2014年創世記第24講(賛美200)          2014.6.29

ヨセフとともにおられる主

御言葉:創世記39-41章
要 節:創世記39:3 「彼の主人は、【主】が彼とともにおられ、【主】が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。」

今日の御言葉には、ヨセフの波乱万丈の人生が生々しく描かれています。兄たちから嫌われて奴隷として売られ、エジプトに連れて行かれたヨセフが、様々な試練を乗り越えてエジプトの総理大臣に昇進していく物語です。今日のみことばを通して、ヨセフがどうやって厳しすぎるほどの試練を凌いで勝利の人生を過ごすことができたのか、また彼とともにおられた主がどのように彼を祝福してくださったのか、その秘訣を皆様と一緒に探って恵みを分かち合いたいと思います。

さて、39章1節をご覧ください。ヨセフはエジプトへ連れて行かれ、パロの廷臣ポティファルに奴隷として買い取られました。それによってヨセフは多くのものを奪われてしまいました。いつも肌身離さず身に付けていたあの「長服」も奪われ、無一文で故郷から離れなければなりませんでした。それまでヨセフは、父ヤコブの最愛の妻の忘れ形見として、父の寵愛を一身に受けてきました。また、「親の七光り」の中で自由奔放に生活してきました。そんなヨセフが、今は奴隷として異国での生活を余儀なくされたのです。この時の彼の気持ちはどうだったのでしょうか。きっと言葉では言い表せない苦しみがあったはずです(41:51,52)。言語も、習慣も、生活様式も違う異国の地に着いた彼の心は、不安や恐れで潰れそうになっていたでしょう。さらに、彼は神様さえも奪われたと思われたかもしれません。アブラハム、イサク、ヤコブに約束されたその地から引き離されたからです。

ところが、こういう試練の時にこそ、かえって人は成長していくものです。2節をご覧ください。「【主】がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた」とあります。ここで目に留まることばがあります。「主がヨセフとともにおられる」とのことです。そのことばは39章だけで4回も繰り返されています(2,3,21,23)。主がともにおられたから、彼は「自分が何をしても、主がそれを成功させてくださった」(39:23)と告白しています。彼はきっと「主がともにおられる」ことを信じ、切に祈っていたはずです。また彼は、一人ぼっちになっても、辛い試練に遭っても、「にっちもさっちもいかない」時にも、自分を見捨てずいつもともにおられる主を信じていたはずです。人は「目に見えるもの」、例えば、お金や肉親、友達、名誉、知識などに頼りがちですが、それらは「草のようにしおれ、花のように散る」、無用なものにすぎません。ヨセフは目に見えるすべてのものを奪われましたが、それと引き替えのように最高のものを得ました。それは「主がともにおられる」という信仰だったのです。では、主がともににおられたヨセフは、どんな者となったのでしょうか。

第一に、ヨセフは幸運な人となりました(39:2〜6)。

2節で使われている「幸運」は、英語のNIV聖書では、「The Lord was with Joseph and he prospered.」となっており、即ち、「繁栄する」という意味です。新共同訳では「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ」と訳されています。いずれにせよ、ヨセフは「主が彼とともにおられた」ことによって幸運な人になり、彼の人生は繁栄したのです。彼は恐らく奴隷根性でのらりくらりと働いたのではなく、信仰の持ち主としてのアイデンティティーを持って、一生懸命に働いていたはずです。なぜかと言うと、「彼の主人は、【主】が彼とともにおられ、【主】が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た」(3)からです。それでヨセフは主人に愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねたわけです。その時から、さらに【主】はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を大いに祝福してくださったのです(5)。

最近「ブドウの木Fellowship」が繁栄しつつあるのを目で見て感じています。ブドウ木の枝から実が実りつつあります。先週は聖也兄弟のお父さんが礼拝に参加されました。ブドウの木の同労者たちは笑顔で輝いています。毎週の礼拝後の集まりは修養会のようだそうです。恵みを分かち合う話が長くて、昼ごはんを食べる気にならないほど盛り上がっているみたいです。それは、「主がともにおられる」からでしょうが、その裏には信仰を守っている方、毎日夜明けに切に祈っている方、そしてお互いに手を携えて仕える良き同労者がいるから、主に祝福されているだろうと思います。

第二に、ヨセフは人に仕える者、即ち、良き牧者となりました(39:7-23)。

39章7節をご覧ください。主によって幸運な人となったヨセフに、再び大きな試練が襲いかかってきました。それは若いヨセフにとっては甘い誘惑でした。ある日、主人の妻がヨセフに目をつけて、「私と寝ておくれ」と言ったのです。彼女は「体格も良く、美男子」(6)だったヨセフに惹かれたようです。そのうえ彼の誠実さや忠誠心などの人柄に心を奪われていたのかもしれません。ヨセフはそれをきっぱりと拒みました。それでも彼女は毎日、執拗にヨセフに言い寄りました(10)。若い青年として、ヨセフも性的な誘惑に全く動じない男だったはずがありません。しかも、奴隷の身分であるヨセフにとって、主人の妻からの誘惑を断ることは非常に困難だったに違いありません。

