2014年創世記27講                         
神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。

御言葉:創世記49-50章
要 節:創世記50:20「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」

 今日で今年の創世記のメッセージが終わります。来週からはマタイの福音書のメッセージに入ります。創世記の学びを祝福してくださった神様に心から感謝を申し上げます。私は今年の創世記勉強を通して「私たちの神様は「祝福の神様」だなあ」とつくづく感じさせられました。ほんとうに私たちの神様は祝福の神様です。
神様が天地万物を創造されたことが祝福であり、人間を創造してから最初になさったことも人間を祝福することでした。1章28節に「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生きものを支配せよ。」」とあります。神様は人間に神様ご自身が創造された万物を治め、支配するように祝福してくださったのです。そして創造を完成してから休まれた第七日目も祝福されました。2章3節に「神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それはその日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」とあります。神様は創造のわざを休まれたその時間も祝福されたのです。それから神様はアブラハムを祝福そのものとし、アブラハムの子孫を祝福すると約束されました。その後、今日学ぶ50章まではアブラハムに与えられた神様の約束が実現されていったことです。つまり信仰の先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブが祝福され、彼らが祝福したことが記されてあります。
今日の本文にも神様がヤコブを通して神の民を代表するイスラエルの12部族を祝福されたことが記されてあります。49章28節を見ると「これらすべてはイスラエルの部族で、十二であった。これは彼らの父が彼らに語ったことである。彼は彼らを祝福した時、おのおのにふさわしい祝福を与えたのであった。」とあります。
結局、イエス・キリストを信じて救われた人々は神の民として祝福されています。それで神様の祝福を享受し、人々を祝福する人生を生きるようになります。私たちクリスチャンは祝福されて祝福する人生を生きるのです。
では私たちはどのように祝福され、どのようにして祝福する人生を生きるのでしょうか。ヤコブが預言し、祝福した12人の中でユダとヨセフが受けた祝福を通して神様の祝福を自分のものにして行きたいと思います。

ヤコブの長男はルベンです。長男とは基本的に父の力と権威の象徴です。しかし、ルベンは父の妾であり、異母兄弟ダンとナフタリの母との不倫の罪のために長子としての権利を失いました。
シメオンとレビは妹ディナが町の人間に辱めを受けたことに怒り、その町の男たちを皆殺しにしましたがその殺害の罪のために、彼らも長子の権利を受け継ぐことはできませんでした。結局、長子の権利はユダに受け継がされるようになります。
49章8‐12節をご一緒に読んでみましょう。「ユダよ。兄弟たちはあなたをたたえ、あなたの手は敵のうなじの上にあり、あなたの父の子らはあなたを伏し拝む。ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。彼はそのろばをぶどうの木につなぎ、その雌ろばの子を、良いぶどうの木につなぐ。彼はその着物を、ぶどう酒で洗い、その衣をぶどうの血で洗う。その目はぶどう酒によって曇り、その歯は乳によって白い」上の3人兄弟とは違って大いに祝福されていることが分かります。ユダはほかの兄弟たちの上に立ち、彼らを治める獅子のようになります。王権はユダ部族から離れず、ダビデとソロモンのもとで最も強力になります。ほかの部族を支配し、指導するようになって行くのです。「ついにはシロが来て」とありますが、それは、王なるメシヤであるイエスキリストが来て、国々の民すなわち全世界の民をイエス御自身が支配されるということを現しています。 エペソ1:20.21節に「“神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせて、天上においてご自分の右の座に着かせて、 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりではなく、次の来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」とあります。
なぜ、ユダがこのように褒め称えられたでしょうか。それはユダに罪の告白と悔い改めがあったからだと思われます。この間学んだように37章を読んでみると、ユダは知らなかったとしても、遊女に変装した嫁のタマルと性的交わりを持ってしまいました。それは嫁のタマルが嘘をついた罪に原因がありました。しかし、ユダはタマルによって自分の罪が暴露された時、正直に自分の罪を認めました。このように、自分の犯した罪を認めることは、私たち人間にとって、最も難しいことの一つです。私も何か自分の過ちや罪が指摘されると言い訳が先に浮かんできます。実は私たちの先祖アダムとエバから自分の罪を認めないで妻のせいにし、蛇のせいにしていました。そのように、私たちはなかなか自分の罪を認めることができないのです。それで、ますます罪を深めて行きます。ところがユダは罪を認めました。そして悔い改めました。その後のユダは、体を張ってヨセフと向き合いつつ、ヨセフの前でかつての自分たちの罪を告白しました。ヨセフは後に、自分の銀の杯を弟ベニヤミンが盗んだような仕掛けをし、うなだれて自分の所に帰って来た兄たちに向かってこう言いました。「あなたがたのしたこのしわざは、何だ。私のような者はまじないをするということを知らなかったのか。」それに対してユダが答えて言いました。「私たちはあなたさまに何を申せましょう。何の申し開きができましょう。また何と言って弁解することができましょう。神がしもべどもの咎をあばかれたのです。今このとおり、私たちも、そして杯を持っているのを見つかった者も、あなたさまの奴隷となりましょう。」ユダはヨセフに対する罪は神様に対する罪であることを、はっきり認識していました。神様がその罪を暴露されたことを知り、その罪を認め、悔い改めているのです。
