2014年マタイの福音書第5講

私たちのわずらいを身に引き受けられたイエス様

御言葉:マタイ8:1-17
要 節:マタイ8:17「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

先週、私たちは主イエス様のことばを聞いてそれを行なう者について学びました。それと関連してマザーテレサのことばを紹介したいと思います。彼女は「キリストに近づこうとしている人たちにとって、キリスト信者たちが最悪の障害物になっていることがよくあります。言葉でだけきれいなことを言って、自分は実行していないことがよくあるからです。人々がキリスト教を信じようとしない一番の原因はそこにあります。」と言いました。(『マザーテレサ 愛と祈りのことば』)。信者である私も最悪の障害物になり得ることが分かりました。先週は日ごとの糧からも、ただ聞くだけの者ではなく、実行する信仰の人にならなければならないことを学びました。
今日の御言葉では私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負ってくださるイエス様について学ぶことができます。どうか、私たち一人ひとりがイエス様にタッチされて癒されますように祈ります。さらに、私たちも人々の弱さを担い、癒すことのできるリーダーとして成長して行きますように祈ります。

?.イエス様はツァラアトに冒された人をきよくし、癒してくださいました(1-4)。
 1、2節をご覧ください。「イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来てひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」とあります。ツァラアトとはらい病、ハンセン病とも呼ばれる病気です。当時のユダヤ人社会においては汚れた病気とされていました。町の外に住まなければならなかったし、もし道を歩く場合は、口に手を当てて、「汚れた者、汚れた者」と叫ばなければなりませんでした(レビ13,14章)。だから、ツァラアトの人が多くの群衆の所にいることはほとんどありませんでした。ところが、この人は多くの群衆の前でイエス様のみもとに来てひれ伏しました。「主よ。お心一つで、自分をきよくしていただけます」とも言いました。
ここで積極的にイエス様に求める彼の祈りと信仰を学ぶことができます。彼は多くの群衆の中に隠れていたのではなく、イエス様のみもとに来てひれ伏しました。イエス様を「主」と呼び、「お心一つで、私をきよくしていただけます」と言いました。イエス様への信仰を告白したのです。それに対してイエス様はどうなさいましたか。
3aをご覧ください。「イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。」とあります。イエス様はわざと手を伸ばして彼にさわられました。イエス様は彼にタッチすることを通して彼の病を理解し、その痛み重さを知られたのです。ツァラアトの人はどんなに感動し、心が熱くなっていたでしょうか。イエス様にタッチされ、「私の心だ。きよくなれ。」と言われると、すぐに彼のツァラアトはきよめられました。やはり、イエス様のお心は彼がきよめられることでした。イエス様は汚れている人がきよめられることを願っておられたのです。
そうです。イエス様は罪のために汚れている私たちもきよめられることを願っておられます。イエス様は私たちが汚れた罪のために、人々に言い表せない病気であっても、その罪を赦してきよめ、癒してくださいます。新しくなって新しい人生を生きるようにしてくださいます。?コリント5:17節を見ると「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とあります。私たちがキリストのうちにあるなら、イエス様のお心の通りにきよめられ、すべてが新しくなるのです。このツァラアトの人もきよめられて新しい人生が始まりました。これからは道を歩く時に「私は汚れている者、汚れている者」と叫ばなくてもいいです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなったからです。イエス様は彼に新しく生活の出発も助けてくださいます。
4節をご覧ください。「イエスは彼に言われた。「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」とあります。イエス様は人々へのあかしのために自分を祭司に見せ、供え物をささげることを教えてくださいました。イエス様は彼が正常な社会生活を営むことができるようにガイドしてくださいました。今まで病気のために束縛されていた生活から解放されて自由に生きるように助けてくださいました。
夏修養会の時に所感を聞いてみると、人々はなかなか人に言えないような悩み、痛みを持って苦しんでいたことが分かります。しかし、聖書の御言葉を学んで信仰によってイエス様のところに出て行ったなら、イエス様は私たちをタッチし、きよめてくださいました。多くの方たちが自分の罪と咎を真実に告白し、悔い改めてきよめられました。イエス・キリストによってすべてが新しくなりました。
では、皆さんがこの教会堂に来て主に礼拝をささげていることは何を意味することでしょうか。それはイエス様のお心を信頼していることでしょう。その信頼を皆さんとともにイエス様に告白しましょう。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」イエス様は私たちにも言われます。「わたしの心だ。きよくなれ。」イエス様は私たちをきよくしてくださいます。それがイエス様のお心です。イエス様によって私たちの罪が緋のように赤くても雪のように白くなります。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになります(イザヤ1:18)。どうか、私たちをきよくしてくださるイエス・キリストによってきよめられて秋にはもう一度新しい出発ができるように祈ります。