しかし、彼はどうやってその誘惑に打ち勝つことができたのでしょうか。39章9節にその秘訣があります。「ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか」。ヨセフには、主人の愛と信頼を裏切ることは出来ない、即ち、「恩を仇に返す」わけにはいかない、という強い信念が、まず、ありました。また、神様に罪を犯すことはできない、という揺るぎない信仰も持っていました。ヨセフは、その不倫を「大きな悪事」と言っています。現代では、不倫を誇りに思う人もいるほど、軽く見なされ、流行のように吹聴されていますが、ヨセフは罪に妥協せず信仰を守り抜いたのです。3つ目の秘訣として、彼が自分の弱さを知っていたことがあげられます。ですから、ヨセフは彼女と一緒にいることもしなかったし(10)、上着を掴まれた時には「逃げて外へ出た」(12)のです。ヨセフがこの誘惑に打ち勝てたことは、彼の人生にとっては大きな意味を持ちます。それは人に仕えるしもべ、即ち、良き牧者となるためには、避けては通れない道だからです。後に彼は自分の家族やイスラエルの民を救うために用いられます。そのためにもこの試練は必要不可欠なものだったわけです。

39章21〜23節をご覧ください。ヨセフは主人の妻に嫌われ、「濡れ衣を着せ」られて監獄に入れられてしまいました。このことは、ヨセフにとっては非常に辛いことであり、神様を呪うようになっても当然なほどでした。しかし、彼はいじけず腐らず、悲しみに明け暮れず、試練の中でも、いつも自分とともにおられる主を信じ続けました。すると、なんと彼は監獄にいるすべての囚人と、そこでなされるすべてのことを管理する囚人のリーダーになったのです。それは、「【主】がヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた」からです。そこで彼は何をしていたでしょうか。彼は自分の「波乱万丈」の人生について、囚人たちに証していたのかもしれません。また、「アブラハム、イサク、ヤコブの神様」や、罪の赦しのために「人となって私たちの間に住まわれた主」を教えていたのかもしれません。「彼が何をしても、【主】はそれを成功させてくださった」(23)という御言葉から、彼の監獄での生活ぶりが見て取れます。暗い雰囲気の監獄での聖書の学びは、小さな窓から照らされてくる明りのように、きっと囚人たちの心に希望の光となったことでしょう。

第三に、ヨセフは夢を解き明かす者となりました(40:1-41:39)。

40,41章には、夢を解き明かすヨセフのことが記されています。ヨセフが監獄に入れられてから10年が過ぎた頃でしょうか。ある日、パロ王の怒りを買った地位の高い者がヨセフと同じ牢に入れられました。献酌官長と調理官長です。ある日、彼らは同じ夜にそれぞれ夢を見ました(40:5)。不思議な夢で、しかも誰もが解き明かせない夢であり、彼らの顔色は悪くなりました。朝になってヨセフは彼らのいらいらしている姿を見て可愛そうに思い、「なぜ、きょうあなたがたの顔色が悪いのですか」(41:7)と尋ねました。それからヨセフは「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか」と関心を神様に向けるようにさせてから、彼らのそれぞれの夢を解き明かしてあげました。まず献酌官長の夢は、「三日のうちに、パロはあなたを呼び出し、あなたをもとの地位に戻すでしょう」(13)という縁起の良い夢でした。ヨセフは、この時こそ神様が自分をこの監獄から救い出すために与えられたチャンスだと思い、「あなたが幸せになった時には、きっと私を思い出して・・・私のことをパロに話して・・・この家から私が出られるようにしてください」(14)とお願いしました。反面、調理官長の夢は、三日のうちにパロが彼を木につるし、鳥が彼の肉をむしり取って食ってしまう(19)、悪夢でした。三日目に、彼らはパロの誕生日に呼び出され、ヨセフが解き明かした通りになりました。献酌官長は元の地位に戻り、調理官長は木につるされてしまったのです(20‐23)。

ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さず、皮肉にも彼のことを忘れてしまいました(23)。ヨセフの期待は一時のぬか喜びに終わりました。彼は自分のことで有頂天になっていたのか、恩人ヨセフのことをすっかり忘れたのです。それでヨセフはなおも二年間監獄の中にとどまることになります。私たちも、「なぜまだなのか」と焦ってしまう時があります。しかし、ヨセフの気の毒な境遇にも、神様のみこころがあったはずです。もしこの時に監獄から出されたのならば、二年後にパロの夢を解き明かすチャンスが与えられたかどうか分かりません。聖書に「彼のことばがその通りになる時まで、主のことばは彼をためした」(詩105:19)、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい・・・」(伝3:11)という御言葉があるように、ヨセフはきっとこの出来事を通して、「神の時」を待つ忍耐を身に沁みて学んだに違いありません。

