2014年マタイの福音書第1講

天の御国が近づいたから

御言葉:マタイの福音書3:1-17
要 節:マタイの福音書3:2「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

 神様が先週まで旧約聖書の最初である創世記の勉強を祝福し、今日からは新約聖書の最初であるマタイの福音書を学ぶようにしてくださり心から感謝します。
旧約聖書はキリスト教だけではなくユダヤ教の正典であり、イスラム教においてもその一部が啓典とされています。ユダヤ教では旧約聖書だけが唯一の「聖書」です。そのためユダヤ教では「旧約聖書」とは呼ばれず、単に「聖書」と呼ばれます。キリスト教は旧約の成就としての「新約聖書」を正典として持っています。新約聖書はイエス様の生涯を記した福音書と使徒の働き、そして手紙によって構成されています。
福音書は四つあります。マタイの福音書、マルコの福音書、 ルカの福音書、そしてヨハネの福音書です。マタイとマルコとルカの3人によって書かれた福音書は共観福音書と呼ばれています。共観と言うのは、観察、見方が共通しているという意味です。そして福音書の中で最初に書かれたのはマルコの福音書です。マタイとルカはマルコの福音書を基礎資料として用いたということになります。聖書学者バークレーによるとマタイの福音書はマルコの福音書の言語の51%を、ルカの福音書は53%を用いています。マタイはマルコの福音書を土台にしながらも、イエス様の教えに力を入れていると言えます。
そこで、今年はマタイの福音書の中でもイエス様の教えを中心に勉強したいと思っています。もちろん、イエス様の教えだけではありません。今日の本文のようにバプテスマのヨハネの活動、イエス様の活動も学びます。ただ、毎年福音書を勉強しているので今年はイエス様の教えを中心に勉強するということです。
マタイの福音書が強調しているテーマは王であるイエス・キリストです。彼はイエス様の弟子としての経験、自分が調べた資料からイエス・キリストこそ、聖書(旧約聖書)に預言されたユダヤ人の王、メシヤであることを確信したようです。実際にマタイの福音書を読んでみると王の系図から初めてイエス様はユダヤ人の王として誕生し(2:2)、ユダ人の王として死なれたこと(27:29)を記しています。ユダヤ人なら誰も分かっているはずの旧約聖書を引用してイエス様の誕生、行動、死などが、旧約聖書に預言されている通りになったことを強調しているのです。しかし、この福音書が異邦人を度外視しているのではありません。マタイは異邦人に対するイエス様の御心も紹介しています。8章11節を見ると「あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます」とあります。24章14節には「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」とあります。そして最後の28章では「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。19a)」とあります。確かにマタイはユダヤ人のために書いたのですが、同時にあらゆる国の人々に福音が宣べ伝えられることも願っていたのです。ユダヤ人を始め、すべての人々が王であるイエス・キリストを信じ、その主権に従う天の御国の民になることを願っていました。そして、彼はヨハネとイエス様を通して天の御国のためになるためにはまず第一に悔い改めなければならないことを知っていました。そこでマタイはバプテスマのヨハネが宣べ伝えた第一メッセージを通して悔い改めを訴えています。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」とあっさりと語っています。では、天の御国が近づいた。」と言うのはどういうことを意味するでしょうか。どうすれば天の御国の民になれるでしょうか。どうか、私たちも悔い改めによって愛と平和によって支配される恵みと喜びの天の御国の民として生きることができるように祈ります。