 さらに彼は、ベニヤミンだけをエジプトに置いて行くように迫るヨセフに向って言いました。「もしもベニヤミンをヤコブのもとに連れ返らない時は、ヤコブに対して「生涯その罪を背負い続ける」と約束したことを言い、自分だけを奴隷として、ベニヤミンを父の許に返してくれるように懇願したのです。このように、ユダは、罪を犯したけれど、その罪を認め、悔い改め、その償いのために身を投じる人に変わっていました。そして、ヤコブはそのユダこそ、兄弟たちにたたえられるべき存在であることを告げて祝福しました。
 結局、長子の祝福はユダに及んだのです。ユダの子孫からダビデが生まれ、イエス・キリストはダビデの子孫からお生まれになりました。ユダの次に大きな祝福を受ける者はヨセフです。
22‐26節をご覧ください。「ヨセフは実を結ぶ若枝、泉のほとりの実を結ぶ若枝、その枝は垣を越える。弓を射る者は彼を激しく攻め、彼を射て、悩ました。しかし、彼の弓はたるむことなく、彼の腕はすばやい。これはヤコブの全能者の手により、それはイスラエルの岩なる牧者による。あなたを助けようとされるあなたの父の神により、また、あなたを祝福しようとされる全能者によって。その祝福は上よりの天の祝福、下に横たわる大いなる水の祝福、乳房と胎の祝福。あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり、永遠の丘のきわみにまで及ぶ。これらがヨセフのかしらの上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭上にあるように。」ヨセフへの祝福は、ユダへのものとともに最高です。よく見ると、ユダには救い主による王国と福音の祝福がありますが、ヨセフには実質的な祝福があることが分かります。このヨセフへの祝福は四つに分けることができます。一つ目は良い実を結ぶ若枝になることです。二つ目は敵に攻められ、悩まされても負けないことです。三番目は全能者の手、神様の力による助けです。そして四つ目は天の祝福、地の祝福が豊かに下ることです。これらのことをまとめているなら神様の御手から与えられる力による祝福であると言えるでしょう。神様の祝福によって私たちに必要な力が与えられるのです。
24節はご一緒に読んでみましょう。「しかし、彼の弓はたるむことなく、彼の腕はすばやい。これはヤコブの全能者の手により、それはイスラエルの岩なる牧者による。」預言者イザヤは「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(40:30、31)」と言いました。人間は、弱い者です。ちょっとした暑さにも負けます。私たちがエアコンをつけているのもこの夏の暑さに負けているからでしょう。若者も疲れ、たゆみます。年取ると働き続けることが不可能になる時もやって来ます。最初は溌剌としていても、すぐに気力も体力も尽きてしまってたるむのです。人間は口で言うほどに、強くもなく、力もありません。ところが、全能者の神様の御手によると私たちの弓はたるむことなく、私たちの腕はすばやくなります。つまり、人は神様の祝福を受ければ、走ってもたゆまず、歩いても疲れないような力をいただくのです。不思議な力です。その力はヤコブ自身が体験したものでした。ヤコブは人間の力がどんなに愚かで、弱いものであるかを、いやと言うほど知っていました。彼は何度もそれを失敗したものです。そして、いま、ヤコブは自分の力ではない力、神様の力の素晴らしさ、その衰えることのない力を知ったのです。だからこそ、彼は神様の祝福によって与えられることを信じてヨセフを祝福しているのです。そして、このヤコブの祝福を受けたヨセフは本当に素晴らしい信仰の人生を生きることができました。その信仰と成熟さが50章19節から21節にあります。
19〜20節をご一緒に読んでみましょう。「ヨセフは彼に言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。」
ほんとうに素晴らしいヨセフの言葉です。「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。」この御言葉でどんなに多くの人の心の目が開かれたことでしょうか。見えない神様が見えるようになったことでしょう。ヨセフの兄弟たちは、父ヤコブが死ぬと、再びヨセフを恐れるようになりました。その理由は、彼らは、ヨセフの赦しと愛の心を理解していなかったからです。今まで彼らが受け入れられたのは父ヤコブを悲しませたくないヨセフの寛容であったけれども、父がいなくなった今は、きっとヨセフが仕返しするだろうと思ったのです。彼らはヨセフの赦しと愛を信じることができなかったのです。信じられないことは何と悲しいことでしょうか。ヨセフは兄弟たちが自分を信用していない話を聞くと、泣きました。彼らの心の態度があまりにもあさましいために、情けなくなったのでしょう。そこで、ヨセフは「もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」と彼らを慰め、やさしく語りかけています。ほんとうに素晴らしいヨセフの愛に感動せざるを得ません。ヨセフの心の底からの愛と思いやりに深く胸を打たれます。