?.イエス様は百人隊長のしもべを癒してくださいました(5−13)
5,6節をご覧ください。「イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」」とあります。百人隊長とは言葉の通りに百人を統率する隊長です。ローマの軍団は六千人から成りますが、それは六十の百人隊に分かれていました。この百人隊の隊長はローマ軍に長く勤務する正規兵で、軍隊の規律と団結を保つ責任が与えられていました。それで、百人隊長はローマ軍の中でも最も優秀な人で人格者も多かったそうです。実際に、新約聖書に出て来る百人隊長はみな立派な人物です。十字架上のイエス様を見て「この方はまことに神の子であった」と言った人も百人隊長です。キリスト教に改宗した最初の異邦人コルネリオも百人隊長です。いちはやくパウロをローマの市民として認めて、彼を暴徒の襲撃から守った人も百人隊長でした。この他にも立派な百人隊長たちがました。この百人隊長も素晴らしい方です。特に自分のしもべに対する彼の愛は感動的です。
このしもべは奴隷であったと思われます。ローマ帝国では奴隷に何の価値も認めていませんでした。一般的に人々は奴隷が苦しもうと、生きようと、死のうと、そんなことはどうでも良いと思っていました。奴隷を物のように扱い、病気の奴隷は捨てました。しかし、この百人隊長は奴隷の状態をよく把握し、奴隷のためにイエス様のみもとに来て懇願しました。イエス様に対する態度も素晴らしいです。彼は無理やりに要求したのではありません。ひどく苦しんでいる自分のしもべの状態をイエス様に知らせただけです。それほどイエス様を信頼していたのです。彼はイエス様なら、人々からは捨ててもいいと思われている奴隷であっても貴く思い、助けてくださると信じたのです。ほんとうに素晴らしい信仰です。ではこの百人隊長の愛と信仰に対するイエス様のお答えはどうですか。
7節をご覧ください。「イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」」とあります。やはり、イエス様は奴隷であっても貴く思ってくださいました。イエス様ご自身が行って、直して上げようとされたのです。ところが、百人隊長はイエス様に何と言いましたか。
8-9節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」ここで、私たちは百人隊長の謙遜とイエス様の御言葉の権威に対する信仰を発見することができます。特に、彼は軍人としてことばの権威についてよく理解していました。私も軍人生活をしましたが、軍隊では上官のことばには絶対的な権威があります。例えば、軍団長がカペナウムの百人隊長に「ローマに行け」と命じられると行きますし、やっとローマに着いたのに「すぐに来い。」と命じられるとすぐに来ます。同様に百人隊長のことばには百人の部方たち動かす権威があります。これらのことを通してこの百人隊長はイエス様には全宇宙の司令官としての権威があると信じました。特にイエス様のお言葉は遠く離れた所でもすべてを動かす権威があることを信じました。ただ、おことばをいただかせてくだされば、自分のしもべが直ると信じていたのです。何と素晴らしい信仰でしょうか。本当にりっぱな信仰です。イエス様も驚かれました。
10b-12節をご覧ください。「イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」」とあります。イエス様は異邦人である百人隊長の信仰を賞賛しながら、ユダヤ人の不信仰を指摘されました。彼らは不信仰のゆえに外に追放され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。ここで、信仰があればイエス様を驚かせることもできますが、反対に、不信仰の人は追い出され、さばかれることも学ぶことができます。
私たちが生活の中でイエス様の大いなる力の体験ができない理由は不信仰のゆえです。百人隊長のように自分の生活を通してもイエス様の御言葉の権威を信じれば偉大なイエス・キリストの力を体験することができます。聖書に「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう(詩編81:10b)」とあります。イエス様は百人隊長の立派な信仰を大きく祝福してくださいます。
 13節をご一緒に読んでみましょう。「それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。」」とあります。ここで、私たちは私たちの信仰のとおりに祝福してくださるイエス様を学ぶことができます。もし、百人隊長が病気のしもべに対してしようがないと思っていたらなら、どうなったでしょうか。しようがなかったでしょう。しかし、百人隊長がしもべを愛し、イエス様の御言葉の権威を信じからこそ、しもべは癒されたのです。それによって空間を超えて働くイエス様の権威も確認することができました。では今は、どうでしょう。
今でも、イエス様の御言葉には権威があります。私たちがイエス様の御言葉を信じると、その信仰のとおりに主の力が現われます。病が癒され、不可能なことが可能になります。中風やみで寝ているような状態から目を覚めて積極的に活動する人になります。私たちがこのようないのちのみわざを体験するために必要なのは何でしょうか。多くの知識ではありません。信仰経歴でもありません。百人隊長のように信じる信仰です。御言葉の力と権威を信じるなら、驚くべき主の力を体験することができます。
 私は7月からひとりの青年と1:1聖書勉強しています。彼は韓国系のアメリカ人ですが朝鮮学校の英語先生として働くために日本に来ました。ところがなかなかビザが出ませんでした。8月になって入管に聞いてみると、後1か月、最小限3週間はかかると言われたた。彼はその悩みを私に打ち分けてくれましたが私には法務省に知り合いもいません。ただ、24年前に自分もビザが出なかったために予定していた結婚式も上げることができず恐れていたことを言いました。日ごとの糧の御言葉を通して「恐れないでただ信じていなさい。」という御言葉が与えられたので信仰の祈りをしたら、ビザが出て結婚もしたし、今の自分になっていることも話しました。すると、彼は頷いてくれましたが、その後、彼はビザのために断食祈りをしたそうです。韓国行きの航空券が土曜日だったので金曜日まではビザが出るように切に祈ったのです。ところが、その通りに金曜日にビザが出ました。ハレルヤ!先週韓国から帰って来た彼は電話でちょっと興奮しながら宣教師の助けと祈りのお蔭でビザが出ましたと報告してくれました。信仰の祈りをささげると、その通りになったのです。そうです。私たちが神様の約束の御言葉を信じて祈ると、驚くべき神様の力を体験することができます。ですから、私たちはさまざまな問題に対してまず御言葉を求め、御言葉に頼って祈ることが大切です。どうか、私たちも百人隊長のように「ただ、おことばをいただかせてください。」と祈り求め、御言葉を信じて祈る生活ができるように祈ります。
 