 1節をご覧ください。「そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。」とあります。「そのころ」とはまだイエス様がガリラヤのナザレという町に住んでおられた時です(2:23)。そのころ、バプテスマのヨハネが現われました。彼は預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人です(3)。彼がユダヤの荒野で何を宣べて言いましたか。
2節をご一緒に読んでみましょう。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」このヨハネのメッセージは後にイエス様が宣教を開始された時に言われる言葉と全く同じです。4章17節を見ると「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」」とあります。ヨハネも、イエス様も第一のメッセージが「悔い改めなさい。」だったのです。それほど悔い改めが大切であるということでしょう。悔い改めとは言葉の通りに自分の罪を悔いて心を改めることです。その理由は「天の御国が近づいたから」です。「天」とは、神様の代名詞です。一般的に国とは国民・国家・領土と言いますが、ここでは言語の意味が「支配」であるそうです。つまり、天の御国とは神様の支配を指しています。支配には服従が伴われます。支配する者がいれば、服従する者がいるはずです。神様が支配して人間が服従するなら、そこが天の御国、天国になります。イエス様がこの地上に来られることによって天の御国が近づいて来ました。バプテスマのヨハネの後にすぐキリストが現われます。誰でも悔い改めればイエス・キリストを通して神様の支配に服従することができるようになります。ですから「悔い改めなさい。」と言うことです。勝手なことをしている生活から向きを変えなさいということです。そうすると、神様は愛と平和、公平によってその人を支配し、治めてくださるからです。
私たち人間は神様に罪をアダムの子孫として、また自分の罪のためにサタンに支配されています。自分の力によってサタンの支配から救われません。サタンが植え付ける人に対する嫉妬、憎しみ、絶望、淫乱、劣等感、恐れと不安等に支配されて死の陰を歩んでいます。先週まで学んだヨセフの兄たちのように不安と恐れの中で苦しんでいるのです。使徒パウロも悔い改めなかった時は死の陰を歩んでいました。彼はこのように告白しました。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7:24)」しかし、彼が悔い改めてイエス・キリストを信じて神様の支配に服従するようになった時は、どうなりましたか。彼はその恵みと喜びも告白しました。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。(ローマ5:1,2)」死の陰を歩む苦しみから解放されて恵みと喜びの天国の民として生きるようになったのです。
あの有名な讃美歌「アメージング・グレイス」を作詞したジョン・ニュートンは七歳の時に母親が亡くなってしまいました。大きなショックを受けた彼は、反抗期を迎えると共に、非行に陥りました。学校も退学、船乗りになり、放蕩にふける青年期を送りました。乗船する船を次々に変えて、ついに行き着いたところが、結局、アフリカ大陸から黒人奴隷を拉致して輸送する奴隷貿易でした。言うまでもなく、当時、奴隷として拉致された黒人の扱いは家畜以下でした。この奴隷貿易に手を染めていたことから分かるように、彼は傲慢で野心的な人物でした。ところが、そんな彼でも悔い改めると、天国の民になりました。1748年5月10日、彼が22歳で船長として統率した船が大きな嵐に遭い沈没寸前に落ちると、彼は必死に神様に祈りました。その後、奇跡的に嵐を脱して彼の船は難を逃れ、彼と船員は生還しました。その後、彼は本当に悔い改めて神様の支配に服従する人になったのです。彼は神の国の恵みと喜びを体験して39才の時に英国国教会の牧師となります。そして、イギリスで神様の恵みを取り次ぐ者として神様から用いられました。そこで彼は罪の中に陥っていた、救いようのない自分を、罪の中から引き上げて下さった驚くべき神様の恵みを「アメージング・グレイス」に表しました。直訳すると、こういう歌詞であります。「アメージング・グレイス。おどろくばかりの神の恵み。なんと、うるわしい響きだろう。この恵みは私のように挫折し、滅びようとしている者までも救う。私はかつては失われていた者、しかし今は見つけていただいている。かつては目が見えていなかった者、しかし今は見えている。」(聖歌233番を歌ってみましょう。) これはジョン・ニュートンだけの歌ではなくて、悔い改めて神様の支配に服従する私たちの歌でもあると思います。私たちもかつては神様と無縁の生活をしていました。勝手なことをしていました。神様の愛を踏みにじり、滅びの道を歩んでいたのです。けれども、ある日、不思議な仕方で神様の支配に服従する人に変えられました。滅びから救いへと、暗闇から光へと導かれて天の御国の民になったのです。これが神様の愛なのです。本当に驚くばかりの恵みとしか表現できません。私たちが本当に悔い改めて神様の支配に服従するなら、ほんとうに天国の恵み、驚くべき恵みの世界に入られるのです。ヨハネもそのような恵みを経験していたことでしょう。ですから、彼は荒野であっさりと「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と言うことができたのです。そして、悔い改めて天国の恵みを経験しているヨハネの生活は非常に質素なものに変わりました。
4節をご覧ください。「このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。」とあります。ヨハネは当時国民から尊敬されている祭司ザカリヤとエリサベツの間に生まれたひとり子です。父の家には華麗な祭司服があるし、おいしいお肉もあったはずです。食べたいものを食べながら格好よくメッセージを伝えることができたはずです。でも、彼は世の楽しみと楽な生活を捨てました。そして、つまり自分の欲望のままに生きることを悔い改めて荒野に行き、質素な生活をしながら主の道をまっすぐにする使命を果たしました。自分自身から悔い改めにふさわしい行動をしていたのです。このようなヨハネのメッセージにはどれほどの権威がありましたか。
5,6節をご一緒に読んでみましょう。「さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。」悔い改めと信仰告白のみわざが起こったことがわかります。全国的なリバイバルが起こったのです。ところが、ヨハネのメッセージを受け入れず、悔い改めない人たちもいました。