41章を読んでみますと、ヨセフはパロが見た夢をも解き明かしています。献酌官長がヨセフのことを忘れてしまってから二年の歳月が過ぎ去りましたが、主はヨセフのことを忘れていたのではありません。むしろ、やがて彼を用いるために着々と準備しておられたのです。パロは二つの夢を見ました。一つは、肉づきの良く肥えた七頭の雌牛が、醜いやせ細った七頭の雌牛に食い尽される夢でした(41:2-4)。もう一つは、肥えて豊かな七つの穂が、しなびた七つの穂に飲み込まれる夢でした(5-7)。何か不吉な予感がする夢です。これらの夢を見たパロは心が騒ぎ、エジプトのすべての呪術師と知恵のある者たちを呼び寄せました。しかしその夢を解き明かせる者は一人もいませんでした(8,15)。ちょうどその時、献酌官長が2年前に獄中であった一部始終をパロに告げたので、ヨセフは王の前に出されました。そして「あなたは夢を聞いて、それを解き明かすということだが」との王のことばに、ヨセフは即座に答えます。「私ではありません。神が・・・」(16)と。かつて「私は夢をみたよ!」と自慢げに言っていた頃と比べると、今の彼の品性は謙遜な器に変えられています。これがヨセフのいつものことば、姿勢、心のあり方です。この証しによって、ヨセフに接する人々は、彼が信じている神様のすばらしさを認めないわけにはいかなかったのです。

では、ヨセフが解き明かしたパロの夢の意味は何でしょうか。まず第一に、この夢は偶然ではなく、「神がなさろうとすることをパロに示された」(25)ものであるということです。第二に、この夢はエジプトにまず七年間豊作があり、その後、七年間飢饉が起こることを示しています。ヨセフは、夢を解き明かすとともに、具体的な解決策も提案しました。その策は、豊作の七年のうちに食糧を備蓄しておいて、後に来る七年の飢饉に備えることです。夢が夢で終わったら、それはつまらない夢にすぎませんが、それを正しく解き明かすのが何よりも大切です。聖書のみことばは正しく解き明かさなければなりません。聖書のみことばは、青年には幻を、老人には夢を与えます(使2:17)。実に無尽蔵の夢が秘められています。そこには罪人が救われる夢も、すべての悩みが癒される力もあるのです。そういう面でヨセフは立派な聖書の教師であると言えます。なぜかというと、彼によってパロやその国の問題が解決され、パロと全ての家臣たちの心にかなったからです(37)。なぜヨセフはそのような者となったのでしょうか。パロはヨセフのことをこう認めています。「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか」(38)、「神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない」(39)。このように一人の霊に満ちた知恵ある聖書先生は、人を生まれ変えさせ、国を変えさせていきます。この教会は小さいですが、聖書の学びを大切にし、知恵ある聖書先生が多く立てられるように祈ります。

第四に、ヨセフは囚人からエジプトを治める総理大臣となりました(41:40〜57)。

ヨセフは30歳の時にエジプトの王パロに仕えるようになりました。エジプトに連れて来られてから実に十三年後のことでした。奴隷、そして囚人だった自分がエジプトの全土を支配する者になるとは、彼は「感慨無量」だったことでしょう。そして彼には権威のしるしとしての指輪や支配者に相応しい亜麻布の衣服も、宝石も、車も与えられました。今のエジプトでの地位、生活は、以前のものと「雲泥の差」でした。一般的には「鳶の子は鷹にならぬ」と言われていますが、何と彼は外国人として初めてエジプトの総理大臣になったのです。彼は厳しい飢饉が来るのに備えて、七年間全土を巡り歩きながら自分に任された使命を忠実に全うしていきました。彼は大臣の椅子にふんぞり返って、「あごで人を使う」ような人ではなく、むしろ謙遜な人となって、人々の悩み苦しみを助け、飢え死にしかねない民を救い、全世界に及んだひどい飢饉から人々を救ったのです。

英語に、「Prosperity tries the fortunate, adversity the great.」という諺があります。「繁栄(順境)は幸運な人を試練し、苦難(逆境)は偉大な人を試練する」と訳することができます。これは繁栄に溺れず、さらに自分を磨いて繁栄を続ければ、まさに幸運な人となり、苦難があろうとも、それを乗り越えていく人は偉大な人となる、という意味です。私たちは順境におごらず、逆境にへこたれず、信仰と夢を持って主とともに歩んでいきたいものです。「正しい者は七たび倒れても、また起き上がり」(箴言24:16)ます。私たちといつもともにおられる主を賛美いたします。アーメン