同時に、ヨセフの兄たちのような私たちに対するイエス・キリストの愛も思い浮かびます。時々、私たちもイエス様に対してヨセフの兄弟たちと同じような不信を持っているのではないでしょうか。安心できない不安と恐れがあるのです。確かに、イエス様は私たちの信仰を見て「友よ。あなたの罪は赦されました(ルカ5:20)」と言ってくださいました。イエス様は多くの苦しみを受け、嘲られてから十字架にかかって死なれる直前に「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」と祈ってくださいました。イエス様は私たちが自分で分からない罪までも赦してくださったのです。そうしてすべての救いのみわざを完了なさいました。それなのに私たちはその御言葉を信じないで自分の罪のために苦しみ、恐れるのです。何かうまくいかないと自分の罪のせいだと自虐する時さえあります。しかし、イエス・キリストの十字架の死による贖いを信じる者はすべての罪が赦されました。私たちは神様に対して数々の悪を計画し、罪を犯して来ました。しかし神様はそれらを受けとめて、イエス・キリストの十字架によって恵みに変えてくださったのです。神様は私たちが悪を計ったとしてもそれを良いことのための計らいとしてくださったのです。
ですから、もし私たちが罪の赦しを信じないで神様のさばきを恐れるなら、イエス様はどう思われるでしょうか。ヨセフが涙を流したように、イエス様も御心を痛めながら泣かれるでしょう。一般的に、苦しみと滅亡の原因は自分の罪や悪にあります。ヨセフの兄たちの心から不安と恐れが消え去らない原因はヨセフを虐め、売ってしまったことにあったでしょう。兄たちだけではなく、多くの人々が苦しみ、恐れている原因は自分の過ちと罪にある場合が多いでしょう。ところが、イエス・キリストは私たちの罪と悪の代価を払うために十字架にかかって死んでくださいました。すべての罪と咎を贖ってくださったのです。それで私たちがイエス・キリストの十字架による赦しを信じるなら、神様はその罪を赦し、きよめてくださいます。主は「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」と言われました。私たちがどんなに酷い罪を犯したとしてもその罪を主の御前に告白し、悔い改めるなら、主はすべての罪を赦して下さいます。そして恵みに変えてくださいます。過去の失敗や罪を良いことに変えてくださるのです。そして、私たちも自分に対して悪を計らう者が現われた時に、その人を赦して愛することができるようにしてくださいます。ですから、恐れることなく、イエス・キリストの十字架による贖いを信じて神様の祝福を受け取って行くのです。ヨセフの兄たちがヨセフを通してすべての問題が解決され、ほんとうに祝福されたに、私たちも祝福されることを信じて行くのです。さらに、私たち自身もヨセフのように人々を赦して愛し、祝福する人に変えられて行くことも信じるのです。
ではこの神様の祝福はどのようにして私たちの心の中に、体の中に注ぎ込まれるのでしょうか。それは第一に聖書の言葉を信じることです。神様の祝福は御言葉をパイプとして私たちの心の中に流れ込んで来ます。そして私たちがその御言葉を自分自身のものとして堅く信じる時に、神様の祝福は恵みとなり、力となります。御言葉を通して注がれる神様の祝福が私の人生においていつくしみとなり、平安となり、慰めとなります。第二に、すべてのことにおいて神様中心に考え、口からも神様を認めることです。ヨセフの言葉を調べてみると神様から初めて神様で終わります。彼は口を開くと神様を言いました。
「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。(40:8)」「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。(41:16)」「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです(45:8)」。ヨセフが登場する創世記37章から50章までにヨセフは22回も「神」という言葉を使って告白しています。このように彼は何事も神様中心に考え、神様と関連させて話していました。彼はすべてのことにおいて神様の力と権威を認めて従い、その働きを告白して証していたのです。
このように私たちが神様の御言葉を信じて神様中心に生きるなら神様から祝福された人生を生きるようになるのです。その人は悲劇の人生であっても喜劇の人生に変わって行きます。絶望から希望へ、悲しみから喜びへ、失敗から成功へ変えられて行く人生を生きるようになるのです。そうして、どんな人でも赦し、愛する人生へ変えられて行きます。アブラハムも、イサクも、ヤコブも神様から与えられた御言葉を受け入れ、信じることによって祝福された人生を生きることができました。ある人が、「人生は短期的に見れば悲劇だが、長期的に見れば喜劇だ」と言ったそうです。悲しみに打ちひしがれて涙で枕を濡らす日々が続くこともあります。しかし、祝福の神様を信じ、望みを持って生きていれば、最後には喜びに満たされることになるのです。どうか、私たちがアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフのように神様の御言葉を堅く信じて従い、何事も神様を中心に考え、神様を明かして行きますように祈ります。