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」』
私たちがイエス・キリストを正しく知り、信じる信仰によって疲れた生活から救われて安がりのある生活ができますように祈ります。