 7、8節をご覧ください。「しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」ヨハネのメッセージを聞いたパリサイ人とサドカイ人もバプテスマを受けて来ました。外見上の姿を見ると彼らも荒野まで来ているから偉いと思われます。しかし、彼らは悔い改めているふりをしているだけでした。つまり、彼らは宗教指導者として「悔い改め」が何かを知り、過去にも「悔い改める」ということばを繰り返していました。ユダヤ人の会堂では美しい祈りが唱えられていました。「父なる神よ、われらを汝(ナンジ)の律法に立ち帰らせたまえ。ああ王なる神よ、われらを引き寄せて汝に仕えさせ給え。ああ主よ、悔い改めを喜び給う汝の御名はほむべきかな。」と。ユダヤ教のラビたちも悔い改めについて教えていました。あるラビはヨナ書3:10節を解釈して、「わが兄弟よ。神が目をとめられたのは、ニネベの人たちが荒布をまとい断食したことではなく、彼らが悪の道を離れて、それを行ないによって示したことである」と言っています。ほんとうにそうです。しかし、彼らは正しい悔い改めを教えながらも悔い改めにふさわしい実を結んでいなかったのです。
私たちはどうでしょうか。毎週、毎日のように悔い改めているはずです。断食したことほどではなくても悔い改めの祈りもしています。ところが、罪と悪の道を離れて、それを行ないによって示しているでしょうか。私自身も毎日日ごとの糧を食べながら悔い改めの祈りもしています。しかし、深い悔い改めも、行ないによって示しているものも少ない自分の姿に気づかされました。悔い改めにふさわしい実を結んでいないのです。私たちに神の国の恵みと喜びがないのは悔い改めがないからです。
私はこのメッセージを準備しながら本当に心から悔い改めてそれを行ないに示している時は心から湧き出る喜びがあったことに気づきました。口からもアメージング・グレイス。おどろくばかりの神の恵みを賛美するようになります。しかし、何とかクリスチャンとして生きているものの、悔い改めがない生活には喜びもありません。悔い改めが少なければ喜びも少なくなります。ところが、ヨハネは悔い改めにふさわしい実を結ばない人々に警告もしています。
 10節をご覧ください。「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」とあります。「悔い改めにふさわしい実を結ばない者たちは、火の中に投げ込まれます。」とヨハネは宣言しています。もちろん、「主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るにおそく、恵みとまことに富」んでいるお方です。ですから、どんなに悪いことをしていても、その人が悔い改めて悪から立ち返ろうとするなら、あわれみを豊かに施してくださる方です。そしてキリストが来られたのは、まさにこの救いのためなのです。さばきのためではありません。
 イエス様はこう言われました。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなくて、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:17)」神様は誰もが救われて、この恐ろしい火によるさばきを免れてほしいと願われています。そのために、御子を十字架の死に明け渡し、あなたの罪を彼の上に負わせたのです。しかし、パリサイ人たちのように聖書の御言葉をよく知り、正しいことを教えていながらも自分は守らない、全く実を結ばない生活をし続けるならさばかれます。ヨハネは悔い改めない人々に「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」警告しています。私たちがこの警告を真剣に受け入れて悔い改めにふさわしい実を結ぶ生活をしますように祈ります。ではどのようにしたら、私たちも悔い改めにふさわしい実を結ぶ生活ができるでしょうか。それは謙遜にあると思います。そのことをヨハネとイエス様から学ぶことができます。
  11節をご覧ください。「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」とあります。ヨハネはキリストを自分よりも力ある方と言いました。また、ヨハネは、その方のはきものを脱がせてあげる値打ちもない、と言いました。そして、「その方は、あなたがたに聖霊と火のバプテスマをお授けになります。」と言っています。ヨハネが驚くほど謙遜になっていることが分かります。イエス様はどうですか。
イエス様は、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになりました。しかし、ヨハネはイエス様にそうさせまいとして、言いました。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」 と言ったのです。しかし、イエス様は、どうなさいましたか。
15節をご一緒に読んで見ましょう。「ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」ここで、イエス様の限りない謙虚さ学ぶことができます。
イエス様はヨハネが言っているようにバプテスマを授けるべき神様なのに、人となられて人と同じくバプテスマを受けようとされました。そして、ヨハネからバプテスマを受けることを「正しいことを実行する」と言われました。キリストは、ご自分に従う者たちの模範になるために、このことを行いました。ここで、私たちは言葉だけのパリサイ人たちとは対照的なイエス様から謙遜を学ぶことができます。もちろん、イエス様は悔い改めることが全くないお方です。でも、イエス様は正しいことを実行なさいました。悔い改めにふあさいうぃ実を結ぶことは正しいことを教えることだけではありません。実行することです。イエス様は何も教えないうちに実行されました。人々に教えてから、ご自分でも実行されたのではなくて、実行されてから教えたのです。謙遜になっている時、神様はどうなさいましたか。
 最後に、16,17節をご覧ください。「こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」 とあります。イエス様がバプテスマを受けると、御霊は、鳩のように下って、イエス様の上に来られました。そして、天のお父様から、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」と言われました。三位一体の神様が、イエス様の公生涯においても、ともに働いておられることが分かります。

 結論的に、悔い改めると、神の御国の民になります。神様の支配に服従しながら恵みと喜びを体験するようになります。謙遜になって悔い改める時に、神様はその人を愛する子として称賛し、喜ばれます。しかし、パリサイ人やサドカイ人たちのようにいくら多くのことを教え、正しい知識を持っていても、聖なる神の民として生きることがなければさばかれます。私たちは悔い改めてイエス様のように正しいことを実行する生活をするように祈ります。何よりも日々悔い改める生活を通して天の御国の恵みと喜びを自分のものとして体験して行きますように祈ります。