?.イエス様はペテロの姑を癒してくださいました(14-17)
14、15節をご一緒に読んでみましょう。「それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。」とあります。「熱病」とは高熱が出ることを特徴の一つとする病気です。マラリア、チフス、肺炎などがあります。最近、西アフリカで感染が拡大するエボラ出血熱のように治療が難しく、致死率が高い熱病もあります。ところがイエス様が手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエス様をもてなしました。16節を見ると、イエス様はみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになりました。このイエス様にはイザヤが預言した通りにメシヤの姿がありました。

結論的に17をご一緒に読んでみましょう。「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」とあります。イエス様は実に私たちの病を負ってくださいました。町から隔離されて悲しく、さびしい人生を生きていたツァラアトの人のわずらいを負い、彼の苦しみと痛みを担ってくださいました。イエス様は中風やみで家に寝ていて、ひどく苦しんでいる百人隊長のしもべの病も背負ってくださいました。ペテロの姑の熱病も背負ってくださいました。人のわずらい、病を背負うことは簡単ではありません。
私は小学校2年生の夏に一か月ほど足を動かすことができなくなった時があります。その時、私の父は私を背負ってあちこち歩き回りました。私は他の友だちより太っていたので重かったと思われます。父はあの暑い日に小学2年生の男の子を背負って歩き回っていたのです。ほんとうに大変だったでしょう。でも、父が背負ってくださったからこそ、私は楽にトイレも行けたし、治療を受けることもできて癒されました。
イエス様は1人だけではなく、全人類のわずらいを身に引き受け、病を背負ってくださいました。その時にどんなに重かったでしょうか。人々のわずらいと病を背負わせた十字架はどんなに重かったでしょうか。イエス様はそれを背負うだけではなく、神様に打たれ、苦しめられました。ついにその十字架にかかられ、十字架の上で御血を流されたのです。実にイザヤの預言の通りです。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちの背きの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。」とあります。イエス様はご自分の十字架の死によって私たちのわずらいと病も「身に引き受け」、取り去ってくださいました。
ですから、イエス様を信じる者は、だれでもすべてのわずらいと病が癒されて健やかに生きることができます。イエス様のお心を信じるなら、イエス様は私たちをきよめてくださいます。私たちがイエス様からおことばをいただくと、私たちの信仰によって自分の家族も、職場の同僚も癒されることができます。もし、家族が遠く離れていても百人隊長のように御言葉の権威を信じるなら、神様はその信仰のとおりに癒してくださいます。私たちのわずらい、私たちの病と痛みを引き受けて十字架にかかって死んでくださったイエス様の愛を心から賛美します。私たちも人に対する愛とイエス様に対する信仰を新たにして行きますように祈ります。イエス様のように人の弱さを担って彼らのために祈る良い牧者として生きることができるように祈ります。